”Maurice Utrillo” de Suzanne Valadon 実母Suzanneによるユトリロの肖像
12月26日はフランスの首都Parisの街角を愛し描き続けた画家Maurice Utrillo (1883~1955年)の誕生日である。
一昨年2023年は彼の生誕140年を機に京都の「美術館えきKyoto」にて11月3日~12月25日まで「ユトリロ展」が開催され、更に今年2025年は没後70年記念に東京・新宿のSOMPO美術館にて彼の回顧展が9月20日~12月14日まで開催されている。
以前にも彼の個展は日本国内で何度も開催されており、余も1989年に「広島県立美術館」、そして1996年に「ふくやま美術館」で2度「ユトリロ展」を観て来ている。
其の他にも幾度となく開催された「フランス近代絵画展」でも彼の作品を何点も観て来ている。
そして日本国内では東京・町田市「西山美術館」、神奈川・箱根町「ポーラ美術館」、広島市「ひろしま美術館」、倉敷市「大原美術館」等でも彼の作品が常設展示されている。
更にUtrilloの画集は母国フランスのみならず日本でも多数発行されている事もあって、彼は日本人の間でも比較的馴染みのある画家であると言える。
余も彼の画集2冊(いずれも新潮社)並びに展覧会図録を1冊所有している。
Auguste Renoir : Femme nue dans un Paysage 1883
扨、是よりUtrilloの生涯について書き記して行く。
Susanne (本名Marie-Clemantine )Valadon がParisに出て来て↑ A.Renoir や H.d.Toulouse-Lautrec や P.Puvis d. Chavannes 等の高名な画家達のモデルを務めていた頃、18歳の時にMauriceを私生児として出産している。
彼の母親の出生を調べて見ると、何と彼女も私生児として生まれているのである。
日本の諺の「親の因果が子に報う」と言うのがあるが、正に此の画家の親子にも該当していると言える。
1891年にスペイン人ジャーナリストMiguel Utrillo がMauriceを法的に認知した事から彼の姓を名乗る様になっている。
其の後、Susanneは息子Mauriceを自分の母親に預けて本来の育児義務を放棄してしまう。
此の事からMauriceは孤独で貧しい少年時代を過ごした。
1893年にMontmartre の中学校に入学するが、既に13歳で酒を覚えてしまい、以後長きに渡り「酒浸り」になる。
1900年から1903年にかけて複数の職場に就くものの、非社交的で、激情的な性格と飲酒癖が災いして全く長続きしない。
そして遂にはアルコール依存症の治療の為、精神病院に入退院を繰り返す始末であった。
17歳になって精神科医からArt therapy(芸術療法)として絵を描く事を勧められる。
Utrilloは当初渋々描いていたのだが、流石に是より「天性」の才能を発揮して行ったのであった。
1903~1907年の彼の制作期間を美術評論家は「Montmagny時代 」と呼んでいる。
1904年、自由奔放な母Susanneは息子よりも3歳年下の画家André Utterと親しくなり、1909年にはPaul Musisと離婚し彼と入籍するのである。
此れにはUtrilloも呆れ反ってしまった事であろう。
La Maison de Berlioz et le Pavillon de Chasse Henri Ⅳ (1909)
「ベルリオーズの家とアンリ四世の狩り小屋」
Le Lapin Agile(1911)居酒屋「跳ね兎」
L'Impasse Cottin(1911)「コタン小路」
La Château Blanc(1912)「白い城」
L'Eglise St.Severin(1912)「聖セブラン教会」
1910年から彼が代表作を多数制作した「白の時代 」が始まる。(1914年まで)
此の時代の作品はParis市内の典型的な建造物の白い漆喰の壁を多く描いた事に因んでこう呼ばれている。
幾人かの美術評論家達はUtrilloを「白い漆喰の画家」又は「白壁の画家」と名付けている位である。
一方でアルコール依存症は治らず、治療の為に同市内の療養所に入院する。
翌年には遂に泥酔からの軽犯罪により同市内の刑務所に1か月拘留される。
1913年に初の個展を開催するも、出品31点の内、2点が売れるに止まる。
更に同時代の複数の画家で共同開催する”Exhibition Independent”(独立展)にも出品する。
Rue St.Rustique â Montmartre(1922)「モンマルトルの聖ルスティク通り」
1915年頃から絵の色彩が豊かになった事から1925年までの期間は「色彩の時代 」と呼ばれる。
1916年には更にアルコール依存症が悪化し、4か月間精神病院に入院する。
其の後も1918年まで精神病院に入退院を繰り返す。
しかし第一次世界大戦後、時代精神にも変化が見られ、ようやく1919年の個展では大好評を得て、世間から華々しい注目を得る様になる。
にも拘わらず1921年には再び軽犯罪により刑務所に拘留され、後に精神病院に入院する。
同年6月と1923年の母Susanne との「二人展」いずれの展覧会でも大成功を収める。
更にフランスの詩人・小説家Francis Carco (1886~1958年)が初のUtrilloの伝記を発表する。
1928年には"Légion d'honneur"勲章(5等)を叙勲するに至る。
Notre Dame de Paris(1929)「パリのノートルダム寺院」
