バチ当たりを承知で般若心経を自分流に書き換えることなどを想っていた。
「空」と描かれているところを「流」にする。
すべてが流れならそうなるのではないかと。
色即是「流」
「流」即是色
だから(私に)起こることはすべて、起こりうる最善のことなのである。
これもまたよきかな。
すべてはよきかな。
日々是好日。
すべては流動で、流動という運動はやむことはなく、その流動は周期という基本構造をつくる。
無限の階層はそこからはじまる。時間も空間も物質もすべてそこから生じる。それはまた楽しいことなので、肝心なのは「流れ」に「ゆだねる」ことをおぼえることである。
これはスキルだ。単純に。
「心」も「神」もたぶん想定する必要はない。
じゃ「仏」ってなに?
「法」は?
「流れ」である。
大いなる流れのままに。
ザッツオールだ。
ほかにはなにも必要ない……
というか、「なにもない」のである。
それをいつも味わっていたい。
かみしめていたい。
すべてが「流れ」であることを。
意識の正体はふわあふわあと
流れて行く想念のつらなりではなかったか。
できごとは流れていく。
眠気も流れていく。
人生も流れていく。
「私」っていったいなんだ?という問いすら流れていく。
だから効率もなければ無駄もない。
目に見えるものすべては、目先の損得は、そして生き死には、ただの一時的な区分けである。
流れよ。すべて流れよ。
易はそのコンパクトなシンボルセットで「流れ」をあらわそうとしたものだ。
流れはどとまることはないので得られた易卦は常に一定「しない」。
これぞ「さいわい」なことなのである。
すべてが流れていくということが。
腕を組んでうつむき、深い呼吸をするとそのまま眠ってしまいそうになる。
流れはなんの外部動力もなくそれ自体で流れていく。
だからうつくしい。
だから安心して身をまかせてよいのだ。