天台仏教から見たキリスト教とイスラム教の対立について | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

かつて”Militärische Staat”(軍事国家)と称され、1871年にDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国)の統一を成し遂げた Königreich Preußen(プロイセン王国、1701~1871年)を余は少年時代より理想として、既に足掛け13年もドイツに住み、学業を”Kunststadt”(芸術の都)Dresden、そして芸術活動をかつて当王国の中枢であった首都Berlin とBrandenburg州にて成して来たので、ドイツ人に多くの友人、知人がいるし、多数のドイツ人にも自分の芸術作品や活動を正しく且つ高く評価して貰っている。
故に本来ならば同じ白人のキリスト教徒の味方をする処なのだが、いつもそうとは限らない。
此度は天台仏教を真剣に学んでいる者としての意見を述べさせてもらう事になる。

最近世界中の国々に於いて頻繁に報道されるキリスト教とイスラム教の対立と抗争を見ていて感じられるのは、キリスト教文化圏の諸国のマスコミの大半は一方的にイスラム教を邪悪な宗教として報道しているので、キリスト教文化圏の人々はイスラム教徒全体に対して誤解している傾向が著しく目立つ事である。
あくまでISとはイスラム教を名乗るテロ組織なのであって、本当のイスラム教徒とは敬虔で禁欲的で誠実な人達であると余は聞き及んでいる。
(どこの宗教にも所謂「外れ物」があるもので、キリスト教には「エホバカの証人」そして、仏教にも「不浄土真宗」という腐れ外道の宗派があるのと似ている。)
無論ISILによる誘拐、虐殺、テロ等の非道な行為は許される事ではないので、一刻も早く撲滅する必要がある。
だからと言って「有志連合」と名乗る国々もIS壊滅の「大義名分」の元にISの占領する地域に攻撃を仕掛けて、罪の無き現地の民間人の命まで奪う事も同様に許される事ではない。



では何故キリスト教とイスラム教が対立しているかと言うと、それぞれの宗教では自分達の唯一の神のみを信仰し、他の宗教は全く受け入れずに否定する排他的なDogma(教義)に起因している様である。
此れまでの両陣営の対立、抗争の歴史を振り返って見ると、「宗教」と云う文化的な要因だけでなく、自分達の勢力圏や領地を拡大すると云う、戦略的且つ経済的な要因も重大に関係している。
しかし、今回の主題はあくまで「宗教」即ち”Spiritalismus”(唯心論、精神主義)に属する事である故、 ”Meterialismus”(唯物論、物質主義)についての記述は省略する。
世界の様々な宗教や神話を研究する上で、大別するとMonotheismus(一神教)と Phantheismus(多神教)に分類する事が出来る。
キリスト教とイスラム教は「一神教」の代表格で、其れに対し仏教、ヒンズー教、Germanische Mythologie(ゲルマン神話)、 Griechische Mythologie(ギリシャ神話)、其の他世界中に存在する古代神話は大抵の場合「多神教」に属している。
此の「排他主義」が他者や他宗教に対する無理解や不寛容の根本的原因となっていると同時に、「一神教」の短所であるとも言える。

一方、仏教の歴史を振り返って見ると、先ず釈尊(紀元前565年~485年、衆聖点記説)によって成立、布教が成された仏教の発祥地インド及びネパールでは、現地に太古より存在しているバラモン教の神々を自分達の宗教に吸収し、更に紀元1世紀頃から中国に伝来して以後、儒教や道教の要素も吸収し、そして日本に538年に伝来すると、今度は日本古来の神々まで吸収すると云った具合に他宗教を排斥する事無く、闘争する事無く存続して来ている。
そう云う意味で、仏教はキリスト教とイスラム教に比べ、器の大きい寛大な宗教であると言える。



キリスト教もイスラム教もお互いに自分達の正当性ばかり一方的に主張せず、他人の立場や異なる(又は相反する)思想や活動に対して理解し、其れ等の存在を容認する様に努めれば、かの※Kreuzzug(十字軍遠征)以来続く対立、抗争を終結出来たかも知れない。
(※十字軍遠征は、第1回;1096~99年、第2回;1147~49年、第3回;1189~1192年、第4回;1202~04年、第5回;1228~29年、第6回;1248~54年、第7回;1270年と執拗なまでに行われ、1099年には”Kreuzfahrerstaaten”(十字軍国家)まで建国されたが、此の国は1187年に滅亡し、結果的には十字軍も完全撤退を余儀なくされた。)

