若き天才画家G.Seurat(スーラ)の生涯と点描法 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

今年の1月に余は大阪市の日本一高いビル「あべのハルカス」16階にある美術館にて「新印象派展」を鑑賞して来た。
今までImpressionismus(印象派)の作品は数多く見て来たので、当初は見に行く必要はないと思っていたのだが、念の為、当美術館に尋ねた処、何とGeorges Seurat(スーラ)の絵が8点と、彼の使っていたパレットまで展示されている事を聞いたので、直ちに見に行って来た次第である。
此の画家Seuratは僅か31歳の若さで急逝した為に、彼の作品数は自ずと少ない。

 "Le Maison entre Arbre" (1883) 「木の間の家」

余の様に欧州10か国及び日本の多数の美術館、博物館、城館、教会、寺院、等で膨大な数の美術品を観て来た者ですら、Seuratの作品はMusee d'Orsay Paris、 Národni Galerie Praha、 ひろしま美術館、倉敷市大原美術館、香川県高松美術館(特別展)、山口県立美術館(特別展)等で通算9点見て来たに過ぎない。

其の上Seuratの作品は彼の自国フランスのみならず、イギリス、オランダ、アメリカ、等の各国に散らばっているので、彼の作品を一度に多数見る機会は極めて稀である。
故に今回の様に日本で一度の展覧会で8点もの彼の作品を見れる機会は先ず無いと思われる。

 

画家Seuratの生涯について書き記すと、彼は1859年12月2日に首都ParisのBondy街60番地に当市の執行吏(公務員)である父Antoine Seurat と母Ernestine(旧姓Faivre)の間に第3子として生まれた。
16歳の頃に母親方の叔父でアマチュア画家のP.A.Faivreを通じて、美術に親しみ、其の才能を見出され、1878年に18歳になってParisの国立美術学校に入学し、Henri Lehmann教授の下で学んだ。
当時の美術学校のAkademismus(美術学校主義:限定された主題の元に、技術ばかり重視して、個性、独創性の乏しい様式)の中では、Seuratの成績は平均以下と評定されていた。
(逆に言えば、当時の美術学校が彼を正しく評価しなかったとも言える。)
翌年にSeuratは彼の親友の画学生Aman Jeanと共に美術学校を辞め、独自の様式を確立させる為に科学者Dove、H.v.Hermholz、J.C.Maxwell等の著したChromatik(色彩学)の本を読む事で理論的知識を深めて行った。
1882年、23歳頃には彼独自のPointillismus(点描法)を確立させた。
それまで絵筆で画面に大量の絵の具の「点」を打つ事によって描く技法は前代未聞であった。
人間が先人の成した事を受け継いだり、模倣する事は簡単だが、自ら前例、手本無しで物事を創り出す事は誠に難しいのである。
「凡人は他人がすでに通った道を通る。天才は己の道を自ら切り開く。」(我が格言集より)
又、我がPreußen御出身の大天才哲学者I.Kant先生(1724~1804年)は「天才の第一の素質とはIndividualität(個性、独創性)であり、其れは規則によって学び取れる熟練の能力ではない。」と定義付けておられる。
そして、天才の仕事(作品)はしばしば彼の生存中は正当に評価される事が少なく、寧ろ後世で高く評価され、社会に大きな影響や貢献をもたらしているのである。
実にSeuratのPointillismus(点描法)の理論と技術は現代社会に於いて印刷物の画像、テレビ等の映像に応用されているし、彼の作品も他のImpressionismus(印象派)の画家E.Manet、C.Monet、 A.Renoir 、E.Degas、C.Pissallo、 P.Cezanne等と同様に高い評価と人気を保っている。
そう云う意味ではSeuratは誠の天才であると言える。

彼の代表的な作品(油彩画)として、

"Une Baignade Anieres"(1883~84年作)

「アニエールの水浴」、

イメージ 1

 "Un Dimance d' été de la Grande Jatte"(1884~85年作)「グランドジャット島の日曜日」、

1885年に描いたGrandcampの海の風景(x4点)、

"La Maria, Honfleur"(1886)「オンフルールのラ・マリア号」

1886年に描いたHonfleurの港の風景画(x6点)、

 "La Pont de Courbevoire"(1886~87年作) 

