Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

本日16日がドイツの大作曲家Beethovenさんの御誕生日である事、そしてつい此の間、フランスの画家Utrilloの没後70周年を機に記事を書いたばかりなので、ふと思い付いたのだが、余が敬愛する大芸術家達の中に何と6人も12月生まれの方々がいるのである。

因みに我が母上も12月18日が誕生日である。

余は少年時代より歴史に名前と作品を残す「天才」「偉人」「英雄」「人傑」等の伝記や経歴、そして彼らの格言、名言を読む事が大層好きであった。

其れだけに彼らの生年月日を自ずから覚えてしまうのである。

そして大変有難き事に、これ等は我が人生に於けるVorbild(手本)やWegweiser(道しるべ)に成ってくれているのである。

更に我が先祖や親の加護もあって、御蔭様で余も幸運で恵まれた、望み通りの悔いの無き人生を送る事が出来た!

晴れ王冠1カラーパレットダンベル鉛筆宝石赤

彼らに関して余は今まで本ブログ内に以下の通りの記事を書き記しているので、参考までに御覧頂きたい。

 

12月2日:Georges Seurat(1859~91年)  

  G.Seurat :   "La Parade de Cirque" (1887~88)

フランスのNeo-Impressionism「後期印象派」に属する画家で    Pointillismus(点描法)の創始者。

Seuratは彼の親友の画学生Aman Jeanと共に美術学校を辞め、独自の様式を確立させる為に科学者Dove、H.v.Hermholz、J.C.Maxwell等の著したChromatik(色彩学)の本を読む事で理論的知識を深めて行った。
1882年、23歳頃には彼独自のPointillismus(点描法)を確立させた。
それまで絵筆で画面に大量の絵の具の「点」を打つ事によって描く技法は前代未聞であった。
人間が先人の成した事を受け継いだり、模倣する事は簡単だが、自ら前例、手本無しで物事を創り出す事は誠に難しいのである。
凡人は他人が既に通った道を通る。天才は己の道を自ら切り開く。」(我が格言集より)
又、我がPreußen御出身の大天才哲学者I.Kant先生(1724~1804年)は「天才の第一の素質とはIndividualität(個性、独創性)であり、其れは規則によって学び取れる熟練の能力ではない。」と定義付けておられる。
そして、天才の仕事(作品)はしばしば彼の生存中は正当に評価される事が少なく、寧ろ後世で高く評価され、社会に大きな影響や貢献をもたらしているのである。

(Seuratの人生も此れに該当している。)
実にSeuratのPointillismus(点描法)の理論と技術は現代社会に於いて印刷物の画像、テレビ等の映像に応用されているし、彼の作品も他のImpressionismus(印象派)の画家E.Manet、C.Monet、 A.Renoir 、E.Degas、C.Pissallo、 P.Cezanne等と同様に高い評価と人気を保っている。
そう云う意味でSeuratは僅か31歳の短い生涯ではあったが、誠の天才であると言える。

 

12月11日:Hector Berlioz(1803~69年)

フランスの作曲家でRomantiker「ロマン派」の先駆者。

主に Cantata、Symphonie、Opera、Oratorio、Requiem、 TeDeum等の大規模な管弦楽作品を手掛ける。

Berliozは開業医の息子として生まれ、両親の希望で最初は医学大学で学んでいたのだが、音楽への情熱を捨て切れず、医学を断念し音楽大学へ進んだ。

そして作曲家としてデビューするも、彼の個性の強い革命的で巨大な管弦楽作品はなかなか世間で好評を得られず、費用ばかりが嵩張り、48歳になるまで借金生活を余儀なくされたと云う経緯がある。

余は彼の此の様な失敗を本で読んでいたので、自分は似た様な失敗をしない様に心掛け、展覧会は出来るだけ費用の掛からない様に、尚且つ運搬し易い様に全てを合理的にまとめて来た。

しかしながら余個人的には、芸術家の真の勝利、成功とは苦悩や困難を乗り越えて獲得する物だと思っている。

そう言う意味では Berliozの晩年の"Légion d'honneur"勲章(4等)の叙勲、そしてヨーロッパ諸国、其の他の国々での演奏、録音、等の後世の勝利、成功こそ誠に偉大で永遠の価値ある物であると思われるのである。

其れに引き換え余の経歴と言えば、ドイツの地元Brandenburg州でデビューして以来、20回も日独両国で常に公共事業としての個展を開催し、いつも賞賛されるばかりであったから、全く世の中で甘やかされて来たとしか言い様が無い。

故に余は天性の才能と(長年鍛えた)肉体的な強さはあっても、意外と逆境に弱いかも知れない。

そう言う意味で余は苦悩や困難を乗り越えて勝利、成功を獲得した過去の天才、英雄、偉人、人傑に憧れてしまうのである。

(とは言え当の御本人は大変であったと思われる!)

 

12月14日:Pierre Puvis de Chavannes( 1824~98年)

  P. Puvis de Chavannes :   "Le fleuve"  (1864)

Pierre Puvis de Chavannes  :   Le Bois sacré  (1884)

  P. Puvis de Chavannes :   "Inter artes et naturam"  (1888)

フランス第2の都市Lyons市の貴族出身の画家。

彼の父上は地元の採鉱所の主任技師であった。

本来は裕福な家庭であったが、15歳の時に母上が、18歳の時に父上が立て続けに逝去される悲運に見舞われてしまった。

1846年、イタリアへ旅行して現地でRenaissanceの巨匠達の作品に感銘し、画家に成る事を決心する。

彼の作品の特徴として、大画面の古典的で荘厳な構図、パステルカラー調の色彩、そして気品と調和を保っている事である。

代表作としてMarseille市のPalais Longchamp (宮殿)及びMusée de Beaux-Arts(美術館)の壁画(1867~69年)、Hôtel de Ville Poitiers(邸宅)の壁画(1870~75年)、首都ParisのPanthéon(偉人廟)の壁画(1877年)、Amiens市のMusée de Picardieの壁画(1861~65+1878~88年)、地元のMusée de Beaux-Arts de Lyonsの壁画(1883~86年)、La Sorbonne (大学)の壁画(1887年)、Rouen市のMusée de Beaux-Arts の壁画(1888~91年)、Paris市庁舎の天井画、壁画(1892~94年)、等の大作を手掛けた。

これ等の功績により"Légion d'honneur"勲章(3等)までを叙勲する。

因みにPuvis de Chavannesの作品は岡山県・倉敷市の大原美術館が3点を所蔵しているし、余は2014年にも島根県立美術館で彼の作品展を観ている。

 

12月16日:Ludwig van Beethoven(1770~1827年)

ドイツの作曲家でKlassiker「古典派」からRomantiker「ロマン派」の過渡期に活躍し、後世の音楽界に大きな影響を及ぼした。

大作曲家Beethovenを見つめる際、何よりも先ず彼の音楽史に残した余りに偉大な功績、並びに数多くの作品の世界的な著名度が際立つのだが、其の一方で彼の56年の生涯は決して安楽で平坦な物にあらず、寧ろ「運命」と「苦悩」との戦いでもあったと言える。

Beethovenが1802年に進行性の難聴を苦に当時の住所Wien郊外の Heiligenstadtにて遺書を認めた事はMusikwissenschaft(音楽学術)に詳しい人の間では有名な逸話である。
作曲家にとって聴力の著しい減退は、丁度我ら画家にとって視力が急激に衰えるに似たりの苦難である。
(其れ故に余は自分の両眼の視力が1.5ある事を幸せであると思い、大切にしている。)
とは言え彼が31歳の若さで遺書を認めるまで精神的に追い込まれた事は、余は彼の作品を愛好し、賞賛する者として、同時にドイツで活動していた芸術家としても心痛の思いであった。
しかしBeethovenは自分の日記に「運命は人間に忍耐力と勇気を与える。」と記した如く、其の窮状から見事に立ち直り、交響曲、 協奏曲、序曲、ピアノソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、声楽曲、其の他、次々と傑作を生み出して行った。
これ等の作品が今も尚全世界で、繰り返し演奏、録音され、そして賞賛され続けている事は今更言うまでも無い。

此の彼の生き方こそが「運命」は人間の「気力」(精神力)によって克服出来る事を実証しているのである。

 

12月26日:Maurice Utrillo(1883~1955年)

 M.Utrillo :   "Notre Dame de Paris"  (1937)

フランスの画家で、首都Parisの街角を大量に描いている。

幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。

だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。

私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。

芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、Utrilloの絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。

しかし彼の生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。

其れだけに彼は膨大な量の作品を残している。

此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!

UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、

写真絵葉書を見て描いていた。

其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。

当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。

12月30日:Theodor Fontane(1819~1898年)

  Theodor Fontane von Carl Breitbach (1883)

ドイツの小説家、我が地元Brandenburg州の Neuruppin市出身。

彼の苗字”Fontane”は元来フランスの苗字”Fontaine”(泉)から起因している事から、彼の先祖も1685年以降フランスからBrandenburg-Preußen王国に移民して来たHuguenot教徒である事が判る。

(因みに我が地元Berlin, Brandenburgでは今日でも彼の様なフランス系の苗字を度々見掛ける事がある。)

当初実家が故郷で経営する薬局を継ぎ、薬剤師として経歴を始めるが、其の後記者に転身し、最後は文学作家に収まる。

代表作として紀行文:"Wanderungen durch die Mark Brandennburug" 

小説:"Grete Minde",   "Schach von Wuthenow",  "Unterm Birnbaum",   "Unwiederbringlich",  "Der Stechlin"

回想記:"Meine Kinderjahre" 等がある。

これ等のFontaneの作品を全て余はドイツ語の原版で所有し大部分を読んでいる。

特に彼の紀行文”Wanderungen durch die Mark Brandennburug”は彼の最大の代表作で、5巻(Havelland, Oderland,  Spreeland,  Grafschaft Ruppin,   Fünf Schlößer)で構成されている。

地元の文化財、風景、伝説(昔話)を主題に描いていた余にとって貴重な歴史的記録、文献、そして参考資料であった。

彼の小説作品の特徴として、始まりから心温まる物語が展開しているにも拘わらず、最後に衝撃的な終わり方をする事である。

又、Fontaneは多くの格言、名言も残してくれている。

"Worte,  die von Herzen kommen"(心より来る言葉)の中では彼の文学作品群及び書簡より抜粋した格言、名言が納められている。

 

あとがき:

此度の記事も先月11月に書いた「2025年、此の1年を振り返って」の時と同じく、過去に余が書き記した随筆、論文の1部を抜粋、編集、加筆して完成する形式を採った。

此れは決して「楽」をしているのではなく、内容上止むを得ず過去の関連している文章を再利用するしかなかったのである。

余の本業の絵画の分野では、1つの作品は最初から最後まで一筆ずつ描いて行くしかない。

たとえ其れが過去の作品の「複製」であっても同様なのである。

しかしながら文学、音楽の分野では面白き事に、1つの作品の原稿や楽譜から転用、編集、加筆して、新たな作品を生み出す事が出来るのである。

実に歴代の大作曲家J.S.Bachや J.Haydn、W.Mozartそして此度取り上げているBeethovenでも、多忙で時間が無い場合は此の様な手法で過去の自分の作品から新たな作品を創り出しているのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav    All rights reserved 

”Maurice Utrillo” de Suzanne Valadon 実母Suzanneによるユトリロの肖像

12月26日はフランスの首都Parisの街角を愛し描き続けた画家Maurice Utrillo(1883~1955年)の誕生日である。

一昨年2023年は彼の生誕140年を機に京都の「美術館えきKyoto」にて11月3日~12月25日まで「ユトリロ展」が開催され、更に今年2025年は没後70年記念に東京・新宿のSOMPO美術館にて彼の回顧展が9月20日~12月14日まで開催されている。

以前にも彼の個展は日本国内で何度も開催されており、余も1989年に「広島県立美術館」、そして1996年に「ふくやま美術館」で2度「ユトリロ展」を観て来ている。

其の他にも幾度となく開催された「フランス近代絵画展」でも彼の作品を何点も観て来ている。

そして日本国内では東京・町田市「西山美術館」、神奈川・箱根町「ポーラ美術館」、広島市「ひろしま美術館」、倉敷市「大原美術館」等でも彼の作品が常設展示されている。

更にUtrilloの画集は母国フランスのみならず日本でも多数発行されている事もあって、彼は日本人の間でも比較的馴染みのある画家であると言える。

余も彼の画集2冊(いずれも新潮社)並びに展覧会図録を1冊所有している。

 

 Auguste Renoir :   Femme nue dans un Paysage 1883

扨、是よりUtrilloの生涯について書き記して行く。

Susanne (本名Marie-Clemantine )ValadonがParisに出て来てA.Renoirや H.Toulouse-Lautrecや P.Puvis de Chavannes等の高名な画家達のモデルを務めていた頃、18歳の時にMauriceを私生児として出産している。

彼の母親の出生を調べて見ると、何と彼女も私生児として生まれているのである。

日本の諺の「親の因果が子に報う」と言うのがあるが、正に此の画家の親子にも該当していると言える。

1891年にスペイン人ジャーナリストMiguel UtrilloがMauriceを法的に認知した事から彼の姓を名乗る様になっている。

其の後、Susanneは息子Mauriceを自分の母親に預けて本来の育児義務を放棄してしまう。

此の事からMauriceは孤独で貧しい少年時代を過ごした。

1893年にMontmartre の中学校に入学するが、既に13歳で酒を覚えてしまい、以後長きに渡り「酒浸り」になる。

1900年から1903年にかけて複数の職場に就くものの、非社交的で、激情的な性格と飲酒癖が災いして全く長続きしない。

そして遂にはアルコール依存症の治療の為、精神病院に入退院を繰り返す始末であった。

17歳になって精神科医からArt therapy(芸術療法)として絵を描く事を勧められる。

Utrilloは当初渋々描いていたのだが、流石に是より「天性」の才能を発揮して行ったのであった。

1903~1907年の彼の制作期間を美術評論家は「Montmagny時代」と呼んでいる。

1904年、自由奔放な母Susanneは息子よりも3歳年下の画家André Utterと親しくなり、1909年にはPaul Musisと離婚し彼と入籍するのである。

此れにはUtrilloも呆れ反ってしまった事であろう。

    La Maison de Berlioz et le Pavillon de Chasse Henri Ⅳ (1909)

 「ベルリオーズの家とアンリ四世の狩り小屋」

 

 Le Lapin Agile(1911)居酒屋「跳ね兎」

 

 L'Impasse Cottin(1911)「コタン小路」

 

 La Château Blanc(1912)「白い城」

 

 L'Eglise St.Severin(1912)「聖セブラン教会」

1910年から彼が代表作を多数制作した「白の時代」が始まる。(1914年まで)