1935年、52歳でUtrilloの絵のコレクターであるベルギーの銀行家の未亡人Lucie Valoreと結婚する。
因みに彼女はUtrilloより12歳年上である。
同年、画商Paul Petridesと出会い、翌年には彼と独占契約を結ぶ。
1937年以来、Paris郊外の別荘地Le Vésinetに居を構え、妻と共に平和な晩年の生活に入る。
La Cathédrare de Chartres(1937)「シャルトル大聖堂」
1938年、4月に母Susanne が死去。
Utrilloの悲嘆は余りに深く彼女の葬儀にも参加出来ない程であった。
此の頃より信仰(Cathorique)に帰依する様になり、邸内に小さな礼拝所を設置して毎日祈りを捧げる様になる。
アメリカのNew Yorkで個展が開催される。
Rue de Momt Cenis, La Maison de Mimi Pinson(1938)
「モン・セニ通りのミミ・パンソンの家」
1950年、イタリアVeneziaの”Biennare”(2年に1度の国際現代美術展)に1室を与えられ出品する。
"Légion d'honneur"勲章(4等)を叙勲する。
1955年、首都Parisの「名誉市民賞」受賞。
同年11月5日、静養先のホテルで肺充血によって死去。
(享年71歳)
Moulin de la Galette sous la Neige(1950)
「雪景色のムーラン・ド・ラ・ギャレット」
幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。
だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。
私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。
因みに我が親友で似顔絵描きで肖像画家の地本さん(1941~2010年)はUtrillo同様に大酒飲みではあったが、大阪から倉敷市に定住して以来、当地の大原美術館前の路上でとても人情味のある素敵な似顔絵を沢山描きながら、宛ら「大阪漫才」の如き愉快な話をして多くの人達を楽しませていた。
余から見るとUtrilloと地本さんはどこか似ている様に見受けられるのである。(本人も此れを認めている。)
彼は「芸術家は貧しい、不幸な時程優れた作品を作り、豊かになってしまうと味気の無い作品になってしまうんだよ。 」と言っていた。
実に当時のUtrilloの知人、友人、評論家達は、彼の50代以降の晩年の作品は過去の繰り返しで精彩を欠いていると評している。
芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、Utrillo とV.v.Gogh (1853~1890年)↑ の絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。
しかし此の2人は生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。
其れだけにGoghは37年間の生涯の内、十数年程しか制作活動をしなかったにも拘わらず、約2000点の作品(油彩画、デッサン)を残しているし、Utrilloは更に膨大な量の作品を残している。
此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!
一方、余は同じ画家でも1枚の作品を完成させるのに10~15日、場合によっては20日程掛かる事もある。
(1日の制作時間は10~12時間)
何故なら建物のレンガや瓦を1つ1つ「細密描写」するからである。
恰(あたか)も外科医の手術の如く繊細な技術と鋭い神経を要する仕事なのである。
毎日此の様な作業をしている余にとって、UtrilloやGoghの絵は(普段絵を描かない)左手で1日で描き上げられる程簡単に見える。
しかし両者の作品には見る者を感動させる"Human Spirit" (人間の魂 )が滲み出ているのである!
余の絵の様に超絶技巧を駆使した、写真と見まがう程の細密、正確で冷厳な作品とは対照的なのである。
次にUtrilloの作品と人間性について心理学的に分析してみたい。
UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、
写真絵葉書を見て描いていた。↑
其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。
当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。
此れは丁度余が戦争で破壊されて現存しない文化財を当時の白黒写真から色を想像(予想)して描くのと類似している。
又、建造物の「材質感」を出す為、Utrilloは絵具の中に漆喰の粉を混ぜる等の工夫もしていた。
首都Parisには成程、多数の文化財や観光名所があるが、Utrilloは寧ろ在り来たりの街並みと教会に焦点を当てて描いていた。
彼は「名声」、「威厳」、「地位」や「権力」よりも、そこに暮らす庶民達の日常生活にSympathy(共感)を感じていたのだろう。
そして「教会」は彼にとって「純粋な祈り」並びに孤独、悲しみ、苦しみからの「救済」の象徴であったと推測される。
実に彼は晩年に宗教(Cathorique)に深く帰依している。
興味深い事に1921年頃よりUtrilloの作品にはStaffageとして、尻の大きな女性像が度々現れる様になる。
此れは余が自分の作品中に描く女性像が「爆乳美人」であるのと似ている。
