京都「六角堂」の今と昔の姿、及び我が家で最近起こった愉快な事 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

 

4月2日以来手掛けている、比叡山・坂本にある「天台宗務庁」の絵を5月12日にようやく完成させて、13日より引き続き京都の「六角堂」の絵を描いている。(6月11日完成)
当寺院は正式名を「紫雲山・頂法寺」と号し、創建は587年で、開基は聖徳太子による物である。
洛中(京都市内)のほぼ中心部に位置していた事も手伝って、当寺院は平安時代から江戸時代にかけて長きに渡り、多くの都人達から篤き信仰を集めていた様である。
最澄大師が806年に桓武天皇の御認定の元に天台宗を開宗された後、平安時代以来ずっと天台宗に属していたが、戦後1950年代に京都の鞍馬寺、聖護院、大阪の四天王寺、和歌山の粉河寺、東京・浅草の浅草寺と同じ様に、天台系の単立寺院となっている。
余は既に此の「六角堂」こと頂法寺を二度参拝しているが、其の周辺には背の高いビルが立ち並び、景観をかなり損ねている。
其の上、鐘楼だけが境内の敷地より逸脱して、前の道路で隔てた境内の斜め向かいに立っている。
此れも時代の流れに伴う近代化された都市計画の為、仕方が無いのかも知れないが、絵の題材にしては何とも興冷めしてしまう有様である。
そこで余は自ら所有する京都の歴史的写真絵葉書コレクション(約150枚)の中から、大正時代、及び昭和初期に撮影、作成された頂法寺の写真絵葉書(※セピア色)と自ら撮影した写真を併用して制作を進めている。


(※此の色の名はイカの一種Sepiaの吐く墨の色から名付けられた。)
とは言え約100年前の8cmx12cm程の寸法の写真では現代の写真と比べて何分解像度が低いので、コピー機で1.8倍に拡大した画像を利用して描いている。

印刷物では1.8倍にも拡大すると、印刷物特有の網の目ないしは無数の点が大きく現れて、画質が悪化するのだが、本物の写真は此れだけ拡大しても画像の劣化が無く、細部まで見て取る事が出来る。
流石に当時の頂法寺周辺のたたずまいは鬱陶しきビルなど無く、寺院だけが際立っているのが実に心地良い。

ついでに、我が家で最近起こった愉快な事を書くのだが、5月14日「母の日」に先立って、余は巳年生まれの我が母上に贈り物として定番の鉢植えのカーネーション(花言葉:母への愛、と感謝)そして金メッキと色ガラスをちりばめた※蛇の置物を贈った。画像右

(※困った事に我が母上は自分が巳年のくせに、蛇を忌み嫌うのである。)
通信販売にて購入した此の蛇の置物が届いた其の日(5月12日)、我が館の南側にある水道を使っていると、排水口から突然抹茶色をした蛇が顔を出して来た。
此の蛇も余が蛇を嫌うどころか興味深い動物と思っている事を本能で感じるのだろうか、初めて余を見ても逃げる素振りも見せず、舌を出してじっと余を見つめているのである。
あたかも「親子2人仲睦まじく生きなさいよ!」と言ってくれているみたいであった。
こんな町のど真ん中に蛇が生息出来るものだろうかと、当初不可解であったが、どうやら此の蛇は我が館の南側の排水口から道路の下にある溝を通り抜けて、斜め向かいにある我が家の経営する駐車場の庭にまで行き来して生活している様なのである。
此れならば人間や猫に捕獲される事も無く、自動車にひかれる事も無く安全に移動出来るのである。
蛇も生活環境に適応するだけの知恵があるのだなと感服したと同時に、此の蛇を我が屋敷内に住む生き物として、見守ってやろうと決心した次第である。 

此の蛇に何か名前を付けてやろうと考えている処である。
(同ブログの記事「歴史と文化の中の蛇について」も参照されたし)


更に5月17日、2013年(巳年)に我が家の経営する駐車場に立つ欅の木の上で生まれた山鳩の「九八郎」が久方振りに帰って来た!
彼は他の山鳩より体格が良くて嘴と足が頑丈で、余に良く懐いているので直ぐに見分けが付くのである。
余が直ぐに米を与えると、いつになく沢山食べてくれた。
此の日以来、再び毎日我が家に米を食べに帰って来る様になってくれたのである。
大抵の場合、彼は冬の間より温暖な所で過ごし、春の始め頃の3月上旬には我が家に帰って来るのだが、今年はどうした訳か5月に入っても姿が見えないので、色々と心配していた。
「九八郎」は全く変わり無く元気そうなので安心している。
(同ブログの記事「歴史と文化の中の鳩について」も参照されたし)

 

一方、田舎の我が家のボロ別荘の庭では、今年は5月17日の時点で、2455個のエンドウの鞘が収穫され、去年、おと年、そして3年前の収穫量をも上回った。
エンドウが終わりかかっているので、其の際にメロンの苗を8つ植えて毎年の様に栽培して行く。
単なる個人の道楽趣味であるとは言え、今年も豊作になってくれる事を願っている。
又、ボロ別荘の庭には沢山の蔓日々草(花言葉:思い出、生涯の友情、幼馴染み)、そして田んぼとの境には現在約700本以上の紫、白の燕子花(花言葉:幸せは貴方の物)、あやめ(花言葉:良き便りを待ち望む)そして黄菖蒲(花言葉:便り)が咲き誇っている。
折を見てこれ等を取っては、生け花を趣味にしている母上の為に持ち帰っている。
因みに前述の「頂法寺」こそ、生け花の始祖「池坊」が住職を務めていた処である。
 

更に余は親の趣味の為、古美術商や陶器店にて、工芸性が高く歴史的且つ希少価値のある花瓶を買い集めてもいる。

余の好みは我が先祖の発祥の地、岐阜県の「美濃焼」の代表格「赤志野」「青織部」「赤絵」、同じく赤絵で知られる飛騨の「渋草焼」、我が憧れの京都の「清水焼」「粟田焼」画像上「楽焼」、そして佐賀の「有田焼」の代表格「伊万里」画像中、加賀の「九谷焼」画像下、等と云った華美な絵付けを施した、ないしは色彩豊かな焼き物である。


ところが我が母上に言わせると、生け花をする上で花瓶は脇役として主役の花を引き立てなければならないので、花瓶は出来るだけ地味で質素な方が良いのだそうである。
あたかも我が本業の絵画の分野で、額縁が脇役として主役の絵を引き立てる役割を担うのと共通している。
余は自分の作品が極めて細密で色彩豊かであるので、我が個展では作品を大量に(約40~50点)展示するので、簡素なデザインの金色ないしはWeinrot(ワインレッド)の額縁を採用しているのだが、我が家(特に自分のアトリエ)で常設展示している自分の作品には、大好きなRococo様式の金色の華美な額縁ばかり選んでいるのだから始末が良くない。

   ~*「一位一刀彫」の思い出 *~

先月の4月20日には飛騨・高山の伝統工芸「一位一刀彫」の雷鳥の置物を手に入れた。
「一位」と云う木の名の由来は、仁徳天皇御即位(仁徳天皇元年・西暦313年)の際に飛騨の水無神社から、此の木で作った笏(しゃく)を献上した処、他のどの木材で作られた笏よりも良質であった事から、「正一位」と云う最高位が与えられた事に因んでいる。

其の後、一位の笏木は飛騨の国司ないしは領主から歴代の天皇陛下に献上され、近代では大正天皇、昭和天皇、そして現(平成)天皇各陛下にも献上された。

江戸時代初期になって領主・金森宗和の命により、初めて「一位細工」として冠台、文台、硯箱、短冊箱、等の器物が制作される様になった。

尚、これ等の器物は一位の木を板に加工して細工を施す事から、「板物」と呼ばれる。

もう一つの種類である「一刀彫」は一位の原木を「丸彫り」と言う立体的に彫って制作するので、より芸術性が高いと見なされている。

「一位一刀彫」の起源は、江戸時代後期に高山出身の根付彫師・松田亮朝(すけとも)に師事した松田亮長(すけなが)が、「奈良一刀彫」の様式を手本に、(のみ)()だけで大胆且つ素朴に彫る様式を生み出した。
「奈良一刀彫」が絵具で彩色するのに対し、松田亮長は「一位」の美しい木目と色合いを残す為、一切絵具、ニス等を塗らない様に仕上げた。
「一位一刀彫」は飛騨の代表的な伝統工芸として今日まで受け継がれている。
因みに此の様式で彫られた仏像は、美濃国出身の修験道僧・円空(1632~1695年)が彫った多数の仏像をも彷彿する物がある。
実際に円空は故郷の美濃、北隣の飛騨を中心に特に東日本各地を遊行し、造像祈願を立てて庶民の為に※12万体もの仏像を彫ったと言い伝えられている。 (※此の数は誇張と推測される。)
現在残存する円空の作品は約5300体以上で、其の内1000体以上が岐阜県、3000体以上が愛知県にある。


 一位一刀彫・「高砂」
今回此の雷鳥の置物を入手した事は、余にとって小学校6年生の時の雪辱を果たした事になる。
其の意味は以下の通りである。
当時余は若干11歳で既に飛騨・高山の伝統工芸「一位一刀彫」や「渋草焼」や「飛騨春慶」等に魅せられ、多大な関心を持っていた。 (普通の小学生で此の様な渋い趣味のある事は極希である。)
そして我が母上と彼女の師匠・大森先生の3人で、我が念願の上高地、日本アルプス、そして飛騨・高山へ旅行に行ったのであった。
高山市に入ると余は、ある「一位一刀彫」の工房(店舗を兼ねる)に立ち寄り、そこで様々な作品を購入し、そして彫師の方に余が自分も将来一位一刀彫の彫刻家になりたいと云う夢を語ると、何と親切な事に彫師の方は「それならば、これ等を差し上げるから彫ってみますか。」と言って、余に雷鳥の型を切り取った一位の原木と、五角形の原木をくれたのであった。
家に帰って以来、余は喜び勇んで此の原木を学校の授業も宿題もそっちのけで彫って行った。
とは言え何分「一位」の木は「ミズマツ科」に属し、硬くて粘りがあるので、市販の彫刻刀如きでは快調に彫り進める事が出来なかった。
其れでも一旦彫り始めると、手に豆が出来て其れが破れるまで彫り続け、手の豆が治ると又再び彫り続けたのを今でも覚えている。
こうしてある程度の「雷鳥」の形が出来たので、両脚の間に穴を開ける為に、鑿を打ち込んだ時であった。
若干11歳で初めて彫り物をする拙さから、不覚にも其の脚を折ってしまったのであった。
もう一つの原木で我が最愛の鳥「鷲」をどうにか、暇を見つけては十数年かけて彫り上げたのだが、当時の無念は余の心の奥にずっと刻まれたままであった。
本来なら自分で「雷鳥」を彫り上げたかったのであるが、何分20代の頃より芸大の学業、そしてプロの画家としての毎日の制作、及び毎年の個展によって、彫刻に使う時間は最早工面出来なくなってしまっていた。
故に此度の雷鳥の置物を手に入れた事は、余にとって少年時代の無念を晴らす事になってくれたのである。



 一位一細工・「合掌造」

<追伸>
更に2018年3月31日には一位の原木を自然の状態で土台にした、2羽の雷鳥を模った「一位一刀彫」を手に入れた。

画像最上段
因みに一位の木は岐阜県の「県木」で、雷鳥は同県の「県鳥」なので、此の作品は正に岐阜県(特に飛騨)を象徴していると言える。
此の作品の寸法は高さ:35cm、幅:23cm、奥行:12cmあり、余の収集している「一位一刀彫」の中では最大級である。
しかも木の色がまるでチョコレートの様な焦げ茶色にまでなっている事から、推定で約50年は経つ年代物と思われる故、年代に於いても余のコレクションの中では最古の物である。
一刀彫に使う一位の原木は、樹齢400年ないし500年にも上る古木で、美しく細かい年輪が刻まれている「自然の芸術品」である。
そして此の長い年月を生きて来た古木は、あたかも「御神木」の様な神秘性を感じさせるのである。
彫り立ての新品の色は比較的明るめの赤茶色で、此れが経年するに連れて色が濃く深くなって行く。 
正に「一位一刀彫」は「自然の美」と「職人の技」が調和、融合した芸術品なのである。

 

ところが、「岐阜県森林研究所」のホームページによると、本来「一刀彫」に使われる原木の殆ど全てが天然の一位で賄われているのだが、現在此の原木の調達に於いて深刻な問題を抱えているとの事である。

其の理由と言うのは、最近の異常気象が影響して原木に使える一位の木が育ちにくくなっているとの事である。

一刀彫で使用する原木の条件は、年輪幅1mm以下、直径30cm以上の通直・無節材である。

此れを満たす為には樹齢が最低でも150年と計算される。

又、一位の木の成長は非常に遅い為、利用出来るまでに相当な年月が必要とされ、造林には不向きであった故、今まで殆ど造林される事が無かったのである。                                                 而も、一刀彫に適した一位を育てる為には、通常の育林体系(造林木を出来るだけ速やかに目的の径級まで育てる)とは逆の発想で、必要以上に太らない様に発育を調整しながら必要な材質に誘導する技術が求められるとの事である。                   

其の上、昭和49年に制定された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、一位以外の木材を一刀彫には使えないのである。

(一位以外の原木を使えば、最早「一位一刀彫」に能わざる也と解釈されるのである。)

 

工芸品、骨董品、等は代金を払えばすぐに手に入るが、「自然の恵と美」はお金で買える物では無い故、誠に尊く有り難い存在なのである。

其れだけに、此の「一位一刀彫」にも、他の伝統工芸同様に今後是非とも生き残ってもらいたい物である!
そして余も芸術家の1人として、これ等の「自然の恵と美」を精神の養生として、これからも精進して行きたいと願うばかりである。
更に付け加えるなら、高貴な家柄と血筋、高い学識と教養、天性の才能と人格、大いなる思想と目的、等も決して金で買える物では無い。
これ等の条件を持ち合わせている人間は勿論、最も幸福で高貴で偉大であるが、これ等の価値の分かる人も大変素晴らしいと余は思うのである!

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