ミケ様
にゃんこ先生です。
な〜う、と背筋を伸ばしてから始めます。
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とりあえず前回の図から。

【fig009反転】
軽くふりかえると、実体はBであって、Aはココロによって作られたものではないのか、そんな話でした。
Bでは外側の円が「広大な三次元時空」を抱え込んでいる。ココロは広大な三次元時空を、「所有している」んです。
じゃあどうして皆が同じ世界を見ているように見えるのか。
作リモノであれば、それぞれに違った世界になっていいはず。
そりゃたぶん、文化的文脈、社会的文脈、教育などによって、似たような概念のパッケージ群を使っているからです。
これを「合意的現実」といいます。
でも「的」だから、完全に「同じ」じゃあない。
「ans001易ってなに?」のサピア・ウォーフの仮説の話で出たように、必ずしも厳密に「同じ」世界を、見ているわけではない。
いやもっといえば、同じ様に見えて、ほんとうは違う、各個別の世界を見ているってわけです。
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冒頭の絵、「fig009反転」右側、Bの「心」ってなんでしょうね。
Bの方を見ると「空間(心)」とある。心、すなわち「空間」という程度の意味です。
じゃあ空間ってなんだろう。
空間と聞くとフツーは、縦横高さ、メートルとかセンチとか、最寄りのコンビニまで歩いて何分とか、とかく、「量」を思い浮かべがちだよね。
これってつまり、ボクたちはふだん空間を物理的な「かさ(嵩)」としてみてる、ってことじゃなかろうか。
でも、たとえばさ、「トポロジー空間」というと、位相幾何学が成立する、立体の大きさや長さをオミットしていい場、という意味。
かさ(嵩)は関係ない。
空間の中で繰り広げられる幾何学も、本来かさ(嵩)とは関係ありません。
物理などでいう「位相空間」は、複数のパラメータ(座標)でプロットされる点群から成る座標空間で、点にチャージされるパラメータの数を次元と言ったりする。
やっぱり、かさ(嵩)は関係ない。
数学では集合や行列であらわされる数の集まりを空間ということもある。
これも、かさ(嵩)は関係ない。
上にあげた「空間」は、ふだんボクたちが空間と呼ぶ空間よりは、かなり異質です。
だけど、柔軟です。
ここはもっと柔軟に行きましょう。
Bでいう「空間」というのは、ごろっとした「かさ(嵩)」というよりも、広がり、場、といった方がいいような、そういうものです。
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Bでいう「空間」を厳密に定義することはできないし、その必要もないと思うけど、大事なのはこれが「個人的なものでない」、ということなんです。
「個人」というのは、通常の感覚でいう三次元時空の中での話。
Bの空間(心)はその中に三次元時空、物質界を抱え込んでしまっている。
だから「Bの空間(心)」ではもう個人というものはありません。
まさにその、「それだけ」なんです。
ココロ、ココロと連呼してますが、「だれの」ココロというわけではないの。
個人的なものじゃない。
だから、ひとつのココロ。
数えたんじゃありません。数えられない。
だから、「ひとつ」としかいいようがないわけです。
Bの空間(心)は「三次元時空」を抱えています。かさ(嵩)としての空間も。
時間も三次元時空内固有の属性であり、Bの空間(心)では、ふつうの意味での時間は存在しません。
だから、そのココロは、どこに?いつから?あるのか、という質問には答えられません。
いつ?どこ?というのは、ココロに所有されている、三次元時空「内」でのハナシだからです。
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この「Bの空間(心)」のひろがり・場を、易システムでは「コミュニケーション・スペース」と呼ぶことにしました。
……ぅおっと。
これ以上続けるとまた長くなりそうなので、今回はこの辺で。
つづきます。
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