Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

最近毎日の様に多発する詐欺事件をの報道記事を読んで、余は呆れ返ると共に大変腹が立っている。

何故なら悪人に大金を渡す事は、更なる悪行を幇助(ほうじょ)するに等しいからである。

こいつらが騙し取った大金を元手に又新たな犯罪を働き、更なる犠牲者が出るのでは堪った者ではない!                          

警視庁の統計では今年2024年1月~4月までの全国の詐欺被害総額は278億円にもなり、既に2021年の1年間の被害総額に並んでいるのである。 

此のままのペースで騙され続ければ今年は約830億円以上の被害額が出る事になるかも知れない。             詐欺の立場で見てもまさか斯(か)くも多数の日本人をいとも簡単に騙せて、此れ程の大金をくすね取れる等とは予想もしなかったのではなかろうか。                        

同ブログの記事「騙され易い日本人と用心深いドイツ人、そして投資の心得」に書いている様に、心理学的に考察して観ると、人間は「欲望」や「恐怖」を刺激されると、一時的に思考力、判断力が著しく低下してしまう、所謂「盲目状態」に陥っていたのではなかろうか。                             其の上ある脳神経外科医の記述によると、SNSを漫然と長時間見ていると、脳の「前頭葉」の血流が停滞し、此れに依って同様に一時的に記憶力、思考力、判断力が著しく低下してしまうと言うのである。

そう言う意味では最近流行っているSNS上の「投資詐欺」、「ロマンス詐欺」は、人間の心理の隙(又は弱点)をついて人を欺いて大金を騙し取ると言う、心理学を悪用した巧妙な手口であると改めて呆れ返ってしまうのである。 

これ等の詐欺の共通する手口として、先ず相手に利益になるとか、信頼出来ると思い込ませて、其れから大金を騙し取る事である。

記憶が正しければ1990年代に余は既にある心理学者が例題として書いていた以下の「投資詐欺」の事件を読んだ事がある。

「当時ある所に一人暮らしの資産家の婆さんがいた。

そこへある日、証券会社の職員を名乗る(騙る)男が訪ねて来て、「貴方のお金を2倍にして差し上げます。」と言った。

資産家の婆さんは当初、此の話を本気にしなかったが、男がせめて5000円だけ預けて下さい。必ず約束は守ります。」と熱心に言うので、そんな端金ならと思い預けた。

すると次の日、その男は1万円を婆さんの処に持って来た。

更に其れを預かり、次の日は2万円、其の又次の日は遂に4万円を持って来た。(これで婆さんは完全に男を信用してしまう。)

最後に男は「今度は貴方の全財産を倍にしたいと思いませんか?」と誘うと、婆さんは自分の貯金全てを男に預けてしまった。

其れ以来、男は姿を晦(くら)まし何処へ行ったのか分からなくなった。」     >おしまい<

 ↑ Théodore Chassériau :  Macbeth (1855)

 Théodore Chassériau : La spectre de Banquo  (1854)

宛(さなが)らW.Shakespeareの書いた戯曲※Macbethの中の台詞「悪魔は最初に人を甘い言葉で誘って、最期に人を欺く。」の如くである。 

(※此の戯曲の中でMacbethは悪い魔女の予言通りGlamisからCawdorの領主と成る。 そして強欲な妃と共謀して従兄のScotland王Duncanを暗殺した後に王位を継ぐ。 だが最期は忠臣Macduffに打ち取られ、王位は1代で終わる。)

 

詐欺の中には高齢者の身内を騙って「借金」だの「賠償金」だの「示談金」等と金銭上のな困窮を訴えて同情を誘い、多額の金銭を騙し取るやり方がある。

此の様に(偽りの)身内の窮状に同情してお金を払ってしまった

人達には十分に同情の余地はあるし、何としても救済措置を取るべきであると思う。  

一方で余は「色ボケ」「欲ボケ」した「激烈バカ」の被害者共に同情したり、擁護する気は毛頭無い。

最早此ればかりはドイツ語で言う"Selbstschuld"「自業自得」である!

此れには>Es tut mir leid !<(御気の毒です!)と言うより、大変意地悪で手厳しい表現だが >Schadenfreude!<(ざまあみろ!)と言った方が皮肉な戒めになるかも知れない。

だが、此れ程までに巨額の詐欺犯罪が毎日の様に多発するのは、ただ単に被害者が「欲垂れ」「馬鹿垂れ」「世間知らず」「情報弱者」であるだけではなく、最近の詐欺の手口が如何に巧妙且つ効果的であるかを思い知らされるのである。

即ち、費用も掛からず、手間いらず、身に危険も及ばず、其れでいててボロ儲け出来る、と言った具合であるから、この悪行は「止められない、止まらない」になってしまうのであろう。 

(誠に以って浅ましい限りである!)                                             

                                              

  ↑ 歌川国芳 作「狸の川がり」

今日の日本社会は外国の詐欺から見たら、まるで世界一格好の「漁(いさり)場」の様に思えるのではあるまいか。

宛ら餌を付けなくても釣り糸を垂らすだけで愚かな魚が幾らでも釣れ、網を仕掛けて置くだけで間抜けな魚が幾らでも引っかかると言った具合である。 

「日本昔話」に喩えると、あたかも狐や狸が愚か者や間抜けを化かす様な感じではなかろうか。

ついでに書けば、日本でも世界の昔話でも善人と正直者が「徳」と「幸」を授かり、悪人や欲張りが「損」や「罰」を受けるのがお決まりの「あらすじ」である。 

此のままでは近い将来、まるで19世紀末の「清」(今の中国)が欧州列強(イギリス、フランス、ドイツ、ロシア)や日本によるKolonisation(植民地化)の餌食にされていたのと同様に、日本人は邪悪で汚らわしい外国の詐欺共の餌食にされるのではないかと危惧されるのである。

故に詐欺を防止する確固たる対策ないし法律を施行する事が急務とされるのである。

(とは言え今の無能で利己的な糞政治家共には其の様な「甲斐性」等無いと思える。)

 

本来なら他人の災難を嘲笑う事は、人道上あるまじき言語道断の行為である。 

全く以て不謹慎で大人げ無い事ながら、此度ばかりは余の頭の中で自然に以下の替え歌の歌詞が僅か30~40秒以内に閃いてしまった。

(此の様な皮肉な「戯歌」(ざれうた)でも詐欺被害への警告、そして「欲」への戒めにでもなれば良いのだが・・・・・)


詐欺被害者の戯歌・第1番

(※童謡「手を叩きましょう」より)
「詐欺に騙された! 

散々(さんざん)だー、散々(さんざん)だー。

地団駄(じだんだ)踏もう、ドンドンドン、バンバンバン。
怒りましょ、プンプンプン。 泣きましょう、エンエンエン。 
プンプンプン、エンエンエン、ああ情けない!

(又は、ああ恥ずかしい!)」

※此の歌の原曲はチェコ民謡” Šla Nanynka do zelí”(ナニンカちゃん、キャベツ畑へ)で、本国チェコでも大変有名な曲である。

 

*詐欺被害者の戯歌・第2番

(※「狸の金玉」より)
「脳ミソ足りない金持ちは、知らない奴に金を出す。
其れを受け取る詐欺師共、腹を抱えてワッハッハー!」
「金を盗られた馬鹿垂れは、慌てて被害の届け出す。
其れを受理する警察も、頭を抱えてワッハッハー!」

「一度盗られた金は、二度と戻って来ない、

富は一時の夢。今では素寒貧。」
※此の歌の原曲はアメリカの讃美歌”Shall we gather at the River”で、1864年 Baptist派の牧師Robert Lowryによって作曲されている。 本国アメリカでも大変有名な曲である。

  ↑ 歌川国芳 作「狸の往来」

 

今までに消費者庁、警察、各金融機関、自治体、そして各マスコミが口が酸っぱくなる程までに「詐欺に気を付けて下さい!」と、過去のこいつらの手口をも公開してまで注意を促している。

にも拘わらず、最近では毎日の様にSNS上の「投資詐欺」、更には荒唐無稽な「ロマンス詐欺」等に数百万ないしは数千万円を,

極端な場合は億単位の金銭を騙し取られる事件が毎日の様に報道されている。  

本来ならば人を騙して金銭をくすね取る悪党共は避難され、最後は逮捕され厳しく処罰されるのが「社会の常識」であり「道理・筋道」ある。                                 

ところが最近ではこれ等の「激烈バカ」と呼ぶべき詐欺被害者共はウェブ・ニュースのコメント欄で、全国の国民に同情されるどころか、嘲笑されたり揶揄されるばかりである。

余は少年時代に読んでいた「がきデカ」と言う爆笑漫画の中に、「アホをからかうのは面白いが、余りアホ過ぎると逆に腹が立つ!」と言う台詞を思い出した。

同様に余の少年時代に放送されていたドラマ「暴れはっちゃく」の中で、主人公の長太郎は悪戯が過ぎて、父親から「てめーの馬鹿さ加減にゃ、父ちゃん情けなくって涙出てくらー!」と怒鳴りつけて叱られていたのを思い出した。

(「激烈バカ」の詐欺被害者共も大方、家族、身内からこんな風に𠮟り付けられている事だろう。)

これ等の社会現象から、詐欺被害者共は「被害者」を気取って、自分が騙されたと言う「自己責任」や詐欺に多額の資金を与えた「罪」から逃げてはいけない! と言う事が示唆されている様に感じられるのである。                                  これ等の外道の詐欺にいとも簡単に騙されて大金をくすね取られる事は、自らを破産させるのみならず、家族、親族との「信頼関係」をも破綻させ、世間の笑い者にまで成り下がってしまう事を自覚するべきである。                                   そして此度の取り返しの付かない大失態を猛反省し、二度と再び騙されない様に学習し注意するべきである!                                                                             
そもそも最近多発する詐欺犯罪も、人間の限り無き「欲」に付け込まれて簡単に騙されて、儲けるどころか逆に金融資産に壊滅的な損害を被る結果となったのである。

古の格言に「悪人の勝利はほんの一時しかない。」と言うが、「愚人の富もほんの一時しかない。」と言うべきだろうか。

貴族出身、又は先祖代々富裕層の観点からは、諺の「下衆の後知恵」(又は後思案)とは良く言った物である。

最近毎日の詐欺事件の報道を通じて、「成り上がりの金持ち」の惨めな末路を見る思いである。

「なぞなぞ」の様な表現だが、「正しく使えば何よりも頼りになる、逆に間違って使えば何よりも恐ろしい物とは何か?」

答えは「お金」である。

正に是からの時代は「」を獲得し、保持する為には「社会の仕組み」を利用する知恵、及び「正しいお金の扱い方」、「物の価値」への知識が必要不可欠であるとつくづく実感するのである。

 

今日の日本では長引く不景気の上、実質賃金の減少、物価、エネルギー代、税金、等の高騰、其の反面、国際為替相場に於ける「日本円」の価値の下落、「格差社会」の定着による貧富の差の拡大等、大多数の国民の生活は苦しく、不利になる一方である。

この様な社会状況における「閉塞感」場合によっっては「絶望感」までも漂う中で、邪悪な詐欺共は所謂「騙され易い人」を見つけては、其の心の隙をついて金銭をくすね取っている。

(「騙され易い人」の特徴については、同ブログの記事「騙され易い日本人と用心深いドイツ人、そして投資の心得」参照)

要するに人は貧富に関わり無く社会で生活している以上、いつか詐欺に遭遇する危険はあるのである。

心理学的に考察しても、詐欺ないしは悪徳業者が付け狙うのはどうしても「騙され易い人」なのである。
故に国民一人一人が、悪徳行為に対し「毅然とした態度と対応」で臨む必要があるのではなかろうか。
即ちただ単に断ったり、注意するだけで終わらず、行政及び法務機関に通報、相談するべきである。

最適な組織として消費者庁の運営する『国民生活センター』(http://www.kokusen.go.jp/)電話番号:03-3446-0999 (相談専用番号) 受付時間:平日10時~12時、13時~16時、
消費者ホットライン 電話番号:188(局番なし) 
そして全国都道府県の『消費生活センター』が挙げられる。
その上悪徳業者の行為が完全に「詐欺」ないしは「詐欺未遂」と認められる場合は最寄の警察署に物的証拠を提出して通報するのが正解である。

そして、詐欺犯罪防止の為には「詐欺罪」を極刑に処する(例:騙し取った金額の弁償に相当する強制労働させる)位の刑法の改正も必要であると思われる。


とにかく最良なのは各自銘々が悪質業者や犯罪者共を撃退出来る確固たる「護身手段」を身に着けておく事である。

参考に古の諺と格言と共に詐欺に対する「護身手段」を書き記しておく。
備えあれば患い無し」:自分は騙されないだろうと高を括ったり油断しない事。 詐欺犯罪に対し上記の対策を備えておく事。

彼を知り己を知れば百戦殆からず」:詐欺の手口についてある程度調べて知っておく事。
泰然自若」:大抵の場合、詐欺は人の「欲望」か「恐怖」に付け込んで騙して来るので、「欲望」と「恐怖」で心を乱さない事。

動かざる事山の如し」:決して詐欺の言いなりになって行動してはいけない。

皆の衆! 家族の平和と財産を守る為、くれぐれも御注意あれ!
同ブログの記事「悪質業者、詐欺の勧誘、及び悪質クレーマーの撃退法」も参照されたし。

財産」でも先祖や親から伝わる物を大事にし、日頃よりRationalität(合理性)とSolidheit(堅実性)そしてMäßigkeit(節制)を以って生活していれば、失う事は決して無い。