心理学でも実証されている事だが、人間は誰しも多かれ少なかれ、「自分」を基準にしているので、どうしても自分が正しいとか、普通だとか思い込んでしまう傾向がある。
様々な人種の中で白人は特に此の傾向が強い。
中でも特にアメリカは自国が"Land of Freedom"(自由の国)を称する余り、イスラム教国にまでキリスト教基準の自由を押し付けようとしているのである。
アフガニスタンやイラクでの実例が示す通り、その結果は自由どころか、帰って混乱や紛争を起こして、これ等の国々に不幸を招き入れている有様である!
又、最近のヨーロッパに於けるイスラム過激派によるテロ事件の原因も、デンマークやフランスや其の他の国の無思慮で軽率な挿絵画家共が、イスラム教の開祖ムハンマドを風刺、揶揄した挿絵を新聞、雑誌等で一般公開した事である。
白人達から見ればこれ等は”Ausdrucksfreiheit”(表現の自由)に基づく、ユーモアを込めた風刺であって、決して侮辱ではないと説明しても、イスラム教徒達にとっては明らかに侮辱になるのならば、こんな事は直ちに止めるべきである。
増して彼らは自分達の信仰に命を懸けている位なのだから、自分達の開祖が風刺、揶揄される事は、自分が侮辱される事以上に不快で、耐えられないのであろう。
民事に譬えるなら、御節介焼のO氏が、M氏に対して親切と思ってした行為が、M氏にとってはかえって「有難迷惑」になってしまった事がある。
又は、学校である生徒に面白半分に付けた渾名が、本人の心を痛く傷着けていた事もある。
本当の正しい「親切」とは自分基準でするのではなく、あくまで相手の立場を配慮して為す物なのである。
そして冗談や
諧謔(かいぎゃく)も其れと同様の事が言える。

基本的に極めて右に傾いている余が此の様な事を述べても、大して説得力が無いかも知れない。
前述の我が心の祖国Königreich Preußen(プロイセン王国)の存在した18~19世紀の兵器では、複数の国家が戦争を繰り返した位では、世界が滅びる危険は無かった。
しかし現代の圧倒的な破壊力を有する兵器を使用して、複数の国家が戦争をしようが物なら、人間の世界はおろか地球までもが滅亡する事さえ危惧されるのである。
其れ故にキリスト教とイスラム教の対立を戒める立場を採るのである。
仏教と同様にキリスト教とイスラム教にも、他人の過ちや罪を許すGnade(慈悲)やToleranz(寛容)が最も重要なの教えの一つとして存在する。
其れならばGunade(慈悲)やToleranz(寛容を)同国、同人種、同宗教の者にのみ向けるのではなく、異国、異人、異教の者にも向けるべきではなかろうか。

人生に於いて自分のGlaube(信仰)を大切にする事も、キリスト教では成程Hoffnung(希望)、Demut(従順)と並ぶ”Die drei Tugende”(三つの美徳)の一つである。
だからと言って自分の宗教を絶対視する余り、他宗教を攻撃して良いという理由には決してならない!
神であれ仏であれ、彼らの授けた正しい尊い教えを人間達が悪用して、お互いに憎み合い、争い合う事等絶対に望んでいないのである!


最近ではISによって洗脳された者共による世界各地でのテロリズムの驚異、そしてヨーロッパ各国が多くのイスラム系移民を抱えている事(例:フランスには多数のアルジェリア人、ドイツには多数のトルコ人、イギリスには多数のパキスタン人、イタリアには多数のチェニジア、リビア人、スペインには多くのモロッコ人、等)が原因でヨーロッパ各国では国民意識が右傾化しているのが目立つ。
一方、日本に於いても同様に、最近の在チョン(在日朝鮮人)による凶悪犯罪の多発、南北朝鮮との外交政策上の対立が原因で国民意識がかなり右傾化している。
余は生粋の士族の家柄である上、親父殿が帝国陸軍の将校であった事や、親しくしていた元小学校担任の先生も戦中から教職に就かれていた事等、即ち生来「右の立場」にある事を運命付けられていた様な者なので、其れは止むを得ない事であると自覚している。
しかしながら余は国民の大多数が右傾化し過ぎる事は、いささか危険であると考える。
何故なら、以前の余の論文『日本とドイツに於けるファシズムの誤解と真実』にも書き記しているのだが、人間と言う生き物は自分達にとって有益な物事だけを「正義」と考える傾向がある。

繰り返し書くのだが、世の中を一方的にしか見ない者は必ず失敗するのである。

故に物事を全体的に把握するバランスのある感覚が大切なのである。

かつて釈尊(お釈迦様)も弟子達に、世界や物事を偏った観念で見たり、判断したりする事を戒め、「正しい見方」、「正しい考え方」を保つ為に「中道」の立場を採る事を御教えになられた。
日本人の大多数が仏教寺院の檀家に属しているのならば、こう言う時代であるからこそ、此の釈尊の原点の御教えに回帰する必要があるのではなかろうか。
因みに我が天台宗総本山・延暦寺では「比叡山宗教サミット」と称して、世界各国の宗教の代表者達を招待して、皆で一緒に世界平和やそれぞれの宗教の意義、美徳、其の他について語り合う国際的な宗教行事が昭和62年8月から昨年平成26年8月に至るまで28回も定期的に行われている。
我々天台宗(仏教)の立場としては、キリスト教とイスラム教の争いの火に油を注ぐ様な真似をするのではなく、あたかも弁護士が対立する者同士を調停に持ち込むが如く、両者を和解させる役割を担う事が必要であると思われる。

