今年の作品制作状況と我が芸術家としての生き方 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

2015年になっても昨年に引き続き、新たなる主題『天台宗寺院』の元に制作を続けている。
詳しくは当ブログの記事:『プロデビュー20周年を迎えて、及び新たなる主題「天台の寺院」』参照。

我が経歴については当ブログの「プロフィール」参照。

 

『曼殊院・通用門』


1月15日に昨年末より取り掛かっていた『曼殊院・小書院』の絵を完成させた。



2月4日には京都・嵯峨の名刹『二尊院』の「総門」の絵を完成させ、同月15日には、当寺院の「本堂」が完成した。
前年に多発した雑用との関係で、制作にいつもより時間を費やしていた故、『二尊院・本堂』の絵を僅か11日で仕上げた事は、此れからの制作の為に大変有効である。

 


2月28日には『真正極楽寺・正門』(真如堂)を完成させた。
3月になって10日には『真正極楽寺・真如堂(本堂)』を完成させた。

23日には『聖護院・総門』を完成させた。
我ながら驚く事に、30日には『聖護院・宸殿』を僅か7日で完成させた。
一枚の作品を僅か7日で完成させるのは、もう何年も経験していないので、今年は如何に調子が良いかが分かる。


4月1日より、再び総本山・延暦寺の『根本中堂』を大正11年(1922年)の絵葉書、其の他の写真資料を元に描き始めた。
何故か言うと、2011年に制作した『延暦寺十景』は翌年に当寺院に奉納しているので、今度は自分の心の拠り所として我が家に置いておく絵を、仏教で最重要の記念日”灌仏会”(釈尊の御誕生日4月8日)に描いておきたいと願うからである。

(当ブログの記事:『作品集「比叡山延暦寺十景」奉納、及び我が家に来た「不動明王像」の事』参照)

丁度、今や遠く離れている我が心の故郷Berlin, Potsdam, Brandenburhg/H,3都市の眺望の油彩画を、美しく輝く我が地元での業績と思い出の象徴として我が手元に留め置いているのと似ている。

(当ブログの記事:『我がブログデザインBerlin, Brandenburg主題への新調の事』参照)

最初の『根本中堂』は真正面からの構図で描いているが、今回は角度を変えた斜めから見て、其の後ろには1956年に謎の火災によって焼失した「旧・大講堂」も見える構図で描いている。
意図的に昔の絵葉書を利用するのは此の「旧・大講堂」を背景に描く為である。

『出雲寺・通用門』

『出雲寺・毘沙門堂』
流石に今回は、製作の途中で3件も小論文、随筆を作成した事、同月11日に三井寺(天台宗寺門派総本山)と京都・山科の毘沙門堂(天台宗五大門跡寺院の一つ)を参拝、取材して、これ等の写真アルバムを編集した事、及び友人達との行き来が多かった故、完成まで比較的時間を要したが25日には完成した。
此れにて『天台宗寺院』の絵を合計27点完成させた事になる。
今年になって制作状況は大変好調で、11日ないしは12日に1点のペースで描き上げている!

其の一方で余は健康管理と気分転換と幾分のNarzißmus(自己愛)から、ウェイトトレーニング、格闘技の練習を今年で既に通算30年続けている。
しかし今年の3月は異例な程気温が上がらず、田舎のボロ別荘にて体を温度に適応させるのが結構大変であった。
余の実家のある市(東区)の中心地とボロ別荘のある同区の端では僅か6kmしか離れていないのに気温が4℃ないしは5℃も違う。
其の上、余が冬でも実家からボロ別荘まで(準備運動の為)自転車で移動して、(勿論室内暖房をして15℃程で)短い水着一丁とリストバンドだけの出で立ちでウェイトトレーニングをするので、温度調整も体調管理と同様に重要な条件なのである。
何故なら人間の筋肉は(激しい)運動の際、筋肉を傷めない様に体温調整をして、血液を筋繊維に十分満たしておかねばならないからである。
車両に譬えるなら、空気の十分入っていないタイヤで猛スピードで走行するのと似たりである。
又、低温の中で運動をするのは筋肉系統のみならず、呼吸器官にも非常な負担をかける事になるのである。
過激なスポーツや運動をする者は何よりも先ず自分の体の管理と、其の為の堅実な準備を常に心掛けておかねばならないのである。

