我が家に来た二隻の「宝船」、そして「足るを知れ。」 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

今月の16日、福岡県の骨董業者より送られて来た陶器製の「宝船」が無事到着した。 
此の作品は当初「萩焼」と云う題名で出品されていたのだが、国立芸術大学で美術史を学んで、美術品、骨董品を収集、修理、鑑定している余が見立てた処、作風、技術、刻印、箱書、箱及び内布の経年状態、等の様々な観点から、此の「宝船」は高名なる京都の陶芸家「清水六兵衛」(5代目 1875~1959年)の作品である事が判明した。
(同ブログの記事「美術工芸品と図書の修理について」参照)

5代目・六兵衛は1945年に自分の長男に「清水六兵衛」の名を譲り、「六和」と名乗った事、又、第二次世界大戦末期の日本の国内情勢から考えると、「宝船」を制作する余裕等無かったと思われる。

即ち大日本帝国軍が1941年12月8日に、ハワイのアメリカ海軍拠点「真珠湾」の奇襲に成功して以来、翌年6月5日~7日のミッドウェー海戦まで優勢であった事等の歴史的背景から、恐らく此の作品は1941~42年頃の作品と予想される。
以前より「清水六兵衛」は余りに高名な事から、其の作品(初代から3代目の作品が殆ど)の偽作、贋作が大量に作られている事を余は知っていたので、此の名を称する作品は長い間警戒して手を出さなかったのだが、今回は間違い無いと判断し、驚異的な安価にて購入した次第である。
此の度は大変貴重な作品を譲ってもらい、心より感謝している事を当業者に伝えておいた。 


昨年の大晦日、我が親類に大怪我の回復祝いにと、黄楊を彫った「宝船」の置物を進呈したら、年が明けて間も無く1月9日、新たに同じく京焼の名陶芸家「小川文斎」(5代目 1926~2012年)と此の「清水六兵衛」による「宝船」の置物が立て続けに手に入ったのである。 

扨、参考までに「宝船」の由来と歴史について書くのだが、「宝船」は元々室町時代の頃より紙に描かれた「宝絵」として正月二日に枕の下に敷いて寝れば、1年の願いが成就すると言う人々の(迷信的な)願望から始まり、後世まで「縁起物」として受け継がれて来た。

当時の「宝船」の上に積まれている荷物は、打ち出の小槌、金銀財宝、米俵、大鯛、等が描かれていた。

更に江戸時代になると、此の「宝船」の上に「七福神」(恵比寿、大黒、布袋、福禄寿、毘沙門、弁天、寿老人)が乗る様になり、「七難即滅」「七福即生」を叶えてくれる「縁起物」として更に多大な人気を博する様になったのである。
新年早々に何とも目出度き出来事ではあるが、いつも通り気を引き締めて自分の作品制作に取り掛かって行きたい!


一般的に「高い金銭を支払えば、其の分だけ良い物(者)や優れた物(者)を手に入れられる。」と思い込んでいる人が圧倒的に多いが、余は此の事を絶対とは思わない。
中には此の心理的な盲点に付け込んで人を騙す詐欺師よって、又は見かけ倒しで何ら価値も無い偽物によって大損をした者も大勢いる。

逆に余の様に少ない予算で数多くの財宝、名品、逸品を手に入れたり、無報酬で能力や人格の優れた人物と交友している者もいるからである。
此れ程の大きな差が出るのは、自分の目の前にある人や物を正しく見極める「鑑定力」、又は釈尊(お釈迦様)の御提唱させた「八正道」の中の「正見」(正しい見方)を養っているか否かと言う事が原因である。
比較文化学や民俗学の研究の下で見ても、アジア人はヨーロッパ人に比べて「縁起」を担ぐ傾向が著しく強い。
日本人も例外ではなく此の傾向に該当している。

(中でも特に京都人は突出している!)
余はアジア人達程「縁起」を担ごうとは思わないのだが、何故か「宝船」だけは少年時代より愛着を持っている。


余の精神の故郷Berlin-Brandenburg、其の他のドイツ各州にも、Kruzifix(キリストの十字架像) 、Engelsfigur(天使の人形)、Maibaum(五月祭の木)、 Ostereier(復活祭の卵)、Hufeisen(馬の蹄鉄)、 Nußknacker(くるみ割り人形)、そして日本でも御馴染みのWeihnachtsbaum(クリスマスツリー)等の”Glücksbringer”(縁起物)はあるし、 其の他のヨーロッパ各国でも様々な”Glücksbringer”(縁起物)は見受けられるが、「宝船」に相当する様な「縁起物」は全く見当たらないから希少価値を感じるのである。

そして余が“Nord-deutscher Charakter”(北ドイツ気質)の典型とも言える生来の “Melancholiker”(憂鬱人間、 詰まりネクラ)なので、自分に無き性格に憧れるが如く、「宝船」に乗って天真爛漫な笑顔を浮かべる「七福神」を見ると、何とも有り難く思えるし、「もし宝船に同乗して彼らと共に航海出来たら、どんなに愉快で楽しい事だろう。」と夢想してしまうのである。