又、仏教にも吾唯足知吾(われ)、唯(ただ)足るを知る)と言う人間の貪欲を戒める格言がある。

此れは「物を絶えず欲しがる事を慎み反省し、自分の身の程を知り、自分に足りているだけで満足、感謝すべし。」と言う意味の教えである。

正にドイツ語の”Mäßigkeit”、ラテン語の”TEMPERANTIA”、そして日本語の「節制」に相通じる格言である。

そもそも止められない、止まらないのは人間の「欲」である。

人間の身勝手且つ理不尽な「欲」が止まらない限り、詐欺事件も止まらないであろう。 

故にどこかで「欲」に区切りを付けなければならない。  

仏教的な理念を述べると、「欲を捨てる事が安楽と平穏と菩提(悟り)への道である。」と言えるのである。


Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved
 

2020~22年までは日本国内の1年間の詐欺被害総額はそれぞれ285億、278億、371億円位だったのだが、23年の詐欺被害件数は1万9033件、被害総額は441億円と言う驚異的な統計が出ている!びっくりあせる

此れを1日に換算すると、平均52人が被害に遭い、被害額は1億2千万円位になる。

詰まり1人平均231万7千円以上が騙し取られている事になる。

所謂「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」の件数は近年減少しているが、無能な政治家共が国民の金融資産を増やす意図(希望的観測)で、従来の「貯蓄」から「投資」に運用転換する事を奨励した。

此れに託(かこつ)けたSNS上の「投資詐欺」、更には荒唐無稽な「ロマンス詐欺」等に数百万ないしは数千万円を騙し取られる事件が毎日の様に報道されている。

余が小学校の頃には「道徳」並びに「学級指導」と言う授業が毎週土曜日に設けられていて、担任の先生が生徒達に社会に於ける正義や人道について、そして休日の家庭や学校外での過ごし方について指導してくれていた。

其の中で「見知らぬ人に安易に着いて行ってはいけません。」と教えてくれていたので、余の世代位までの人間は、見知らぬ初対面の人間を盲目的に信用する様な真似はしなかった。

ところが近年インターネットが普及する様になって以来、「通信販売」だのSNSだのと言ったIT機能によって遠く離れた他人や業者と直接の面識や訪問が無くても交流なり取引が可能になった。

此れに依って現代人は面識の無い他人とのやり取りに対する抵抗感が希薄になり、遂には疑惑の念すら殆ど抱かなくなっている始末である。

此の様な社会現象に伴う現代人の心理的変化に付け込んで悪事を働くのが詐欺や其の他のサイバー犯罪者共である。

余の個人的な感覚では、何故面識も無い何処の「馬の骨」か「豚の糞」とも知れない下賤の輩をこうも簡単に信じて、大金を何回にも分けて相手の口座に振り込むのだろうか? 

被害者は「若年性痴呆症」なのか?と、疑いたくなる程呆れてしまうのである。えー

心理学的に考察して観ると、人間は「欲望」や「恐怖」を刺激されると、一時的に思考力、判断力が著しく低下してしまう、所謂「盲目状態」に陥っていたのではなかろうか。

 P.P.Rubens:  Porträt von Julius Caesar

古代ローマ帝国・最高位の政務官Julius Caesar(BC.100~BC.44)の言葉「人間は誰しも全てを見ているわけではない。 大抵の人間は自分の欲する物事しか見ていない。」(そこに人間の盲点があるのだ。) がこの心理状態を象徴していると言える。

因みにドイツの諺に>Heute rot, Morgen tot.<(今日の赤ら顔、明日は死に顔)と言うのがある。

即ち「今日は元気でも明日は死ぬかも知れない。だから油断せず気を付けろ!」と言う意味である。

(最近多発する詐欺被害を見ていて「今日の金持ち、明日は素寒貧」言う諺を思い付いてしまった。)

更にドイツの諺に>Die Katze im Sack kaufen.<(袋に入った猫を買う)と言うのがある。

即ち「中身を確かめずに金を払うのは愚行である。」と戒めた諺である。

結局の処、心理学を悪用する詐欺の巧妙な手口によって洗脳されて、「色ボケ」「欲ボケ」した激烈バカが正しい見方や判断が出来ず、詐欺の言いなりになって行動した結末である。

(因みに余はSNSは全く使わないし、興味すら無い。)

後期Stoiker(ストア派)の哲学者Seneca先生(BC.4~AD.65)の言葉「王の様な莫大な財産でも愚者が持ち、浪費を続ければ必ず破産する。 僅かな財産でも賢者が持ち、管理すれば少しづつでも増えて行く。」更にはあるドラマの台詞「馬鹿が大金を持つとろくな事は無い。」が思い出されてならない。

消費者庁、警察、各金融機関、自治体、そして各マスコミが口が酸っぱくなる程までに「詐欺に気を付けて下さい!」と、過去のこいつらの手口をも公開してまで注意を促しているにも拘わらず、詐欺事件は減少するどころか、寧ろ被害件数、被害額共に増加しているのである!

そして警察や裁判所によると、一度騙し取られた金銭を詐欺から取り返す事は大変困難であるとの事である。

多くの人々が指摘している様に、こうなれば江戸時代に「十両(現在の100万円位)盗めば首が飛ぶ(死罪)。」と言われていたのと同様に、詐欺に対する罰則をより厳しく、又は極刑にする以外、この悪質極まりなき犯罪を制御する方法は無い様に思える。

だが裏の事実を見ると、詐欺の親玉(首謀者)は外国に潜んでいるので、日本の警察だけで「国際犯罪」を調査、取り締まるのは限界があるので、国際警察や外国の警察との連携が重要とされる。

 

日本でこれ程までに詐欺事件が毎日の様に多発し、莫大な金額が騙し取られている原因の一つとして、日本人が騙され易い性格である事が災いしていると思われてならない。

欧米各国の日本人に対する印象は「勤勉」「誠実」「清潔」「我慢強い」「礼儀正しい」「謙虚」「知的」と言うのが多いが、其の反面、「曖昧」「お人よし」「引っ込み思案」「無個性」「騙され易い」と言う指摘もある。
参考に各先進国の「意識調査」で、「情報の真偽を見分ける自信がある。」と思える人の割合は以下の通りの統計が出ている。 
ドイツドイツ: 80.0%   フランスフランス: 74.5% 
イギリスイギリス: 74.2%   アメリカアメリカ: 71.6%
日本日本: 28.8%
更に「情報の真偽を確認した経験がある。」と答えた人の割合は以下の通りである。
ドイツドイツ: 54.7%   フランスフランス: 43.5%
イギリスイギリス: 43.4%   アメリカアメリカ: 50.0%
日本日本: 28.4%
これ等の統計からも、日本人が他国民に比べて騙され易いと言う事実は否み様が無い。
其の反対にドイツドイツ人は先進国の中で最も騙されにくい国民である事が以上の統計でも見て取れる。

騙される人が殆どいないのなら、詐欺の犯行も成り立たないと言う事である。

其れ故にドイツ国内では詐欺犯罪もサイバー犯罪も各先進国の中で最も少ないのである。

同ブログ内のプロフィールや他の記事にも何度も書き記している様に、余は学業と仕事でドイツに1989年~2003年まで足掛け13年住んで活動して来た。

其の経験から書くのだが、ドイツ人は誠にsolid(堅実)でvorsichtig(用心深く)、ordentlich(整然とした)、そしてgesetzmäßig(合法的)な精神が強いのである。

例えばドイツでは他のヨーロッパ諸国に比べて窃盗事件すら少ないのに、住居に於いては家の全ての扉、窓、そして家具の全ての引き出しに至るまでSchloß)ないしは Schlüßel)が付いているのである。カギ

更には乗り物(自動車、自転車)、金庫や鞄、其の他の箱も合計すると、一般家庭でも100個位の鍵がざらにあるのが常識なのである!

此れには我がドイツ人の親友Ch.Radeke牧師も>Ah! So viele Schlüßel ich kann nicht leiden!<「こんな沢山の鍵にはウンザリするよ!」と言っている。

其れ故にドイツでは"Schlüßeldienst"(鍵の業者)が日本と比較しても多く見受けられる。

そしてドイツでは昔からBecker(パン屋) とBrauer(ビール職人)とSchlüßelmacher(鍵屋)に成れば生活に困らないと言われる位である。

此の鍵や錠の文化はMittelalter(中世、12~14世紀)の大昔から伝わっており、其の証拠にドイツの都市にはStadtwappen(町の紋章)に Schlüßel(鍵)を図案化している事が多く見受けられる。

例:Bremen, Minden, Naumburg, Regensburg, Worms,等

本来、Symbolik(象徴学)では「鍵」はAbschließung(閉鎖)、Sicherheit(安全)、そしてVerwaltung(管理)の象徴であるが、これ等の都市のStadtwappen(町の紋章)は、そこに強大なBistum(僧正領) ないしは重要なDom(大聖堂)が存在している事を示しており、キリスト教の伝説でSt.Peter(聖ペテロ)が持っている"Schlüßel der Himmelspforte"(天国の門の鍵)を図案化しているのである。

"Saint Petero" de Marco Zoppo (1468)

 

扨、余はドイツのKunstakademie(芸術大学)で学ぶ傍らMedizinische Akademie(医学大学)でも特別受講生としてPsychologie(心理学)を学んでいたので、此の分野に於ける「騙され易い人の特徴」を以下の通り記しておく
注意1.「自分は騙されない」と過信、慢心している
注意2. 意志薄弱、 優柔不断で、他人に操作され易い
注意3. 単純、短慮で、何事も容易く受け入れる
注意4. 人や物を外見だけで判断する
注意5.「欲望」や「恐怖」への自制心が弱い
注意6. 目先の利益に直ぐ飛び付く
注意7. 流行物や新しい物に直ぐ飛び付く
注意8. 情報や知識が不足している
注意9. 社会や人生での経験が不足している
注意10.  優しく、お人好しで、断るのが苦手
注意11.  権威、肩書、名声、ブランド等に弱い
注意12. 煽(おだ)てやお世辞に弱い 
注意13.「買い得」「限定」「特別」等の言葉に弱い 
注意14. 占い、迷信、噂話を簡単に信じる
注意15. 思い込みが激しく、忠告を聞かない

注意16. 物事の真偽の確認や調査をしない
注意17. 身近に相談出来る人がいない
以上の項目に多く該当する人は、詐欺に騙されない様に重々注意する事である!

 

今年1月より「新NISA制度」(1年間の投資金額が1800万円以内は免税となる)が制定される事によって、投資に関心を持つ国民が増えて来ているが、其れでも投資している日本人の割合はまだ僅か23%程度である。

此れはアメリカの投資する国民の割合約62%と比べると如何に低いかが分かる。

一方で現在の日本国民の「貧困化」は著しく、貧困層(資産500万以下)が約17%、下層階級(資産500万~1000万以下)が約33%と両方で50%にまで達している。

其の上最近の「国民意識調査」によると、52%の国民が「生活が苦しい」、ないしは「やや苦しい」と答えているらしい。

たとえ投資に有利になる「新NISA制度」が導入されたとは言え、毎日の生活にも余裕の無い「貧乏人」には投資する元手すら無いのではあるまいか。

此の様な制度で恩恵、利益を得ているのは「準富裕層」(資産5千万~1億、国民の6.5%)「富裕層」(資産1億~5億、国民の2.5%)ないしは超富裕層(資産5億以上、国民の0.16%)の「投資家」位であろう。

又、「所得税」には累進課税の制度があって、年収が高額になる程、税率も上がるのだが、一方「金融所得」に対する税率は幾ら利益があっても一律に20%と決まっているのである。

更に株の投資には「配当率」と言うのがあって、例えば同じ株に1千万投資するより、2千万投資すれば2倍以上、3千万投資すれば3倍以上の配当金が得られる仕組みなのである。

そして国民健康保険の掛け金を被保険者の年収から計算する上でも、「金融所得」は除外されるのである。

此の様な「社会の仕組み」が存続する限り、富裕層ばかりが更なる利益を得て、貧乏人はいつまでも貧しいままである。

あるフィナンシャルプランナーが書いていた格言「今日ではあくせく働く人より、社会の仕組みをよく勉強して其れを利用している人の方がずっと楽に沢山儲けています。」とは正に至言也と思えるのである。

結局の処、此の「社会の仕組み」と政府の方針は国民全体の資産を増やすどころか、更に「経済格差」を拡大させる事は火を見るよりも明らかである。

理性的に考えて観てもらいたい。

もし、ろくに経済学も学んでいない、そして株や証券、等の「社会の仕組み」も十分理解出来ていない素人風情が安易に投資して儲かるのなら、世界中の投資する誰もが皆「金持ち」に成れるであろう。

(そんな夢物語がある訳が無い! 世の中そんなに甘くも無ければ、簡単でもない!)

一部の経済学者や証券会社のOB、又は有力な投資家によると、実際の処は株で利益を得ているのは投資者全体の上位30%程だそうである。

逆に言えば残りの70%程の人々は損益を出していると言う事になる。

スポーツの世界に勝者と敗者があるが如く、資産や投資の世界にも同様に勝者と敗者が存在するのである。

そして其のゲーム差(格差)はどんどん開いている!