1日平均12時間も絵を描いて、其の上週5日自分の体重(69kg)の2~3倍の(負荷)重量でウェイトトレーニングをするのでは、身が持たないのではないかと、普通の人は思われるかも知れない。
尤も余にとっては芸術制作、研究及び活動は信念と生き甲斐を持って行っている事なので、其れに関して嫌気もストレスも感じる事は無いのである。
制作途中で厳しいと感じる事はあっても、其の分だけ作品を完成した時の満足感と充実感は大変な物である!
ウェイトトレーニングに於いても同様で、激しい運動をしたからと言って報酬がある訳でもないし、ただ好きでしょうがないからこそ続けられるのである。
又、スポーツの継続によって栄養を正しく摂取する事や規則正しい生活も常に意識して続けられるし、其の上これだけ厳格な鍛錬を積んでおけば、自分の肉体、精神共に絶対的な自信が持てるのである。
正にラテン語の諺”ANIMA SANA IN CORPVS SANVS”(健全な精神は健全な肉体に宿る)の如くである。
人間、自信と希望と目的を失ってしまえば、其の人生は全く無意味、無価値と化してしまう。
余はそんな抜け殻の如き人生は真っ平御免である。
長年に渡るレーニング及び大学等で学んでいた医学知識の御陰で、脳年齢は4種類のチェックテストを受けた結果は平均25歳であるし、視力も両眼1.5あるし、毛髪も同世代の女性よりも本数が多いし、今だにスリーサイズはB:105、W:68、H:93(cm)、上腕周り:37cmを維持している。 

(参考に身長は173cm)
因みに画家にとって「視力」も「技術」、「個性」、「思想」と並んで最重要条件の一つである。
余は自分の視力を維持する為に、絵を描く時、字を書く時、其の他の作業共に対象物から30cm以上目を離して行う様にしている。
更に外出時には出来るだけ遠景を見渡したり、「色彩科学」でも目の健康に良いとされる植物の緑を見る様にしている。

仕事ではボランティア同然の(公共事業としての)芸術活動をしているので、個人の収益など無いが、本来の物質的財産のみならず、Gesundheit「健康」並びに彫の深い端正な顔及び超筋肉質な体を兼ね合わせたSchönheit「美しき容姿」に恵まれている事には大層な幸福感及び充実感を感じている。

(これ等は日本人、ドイツ人の友人達が共に認めてくれている事なので、「この自惚れ屋め!」等と言わないで頂きたい。)
我が親類や友人達も「実秋さんは其れだけ綺麗なんだから、個展の時に人前に出ればもっと人気が高まるのに…」と皆言ってくれる。
実に余の個展の時にも、取材に来たマスコミや入館者の幾人かが「奧山実秋さんてどんな人なんですか?」と毎年の如く尋ねられるらしい。
「どんな人かだと? 貴様ら展覧会場の余の経歴を書き付けている大きなパネルが目に入らんのか!」と言いたい処ではあるが、博物館の職員の話を聞いていると、どうやら彼らの関心は余の容姿らしい。
そもそも芸術展覧会とは其の作品を鑑賞する為に開催するのであって、作者の容姿等どうでも良い事ではなかろうかと思えるのである。

(人を外見だけで判断するのは「目あきめくら」である。)

余は己の名声や人気を高める為に、自分の美しい容姿を利用する事は、些か「邪道」であると思う故、大衆の前に出る事は常に(はばか)る様にしている。
余の大好きな(爆乳美人の)グラビアアイドルならともかく、美麗(又は豊満)な容姿のみで自分を宣伝するのは才能に欠けた者の所業であって、『天賦の才』を持つ者は其の才能のみで勝負するべしと存じている。

社会に於いて自分や其の家族が生活する為にのみ、好きでもない仕事をしている者共は、ストレス解消の為に成程遊ぶ事を必要とする。
其れに対し、余は個人的に遊ぶ事自体「人生」と言う時間を無駄に消費する事になると考えるので、遊びたいと云う気持ちになれないのである。
又、信頼も出来ない、学ぶ事も無い、役にも立たない、低俗な下賤、下姓の輩とも馬鹿馬鹿しくて関わり合う気にもなれないのである。
此の様な事を書いていると、「此の芸術家は高慢で、人情味の無い、心の硬く冷たい≪唐片木≫だ!」と思われる御仁もいるかも知れない。
しかし、余は思うに「芸術家」と言う特別な仕事は、低俗で凡下な考え方や見方しか出来ない者では到底務まらないのである。 そして、これ等の輩にはなかなか理解出来ない存在でもある。
故に人間社会を内側から観察、考察するだけでなく、そこから逸脱して外側からも観察、考察すると云う一般人では出来ない事をしなければならないのである。


一例に譬えるなら夏目漱石先生の書いた小説「吾輩は猫である」、又は余の17歳の時の幻想画※『鷲と狸の哲学者』の様に、人間社会を人間の立場から見るだけでなく、其の他の生物の立場から見つめる必要もあるという事である。

そうでなければ人間の本質を総合的に正しく見通す事が出来ないのである。
そう云う意味で芸術家は、あたかも昔の「隠者」や「修行僧」の如く、幾分浮世離れした存在でなければならないと考えている。

(※因みに此の奇想天外な絵は余が高校時代に授業中に退屈凌ぎにスケッチブックに描いた落書きを元に油絵に立ち上げた物である。)

最近の(自称)芸術家と言う輩は、ただ奇抜な事や斬新な事をすれば大衆受けすると思い込んでいる才能、個性、思想、共に欠落した「大戯け」が殆どである。
余は首都Berlin, Brandenburg州そして比叡山延暦寺に公認されている芸術家として、もしこれ等の大戯け共と一緒にされる事があれば慙愧の極である。
そもそも芸術家とは其の作品や業績が官にも民にも認められて、初めて「一流」なのであって、自称芸術家の存在価値等ある訳が無い。
余は何よりも先ず芸術家の仕事として最も重要な要素とは、人々を感動させると同時に啓蒙する(正しい事を教え諭す)事であると確信している。
現代社会では情報技術の飛躍的な進歩により膨大な量の情報、知識、資料等を簡単に入手出来る様になっている。
しかし其の一方で大部分の現代人は情報や報道に振り回されて、自ら考えたり、判断したり、創造する能力が昔の人達に比べて著しく低下している様に見受けられる。
そもそも芸術家の仕事は誰よりも「創造力」「個性」を必要とするので、真の芸術家は此の様なEpigonentum(模倣主義、又は他人思考主義)に決して陥ってはいけないのである。
余の絵画作品は『超絶技巧』を駆使して描き上げているので、どうしても表面的な美しさだけで評価されてしまいがちである。
しかし実際は、其の作品の中にはGeschichte(歴史)、Philosophie(哲学)、Psychologie(心理学)、Architektur(建築)、Naturkunde(自然科学)、Ethnologie(民俗学)そしてReligion(宗教)等と云った"Wissenschaftliche Elemente"(学術の要素)が十分に含有されているのである。
又、余の論文、随筆を読まれた方々の何人かは御気付きになっているかも知れないが、余は様々な主題の上で文章を書いているが、自分の作品(特に技術的な事)については殆ど記述していない。
何故なら、自分の作品の表現力には絶対的な自信をもっているし、自分の作品について一々言葉で説明するの者は、其の作品の表現力が乏しいから事だと考えるからである。
大文豪J.W.v.Goethe(ゲーテ)先生の御言葉"Die Kunst soll nicht Gift für die Augen ausdrucken."(芸術は目の毒になる物を表現するべきではない。)の如く、余も世の中の醜い物事は極力描かない様にしている。
だからと言って美しい物だけ見ているのでは、世の中の真実を正確に把握する事は出来ない。
其れ故に絵画では表現し切れない、世の中の間違った事、醜い事、悲惨な事も文章では表現して行こうと思っている。
とは言え余にはSchönheit(美)、Glück(幸福)、Erfolg(成功)、Herrlichkeit(素晴らしい物事)を賛美する事の方が断然心地良いのである。

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