其れ故に既に木彫りが2隻、鋳物が1隻、練り物が1隻と所有しているのだが、此度で焼き物2隻が加わり、「宝船」の置物は遂に合計6隻と相成った。
(※七福神に関しては同ブログの記事『比叡山坂本の中央通り「日吉馬場」の紅葉の絵の製作、及び七福神の話』参照)


しかしながら余が呆れるのは、庶民の中には他人の所有物に興味を持ったり、欲しがったりする者が何と多いのかと云う事である。
此の事を心理学的に分析、調査すると、大人より子供の方が他人の物を欲しがる傾向が強い様である。
即ち大人になっても他人の物を欲しがる者は、単に欲深いだけでなく幼児的な性格が強いと云う事である。
又、日本人(庶民)には、大多数の他人と同じ物を持っていると安心すると云う気質が著しく見受けられる。
いつもの癖でanachlonistisch(時代錯誤的な)事を書く様だが、余は貴族(士族)の特権と誇りとは、庶民が到底得られない様な事物(例:名門の血統、家柄、教養、学識、業績、名声、地位、財産)を獲得ないしは所有する事であると存じている。
詰まり貴族出身者とは多くの庶民が所有している凡庸な物等、欲しいと思うどころか関心すら無いのである。
そして自分が収集している物件が如何程の金銭価値があるか等、さして重要な事ではないのである。
そうではなく芸術性、歴史、希少価値、材質、保存状態、そして自分の趣味に合うかが大事なのである。
人生に於ける幸福感でも、高貴な家系に生まれ、衣・食・住に十分過ぎる程足りて、そして健康で家族仲睦まじければ、其れで十分ではないかと思えるのである。
「教養」、「学識」、「業績」、「名声」、「地位」等は自分が好きな事をやりたい放題して来た事が、結果的に世の中に認められて付いて来た、所謂「人生のおまけ」の様な物である。
「財産」でも先祖や親から伝わる物を大事にし、日頃よりRationalität(合理性)とSolidheit(堅実性)そしてMäßigkeit(節制)を以って生活していれば、失う事は決して無い。


又、仏教にも吾唯足知吾(われ)、唯(ただ)足るを知る)と言う人間の貪欲を戒める格言がある。
此れは「物を絶えず欲しがる事を慎み反省し、自分の身の程を知り、自分に足りているだけで満足、感謝すべし。」と言う意味の教えである。
正に前記のドイツ語の”Mäßigkeit”、ラテン語の

TEMPERANTIA”、そして日本語の「節制」に相通じる格言である。
人間の欲望は限りが無い。 

故にどこかで区切りを付けなければならない。
さも無くば欲望によって人生を破滅させる事にもなりかねないのである。
此の格言に相当する名言はヨーロッパでも見受けられ、例えば

古代ギリシャの偉大なる哲学者Socrates先生(BC.470~AD.399)は「自分の持っている物に満足しない者は、欲しい物を手に入れても満足しない。」と言われている。

オーストリアの天才作曲家W.A.Mozart(1756~1791年)は >Muß man wünschen, aber nicht zu viel.<(望みは持つべきです。でも多過ぎてはいけません。)と言っている。

我が地元Brandenburg州出身の文学作家Th.Fontane先生(1819~1898年)は >Wenn man im Glück ist, soll nicht mehr Glück begieren.<(人間が幸福な時は、其れ以上の幸福を求めるべきではない。)と言っている。
現代社会に於いて人間の価値観はgeistiges Element(精神的な要素) からmaterial Element(物質的な要素)に大きく転換しているとは言え、精神的な事をないがしろにして物質や其れに関する利益ばかり追及するのは、余りに浅はかで虚しいと余は思えるのである。
故に余は自分の作品のみならず、余が所有する他人の作品(美術・工芸品)にも作者のVorhaben(意図)、Geist(精神)、Idee(理念)そしてBestrebung(努力)を汲み取って大切にしている。
故に文化財や美術・工芸品を単に金銭価値でしか評価しない下賤の輩共を心底軽蔑するのである。
そしてもう一つ心底軽蔑するのは他人の長所、幸福、成功、勝利をを妬む卑屈な輩である。
他人を妬んで幸福、成功、勝利を得た者等、古今東西見聞きした事が無い。
そして他人を妬む事自体、己が其の人より遥かに劣っている事を認めている証拠なのである。
こんな戯けた輩には「足るを知れ。」どころか「身の程をを知れ!」と言ってやりたい。
(※とは言いうものの、心理学者の書いてある本を読んで見ると、他人を妬むも者の心とは相当苦しくて惨めな様である。 此の正反対で余の如く高慢な性分にも問題はあるのだが・・・・)
大事なのは己の身の程を知り、其れに相応しい生き方を営み、それでいて自利のみならず他利の為にも貢献する事である。
言うまでも無く『宝船』は吉祥」「幸福」「裕福」「繁栄」の象徴であるが、結局これ等は貪欲で利己的な者の所へは寄り付かず、清く正しく且つ懸命に真剣に生きる者の処へやって来ると余は確信している。

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