「クールブゴワの橋」、

"La Paseuses"(大作と小作品1886~88年作)、

 "La Parade de Cirque""(1887~88年作)、

"Dimance à Port en Bessin" (1888)  

「ポール・アン・ベッサンの日曜日」、

1888年に描いたPort en Bessinの港の風景画(x6点)、

1889年に描いたLe Crotoy"港の風景画(x2点) 、

"La Tour Eiffel"(1889)「エッフェル塔」

"La Chahut"(1890年作)、

 "Jenne Femme se Poudrant"(1890年作)、

La Canal de Graveline(1890)「グラヴリヌの水路」

1890年に描いたGravelineの港の風景画(x4点)、

そして未完成に終わった "La Cirque"(1890~91年作)「サーカス」 等がある。
其の他、約500点程の木炭デッサンも残されている。
これ等のデッサン作品は外線を強調する事無く、あたかも霧の中でぼかした様な幽玄な技法によって仕上げられている。
これ等の油彩画、木炭デッサンは共に、彼の言葉「対象物は線で見るよりも、色価を感じて見るべきだ。」を具現化しているのである。
Seuratが自分の作品を展示した時には、観衆や批評家から「まるで紙吹雪で描いた様な絵だ!」とか「モザイクの出来損ない。」等と酷評された。
其の後、彼の作品は彼が(ジフテリアと髄膜炎が原因で)亡くなるまで官にも民にも正しく評価される事は無かったが、彼の仕事が他の"Neo-Impressionismus"(新印象派)の画家P.Signac、A.Devois-Pillet、M.Luce、L.Hayet等の手本となったのである。
そして彼らがSeuratの死後、Pointillismus(点描法)を受け継ぎ、フランスのみならず隣国のベルギーの画家H.E.CrossやTh.v.Rysselberghe等にまで影響を及ぼすまでに至った。

余談になるがSeuratの肖像写真を見ても、彼は背が高く、焦げ茶色の髪と瞳を持った美男子である。
又、彼の友人達の証言によると、其の人柄は寡黙で物静かであったが、高い知性を持ち、芸術家としては大変几帳面であったそうである。
又、人間関係も僅かに限定して、自分の私生活については殆ど他人に知らせない「秘密主義者」であった様である。

扨、此れよりSeuratが他の画家に先駆けて実践したChromatik(色彩学)の理論について解説する。
先ず「色の三大要素」(又は「三属性」)としてHue(色相)、 Value(明度)、そしてChroma(彩度)が挙げられる。
原色を元に様々な色を創り出すのに複数の色を混ぜるのだが、其の方法としてAdditive Farbmischung (加法混色)とSubtraktive Farbmischung(減法混色)の2つがある。
Optik(光学)の場合は前者で、色光の三原色のR(赤)G(緑)B(青)を重ねる事で、色の三大要素が皆共に高くなる。(加法される)
絵の具や塗料の場合は後者で、顔料の三原色Magenta(赤紫)Yellow(黄)Cian(青緑)を混ぜ合わせる事で色の色の三大要素が皆共に低くなる。(減法される)
実例を挙げると、+白=ピンク、白+、等がある。
これ等の様に色(絵の具)を2色ないし3色混ぜる程度ならば、色相、 明度、彩度が著しく低下する事は無いが、流石に4色以上混ぜるとこれ等の三大要素はかなり低下する。(即ち色が暗く濁ってしまうのである。)
Impressionismus(印象派)の画家達は「色の明るさ、鮮やかさ」を特に重視し追求した為、出来るだけ色を混ぜない事、そして「黒」やVan Dyck Braun(焦げ茶)やPreußisch Blau(藍)等の強く深い色の使用をなるべく避けたのであった。
しかしSeuratは其れだけでは満足せず、絵の具を直接パレットの上で混ぜるのではなく、画面(キャンバス)の上に多数の異なる絵の具の点を並べる事によって、人間の視覚上、画面の異なる点が互いに混ざって別の色に見えると云う効果を発明したのであった。
此れによって「色の三大要素」の色相、 明度、彩度を減退させる事無く様々な色を生み出す事に成功したのである。
勿論これ等の科学的な理論は、余の作品制作にも効果的な実践として作用してくれている。

最後に余自身がSeuratから受けた感銘と影響について書く事になる。
余がSeuratの作品を初めて美術の図書より知ったのは、11歳の時であった。


"Steinklopfer mit Schubkarre" (1882)「砕石工夫と手押し車」

其の当時は今まで見た事も無い「色の点」によって描かれた秩序と静寂の漂う絵を見て、何とも不思議且つ強烈な印象を受けたのを今でも覚えている。

又、彼が僅か31歳で世を去ったにも拘わらず、此れだけのSensation(画期的な事)を成し遂げた事から、幼少ながら彼のGenialität(天才性)を感じたのであった。
そして直ちにSeuratの画集を小学校の図書館から借りたり、書店で購入したりして、其の作品を模写したり、色彩学についても独学で学ぶ様になったのである。
大抵の場合、芸術学生が絵画を本格的に学ぶのは、高校の美術科ないしは芸大の絵画科なのであるが、余は小中学校の頃よりすでに、学校の授業や宿題等はいい加減に済ましておいて、絵を描く事とプラモデル作りと読書(自分の好きな分野のみ)に没頭していたのである。
其れから時が経って、余が学んだドイツのKunstakademie Dresden(ドレスデン国立芸術大学)の学術科では様々な学科があったが、以外にもChromatik(色彩学)の専門的な授業は無かった。
本校を卒業し、一旦日本に帰国した余は、2年に渡って理容美容専門学校の美術の講師を務める事になった。
此の学校で「色彩学」の授業を進行する中で、余はSeuratのPointillismus(点描法)を実例として採り上げていた。
1997年以来、余は我がGeistige Heimat(魂の故郷)となる首都Berlinと Brandenburg州に住み、当地最古の都市Brandenburg/H(938年設立)の大聖堂(1165年建立)の牧師Christian Radeke氏と云う親友を得たのである。
彼は牧師でありながら、大層芸術や美学に造形深く、其の知識は中世のRomanik、Gotikから現代に至るまでの芸術に幅広い知識と理解を持っているのである。
其のRadeke牧師の務めるBrandenburg/Hの大聖堂で、余が1998年に当市1050年記念祭の事業として個展を開催した際に、彼の家で余がSeuratのPointillismus(点描法)を模倣する事から油絵を始めた事を打ち明けると、流石に彼も目を大きく見開いて驚いたのであった。
通常ならば、先ずAkademischer Stil(美術学校の様式)で基本を学ぶのであるが、余が其の様な異例とも言える方法で学んだ事は全くの予想外だったのだろう。
増して余の1989年以降の写真と見まがう程写実的に細密に描かれた作品からは、とても想像が付かないだろうと思われる。
それでも尚、余の絵の中ではレンガや屋根瓦を一つずつ描いたり、又は樹木の葉を描く為には今でもPointellismus(点描法)を実用しているのである。
そう云う意味では余もSeuratの発明と遺産を受け継がせて貰っているのである。
「遺産」と言うと金銭や不動産と云った物件を連想する人が圧倒的に多いだろうが、余は其れだけでなく、人が後世に残す思想や知識や技術も貴重で掛け替え無き遺産であると確信している。
因みにRadeke牧師もオランダのRijksmuseum Kröller-Müller Otterloに来館した時、沢山のV.v.Gochの作品群の中で、Seuratの2点の作品があったのを覚えているのである。

Seurat以外にも僅か31歳で世を去った天才、英雄は余が知るだけでも、楚(古代中国の一国)の『西楚覇王』と呼ばれた項羽(紀元前233~202年)、日本では『朝日将軍』と称された源義仲公(1154~1184年)、「判官びいき」で今でも人気者の源義経殿(1159~1189年)そしてオーストリアの天才作曲家Franz Schubert(1797~1828年)がいる。
幾人かの歴史家や評論家は「もし彼らがもっと長生きしていたら、どうなっていただろう?」等と仮説を立てる事があるが、余は彼らが短い生涯の中で可能性を十分に生かし、自分達の能力を遺憾なく発揮し、後世に永遠に残る偉業を成し遂げた、大変有意義な人生であったと信じて上げたいのである!

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