飛騨・美濃の焼き物の美と歴史 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

岐阜県は古くは奈良時代より、北は「飛騨国」、南は「美濃国」と分かれていたが、明治維新(1868)の後、暫定的に「飛騨県」(間も無く高山県に改称)並びに「美濃県」と称されたが、後に明治四年(1871)になって「廃藩置県」により高山県は「筑摩県」(現在の長野県の約6割)に編入され、美濃諸県も廃されて「岐阜県」と制定された。
更に明治九年(1876)8月に「筑摩県」が廃され、「飛騨」と「美濃」が初めて統合されて今日の「岐阜県」が成立した。
岐阜県民の誰もが認識しているのだが、此の様に岐阜県を構成する飛騨と美濃が1200年以上の長きに渡り別の国であった為、現在でも県北部と南部では文化も気質もかなり差異が見られるのである。
しかし此の長い歴史の中で、「飛騨」と「美濃」が争う事も無く、仲良く円満に共存出来ている事は、一見当然の事の様で、実は大変素晴らしい事なのである。
何故なら、日本全国の地方の歴史を調べて見ても、隣国、隣県同士で対立、いがみ合い、争いを起こしている例は多々あるからである。
朝廷、幕府共に権威を失墜し、一国家としての統率を欠いた「戦国時代」の様な乱世の時代ならともかく、国家統率の下の平和な時代に、同じ日本人同士でいがみ合い、争った処で何の徳にもならないと思われる。
寧ろ、「飛騨」と「美濃」の様に隣国、隣県同士で協調、援助の友好関係を築いている方が遥かに徳も利益もあると云う物である。


今でこそ岐阜県は南隣の愛知県に重工業や経済の分野で押され気味ではあるが、軽工業、即ちManifaktur(手工業)が中心であった江戸後期から明治時代には、多種多様の手工芸によって日本全国でも有数の繁栄をしていたのである。
例を挙げると、飛騨地方の「渋草焼」「小糸焼」「山田焼」等の窯業、漆芸の「飛騨春慶」、木工業の「一位一刀彫」「一位細工」、美濃地方では陶器の質、生産量共に日本一を誇る「美濃焼」、同じく生産数日本一の盆提灯の材料である「美濃和紙」、古より日本三大刀鍛冶として誉れ高き「関の刃物」等がある。

余は己の先祖が美濃国・遠山荘を起源とする事から、岐阜県の伝統工芸品には少年時代より格別なまでの興味、愛着を持っている。
故に前記の各伝統工芸品を多数収集して、家庭にて楽しみを持って活用している。
此度は今日でも質、生産量共に日本一を誇る美濃の伝統工芸の代表格であり、余が最も愛好する「美濃焼」、並びに生産数、著名度では美濃焼には及ばずとも、飛騨の焼き物で最も魅力的な「渋草焼」について書き記して行く。

先ず圧倒的な生産力と種類で全国に其の名を知られる「美濃焼」についてであるが、美濃の窯業の起源は定かではないが、其の歴史は少なくとも2000年位はあると推測される。
其の物的証拠として、多治見市周辺の縄文遺跡から多くの土器が出場している。
更に西暦400年代中頃、当時の中国・南北朝から轆轤(ろくろ)との新技術が伝来し、日本の陶芸技術は革命的な進化を遂げたのであった。
此の技術により、美濃国東部では「行基焼」(ぎょうきやき)又は「須恵器」 (すえき)と呼ばれる灰色系の素焼きの陶器が大量に製造される様になった。
「行基焼」は平安、鎌倉、そして室町時代を通じて美濃国で造られ続けたが、応仁の乱(1467年)によって始まった「戦国時代」の乱世(1477~1585年)では、政治、経済が混乱するのみでなく、文化の発展も妨げられた。
そして当時の「行基焼」は簡素な造りによる雑器を造るに留まった。
一方、尾張国(愛知県西部)瀬戸では、鎌倉時代に南宋(中国)から陶芸の新技術を取り入れ、後の「瀬戸焼」の祖を築き、目覚ましい発展を遂げた。
しかし戦国時代の後期になると、瀬戸にも戦乱の危機が迫る様になり、当地の陶工の多くが国境を越え、北隣の美濃国へと逃れて行き、当地で瀬戸同様の良質な粘土と燃料が採れる事を発見すると、たちまち此の新天地に於いて、彼らの仕事を再開したのであった。
此れより美濃の窯業は瀬戸の先進技術の影響を受ける事となる。

其の後、室町時代の末期(1560年代)より美濃焼は全盛期を迎え、主に支配階級の使う茶道具(茶碗、茶入れ、水指)や様々な食器(皿、碗、向付)、酒器(徳利、猪口)等を生産し、日本全国に其の名を轟かせた。
室町末期より安土桃山時代(1573~1602年)にかけては「志野」「黄瀬戸」「瀬戸黒」の様式が中心となり、江戸前期の慶長から寛永頃(1603~1643年)は「織部」の多様な様式が流行した。
江戸時代(1603~1867年)までは、美濃焼は支配階級にのみ流通する一種の「特権」であったが、「明治維新」の大事である「大政奉還」と江戸幕府の滅亡によって、其れまでの諸大名、豪族、豪商の多くが没落、破産、断絶の負い目に遭った。
そして彼ら特権階級が収集した様々な美術工芸品が、古美術商によって一般社会に公開、販売される様になった。
明治初期の日本の古美術市場は「狂気の沙汰」と言っても良い程の状況で、江戸時代の文化財としての価値のある貴重な美術工芸品が、驚異的な破格値で売り出されていた。
例えば、「伊万里」「九谷」「美濃」「信楽」「清水」と云った名だたる焼き物が、現代のホームセンターで売られている陶器並みの値段で、そして「浮世絵」の有名作家の作品があたかも絵葉書やポスター並みの値段で売り飛ばされていたのである。
究極の例としては、かつての大名の居城が今日の建売住宅並みの値段で競売に掛けられていた位である。

イギリスを発端として19世紀中頃よりヨーロッパ各国に浸透して行った”Industrial Revolution”「産業革命」は、明治前期(1870年代)には日本にも影響を及ぼし、其れまで全ての工程を手作業のみで製造していた日本の窯業界にも、機械による新技術(電動轆轤、ガス窯、印刷、シール)が次第に導入され、Massproduction(大量生産)が可能になり、陶器は今まで以上に一般家庭に普及する様になった。
しかし其の反面、人間の手作りによる「工芸性」及び「希少価値」は価値を落とす事になってしまった。
かつて美濃焼の窯元は全盛期には約1300軒もあったが、1909年アメリカで発明された(化学合成による)プラスチックで造られた低価格の食器、容器、其の他の家庭用品が大量に出回る様になると、陶器の需要は其れに関連して減少する様になって行った。
それでも圧倒的な機械文明が支配する今日でも尚、約600軒の窯元が健在し活動を続けており、一部の窯元は古来の手作業による伝統技術を継承して、今に伝えてくれている。
此の事は芸術家であると同時に、伝統工芸品の愛好家である余にとっても、誠に有り難く嬉しき事である。
今日では大部分の伝統工芸の後継者が不足している大変深刻な状況ではあるが、余も数多くの伝統工芸が今後も社会で生き残って行く事、そしてこれ等に対する関心、評価が高まってくれる事を願って止まない。

次に「美濃焼」の代表的様式の「志野」と「織部」について解説する。
昭和五年(1930)現在の可児市の牟田洞(むたぼら)の発掘調査の後、其の付近の大平、浅間(せんげん)、久尻(くじり)の周辺に最古の美濃古窯跡が数々発見された。
平安時代になって美濃でも「灰釉」を使った象牙色の陶器が、多治見市の池田、虎渓山、其の他各地で造られる様になった。
此れが後に美濃焼の最高峰と言われる「白天目」の原点と考えられる。
又、同市内の浅間では「志野」の前身である白い釉薬を使った陶器が焼かれていた。
これ等の焼き物には、従来の竹ヘラ等による彫模様、印版による花模様の他、鉄を含んだ絵の具で描かれた「鉄絵」が施されていた。


志野」の名は室町時代に将軍・足利義政の近侍であった志野宗信(しのそうしん 生年不詳~1523年)が、自分の好み陶器を美濃の窯元に注文して焼かせていた事に由来している。
「志野」の釉薬は風化した長石を主原料にして、其れに灰、粘土、塩、等を加えて、陶器に厚めにかけ塗りする。
其の釉薬の濃淡と窯でゆっくり焼いて、ゆっくり冷ますと云うコツによって、志野特有の柔和で上品な白い肌に、ほんのりと赤茶色が差すと云った色合いが生まれるのである。

料理研究家であり陶芸家でもあった北大路魯山人(1883~1959年)も「志野も逸品は素地の白い処へ心地良い紅がかかった代赭(たいしゃ=赤茶色)を発色、見る者を喜ばす。」と言っている。
又、物によっては釉薬をかける前に、植物を図案化して素朴な技法で描かれた「鉄絵」も魅力的である。

志野の種類としては以下の様に分類される。
*無地志野・・・「もぐさ土」と呼ばれる白い粘土で造った、絵や模様の無い物
*絵志野・・・釉薬の下に絵の具で絵付け、又はヘラで模様を彫り付けた物
*鼠志野・・・白い素地に「鬼板」(褐色の鉄鉱)を化粧かけした後、ヘラで模様を入れて長石釉をかけた物
*赤志野・・・窯焼きの加減で鼠志野が赤茶色に発色した物
*紅志野・・・志野(白)が淡いピンク色に発色した物で、模様は鉄絵の具で描く
*練込志野・・・鉄分を含む赤土と含まない白土を練り合わせて素地を造り、長石釉をかけて焼き上げた物
*志野織部・・・志野と織部の特徴を合わせ持った物


織部」の名は本来、美濃の豪族出身で千利休に師事して茶人となった「古田織部重然」(ふるたおりべしげなり 1543~1615年)の好みを元に、製作された美濃焼の茶器に由来している。
古田織部は元来、戦国の乱世を生き抜いた生粋の武士であった故、其の好みは師匠・利休の「侘び」「寂び」と云った内包的な性質とは大きく異なり、「無骨」「荒々しさ」「大胆」「自由自在」と云ったものであった。
しかし此の「織部好み」の様式は利休の亡き後、安土桃山時代(1573~1602)になって高く評価され、茶道及び茶器の新時代を築いて行った。
其の中の特筆的な要素として、従来の茶を静かに嗜む「侘び」の思想に加えて、共に食を嗜むと云う事がある。
其の為に茶器のみならず、様々な食器(皿、鉢、向付、蓋物)、酒器(徳利、猪口)等が必要に応じて新たに作られて行った。
更に織部は「華道具」(花瓶、花入)、「香道具」(香炉、香合)の分野に於いても優れた作品を生み出して行ったのである。

「織部」様式で余が画家として特に魅力を感じるのは、其の多種多様なデザインである。
形態としては、大別すると「平型」と「筒型」となり、更に其れを細かく分類すると、正角、長角、丸、楕円、州浜(すはま)、分胴、船菱、松皮菱、木瓜、田楽、月形、隅切、梅花型、桔梗型、等がある。
模様では「植物柄」・・・代表的な松・竹・梅に始まり、瓜、楓、(干し)柿、燕子花(カキツバタ)、唐草、菊、菫(すみれ)、大根、筍(たけのこ)、蒲公英(タンポポ)、撫子、藤、葡萄、紅葉、竜胆、他
人物・動物柄」・・・人間、兎、馬、鹿、鳥各種、貝、蟹、魚、他
器物柄」・・・網、団扇、笠、冠、御所車、水車、扇子、宝づくし、橋、船、矢、楼閣、他
幾何学柄」・・・市松、亀甲、格子、縞、七宝、蛇鱗、輪繋ぎ、其の他「文字柄」等がある。
これ等の様々な形態と模様が組み合わさる事によって、織部は世界でも類を見ない程の変化に富んだ美を創り出している。

織部の種類は以下の様に分類される。
*青織部・・・陶器の一部に銅の青(緑)釉をかけて、他の部分に鉄絵の具によって模様が描かれた物。
*総織部・・・銅の青(緑)釉を陶器の全体(高台周りは除く)にかけられた物。
無地、透かし彫り付き、釉の下に模様のある物もある。
*鳴海織部・・・粘土は赤土と白土を繋ぎ合わせて造り、白土の部分に青釉をかけ、赤土の部分に白泥で模様を描き、鉄釉で線を描く。 此れによって4色の色彩を楽しめる。
*赤織部・・・鳴海織部の技法で赤土の部分だけで造られた物。
*黒織部・・・陶器の一部に黒の鉄釉をかけて一部を残し、そこに白釉をかけたり、鉄釉で模様を描いた物。
*絵織部・・・折衷様式の「志野織部」に鉄絵が付けられた物。

美濃国(岐阜県南部)の窯業は優良な粘土、豊かな燃料(木材)、そして交通の便利さも手伝って、室町時代以降、質量共に全国最高水準に達するまでに繁栄した。
一方、北隣の飛騨国は連なる山脈や豊富な鉱物資源はあれども、美濃に比べると良質な粘土の産出は少なく、窯を造る為の耐火土も採れない。
其の上、交通の発達が遅れ、冬には大変な寒気と豪雪に見舞われる。
これ等の環境条件は決して窯業に適した場所とは言えないが、其れでも飛騨の住人達は知恵と忍耐と努力によって、これ等を克服し、幾つかの窯元「小糸焼」「山田焼」「三福寺焼」「渋草焼」等を興し、小規模ではあるが山国独特の味わいのある焼き物を造り続けて来たのである。

中でも「渋草焼」は其の華美なる赤絵によって飛騨の焼き物の代表格として、最も高く評価されている。
「渋草焼」の創業は「小糸焼」(1624年)、「山田焼」(1764年)、「三福寺焼」(1741年)に比べて遅く、天保十二年(1841)に時の飛騨郡代・豊田藤之進が、尾張国・瀬戸の名高い陶芸家、戸田柳造(1813~1865年)を招き、(当時の)高山市の西郊外、「渋草」(志ぶくさ)の地に窯を造り、窯業を始めさせたのが起源である。
初期の「渋草焼」は地名を取って「高山焼」と称され、「高山」の印を使用していた。
「渋草焼」の名前は明治十一年(1878)以降付けられ、窯元の開かれた周辺には渋草(いかり草)が群生していたので、「渋草ヶ丘」と呼ばれていた。
渋草焼の最盛期は大凡三期に分けられ、第一期は天保十二年(1841)~明治十年(1877)、第二期は明治十一年(1878)~明治三十年(1897年)、そして第三期は明治三十一年(1898)~昭和七年(1932)とされる。
渋草焼の窯元は明治十二年(1879)に会社として再出発した「芳国舎」、そして明治十八年(1885)に当社はから出た3人の陶工によって興され、創始者の名に因んで付けられた「柳造窯」がある。


明治三十年(1897)以降に確立した様式の特徴としては、「芳国舎」の焼き物は白の地肌に赤と藍を中心に、黄、緑、黒、其の他の絵の具を使って丁寧に図柄を描いている。
「柳造窯」はヨモギ色の貫入(罅の様な模様)の入った地肌に赤と緑を中心に、黒、白、黄、藍、紫、等の絵の具を使って、細密且つ自由闊達な筆さばきで絵付けをしている。
両窯元の作品に描かれている「題材」として、「花鳥風月」と称される様々な草花、鳥類、そして「唐子」(古代中国の子供)が多く見受けられる。
「模様」の典型としては、「花菱」「網の目」「逆沢瀉」(さかさおもだか)「卍」等が使われている。
これ等の様式は別名「飛騨赤絵」として、一部の愛好家の間で人気を博したが、生産力と認知度で「美濃焼」「有田焼」「九谷焼」そして「日本六大古窯」(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)には遠く及ばず、そして最近では中国等から大量に輸入される低価格な(下手物)陶器の普及に押され、かつて十数軒あった飛騨の窯元も今では「渋草焼」の2軒、「小糸焼」「山田焼」のみとなってしまった。
(不適切な表現ではあるが)最早「伝統工芸の絶滅危惧種」と言っても過言ではない状況である。

余は初めて高山市を訪れた12歳の時、其の渋草焼の美しさに魅せられ、当時は「渋草焼」の作家と「一位一刀彫」の彫刻家に憧れていた程で、今まで数多くの飛騨・美濃の伝統工芸品を収集して来ている。
時代の流れに翻弄され、現在では渋草焼や他の飛騨の伝統工芸は、制限された可能性の中で生産を続ける事を余儀なくされている。
其れでも余はこれ等の伝統工芸師の方々が困難な状況の中、今後とも是非精進、活躍され、其の技を後世まで伝え、存続して行かれる事を願って止まない!

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