心理学的に分析すると、画家が描く異性の人物像は其の人の理想や憧れが現れている。
又、Utrilloは自分の作品に付ける署名をM.Utrillo.V と書いている。
最後のV の字は母親の姓 Valadonの略であり、ここにも彼の母親への愛着が見て取れる。
彼は母Susanne から生まれて間もなく祖母に預けられ、言わば「育児放棄」された様な状態であった。
心理学者の詫摩武俊先生が、母親の子育ての態度は子供の性格に著しく影響する と解説している。
例: 無視・・・冷酷・攻撃的・情緒不安定・創造性に富む
拒否的・・神経質・反社会的・乱暴・冷淡・注意を引こうとする
Utrilloの非社交的で激情的な性格は彼の母親の態度が影響していると診て間違い無い。
Susanne はUtrilloの伝記を読む限り、とてもではないが「御淑やか」な女性ではなかった様である。
其れでもUtrilloは此の奇異な性格の母親を"Oedipus Komplex"の如く盲目的に愛し続けた。
実に1938年、4月に母が死去した際には、悲嘆の余り彼女の葬儀にも参加出来なかったらしい。
其れでも「Susanne Valadonと云う我が母は気高く、美しく、善良な女である。」と詩に書いている位である。
Utrilloの人生を語る時、「アルコール依存症」はどうしても避けられない事柄である。
余はドイツのKunstakademie(芸大) で学ぶ傍ら、Medizinische Akademie(医大)でも特別受講生としてAnatomie(解剖学)と Psychologie(心理学)を学んでいた。
其の中でAlkohlismus(アルコール依存症)に関する講義を受けた事もある。
当時、担任のPsychologie u, Gehirnnerv(脳神経)の医師である F.Ficker先生は、人間がAlkohlismusに陥るUrsache(原因)、
Phase(経緯)、 Sympthom(症状)、そしてLösungsmittel(解決法)について実例やユーモアを交えて詳しく教示してくれた。
Ficker先生 の言葉 >Alkohlismus anfangen ist so einfach, aber abschließen ist so schwierig.<(アルコール依存症になるのは簡単ですが、終わらせるのは大変困難です。)の通り、Utrilloも此の悪習慣を終わらせるのに大変な苦労と時間を費やしたのであった。
結果的にUtrilloは「絵画制作」によって自分自身を「アルコール依存症」から救ったのである。
Nicolas Poussin : "Belbstbildnis"
Nicolas Poussin : "Et in Arcadia ego" (1630)
Nicolas Poussin : "L' Empire de Flore" (1631)
フランス古典派絵画の巨匠Nicolas Pussin↑ (1593~1665年)は、イタリアの首都Roma滞在中に「古代世界の最も美しい記念物とは何か?」と問われた時、足元の雑草の間から一握りの土を拾い上げ、「此れこそ古代ローマの精華だ!」と答えたと言う。
又、前記のF.CarcoはUtrilloと此の様な問答をした。
Carco:「もし君がParisを離れ、二度と戻れない事になったら、Parisから何を持って行くかね? 何か此れと言う物がある?」
Utrillo:「漆喰の欠片を持って行くだろうね。」
Carco:「其れはどうして?」
Utrillo:「僕は子供の頃、漆喰の欠片を集めて遊んだんだ。」
Carco:「其れだけかい?」
Utrillo:「勿論さ、此の漆喰の欠片を眺めたり触ったりすると、色々な考え事が浮かぶんだ。」
Pussinは一握りのRomaの土に古代文化の美と精神の原点を見出し、UtrilloはParis・Montmartreの家屋の壁の漆喰の欠片に、過ぎ去った美しい日々を垣間見たのであった。
余は予てより我が地元Brandenburgで修復中の歴史的文化財からレンガの一部を頂いて、日本の我が家に持ち帰り、自分のAtelier(仕事部屋)の机の隅に置いている。
これ等のBrandenburgの古きレンガを手に取って見つめる度に、余は地元での幸福と喜びに満ちた日々を思い出し、同時に当地を主題にした作品制作に於けるInspiration(閃き)とMotivation(意欲)が起こされるのである。
余を含め3人の歴史に名前と作品を残す芸術家が、これ等の決して高級でもない素朴な対象物に、自分達の仕事に於けるGeistiges Fundament (精神の基盤) 及びIdeale Quelle (理想と発想の源)を置いている事は大変興味深き事である。
小説家Alphonse Daudetの息子でParis生まれのジャーナリストで評論家のLéon Daudet (1867~1942年)は「 確かにUtrilloはParisを理解し表現した画家達の中では、最高のそして第一級の巨匠である。」と述べている。
余もドイツの街や建築物を描く画家として此の評価には共感するし、其れでいて余の作品には無い庶民的な「癒し」と「温もり」を感じさせられるのである。
人間にIndividualität(個性)とCharakter(性格)がある様に、街にも同様に「個性」と「性格」があると感じられる。
余も1987年3月にParisを訪れた事があるが、Utrilloの絵は此の都市の「個性」と「性格」に見事に適合していると感じられるである。
Kunstmarkt von Heinrich Gustav
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