此の時代の作品はParis市内の典型的な建造物の白い漆喰の壁を多く描いた事に因んでこう呼ばれている。

幾人かの美術評論家達はUtrilloを「白い漆喰の画家」又は「白壁の画家」と名付けている位である。

一方でアルコール依存症は治らず、治療の為に同市内の療養所に入院する。

翌年には遂に泥酔からの軽犯罪により同市内の刑務所に1か月拘留される。

1913年に初の個展を開催するも、出品31点の内、2点が売れるに止まる。

更に同時代の複数の画家で共同開催する”Exhibition Independent”(独立展)にも出品する。

Rue St.Rustique â Montmartre(1922)「モンマルトルの聖ルスティク通り」

1915年頃から絵の色彩が豊かになった事から1925年までの期間は「色彩の時代」と呼ばれる。

1916年には更にアルコール依存症が悪化し、4か月間精神病院に入院する。

其の後も1918年まで精神病院に入退院を繰り返す。

しかし第一次世界大戦後、時代精神にも変化が見られ、ようやく1919年の個展では大好評を得て、世間から華々しい注目を得る様になる。

にも拘わらず1921年には再び軽犯罪により刑務所に拘留され、後に精神病院に入院する。

同年6月と1923年の母Susanne との「二人展」いずれの展覧会でも大成功を収める。

更にフランスの詩人・小説家Francis Carco(1886~1958年)が初のUtrilloの伝記を発表する。

1928年には"Légion d'honneur"勲章(5等)を叙勲するに至る。

 Notre Dame de Paris(1929)「パリのノートルダム寺院」

1935年、52歳でUtrilloの絵のコレクターであるベルギーの銀行家の未亡人Lucie Valoreと結婚する。

因みに彼女はUtrilloより12歳年上である。

同年、画商Paul Petridesと出会い、翌年には彼と独占契約を結ぶ。

1937年以来、Paris郊外の別荘地Le Vésinetに居を構え、妻と共に平和な晩年の生活に入る。

 La Cathédrare de Chartres(1937)「シャルトル大聖堂」

1938年、4月に母Susanne が死去。

Utrilloの悲嘆は余りに深く彼女の葬儀にも参加出来ない程であった。

此の頃より信仰(Cathorique)に帰依する様になり、邸内に小さな礼拝所を設置して毎日祈りを捧げる様になる。

アメリカのNew Yorkで個展が開催される。

 Rue de Momt Cenis,  La Maison de Mimi Pinson(1938)

 「モン・セニ通りのミミ・パンソンの家」

1950年、イタリアVeneziaの”Biennare”(2年に1度の国際現代美術展)に1室を与えられ出品する。

"Légion d'honneur"勲章(4等)を叙勲する。

1955年、首都Parisの「名誉市民賞」受賞。

同年11月5日、静養先のホテルで肺充血によって死去。

(享年71歳)

 Moulin de la Galette sous la Neige(1950)

 「雪景色のムーラン・ド・ラ・ギャレット」

 

幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。

だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。

私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。

因みに我が親友で似顔絵描きで肖像画家の地本さん(1941~2010年)はUtrillo同様に大酒飲みではあったが、大阪から倉敷市に定住して以来、当地の大原美術館前の路上でとても人情味のある素敵な似顔絵を沢山描きながら、宛ら「大阪漫才」の如き愉快な話をして多くの人達を楽しませていた。

余から見るとUtrilloと地本さんはどこか似ている様に見受けられるのである。(本人も此れを認めている。)

彼は「芸術家は貧しい、不幸な時程優れた作品を作り、豊かになってしまうと味気の無い作品になってしまうんだよ。」と言っていた。

実に当時のUtrilloの知人、友人、評論家達は、彼の50代以降の晩年の作品は過去の繰り返しで精彩を欠いていると評している。

 

芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、UtrilloV.v.Gogh(1853~1890年)の絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。

しかし此の2人は生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。

其れだけにGoghは37年間の生涯の内、十数年程しか制作活動をしなかったにも拘わらず、約2000点の作品(油彩画、デッサン)を残しているし、Utrilloは更に膨大な量の作品を残している。

此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!

一方、余は同じ画家でも1枚の作品を完成させるのに10~15日、場合によっては20日程掛かる事もある。

(1日の制作時間は10~12時間)

何故なら建物のレンガや瓦を1つ1つ「細密描写」するからである。

恰(あたか)も外科医の手術の如く繊細な技術と鋭い神経を要する仕事なのである。

毎日此の様な作業をしている余にとって、UtrilloやGoghの絵は(普段絵を描かない)左手で1日で描き上げられる程簡単に見える。

しかし両者の作品には見る者を感動させる"Human Spirit"(人間の魂)が滲み出ているのである!

余の絵の様に超絶技巧を駆使した、写真と見まがう程の細密、正確で冷厳な作品とは対照的なのである。

 

次にUtrilloの作品と人間性について心理学的に分析してみたい。 

UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、

写真絵葉書を見て描いていた。

其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。

当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。

此れは丁度余が戦争で破壊されて現存しない文化財を当時の白黒写真から色を想像(予想)して描くのと類似している。

又、建造物の「材質感」を出す為、Utrilloは絵具の中に漆喰の粉を混ぜる等の工夫もしていた。

首都Parisには成程、多数の文化財や観光名所があるが、Utrilloは寧ろ在り来たりの街並みと教会に焦点を当てて描いていた。

彼は「名声」、「威厳」、「地位」や「権力」よりも、そこに暮らす庶民達の日常生活にSympathy(共感)を感じていたのだろう。

そして「教会」は彼にとって「純粋な祈り」並びに孤独、悲しみ、苦しみからの「救済」の象徴であったと推測される。

実に彼は晩年に宗教(Cathorique)に深く帰依している。

興味深い事に1921年頃よりUtrilloの作品にはStaffageとして、尻の大きな女性像が度々現れる様になる。

此れは余が自分の作品中に描く女性像が「爆乳美人」であるのと似ている。

心理学的に分析すると、画家が描く異性の人物像は其の人の理想や憧れが現れている。

又、Utrilloは自分の作品に付ける署名をM.Utrillo.Vと書いている。

最後のVの字は母親の姓 Valadonの略であり、ここにも彼の母親への愛着が見て取れる。

 

彼は母Susanne から生まれて間もなく祖母に預けられ、言わば「育児放棄」された様な状態であった。

心理学者の詫摩武俊先生が、母親の子育ての態度は子供の性格に著しく影響すると解説している。

例: 無視・・・冷酷・攻撃的・情緒不安定・創造性に富む
拒否的・・神経質・反社会的・乱暴・冷淡・注意を引こうとする

Utrilloの非社交的で激情的な性格は彼の母親の態度が影響していると診て間違い無い。

Susanne はUtrilloの伝記を読む限り、とてもではないが「御淑やか」な女性ではなかった様である。

其れでもUtrilloは此の奇異な性格の母親を"Oedipus Komplex"の如く盲目的に愛し続けた。

実に1938年、4月に母が死去した際には、悲嘆の余り彼女の葬儀にも参加出来なかったらしい。

其れでも「Susanne Valadonと云う我が母は気高く、美しく、善良な女である。」と詩に書いている位である。

Utrilloの人生を語る時、「アルコール依存症」はどうしても避けられない事柄である。

余はドイツのKunstakademie(芸大) で学ぶ傍ら、Medizinische Akademie(医大)でも特別受講生としてAnatomie(解剖学)と Psychologie(心理学)を学んでいた。

其の中でAlkohlismus(アルコール依存症)に関する講義を受けた事もある。

当時、担任のPsychologie u, Gehirnnerv(脳神経)の医師である F.Ficker先生は、人間がAlkohlismusに陥るUrsache(原因)、

 Phase(経緯)、 Sympthom(症状)、そしてLösungsmittel(解決法)について実例やユーモアを交えて詳しく教示してくれた。

Ficker先生 の言葉 >Alkohlismus anfangen ist so einfach, aber abschließen ist so schwierig.<(アルコール依存症になるのは簡単ですが、終わらせるのは大変困難です。)の通り、Utrilloも此の悪習慣を終わらせるのに大変な苦労と時間を費やしたのであった。

結果的にUtrilloは「絵画制作」によって自分自身を「アルコール依存症」から救ったのである。


 Nicolas Poussin :  "Belbstbildnis"

 Nicolas Poussin :  "Et in Arcadia ego" (1630)

 Nicolas Poussin :   "L' Empire de Flore" (1631)

フランス古典派絵画の巨匠Nicolas Pussin(1593~1665年)は、イタリアの首都Roma滞在中に「古代世界の最も美しい記念物とは何か?」と問われた時、足元の雑草の間から一握りの土を拾い上げ、「此れこそ古代ローマの精華だ!」と答えたと言う。

又、前記のF.CarcoはUtrilloと此の様な問答をした。
Carco:「もし君がParisを離れ、二度と戻れない事になったら、Parisから何を持って行くかね? 何か此れと言う物がある?」
Utrillo:「漆喰の欠片を持って行くだろうね。」
Carco:「其れはどうして?」
Utrillo:「僕は子供の頃、漆喰の欠片を集めて遊んだんだ。」
Carco:「其れだけかい?」
Utrillo:「勿論さ、此の漆喰の欠片を眺めたり触ったりすると、色々な考え事が浮かぶんだ。」
Pussinは一握りのRomaの土に古代文化の美と精神の原点を見出し、UtrilloはParis・Montmartreの家屋の壁の漆喰の欠片に、過ぎ去った美しい日々を垣間見たのであった。

余は予てより我が地元Brandenburgで修復中の歴史的文化財からレンガの一部を頂いて、日本の我が家に持ち帰り、自分のAtelier(仕事部屋)の机の隅に置いている。
これ等のBrandenburgの古きレンガを手に取って見つめる度に、余は地元での幸福と喜びに満ちた日々を思い出し、同時に当地を主題にした作品制作に於けるInspiration(閃き)とMotivation(意欲)が起こされるのである。
余を含め3人の歴史に名前と作品を残す芸術家が、これ等の決して高級でもない素朴な対象物に、自分達の仕事に於けるGeistige Quelle (精神の源) 及びIdeales Fundament(理想と観念の原点)を置いている事は大変興味深き事である。

 

小説家Alphonse Daudetの息子でParis生まれのジャーナリストで評論家のLéon Daudet(1867~1942年)は「 確かにUtrilloはParisを理解し表現した画家達の中では、最高のそして第一級の巨匠である。」と述べている。

余もドイツの街や建築物を描く画家として此の評価には共感するし、其れでいて余の作品には無い庶民的な「癒し」と「温もり」を感じさせられるのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

 

 

 

 

今年も残す処僅かとなり、年の締め括りに此の1年を振り返って見る事にした。

先ず今年は何もかもが上手く行き、誠に充実した年であった。拍手晴れ

不思議な事に余の今までの人生の中で、龍辰年~ヘビ巳年はどう言う訳か大きな躍進と成果を齎(もたら)しているのである。

例:1989年は余が最初のドイツ留学(Goethe-Institut)

が出来た。

2000~01年には我が館(実家)を余のデザイン・設計の元にBacksteingotik様式で新・改築を実現させた。

2001年にはBrandenburg/H市のDom(大聖堂)に於いて、更に首都Berlin Mittemuseum に於いてKönigreich Preußen(プロイセン王国)成立300年、Wedding区設立750年の記念事業として我が個展を翌年まで開催した。

2012年には徳島県・鳴門市ドイツ館に於ける我が個展が此の年の「国民文化祭・とくしま」の一環として、並びに「Grimm童話発行200年記念事業として開催された。

そして2024年と2025年も大いなる躍進と成果を得る事が出来た。

宛ら農業に喩えると、昨年育てた作物が見事に実り、今年大いなる収穫を得たと言った具合である。

此の事を各項目毎に詳しく綴って行く次第である。

尚、此度の随筆は余が過去に書いた複数の随筆の一部を抜粋、改訂して完成した物である。

分野こそ違えど、此れはあたかもドイツの作曲家J.Brahms(1833~97年)が1880年にSchlesien地方の州都Breslauの大学の為に作曲した” Akademische Festovertüre” (Op.80)と作り方が似通っている。 

と言うのも此の序曲はBrahmsが以下のドイツの複数のStudentenlieder(学生歌曲)を接続、編曲して作り上げた作品だからである。

・Wir hatten  gebaut ein staatliches Haus

・Der Landesvater  ・Fuchsenritt  ・Gaudeamus igitur

此の曲は普段のBrahmsの重厚、且つ憂愁の漂う曲とは異なり、何とも祝典的で明朗快活な作品である。

 

家別荘の新築お祝い

「初春に紅白の荘建ち上がり、館になびき九枚笹の旗」

先ず今年1番の成果は何と言っても我が家の新しい別荘の完成である!

我が家の田舎の別荘は1957年に建てられて以来、我が家族にとって思い出深き物があった。 
ところが長き年月が経つに連れて別荘は老朽化が進んだ為、保持する事を断念した。                                             そして御名残惜しき思いはあれど、2023年1月に古い別荘を解体したのであった。

余は自分のデザイン・設計した「建築作品」は現在の我が実家のみで終わると思っていたのだが、此の事から別荘を第二の「建築作品」として自分でデザイン・設計する事になったのである。  

ところが我が家の別荘前の道は自動車が通り抜ける事が出来ない程狭い故、「建築基準法」を満たしていない事が判明した。 

そこで余は知り合いの司法書士さんの立ち合いで、別荘の周囲の田んぼの持ち主さんとの交渉の結果、快く田んぼを余に譲渡してもらえたである。(2022年の3月)

其の直後に田んぼを既存の道沿いに埋め立て、予定通り建設工事に必要な道路を作ったのである。 

此の別荘を取り囲む田んぼ(864坪)を獲得する事は、余にとって少年時代からの念願であった事、更に今日の日本では著しいコメ不足と米価格の高騰が深刻な社会問題となっているだけに、此の事は別荘を新築する前の大きな成果であった。

試行錯誤した後、最終的に「外観」はNeoklassizismus様式(1735~1810年頃)、そして「内装」はRococo様式(1735~1810年頃)を採用してデザイン・設計したのであった。 

此度の別荘新築の為のKonzept(基本方針)として、我が館(実家)で成し得なかった事の実現である。 

即ち”Symmetrie”(左右対称)のデザイン、     

現代的な物を排除する事(例:テレビアンテナ、エアコンの室外機、温水器、等)     

見晴らしの良い自然環境の構成(隣近所に人工的障害物が無い事、周囲に樹木が多い事)である。 

そしてようやく2024年(辰年)9月5日より我がデザイン・設計を基に新しい別荘の建設が始まった。                     

ヨーロッパの古典的なÄsthetik(美学)やKunstphilosophie(芸術哲学)の理論でSchönheit『美』とはBalanze「均整」とHarmonie「調和」とEinheit「統一感」を有し、そして非凡で類稀な存在である。」と定義されている様に、余は自分の芸術作品にこれ等の要素を常に意識しているだけでなく、 日常生活に於いても同様に意識している。                                               即ち此度の別荘のデザイン・設計に於いてもこれ等の要素を取り入れているのである。

そして遂に我が家の新しき別荘は2025年(巳年)の1月24日に見事に完成したのである!! 

我が崇拝するFriedrich大王陛下に習って、我が館(実家)は北ドイツの建築様式(Backsteingotik)でありながら"Maison Belle Rouge"(美紅館)とフランス語で名付けているので、別荘も同様に "Villa Rouge et Blanc"(紅白別荘)と命名したのである。

既に前の記事『新しく甦りし我が家の別荘』にも書いているのだが、不思議な事に本来我が家の別荘でありながら、毎週行く度にまるで「小旅行」をしている気分になるのである。

 

カラーパレット絵画制作

2016年の徳島県・鳴門市ドイツ館に於ける個展を最後に余は「公共事業」としての個展開催(日独両国で通算20回)から身を引かせてもらっている。

以来我が本業の絵画制作は「趣味」と成り代わっているのである。

たとえ趣味とは言えども余は自分のLebenswerk(生き甲斐の仕事)である絵画制作に手を抜く気等一切無く、今でも尚個展を開催していた頃と変わらない程のペースで制作を続けている。

今年になって我が主題は2018年5月以来手掛けているPreußen王国を形成していたSchlesien(シレジア)地方(1763年獲得)の文化財群をSerienbilder(シリーズ画)として計37点描き上げた。

Königreich Preußen(プロイセン王国)は元々1618年にKurmark Brandenburg (ブランデンブルク選帝侯国)がHerzogtum Ostpreußen(東プロイセン公国)を相続して其の基礎が成された。
其の後Großkurfürst (大選帝侯)Friedrich-Wilhelm公によってHinter-Pommern地方やBistum(大司教領)Magdeburg等を獲得して領地を拡大した。
そして1701年には国王FriedrichⅠ世陛下の元に初めて王国として成立した。
しかしながら当時のヨーロッパの大国、フランス王国、ロシア帝国、オーストリア帝国に比べて、国土も小さく、経済的にも貧しいが故、Friedrich-WilhelmⅠ世陛下の統治時代には国防の為に軍事力の強化が図られた。
彼の後を継いだFriedrich大王陛下は更に拡大した精強の軍隊によって、新たなる領土拡大を目指された。
新興国家のKönigreich Preußen(プロイセン王国)にとって此の大層肥沃なSchlesien地方の獲得は、正に”Strategie zum Überleben”「生き残り戦略」であった。

此の地方の都市と文化財の際立つ特徴として、18世紀のBarockからRococo様式の流行った時代に建てられた細長い塔が多く見られる事、そして同じく18世紀から19世紀にかけて建立された数多くの城郭である。
此れは当地方がKönigreich Preußen(プロイセン王国)の領地となって以来、目覚ましい進展を遂げている事を象徴しているのである。

 

引き続き今年の6月以来 Westpreußen地方(1772年獲得)へと移っている。

両地方は第二次世界大戦終了までPreußen王国が統一したドイツ帝国の領土であったのだが、其の後ポーランド領となっている。

 

ダンベルウェイトトレーニング

「十五より我が身鍛えし四十年、月日経てども姿麗し」

 

余はウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで続けて今年の5月で通算40周年になる。拍手ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1お祝い

此の年数は大学卒の者が公務員として勤務して定年退職するまでの38年よりも長いのである!