諺の「生兵法は大怪我の基」とある様に「素人投資は大損の基」と言っても過言ではない。

 

因みに我が家は親の代より既に1989年以来、大手証券会社を通じて株や証券に投資を続けているのだが、其の際に我が母上は「銘柄選び」と「買い時」と「売り時」は全て当証券会社の職員(プロ)に一任しているのである。

正に日本の諺「商売は道によって賢し」又は「餅は餅屋」の如くである。

そして、投資の三大要素である「長期・積み立て・分散」を常に守り抜いている。

此れにて年を追う毎に順調に金融資産を増やして来ているし、不動産資産、そして余が担当する資産物品(美術工芸品、貴金属、等)も同様に増やして来ているのである。

御蔭様で余は賃金の為に働く事も無く、我が家の(昔の男爵、子爵並みの)財産と不労所得(金融所得、不動産所得)だけで悠々自適、余裕綽々で生活出来る事には、常に我が先祖と母上と証券会社に感謝している!

結論として、多大な財産を有する者には、同時に大きな責任が掛かっている。 何故なら財産とは所有者によって良くも悪くも作用するからである、と言う事を主張しておきたい。

 

 

皮肉な追伸:                                        

仏教の「十如是」」(じゅうにょぜ)の法則の中に「因・縁・果・報」と言うのがある。

即ち此の世の全ての出来事は偶然でなく、全て「必然」であると言う事である。 

最近毎日の様に多発する詐欺事件も同様に以下の通りである。

:被害者が「馬鹿たれ」、「欲たれ」である事  

:「投資の勧め」に煽られて、SNSで詐欺と悪縁が出来た

:詐欺を見破れず、いとも簡単に騙され大金を振り込んだ 

:金融資産の殆どを失い、「素寒貧」になった

 

1990年代初期頃、親類の幼馴染の家にあった「激烈バカ」と言う4コマ漫画を読んだ事がある。 

こんなバカは漫画の世界にしか存在しないだろうと思っていたが、最近SNS上の「投資詐欺」、更には荒唐無稽な「ロマンス詐欺」等に簡単に騙されて、大金をくすね取られる連中こそ実在の「激烈バカ」と思えるのである。 

そして此の「激烈バカ共」に呆れ返ると共に腹も立っている。

 何故なら悪人に大金を渡す事は、更なる悪行を幇助(ほうじょ)するに等しいからである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved

今年の3月4日、香川県に住む50代の女性Eさんが同県にある天台寺院の住職から十数年に渡り性暴力等を受けた事により、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症したとして、滋賀県大津市の天台宗総本山・延暦寺の事務所を訪ねて被害を訴えている。
被害者の女性Eさんは今年1月、都内で開いた会見で「長い間、僧侶Aから性加害や恫喝、暴力による心理的監禁を受けて参りました。」と語り、2009年から約14年間に渡ってこの寺の60代の坊主に心理的に支配されていたと明かした。
又、彼女の代理人弁護士は会見で「僧侶A(60代)はEさんに家事全般を行わせ、自分は台所に置いたベッドに横たわってテレビを見て過ごす事が多かったのですが、そこに(彼女に)添い寝をさせて性行為を強いる等していました。」と語っている。叫び
Eさんは祖父が3件の寺の住職を務めた天台宗の高僧であった事から、幼少期から仏教への信仰心があった。
比叡山での「千日回峰行」を成し遂げた母と親戚(従兄)である大阿闍梨について、親族から「仏様に最も近い存在になった」と聞かされ、此の大阿闍梨を「生き仏」と敬う様になった。
参考に此の「千日回峰行」について解説すると、比叡山・延暦寺を最澄大師(767~822年)が開基(794年)されて以来、後に相応和尚(831~918年)によって始められた。
此の「行」の行程として先ず先達から受戒を受けて作法と所作を学んだ後に「回峰行初百日」を行う。 初百日を満行後に立候補し、先達会議で認められた者が「千日回峰行」に入る。 
其の後7年の間、1~3年目は1年間に連続100日、4~5年目は1年間に連続200日此の行を続けるのである。
「千日回峰行」を達成した行者は現在まで51人しかおらず、其の内戦後では僅か14人しか満行者が出ていない。
達成者には「北嶺大行満大阿闍梨」(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)の称号が与えられる。
大阿闍梨は「生き仏」として全国の大勢の信者達からの崇拝の対象となる。

2009年に母親の法事の為に此の滋賀県在住の大阿闍梨B(80代)を訪ねた処、弟子として紹介されたのがこの坊主A(60代)であった。
「わしの一番弟子であるAの話し相手になってやってくれ。 Aは誰よりも信用できる人間で、伝説の男だ。 Aの言う事は私の言葉として聞く様にな。」と執拗に説得されたので、Eさんは仕方なく坊主Aの寺を訪ねたのであった。
ところがこの坊主の正体は信頼、尊敬出来るどころか畜生が袈裟衣を纏った様な「発情悪坊主」だった!ガーンあせる
あたかもフランスの劇作家Molière(モリエール・Jean-Baptiste Poquelin 1622~73)の書いた戯曲”Le Tartuffe ou l'Imposteur”(偽善者のタルチュフ)を思い出させる。
これを動機に発情悪坊主がEさんの自宅周辺に出没する等のストーカー行為が始まった。
Eさんが困惑するにも拘わらず、大阿闍梨Bは発情悪坊主を庇い続けた上、Eさんに発情悪坊主の元に行く様に強引に勧め続けたらしい。
同年秋に発情悪坊主は「頭が痛くて倒れた。食事も取れない。」と仮病を装ってEさんを己の寺に呼び寄せると、無理やり強姦したのだった!(この腐れ外道め!)パンチ!ムキーむかっ
其れ以来、Eさんは寺に監禁されて女中、召使の様にこき使われた上、「性の奴隷」として人権、尊厳を蹂躙される様な非道な扱いを受けていたらしい。
Eさんはこの発情悪坊主から「坊主に逆らうと地獄に堕ちるぞ!(自分の言葉は)観音様の言葉だと思え。」等と脅され、寺に住む事を強制され、繰り返し性的暴行を加えられた他、尼僧として毎晩髪を剃られていたと言う。
そして性行為の最中には「オンアロリキャソワカと(観音様の)真言を唱えろ!」等と命じられていたと言う。 
(まるでAV、Porno映画のあらすじを現実化した様な淫行ではないか!)ゲローオエー

其れ故にEさんは親戚の大阿闍梨Bに繰り返し被害について相談しても、Eさんを助けるどころか発情悪坊主を擁護し、「公になったら困る」等と言い訳をして事件を隠蔽し続けようとした。
Eさんが親族や「女性センター」等へ相談して、2017年の秋にやっとの思いで(生き地獄の様な)寺から脱出したのであった。
其の後、精神科で診察を受けると、重度の「複雑性PTSD」」(心的外傷後ストレス障害)と診断された。
2019年にEさんはこの発情悪坊主による監禁、性的暴行について警察に被害届と告訴状を提出したのだが、嫌疑不十分で不起訴にされてしまった。
ところが此の事が大阿闍梨Bの機嫌を損ねてしまい、又しても無理やり発情悪坊主の寺に連れ戻されてしまった!えーん
報道機関の取材に対し此の大阿闍梨Bは、「今でも私は彼(発情悪坊主)についてこんな事(監禁、性加害、他)があったのを信じられん気持ちです。」と語っている。
そこでEさんは全国の天台寺院を管轄する「天台宗務庁」に対し、この発情悪坊主と大阿闍梨の2人が信仰心と権力を利用して長年に渡って洗脳した事で「心理的監禁状態」に置かれたとして、両人の僧籍を剥奪する様に申し立てをしたのであった。
此の深刻な申し立てを受け天台宗は事実確認の為に本格的な調査に乗り出し、3月4日午後1時からEさんへの事情聴収を始めた。
天台宗務庁は「現在、調査及び対応を協議しており、今の段階では説明する事はありません。」と調査結果について対外的な発表や会見は目下の処出来ないと発表している。

此度のあさましき事件に対して余の意見を述べると、何より憤怒(ふんぬ)を感じるのは、この発情悪坊主が己の「坊主」と言う特権を悪用して、女性の清らかな心を蹂躙し、其の貞操をも穢し続けた事である。爆弾ムキーッむかっ
正に「僧侶」(善人)の仮面を被った「腐れ外道」と書いても差し支え無いであろう!

天台宗憲章」(当宗派内の戒律・法律)に則り、この発情悪坊主は僧籍を剥奪され、刑事裁判に掛けられて法的に処罰される上、被害者Eさんに対し相応の慰謝料を払う等して賠償をしなければならない!

刑法では「逮捕・監禁致傷罪」の罰則は3か月以上15年以下の懲役、「強制性交等罪」の罰則は5年以上の懲役、其の他「ストーカー規制法」の違反、「恐喝罪」等も加えられる。 

そしてこれ等の違法行為が14年にも渡って続けられた結果、被害者が重度の「複雑性PTSD」を患っている事から判断すると、この発情悪坊主への実刑判決は10年以上が妥当であろう。

この発情悪坊主は天人共に許さざる悪行によって、長い歴史を持ち「日本仏教の母山」とも言われる天台宗の名誉や信頼を著しく棄損した罪も途轍も無く重い!

依って当然ながら「刑罰」を受けるのみならず、「仏罰」も受ける事になるであろう。

この発情悪坊主は「坊主に逆らうと地獄に堕ちるぞ!」等とほざいたらしいが、「是より現世、来世共に地獄に堕ちるのは其方自身であるぞ!」と余は御仏と共に言ってやりたい。パンチ!ムキーむかっ

 

一方で帰依(信頼、尊敬)しようした者に裏切られ、約14年間に渡って心身共に犯され続けたEさんの無念と悲しみは筆舌し難い物であろうと察している。悲しい

余は個人的に被害者Eさんに心からの御見舞いを申したいし、彼女が1日でも早く苛まれ続けた心を癒され、安穏な生活と幸福を取り戻される事を願っている。

そしてこの様な仏教界では有り得ないおぞましき経験をされても、幼少の頃より培われて来た「仏教への信仰心」だけは捨ててもらいたくないのである。
又、天台宗がこの事件の調査結果について対外的な発表や会見はしないのなら、世間では「身内贔屓をして、自分達の名誉や威厳だけを守ろうとする偽善の宗教団体」として著しく信用を失墜する事になるであろう。


あたかも「戦国時代」に織田信長が比叡山を焼き討ちにした頃(1571年9月30日)の腐敗、堕落していた天台宗僧侶と同様の見方をされかねないのである。
それ故に余としては「天台宗務庁」には前記の「天台宗憲章」に則り、毅然とした調査、制裁を加え、更にはこの事件の概要、及びこの罪に対し宗派の採った処置について世間に公開して、被害者のEさんに謝罪し、何らかの救済措置を為すべきであると存じている。
そして以前から書いている事だが、余も実家が平安時代から天台宗に属し、自らも同宗に帰依(信頼、尊敬)する者として、今一度僧侶達の「根本理念」「根本教義」を再認識した「意識改革」を強く進めて行く事を願うばかりである!お願い

歴史を研究していると、古の時代には現代人の感覚では及びもしない様な偉大なる高僧が、世の為人の為に御活躍され、其の尊き思想と浄行が後世まで伝えられている事を知らされる。
天台宗大僧正であり偉大なる天台学者である福田堯穎(ふくだぎょうえい)猊下(1867~1954年)も其の中の御一人で、余は2015年より猊下の著書『台學入門』(明治40年)、引き続き大著『天台学概論』(昭和29年)を毎朝仏壇の前で読んで、大事な個所をノートに書き取っている。
福田猊下の素晴らしく功徳に満ちた高潔な御考えと、驚くばかりの偉大な学識に大層な感銘を受けた余は、猊下の著書『傳教大師』(昭和10年)、『福田老師法話集』(昭和30年)を、古書店で更に購入し読んでいる処である。
これ等の中で猊下は幾度も『修養』を出家、在家共通の美徳として御提唱されている。
即ち、正しい教えを修め、高い人格を養うと云う事である。
余は既に2010年以来7年もの間、毎日天台仏教を(少しずつではあるが)勉強し、天台宗の僧侶の方々とも交流しているので、「教門」(理論)には其れなりの自信があったが、其の一方で「観門」(行)が全く出来ていない事を恥かしく思っていた。
しかし、福田猊下は「行とは仏事のみに限られず、世の中での『善行』も含まれる。此れは僧侶のみならず、在家の者にも出来る最も尊き行である。」と記されている。
此の御教えは余に大いなる希望を与え、大層勇気付けてくれたのである!