追伸:
今年の9月に入って過激派組織ISの暴れている、シリアを始めとする中近東の諸国から数万人の難民が、ヨーロッパに流入し、トルコ、オーストリア、ハンガリーを経由して経済的に安定しているドイツに移住して来ている。
ドイツのMerkel首相は、自国政府が難民として認定し受け入れる条件を改定して行く事を宣言している一方で、其の他28か国のEU加盟国も難民を受け入れる努力をする事を促している。
他方で、ドイツ一経済力のあるBayern州でも、一番排他性の強いSachsen州、其の他の各州に於いても州知事のみならず国民の過半数が、大量の難民の受け入れを深刻な問題として見て、不満を唱えているのである。
実に政府のFlüchtlingspolitik(難民政策)の改訂の一方で、国内各地で此れに対する抗議デモが頻繁に起きている。
此の現象に対しロシアの大統領は「アメリカが自国の政策や文化や宗教をイスラム諸国に押し付けた事から、こんな結果になったのだ。」と言った。
余は本来、ロシアと南北朝鮮は地球上から絶滅、消去したくなる程嫌いだが、此度ばかりは此のプーチンの言葉は至言也と思えるのである。
丁度、日本の諺「藪をつついて蛇を出す」又は、ギリシャ神話の中でPandoraが好奇心でPrometheusの隠しておいた「禍の箱」を開けてしまった話を思い浮かべさせる。

2015年10月13日金曜日の夜、フランスの首都Paris中心部のバタクラン劇場と郊外の競技場付近、レストラン等、計8か所で複数の銃撃や爆発などの同時テロがあり、翌日フランスの捜査当局は此れによって129人が死亡、200人以上が負傷したと発表した。
之に伴いHolland大統領は国内に「非常事態」を宣言した。
此の同時多発テロは犯人達の声明からして、今年の9月にフランス軍がシリアの内戦に軍事介入した事に対するイスラム過激派組織ISの報復と推定される。
余が初めてParisを訪れた1987年の頃は、まだ夜中でも安心して屋外で行動出来る程、治安は良かったので、今年になって1月そして今月にこの様な痛ましき事件が起きた事には愕然とするのである。
今後もイスラム過激派組織のテロ行為はヨーッロッパ諸国、場合によっては其の他全世界の国々でも起こり得ると考えられる。
と言うのも、ヨーッロッパ諸国のイスラム系の移民達は大抵の場合、現地人が嫌がる様な仕事に低収入で従事させられている事が多く、そうでなければ失業して生活保護を受けている。
又、社会的地位の低さのみならず、人種と宗教の異なる事が原因で、現地人から不当に差別される事がしばしばである。
其の自分達のいる社会への不満から、巧みなISのインターネット上の宣伝、勧誘に洗脳され、彼らの仲間になってテロ行為に出ると云う悪循環現象が起きているのである。
此れに依ってヨーッロッパ諸国では、中近東の諸国からの難民に対する排斥意識が敵意にまで発展する可能性もあり得るのである。
犠牲者達の冥福を祈ると同時に、此れ以上キリスト教諸国とイスラム教諸国の間で大規模な「報復合戦」が展開しない事を願うばかりである。

2019年の追伸:
4月21日、スリランカの中心都市Colombo(コロンボ)の6箇所のキリスト教会及び高級ホテルでほぼ同時に爆発が起こり、計359人が死亡、500人以上が負傷した悲惨なテロ事件は世界中のニュースで報道されている。
地元警察はキリスト教徒を標的にしたイスラム系過激派による犯行と推理し、既に容疑者70人を逮捕している。
更に翌日、警察が新たに発見された爆弾の処理を行っていた最中にまたしても爆発があった。
26日には当国の軍とテロ組織との間に銃撃戦があり、テロリストの家族を含む15人が射殺された。
スリランカでは国民の70%以上が仏教徒で、一時ヒンズー教徒との対立、抗争もあったが、和平調停以来、其の他の少数派の宗教とも争う事無く平和な社会を築いていただけに此度の同時多発テロ事件には驚かされてしまった!
仏教の歴史を振り返って見ると、紀元前5世紀頃に釈尊によって開基されて以来、先ずインド北部及びネパールに布教され、紀元前261年頃にはインド全国にも普及した。
更に紀元前240年頃になって仏教はセイロン島(スリランカ)にまで普及した。
インドは成程仏教発祥の地であるが、当時のインドの仏教寺院は武器に依る防御設備を持たなかった故、紀元後の1200年頃にはヒンズー教徒及びイスラム教徒の武力によって次々と破壊され、仏教徒はインド国内から駆逐されてしまった。
即ち現在ではスリランカの仏教の歴史は最も長く、「原始仏教」の思想、様式に最も近い仏教を保持しているのである。

釈尊の御教えに「憎しみに憎しみを返せば、いつまでも憎しみの連鎖は続く。故に憎しみを捨て去るべきである。」と言うのがある。
又、仏教の『七菩提分』(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)の最後の「捨」とは、悟りを開いて煩悩(邪な心)を捨てると云う意味である。
これ等の尊き教えを学び、実践する事が、キリスト教とイスラム教の抗争を終わらせる最良の解決法ではないかと思われてならない。


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