いつもの如く自惚れる様だが、此の事に関しては「我ながら良くここまで続けて来れた者だ!」と感心しているし、毎日自分の(美人)顔や裸体(T:173、B:105、W:68、H:93cm)に見惚れている始末である。

余の同世代の人間は大凡、「中年」ないしは「初老」に相応しい姿になっていると言うのに、どう云う訳か余は容姿、体力共に衰えないのである。

其の理由は親からの遺伝のせいか、医学知識を応用した健康管理のせいか、将又(はたまた)、「道楽」の様な人生を歩んで来たせいだろうか?

今では「余は本当に人間なのだろうか? もしかして魔物か?」とさえ思えるのである。驚き

ドイツでの芸術大学時代(1991~95年)には芸大と同市内にある医学大学でも「特別受講生」として「解剖学」と「心理学」を学んでいたので、自分と家族の健康に人一倍配慮している。
2022年までは長年に渡り田舎の別荘(1957年建造)でトレーニングを続けて来たのだが、前記の通り別荘を解体して以来、トレーニングマシーン(2台)其の他のトレーニング器具を館(実家)に移設して23年4月初め以来、大広間(14畳)にて行っている次第である。

通常なら実家から6km離れた別荘に自転車で行って、少し雑用をしてからウェイトトレーニングを始めていた。 

自転車で15分程走るのはトレーニング前の準備体操になっているので、直ちにトレーニングを始めるのでは、どうも拍子抜けした気持ちになるのである。 

其れ故に余は自転車で館(実家)から別荘の丁度中間点(3km)に位置する郵便局の前をUターン、即ち往復6km走って実家に帰ってからウェイトトレーニングを開始するのである。 

本来なら安全の為、高温の中で激しい運動は慎まなければならないのだが、余はトレーニングをする大広間ではエアコンで冷房をせずに、短い水着とリストバンドだけを着用して運動をしている。

何故なら今まで38年間、別荘では1度も冷房をせずに行って来たからである。 

と言うのも別荘の有る田舎では実家のある町のど真ん中よりも気温が4~5℃程低いし、風通しも良いので問題は無かった。 

とは言えトレーニングの時間帯(午後6:00~8:30)でも室内温度が近頃では30℃以上あるので、トレーニングの1セットの合間の度にエアコンで除湿をした隣の居間に移って小休止している。 

我が館(実家)には地方の美術館を凌ぐ程の大量の美術工芸品のコレクションがあるし、而もトレーニングの合間にテレビを見ているので集中出来ないのではないかと思えるのだが、何故か不思議な事にトレーニングには十分に集中出来ているし、其れどころか別荘でトレーニングをしている時以上に時間に正確に行えているのである。(正直此れには余自身でも感心している。)

 

赤薔薇ガーデニング

「夕暮れに蜻蛉群がる柘榴の実、微かに見えし秋の面影」

「長月に館の庭に百日紅、荘の庭には蝉の声聞き、夏は居座り、秋は足踏み」

「晩秋に軒に吊りたる干し柿の、色は変われり時は過ぎ去り」


我が家の経営する駐車場ではガーデニングを嗜んでいるので様々な草木があり、1年を通じて四季折々の花や実を生らしている。                                       例:薔薇(ばら)、野薔薇、山法師、葡萄(ぶどう)、梅、木瓜(ぼけ)日日草(つるにちにちそう)、百合、紫陽花(あじさい)百日紅(さるすべり)柘榴(ざくろ)、紅葉、雛菊、老鴉柿(ろうやかき)、欅、椿、南天、水仙、山茶花(さざんか)、雪柳、梅桃(ゆすらうめ)沈丁花(じんちょうげ)空木(うつぎ)、フリージア、

手毬(こでまり)、紫蘭、ゼラニウム、常盤忍(ときわしのぶ)、折り鶴蘭、他

そして我が家の田舎にある別荘でも多種多様な草木があり、其の中で梅、無花果(イチジク)、木苺、柘榴、柿は花だけでなく多くの実を成らしてくれるのである。

イギリスでは貴族や富裕層を中心とした”Gardening”が大変盛んで、何と国民の5割以上がガーデニングを嗜んでいる程である。

English Gardenに於いて、草木は先ず観賞する事に重点が置かれるのだが、其の上そこで育った果実を食べる事が出来ると、更に楽しみが増え、庭園としての評価も上がるのである。

其の中で昨年、今年の大きな収穫は昨年の秋に柿が400個以上も成った事、又今年の夏には木苺(Maulbeere)が丼(どんぶり)11杯も採れた事である。

昨年以来どう言う訳か知らないが、我が家の別荘を新築して以来、驚く程に「柿」と「木苺」が実を成らしてくれるのである。

迷信染みた事を書く様だが、恰(あたか)も庭の木々までもが我が家の新築された別荘を祝福してくれている様である。

更に別荘の周りに864坪の田んぼ、並びに別荘から200m程離れた処にも同様に909坪の田んぼを所有している。

(これ等農地は余の農家の友人に耕作してもらっている。)                                

御蔭様で米不足、米価の高騰にも微動だにせず余裕綽々で食生活を営んでいる。                                       

所謂「令和の米騒動」を見ていて、2022年の3月に前記の864坪の田んぼを購入しておいて良かったとつくづく実感するのである。

 

コインたち経済:株価と金相場が急上昇

「谷深ければ山高し」

我が家は親の代より既に1989年以来、大手証券会社を通じて株や証券に投資を続けている。

其の際に我が母上は「銘柄選び」と「買い時」と「売り時」は全て当証券会社の職員(プロ)に一任しているのである。

正に日本の諺「商売は道によって賢し」又は「餅は餅屋」の如くである。

そして、投資の三大要素である「長期・積み立て・分散」を常に守り抜いている。

此れにて年を追う毎に順調に金融資産を増やして来ているし、不動産資産、そして余が担当する物品資産(美術工芸品、貴金属、等)も同様に増やして来ているのである。

御蔭様で余は賃金の為に働く事も無く、我が家の(昔の男爵、子爵並みの)財産と不労所得(金融所得、不動産所得)だけで悠々自適、余裕綽々で生活出来る事には、常に我が先祖と母上と証券会社に感謝している!

扨、今年はアメリカのキチガイ大統領が対アメリカ貿易に於ける外国からの輸入品の関税率を(一時的に)「狂気の沙汰」と言う程吊り上げた事が悪影響して、4月頃には世界的に平均株価が大幅に下落した。

しかし翌5月頃から次第に回復し、夏頃には此の反動で平均株価は大幅に上昇して行った。

此度は投資の格言「山高ければ谷深し」の逆に「谷深ければ山高し」となった具合である。

我が家が長年取引をしている大手証券会社からの「運用報告書」(対象期間:7月1日~9月30日)の「各資産の概況」によると、日本の大型株式、小型株式、グローバル株式、エマージング株式、日本債券、グローバル債券、ハイイールド債券、オルタナティブ、不動産(REIT)、コモディティ(商品)いずれも好調、上昇、好期待、プラスリターン、等と有益な評価がされている。

 

宝石赤コレクションの充実と完成完了

本ブログの我が「プロフィール」にも書いている様に、余は様々物品のコレクションを趣味としている。 
例:美術工芸品各種、骨董品各種、図書、切手、絵葉書、写真、衣料品、ジュエリー、等 文化的、歴史的、及び資産価値の有る物品(鑑定、修理も可能)

 

 

 

 

 
 
 
 

日本の諺に「継続は力なり」とあるし、ラテン語の諺にも"IN PERSEVERANTIA VERITAS"(執着こそ真実也)とあるが、我ながら長年に渡り良くぞここもまで価値の有る物品を膨大な数になるまで集めた者だと感心、満足している。

又、仏教にも吾唯足知(われただたるをしる)と言う人間の貪欲を戒める格言がある。

此れは「物を絶えず欲しがる事を慎み反省し、自分の身の程を知り、自分に足りているだけで満足、感謝すべし。」と言う意味の教えである。

正にドイツ語の”Mäßigkeit”、ラテン語の”TEMPERANTIA”、そして日本語の「節制」に相通じる格言である。

流石に我が各コレクションに於いて望む物は殆ど手に入れて来たし、最近では物価の高騰も著しい故、そろそろ購入を控えても良いのではないかと思う様になった。

此の世界規模のインフレーションは逆に資産価値の有る物品の価値も吊り上げているのである。             

中でも特に「金」の相場は驚異的な程に上昇している。

余が宝石紫宝石白宝石赤ジュエリーを集中的に購入していた2000~2002年頃は「金相場」が1g当たり1004円(2000年)、1037円(2001年)、1253円(2002年)と、ここ半世紀で最も安価であった。

ところが「金相場」(1g)の価格は次第に上昇し、2006年に2114円、2010年に3054円、2012年に4267円、2015年には5101円、そして2021年以降は更に上昇して6794円、翌22年には7326円、23年には8706円、24年には遂に1万475円となり、今年は何と1万7000~2万5000円と前代未聞の急上昇を見せている。

自分が集中的に購入していた時代に比べて20倍以上の価格にまでなっている事には余のみならず、貴金属業者ですら誠に驚嘆するばかりなのである!!びっくり

2000~2002年頃当時、余は将来には金相場も少なくとも3倍以上には成るだろうと思っていたが、まさかここまで急上昇するとは努々思ってもみなかった!

此の様な事になるのなら、我が母上にでも頼んで、金貨や金の延べ棒等で大量に購入しておけば良かったと、逆に後悔の気持ちも湧いて来るのである。

とは言え人間は未来を確実に予測する事は出来ないので、精々今現在を真剣に生き、未来に向けてのHoffnung(希望)とPlan(計画)とVorbereitung(備え)を持って生きて行くしかないのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

人間は左右両手があると、どちらかが「利き手」であるのだが、世の中の大多数の人が「右利き」で、「左利き」の人は極少数である。

今回は此の少数派である「左利き」について書いて行く事にした。

世界規模で医学的統計を見ても、「左利き」は男性の場合は約14%、 詰まり7人に1人の割合である。

女性の場合は更に少なく0.5~0.6%、即ち150~200人に1人しかいない程珍しいのである。

実に余の学生時代を振り返って見ても、男子生徒20人の内、3人は左利きであったのに対し、女子生徒には左利きが1人もいなかった様である。

日本とドイツ両国に住んで来た余の今まで人生の中で、左利きの女性に直に遭遇したのはたった2回のみである。

又、長年事業経営して来た我が母上、更に我が親戚や友人達に此の事を話しても、皆同様に「左利きの女性を殆ど見た事が無い。」と証言している。

更に此れらの世界的な統計から、世の中の殆どの道具及び機械、電気製品は「右利き用」にデザイン、設計されているのである。

 

参考に自分が左右の「利き手」の度合いを知る上で、以下の道具をどちらの手で操作するかで推し量る事が出来る。

尚、此のチェック項目は余自らがドイツの医学大学で(特別受講生として)Anatomie(解剖学)並びにPsychologie(心理学)を学んだ知識、経験から作成した物である。

1.筆記用具(鉛筆、ボールペン、等) 2.画筆、刷毛

3.鋏 4.箸 5.包丁(ナイフ) 6.鋸 7.金槌 8.箒 9.ブラシ 10.電気製品のリモコン 11.スマートフォン、又は携帯電話 12.本(ページをめくる) 13.金銭(払う) 14.ボール(投げる)

余が自分でこれ等の項目をチェックすると、1~7は全て右手、そして8~14は全て左手で操作している。

他にも特異な事で余はArmbrust(洋弓銃)や空気銃、等は左手で引き金を引くし、弓矢を撃つ時も左手で弦を引く。

 

余は生来「左利き」なのだが、我が母上によると世の中の道具は殆どが右利き用に作られているので、「左利き」のまま大人になったら不便だと思い、「右利き」に成る様に訓練してくれていたそうである。(此の事には今でも我が両親に感謝している。)

御蔭様で実に余は両親から習った道具は右手で使い、自分で初めて習う物は左手で扱う様になったのである。

とは言え余は字を書く以外は大抵の道具は左右両手で使えるし、本業の絵画制作でも、右手の様な「超絶技巧」(米粒に字を書く程の細密描写)ではないが、19世紀以降のImpressionismus(印象派)位の絵なら左手でも十分に描けるし、単純なペンキ塗りは専ら左右両手で行っている。

詰まり余は「左右両利き」と言う事なのである。

此れは非常に有利な事で、余は先ず右手で長時間作業をして疲れると、引き続き左手で作業を続ける事が出来るし、普通の人が主に片手でする仕事も両手で同時に進める事が出来るのである。

 

又、余は毎日絵を描く為に右手を長時間(1日:約8~10時間)使うので、右手の負担を軽減する為に、日常生活に於いては殆どの作業を左手で行う様にしている。

興味深き事にプロ野球のピッチャーも余と同様に利き腕の負担軽減の為に、日常生活で全く同じ事をしている人が何人もいるらしい。

スポーツの分野では「左利き」は希少な存在として重宝されたり、試合(勝負)を有利に進める事が出来る。

何故なら「左利き」と遭遇する率が低い分だけ、大多数の「右利き」のスポーツ選手は対処しにくいからである。

最近では野球の選手の中には、ボールを打った直後一塁へ走るのに「左打席」の方が「右打席」より1歩早く走れる、そして右投げのピッチャーに対し有利に対応出来ると言う利点から、本来「右利き」の人が意図的に「左打ち」に成る様に訓練する事も少なくないらしい。

野球以外にも常に両手を使う職業の人にとって「両利き」とは、仕事の能率が良くなるので大変有利である。

例:ピアノ奏者、オルガン奏者、美容師、理容師、調理師、格闘家、等

 

余は自分が元来「左利き」なので、「左利き」の人を見掛けると親しみを感じて話をしてみると、やはり世の中の道具が大抵右利き用にデザイン、設計されているので、左手では使い勝手が悪い場合、止むを得ず右手で操作する事が度々あるらしい。

此の事から「左利き」の人は左右両方の手を使う事によって「運動神経」の伝達の本元である大脳の左右両側が「右利き」の人より発達するのである。

因みに余の友人に兵庫県出身の「左利き」の郵便局長がいるのだが、彼は学生時代に野球をしていた時には「左投げ、左打ち」だったし、現在趣味でゴルフをするのもクラブは左打ち用を使っている。

又、彼は食事の時に1人で食べる時は箸を左手で使うのだが、複数の人と一緒に食事をする時には右手で食べるのだそうである。

とう言うのは左手で箸を使っていると、時々他人から奇妙な目で見られる事があるからだそうである。

 

特殊な道具の例として「ピストル」を挙げるのだが、此れ又例外無くRevolver式、 Magazin式、全てが右利き用に造られている。

         Mugnum 357 (Revolver  Type)

