本日16日がドイツの大作曲家Beethovenさんの御誕生日である事、そしてつい此の間、フランスの画家Utrilloの没後70周年を機に記事を書いたばかりなので、ふと思い付いたのだが、余が敬愛する大芸術家達の中に何と6人も12月生まれの方々がいるのである。
因みに我が母上も12月18日が誕生日である。
余は少年時代より歴史に名前と作品を残す「天才」「偉人」「英雄」「人傑」等の伝記や経歴、そして彼らの格言、名言を読む事が大層好きであった。
其れだけに彼らの生年月日を自ずから覚えてしまうのである。
そして大変有難き事に、これ等は我が人生に於けるVorbild(手本)やWegweiser(道しるべ)に成ってくれているのである。
更に我が先祖や親の加護もあって、御蔭様で余も幸運で恵まれた、望み通りの悔いの無き人生を送る事が出来た!
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彼らに関して余は今まで本ブログ内に以下の通りの記事を書き記しているので、参考までに御覧頂きたい。
*12月2日:Georges Seurat(1859~91年)
G.Seurat : "La Parade de Cirque" (1887~88)
フランスのNeo-Impressionism「後期印象派」に属する画家で Pointillismus(点描法)の創始者。
Seuratは彼の親友の画学生Aman Jeanと共に美術学校を辞め、独自の様式を確立させる為に科学者Dove、H.v.Hermholz、J.C.Maxwell等の著したChromatik(色彩学)の本を読む事で理論的知識を深めて行った。
1882年、23歳頃には彼独自のPointillismus(点描法)を確立させた。
それまで絵筆で画面に大量の絵の具の「点」を打つ事によって描く技法は前代未聞であった。
人間が先人の成した事を受け継いだり、模倣する事は簡単だが、自ら前例、手本無しで物事を創り出す事は誠に難しいのである。
「凡人は他人が既に通った道を通る。天才は己の道を自ら切り開く。」(我が格言集より)
又、我がPreußen御出身の大天才哲学者I.Kant先生(1724~1804年)は「天才の第一の素質とはIndividualität(個性、独創性)であり、其れは規則によって学び取れる熟練の能力ではない。」と定義付けておられる。
そして、天才の仕事(作品)はしばしば彼の生存中は正当に評価される事が少なく、寧ろ後世で高く評価され、社会に大きな影響や貢献をもたらしているのである。
(Seuratの人生も此れに該当している。)
実にSeuratのPointillismus(点描法)の理論と技術は現代社会に於いて印刷物の画像、テレビ等の映像に応用されているし、彼の作品も他のImpressionismus(印象派)の画家E.Manet、C.Monet、 A.Renoir 、E.Degas、C.Pissallo、 P.Cezanne等と同様に高い評価と人気を保っている。
そう云う意味でSeuratは僅か31歳の短い生涯ではあったが、誠の天才であると言える。
*12月11日:Hector Berlioz(1803~69年)
フランスの作曲家でRomantiker「ロマン派」の先駆者。
主に Cantata、Symphonie、Opera、Oratorio、Requiem、 TeDeum等の大規模な管弦楽作品を手掛ける。
Berliozは開業医の息子として生まれ、両親の希望で最初は医学大学で学んでいたのだが、音楽への情熱を捨て切れず、医学を断念し音楽大学へ進んだ。
そして作曲家としてデビューするも、彼の個性の強い革命的で巨大な管弦楽作品はなかなか世間で好評を得られず、費用ばかりが嵩張り、48歳になるまで借金生活を余儀なくされたと云う経緯がある。
余は彼の此の様な失敗を本で読んでいたので、自分は似た様な失敗をしない様に心掛け、展覧会は出来るだけ費用の掛からない様に、尚且つ運搬し易い様に全てを合理的にまとめて来た。
しかしながら余個人的には、芸術家の真の勝利、成功とは苦悩や困難を乗り越えて獲得する物だと思っている。
そう言う意味では Berliozの晩年の"Légion d'honneur"勲章(4等)の叙勲、そしてヨーロッパ諸国、其の他の国々での演奏、録音、等の後世の勝利、成功こそ誠に偉大で永遠の価値ある物であると思われるのである。
其れに引き換え余の経歴と言えば、ドイツの地元Brandenburg州でデビューして以来、20回も日独両国で常に公共事業としての個展を開催し、いつも賞賛されるばかりであったから、全く世の中で甘やかされて来たとしか言い様が無い。
故に余は天性の才能と(長年鍛えた)肉体的な強さはあっても、意外と逆境に弱いかも知れない。
そう言う意味で余は苦悩や困難を乗り越えて勝利、成功を獲得した過去の天才、英雄、偉人、人傑に憧れてしまうのである。
(とは言え当の御本人は大変であったと思われる!)
*12月14日:Pierre Puvis de Chavannes( 1824~98年)
P. Puvis de Chavannes : "Le fleuve" (1864)
Pierre Puvis de Chavannes : Le Bois sacré (1884)
P. Puvis de Chavannes : "Inter artes et naturam" (1888)
フランス第2の都市Lyons市の貴族出身の画家。
彼の父上は地元の採鉱所の主任技師であった。
本来は裕福な家庭であったが、15歳の時に母上が、18歳の時に父上が立て続けに逝去される悲運に見舞われてしまった。
1846年、イタリアへ旅行して現地でRenaissanceの巨匠達の作品に感銘し、画家に成る事を決心する。
彼の作品の特徴として、大画面の古典的で荘厳な構図、パステルカラー調の色彩、そして気品と調和を保っている事である。
代表作としてMarseille市のPalais Longchamp (宮殿)及びMusée de Beaux-Arts(美術館)の壁画(1867~69年)、Hôtel de Ville Poitiers(邸宅)の壁画(1870~75年)、首都ParisのPanthéon(偉人廟)の壁画(1877年)、Amiens市のMusée de Picardieの壁画(1861~65+1878~88年)、地元のMusée de Beaux-Arts de Lyonsの壁画(1883~86年)、La Sorbonne (大学)の壁画(1887年)、Rouen市のMusée de Beaux-Arts の壁画(1888~91年)、Paris市庁舎の天井画、壁画(1892~94年)、等の大作を手掛けた。
これ等の功績により"Légion d'honneur"勲章(3等)までを叙勲する。
因みにPuvis de Chavannesの作品は岡山県・倉敷市の大原美術館が3点を所蔵しているし、余は2014年にも島根県立美術館で彼の作品展を観ている。
*12月16日:Ludwig van Beethoven(1770~1827年)
ドイツの作曲家でKlassiker「古典派」からRomantiker「ロマン派」の過渡期に活躍し、後世の音楽界に大きな影響を及ぼした。
大作曲家Beethovenを見つめる際、何よりも先ず彼の音楽史に残した余りに偉大な功績、並びに数多くの作品の世界的な著名度が際立つのだが、其の一方で彼の56年の生涯は決して安楽で平坦な物にあらず、寧ろ「運命」と「苦悩」との戦いでもあったと言える。
Beethovenが1802年に進行性の難聴を苦に当時の住所Wien郊外の Heiligenstadtにて遺書を認めた事はMusikwissenschaft(音楽学術)に詳しい人の間では有名な逸話である。
作曲家にとって聴力の著しい減退は、丁度我ら画家にとって視力が急激に衰えるに似たりの苦難である。
(其れ故に余は自分の両眼の視力が1.5ある事を幸せであると思い、大切にしている。)
とは言え彼が31歳の若さで遺書を認めるまで精神的に追い込まれた事は、余は彼の作品を愛好し、賞賛する者として、同時にドイツで活動していた芸術家としても心痛の思いであった。
しかしBeethovenは自分の日記に「運命は人間に忍耐力と勇気を与える。」と記した如く、其の窮状から見事に立ち直り、交響曲、 協奏曲、序曲、ピアノソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、声楽曲、其の他、次々と傑作を生み出して行った。
これ等の作品が今も尚全世界で、繰り返し演奏、録音され、そして賞賛され続けている事は今更言うまでも無い。
此の彼の生き方こそが「運命」は人間の「気力」(精神力)によって克服出来る事を実証しているのである。
*12月26日:Maurice Utrillo(1883~1955年)
M.Utrillo : "Notre Dame de Paris" (1937)
フランスの画家で、首都Parisの街角を大量に描いている。
幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。
だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。
私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。
芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、Utrilloの絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。
しかし彼の生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。
其れだけに彼は膨大な量の作品を残している。
此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!
UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、
写真絵葉書を見て描いていた。
其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。
当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。
*12月30日:Theodor Fontane(1819~1898年)
Theodor Fontane von Carl Breitbach (1883)
ドイツの小説家、我が地元Brandenburg州の Neuruppin市出身。
彼の苗字”Fontane”は元来フランスの苗字”Fontaine”(泉)から起因している事から、彼の先祖も1685年以降フランスからBrandenburg-Preußen王国に移民して来たHuguenot教徒である事が判る。
(因みに我が地元Berlin, Brandenburgでは今日でも彼の様なフランス系の苗字を度々見掛ける事がある。)
当初実家が故郷で経営する薬局を継ぎ、薬剤師として経歴を始めるが、其の後記者に転身し、最後は文学作家に収まる。
代表作として紀行文:"Wanderungen durch die Mark Brandennburug"
小説:"Grete Minde", "Schach von Wuthenow", "Unterm Birnbaum", "Unwiederbringlich", "Der Stechlin"
回想記:"Meine Kinderjahre" 等がある。
これ等のFontaneの作品を全て余はドイツ語の原版で所有し大部分を読んでいる。
特に彼の紀行文”Wanderungen durch die Mark Brandennburug”↑は彼の最大の代表作で、5巻(Havelland, Oderland, Spreeland, Grafschaft Ruppin, Fünf Schlößer)で構成されている。
地元の文化財、風景、伝説(昔話)を主題に描いていた余にとって貴重な歴史的記録、文献、そして参考資料であった。
彼の小説作品の特徴として、始まりから心温まる物語が展開しているにも拘わらず、最後に衝撃的な終わり方をする事である。
又、Fontaneは多くの格言、名言も残してくれている。
"Worte, die von Herzen kommen"(心より来る言葉)の中では彼の文学作品群及び書簡より抜粋した格言、名言が納められている。
あとがき:
此度の記事も先月11月に書いた「2025年、此の1年を振り返って」の時と同じく、過去に余が書き記した随筆、論文の1部を抜粋、編集、加筆して完成する形式を採った。
此れは決して「楽」をしているのではなく、内容上止むを得ず過去の関連している文章を再利用するしかなかったのである。
余の本業の絵画の分野では、1つの作品は最初から最後まで一筆ずつ描いて行くしかない。
たとえ其れが過去の作品の「複製」であっても同様なのである。
しかしながら文学、音楽の分野では面白き事に、1つの作品の原稿や楽譜から転用、編集、加筆して、新たな作品を生み出す事が出来るのである。
実に歴代の大作曲家J.S.Bachや J.Haydn、W.Mozartそして此度取り上げているBeethovenでも、多忙で時間が無い場合は此の様な手法で過去の自分の作品から新たな作品を創り出しているのである。









































































































