 

スペインの大画家F.J.Goya(ゴヤ・1746~1828)の銅版画集 "Los Caprichos" (気まぐれ)の中に>El sueño de la razón produce monstruos.< 「理性の眠りは怪物を生み出す」と言う題名の作品がある。
又、アイルランドの文学作家B.Shaw(1856~1950)が「人間は理性と言う衣服を不格好に身に着けた獣である。」と言っているが、此度のあさましい事件を知って、これ等の言葉は正に至言也と感じてしまうのである。
福田堯穎猊下が何度も御提唱されている『修養』が出来ていれば、この様な事件は決して起きなかったであろう。
修養」が満足に出来ていない者が「地位」や「財産」や「権力」を手に入れて、扱い方を誤ると、ろくな事にはならない。
政界、財界、芸能界、そして宗教界でも度々あった事だが、平民出の不謹慎な「成り上り者」が一度(ひとたび)「地位」や「財産」や「権力」を手に入れると、これ等を悪用、乱用して世の中の人々に害をもたらすのである。
「地位」や「財産」や「権力」とはあたかも強力な「薬」に似ていると思える。
詰まり正しく使えば人の健康(人生)の為に有益に作用するが、間違って使えば人の健康(人生)の為にに有害となるのである。


「滋賀院門跡」門主、大僧正・小林隆彰猊下(1928~2023年)も「福田堯穎先生は大僧正としても、天台学者としても当時最高峰の御方やった。」と宣われている。
此の法話の中の教えに余の親友である成願寺住職・甘露和尚が以前話してくれた内様と共通、類似点が多々あったので、此れは是非とも甘露和尚にお薦めしようと、同じ本『福田老師法話集』を古書店にて購入し彼に届けておいた。
すると其の日に甘露和尚から御礼の電話があり、更に翌日わざわざ我が家まで御礼の品まで届けてくれたのである。
当時話し合った中での余の意見「最近では福田老師の様な学識、人徳共に優れた僧侶が少なくなっている。僧侶や教師の様に人を教え諭す者、そして国や地方の行政を担う政治家も、此の当時(明治~昭和初期)の頃の「」(功徳、人徳、道徳、美徳)を改めて認識する必要がある。」に甘露和尚も全くの同意であった。
又、昭和3年の御生まれの大僧正・小林隆彰猊下も「最近の坊主は勉強や自覚の足りん者が多くなっとる。世の中の為にもっとしゃんとせにゃあかん!」と宣われていた。
かつて我ら天台宗の開祖・最澄大師が「我、未だ弟子を罵倒する事、体罰与えし事一度も非ず。」と宣われたが如く、大師の伝記の中でも愛弟子達も全て其れを認めておられる事が記されている。
そして大師は天台宗で僧侶になる為に「圓教・密教・戒律・禅」を総合的に学ぶ「教門」、並びに厳しい「」を中心とする「観門」を12年間に亘り比叡山に籠って実践する事を義務付けられていたのである。
其の上、最澄大師は「国家の争乱を鎮め、安泰を守り、同朋(国民)を慈しみ、教え諭す事こそ、天台宗僧侶の務めである。」と宣われている。
此の様に本来の天台宗では多大な学習内容と厳しき修行があっても、決して同朋の人格や尊厳を毀損する事はあり得なかったのである。
天台宗の僧侶の方々には今一度原点に回帰して、常に開祖・最澄大師の尊き御教えと御人柄を認識して、世の為人の為に貢献して頂きたいのである!

(同ブログの記事今『昔聖職者の倫理観と「徳」への認識』も参照されたし)


Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved

                   

新年元日早々、午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の大規模な地震があり石川県・志賀町で最大震度7を観測した!
此れ以外にも、同県内の七尾市、輪島市、珠洲市、穴水町でも震度6強を観測、長岡市、中能登町、能登町で震度6弱を観測し、北海道から九州地方にかけての広い範囲で震度6強から1を観測した。
更に此の地震と同時に気象庁は石川県全域、及び富山県、新潟県全域の海岸沿いに大津波警報、更に、山形県、福井県、兵庫県の沿岸に津波警報、更には北海道から福岡県までの日本海沿岸全域に津波注意報を一時的に発表している。 
気象庁によると各地で津波が観測されており、午後5時24分までに大津波警報が発表されている石川・七尾港では第1波を観測し、其の後も津波を観測している。
此れ以外にも石川県・輪島港では1.2m以上、富山県では0.8m、石川・金沢市では0・4mの津波が観測された。 
又、北海道、青森県、山形県、等の日本海側でも広範囲で津波が観測されている。 
気象庁は此の後来る津波を警戒して、警報、注意報が解除されるまで安全な場所から離れない様に呼びかけた。 
其の後も1日午後8時頃まで震度7が1回、震度5強が3回、震度5弱が3回を観測する他、何度も繰り返し地震が続いていた。 
更に此の地震で石川県・輪島市の「朝市」で有名な地域で大規模な火災が発生している。
何分祝日の日没前に突然起きた自然災害なので、被害の全容はまだ正確には集計されていないが、(誠に辛い事ではあるが)今後被害が拡大する事が予想される。

近年、日本では平成時代以来の経済的不況、半数近い国民の生活苦、多数の自然災害、新型コロナウィルスの大流行、物価、エネルギー価格の高騰、等と試練、災難の連続であった。
其れだけに各テレビ局のアナウンサーが新年早々、「今年は明るい良い年になります様に祈っております。」と異口同音の如く言われていた。
余は預言者でこそないが大晦日から元旦にかけての夜中に、「新年になっても日本に何か途轍もない不幸、災難が襲って来るのではないか?」と何やら悪い予感がしていたが、よもや元日早々此の悪い予感が的中してしまうとは努々(ゆめゆめ)思わなかった!
テレビの中継で被災地の状況を見ていたが、余ですらどうしても1995年1月に起きた「阪神淡路大震災」、及び2011年3月に起きた「東日本大震災」を思い出してしまい、これ等の地域より遠く離れた場所に住んでいても心臓の鼓動が強まった位衝撃を受けた。
是から被災地に住んでいる人達の難儀や苦労、悲しみを考えると、何とも痛切な思いに駆られ、気が滅入ってしまうのである。
上記の通り最近の日本では経済や国民生活が停滞し、政権与党内の糞政治家共は無能で腐りきっている奴が多いだけに、今回の大災害は更に日本国に多大な悪影響や損害を与える事が予測される。
余は被災地からは遠く離れた所に住む余所者故、ボランティアで被災地の救済活動等の立派な事こそ出来ないが、以前書き記した記事「東日本大震災への御悔やみと御見舞いそして助言」、

「大震災被災者の為のストレス診断表」、並びに

「糸魚川市の大火災への御見舞い、そして火を扱う心得について」

を御覧頂き、今後の被災地での復興事業及び生活に役立てて頂きたい。

此度の大地震、並びに津波の際、余が更に懸念している事は、石川県の隣の福井県の若狭湾には日本原子力発電株式会社敦賀発電所、関西電力株式会社美浜発電所、同高浜発電所、等計15基もの原子力発電所が連なって立地されている事である。
もし此の地域に大地震や大津波が襲来した時に、これ等の原子力発電所のいずれかが損傷を受けた場合、放射能が漏れて空気中及び海中に広がろうが物なら近隣、周辺の地域は「汚染地域」になり、該当する地域に住む住民は避難隔離を余儀無くされる事になる。
ただでさえ2011年3月に起きた「東日本大震災」の折の「福島原発事故」は未だに完全に収拾が付いていない状況である。
其の上更に別の原発が事故を起こそうが物なら、日本の環境及び経済は最早立ち行かなくなるのではなかろうか。
余が過去に書いた記事『「愚政は天災よりも危うし」及び原子力への批判と代用の水力発電について』

にも書き記している様に、そもそも原子力発電など採用せず、

水力発電を中心にしておいたら、此の様な深刻な問題は起きなかったのである。
最初に水力発電所を多数建設するには成程其れなりの費用がかかるかも知れないが、長期的な展望からは寧ろ水力発電の方が以下の通り既存の火力発電、原子力発電より断然、経済的で安全で環境にも優しいので良い事尽くめなのである!
水力発電はエネルギー源の「水」は常に無料なので電気代も自ずから安価になる。
水力発電は今日の深刻な環境汚染の原因となる二酸化炭素や放射能、等全く排出しない。
水力発電所の維持管理費も比較的安価に成るのである。


余は個人的に新潟県・上越市がオーストリアのLilienfeld市と姉妹都市である関係で、1996年~98年にかけて両市の為のドイツ語通翻訳を務めさせてもらった。
これ等の経験と共に幸せな思い出もあるだけに、当市の安全が特に気掛かりである。
何よりも先ず災害地の生存している人々に御見舞いを、そして無念にも犠牲になった方々に心からの御悔やみを申す次第である。

扨、今までの自然災害の被災地で常に起きていた問題が、「生活物資及びエネルギーの供給」である。

気象庁は今年は「暖冬」と予想こそしているが、震源地の石川県や其の他の北陸地方は西日本に比べて気温も低く其の上雪深い土地柄なので、此の時期に十分に生活物資及びエネルギーの供給が出来ていない状態で生活して行くのは誠に困難を極める事が予測される。
電気設備、水道管、ガス管は修復出来るまで予備バッテリー、タンク車、木炭、薪、等で暫く凌いで行くしかない。
しかし道路、橋、鉄道、空港、等の交通網が破損しているからと言って、生活物資を供給しない訳には行かない。
ヨーロッパで実践されている手段を紹介するのだが、先ず大量の生活物資を軍隊で使う落下傘の付いた大型の"Carry Bag"「空輸用バッグ」(同様に多数)に詰め込む。
それ等を軍用の大型輸送ヘリコプターに積み込んで、地上からの信号に従って適切な場所に落下させるのである。 実に第二次世界大戦中には此の手段が何度も実用されていたのである。

しかしながら現在の北陸地方の荒れた天候の為、此の手段も困難なので、自衛隊が1人1人で救援物資を被災地へ運ぶのが最善の対策らしい。

 

(気味の悪い事を書く様だが)ここ30年間の日本国内の統計から推測して、今年も又どこか別の地方で大規模な地震ないしは他の自然災害(例:猛暑、台風、津波、等)が起きる危険性は十分にあり得る。

故に今までに起きた自然災害を教訓に、災害時、非常事態に対するVorsorge「前以っての用心」とVorbereitung「備え」は大切であると意識するべきである。
とにかく一刻も早く被災地の人々が安心出来る生活を取り戻せる事を、そして其の為、被災地以外の日本国民が一人でも多く此の「国難」とも言うべき大惨事からの救済に協力する事をも願って止まない!
そして被災地では是から不慣れ且つ不便な状況の中で大変かも知れないが、被災者の方々が其の健康を出来るだけ維持して、粘り強く復興の為に引き続き精進され、再び平和な日常生活を取り戻される事を願って止まない!お願い

 

4月30日の追伸:
石川県は県内で「能登半島地震」による245人の死亡、そして1434人の負傷が確認されたと発表した。

避難所で生活している人は1月2日に最大の4万688人。
其の他の県の負傷者は、富山県で41人、新潟県で44人が確認された。

家屋の損害は(全壊、半壊、一部損壊、浸水)石川県で約7万6114棟、富山県で約800棟、新潟県で約1058棟となっている。
家屋倒壊で生き埋めになった住民も多数いると見られるので消防等が捜索を急いでいる。
安否不明なのは、輪島市、珠洲市両方で15人である。
(※一部重複して計上している可能性もあるらしい。)
輪島市では、建物等による生き埋めになったとの情報が多数寄せられたが、発生から72時間以内に捜索出来なかった事もあり、関係機関が協力して更に救助活動を続けている。
更に地理的損害では基幹道路が延びる能登半島北部の沿岸を中心に、土砂崩れが100か所以上ある事が判明している。

其れにしても政府の対応は余りに緩慢であると指摘しざるを得ない。

震度7(激震)と言えば最上級の数値なのだから、地質学者でなくとも今回の地震が被災地に壊滅的な打撃を与えている事位想像出来ないのだろうかと呆れてしまうのである。

鈍感なのか其れとも冷酷なのか、こんなに国民の生命、生活に対し、無思慮、無配慮な様では一国の政府としての存在価値も信頼も失うのではなかろうか。

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved

過去に世界の何人もの有名な哲学者、思想家、文学作家、映画監督、実業家、其の他の芸術家達が今回の題目と似た様な事を述べられている。
例:イギリスの劇作家、詩人のW.Shakespeare(1564~1616)、オーストリアの劇作家のFranz Grillparzer(1791~1872)、アメリカの映画監督のAlfred.J.Hitchcock(1899~1980)、日本の実業家の松下幸之助(1894~1989)、科学者の江崎玲於奈(1925~)其の他。

余は本来、芸術家であって芸能界の人間ではないので、

Dramatik(劇作法)やDramaturgie(演劇論)の専門知識は無いので詳しい事は述べられない。
しかしながらDrama(演劇)に於いて主人公を演じる為には、ただ容姿が美しいとか、強烈な個性があるとか、演技力がずば抜けているだけでなく、更には面接や試験や厳しい審査にも合格しなければならない事位は存じている。
場合によっては芸能界に大きな伝手や人脈を持っていなければならない事もある。
此の様に芸能界ではDrama(演劇)又は映画で主人公を演じられる人になると、役者の中でも相当制限されて来る、所謂「狭き門」なのである。
そこまで辿り着くのは至難の業と言っても良いのではなかろうか。
しかし本来人間は誰でも「此の世」に生を受けた時から「自分の人生」に於いては自分が主人公なのである!
其の為には、前記の様な美しい容姿も、才能も、試験も、審査も一切必要無いのである。
そうではなくて、ただ「我が人生では自分自身が主人公なのだ!」と言う意志や自覚があれば其れで良いのである。
又、「自分の人生」と言うDramaが何も魅力的とか、華やかであるとか、劇的であるとか、非凡であるとか、そんな事は一切必要無いのである。
たとえ平凡でも、地味でも、多くの人々に注目、評価されなくとも、あくまで「自分の人生」では自らが主人公なのである!