             Luger P08  (Magazin Type)

          Walther P38 (Magazin Type)

17世紀の終わりに発明され、18世紀から1830年頃まで使用されていた銃(英語:Flintlock 、  独語: Steinschloß )

も全て右手で操作する様に造られている。 

  Gewehrsammlung  18~20Jh  Spandauer Zitadelle Berlin

参考までに此のSteinschloß式の銃の撃ち方について説明するのだが、先ず銃本体のHahn(火打石を固定したハンマー) を後ろに引っ張って、 Pulverhülse(火薬と弾丸が入った紙製の鞘)の先端を千切って Zündpanne(火皿)に少量の火薬を注ぎ、 Laufmündung(銃口) から残りの火薬と弾丸を注ぎ込む。

引き続き銃身の下に仕舞い込んでいるLadestock(押し込み棒)を取り出し、Laufmündung(銃口) から差し込んで火薬と弾丸を奥まで押し込む。 

そして標的を狙って Abzug(引き金)を引いて弾丸を発射する、と言った具合である。

 

かつて余がドイツの地元Berlin, Brandenburgに住んでいた頃の1994年、Berlin西部にあるSpandauer Zitadelle(砦)の中庭で歴史的な祭りがあったので見に行った時、「出し物」として18~19世紀のPreußen王国時代の軍服を着た人達が当時のSteinschloß式の銃や大砲を(弾丸無しで)撃つのを披露してくれていた。

余が此の人達に自分のPreußen王国への愛国心や歴史的知識を語ると、兵士に扮した人達が>Kannst Du mal das Schießen !<(君も此れを撃ってみるかい!)と言って余に銃を貸してくれた。 

余が手慣れた様に撃つと、>Weiter nochmal !<(引き続き撃ってみよう!)と言ってくれたので、更に2発も撃たせてもらった。

周りの見物人の人々の一部から>Er ist Profi !<(彼はプロだね!)と拍手してもらえたのを今でも覚えている。

 普通、「右利き」の人がSteinschloß式の銃を操作する時には銃を左手に持ち、全ての行程を右手で行い、銃を右手に持ち替えて発射する。

一方、余が此れを打つ場合、本来「左利き」なので、操作が終わると即座に左手で撃つ事が出来るので、其の分だけSchießabfolge(射撃の行程)が「右利き」の人より早いのである。

(最も平和な今の時代では銃の「早撃ち」等、何の自慢にも取り柄にもならないのだか・・・)

 

扨、此れも同様に医学的統計により証明されているのだが、「天才」「秀才」や手先の器用な人に「左利き」が多く見受けられるのも事実である。

其の原因として前記の通り、世の中の道具が大抵右利き用に造られている関係で、左手で使い勝手が悪い場合、右手で操作する事が度々ある。

此の事から「左利き」の人は左右両方の手を使う事によって「運動神経」の伝達の本元である大脳の左右両側が「右利き」の人より発達するからである。

参考に「左利き」の偉人、天才、英雄、有名人を以下の通り挙げて置く。

*Alexander Magnus (Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)(BC,355~322、マケドニア(ギリシャ)の国王)

*Julius Caesar (BC,100~44、古代ローマの執政官)

*Leonald da Vinci(1452~1519、イタリア、ルネッサンス期の芸術家、科学者)

*Michelangelo(1475~1564、イタリア、ルネッサンス期の芸術家)

*I.Newton(1643~1727、イギリスの科学、物理学者)

*J.W.v.Goethe(1749~1832、ドイツの文学作家)

*J.S.Bach(1685~1750、ドイツの作曲家)

*W.A.Mozart(1756~91、オーストリアの作曲家)

*L.v.Beethoven(1770~1827、ドイツの作曲家)

*Napoleon(1769~1821、フランスの皇帝)

*M.Twain(1835~1910、アメリカの文学作家)

*Th.Edison(1847~1937、アメリカの発明家)

*E.Munch(1863~1944、ノルウェーの画家)

*A.Einstein(1879~1955、ドイツの物理学者)

*P.Picaso(1881~1973、スペインの画家)

*M.Escher(1898~1972、オランダの画家)

更に以下のアメリカの大統領も左利きである。

*第40代、R.W.Reagan(1911~2004)

*第41代、G.W.Bush(1946~)

*第42代、W.J.Clinton(1946~)

*第44代、B.H.Obama(1961~)

其の他、有名な映画俳優では、Robert Redford(1936~2025)、S.Stallone(1946~)等が認められる。

 

因みにフランスの画家R.Dufy(1877~1953)が左手で絵を描いていたのは作品の筆跡を見ても判るのだが、実際の処Dufyは本来「右利き」であった。

彼は独自の芸術理念から、技巧的な絵を描く事を憚(はばか)り、意図的に左手で描いていたのである。

「天才」「秀才」や手先の器用な人に「左利き」が多く見受けられる反面、「左利き」には「異常者」や「変質者」や「人格障害者」が少なくないのも事実である。

諺に「天才とキチガイは紙一重」と言うのがあるし、古代ローマの哲学者Seneca先生(BC,1~AD,6)も「狂人染みた処の無い天才はいない。」とまで言われている位である。

又、ドイツの心理学者で精神科医のE.Kretschmer先生(1888~1964)も「天才」の性格や精神に独特の異常性が多々認められる事を書き記されている。

此の様に良きにつけ、悪しきにつけ「左利き」は「個性的」「風変わり」又は「非凡な人物」である割合が高いと言う事である。

詰まり肯定的に言えば社会に於いて「希少価値の有る貴重な存在であると言えるのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

広島カープの「黄金期」に強打者として活躍、引退後は名バッティングコーチとして数多くの打者を育て上げた水谷実雄さん(元デイリースポーツ評論家)が今8月10日、午後2時56分、兵庫県西宮市内の病院で、心不全により御逝去された事が親族により伝えられた。(享年77歳)

葬儀は近親者のみで執り行われるとの事だが、余個人としても御親族の方々には心からの御悔やみと述べさせて頂くと同時に、水谷さんの御冥福を祈らせて頂く次第である。

昭和52年(1977)以来カープファンで「黄金期」を見て来た余にとっては、当時の主力選手や監督、コーチが次々と御逝去される悲報を知り、此度は水谷さんまでもが御逝去された事を知り、誠に悲しき思いである。

(以下の我がブログの記事参照)

 

 

 

今年は読売ジャイアンツの象徴で、日本プロ野球界を代表する長嶋茂雄氏が6月3日に89歳で御逝去された事に続き、日本でも御馴染みのアメリカの超筋肉質の剛力プロレスラーHulk Hoganも7月24日に71歳で死去しているし、本日10日にはサッカーの元日本代表で1968年メキシコ五輪の銅メダル獲得の原動力となった釜本邦茂氏も81歳で死去された。

 

水谷さんは1947年11月19日に宮崎県串間市にお生まれになり、宮崎商業高校時代にはエースピッチャーとして1963、64年に甲子園に出場された。

翌年のドラフトで広島カープから4位で指名され同球団に入団し、既に2年目からは打者に転向された。  

水谷さんの勝負強い打撃は、バットの先を相手投手に向けて威嚇する様に構え、投手の球種を読んで球を思い切り振り抜くのが特徴だった。

次第に打者としての実力を養われ、1970年からはスタメンに定着し、1975年の球団の初優勝に貢献された。

(此の時、優勝を決める対巨人戦ではウィニングボールを補球された。)

其の後も高い打率、勝負強さを発揮され、1976年:308、77年:312、78年には打率:348で首位打者を獲得され、其の後も81年:337、82年:303と19年の現役活動の中で5度も打率3割を超え、山本浩二さん、衣笠祥雄さんらと並んで赤ヘル打線の中核を担われ、強打者としての名を球界に知らしめられた。

其の後、1983年にカープでは山本浩二さんがセンターからレフト、若手の長嶋選手がセンター、長内選手がファーストを守る事になった為、水谷さんはスタメンから外れ代打になる可能性があった為、古葉監督は此れを不憫に思われ、「水谷はDHなら十分に働けるんです。 DHの無いセ・リーグより、有るパ・リーグに移った方が本人の為になるんです。」と言われて、水谷さんを阪急ブレーブスにトレードされた。

此の時、武骨な水谷さんが泣かれていた事からも、彼が如何に18年間在籍したカープに愛着を感じていたかが分かるのである。

そして移籍先のパ・リーグでも打点王(114打点)も獲得され、其の存在感を示された。 

通算成績は1729試合に出場、1522安打、244本塁打、809打点、通算打率:285である。

 

其の一方で病気、怪我との戦いを強いられた野球人生でもあった。

入団1年目に異例な程早期に「腎臓病」が発覚した。

プロスポーツ選手にとって此の疾患は自覚症状が殆ど無いとは言え、大変なストレスになる事は窺い知る事が出来る。

1984年の開幕戦では頭部死球を受け、翌年には惜しまれながら引退を余儀無くされた。  

引退後は阪急を皮切りに広島、近鉄、ダイエー、中日、そして阪神と西の6球団全てに於いて主にバッティングコーチを務められ、多くの強打者を育成された。  

2013年以降は直接的な球界との接点は持たれなかったが、近隣の少年野球の指導にも協力され、又、テレビでのナイター観戦は欠かされなかったそうである。  

死球の影響や内臓疾患もあって、近年は目や心臓、等に何度も手術を受けられていた。

今年の夏場に入り体調に異変をきたし、6月に入院し治療を行われていたが8月に入り症状が悪化し、10日、家族に看取られつつ御逝去されたのであった。  

 

余も名将・古葉監督の指揮下で1979年、1980年の2年連続リーグ優勝、日本一(2年連続で近鉄バッファローズが相手)、1984年のリーグ優勝、日本一(阪急ブレーブスに75年のお返し)、そして阿南監督の下で1986年の優勝は今でもはっきり覚えているし、当時「黄金時代」の主力選手、監督、コーチ、計23人(古葉竹識氏、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、道原博幸氏、達川光男氏、高橋慶彦氏、佐野嘉幸氏、A・ギャレット氏、J・ライトル氏、江夏豊氏、大野豊氏、北別府学氏、山根和夫氏、松原明夫氏、阿南準郎氏、其の他)にサインを貰って今でも大事に保存しているし、当時の新聞の切り抜きも保存している位である。
余は個人的には水谷さんには直接お会いしてサインこそ貰えなかったが、当時日本野球界屈指の「カープ・強力打線」の中でも、4番:山本浩二さん、5番:衣笠祥雄さんの後の打順に待ち構える高打率でしかも勝負強い頼もしい御仁であった。

又、水谷さんはシーズンを通じて殆ど半袖のアンダーシャツで競技されていたのを覚えている。

当時のカープ打線の主力打者で、山本浩二さんは「バッティングセンス」、衣笠さんは「力」、そして水谷さんは「技」が際立っていた。

当時のカープでは山本浩二さん、衣笠さん、ギャレット、ライトル、等の球界トップクラスの「強打者」が揃っていたので、水谷さんは7番を打つ事が多かったが、他球団では間違いなく「中軸」(3,4,5番)を打てる程の実力があった。

此れは相手チームにとっては嘸(さぞ)かし大変な「脅威」であった事であろう。

 

個人的に余が水谷さんと共通している事として、名前に「実」が付く事がある。

水谷さんの名前「実雄」(じつお)は読んで字の如く男性名と判るのだが、余の名前「実秋」は男性名なら本来”さねあき”と読むのだが、余の場合恰(あたか)も女性名の如く”みあき”と読むのである。

ラテン語の諺"NOMEN EST OMEN"(名は体を表す)の如く、水谷さんは武骨で恰も「野武士」の様な風貌であった。

ところが意外な事に当時監督であった古葉さんの回想録「耐えて勝つ」の中には、水谷さんの事について「顔はなななか男性的だが、内面は逆。 神経性の胃炎になる程、繊細な処がある。 好人物である事は間違いない。 投手ー内野ー外野の経験は下位打線の”四番”バッターとして相手投手を嫌がらせる存在。」と記されている。 

流石に希代の名監督として「洞察力」の優れている古葉さんの観察は、余も的を得ていると思えるのである。

水谷さん程の高い「打撃技術」は、大雑把や鈍感な人間ではとてもではないが養えないであろう。

 

一方で余は体格こそ※「超筋肉質」(身長:173cm、B:105、W:68、H:93、腕周り37cm)であるのに、顔はフランス風の「美人顔」である。

そして毛髪が(推定で)約15万本と同世代の女性より本数が多く、子供の頃より女性的な髪型"Bob Style"をしているが、其の反面、体毛は極めて少ない。

そして肌は女性の様に肌理(きめ)細やかで滑らかな所謂「餅肌」なのである。

其の上、いつも色や赤薔薇花柄の服ばかり着ているし、宝石赤Jewelryが好きで小学校の頃以来Necklessを身に着けているし、両手にBracelet、手足にネイルNail Colour、腰にWestchainまで着けているので、余計に女性と間違われる事があるのである。

(一つ明確に書いて置くが、余は断じて「おかま」や「Gay」等ではない!)

余の体格が※「超筋肉質」であるのは何故かと言うと、1985年以来、ダンベルウェイトトレーニングと格闘技の練習をし続けて今年の4月で丁度40周年にもなり、翌5月より41年目に入っている。拍手ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1

此の年数は大学卒の者が公務員として勤務して定年退職するまでの38年よりも長いのである!

いつもの如く自惚れる様だが、此の事に関しては「我ながら良くここまで続けて来れた者だ!」と感心しているし、毎日自分の顔や裸体に見惚れている始末である。

余の同世代の人間は大凡、「中年」ないしは「初老」に相応しい姿になっていると言うのに、どう云う訳か余は容姿、体力共に衰えないのである。

其の理由は親からの遺伝のせいか、医学知識を応用した健康管理のせいか、将又(はたまた)、「道楽」の様な人生を歩んで来たせいだろうか?

今では「余は本当に人間なのだろうか? もしかして魔物か?」とさえ思えるのである。驚き

 

星因みにヨーロッパのAstorologie(占星術)では、人が生まれた月に配置されている12Horoskopfiguren(12星座)のみならず、生まれた年にも7Himmelskörpers(7天体)即ちSonne(太陽)、Mond(月)、 Mars(火星)、 Merkur(水星)、 Jupiter(木星)、 Venus(金星)、 Saturnus(土星)が決められている。

♀余の誕生日はVenus(金星)の年で金曜日(Venusの日)である故、かのギリシャ神話の美と愛とSexの女神Venusの影響が強く、おとめ座而も9月生まれのVIRGO「乙女座」なので、女性的な要素が極めて強いのである。

にも拘わらず余が斯くも長きに渡りウェイトトレーニングと格闘技の練習をし続けて来た「心の原動力」とは、やはりかつての広島カープの「黄金期」に主力選手として活躍していた山本浩二さん、衣笠さん、北別府さん、大野さん、そして此度書いている水谷さんへの憧れと尊敬なのではないかと思われるのである。

詰まり、人間がErfolg「成功」やGlück「幸福」を獲得する為には、持って生まれたTalent「才能」のみならず、Bestrebung「努力」、Geduld「忍耐」、そしてFortsetzung「継続」も必要不可欠であると言う事である。

そして如何なる分野に於いても優れたVorbild「手本」が必要であるとつくづく実感させられるのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved  

我が家の田舎にある老朽化した別荘を昨年の9月から今年の1月にかけて新築した後、既に約半年が経過した。

其れ以来、余は1か月に10回ないしは12回は新しい別荘に2時間程滞在して、庭の雑草の除去、庭木の手入れ、地面の地均し、そして不用品の焼却等、これ等の作業が終わったら引き続き別荘の真ん中の大広間にて絵画作品を描いている。

既に前の記事『新しく甦りし我が家の別荘』にも書いているのだが、不思議な事に本来我が家の別荘でありながら、毎週行く度にまるで「小旅行」をしている気分になるのである。

イギリスでは貴族や富裕層を中心とした”Gardening”が大変盛んで、何と国民の5割以上がガーデニングを嗜んでいる程である。

English Gardenに於いて、草木は先ず観賞する事に重点が置かれるのだが、其の上そこで育った果実を食べる事が出来ると、更に楽しみが増え、庭園としての評価も上がるのである。

我が館(実家)の駐車場の庭では30種類以上の草木の内、葡萄、柘榴、梅桃(ゆすらうめ)、そして別荘の庭では梅、無花果(イチジク)、木苺そして柿が食用出来る。

 

 

此度はこれ等の中の「柿の木」、及び「木苺」について書き記して行く。

 

我が家の別荘の庭に生える(渋)柿の木には、今まで毎年10数個程度しか実が成らなかった。

ところが不思議な事に一昨年2023年の秋には一気に200個以上の実が成り、昨年2024年の秋には更に400個以上の実が成ってくれたのであった。

今まで我が家族は親類の幼馴染の家が毎年「干し柿」を作ってくれるので、其れを貰って食していた。

ところが2023年以来、我が家の別荘の1本の柿の木に驚異的と言う程の大量の実が成ったので、これ等を放置して朽ちさせるのも勿体無いと思った。

又、親類の幼馴染から聞いた事なのだが、木に実が成ると当然ながら熟成する為に木から養分を吸収する事になる。

ところが実が大量に成り過ぎると、其の分だけ多くの養分を実に与えるので、木自体に負担が掛かり弱ってしまうのだそうである。

其れ等の理由から思い切って此度は自分の手で「干し柿」を作ってみようと決心したのである。

何を作るにも「コツ」(要点)と言う物があって、良い物を作る為には其の「コツ」(要点)を心得ておく事である。

そこで余は親類の幼馴染の御母さんに干し柿を作る為の「コツ」を伝授してもらった。

其れは先ず、渋柿の実の皮を剥いて、其れを鍋で沸かした熱湯の中に5秒程浸してから、縄に柿のヘタを取り付けて干すのである。

更に干している柿にカビが生えるのを防止する為、アルコール度数の強い酒を「霧吹き」で吹き付けて、1か月程そのまま干して置けば良いのだそうである。

此の「コツ」を教わった後、余は直ちに別荘に向かい柿の木から「高枝切り鋏」で1回目は実を100個、2回目は120個、合計220個を切り取り、幼馴染の御母さんに教えてもらった通りの作業をした。

其の際、縄に柿を取り付けるのは些か面倒だと思い、何か干し柿をより簡単に脱着する方法はないかと思案した結果、洗濯物用ハンガー(洗濯ばさみ32個×3本+8×2個=112個)を利用する事にした。

初めて試したのだが、予想通り此の方法が上手く行き、干し柿をより簡単に脱着出来る様になったのである。

更にこれ等の干し柿に霧吹きでウィスキーを吹き付けて置いた。

「此れで上手く行くだろう!」と思っていたのだが、昨年の秋は11月になってもなかなか気温が下がらず、コバエが干し柿にたかって来る始末である。

故に余は時々干し柿にかからない様に殺虫剤を吹き付けてコバエを駆逐しなければならなかった。

しかしながら初めて作ったにしては、我ながら「上出来」と言える程の干し柿が出来上がったのである!

何故なら我が家の別荘の庭に生える柿の木は本来は「渋柿」であるとは言え、実が熟成して来ると渋味が殆ど抜け、甘味が出て来るからなのである。

 

扨、是より参考に「柿」の学術的な事柄を書き記す。

「柿」はラテン語の学名を"DIOSPYROS KAKI THVNB"と言い、分類ではカキノキ科に属する落葉高木で成長すると、5~10m位の高さになる。

日本特有の植物は外国では独自の名前が付けられる事があるのだが、面白き事に「柿」は海外でも"Kaki"と日本語で呼ばれている。

東アジア特有の果樹で、日本でも「古事記」や「日本書紀」等の歴史的文献にも地名や人名としても記されている事から、8世紀以前から既に栽培されていたと推測される。

各地には多くの「古木」も残っており、全地域の品種を数えると1000種以上にもなる。

農業収益の為の栽培は日本を始め、中国、東アジアであるが、其の他にもアメリカの太平洋岸の一部、ブラジル、ニュージーランド等でも見受けられる。

日本国内での柿の(年間)収穫の上位は以下の県である。

1.和歌山:約3万9千~4万2千t

2.奈良:約2万7千~2万9千t

3.福岡:約1万5千~1万7千t

4.岐阜:約1万2千~1万6千t

果実の収穫期は9月下旬から11月中旬である。

果実は甘く美味であるだけでなく、ビタミンA、Cを多く含んでいる上、タンニンも多く含有している。

柿の品種には「甘柿」と「渋柿」があり、更に其々が「完全甘柿」、「不完全甘柿」と「完全渋柿」、「不完全渋柿」に分類される。

主産地の北限は「甘柿」が福島県、「渋柿」が青森県で、北海道、沖縄を除く全国に分布している。

 

 Maulbeeren

引き続き「木苺」について書いて行く。

此の「木苺」の木は正確には我が家の別荘と隣接する親戚の祖父母の住んでいた廃屋の庭に生えている。

長年に渡りしょっちゅう別荘に行く割には、不注意な事に余が此の「木苺」の実を見付けたのは今回が初めてなのである。

と言うのも、今まで此の木に多数の実が成っているのを見た事が無かったので、此の木が「木苺」である事にすら気付かなかったのである。

本来「木苺」の原産地はヨーロッパなので、ドイツ語の植物図鑑やサイトで調べた処、此の「木苺」は"Maulbeere"(大口木苺)と呼ばれているらしい。

昨年以来どう言う訳か知らないが、我が家の別荘を新築して以来、驚く程に「柿」と「木苺」が実を成らしてくれるのである。

迷信染みた事を書く様だが、恰(あたか)も庭の木々までもが我が家の新築された別荘を祝福してくれている様である。

余が学業及び仕事でドイツに住んでいた時代(1989~2003年)には現地でErdbeere (イチゴ)、Heidebeere(ブルーベリー)そして Himbeere u, Brombeere(キイチゴ)の入ったヨーグルトを購入して毎朝必ず食していたのだが、まさか我が家の別荘で"Maulbeere"が大量に穫れて、自ら作って食べられるとは思ってもみなかった。

  Joghurt mit Maulbeeren

とは言え此の"Maulbeere"「木苺」の果汁は絵具か染料に匹敵する位色素が強いので、収穫の際は果汁で衣服を汚さない様に注意が必要なのである。

(もし服が果汁で汚れた場合、「酢」で洗浄出来る。)

そこで2023年以来、庭の雑草の除去、庭木の手入れ、地面の地均しをする時と同様に、短い水着と野球帽とスポーツシューズだけを着て作業をしている。(此れ又、いつも通りの備え)              即ち余がウェイトトレーニングをする時とほぼ同じ井出達である。 

 

「木苺」の学術的な事柄を書き記すと、ラテン語の学名を

"RVBVS"と言い、分類ではバラ科、キイチゴに属する。

木の高さは1.5~3m位の高さになり、果実の収穫期は6月中旬~7月である。

原産地はヨーロッパ及び北アメリカであるが、今日では其れ以外の地域にも分布、栽培されている。

「木苺」を大別すると1つ目は英語名のRaspberry、 ドイツ語名Himbeere、 フランス語名 Framboise、そしてもう1つは英語名のBlackberry、 ドイツ語名 Brombeere 、 フランス語名 Ronceである。

Raspberry(ラズベリー)はヨーロッパ、アフリカ、西アジア、 南北アメリカにまで分布している。

果実は成熟すると「集合果」が引っ付いて花托から分離する。

此の分離した果実は中空でCap(キャップ)と呼ばれ、Raspberry(ラズベリー)は此の果実の総称である。

果実の色は赤、黄、白、黒、等と種類が豊富で、甘味、酸味があり生で食べられる他、Jam(ジャム)、Muffin(マフィン)、Tarte(タルト)、Torte(トルテ)、チョコレート等の菓子類に加工して利用される事も多い。

 Blackberry and White Chocolate  Muffin

 Blackberry Tarte

 Blackberry Torte

余は「干し柿」こそ見事に作り上げたのだが、流石に「木苺」を使った洋菓子を作るまでの芸当は無い。

故にこれ等の"Beerenkuchen"(イチゴケーキ)の画像を見ると、作れる人に憧れるのである。

又、リキュール等の果実酒としても使われ、栄養素ではカルシウムやカリウムが豊富に含まれる。

Blackberry(ブラックベリー)は古来より北ヨーロッパ、北2メリカを中心に栽培されており、夏の果物として人気が高い。

Raspberry(ラズベリー)同様に直径2mm程の小果が集まって1つの果実を形成する「集合果」である。

果実全体の大きさは直径2~3cmで、Raspberry(ラズベリー)との違いは中まで実が詰まっている事である。

色は深紅から黒であるから、英語では此の様に呼ばれる。

丁度、日本で「紅茶」と呼ばれる物が、茶葉の色が黒い事から英語ではBlacktea、ドイツ語では Schwarzteeと呼ばれるのと似ている。

栄養素では特にビタミンC、アントシアニンを多く含んでおり、酸味が強く専ら生で食べるよりもジャムやソース等に加工して利用される事が多い。

 

余は決して「美食家」や「食道楽」等ではなく、寧ろ食事に関しては「栄養価の高さとバランス」に重点をを置いている。

昨年以来、日本国内では米の供給不足、並びに価格高騰が深刻な社会問題になっている。

此の様な事態になって、改めて我が家が別荘の周りに自前の田んぼを6反も所有し、そこで穫れる「特A米」(にこまる)を年中ただで食せる事、此れ以外にも庭で穫れる7種類もの果実を食せる事に心底から有難味を感じるのである。

同時に自然と農業と食物の尊さを再認識している今日此の頃である。

最終的に此の"Maulbeere"「木苺」は何と丼11杯も収穫出来たのである!

 

10月31日の追伸:

一昨日には昨年に続き我が家の別荘の柿の木から実を78個収穫して、実家に帰って「干し柿」としてベランダに吊るして置いた。

昨年の今頃は此の柿の木に約400個もの実が成ったので、今年は其の影響で実が少なくなる(30~40個程)であろうと予測したのだが、70個以上も実った事には満足している。

人間が食物を単に金を払うだけで簡単に手に入れる様では其の有難みが十分に理解出来ないかも知れない。

其れだけはでなく自ら育て、収穫してこそ其の有難みが十分に味わえる物であるとつくづく実感するのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

ハチ昨日5月15日、我が館(実家)の事業所入口の横に生える「山法師」の木(約2m20cm)をふと見つめると、何と1匹のスズメバチが巣を作っているのを見付けた!

幸い其れは直径5cm程であったので、直ちに殺虫剤を噴射してスズメバチを追い払い、作りかけの巣をもぎ取り踏み潰しておいた。

此の時期にスズメバチが1匹で巣を作っている事から、此れは「女王蜂」である可能性が高い。

通常ならスズメバチやアシナガバチは人間の手が届かない様な高い処に巣を作るのだが、我が家ではどう言う訳か館(実家)でも田舎の別荘でも同様に人間の手が届く様な場所に巣を作るのである。

御蔭で其れを駆除する余にとっては楽に処理が出来るのである。

記憶が正しければ今から7年前の2018年6月頃、我が家の駐車場に生える欅の木(約6m)の高さ3m程の場所にスズメバチがグレープフルーツ程の大きさの巣を作っているのを、お隣りさんからの通報で初めて気付いた。

すると更に其の御隣さんが我が家に来てくれて「私の娘夫婦が養蜂業をしてるんで蜂には慣れているから、除去させましょうか。」と言ってくれた。

「此れは「渡りに船」の如き有難き事だ!」と思い、此の親切を受け入れ、直ちに此のスズメバチの巣を(無料で)除去してもらった。

もし此の事に気付かずにスズメバチの巣が巨大化して其の輩が大量に増えて居たら、我が家の経営する駐車場を使用している近所の診療所の看護師さんや、近隣の住民にまで被害が及んでいたかも知れないのである。

此の事を考えると、誠に有難き親切であったと今でも此の御隣さんには感謝している。

とは言え本来なら専門業者に委託したら有料になるので、御隣さんには細やかではあるが御礼をしておいた。

後で参考にウェブ上で調べて見たのだが、蜂の駆除業者に業務委託すると、下で2万円程支払わなければならないそうである。

更に我が友人の建築会社の社長さんから聞いた処、スズメバチと巣の駆除の難易度が高い程、其の料金は高くなり場合によっては10万円を超える事すらあるそうである。

(例:家屋の屋根裏に巣がある、巣の位置が高過ぎて「高所作業車」を使用する、巣のある木を伐採する等)

 

ハチ参考にスズメバチについて以下の通り解説しておく。

スズメバチ亜科は4属67種が知られ、日本にはスズメバチ属7種、クロスズメバチ属5種、ホオナガスズメバチ属4種の合計3属16種が生息している。

蜂の中でも比較的大型で、其の性質は往々にして攻撃性が高い。   1匹の女王蜂を中心に独自の大きな集団を形成し、自分達の巣を守る為には大型動物をも積極的に襲撃する事がある。

スズメバチは、狩り蜂の仲間から進化したと見られており、ドロバチやアシナガバチと共にスズメバチ科に属している。        其のスズメバチ科は蟻科、蜜蜂科と同じ蜂目に含まれている。 

スズメバチは蜜蜂と並び、最も「社会性」を発達させた蜂で数万もの育室を有する巨大な巣を作る種もある。         アシナガバチ等と違い、雄バチは全く働かず、女王蜂が健在の間は他の蜂は一切産卵しない。                女王蜂を失った集団では、働き蜂による産卵も行われるが、生まれるハチは全て雄で、巣は遠からず廃絶する。

スズメバチは旧・ローラシア大陸で誕生し、更に進化してユーラシア大陸、北アメリカ大陸、アフリカ大陸北部、等に広く生息している。 

(かつて太古の時代にパンゲア大陸を形成したローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸、カザフスタニア及びシナ地塊から成る。)   

生息の中心は東南アジア諸国にあり、オオスズメバチやヤミスズメバチ等、多様な種が生息している。

元来オセアニアと南アメリカには野生のスズメバチは生息してなかったが、現在ではこれ等の地域でも人為的に侵入したスズメバチが生息地域を広げている。

日本で確認されている主なスズメバチを例に挙げると、最大で最も毒性の強い「オオスズメバチ」、繁殖力が最も強い「キイロスズメバチ」、刺された後の痛みが最も強い「チャイロスズメバチ」、「モンスズメバチ」、「コガタスズメバチ」、「ツマグロスズメバチ」、更に最近では台湾から飛来した「ツマアカスズメバチ」までも長崎県対馬市で確認されて問題になっている。

スズメバチの武器としては「毒針」が有名だが、此れ以外にも顎の力も強力で、大抵の虫を一撃で嚙み殺してしまう程である。

幾人かの医学博士の統計によると、野生動物が原因による日本人の死亡の中で一番多いのがスズメバチに刺される事らしい。

 

ハチ幸いな事に余は未だスズメバチに遭遇した事はあれど、刺された事は無い。

しかしながらテレビでスズメバチの特集番組を何度も観て、スズメバチの習性や生態系、そして危険性については一通り知っている。

因みに今から10年程前に我が家の菩提寺である成願寺の本堂の軒下にスズメバチがかなり大きな巣を作っているのを発見した事を当寺の住職から聞いた時、余は「和尚さん、スズメバチは大変攻撃性の強い蜂なので絶対に個人で駆除せず、必ず専門業者に頼んで下さい。 急所を刺された場合、命に係わる事もあるので気を付けて下さい。」と忠告して置いた。

にも拘わらず住職は粋がって自分でスズメバチと巣を駆除しようとした結果、手を5か所も刺されて野球のグローブの様に腫れあがって高熱まで出た為、医者の治療を受けたと、彼から報告を受けて呆れると同時に心配したのであった。

其の後、余は親類の幼馴染も我が家同様に成願寺の檀家である事から此の出来事を話すと、彼は「阿呆坊主が! 手を5か所刺される程度で済んだから良かったんじゃ。 もし金玉を何十か所も刺されたら、「信楽焼の狸」の様になっとったろうに!」と言った。

(不謹慎ながら余も此れを聞いた途端、爆笑してしまった!爆  笑

我が親類の幼馴染は専業農家なので、植物学や動物学、等の自然科学に関する知識が豊富なのである。

彼によるとスズメバチが一旦相手を刺した後、其の毒針が尻から抜けると、毒針の元には「毒袋」があり、此れがポンプの様に動いて刺された相手の体に毒を注入するのだそうである。

更に此の「毒袋」は一種のフェロモンを出し、其の匂いを嗅ぎ付けた他のズメバチが集中攻撃を仕掛けて来るのだそうである。

彼によると全国的にスズメバチが寺や神社に巣を作る事は比較的多いらしく、浅はかな例では住職(又は副住職)が自分の寺の軒に作られているスズメバチの巣を駆除するつもりで松明(たいまつ)等で火を付けると、スズメバチに反撃された為其の場から逃避した。

其の結果、燃えるスズメバチの巣から火が寺の御堂にまで延焼して全焼、ないしは半焼する羽目になった事も何度か起きている。

焼けた御堂の再建の為に費用を負担しなければならない檀家の人達からすれば「蜂の巣焼いても寺焼くな!」と言いたい処であろう。

其の他、我が親類の幼馴染は雑木林の大木の幹の空(うつ)ろの中にあるスズメバチの巣を駆除する為に、殺虫剤のボンベの引き金にテープを巻き付けて噴射したままの状態で此れをスズメバチの巣のある大木の幹の空ろの中に「手榴弾」の様に投げ込んで、即座に其の場所から回避したらしい。

スズメバチが全て居なくなったのを確認して、其の巣を除去したのであった。

 

ハチ扨、是よりスズメバチの習性について書き記して行く。

先ず冬眠から覚めたスズメバチの女王が4月下旬から5月にかけて巣作りと子育てを始める。 

此の時期に作られる巣は最初は盃を逆にした様な形から、次第に徳利を逆にした様な形に成るのが特徴である。

更に6月から7月頃は「働き蜂」の数が次第に増えて行くので、「元巣」では大きさが足りなくなるので、半径500m程の処へ引っ越しをして新たな巣を形成する。

巣の形は球形になりソフトボール位の大きさになる。↓ 

そして8月から9月頃にかけてがスズメバチの活動が最も盛んになる時期である。

特に此の時期はスズメバチの攻撃性が最も強くなるので注意、警戒が必要である。

此の頃になると巣は最大で直径約30cm、中に棲むスズメバチの数は数千匹にまでなる事もある。

最早、此処まで来ると専門業者ですら簡単に駆除は出来ない。

スズメバチは色では特に黒、そして静止している者より動く者に攻撃を仕掛ける習性があるらしい。

即ち、人間の黒髪や動く人間が狙われ易いと言う事である。

故にスズメバチのいる可能性がある場所に出掛ける時には、明るい色の帽子で黒髪を覆い隠すのが賢明な処置なのである。

其の他、香水、化粧品、整髪料、等の人工的な強い匂いがスズメバチを興奮させ、攻撃される事があるので注意が必要である。 

逆にスズメバチはPeppermint(ハッカ)の匂いを嫌う性質があるので、これ等は「忌避剤」として有効である。

意外な事に全ての蜂類は「視界」に限界があり、スズメバチでも約3m範囲内しか見えていない事、そして暗闇では視力が著しく減退する事が昆虫学者の実験で判明している。

故にスズメバチに遭遇した時には、刺激しない様に静かにゆっくりと姿勢を低くして離れて行く事である。

もし追い掛かられた時には、素早く何処か物陰に避難するか、地面にうつ伏せになって静止しておく位しか出来ない。

因みに馬鹿げた事を引き合いに出すのだが、余の大好きな「爆乳美人」(G、H、Iカップ)も所謂「下方視界」が悪いらしい。

何故なら目の直ぐ下に巨大な乳房があるのだから、足元が見えにくいのも無理はない。

 

爆弾更に歴史上の参考として書くのだが、第二次世界大戦(1939~45年)中のHeer(ドイツ陸軍)のPanzerkampfwagen(戦車) 、Jagtpanzer(駆逐戦車)、Panzerjäger(自走対戦車砲)、 Sturmgeschütz(突撃砲)、  Selbstfahrhaubitze(自走榴弾砲)、等の戦闘車両には動物の名前が付けられていた。

例:Tiger(虎)、 Panther(豹)、Elefant(象)、Nashorn(犀)、Marder(テン)、Brummbär(唸り熊)、 Puma(ピューマ)等

其の中で"Wespe"(スズメバチ)と名付けられたSelbstfahrhaubitze(自走榴弾砲)があった。

此の戦闘車両は戦争初期に生産されたドイツ軍内で最速であったPzkpfw Ausf,Ⅱ(2号戦車、最高速度:55km)の車体に強力な105mm榴弾砲を搭載している。

本来、Zwischenlösung(一時しのぎ)として生産されたのだが、その性能は大変優秀で前線の兵士達にも好評であった事から、引き続き量産(計676両)されて行った。

小型、軽量で素早く動き、強力な砲撃をする事から此の様に名付けられたのであった。

又、同様にLuftwaffe(ドイツ空軍)では1te Zerstörungsgeschwader=ZG.1(第1駆逐航空団)は"Wespe"(スズメバチ)をGeschwaderwappen(航空団標識)としていた事から"Wespen-geschwader"と呼ばれていた。

此の様にドイツ軍では"Wespe"(スズメバチ)は其の性質から、Agressivität(攻撃性)や Kampfgeist(闘争心)の象徴として使用されたのであった。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

 

嘗て福沢諭吉先生(1835~1901年)は其の名著「学問のすすめ」の中で「今廣く此人間世界を見渡すに、賢き人有り、愚かなる人有り、貧しきも有り、富めるも有り、貴人も有り、下人も有りて、其の有樣雲と泥との相違有るに似たるは何ぞや。 其の次第甚だ明らか也。 實語敎に、人學ばざれば智無し、智無き者は愚人也と有り。 されば賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來る者也。」と記されている。

現代の日本人は江戸時代や明治時代に比べると、「義務教育」や各種学校の普及によって遥かに学習する機会に恵まれている。

しかしながら其の反面、余りにもResistance反発力、抵抗力)が弱くなっている様に思えてならない。

成程、従順な人間とは支配階級や指導者や命令者の立場から見れば、非常に扱い易い「人材」ではある。

そして言うなれば其れが「社会の秩序」を保持しているとも考えられる。

又、キリスト教の"Die drei Tugenden"(三つの美徳)に Glaube(信仰)、 Hoffnung (希望)、そしてDemut(従順)がある。

だが余は一方で 、此の日本人特有の「従順さ」が一部の人々の人生に於いて多大な損失や不幸を招いていると思えるのである。

ここで興味深い思い出を書くのだが、 我が友人の似顔絵描きの地本さん(1941~2010年)は長年ある観光地でいつも酒を少々飲みながら、心温まる素敵な似顔絵を制作をしていた。

其れでいて彼は決して権力や富に屈する事も無く、社会通念や流行に流される事も無かった。

仕事が終わる晩方になると希にお客さんの顔をまともに描けなくなる程酔ってしまう事があった。

余が此れを見れば微笑ましい光景だったのだが、当のお客さんからすれば、不真面目で腹立たしく感じた事であろう。

此れについて地本さんは「一昔前だったら俺がこんな事したら、客から叱られたり、どやし付けられたもんだよ。 ところが今頃の若い子は俺が酔っ払っていい加減な似顔絵描いても文句も言わない人が多いんだよ。 でも俺は昔みたいにお客さんが気持ちを露わにしてくれてた頃の方がやり甲斐があったね。」 と言っていた。

 

1789年7月14日に始まった”La Révolution française”(フランス革命)に於いては、国民が王政に対し怒りと不満を爆発させ、La prise de la Bastille(牢獄)の襲撃に始まり、首都Parisの各王立省庁を占拠し、捕らえた当時の国王Louis ⅩⅥ 世と馬鹿王妃Marie-Antoinetteのみならず、120人程の貴族をPlace de la Concorde(広場)でGuillotine(ギロチン)により公開処刑した程であった。
(※余が1987年にParisを訪ねた折、此の歴史の詳細を知った時は、流石に士族出身者としても身の毛がよだつ思いであった。)

あるフランス哲学を専攻している日本人哲学者が「もしフランスで今の日本の政治家と同じ事(悪政)を行うと、必ずと言って良い程暴動が起きるであろう。」と書き記されている。

又、彼は「現代の日本国民は政治家達から見たら、まるで飼い慣らしたペットの様な存在なのだろう。」と皮肉を込めて批判されている。

同じくフランス史の中で"Resistance"で有名なのは第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランス(1940年6月17日~44年6月)に於ける抵抗組織である。

当時、世界最強の軍事力を持つNazis政権下のドイツ軍は敵兵のみならず反発、抵抗する民間人でも無差別に殺戮していた。

其の様な状況下で此の様な命を惜しむ事無く、征服者に対して反発、抵抗した精神の根源は何と言っても「愛国」「自由」「正義」への強い意識であろう。

正に当時のフランス人達は一度は戦争に敗れ、祖国を占領されても、「魂」(精神)まで征服されなかったのである。

 

20世紀の初頭、日本人は当時世界最大級の陸軍を有するロシア帝国(常備兵力約300万)のアジア侵略に対し、勇猛果敢且つ断固たる決意で戦いを挑んだ「日露戦争」(1904~05年)にて奇跡的とも言える勝利を獲得した。

(※因みに近年のロシア側の歴史家による研究では、当時のロシアのRomanov皇室による帝政は揺らぎつつあり、日本との戦争は失敗で、後の革命(1917年)を早めるきっかけとなったと見ている。)

此の戦争を描いた日本の戦争映画の金字塔である「二百三高地」(1980年)の中の解説者の台詞に「大国の餌食として横たわる羊から、獲物に噛み付く狼に変貌する事である。」と言うのがある。

当時の日本は後者を選んだからこそ大国ロシアを見事打ち破り、自国の独立と存続を守れたのである。

更に時が流れて、日本は大国アメリカ、ソヴィエト、並びに多大な植民地を有するイギリス、フランス等の列強諸国に対抗する為、ドイツ、イタリアと1940年9月27日に「三国同盟」を締結し、遂には1941年12月7日にはアメリカ領のPearl Harbor(真珠湾)を奇襲する事によって、米英両国に対する全面戦争に踏み切った。

結果はどうであれ、当時の日本人には現在の引っ込み思案で消極的で事なかれ主義の日本人とは全く別の民族ではないかと思える程の「勇気」や「根気」と言った精神的な美徳があった。

残念ながら戦後の日本社会は当時の「連合国」の都合の良い様に組織、形成され、日本人は民主化こそされたものの、「帝政時代」まで続いた本来の美徳や理念(例:勇気根気忠義愛国心倹約、等)を失ってしまったのである。

当時を軍人として生き抜いた我が親父殿や彼の兄貴、そして我が小学校の担任だった浜田先生も「戦後の日本人はアメリカによって『大和魂』を抜き取られてしまった。」と嘆かれていたのを今でもはっきりと覚えている。

余は個人的には「帝政時代」を経験した方々の教訓を受けられた事が誠に幸いであったと存じている。

何故なら御蔭様で余は現代の日本人が忘れてしまった上記の美徳や理念を守って行けるからである。

 

嘆かわしき事に今日の日本人の多くは国内では強欲、無能で利己的な糞政治家共を盲目的に選び、こいつらに「税金」だの「献金」だのと言った名目で多額の金銭を毟り取られ、ある者は悪質業者共に欺かれて金銭をくすね取られ、又、最近では多くの「激烈バカ」共が外国にいる詐欺共に騙されて金融資産の殆どを奪い取られている有様である。

これ等の事件を知る度に余は「何故彼らは疑うとか、調べるとか、相談するとか、拒絶するとか出来なかったのか?」と不思議に思うと同時に呆れ反ってしまうのである。

これ等の損失の主たる原因の一つとして、此度の題目であるResistance反発力、抵抗力の欠如が挙げられるのである。

もし此の哀れな人々の心の中にResistance反発力、抵抗力)の心が備わっていれば、こんな社会の害虫の如き輩を撃退出来て、被害に遭わなかった筈である。

同ブログの記事「自分思考型人間と他人思考型人間」にも書いている様に、余自身は日本人としては珍しく、「非道徳、非合法でなければ何をしようとも個人の勝手(自由)だ!」と確信する、完全な「自分思考型人間」なのである。

余がとことんまでに「自分思考型人間」である原因を自己分析してみると、先ず余が清和源氏の流れを汲む「士族」の家柄の出身である故、少年時代より「自分は庶民、平民と同類であってはいけない!」と言うAnachlonistischer Stolz(時代錯誤的な誇り、又は高慢)を抱いている事がある。

増してや世界中の人間が呆れる程、日本国内ではびこる「同調圧力」に対しては、余は武力(暴力)を行使してでも撃退したいと思うし、諺の「出る杭は打たれる」の如く、人を抑え込もうとする者は頭を殴り割ってやりたいし、又は「足を引っ張る」者は踏み潰してやりたいと思う程、激しい拒否感を感じるのである!

 

キックボクシングや空手等の所謂「打撃型格闘技」では、相手に一発殴られたら、二発殴り返すか、一発は蹴り返す、ないしはダウン、又はK.O.を取る位をしないと、判定で負けてしまうのである。

社会又は人生に於ける勝負事でも同様で、勝つ為には相手により多くの損害を与えるか、自分が相手以上の利益を得るしかないのである。

又、1930年代アメリカの国税局、警察対マフィアの対立を描いた映画"The Untouchables"(1987年)の中の台詞に「相手が刃物を出したら、こっちは銃を出す。 仲間内に怪我人が出たら、相手側には死人を出してやる。 其れ位の覚悟が必要だ!」と言うのがある。

ところが(皮肉な意味で)おしとやかな今日の日本人は腐敗した政府に対して「革命」はおろか「反乱」も「暴動」も起こさず、仲間内だけで湯船の中で屁をひるが如く愚痴、不満をこぼすだけで、じっと辛抱している状態である。

(敢えて過激な事を書く様だが)前記のフランス革命やロシア革命を見習って大勢の国民が徒党を組み武装して、国会議事堂を占拠して、性根の腐った糞政治家共を捕縛して近くの広場で見せしめに制裁を加える位の事をしても良いのではないかと思えるのである。

さもなければ此の国・日本は更に堕落、没落が進み、遂には破産、滅亡するのではないかとまで危惧されるのである。

今更書くまでも無い事だが、今日の日本社会は出口の見えない不景気、度重なる物価とエネルギー代の高騰、数々の企業の倒産、廃業、国民の実質賃金の減少、貧困化、そして政府、自治体の負債の拡大等、悪い事ばかりである。

これでは国民の多数が「厭世観」「閉塞感」「絶望」を感じるのも無理もないかもしれない。

 

余の最愛の戦争映画"Der eiserne Kreuz" (1977年ドイツ・イギリス合作 ※日本では「戦争のはらわた」の題名で公開)の中で、主人公の手練れのSteiner軍曹と彼の上司Mayer中尉が以下のやり取りをする。

Mayer:「Steiner、気を付けろ! Stranski大尉は酷く君を嫌っているぞ。」

Steiner:「御心配無く!」

Mayer:「彼はNazis党員ではないが、Preußen貴族出身の将校だ。 

詰まり支配階級と言う事さ。」

Steiner:「待って下さい。 何を支配出来るんです?」

Mayer:「君も世間知らずだな。 此の戦争でドイツが勝とうと負けようとStranskiは生き残るだろう。 そして彼には莫大な財産があるって事さ。」

余は少年時代から此の映画を50回以上は繰り返し観ているので、全ての場面を克明に覚えているのだが、最近では特に此のやり取りが印象深く思えるのである。

何故なら最近の日本の国内情勢や未来を鑑みても、余も士族出身の富裕層である立場上、たとえ日本が破産しようが滅亡しようが、実家の財産(金融、不動産、物品)で十分生きて行けるだけの自信も余裕もあるからである。

とは言え人間は物質的財産だけで生きて行ける訳がない。

其の為には確固たるHoffnung「希望」やLebensziel「人生の目的」が必要なのである!

更には世の中何が起きるか分からないので、常日頃のVorsicht「用心」とVorbereitung「備え」は必要である。」

 

1978~80年に放送されたドラマ「西遊記」の中に以下の挿入歌がある。

「俺は自由に生きる孫悟空だよ。気楽なもんだよ。世の中色々あるけれど、俺にゃ関係無いね。」

余は少年時代より此の歌詞が気に入っていて、自分も其の様に生きて行きたいと思っていた。

更に利己的な表現をすれば、自分の家族の名誉、健康、財産、幸福、安泰さえ守っていれば、其れで良いと言う事になる。

だが、余は日本でも完全に定着した「格差社会」に於いて、自分だけが裕福と安寧の中で好きな事だけしてして生きていても、決して完全な「幸福感」「充実感」「満足感」等、感じられないのである。

寧ろ、1980年代の日本が最も好景気で、国民の生活が豊かで安定していた「バブル時代」の方がずっと幸福であった様に思えるのである。

極僅かの「支配階級」や「富裕層」だけが幸福を享受して、大多数の庶民が生活苦に陥っている様な国や社会には、最早進歩や繁栄は期待出来ないのである。

そうではなくて、国民の大多数が「安定」や「満足」を感じられる社会でなければ、其の国の「幸福な未来」は到来しないのである!

其の為には国民一人一人がただ政府の政策や社会通念に盲従するのではなく、「是々非々」の如く悪徳や不正や間違いに対しては反発、抵抗する意思や勇気は必要なのである!

又、人間の歴史を振り返って観ると、前記のRevolution(革命)やReform(改革)のみならず、多くのErfindung(発明)、Entdeckung(発見)、等も既存の物事に対するResistance反発、抵抗)がMotivation(動機)になっている事が多い。

詰まりResistance反発、抵抗)は新たな発展や世の中を良くする為の原動力として作用する事にもなってるのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved

 

 "Porzellansammlung im Zwinger " (Katalog)

 Staatliche Kunstsammlungen Dresden 1989

     中国・清時代:三面絵付屏風(陶磁器)と玉、翡翠香炉

 

陶磁器が中国からヨーロッパに初めて輸出されたのは1701年であった。

当時のヨーロッパ人達は此の品物を見て、Porzela(地中海の白い貝)の粉末で作った物だと勘違いをして、(実際は粘土)此の貝の名に因んで“Porzellana”と名付けた。

其の後1710年に美術工芸愛好家であったAugust der Starke Kurfürst von Sachsen(現ドイツの一州・ザクセン選帝侯アウグストⅡ世)が自分の領地の都市MeißenにPreußen王国より亡命して来た陶芸家で彫刻家のAugust Böttgerに命じて、ヨーロッパで最初のPorzellanmanifaktur(陶磁器工房)を設立させた。

創業当初は中国や日本の陶磁器のImitation(模造品)を試作品として制作していたが、次第にヨーロッパ独自の様式を確立させて、Original europäisches Porzellan(真正ヨーロッパ式陶磁器)を制作して行った。

其れ以来18世紀には※ドイツ語圏各国を中心とするヨーロッパ各地(フランス、イギリス、オーストリア、イタリア、オランダ、スウェーデン、デンマーク、等)で陶磁器工房が設立され、同時に王侯貴族の間で陶磁器は巨大なコレクションへと目覚ましい発展を遂げて行った。

かくして陶磁器の文化と生産は華々しく「開花期」を迎えたのである。

(※当時のドイツはKönigreich(王国)、Herzogtum(公爵領)、 Kurfürstentum(選帝侯領)、Fürstentum(侯爵領)、Grafentum(伯爵領)、Bistum(僧正領)、Freistadt(自由都市) 等の所謂「群雄割拠」の状態で未だ統一されていなかった。)

 Berlin K.P.M:  Teller mit Schloß Charlottenburg  

 

余はドイツに1989年に初めてSchwäbisch-Hall及びBremenに留学して以来"Deutsche Porzellansammlung"(ドイツ製陶磁器のコレクション)を始めており、1991年~95年までKunstakademie Dresdenで学び卒業し、1994年以来、我が地元となる首都Berlin、及びBrandenburg州で公認の芸術家として2003年まで活動し、此の時代も引き続き陶磁器を収集し、日本へ帰国しても尚此のコレクションを続けている。
今まで集めて来た作品を制作したPorzellanmanifaktur(陶磁器工房)の地名は以下の通りである。
ドイツ  Arzberg(1881), Berlin KPM(1763), Blankenhain(1790), Bremen(1883), Dresden(1866), Fürstenberg(1747), Gräfenthal(1861), Höchst(1756), Ilmenau (1777) , Kübs(1890), Ludwigsburg (1758), Meißen(1710), Neuses(1958), Nymphenburg(1761) ,  Plaue(1817), Rödental(1871), Scheibe-Alsbach(1838), Selb・Hutschenreuther(1814) , Selb・Rosenthal(1879), Sitzendorf(1850) ,   Staffelstein(1872), Tettau(1794),  Unterweißbach(1880), Varel(1953), Volkstedt(1760), Waechtersbach(1832), Waldsassen(1866), Wallendorf(1764)      

※( )は各工房の創設年を示す。

(以上、前編の随筆『我が家のドイツ製陶磁器コレクションと其の歴史』より)

 

扨、一昨2023年の最大の陶磁器コレクションの収穫は、何と言ってもRödentalのGoebel社の代表格のPorzellanplastiker(陶磁器彫刻家)Gerhard Bochmannの造った6体の彫像である。

Rödental. Goebel: "Der junge Adel"(L,1968) und "Der junge Musiker"(R, 1971) von Gerhard Bochmann

Rödental. Goebel: "Der junge Bauer mit Samensack"(L,1972) und "Die junge Bauerin mit Ähren"(R,1972) v, G.Bochmann

Rödental. Goebel: "Die junge Hirtin mit Lamm"(L,1974) und "Die junge Hühnenzüchterin"(R,1974)                v,G.Bochmann 

これ等の作品群はG.Bochmannが1968~74年にかけて手掛けた若いAdel(貴族)、Musiker(音楽師)、そして4人のBauer, Bauerinen u,Hirtin(農業従事者)のフィギュリンである。

彼の多数の優れた作品の中でも特にMenschenfigur(人物像)は見事な出来栄えである。

更に昨2024年にはVolkstedtのKarl Ens社で制作された"Rot u, Schwarzmilan"(赤毛と黒毛のMilan:ワシ科の猛禽類)の大型フィギュリンを手に入れた。

因みに此の町VolkstedtにはStaatliche P-Manikaktur(州営の工房)とBeyer u,Bock社、Rudolf Kämmer社、等複数のPrivate P-Fabrik (民営の工場)がある。

今2025年の2月に入って以来、嬉しき事に立て続けに以下の素晴らしき陶磁器が我がコレクションに加わった。

丁度先月の1月に余が自らデザイン・設計をした我が家の田舎の別荘の新築工事が完了したばかりなので、これ等の陶磁器はあたかも此れを祝福するかの様に我が家に入って来てくれたのである。(同ブログの記事『新しく甦りし我が家の別荘』参照)

此度入手したFigur(フィギュリン)はいずれも一組の貴族の男女を模った物で、特にいずれの女性像も"Tüllkleid"(レース:網の目状の織物)を纏っているのが印象的である。

Tettau. Gerold: "Musizierendes Paar"

此の作品は立って歌う男性と、座ってLaute(リュート)で伴奏する女性を表現している。

成程、高い造形技術と繊細な絵付け、そしてAnmut(愛嬌)を感じさせるのだが、解剖学的所見では男性の背丈はもっと大きくするべきであったと考えられる。

何故なら、仮に此の男女の身長がほぼ同等であったとしても、座る女性の頭頂部は立つ男性の胸より下に位置する筈だからである。

Unterweißbach: "Kartenspielendes Paar"

此の作品はトランプカードで遊ぶ男女を表現している。

カードのマークがハートである事が此の2人が恋人同士である事を象徴している様に感じられるのである。

又、Podium(台)の上の草花も異例な位細密に造形されている。

 

Tiefenfurt: Kaffeeservice Rot(um1922-35)

此の「コーヒーセット」はSchlesien地方の小都市Tiefenfurtで制作された物である。

底に印刷されているMarke(印鑑)から1922~35年頃に制作されたと判定出来る。

因みに陶磁器の底部にある(手描き、印刷、又は刻印された)Porzellanmarke(陶磁器の印鑑)は其の制作年代を特定する為に重要な参考になるのである。

尚、幸運にも余が此度入手したKaffeeserviceの模様は我が最愛の色Rot()なのだが、此の模様には他のFarbenvariation(色違い)があり、Blau(青) とLila(紫)も製作されている。

余はKunstakademie Dresden(ドレスデン国立芸術大学)で学んでいた1992年に購入した図書”Deutsche Porzellanmarken von 1708 bis heute"に依って当工房の存在は知っていた。

しかし当時は後に此の様に実物を手に入れられるとは予想もしていなかった。

2018年以来、Schlesien地方の文化財と風景を題材にした絵を描いている余にとって、当地方の陶磁器を獲得した事は大きな喜びと励みとなるのである。

 

 

美術史家で陶磁器収集家であるGerhard Schmidt-Stein氏(1928~2022年)の手帳から、かつてSchlesien地方には1945年以前に以下の市町村にPorzellanmanifaktur(陶磁器工房)又はPorzellanfabrik(陶磁器工場)が存在していた事が確認されている。

*Waldenburg 1820 − 1945

*Hirschberg ca. 1825 − 1923

*Breslau ca. 1826 und 1912

*Plottnitz / Reichenstein ca. 1828 − 1893

*Freiwaldau 1841 − 1935

*Fellhammer ca. 1845 − 1851

*Altwasser 1845 − 1945

*Weißstein 1846 − 1856

*Tillowitz ca. 1852 − 1945

*Ober-Weistritz 1855 − 1860

*Sophienau 1857 − 1945

*Königszelt 1860 − 1945

Tiefenfurt 1865 − 1945

*Brieg 1866 − 1869

*Schmiedeberg 1871 − 1945

*Niedersalzbrunn 1882 – ca. 1933

*Haselbach (Rsgb.) 1892 − 1945

*Weißwasser 1895 – nach 1945

*Erdmannsdorf 1908 – ca. 1945

*Peterwitz 1919 – ca. 1942/45       

                            

今日ドイツ国内に於けるPorzellanmanifakturないしはPorzellanfabrikは大部分が良質な粘土を産出するBayern, SachsenそしてThüringenの3州に集中して存在している。

Schlesien地方は大変肥沃な土地で、莫大な農業生産力、更には銀、銅、鉄、亜鉛、石炭、等も大量に産出され、同様に良質な粘土をも産出するので自ずから陶磁器の生産に向いていたのである。

かつて我がGeistige Heimat(精神の故郷)Preußen王国の Friedrich大王陛下(1712~86年)が7年もの歳月をかけてオーストリア帝国、及び其の同盟の南ドイツ諸国との戦争を遂行されて、当地方を勝ち取られたのには此の様な理由があるからなのである。

19世紀後半から20世紀初期にかけてSchlesienの陶磁器生産は大繫栄し、中にはTiefenfurt製等ドイツ国内に出回るのみならず、全ヨーロッパ諸国やアメリカにまで輸出される物まであった位である。

しかしながら此のSchlesien地方は第二次世界大戦(1939~45年)後ドイツからポーランドに割譲され、其の結果当地方に住んでいたドイツ人は皆、迫害を逃れる為に現ドイツ国内へ移住を余儀無くされた。

誠に残念ながら此れに依って当地方のドイツ人によるPorzellanprodukt(陶磁器製造業)は消滅し、Schlesienの陶磁器の歴史は終焉を迎える事になったのである。

故に余は当時Schlesien地方で制作されていた陶磁器を見付ける事すら大変困難であろうから、入手するのは殆ど不可能と思っていた。

其れだけに此度余が入手した此のTiefenfurtのKaffeeservice、 即ち1Kaffeekanne(コーヒーポット), 1Milchgießer(ミルクピッチャー), 1Zuckerdose(シュガーポット), 2Kaffeetassen(コーヒーカップ), 2Kuchentellers(ケーキ皿)は正に「幻の陶磁器」と言っても過言ではない!

(幻が現実になるとは何と素晴らしい事であろうか!)   

又、此れにて我がドイツ製陶磁器コレクションの総数は125個となったのである!

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved

我が家の田舎の別荘は1957年に建てられて以来、我が家族にとって思い出深き物があった。

本来、余が小学校の低学年時代頃までは我らが※実家は此の別荘から200m程離れた現在も我が家が所有する田んぼの中に有った。(※此の家は今では存在しないが、「本籍地」として残存している)

特に我が親父殿(1921~1980年)は街(東区)のど真ん中に住む事を嫌った為、我が家族は彼が他界するまでは寧ろ此の別荘を中心に住んでいたのである。

特に我が親父殿は趣味の「日曜大工」で物置や竈(かまど)、其の他の設備を自分で作っていた位である。

又、其の隣には我が祖父母の家(現在は廃屋)があるので、尚更多くの思い出があるのである。

ところが長き年月が経つに連れて別荘は老朽化が進み、2004年に台風が10回も襲来して以来雨漏りが始まった。          

余が其の都度10年に渡り修繕を行ったのだが、流石に2014年頃から修復が困難になり成り行きに任せていた。

其れでも余は1989年以来ずっと週5日は街(東区)のど真ん中に建つ館(実家)から自転車で約6km離れた此の別荘へウェイトトレーニングをしに通っていた。

此の事は普段街のど真ん中に住んで、絵画や文章を手掛けている余にとっては、健康管理、体力向上の為になるのみならず、良き「気晴らし」にもなっていた。

しかし近年になって一部の床に穴が開いたり、一部の窓が変形して開きにくくなったり、そして一部の壁までもが崩落し始めた。此のままでは倒壊の恐れすらあるのではないかと思われ、「無念ながら最早此れまでか。」と保持する事を断念した。

そして御名残惜しき思いはあれど、2023年の1月に友人と其の知人達の協力を得て驚異的な安価で別荘を解体したのであった。

 

余は自分のデザイン・設計した「建築作品」は現在の我が実家Deutscher Ritterorden(ドイツ騎士団)の城を手本にBacksteingotik様式で2000年に新・改築)のみで終わると思っていたのだが、もし余が生きている間に別荘が老朽化して解体、新築を余儀無くされた場合、別荘を第二の「建築作品」として自分でデザイン・設計したいと思っていた。

分野は全く異なるが、Klassik音楽界ではかの大作曲家L.v.Beethoven(1770~1827年)でさえ56年の生涯の中でOper(歌劇)は1曲"Fidelio"のみ、そして Messe(ミサ曲)も2曲(C-dur、 D-dur)作曲するのみで終わっているのであるから、余も自分の「建築作品」を2軒造り、後世に残したいと願ったのである。

かつて余がBerlinとBrandenburgに住んでいた頃、余は我が精神の故郷Preußen王国のFriedrich大王陛下(1712~86年)の居城”Schloß Sans Souci”(無憂宮殿)をPotsdam市にて度々訪れていた。

そして此の宮殿のRococo様式に憧れて、我が家の別荘も此の様式に似せてデザイン・設計したいとEntwurfskizze(草案図)を描いていたのだが、何分此のRococo様式はKurve(曲線)と複雑な植物模様のRelief(浮彫)と人物像のSkulptur(彫刻)で装飾するのが特徴なので、日本の建築技術や建材ではとてもではないが実現出来そうにない。

かと言ってヨーロッパ諸国(ドイツ、フランス、イタリア)等から建材を輸入する等、著しい物価高、円安の進む今日では不可能に等しい故、残念ながら此の案は断念するしかなかった。

故に日本の建築技術や建材で実現可能な別の西洋建築様式に転換するしかないと決断した次第である。

そこで候補に挙がったのはBarock(バロック) 及びNeoklassizismus(新古典派)様式である。

最終的にRococo様式を引き継いで流行したNeoklassizismus様式(1770~1830年頃)を採用する事にして、外観、間取り、内装、等をデザイン・設計したのであった。

 

たとえ自分で自由にデザイン・設計出来ると言えども故事成語「温故知新」の如く、歴史的建築様式や伝統はPrinzip(原則、基本)として保持して置きながら、其の上に"Individuelle Neuheit"(個性的な新しき物)を創造しなければならない。

此度のデザイン・設計に差し当たって、幾つかのドイツ国内に於ける歴史的建造物(文化財)を参考にする事にした。

例:*Schloß Georgium Dessau,  *Schloß Oranienburg,   

更には*鳴門市ドイツ館

Dessau市にあるGeorgium城は元来当地の領主であったFürst Franz v, Anhalt-Dessau(侯爵)の弟Johann Georg公の別荘で、貴族出身の建築家F.W.v.Erdmannsdorff(1736~1800年)のデザイン・設計により1780年にNeoklassik様式で建てられている。

そして今日ではGemäldegalerie(絵画館)となっており、余が芸大の学生時代の1992年に我が親友のI.Häußler夫人が当城館の職員として勤務していて、ここで初めて知り合い大変親切に持て成してもらった。 

其れ以来、彼女を訪ねる度に当館で共に過ごさせてもらった実に

思い出深き城なのである。

Oranienburg城は首都Berlinから北西へ約30kmに位置する城でGroßer Kurfürst Friedrich Wilhelm v,Brandenburg(大選帝侯)の御妃Luise Henriette v,Oranienの為に1651年にBarock様式で建てられている。

東ドイツ時代にはDenkmalpflege(文化財保護)が遅れていたが、ドイツ統一後はPotsdamの”Park Sans Souci”の各城館とBerlinのCharlottenburg宮殿と共に「UNESCO世界遺産」に登録されている。

「鳴門市ドイツ館」は本ブログのプロフィール及び記事に何度も書き記している様に、余が2003年から2016年に渡り計9回も(公共事業としての)個展を開催し、通算2万9303人の入場者を動員した実に思い出深き博物館である。

中央の主塔だけでも十分に「士族」の別荘としての威厳が感じられるのだが、更に左右両方の屋根に何か特徴的な付加物を加えたいと思っていた。

偶然に同時期に購入したCDの表紙のスウェーデンの王宮Schloß Drottningholmの絵を見ると、此の宮殿の両側の屋根が所謂Doppeldach(二層屋根)なので、此れを手本に我が家の別荘の左右両方の屋根も同様にDoppeldach(二層屋根)で構成する事に決めたのである。

 

ヨーロッパの王侯貴族の宮殿や城館を手本にする等と仰々しき事を書いてはいるが、所詮我が家には昔の「男爵」(爵位第5位)ないしは辛うじて「子爵」(爵位第4位)程度の資産しかない故、限られた予算の範囲内で別荘を新築するしかないのである!

当初、余は別荘を2階建て、屋根裏部屋付きの計7室にする予定であった。

ところが建築会社の社長さんに余のデザイン画を元に建築費用を見積りしてもらうと、余の予算の範囲を大きく超えてしまうので、此れは如何にすべきかと悩んでいた。

すると社長さんは「奧山さん、別荘を思い切って平屋建てにしてみてはどうでしょうか? そうすれば費用を大幅に抑えられますよ。」と提案してくれた。

此れを聞いた時、平屋建てでは不細工になってしまうのではないか?と思い躊躇(ためら)いがあったが、他に解決策が見出せないので、社長さんの提案を受け入れ、改めて平屋建てにデザイン・設計を変更した。

すると思いの他落ち着いた美しいForm(形態)に纏まってくれたのである。

良く考えて観れば前記の我が憧れのSans Souci宮殿ですら「平屋建て」なのだから、此れで同じ「平屋建て」に成り、丁度良い結果となったのである。                                                      

とは言え2階建てを平屋建てに変更した事により、部屋数が3つも減ってしまう事がどうにも我慢出来ず、真ん中の屋根裏部屋に更に左右両方に屋根裏部屋を(無理やり)追加する事で、1階に3室そして屋根裏部屋3つの合計6室を確保する事になったのである。                   

 

ところが我が家の別荘前の道は自動車が通り抜ける事が出来ない程狭い故、「建築基準法」を満たしていない事が、我が館を(余のデザイン・設計を元に)新改築してくれた建築会社の調査で判明した。
即ち別荘を新築する為には、我が家の別荘の敷地に建築業者の車両が出入り出来る4mの道筋を確保しなければならないのである。
そこで別荘前の道に平行に流れる用水を跨いで向こう側の道路に橋を架ける事を建築業者が提案してくれたのだが、橋を架ける費用は思いの外高く、普段使わない橋の為に其の様な出費をするのは非合理であると思えた。

故に余は別荘の北と東を囲む農地(田んぼ・864坪)を買い取り、道に面した部分を4m程埋めて、道を拡張する以外に選択肢は無いと思ったのである。
知り合いの司法書士さんの立ち合いで田んぼの持ち主さんとの交渉の結果、快く田んぼを余に譲渡してくれたである。

(※当時の田んぼの価格は戦後最安値であった。)
そして2022年の3月20日には我が別荘の周りの田んぼが正式に我が所有地となり、其の直後田んぼを既存の道沿いに埋め立て、予定通り建設工事に必要な道路を作ったのである。

とは言え我が別荘は所謂「農業振興地域」に属しているので、田んぼを農業以外の目的に転用出来ないと言う厄介な取り決め(条例)がある。

そこで田んぼを埋めて「宅地」の道路に転用するには、先ず此の新設の道路を別荘建設の後にも「農道」として利用すると言う事で、市役所の農業委員会から容易に認定を受けられたのであった。

一級建築士さん及び行政書士さんの調査によると、更に此の新設の道路を「宅地」に登記し直すには、申請後何と11か月もの期間を要するとの事であった。

(此れには流石に余も呆れてしまった!)

思いがけない「法の柵(しがらみ)」によって、別荘新築を決心して以来実に2年近くも待たされたのだが、2024年の8月23日に市役所から建築許可がやっと出たのであった。

 

此度の別荘新築の為のKonzept基本方針)として、我が館(実家)で成し得なかった事の実現である。

即ち”Symmetrie”(左右対称)のデザイン、

現代的な物を排除する事(例:テレビアンテナ、エアコンの室外機、温水器、等)

見晴らしの良い自然環境の構成(隣近所に人工的障害物が無い事、周囲に樹木が多い事)である。

要するにヨーロッパの王侯貴族の城館や別荘の如く、現代社会の喧騒さから逸脱出来る建造物である事なのである。

1978年頃、我が家の別荘の周辺が洪水になり床下浸水まで経験しているし、2004年内に台風が計10度も襲来した折には、別荘前の用水が氾濫寸前であった事、其の後の「平成30年7月豪雨」の折にも同様の状態であった。

更に最近では社会不況の影響で「空き巣事件」も多発している事から、洪水及び防犯対策の意味を強化する為に鉄筋コンクリートで高さ60cmの土台を作り上げ、窓(計27個)の内、開閉出来る19個は防犯性の強い「倹飩(けんどん)窓」、そして2個の「天窓」を施した。

有難き事に建築会社の社長さんは此の事を見越して、予め建築許可が出ると直ちに工事に入れる様に万全の準備をしてくれていたのであった。

我が家の別荘の立つ地域は江戸時代に海を「干拓」して出来た土地なので地盤が緩いので、先ず建築基盤を強化する為に金属の杭を何本も打ち込む作業に入った。

そして9月5日より我がデザイン・設計を基に新しい別荘の建設が始まっている。

10月半ば頃には木の骨組みが殆ど出来上がり、別荘の敷地面積のみならず横幅、奥行き、高さの全体的大きさが実感出来る様になった。

設計図で見ても明らかに前身の別荘より全ての寸法でより大きくなるのは判っていたが、いざ実際に建てられているのを見ると、如何に大きくなったかまざまざと実感出来るのである!

 

ヨーロッパの古典的なÄsthetik(美学)やKunstphilosophie(芸術哲学)の理論でSchönheit『美』とはBalanze「均整」とHarmonie「調和」と Einheit「統一感」を有し、そして 非凡で類稀な存在である。」と定義されている様に、余は自分の芸術作品にこれ等の要素を常に意識しているだけでなく、日常生活に於いても同様に意識している。

即ち此度の別荘のデザイン・設計に於いてもこれ等の要素を取り入れているのである。

「外観」は前記の通りNeoklassik様式にしているのだが、「内装」は幸いにして国産の新登場の壁紙に我が最愛のRococo様式を彷彿させるデザインが3点もあるので、直ちにこれ等を中央の大広間、西の洋間、並びに食事室に採用した。 

更にシャンデリアもアクリル樹脂製で安価ながら、同じくRococo様式を再現したデザインがあるので、計4個を取り付ける事にしている。

前記の理由から外観をRococo様式に形成する事を諦めたが、其れでも内装をRococo様式に似せられる事に新たな喜びを感じるのである。

 

又、我が別荘はどうしても在宅時間が少なくなる上、日本では見られない様な個性的で目立つ建物であるので、空き巣に狙われる確率が高くなってしまう。

其れ故に別荘には余り高価な調度品や美術工芸品を置かない事にしている。

(実家には地方の美術館、博物館を凌ぐ程の多数の美術工芸品のコレクションが有るので其れだけで十分である。)

そして「防犯対策」として「人感センサーライト」を3個、防犯カメラも3台設置する事にしている。

かつて我が館(実家)が  2000年 9月初頭に建築工事が始まり、我が母上の誕生日12月18日に完成した 。                  不思議な事に意図的ではないにも拘わらず、此の新しい別荘も前記の我が誕生日に建築工事が始まり、 遂に明くる年1月24日に完成したのである!!  晴れ ブーケ1

我が崇拝するFriedrich大王陛下に習って、我が館(実家)は北ドイツの建築様式でありながら"Maison Belle Rouge"(美紅館)とフランス語で名付けているので、別荘も同様に "Villa Rouge et Blanc"(紅白別荘)と命名したい処である。                       

 

扨、別荘の建築費用は全て(3回で)一括払い出来たが、出来上がると当然ながら次には「維持管理費」を計算しなければならない。

因みに日本の所謂「別荘地」(例:・長野県:野尻湖畔、軽井沢、・静岡県:熱海、伊豆、・和歌山県:南紀白浜、・兵庫県:有馬)に於ける1か月分の平均維持管理費は5.5万円程になるらしい。 即ち年間約66万円も費用がかかる事になる。

其れに引き換え我が家の別荘の「維持管理費」は、ざっと計算すると1年間で最大でも15万円以下となる見込みである。

今日の厳しい社会情勢(不景気、物価、エネルギー代高騰、実質賃金の低下)の中で、一般庶民には此れ程の金額が年間生活費に上積みされると相当な負担かも知れない。            しかしながら余は幸運にも今年の2月頃より携帯電話会社の乗り換え、車検の担当業者の変更、そして(観ない)有料衛星放送の解約、等により、新しい別荘の年間維持管理費を僅かに上回る金額が節約出来る様になったのである。

(此の事は士族出身で富裕層の余ですら大変有難き事である。) 

御蔭で別荘の維持管理費によって従来の生活費に負担が掛かる事は全く無いのである!

其の他にも度重なる電気代の値上げに対抗して、我が館(実家)のシャンデリア(計7台)其の他の照明器具の「電球型蛍光灯」(45個)を全て「LED電球」に交換した事で消費電力が半分になり、電気代を相当節約出来ている。

後期Stoiker(ストア派)の哲学者Seneca先生(BC.4~AD.65年)は「王の様な莫大な財産でも愚者が持ち、浪費を続ければ必ず破産する。 僅かな財産でも賢者が持ち、管理すれば少しづつでも増えて行く。」と書き記されている。              更に前記のPreußen王国のFriedrich.Ⅱ世(大王)陛下の御父上であるFriedrich Wilhelm.Ⅰ世陛下(1688~1740年)は"Soldatenkönig"(兵隊王)の異名の通り、自国の軍事力を強化する事に専念された。

其の代わりに他の物事には徹底したRationalisierung(合理化)

、Sparsamkeit(倹約)を実行されていたのである。

日本でも「天下人」となり「江戸幕府」を開いた徳川家康公(1543~1616年)も同様に大変な「倹約家」であった事は後世まで語り継がれている。

そして何人もの富裕層(億万長者)並びにフィナンシャルプランナーが「財産を守る為には何よりも先ず、無駄な出費や無意味な浪費を徹底的に排除する事である。」と述べられている。

余もこれ等の格言・金言を常に心得て、新築した別荘を含む全ての我が家の財産を大事に守って行く所存である!

 

最後に述べるのだが、たとえ余がどんなに美しい画期的なデザイン・設計をしても、其れを実現する為には多額の費用、及び優れた建築業者の存在が必要不可欠となる。

故に此度の我が家の別荘の新築に当たって、様々な工夫と努力によって驚異的な安価にて建設してくれた建築会社の社長と水道業者の友人達、そして十分な(金融、不動産)資産を授けてくれた我が親と先祖には心から感謝を述べたい!!

 

2025年2月28日の追伸:

旗はためく「九枚笹の流れ旗」旗

新築の決断から約2年も待ちに待った壮麗なる別荘が完成して以来、丁度1か月が経過した。

其れまでの間に様々な調度品、即ちある物は古い別荘からの再利用、ある物は新たに購入したのを次々と搬入、設置して行った。

更には別荘の各部屋の掃除、各機能の点検、周囲の庭の樹木の剪定、地均(なら)し、不用品の焼却、等の作業を完了させた。

不思議な事に本来我が家の別荘でありながら、毎週行く度にまるで「小旅行」をしている気分になるのである。

思い起こせば此度の別荘の新築に携わり、何もかも全てが余りにも上手く行き過ぎて余も驚いているのである。

其れはとても自分の能力だけではなく、我が先祖や親からの加護、そして友人や業者の親切な協力があった結果であると存じている。

此度の「大成功」の祝いとして、我が家の「清和源氏」より伝わる家紋「丸に九枚笹」の付いた白い「流れ旗」(180×60cm)を購入し、長さ3mの竹竿に取り付けて我が家の駐車場の庭に掲げている。

此の形式は「戦国時代」より御馴染みの「指物旗」とは異なり、平安時代の「源平合戦」(1180~85年)に使われていたのを当時の絵巻物を参照して余が複製した物である。

因みにGeschichte(歴史)やPsychologie(心理学)やSymbolik(象徴学)では、旗はEhre(名誉)、Erfolg(成功)、Feier(祝典)、 Macht(権力)、Reichtum(裕福)、Sieg(勝利)、Würde(威厳)等の象徴とされている。              

これ等の意味は東洋、西洋のいずれの文化でも共通している。

強風で勢い良くはためく我が家の「九枚笹の流れ旗」は、正に無言の「勝鬨」(かちどき)を挙げているかの如く爽快な眺めである!

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved