人が学ぶべき成功と失敗の関係、及び格言 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

2017年11月17日の午前中、余の親類の幼馴染が出張先の作業現場で高所作業車を使用中に此れが転倒して、頭蓋骨の眉間の部分を骨折する大怪我をした事を、本人からの電話連絡で知り愕然とした!
其の原因とはが高所作業車を斜面に停車して作業をしていた為、当車両が安定を失い傾いて横転したのだと言う。
脳神経外科でMRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴画像)やCT(Computed Tomography:コンピューター断層撮影法)等による精密検査の結果、幸いにして脳には損傷が無かったのだが、彼は安静療養の為出張先の病院で4日間入院した。
其の後電車で帰郷した折、余が地元の駅まで車で迎えに行き、彼の車を置いてある所まで連れて行った。
彼は自分で車を運転して家に帰ると言うのだが、車の場所と言うのが我が家の菩提寺・成願寺のすぐ近所だったので、余は万が一彼が電車で帰る途中で目眩や気分が悪くなる等の症状が出る事も憂慮して、余の親友である成願寺住職・甘露和尚にも彼の自動車を運転して家に送り届ける事を前以て頼んでおいた。
しかし見た処、思いの外彼が元気そうだったので、余が車で先導して先ず我が家まで帰ったのであった。
当初彼は余の母上に無事帰った事を直接告げる為、我が家に寄ったのであるが、何と甘露和尚も彼の事を心配して我が家に来てくれていたのだった。
和尚さんにも挨拶をして帰れば良いのに、いつも彼は和尚の事を「阿呆坊主」「糞坊主」と笑いのネタにしているので、気まずかったのか其のまま余に御礼を言って家路に着いたのであった。

とは言え彼の様に農業分野の特殊な知識や経験や技術を有する者がなかなか他県にはいないので、彼は実家の農業のみならず、同じ県内、其の上近隣の県にまで出張して仕事をする事も度々ある。

誠に我が親類の幼馴染ながら、此の義侠心と頑張りには感心するのである。

余の親類の幼馴染が家に帰った明くる22日、余は骨折の治癒を促進するカルシウムの栄養剤と(液体)栄養補給剤を持って彼の実家を訪ねたのだが、彼の両親から聞いてみると何と医者及び余からも一週間は家で安静にしておく様に指示されたにも拘わらず、彼はどうしても遅れた別口の仕事をしなければならないと言って朝から仕事に出て行ったと云うのであるから、流石に余も呆れてしまった。
次の23日、彼は朝から大量の鼻血が止まらない事から、引き続き地元の市内の病院に入院して、前の病院での精密検査の資料を参考に、新たに脳神経外科並びに耳鼻科で精密検査及び安静療養をする為入院したのであった。
検査の結果、脳と鼻を繋ぐ血管に裂傷がある事が判明したのだが、此れ又幸いな事に手術をするまで深刻な状況でなかった故、止血剤を外部から投与する事で治療して、同月27日に正式に退院したので、余は再度其の日の晩、ウェイトトレーニングへ行く直前に彼の実家を訪ねて見舞いの品を届けて来た。
其の中の一つが桑田忠親先生の書いた本「武将の家訓」である。
此の本の初版は第二次世界大戦末期の1944年12月に発行されているのだが、2003年に活字を現代人に読みやすい様に改訂して再発行されている。
本書の序説には「我が国に於いては、家を重んずる立場から、家法や家訓と称する物が沢山作られた。 それらの掟や教えは、家を守りぬく力でもあり、生命でもあった。 殊に系統に拘わらず、世襲になづまず実力を以って自家の前途を開拓する事によって、世を率い国を治めんとした武士の家に於いては、家法や家訓は無くては叶わぬ物であった。」と記されている。
これ等は現代人の生活に為にも十分効力があるので、余は此の本の初版を所蔵しているので、彼にも生活態度や心得を新たに学んでもらいたい故、2003年の再販を進呈しておいた。
更に本人の健康管理の参考として我が論文『熱中症予防とダイエットそして生活習慣病予防の為に』を印刷して渡しておいた。

 

本来、頭蓋骨は脳を守る器官の故、骨の中でも特に頑丈である。
とは言え其のSchädel(頭蓋骨)のStirnbein・Foramen supraorbitale(眉間の部分)が骨折したのだから、事故の折かなりの衝撃が加わっていると余は推測している。
頭蓋骨骨折の過去の事例を見ても、視神経や嗅覚等に後遺症が現れる事がしばしば見受けられるので、余は彼に後遺症が出ない事を祈るばかりである。

扨、此の親類の幼馴染は余とは3歳の時以来の付き合いの故、御互いに性分を知り尽くした所謂「ツーカー」の仲である。
彼に言わせれば余は諺の「石橋を叩いて渡る」の更に上を行く「石橋を跨いで渡る」程、堅実、着実な「完全主義」の性格なのに対し、彼は大変面倒見が良く、何かと手際が良いのだが、些か向こう見ずな処が見受けられる。
其れ故に彼は今までの人生の中で度々大怪我をして来ているのだが、其の都度見事に復活しているのである。
実に彼の母親も「うちの息子も実秋君の様な堅実な処を少しは見習ってくれれば良いのに。」と言っているのだが、所詮生まれ付きの「性格」は根底から変える事は出来ない故、考え方を変えるしか手立ては無いのである。

とは言え彼の裏表や陰日向の無い潔い真正直な人柄、並びに逆境、苦境にもへこたれない精神力、そして損得勘定無しで困っている人を助ける心掛けは、我が親類として賞賛、尊敬に値するのである!

今まで余も彼の大怪我の事は何度も見聞きして来たが、今回は初めて最も大事な頭部の怪我をしてしまったので、今回ばかりは少々厳しく助言しなければならないと思った。


そこで余はかの有名な戦国時代の「三方が原の合戦」を譬え話にしたのであった。
此の合戦は元亀3年、旧暦12月22日(1573年1月25日)に、遠江国・敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起きた(余が最も尊敬する)武田信玄公の軍勢約2万2千と徳川家康・織田信長の連合軍約8千の間で行われた戦いである。
「信長包囲網」に参加して上洛の途上にあった信玄公の率いる武田軍に、徳川・織田の連合軍が背後から戦いを挑んだが、信玄公の巧みな戦術と圧倒的な武田軍の力の前に散々に打ち破られ、家康公は命からがら浜松城へ逃げ帰ったのであった。
家康公にとって成程此れは人生最大の惨敗であったが、此の戦を通じて彼は「戦は感情に駆られて行うべからず。」「勝ち目無き戦は避けるべし。」そして「何事も後先を見通して、堅実、着実に行うべし。」と云った大変貴重な心得を学んだのであった。

そして自らも「勝つ事ばかり知りて、負ける事を知らざれば、害其の身に至る。」と言う格言を述べられている。
そう云う意味で此の合戦は家康公にとって最も大事な人生の教訓となり、実に彼は最後に「天下人」となり戦国の乱世を終わらせ、「江戸幕府」を開基し太平の世を築き上げたのである。



諺の「失敗は成功の基」と言う様に、偉人は失敗から大事を学び、其れを成功の為の材料として活用するのである。
世界の成功と失敗の格言』を挙げると、ドイツの伯爵及び将軍で"Luftschiff"(飛行船)を発明したF. v.Zeppelin (1838~1917)は「人が強く望みそして信じれば、さすれば成功する。」と言っている。


かの「発明王」と称されたTh.Edison(1847~1931)は「私は何度も失敗する事で成功に辿り着いて来た。私の発明は多くの失敗によって成り立っている。」と言っている。
イタリアのRenaissance芸術の巨匠Michelangelo(1475~1564)は「私達(天才芸術家)にとって、高い目標を掲げて失敗する事を失敗とは言わない。それより低い目標を達成して喜ぶ事を失敗と言うのだ。」と言っている。
其れに対し「アサヒビール」の社長、及び余の考え「小さな成功を積み重ねる事で、大きな成功を築き上げられる。」と云うのもある。
そして余は失敗を大別すると2種類があると考えている。
即ち一つは取り返しが付く物、もう一つは取り返しが付かない物である。

前の物は人に良き経験と教訓をもたらすが、後の物は逆に人を破滅に導くのである。
そして我が母上は「成功したいと思ったら、其の道で成功した人を手本にすれば良いのです。」と言っている。


オーストリアの天才作曲家W.Mozart(1756~1791)は、ある作曲家を目指す若者から「貴方の様に若くして大成功するにはどうしたら良いのですか?」と尋ねられた時、彼は「とにかく自分の仕事に常に勤勉に努力する事だよ。でも僕は自分がどの様に努力すれば良いのかを他人から教わった事は一度も無いよ。」と答えている。

(※天才は己が信ずる道を一人で邁進すべしと云う意味


ドイツの大作曲家J.Brahms(1833~1897)は「芸術家が成功を望むのなら、自分を高く評価してくれる立派な人物に出会う事だ。」と言っている。
スペインのSurrealismusの画家S.Dali(1904~1989)は画家が成功する為の心得として、「先ず過去の巨匠に習った絵を描きなさい。そして自分が見ても惚れ惚れする様な絵を描きなさい。それでも流行を追い回してはいけない。それから薬と酒は極力控えなさい。(※即ち健康に留意する事)」と言っている。
イギリスの哲学者・歴史家のTh.Carlyle(1795~1881)は著書”On Heroes and Hero Worship”(英雄崇拝論)の中に「最たる失敗とは、失敗を自覚しない事である。」と記している。
アメリカの大実業家A.Carnegie(1835~1919)は「成功には何のごまかしも無い。私は与えられた仕事に全力を尽くしただけだ。」「成功者は自分のやりたい事を仕事にしている。」と言っている。
あるNobel賞を受賞した医学者は、「私はたとえ失敗を繰り返しても成功するまで諦めなかった。」と言っている。

其の他にもドイツ帝国の宰相O.v.Bismarck閣下(1815~1898)は「凡人は経験から学ぶ、賢者は過去の歴史から学ぶ。」と言われている。
又、ある思想家は「大成功する人はそんじょそこらの人間とは物事の見方、考え方、やり方が違う。失敗する奴は見方、考え方、やり方が平凡で、それでいて成績が人並み以下だ。」と言っている。
余も此れ等の言葉には同感で、今まで数多くの偉人、英雄、天才、人傑の伝記を読んで見ても、此れ等の言葉は正に至言也と言える。

余は他の随筆、論文にも書いているが、大成功する為の7つの絶対条件として「才・知・勇・志(思)・努・人・運」を挙げている。
これ等の絶対条件を大事にして、更に諺の「石橋を叩いて渡る」「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂い無し」を常日頃の心得として生活している。
普段余は綿密な計画と準備によって期待通りの成功(erwartender Erfolg)を獲得しているのだが、時には思いがけない成功(unerwartender Erfolg)を手に入れた経験も何度かある。
即ち成功には必然の成功(Sicherlicher Erfolg)と偶然の成功(Zufälliger Erfolg)の2種類
があると云う事である。
おかしな譬えをすると、成功と失敗の関係はまるでコインの表と裏、タロットカードの「正位置」「逆位置」の様な関係でもある。
即ち人間の実力や努力とは別に、時と場合によってはいずれが出ても不思議では無いと云う事である。
因みにドイツ語の動詞erwerben及び bekommenは日本語訳するといずれも「手に入れる」と言う意味であるが、更に厳密に訳すとerwerbenは意図的に自力で手に入れる事を表し、bekommenは偶然に他力で手に入れる事を表している。
更に動詞vorbereiten(準備する)及び名詞Vorbereitung(準備)は直訳すると「前以て施す」と言う意味になるし、又、動詞vorhaben(意図する、計画する)及び名詞Vorhaben(意図、計画)は直訳すると「前から持っている」と言う意味になる。
そして動詞vorsorgen、名詞Vorsorgeも「前以て配慮する」と言う意味である。
これ等の単語表現の中にもドイツ人のSolidheit(堅実)Sicherheit(確実、着実)を重んずる国民性が表れていると思える。

1941年12月8日は大日本帝国軍がアメリカ領のハワイ・真珠湾を奇襲して「太平洋戦争」の始まった記念日である。
此の戦闘に関しては未だに謎めいた部分が残されている。
例:何故、真珠湾にアメリカ海軍の航空母艦が一隻も停泊していなかったのか? 
  何故、日本からの「宣戦布告」が55分も遅れ、奇襲後にアメリカ側に届いたのか?
  何故、日本軍は第一次攻撃に続いて、第二次攻撃を敢行しなかったのか?
とは言え此の大戦を生き延びた我が親父殿や彼の兄貴、我が母方の祖母、そして我が小学校の担任であった浜田先生、我が近所の昭和初期生まれの友人・片桐さん等から当時の事を聞いたり、当時の事を記す文献を読んで見ても、此の奇襲成功に日本国民は「欣喜雀躍」と形容する程の喜びで、各地で「提灯行列」等の祝い事が催され、当時は日本が此の戦争に負ける等と誰も想像すらしていなかったらしい。
しかしながら大日本帝国は明治時代以来、「日清戦争」(1894年)、「日露戦争」(1904~05年)、「第一次世界大戦」(1914~18年)いずれも「戦勝国」となり、此れが軍部、国民共に「日本は神州不滅の無敵の国家」と言う過信、慢心を植え付てしまった。
挙句の果てに遂に世界の大半の国々を敵にして勝つ見込みの無い戦争を続行し、其の結果本国は敵の執拗な空襲によって焦土と化し、650万人にも上る国民(軍人を含む)が命を落とし、1945年8月15日、連合国に対し無条件降伏する歴史上最大の惨事に至った。
言うまでも無く、此の歴史は今日の日本国民にとって最大にして最重要の「教訓」又は「戒め」となっているのである。
此の事も失敗から大事を学び、其れを成功の為の材料として活用している最も大きな一例なのである。

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