「4月」に因んだ我が思い出と偉人達の逸話 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

此度は「4月」と云う事に因んで、余の地元Brandenburg州に纏わる思い出を綴って行く事になる。
今年2015年4月1日は我がPreußen王国、後のDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国)のReichskanzler(宰相)Otto von Bismarck(ビスマルク)閣下(1815年~1898年)

200年目の御誕生日である。
此れを記念にドイツ本国では記念の切手と10ユーロの貨幣が発行されている。
余は此れを予測していたので、早速我が地元Brandenburg州の都Potsdamに住む文化・芸術支援団体"Rosenweiß Verein"(白バラ協会)の事務長であり、我が友人のSiegmund Radtke氏に注文しておいた。
彼からこれ等が送られて来るのが楽しみである!
(追伸:彼からの連絡によると、記念の切手は現地で大変な人気で、特注してようやく6月1日に届いたそうである。)
彼が注文した絵を余が描いてPotsdamに送って以来、彼は余の好きな物を良く知っていて、今まで何度も素晴らしき贈り物を届けてくれたのである。
Bismarck閣下の御生まれになった町SchönhausenはBrandenburg州の最古の地方Altmark(アルトマルク)の中心市Stendal及び歴史的町並みを残すTangermündeとElbe川から東へ約4kmに位置している。
Bismarck閣下の御生家(Schloß Schönhausen)は残念ながら1958年に解体され、残っていないのだが、余は当町も地元の友人と訪れた事がある。


又、1995年に余がStendal市のAltmärkisches Museum

(アルトマルク博物館)にて2回目の個展を開催した時の事である。

開会式の時にBismarck閣下の奥方Johanna様の生家の御子孫のVon Puttkamer婦人が余の個展に御越し下さっていたのである。
Von Puttkamer家はPreußen王国でも名の知れた貴族(男爵)で、歴代20名以上の上級将校(多くは将軍)、10名以上の政治家(州議会議員)、数名の文学、歴史作家等を輩出している。
又、当家のStammhaus(御実家である館)も我が地元Brandenburg/H市から南へ約15kmのWollinに立っている。
有難き事にVon Puttkamer婦人から余に話し掛けて下さって御話をさせて頂いた処、彼女はDDR(東ドイツ)時代はさすがに社会主義体制が貴族に対して厳しい故、当時は西Berlinに御住まいになられていたのだが、1990年に東西ドイツが統一された後、再びStendal市に御戻りになられているそうである。 

又、余の個展や作品にも大層御関心を寄せて色々と御尋ね下さった。
当時彼女は自ら御名前を名乗られなかったのだが、後で博物館の学芸員長から彼女の氏素性を知らせてもらって、大変光栄な出会いであったと思った。

 

4月2日はデンマークの童話作家Hans Christian Andersen(1805~1875年)の誕生日である。
彼は今でこそ世界中で其の名と作品が知られているが、其の伝記を読んで見ると、元々貧しき家庭に生まれ、先ず舞台芸術(バレエ)を志して挫折、度重なる失恋、童話作家に転身するも其の作品は晩年まで認められる事が無かったので、其の生活も楽ではなかった様に、彼の生涯は苦労の多い悲壮感に満ちていた。
其れでも彼の没後、其の作品は世界中で認められ様になったのだから、彼の苦難は最後には見事に「大逆転勝利」で報われたと言うべきである。
実は我が従姉妹が彼と同じ誕生日である事を聞いて知った事である。

 
4月5日に遂に長年探し続けていた、ドイツの大作曲家Georg Philipp Telemann(テレマン 1681年~1767年)作曲 Konzert für Trompete, 2Oboes u, Bc. D-dur (TWV43-D7)を遂にCDにて手に入れた。
此れにて余の所有するTelemannの作品は計113曲になった。 (其の後151曲までに増える。)
此の曲は1970年代にTBSの番組「時事放談」(毎週日曜日午前10時頃)のテーマ曲として使われていた。
此れを我が親父殿が毎週見ていたので、余も当時幼少ながら(大して訳も分からぬまま)一緒に見ていたので、此の曲の第2楽章Vivaceのメロディーをはっきりと覚えている。 


更に1998年余がまだBrandenburg/H市に住んでいた頃、当市のDom(大聖堂)の音楽会に当大聖堂のオルガン奏者で指揮者でもある知人のM.Passauer氏に招待された。
何と嬉しき事に此の時の音楽会で此の思い出の曲を、彼が指揮して演奏してくれたのであった。
余は当時此のTelemannの作品は人気のある曲なので、簡単にCDで入手出来るだろうと思っていた。
ところが不覚にも余は此の曲の題名をKonzert für Trompete D-dur(2Oboesが抜けていた)と勘違いして探していた為、今まで見つける事が出来なかったのである。
而もTelemannは其の86年の生涯に約2000曲を作曲しているし、未だに彼の作品目録(TWV=Telemann Werkverzeichnis)でさえまだ完全とは言えないし、録音されている曲もほんの一部なので、1曲を探し当てる事も決して容易ではない。
流石に我が親父殿と地元Brandenburg/H市のDom(大聖堂)の二重の思い出のある曲だけに、此の曲を手に入れた事は何とも嬉しき思いであった!
「計画的に成し遂げた事より、殆ど諦めていた(又は殆ど見込みの無い)事が成就する方がずっと幸せを感じる。」(我が格言集より「幸福」について)

 Dom zu Magdeburg
因みに此の作曲家G.P.Telemannとも余は特別な共通点がある。
先ず、彼は1681年3月14日にMagdeburg市に当市の牧師の息子として誕生した。
即ち酉年の魚座であるので、我が親父殿と干支、星座共に同じなのである。
又、1685年即ち彼が僅か4歳の時に年御父上を亡くされている。
元来彼の故郷Magdeburg市には歴代Bishof(大司教)が存在し、 Bistum Magdeburg(大司教の領地)として栄えていたのだが、このBischof(大司教)の家系が死滅した為、Telemannが生まれる前年に此の Bistum(大司教の領地)は解体され、Groß-Kurfürst Friedrich-Wilhelm von Brandenburg(ブランデンブルク大選帝侯)の領地となったのである。 

後の1701年にKurfürst Friedrich. Ⅲ von Brandenburg殿下がKönigreich Preußen(プロイセン王国)を成立され、初代国王としてKönig in Preußen Friedrich.Ⅰ世と成られたのである。
要するにTelemannも我が心の故郷Preußen出身という事になる。


本来Telemannは生前の名声、地位、業績に於いて、かのJ.S.Bach(バッハ)を遥かに凌いでいたし、当時ドイツ語圏内で最も重要な作曲家の一人とされていた。
にも拘わらず19世紀以来、次第に其の存在感は希薄になり、遂には忘れ去られてしまった。
ところが近年(1980年代)になって、再び彼の作品は再評価され始め、研究も進められて来ている。
今後も彼の未だ知られざる作品が演奏、録音される事を願って止まない。


4月8日は釈尊(お釈迦様)の御誕生日として「降誕会」(ごうたんえ)「灌仏会」(かんぶつえ)又は「花祭り」等と称して、全国の各寺院で毎年恒例の祝典儀式が行われている。
釈尊の事については他の記事『比叡山延暦寺の為の「釈迦八相成道図」』に書き記しているので参考にされたし。

 

更に4月15日は余の敬愛するL'Ecole de Barbizon(バルビゾン派)の代表的画家Théodore Rousseau (ルソー画伯、1912年~1867年)の御誕生日である。
日本ではL'Ecole de Barbizon(バルビゾン派)の画家で特に有名で人気があるのは、J.F.Millet(ミレー 1814-1875)、J.B.C.Colot(コロー 1796-1875) そしてG.Courbet(クールベ 1819-1877) の三人で、彼らの展覧会は今まで日本で何度も開催されている割には、其の他の画家の名は余り知られていない。
それどころか”Rousseau”の同じ名字から、子供の描いた様なnaiv(素朴な)写実画で知られるHenri Rousseauと勘違いされる事がしばしばである。
今まで余もフランス、ドイツ、日本、其の他の国の美術館でRousseau画伯の作品を30点以上観て来ているが、彼の単独の画集は残念ながら母国フランスでも発行されていないので、余は各美術館のカタログや図録から彼の絵の画像をコピーして作成している。
余は人物や物事を評価する際、一般の流行や人気や評判に左右されず、常に自分独自の理念を元に判断している。
そんな余の個人的な美的感覚ではTh.Rousseau画伯の作品が一番好みに合うのである。

Th.Rousseau: "La mare près de la route, ferme dans le Berry"  ルソー作「ベリー地方の道沿いの池と農家」 

Th.Rousseau: "Le Paysage français" 

ルソー作「フランス田園風景」

L'Ecole de Barbizon(バルビゾン派)の画家達の作品の中で、彼の絵は最も自然に近い色を出しているし、其の上最も暖か味があり、其の作品から彼が「自然」を崇高なるMotiv(主題、対象物)として愛し描いていたのが解かる。
正に其の作品は彼の名言「真実と真心を持ってのみ、我々の芸術は感動に到達する事が出来る。」を其のまま具現化しているのである。
Th.Rousseau画伯の御両親は首都ParisでBoutique(洋裁店)を経営して実家が裕福であった事から、金銭の為に作品を描く所謂「商売絵描き」に成り下がる事無く、儲け等度外視して御自分の理想を追求して仕事をしていた事にも、余は強く同感するのである。
又、彼は「自然」を愛するのみならず、友人も大切にする御人柄であった。
此の事を証明する以下の逸話がある。
彼の親友であったMilletは元々貧しい農家の出身であった事から、自分の生計を立てる為に当初は上流階級の好みに迎合した(神話や伝説を主題とする)絵を描いていたが、終には其れを放棄して自分が本当に望む自然風景や、大地の上で働く農民の姿を描く様になった。
其れ以来、作品が全く売れなくなって生活苦に陥っているMilletの処に、首都Parisの実家からBarbizonに戻って来たRousseau画伯が「君の絵がある裕福なアメリカ人に買われたよ。此れが其の代金だ。」と言って大層な金銭を自分の親友に与えた。
実際はMilletの絵は全く売れておらず、此の金銭はRousseau画伯からの親友の為の慈悲深き寄付だったのである。
此の慈悲によってMilletは経済的に助かっただけでなく、失いかけていた希望も持ち直す事が出来たのであった。
芸術家にとって成程其の作品が一番大事ではあるが、余は芸術家を評価する上で、其の作品だけでなく考え方や生き方も重視する様にしている。
そう云う意味でRousseau画伯は総合的に素晴らしき偉大なる画家であったと言える。



4月20日は世界中で誰もが知っているかのNazis党首で独裁者Adolf Hitler(ヒトラー)総統(1889年~1945年?)の御誕生日である。  
彼の事については同ブログの記事『日本とドイツに於けるファシズムの誤解と真実』および『第二次世界大戦(1939~45)』を参照してもらいたい。

 

余がドイツに住んでいた頃、1990年から2000年代初期、此の日は Hitler総統の誕生日という事で自称「右翼」を名乗るNeonaziだのSkinheadだのと云ったIdiot(脳足りん)共が街中で罪の無い外国人に暴力を振るったり、器物破損等の悪さをする事件が毎年の如く報道されていたのを今でも思い出す。
真の"Preußischer Patriot"(プロイセン愛国者)の1人として余は何とも恥ずかしく腹立たしき思いであった。


そして、4月22日は我がPreußen出身の大天才哲学者Immanuel Kant(カント先生、1724年~1804年)の御誕生日である。
余は自分が(清和源氏の流れを汲む)純粋な士族の血統に生まれている事に己惚れて、人を評価する際つい血統や家柄や人種を重視してしまう悪い癖がある。

余の最愛の戦争映画 "Der eiserne Kreuz" (1977年ドイツ・イギリス合作 ※日本では「戦争のはらわた」の題名で公開)の中にM.Schellが演じるPreußen貴族出身のStranski大尉が、J.Coburn演じる手練れのSteiner軍曹に言う。

「人の上に立つ者が優れた能力の持ち主である事は言うまでも無い。 だが其の血統や家柄も大事だ。」
其れに対しSteiner軍曹は「記憶が正しければ、Kantは革職人の倅でしたし、Schubertの父親は貧しい村の教師でした。 恐らく才能や人格や感受性は上流階級だけの特権とは言えないでしょう。」と言う名台詞で反論している。
Kant先生は正に此の名台詞を実証している代表的な御仁で、先生は14歳で母親を亡くし、22歳で父親を亡くすと云う悲しみと苦境を乗り越え、生まれ故郷Königsbergの大学で哲学、神学、ラテン語、数学及び自然科学を学ばれ、ずば抜けた成績を修められた。
卒業後は1746年から家庭教師から仕事を始められ、1755年より同大学の講師、 1770年に教授に就任し、同時にKönigsberg王宮の図書館の業務も兼任され、時のPreußen国王FriedrichⅡ世陛下にも認められ、最後には1786年には同校の学長に就任されるまで御出世されている。
教職と並行して、先生は"Schriften zur Geschichtsphilosophie"(1763), "Träume eines Geistsehers"(1766), "Kritik der reinen Vernunft"(1781), "Grundlegung zur Methapysik der Sitten"(1785), "Methapysik der Sitten"(1785), "Kritik der praktischen Vernunft"(1788), "Kritik der Urteilskraft"(1790) 等の代表作の他、多数の論文、随筆、書簡等を御執筆されていて、これ等の作品は今日でも哲学を学ぶ者達には不可欠な教材なのである。


余もこれ等の先生の代表作をドイツ語版で所蔵して、一部を読ませてもらっている。
一般的に先生の作品は批判的且つ大変難解であると言われるのだが、余が読んでみた限りでは、抽象的な批判の中にも自然を賛美したり詩的な表現も多々あるので、芸術的な美しさや格調高さも兼ね揃えられている様に感じるのである。
Kant先生のIQ(知能指数)は175あったと推定され、此の数値は歴史に名を連ねる天才、偉人達の中でも群を抜いている。
又、先生は極端な禁欲主義者としても有名で、酒やたばこ等の嗜好品も嗜まず、機械の様な正確で規則正しい生活を営まれ、一生涯女性と交わる事無く独身を貫かれたのであった。
此の様な人生を歩まれた先生には余もつくづく頭が下がる思いなのである。

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