だからこそ此の世で一度しかない唯一の「自分の人生」と言うDramaを一生懸命演じ切らなければならないのである!
にも拘らず嘆かわしい事に世の中には、他人の意見に振り回されたり、他人から支配されるだけで、自分の意志や考えすら持てない者もいる。
又、有名な芸能人やプロスポーツ選手、等に現(うつつ)を抜かして夢中になり、自分を全く見つめられていない者もいる。
こう言った者共は「自分の人生」に於いて主人公に成れていないのである。
其れどころか他人に人生を振り回されているだけの、ちんけな脇役に成り下がっているのである。
(見下した言い方になるが)「自分の人生」の中で主人公にもなれない人間等、奴隷にも劣る惨めな者の様に思えるのである。

18世紀頃までのヨーロッパのLiteratur(文学)やDrama(演劇)ないしOpera(歌劇)では、主人公と言えば、王侯貴族か英雄、又は其の他の「特権階級」に属する人達ばかりであった。
中世(10世紀~14世紀)から18世紀までは、王侯貴族や僧侶、等の「支配階級」が政治、経済、文化、全てに於いて絶対的権力を持っていたのであるから無理もない。
余が個人的に読んで来た実例を挙げると、以下の通りである。

William Shakespeare (1564~1616)

(シェイクスピア):
Richard.Ⅲ,  The Taming of Shrew,  A Midsummer Night's Dream,  Marchant of Venice,  As You kike it,  Henry.Ⅳ and Ⅴ,  Romeo and Juliet,  King Lear,  Othello,  Macbeth, 等

Jochann Wolfgang von Goethe (1749~1832)

(ゲーテ):
Die natürliche Tochter,  Egmont,  Faust,  Götz von Berlichingen,  Hermann und Dorothea,  Iphgenie auf Tauris,  Torquato Tasso,  等

Friedrich Schiller (1759~1805)(シラー):
Die Räuber,  Don Carlos,  Die Jungfrau von Orleans,  Kavale und Liebe,  Maria Stuart,  Tourandot,  Wallenstein,  Die Braut von Messia,  Demetrius,  等

Heinrich von Kleist (1777~1811)(クライスト):
Die Hermannschlacht,  Prinz Friedrich von Homburg,  Der zerbrochene Krug,  Das Käthchen von Heilbronn,  Die Famile Schroffenstein,  Penthesilea, 等

 

これ等の作品は作者の時代に本として出版、劇場で上演されただけでなく、後世には映画、ドラマ化されている物もある位である。
しかし時代は変わって最近のドラマの中には、一見平凡な職業の人、例:(元・刑事の)タクシードライバー、(元・判事の)清掃員、探偵、又は税務調査官、保険調査員、旅行記者、観光旅行ガイド、万引きGメン等が主人公を務めて人気を博している物がある位である。

 

余は歴史に名と作品を残している「偉人」「英雄」「天才」「人傑」と称される人達のBiographie(伝記)やKarriere(経歴)を数多く読んで来た。
其の中でも余と同じ「芸術家」のBiographie(伝記)やKarriere(経歴)は特に興味深き物であった。
そして彼等にはある共通点が有る事に気付いたのである。
其れは彼らの家柄や出生が大抵は「上流階級」ないしは「富裕層」に属している事、そうでなければこれ等の社会階層に属する人が、生活を保障してくれるPatron(経済的支援者)になってくれていた事なのである。(希に例外もあるが・・・・・)

これ等いずれかの条件を満たしていなければ、たとえ優れた才能や希望や思想を持ち合わせていても、「芸術家」として立身出世する事は到底不可能だったのである。

同様に各芸術家の実家又は親の職業の例を挙げると以下の通りである。


貴族Jochann Wolfgang v. Goethe(1749~1832 ドイツの文学作家)、Heinrich v. Kleist(1777~1811ドイツの文学作家・軍人)、George Gordon Byron(1788~1824 イギリスの詩人)、Pierre Puvis de Chavannes( 1824~1898 フランスの画家)、 Henri de Toulouse-Lautrec (1864~1901 フランスの画家)
大地主Gustave Courbet(1819~1877 フランスの画家)
銀行家Felix Mendelssohn(1809~1847 ドイツの作曲家)、Edgar Degas(1834~1917 フランスの画家)、Paul Cézanne(1834~1906 フランスの画家)
政治家(議員):Eugène Delacroix(1798~1863 フランスの画家)
実業家(自営業): Molière(Jean-Baptiste Poquelin 1622~73 フランスの劇作家)

Théodore Rousseau(1812~1868 フランスの画家)、Claude Monet(1840~1926 フランスの画家) 
医者Friedrich Schiller(1759~1805 ドイツの文学作家)  、Hector Berlioz(1803~1869 フランスの作曲家)、  Herbert v.Karajan(1908~1989 オーストリアの指揮者)
司法者(弁護士、裁判官): Franz Grillparzer(1791~1872 オーストリアの劇作家)、Edward Manet(1832~1883 フランスの画家)、Paul Delvaux (1897~1994 ベルギーの画家)

:同ブログに登場する人物、:登場していない人物)

Pierre Puvis de Chavannes :  Patriotism (1893)

因みに上記のフランスの画家Pierre Puvis de Chavannesの作品は岡山県・倉敷市の大原美術館が3点を所蔵しているし、余は

2014年にも島根県立美術館で彼の作品展を観ている。

Paul Delvaux :  Crysis  (1967)
更にベルギーの画家Paul Delvaux の作品は兵庫県・姫路市の姫路市立美術館に多数所蔵されている。
余はこれ等以外にも、1990年に同美術館で彼の作品展をを観ている。


イギリスの男爵で詩人のLord George Gordon Byron(バイロン)は>True is stranger than Fiction.<(事実は作り話(小説)よりも奇也。)と言う名言を残してる様に、現実とは時として(作り話の)Dramaよりも思いがけない事や、奇想天外な事や、摩訶不思議な事が起きているのである。
人類の歴史を振り返って読んで見ても、何と数多くの奇跡的な事が起きているかを教えられるのである。
正にイタリア映画”Nuovo Cinema Paradiso”(1988年)の中の「幾つもの奇跡によって歴史は作られている。」と言う台詞其の物である。
個人的な事を書くと、幸運な事に余自身も自らの人生に於いて何度もmirakulöse「奇跡的」と言える程の機会や成功と勝利を獲得して来た。(同ブログの「プロフィール」参照 

其れを今振り返って見ると、此れだけの事を成し遂げられた一番の理由は、自分の能力や可能性を信じ抜いて、最後まで諦めなかった事である。

かつてのフランス王国の"Le Roi Soleil" (太陽王)と称された Louis ⅩⅣ世 (1638~1715)は>L'État, c'est moi .<(国家は余に有り)と仰せられているし、大人気を博したアメリカの戦争アクション映画"First Blood"(ランボー)の中で S.Stalloneが演じる主人公の歴戦の勇士 John Ramboは「ジャングルの中では俺が掟だ。」と言う台詞を発している位である。
そして余も同様に「己の芸術の世界では、余自らが『万物の創造主』、即ち『神』である。」と思う位の意気込みで制作しているのである。(いつもの様に自惚れる様だが・・・・・)
何故なら芸術や芸能の世界では、自分に「劣等感」や「疑い」を持っていては続けられないからである。

(因みにLouis ⅩⅣ世陛下と余は、誕生日が同じで、器量美しく、黒髪が女性より多く、誇り高く、そしてこよなく「美」と「芸術」を愛好している事が共通点である。)
 

此れは日本でも欧米各国でもよくある事なのだが、学校で先生が生徒達に「皆さんは将来、大人になったら何に成りたいですか?」と言う質問をすると、生徒達が各自それぞれ自分の将来の希望について答えるのである。
とは言え成人して「少年時代」の希望を確実に叶えられる人は極限られている事も事実である。
更に、今度は報道機関のキャスターが(子供の頃の希望を実現している)人気の芸能人や主力のプロスポーツ選手、等に対し「もし貴方が今の仕事に就けていなかったら、どうしていましたか?」と尋ねた処、彼等の答えを聞いてみると、以外にも平凡な内容なのである。
例: 実家の業務を継ぐ、技術者、サービス業、サラリーマン、然もなくばどうなっていたか分からない、等
これ等の答えから考察してみると、彼等は自分の子供の頃からの希望以外、生きる道(可能性)は無いと思っていたからこそ、自分の希望に向かって一心不乱に学習と研究と努力を続けられたのではないかと推測されるのである。
此の質問は印象深かったので、余も此れに関し自問自答してみた。

前記の歴史に名前と作品を残す「巨匠」の方々と同様に余も(清和源氏の流れを汲む)士族の家系で、今でも尚「富裕層」の家に生まれた事が、自分の大きな幸福や成功の根本になっていると確信している。
先ず親父殿が一種の「英才教育」をしてくれたのが凡人とは異なるMentalität(感受性、指向性、思考回路)を育成し、そして母上が我がPatron(経済的支援者)でいてくれた事によって、「芸術家」等と言う営利を度外視して自分の理想を実現する仕事が出来ているのである!
此の事に関しては余は常に自分の両親のみならず先祖にも心よりの感謝をしている次第である。

 

(馬鹿げた想像なのだが、)もし余が氏も素性も低い財産も無い貧しい家に生まれ、天賦の才能も無く芸大に進めず、芸術家にも成り損なっていたらどうなっていただろう? と考えてみた。
其の様に仮定すると、余は他人に服従する事やこき使われる事が大嫌いであるし、御世辞や媚びへつらいも苦手であるし、「同調圧力」に対しては暴力を行使してでも撃退したい様な性分なので、社会でサラリーマンや労働者に等、とてもではないが成れない(成る気も毛頭無い)のである。
詰まり余は彫の深い美人顔と鍛え上げた超筋肉質の肉体だけが取り柄の男と言う事になる。

(同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事、及び我が容姿について」参照)

余はウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで通算38年続けて来たので体力(PowerとSpeed)には絶対的な自信こそあるが、プロスポーツ選手に成る程の意気込みや根性は無い。
さすれば残された可能性と言ったら、芸術を目指した関係でプロの芸術家の為のヌードモデルにでも成るか、芸能界に進もうにも余は「演技力」も「歌唱力」も全く無いし、其れでいて「爆乳美人」が大好きなので、挙句の果てにはPorno男優にでも成るしか道が無かったかも知れない・・・・・

此れではたとえ欲望を満たせても、惨めで見下げ果てた人生になっていただろうと思われるのである。
此の様に想像してみても、余は氏・素性も財産にも恵まれた家に生まれられた事から、自分の両親のみならず先祖にも心よりの感謝が出来るのである。
(最後になって「士族出身者」にあるまじき下卑た事を書く様だが、其れで居てしょっちゅう「爆乳美人」と交われるPorno男優の仕事を羨ましく思う今日此の頃である。 
「無い物ねだり」をしてもしょうがないのだが・・・・・)

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav    All rights reserved       

リンゴ今から30年以上前の1990年代以来、我が家の経営する駐車場の庭と田舎の別荘の庭にはそれぞれ柘榴(ざくろ)の木が生えている。
これ等は元々知人の家から貰った柘榴の実の種を土に埋めたのが発芽したのを育て上げたのである。
かつては鉢植えだったのが地面に植えてから次第に大きくなり、今では両方共に高さ約5mにまで成長し、以来15年目頃から実を成らせる様になり、最近では両方の木で30~40個位の実を成らせるまでに至っている。

そして我が家の庭の多数の樹木の中で、特に存在感のある木になってくれている。
良くぞ種からここまで大きくなって、多くの花を咲かし、多くの実を成らせてくれる様になった物だと感心している。
イギリスでは貴族や富裕層を中心とした”Gardening”が大変盛んで、何と国民の5割以上がガーデニングを嗜んでいる程である。
English Gardenに於いて、草木は先ず観賞する事に重点が置かれるのだが、其の上そこで育った果実を食べる事が出来ると、更に楽しみが増え、庭園としての評価も上がるのである。
我が家の駐車場の庭では30種類以上の草木の内、葡萄、柘榴、梅桃(ゆすらうめ)、そして別荘の庭では梅、無花果(イチジク)そして(渋)柿が食用出来る。


リンゴ柘榴を学術的に解説するとミソハギ科ザクロ属の1種で落葉小高木で、ラテン語の学名は PUNICA GRANATUM、ドイツ語ではGranatapfel (+baum)、英語では Pomegranateと言う。

高さは5~6m位にまで成長する。樹皮は灰褐色から褐色で成長すると共に黒みがかって行く。

葉は楕円形から細長い楕円形で滑らかで幾分の光沢がある。

初夏の6月にい花が咲き、花弁は6枚で薄くて皴(しわ)がある。

9月~11月にかけて赤い球形の果実を実らせる。 

果実は花托(かたく)が発達した物で、熟すると大きさは直径約6~10cmで、重さは100~300g位になる。

い果皮は厚めで秋に完熟すると自然に不規則に裂けて、中から大量の赤い半透明の果肉の粒(中に種がある)が露になる。 

柘榴は既に紀元前の太古の時代から庭園に於ける観賞用に栽培されている。 

其の上、古代ギリシャの医学者Hippocrates (BC.460~BC.370頃) の記した書物の中に記述がある等、柘榴の実は同様に紀元前の時代より食用にもされている。     

果皮が裂ける品種は日持ちが良くないので、裂果しない品種が食用として栽培される。  

食べられるのは実の果汁が多く含まれる種子の外部を覆う部分でである。                         爽やかで甘酸っぱい味である事から現在ではジュース、果実酒、シロップ、そして清涼飲料水の原料としても利用されている。                                 主な栄養素としてはカリウム、カルシウム、マグネシウム、リン、ビタミンB1、B2、B6,C、ナイアシン、パントテン酸等を含んでいる。  

其の栽培地は中近東を中心に南ヨーロッパやアメリカ南部、中国、等広範囲に渡り、日本には平安時代の延長元年(923年)に中国から渡来したと伝えられる。 

鎌倉時代中期には栽培も始まっているが主に観賞用であった。

柘榴が広範囲に江戸時代で、其の果汁を菓子に用いたり、医薬品の原料としても利用され、乾燥させた樹皮または根皮は古くから除虫材薬として用いられていたし、更には口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられたという。                                   又、変わった用途では金属製の鏡の研磨の為にも使われた。                     

 

リンゴ柘榴も長い歴史の中で自然環境に適応して変化した物や、人為的に改良、交配によって出来上がった品種等、多数が存在する。

 

Arbrecht Dürer:  Kaiser Maximillian.Ⅰ 

デューラー作 「皇帝マクシミリアンⅠ世の肖像」

Hans Holbein d,Ä : Maria mit dem Kind einen Granatapfel 

ホルバイン作「赤子(キリスト)と柘榴を持つ聖母マリア」 


リンゴヨーロッパでは古来より柘榴は"Ewige Vornehmheit"「永遠の高貴さ」の象徴として愛好されている事から、キリスト教の宗教画の中の主Christ、又は其の聖母Maria、そして肖像画の分野では王侯貴族達が柘榴を持った姿で描かれている事が度々見受けられる。 

何故ならヨーロッパ各国の王室ないしは皇室にはKrönung-zeremonie(戴冠式)の際に国主が身に着けるKrone, Zepter, u, Reichsapfel があって、其の中のReichsapfelが柘榴に似ているからと考えられる。 

Preußische Krone, Zepter u, Reichsapfel

これ等は丁度、日本の皇室の「三種の神器」即ち「八咫鏡」(やたのかがみ)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)に相当する器物である。                                                                余も士族出身者としてヨーロッパの王侯貴族に習い、そして柘榴の色が我が最愛の色のである事から柘榴をい薔薇と並んで好んで何度も※テンペラで描いている。

(※膠を混ぜた水彩絵の具)                                                    

同じく絵画の分野で他の例を挙げると、17世紀オランダ絵画の静物画に於いて、果物は美味で栄養価が高けれども、腐り易い事や、悪い虫が付き易い等の短所から、所謂 "Vanitas-Symbol"(虚しさ、儚さの象徴)として描かれる事もあった。

 

リンゴ又、Symbolik(象徴学)やPsychologie(心理学)の分野で果物は女性的な性質を意味しており、特に球形の果物(例:メロン、林檎、梨、桃、イチジク、グレープフルーツ、等)は女性の(豊満な)乳房や尻を象徴しているのである。

一方で棒状の野菜、果物(例:人参、胡瓜、茄子、とうもろこし、バナナ、等)は男性の生殖器を象徴しているのである。                                                                        

オーストリアの心理学者Siegmund Freud(1856~1939)は人間が睡眠中に見る「夢」について深く研究し、其の中に出現する事物や人物、其の他の生物が、夢を見た人物にとって如何なる意味を表しているのかを詳しく分析し解釈していた。  (此れが所謂 "Traums Analyse und Interpretation"「夢の分析と解釈」である.)   

人間が活動している時には "Äußeres Bewußtsein" od, "Ä,Wahrnehmung" 「顕在意識」又は「顕在知覚」は主に日常生活ないしは現実社会の中に存在する物事、人物、其の他に作用している。                      

一方、眠っている時に "Inneres Bewußtsein" od, "I,Wahrnehmung"「潜在意識」又は「潜在知覚」が作用して、普段意識していない心の奥に潜んだ願望、欲望、其の他の「情念」が具体的に現れて来るのが「夢」なのである。                                     故に「夢」を分析、解釈する事によって、人間が普段自分で意識していないPersönlichkeit(人間性)が解明されるので、此れはPersönlichkeitsanalyse(人格分析)に於いて大変重要な学術なのである。  

 此の様にSymbolik(象徴学)やPsychologie(心理学)を元に分析すると、柘榴も球形の果物であるだけでなく熟すると割れる事から、更に女性を象徴する意味合いが強い様である。                                

余が色()の好みだけでなく、ラブ「爆乳美人」が大好きである事も柘榴に魅せられる原因なのかも知れない。
其れでも尚、余は前記の柘榴が象徴する通り "Ewige Vornehmheit"「永遠の高貴さ」を引き続き自らの人生に留めて置きたいと願うばかりである。

Kunstmarkt von Heinrich Gustav    All rights reserved                   

「地球温暖化現象」が深刻な環境問題として取り上げられて以来、毎年恒例の事だが今年も7月半ばの梅雨明け以来、凄まじき猛暑が日本列島に襲来している。
総務省消防庁報告データによると、全国で6月から9月の期間に熱中症で病院へ搬送された人数は、2010年以降大き く増加し、特に非常に暑い夏となった2018年には9万2710人、2019年に6万6869人、2020年に6万4869人と言う統計が出ている。
今年2023年の最近の同じ統計を見ると、6月27日~7月3日に4629人、7月4日~7月9日に3964人、7月10日~7月16日に8189人、7月17日~7月23日に9190人が「熱中症」で病院へ搬送されている。
詰まり4週間で計2万5972人が「熱中症」の被害を受けているのである!
毎年、消防庁や各自治体、そしてマスメディアでも「熱中症」への注意を促してはいるが、此の被害は一向に減少する様子は無い。
本日7月29日も、日本列島は高気圧に覆われて全国的に晴れ、午前中から強い日差しによって気温は上昇し、午前11時の時点で各地で36℃を超え、午後には更に上昇し、日中気温が40℃近くに迫る猛暑が続いている。
7月25日~29日までに全国の最高気温が5日連続で39℃以上となっている。
最早ここまで来ると、毎年恒例の「自然災害」と言っても過言ではない。
(同ブログの記事『熱中症予防とダイエットそして生活習慣病の予防の為に』参照)

 

個人的な事を書くと、余はウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで続けて今年で通算38年になる。
いつもの如く「自画自賛」する様だが、「よくぞ斯(か)くも長きに渡ってウェイトトレーニングを続けて来たものだ!」と我ながら感心している。
ドイツでの芸術大学時代(1991~95年)には芸大と同市内にある医学大学でも「特別受講生」として「解剖学」と「心理学」を学んでいたので、自分と家族の健康に人一倍配慮している。
田舎にある我がボロ別荘では、実家のある街中よりは風通しが良く、気温が4℃ないし5℃低いものの、ウェイトトレーニングに服を着用してでは、大量の汗をかくのでとても耐えられない。
故に短い水着とリストバンドだけを着用して運動をしている次第である。
通常は上記の田舎にある別荘でウェイトトレーニングをしているのだが、今年は1月に老朽化しきった当別荘(1957年建造)を新築の為に解体している。

故に友人に軽四トラックで我が館(実家)にトレーニングマシーン(2台)其の他のトレーニング器具を移設してもらい、4月初め以来、大広間(14畳)にて行っている次第である。

通常なら実家から6km離れた別荘に自転車で行って、少し雑用をしてからウェイトトレーニングを始める。 

自転車で15分程走るのはトレーニング前の準備体操になっているので、直ちにトレーニングを始めるのでは、どうも拍子抜けした気持ちになるのである。 

 

其れ故に余は自転車で館(実家)から別荘の丁度中間点(3km)に位置する郵便局の前をUターン、即ち往復6km走って実家に帰ってからウェイトトレーニングを開始するのである。 

本来なら安全の為、高温の中で激しい運動は慎まなければならないのだが、余はトレーニングをする大広間ではエアコンで冷房をせずに行っている。 

何故なら今まで38年間、別荘では1度も冷房をせずに行って来たからである。 

と言うのも別荘の有る田舎では実家のある町のど真ん中よりも気温が4~5℃程低いし、風通しも良いので問題は無い。 

其れでも極端に暑い時にはトレーニングの合間に浴室で水を浴びる様にしている。 

とは言えトレーニングの時間帯(午後6:00~8:30)でも室内温度が近頃では30℃以上あるので、トレーニングの1セットの合間の度にエアコンで除湿をした隣の居間に移って小休止している。 

いつもなら調度品の殆ど無い別荘で集中してトレーニングをしているのだが、我が館(実家)には地方の美術館を凌ぐ程の大量の美術工芸品のコレクションがあるし、而もトレーニングの合間にテレビを見ているので集中出来ないのではないかと思えるのだが、何故か不思議な事にトレーニングには十分に集中出来ているし、其れどころか別荘でトレーニングをしている時以上に時間に正確に行えているのである。(正直此れには余自身でも感心している。)

 

5月~6月にかけてはついつい夜更かしをする日が多かった為、睡眠不足が原因でトレーニングをする時間になっても眠気が残っていたり、軽い神経痛や眩暈があったり、気分が優れない事もあった。
流石に此の年になると夜更かしは日常生活にも悪影響なのである。

(言い訳をする様だが)絵を描いているとどうしても就寝時間が遅くなってしまい(午前2時)、其の分だけ起床時間も遅くなってしまう(午前9時)のである。

7月になって以来夜更かしを辞めた御蔭で、猛暑の日々が続いても健康状態は良好である。
医学的理論では所謂REM(Rapid eye movement)Phase と呼ばれる午後10時から午前2時までの4時間が最も熟睡できる時間帯なのである。
故に此の時間帯に睡眠を取れば、6時間以内の睡眠でも十分なのである。
俗に「早寝早起き」が良いと言われるのは其の為である。
余は医学知識を元に健康管理をほぼ完璧にしているつもりではあるが、「遅寝遅起き」が唯一の欠点なのである。

 

余にとっては芸術制作、研究及び活動は信念と生き甲斐を持って行っている事なので、其れに関して嫌気もストレスも感じる事は無いのである。
制作途中で厳しいと感じる事はあっても、其の分だけ作品を完成した時の満足感と充実感は大変な物である!(作品の完成度には成程今でも満足しているが、最近は以前より集中力が幾らか落ちている。)
ウェイトトレーニングに於いても同様で、激しい運動をしたからと言って報酬がある訳でもないし、ただ好きでしょうがないからこそ続けられるのである。
又、スポーツの継続によって栄養を正しく摂取する事や規則正しい生活も常に意識して続けられるし、其の上此れだけ厳格な鍛錬を積んでおけば、自分の肉体、精神共に絶対的な自信が持てるのである。
正にラテン語の諺”ANIMA SANA IN CORPVS SANVS”(健全な精神は健全な肉体に宿る)の如くである。
長年に渡るレーニング及び大学等で学んでいた医学知識の御陰で、脳年齢は4種類のチェックテストを受けた結果は平均25歳であるし、視力も両眼1.5あるし、毛髪も同世代の女性よりも本数が多いし、今だに身長173cmでスリーサイズはB:105、W:68、H:93(cm)、上腕周り:37cmを維持している。

(同ブログの記事『久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事、及び我が容姿について』並びに『100m走への我が思い出、そして我が心の2つの大きな支え』参照)

 

高温の時に仕事ないしはスポーツ等の運動をしていると筋肉(特に下半身)の痙攣が起きる人がいると言う報告を聞く事がある。

其の原因は、大量の汗をかく事によって体内の塩分(NaCl2)が放出されて、筋肉内の塩分が不足する為である。 

其の上、水分を大量に摂取すると体内の塩分が薄くなるので、運動中の水分摂取は過度にならない様に気を付けなければならない。 

故に余はトレーニング中には水分を補給せず、其れを終了させた直後にする様にしている。 

テレビのニュース、特別番組等でも熱中症対策として「水分補給を十分にして下さい。」と呼びかけているが、飲み物なら何でも飲めば良いと云うのではない。 

「民間療法」で夏バテ予防に効果のある食物として、卵、豆腐、葡萄、枝豆、トマト、西瓜、南瓜、柑橘類、鶏肉、豚肉、牛肉、鰻、等が言い伝えられているし、飲み物としては麦茶も良いと言われているが、実際の処、牛乳は更に効果的なのである。 

牛乳はアミノ酸の形成に優れた良質のタンパク質、乳化脂肪、乳糖、炭水化物、ビタミンA、B2、カリウム、カルシウム、リンを豊富に含む、栄養のバランスの取れた飲料である。 

故に余は毎回トレーニングを終えた後、黒豆ココア牛乳蜂蜜を入れて飲んでいる。
因みに蜂蜜は、ビタミンB1、B2、B6、C、K、アミノ酸、酵素、葉酸、ニコチン酸、パントテン酸、ビオチン、ミネラル類のカリウムを多く含む他、ナトリウム・カルシウム・マグネシウム・リン・亜鉛・鉄・銅・マンガン等の多種多様の栄養素を豊富に含む、非常に栄養価の高い健康食品である。
又、蜂蜜のカロリーを砂糖と同じ量100gで比較すると、上白糖が384kcalであるのに対し、蜂蜜は294kcalとより少ない。
蜂蜜の主成分はブドウ糖と果糖で、これ等は構造が単純な糖類なので、体内に入れば短時間で腸壁から吸収されて血管に伝わり、胃腸に負担を掛けずに栄養分となる。
此の様な特徴から、スポーツ、肉体労働後、又は病気による肉体疲労に対し、即効的に栄養を吸収出来るので、急速で効果的な疲労回復が可能なのである。
又、スポーツドリンクの中でもプロスポーツマンにとって最も重要な栄養素タンパク質の構成要素であるアミノ酸、及び塩分を補給出来る物が理想的である。

 

余は一昨年以来、ミツカンが製造販売している「黒酢の清涼飲料水」をも飲む様にしている。 

此れは国産玄米100%で生成した黒酢にりんご、ブルーベリー

、又は柘榴果汁、其の他を混合した機能性表示食品の一種である。 

の歴史を調べて見ると、人類が作った調味料の中でも最古の物であると伝えられている。 

蓄えていた果物が自然にアルコール発酵し、そこに菌が働いて酢が誕生したと推されれている。  

の起源は非常に古く、「旧約聖書」にも飲み物として登場している。  

文献では、紀元前5000年頃のバビロニアに記録が残っており、紀元前4000年頃にはワインやビールから酢を造ってPickles(胡瓜の漬物)を作っていた。 

古代ローマでは”Posca”と言う酢を水で割った清涼飲料水が飲まれていた。

古代ギリシャでは高名な医者 Hippocrates が病後の患者に健康回復の為に酢を飲ませていた。

古代中国でも周の時代には漢方薬の一種として重宝されていた。 

中世のフランスではPestが蔓延して大勢の人々が病死していた頃、1部の人が酢にハーブやスパイスを混ぜた飲み物を飲んで感染を防いでいたと言う伝説がある。 

15世紀~17世紀前半頃の「大航海時代」では、ビタミンCの欠乏によって起こる壊血病の予防の為、野菜を酢やスパイスで漬ける事が盛んであったと伝えられている。

ドイツでも伝統料理の代表としてSauerkraut(酢漬けキャベツ)に Saure Gurken( 酢漬け胡瓜)がある。

日本では4~5世紀の応神天皇の頃に中国より伝来し、此れを元に和泉の国(現在の大阪府南部)で造られる様になったのが始まりとされている。 

又、酢の健康効果・効能としては、食欲の増進、疲労回復、内臓及び血中脂肪の抑制、高血圧の抑制、癌の抑制、ダイエット(食餌療法)、腸内環境の改善、便秘の改善、美肌効果、等が挙げられる。 


健康管理に於いて余が大切にしているElement(要素)として上記のPhysikalisches Element(物理的要因) だけでなく、更にGeistiges od, mentales Element(精神的要因)も同様に重視している。
過去の歴史の中で多くの哲学者、思想家、文学作家、心理学者の方々が共通して述べられている事だが、「人間の幸福とは本人の考え方や心得、ないしは気持ち次第でどうにでもなる。」と言う事である。

(同ブログの記事『世界の幸福に関する格言、名言集』参照)

 

此の格言はあたかも心理学で言う"Selbstkontrolle"(自己制御)又は「自己暗示」の様だが、要するに人間は自分が成りたい様な人間に成って行く者なのである。
余自身を実例に挙げると、どうしようもない”Narzisst”(自惚れ屋)で、自分の彫の深い端正な美人顔や長年ウェイトトレーニングで鍛え上げた超筋肉質の裸体に毎日見惚ているのである。
そして本業である芸術家(画家)として自分がやりたい事を思う存分成し遂げて、自分の理想以上のErfolg「成功」、Lobpreisung「賞賛」、Gloria「栄光」そしてEwigkeit「永久」と言う美徳を獲得出来たのである。

(本ブログの『プロフィール』参照)

 

これ等を獲得出来た最たる理由は余が自分なりのIdee「理想」、Selbstvertrauen「自信」、  Entschloßenheit 「断固たる意志」を持ち、そして優れた良き御仁達のUnterschtützung「支持」を得られたからである。
これ等の事から余は此れまでの我が人生を振り返って見て余りにも幸せで恵まれていたと言わざるを得ない。
詰まりGeistige od, mentale Gesundheit"(精神的な健康)とは他人からの指示や影響によって形成されるのではなく、あくまで「自らの意志」で形成するのである!
(同ブログの記事『新時代「令和」の到来と「平成」時代を振り返って』及び『自分思考型人間と他人思考型人間』参照)

 

参考に世界の国民意識を比較しても「自分に満足している」更に「自分の意志や決断力に自信を持っている」と言う人の割合は欧米諸国ではゆうに80%を超えているのに対し、日本では約40%代と突出して低い。
これ等の統計からも日本人は欧米人に比べて「自己肯定感」の低い国民である事も判然としている。
又、今日の日本人は先進国の中で「幸福感」や「自己満足度」が最も低いとの統計も出ている。
其れとは対照的に余は家の十分な財産と5種類の不労所得の御蔭で何不自由無く生活出来る上、骨の髄までNarzisst(自惚れ屋)なので、とても此の様な精神構造は理解出来ないが、彼等には誠に気の毒な状況であると思えてならない。

其れでも”Selfdiscount”と言う言葉の如く、自分を否定したり卑下したりする者は永遠に「成功」も「幸福」も手に入れられない。 故にこんな事は決してしてはならないのである!
如何なる場合にも、自分に目覚める事(Selbstbesinnung)、

自分を認める事(Selbsterkennung)、自分を信じる事(Selbstvertreuen)は必要なのである!

7月31日の追伸:
7月24日~7月30日に全国で「熱中症」で病院へ搬送された人数は遂に1万1765人にまで登った! 一週間の搬送患者数が1万人を超えるのは今年初めてとなった。
此の数は去年の同時期と比べても1.8倍にもなっている。
6月27日から数えると計3万7737人となっている!
願わくは今後の猛暑による被害が最小限に抑えられる事を祈りたい。
10月の追伸:
最終的に今年5月から9月までに「熱中症」で病院へ搬送された人数は何と9万1467人にまでに達した!
此の驚異的な統計が如何に今年の猛暑日が苛烈且つ多かったかを象徴している。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

広島カープの「黄金期」にエースとして活躍し、カープ一筋に努めて球団最高記録の213勝を挙げ、「名球会」入りした北別府学さんが今6月16日午後0時33分、入院して治療を続けていた広島市内の病院にて享年65歳で御逝去された。 

北別府さんは既に2020年1月に御自分のブログで「成人T細胞白血病」(ATL)を患われている事を公表されていた。 

此の病気は言わば全身を循環する血液の癌であるので、現代の医学を以てしても治療する事が極めて困難である故に、昭和52年以来カープファンである余もいつか悲しい知らせを聞く事になると覚悟を決めていたのだが、其れでも北別府さんには出来る限り苦しむ事無く延命してもらいたいと祈っていた。 

とは言え昨日訃報を聞いて何とも言えない悲痛で寂しき思いに駆られたのである。 

今となっては、かつての彼の現役時代の雄姿を思い出しながら心からの御冥福を祈るばかりである。 

 

此度、北別府さんが御逝去されて、広島カープの「黄金期」(昭和50年~61年)を築き上げた以下の監督、選手の方達が既に7人も御逝去されている事になっているのは往年のカープファンにとっては誠に悲しく寂しい限りである。 

1993年7月、津田恒実さん(享年32歳) 

2009年11月、三村敏之さん(享年61歳) 

2018年4月、衣笠祥雄さん(享年71歳) 

2021年1月、高橋里志さん(享年72歳) 

2021年4月、Adrian Garrettさん(享年78歳) 

2021年11月、古葉竹識さん(享年85歳) 

(同ブログの以下の記事参照)

 

 

 

北別府さんは1957年(昭和32年)7月12日に鹿児島県・曽於郡・末吉町の農家に生まれられた。 

実家が農家であった事から隣の宮崎県の都城農業高校へと進学された。 

其れ以来、毎日実家から県境を越えて学校まで何と20kmもの距離を自転車で通学していたそうである。(しかも3年間無遅刻であった。) 

更に実家に帰宅したら直ぐに制服から私服に着替えて、飼育している牛の世話をしていた。 

「家にいる限りは此れが僕の仕事ですから。」と言って当然の如く家業を手伝いながら野球に打ち込む純朴で直向きな姿勢は感動的であったと、当時を知る報知新聞社の記者であった駒沢悟さんは書き記している。 

 

余も小学校の頃より当時の「プロ野球年鑑」で北別府さんの其の様な経歴を読んで知っていたので、自身がドイツに於ける大学時代(Kunstakademie Dresden 1991~95年)に学校の所在地Dresdenから北東に約17km離れた村 Liegau-Augustusbadに住んだ前半の2年間は、北別府さんを見習って同様に自転車で通学したのであった。 

しかし93年に大家で友人のH.Barthelさん(1938年生まれ)が余の冬休みに帰国していた時に突然の事故で亡くなられてしまった事で、急遽 Dresden市内のStudentwohnheim(学生寮)に転居する事を余儀無くされてしまった。 

DresdenはKessel(盆地)に位置する都市なので、郊外の Liegau-Augustusbadとの間の道には合計約5kmの坂があった。 

当時の余の通学法を知っていた当大学の職員の方は>Es ist so ein Sport !<(其れはまるでスポーツだね!)と感心してくれたのであった。 

当時此の様な事を続けられたのも、北別府さんの「頑張り」を子供の頃から知っていたからである。 

そして「初老」と言われる様な年になった現在でも尚、週5日は実家から6km先にある田舎の別荘まで自転車で走り、ウェイトトレーニングをして再び家に帰る事を通算38年も続けられているのも、往年のカープの偉大なる名選手・衣笠さんと北別府さんの御陰であるとも言えるのである。 

 

北別府さん高校卒業後、1975年ドラフト1位指名で広島カープに入団した。 

奇しくも此の年はカープが球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた年であった。 

新人の年であった翌1976年に初勝利を挙げて以来其の頭角を現し、「精密機械」とか「針の穴を通す」と形容される卓越した制球力と多彩な切れのある変化球を武器にして勝ち星を量産して行かれた。

1978年以来11年連続で2桁勝利を記録し、79年には17勝を挙げてチーム初の「日本一」に貢献した。 

1982年には自身初の20勝を挙げて「最多勝」「沢村賞」を獲得、1986年には18勝を挙げてチーム5度目のリーグ優勝の原動力となり、再び「最多勝」「沢村賞」更に「最優秀防御率」「MVP]をも獲得した。 

1992年7月16日、遂に「名球会」の登龍門である通算200勝を挙げられた。 

広島カープ一筋に19年間、其の大部分をエースピッチャーとしてプレーし、1994年に現役を引退された。 

通算成績は515試合登板、213勝、141敗、5セーブ、135完投、28完封、1757奪三振、防御率3.67である。 

 

当時のプロ野球の選手のみならず、野球ファンなら誰もが知っている事だが、北別府さんの投球術とコントロールは誠に無類の物であった。
今日、日本のプロ野球でも150kmの速球を投げられるピッチャーはざらにいるし、アメリカのメジャーリーグでは更に160kmを超える剛速球を投げるピッチャーまでいる状態である。
しかし北別府さん程の制球力を持つピッチャーは日本及びアメリカですら見受けられないのである。
現役時代最も長くバッテリーを組んだ名捕手・達川光男さんが語ってくれた興味深い逸話がある。
「ホームベースの上に3つの空き缶を立てて、「おいペイ(北別府さんの渾名)よ、球ほおってあの空き缶倒してみい。」と言ったら、3球で全部倒してしまったんです。」
其の他、当時対戦した他チームの多くの選手達も北別府さんの制球力と変化球の切れには翻弄され、感服したと言っている。

「球速は決して速くはなかったので、いつか打てるだろうと思っていたら、気が付くと最後まで抑え込まれてしまっていた。」と言うのである。
又、主審判の立場から見れば北別府さんは非常に判定しにくいピッチャーであったらしい。
本人が「僕は現役の頃、ど真ん中に投げた事が無いんです。」と言う様に、彼は相手バッターがまともに打てない様なストライクゾーンのギリギリを突いて投げる事が常であったからである。
野球のルールでは投げられたボールがストライクゾーンに半分以上収まっていれば、ストライクと見なされるからである。
そしてスライダー、シュート、カーブ等の変化球の「切れ」も大変な物であったし、投球に緩急のメリハリを付けて相手打者とのタイミングを外す事も巧みであった。
故に相手バッターは容易に捉える事が出来なかった様である。

 

北別府さんは自分のピッチングについて、「僕は投球の際に最も気を使っているのが「不動心」と「投球フォーム」なんです。」と言っている。
不動心」とはたとえ相手が名だたる強打者であろうと、如何なるピンチに接しようとも、決して精神的に動揺せず「泰然自若」の境地で、粘り強く投球を続けて切り抜けると言う事である。
実に彼は現役時代に対戦したセ・リーグ各球団のクリーンアップ(3,4,5番バッター)を平均被打率1割台に抑え込んでいるのである。
又、北別府さんは「投球フォーム」を試合前から毎回徹底的にチェックしていたらしい。
ほんの僅かでもフォームに狂いがあると彼最大の武器であるコントロールに乱れが生じるからである。
スポーツの分野は違えども余は長年続けてきたウェイトトレーニングや(打撃型)格闘技の練習、並びにドイツの医学大学でも特別受講生として学んだ経験を通じて、フォーム(型)を常に正確に整える事が如何に大事な要素であるかを身を以って知っている。
故に同様にフォームを正確に保持する事に常に注意を払っている。
いずれのスポーツでも間違ったフォームで運動を続けていると、運動機関(筋肉、骨、関節、腱)を鍛えるどころか反(かえ)って痛める事になってしまうからである。
此れは肉体労働に於いても同様で、悪い姿勢で仕事を長期間続けていると、身体を慢性疲労で痛め易いので注意が必要なのである。

広島カープの「黄金期」の主力選手の中では、当時連続試合出場の世界記録を樹立した「鉄人」こと衣笠さんが丈夫な選手の代表格であったが、投手部門では北別府さんが丈夫な選手の代表格であったと言える。
現役19年の間、殆ど故障する事無く試合に登板し続けたからこそ、213勝と言う大記録を成し遂げられたのである。
此れも北別府さんが本来の優秀な体力の上に「投球フォーム」を毎回徹底的にチェックしていた事の賜物であると言える。
 

北別府さんは其の抜群の制球力から「精密機械」と喩えられたが、実際は(鹿児島県人らしく)心も熱く(蟹座らしく)情の深い面倒見の良い人であった。
「カープが強かったから成績を挙げられましたし、チームメイトにも恵まれました。怪我も無かったし、親に感謝したいですね。」と周囲への思いを述べられていた。
現役引退後は「残りの人生で野球界の為に尽力していきたいですね。」と言われた通り65歳の生涯を終えるまで、1995年からは解説者として、2001~04年まではカープのピッチングコーチも務められた。
2012年には「野球殿堂」に競技者表彰のプレイヤーとして選出された。
誠に日本プロ野球の歴史に永遠に残る「エースピッチャー」の称号に相応しい大投手であった。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

1966年に制作された”Macaroni Wesrern”(イタリア製西部劇)の傑作 “The Good, the Bad and the Ugly” (日本の公開名「続・夕陽のガンマン」)の中に以下の興味深い台詞がある。 

「世の中には2通りの人間がいる。首に縄をかけるヤツと(其れを)切るヤツ。」(捕まるヤツと其れを助けるヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。友達の多いヤツと孤独なヤツ。」 

「世の中には2通りの人間がいる。ドアから出入りするヤツと窓から出入りするヤツ。」(まともなヤツとまともじゃないヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。弾の入った銃を持つヤツとスコップで土を掘るヤツ。」(命令するヤツと服従するヤツ。)
心理学の分野でも人間を2種類に大別すると、「自分志向型人間」(又は「内部志向型人間」)と「他人志向型人間」となる。 

 

アメリカの社会学者David Riesman(1909~2002)は、西洋社会の長い歴史に対応して、それぞれの時代に於ける社会通念を以下の3つに分類している。 

前近代(中世~15世紀):伝統志向型 

近代(16世紀~第二次世界大戦):内部志向型 

現代(第二次世界大戦後~今日):他人志向型 

更に日本の心理学者・南博先生は其の著書「心理学がわかる事典」の中で、上記の3つの志向型(Mentalität)を次の様に解説されている。 

伝統志向型」:人々の行動の原理が専ら伝統とか習慣とか言う既存の価値観に求められていた事を示しています。「封建時代」に代表される前近代の人々の同調様式の特徴はこう言う物でした。 

内部志向型」:近代になりますと、人々は自分達の行動を律する指針として、「神」とか「良心」とか言う内面化された価値を選ぶ様になりました。 彼らは丁度自分の中にジャイロスコープ(羅針盤)を持っている様な者で、その針の指し示す方向に自分の行動を向けて行った訳です。 

他人志向型」:それに対して、現代人と言うのは行動の原理として周囲の他人の意見とか他人の反応、価値等を手掛かりにする様になりました。  詰まり、あたかもアンテナやレーダーを張り巡らして、それによって他人がどう考え、行動するかを素早くキャッチして自分の行動を調節する様になったと言う訳です。 

 

参考に日本の内閣府が2009年に公表した「世界青年意識調査」(18歳から24歳が対象)では、「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ。」と考える人の割合は以下の通りの統計が出ている。 

アメリカアメリカ: そう思う;約49%、どちらかと言えばそう思う;約32% 合計:81% 

イギリスイギリス: そう思う;約61%、どちらかと言えばそう思う;約30% 合計:91% 

フランスフランス: そう思う;約66%、どちらかと言えばそう思う;約27% 合計:93% 

此の様に欧米人の大多数の人々が「個人の自由」を肯定しているのとは逆に日本日本では、そう思わないが約41%、どちらかと言えばそう思わないが約28% 合計:69%が「個人の自由」を否定しているのである。 

此の事から西洋人(白人)は断然「自分思考型」の人間が多いのだが、其れとは対照的に日本人は「他人志向型」の人間が過半数をゆうに占めているのが判る。

 

参考に「自分に満足している」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本日本: 約45%

アメリカアメリカ: 約87% 

ドイツドイツ: 約91% 

イギリスイギリス: 約80% 

フランスフランス: 約85%

まじかるクラウンスウェーデン: 約89% 

更に「自分の意志や決断力に自信を持っている」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本日本: 約42%

アメリカアメリカ: 約86% 

ドイツドイツ: 約91% 

イギリスイギリス: 約82% 

フランスフランス: 約85%

まじかるクラウンスウェーデン: 約90% 

これ等の統計からも日本人は欧米人に比べて「自己肯定感」の低い国民である事も判然としている。

対照的に欧米人は分相応の考えや希望を持ち、其の中で自信を持っていると言える。                    此の中でも特にドイツドイツまじかるクラウンスウェーデンの「自己肯定感」が高いのが興味深い。
 

因みに余自身は日本人としては珍しく、「非道徳、非合法でなければ何をしようとも個人の勝手(自由)だ!」と確信する、完全な「自分思考型人間」なのである。 

余がとことんまでに「自分思考型人間」である原因を自己分析してみると、先ず余が清和源氏の流れを汲む「士族」の家柄の出身である故、少年時代より「自分は庶民、平民と同類であってはいけない!」と言うAnachlonistischer Stolz(時代錯誤的な誇り、又は高慢)を抱いている事がある。 

次に自分がKünstler(芸術家)と言う強烈なIndividualität(個性)、 Identität(自分らしさ)そして Eigenschaft(独自性)を必要とされる特別な仕事を志し、就いてしまった事がある。 

これ等のElement(要素)無くして「芸術家」の人生は成り立たないと言っても過言ではない。 

そして前述の「自分思考型」の人間が圧倒的に多いヨーロッパの中央に位置する国ドイツに学業と仕事で足掛け13年も住んだ事である。 

此の国で生活して、余の「自分思考型」の Mentalität(志向型、又は思考型)は更に強まり、此の事が正しいと確信したからである。 

 

自分思考型人間」はMentalität(志向、又は思考)の軸が「自分自身」にあるので、外界や社会や他人が如何なる状況であろうと、これ等から余り影響を受ける事が無く、独自の判断、そして独立した行動が出来る。
一方で、其の思考、判断、そして行動が社会通念から逸脱していると、場合によっては異端者、奇人、変人とも見なされる事すらある。


ドイツの高名な精神科医で心理学者のErnst Kretschmer先生(1888~1964)は人間のCharakter(性格)をPykniker(躁鬱質)、Leptsomer(分裂質)、Athletiker(スポーツマン質)、 Nervös(神経質)、 Paranoische(過信質)、そしてHysterische(ヒステリー質)の6種類に分類し、これ等の人間のCharakter(性格)がKonstitution(体形)と密接な関連がある事を提唱し、理論と実例に基づき証明したのである。
又、Kretschmer先生は特に「天才」と言われる人間を高く評価し、彼等の独特のPersönlichkeit(人格、人間性)について研究し、其の内容を大著書"Die Genie"(天才)の中で克明に書き記されている。
其の中でKretschmer先生も、天才とは極端なまでに「自分思考型人間」である事を実証する事例をいくつも記述されているのである。
余も個人的な研究で、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と呼ばれる人々のBiographie(人物伝記)を数多く読んで来たが、これ等の人物達はKretschmer先生が提唱されている通り、卓抜した才能、知能を有するだけでなく、強烈なIndividualität(個性)、とSelbstbewußtsein(自己認識)を持っており、其の思考、判断、行動に於いて他人や外界から影響を受ける事が一般の凡人より遥かに少なかった様である。

 

其の様な意味では社会的に多数派を占める「他人志向型人間」は前記の、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と比べて、平凡、無個性であるとも言える。
しかしながら「他人志向型人間」は社会が平和で安定して裕福な時には、社会通念も比較的、理性的で良心的なので、人間も他者に対する思いやりや配慮も出来るので、「集団の力」によって良い方向へと発展して行くのである。
一方で「他人志向型人間」の悪質な例を挙げると、社会の異常事態(例:戦争、動乱、自然災害、経済、又は食糧危機)が到来した時、周囲の人間が生活に困窮して、窃盗や詐欺等の犯罪を働いているから自分も同様にする「模倣犯」と言うのがある。
此の様に「他人志向型」と言うのは社会や周囲の人間が道徳や法律や秩序を守った行動を取っていれば正しく作用するのだが、逆に周囲の人間が其の反対の悪質な行動を取ると、大変危険で有害なMentalität(志向、又は思考) になり得るのである。
又、幾人かの心理学者や社会学者やフィナンシャルプランナーの方々が述べられている事だが、知能の高い人や高学歴の人、そして「富裕層」の人には思考に於けるVielfältigkeit(多様性)があり、 Inprovisations fähigkeit(臨機応変の能力)にも秀でているのである。
逆に低能、低学歴や臆病者、そして「貧困層」の輩(やから)程、思考が短慮、低俗で、尚且つ「同調圧力」に屈し易い傾向があるそうである。
増してや世界中の人間が呆れる程、日本国内ではびこる「同調圧力」に対しては、余は武力(暴力)を行使してでも撃退したいと思うし、諺の「出る杭は打たれる」の如く、人を抑え込もうとする者は頭を殴り割ってやりたいし、又は「足を引っ張る」者は踏み潰してやりたいと思う程、激しい拒否感を感じるのである!

 

日本人の一般的なMentalität(志向、又は思考)では「世の中の人間が皆悉く「自分思考型人間」ばかりになっては、自分勝手な人間だけが横行して、社会が支離滅裂になってしまうのではないか?」と思えるかも知れない。
其れとは逆に、余は極端な「自分思考型人間」として、世の中の人間が誰も彼も似たり寄ったりでは、あたかもSF小説や映画に出て来るAndroidや Clone人間の様になってしまい、Individualität(個性)もEigenschaft(独自性)もInteresse(面白味)すら無い無味乾燥な世の中になってしまうと思えるのである。
諺の「人の振り見て我が振り直せ」の如く、特に優良な人物を「手本」として見習い、劣悪な人物を「反面教師」として見習う事は成程良き事ではある。
しかし、人間個人個人にとって自分の人生は、お釈迦様の御言葉「天上天下唯我独尊」の如く、此の世で唯一無二の存在なのである。
だからこそ単なる他人のCopyや模倣で終わるのではなく、Menschenwürde(人間の尊厳)の元素となるIndividualität(個性)、Identität(自分らしさ)そしてEigenschaft(独自性)も形成して保持する事も必要なのである。

あるÄsthetiker(美学者)や Kunsthistoriker(美術史家)は「どこにでもある様な絵や、誰にでも描ける様な絵には価値が無い。」と主張している。
即ち「非凡」又は「類稀」(たぐいまれ)な人物や物にこそ高い価値があるのである。
此れは芸術の分野のみならず、人間社会に於ける他の様々な分野でも同様の事が言える。
(例:人間では天才、秀才、美男、美女。 金属では貴金属。 石では宝石。 製品では限定生産品。)
日本人に多く見受けられるMentalität(志向、又は思考)の1つとして、(大多数の)他人と同じ物を持っている、ないしは同じ事をしていると安心する、と言うのがある。
しかしながら前述の美学上の理論、定義の上では、大多数の人々が持っている物や、行為は言い換えれば其れは平凡で有り触れていて価値が少ないと言う事になる。
更に手厳しい表現をするなら、其の様な価値の少ない物や行為で満足する人も同様に価値が少ないとも考えられるのである。

余も此の理論、定義にはKunstmaler(画家)になる事を決心した時から共感しているので、自分の作品は誰にも真似の出来ない、他の追随を許さない程の品質、内容でなければならないと心得て制作している。
そして平凡な画家では及ばない様な他の芸術分野、即ち文学、哲学、デザイン、建築、等の分野でも作品を制作して来ている。
 

余談として書くのだが、余は幼少の頃より他人(又は凡人)と同じ事をする(又は真似をする)事は凡下な行いであるとして軽蔑していたし、集団の中で群れる事も弱者の行いであるとして見下していた。
例えば余の少年時代の男子の髪型とは大抵、所謂「スポーツ刈り」か「毬栗(イガグリ)頭」であったが、余は1人だけかつてのイギリスのバンドグループ"Beatles"の様な髪形であった。(❖今では女の子の様な"Bob Hairstyle"。)

当時の男子が皆白いシャツを着ていても、余は1人だけ「服」であった。(❖此れは今でも変わらない。其れどころか下着までになっている。)
又、当時の男子が半ズボンだったのが、余は此れ又1人だけ長ズボンを履いていた。(❖ところが今では女物のShort Pantsを愛用している。)
其の他、高校生の頃から18KのNecklessとPendantを着用している。(❖今では自分の誕生石Saphirの付いたGold、White Gold、Platina製のPendantを12個も持っている。)

つい最近では新型コロナウィルスが大流行した2020年から現在に至るまで、(生理的に受け付けないので)マスクを全く着用していない。
其のくせ親しい者の家以外の場所に外出する時には、必ず手袋を着用して行く。(❖実は手足にのNail Colourをしているのを他人に見られたくないからである。)
此の様に一人だけ周囲と異なる髪形、服装をして、集団に属さない"Einzelgänger"(一匹狼)又は "Sonderling"(変わり者)であった。
にも拘らず余は家柄や財産、そして容姿の美しさに加えて、「お絵描き」と「暴力」だけは無類に長けていたので、苛めに遭う事は無かった。
普通の日本人が此れを読めば、「風変わりな人だ!」とか「社会に適応出来ないんじゃないの?」と思われるかも知れない。
其れでも余は自ら誇れる事として、少年時代から「自分を偽らない」、「望みと目的は必ず成し遂げる」、「弱い者を苛めない」、「意地汚い卑劣な事をしない」と言う項目(又は誓い)は今でも尚守り続けているのである。

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved