年代物の京人形を入手する為には、地元京都で探すのは勿論の事だが、時には思いがけない其の他の地方でも入手出来る事がある。
今月24日に兵庫県・姫路市で城、美術館、護国神社を訪ね、引き続き龍野市で城跡、聚遠亭(しゅうえんてい)で紅葉を観た後、骨董屋を経営している友人の所で年代物の「御所人形」と「古伊万里」をいつもの様に破格の安値で購入させてもらった。
此れにて余の所有する「御所人形」は計四体となり、其の他の「京人形」と合わせると計10体となった。
「御所人形」だけで見れば、其れ等の作風、材質、其の他の特徴から鑑定して、恐らくいずれも明治時代製であろう。(1868~1912年)
今回購入した人形は以前に購入した三体に比べて、色褪せが著しい上に、一本の持ち物(松明)が消失していたので、余はいつも以上に大掛かりな修復を施したのである。
此れにて、此の「御所人形」は見事に往時の姿を取り戻したのであった。
今回の修復作業について詳しく説明すると、先ず肌の汚れを石鹸水が付いた綿棒にて除去し、次に特に色褪せが激しかった「ちゃんちゃんこ」と「涎掛け」を日本絵の具で全面を塗り直し、更に人形の命とも言える顔のつくり(眉、目、口、そして髪の毛)を描き直して整え、最後に烏帽子を塗り直し、松明を金属パテと竹ひごで作成して完成させた。
余は当初此の人形の持ち物を仏教法具の「払子」(ほっす)かと思ったのだが、よく見るとどうも松明の様である。
「御所人形」で松明を持っているのは非常に珍しい例である故、もしかすると何かの「祭り」を題材に作られたのではないかと推測し、日本の松明を使う祭りについて調べた処、「御所人形」発祥の地である京都府の「鞍馬火祭り」「南丹火祭り」や和歌山県の「那智の火祭り」、大阪府・池田市の「がんがら火祭り」、長野県・小谷村の「大綱火祭り」、そして大分県の「修正鬼会」(しゅうしょうきえ)等と日本には今日でもかなり多くの「火祭り」が伝統行事として受け継がれている。
扨、「御所人形」の歴史について解説すると、其の起源はいつ頃か年代までは定かではないが、最古の現存する「御所人形」は江戸時代の享保年間(1716~36年)に京都で製作された物である。
西国大名が「参勤交代」で江戸に上る途中で京都を通る際、御所や公家に挨拶回りをする習慣があり、其の返礼に皇室や公卿から人形が贈られた事から、「御所人形」の呼び名が付き、全国に其の存在が知られる様になったと言う。
「御所人形」は伝統工芸品とは言え、江戸、明治、大正、昭和の各時代に於いて微妙に異なる作風と特徴がある事が次第に分かって来たのである。
中でも重要なのはやはり「顔」で、特に「目」の表現によって時代が特徴付けられている。
例えば江戸から明治時代の「御所人形」の目は「三日月型」の切れ長で、あたかも「浮世絵」の人物画の目を彷彿させる物がある。
大正から昭和時代(前期)の人形になると、目がだんだん円らになり、瞳もやや大き目になっている。
推測するに此れは西洋人形の影響ではなかろうか。
次に「御所人形」の体格についてだが、此れは1歳から5歳までの稚児をモデルにしているだけに、江戸時代から今日に至るまで、一貫してプロポーションは3頭身前後位に作られている。
更に其の装束(服装)と持ち物については、稚児らしい「ちゃんちゃんこ」と「涎掛け」を身に纏っている反面、貴族の儀式を彷彿させる様な「烏帽子」を被っている物が多い。
持ち物としては日本古来の所謂「縁起物」が多く、典型的な例として、打ち出の小槌、扇、神楽鈴、軍配、独楽、鯛(又は鯛車)、瓢箪、等の様な丁度「七福神」↓の持ち物と似通っている。
九谷焼「恵比寿・大黒」(明治時代)
江戸時代から明治時代の観賞用人形の殆ど全ての種類は、全てが天然素材を使った技術的に精巧な手作りで、特に其の着物、装身具、及び持ち物は実物をそっくりそのまま縮小させたと言っても良い程の出来栄えである。
更に余が今までの歴代の「御所人形」を博物館で見たり、自ら収集したり、修復して感じる事は、其の肌に塗られている白の顔料(胡粉)の質の違いである。
江戸時代の「御所人形」は時代が古いせいもあるのだが、現存する人形は白い肌(顔料)が部分的に罅割れたり、酷い物は剥離している事がある。
其れに対して明治時代以降の人形になると、肌の罅割れや剥離は殆ど見られない。
恐らく此の原因として明治時代になって顔料(胡粉)の質が向上した事と推測される。
第二次世界大戦以前では人形制作に於いて技術、材質共に優れていたが、此れが戦後になって来ると次第に細部が省略され、アクリル、ナイロン、ポリエステル、プラスチック、等と言った化学製品による部品の割合が増えて来る。
例えば江戸時代から昭和前期頃までは、髪の毛も本物の毛を使って仕上ているのに対し、戦後の人形では髪の毛を化学繊維で作ったり、黒の絵の具で描くだけの単純な仕上になっている事が多く見られる様になる。
又、衣装でも往年の人形に使われていた「西陣織」「丹後ちりめん」等と云った高級な布を使う割合が減少し、同様に化学繊維で作ったり、絵の具で塗るだけの単純な仕上の物が多くなっている。
此れ等の傾向は戦後になって日本の人口が爆発的に増え、国民の経済力も著しく向上した事に関係して、人形の需要が高まった為、人形も「限定品」から「量産品」へと変貌して行ったのであろう。
「御所人形」は勿論の事「京人形」の中に属しているのだが、此の「京人形」とは広義な呼び名であって、其の種類は非常に多様で、先ず観賞用として「御所人形」以外にも「伏見人形」「芥子人形」「衣裳人形」「加茂人形」「嵯峨人形」があり、信仰の対象として作られた物として、「ひとがた」「依り代」に大別され、後者は「道子」と「立雛」があり、更に雛人形の種類は細かく分類され「次郎右衛門雛」は「室町雛」「寛永雛」「享保雛」と其の時代毎に名付けられ、「紙雛」(又は神雛)は「有機雛」「古今雛」「町雛」「親王雛」其の他に分類されている。
此れ等の中でも「御所人形」は別格とされている。
言うまでも無く「人形」とはそもそも人間を模倣して作っているのだが、此れ等の「京人形」は多くの場合、天皇家や公家の御方様を典型としているのだが、舞妓、藤娘、其の他の芸人、武家娘、一般の町人を模倣して作っている物までもある。
其れ等の製作技術は前に「御所人形」の項で述べた通り、雛人形全般に於いても同様で、江戸、明治時代の年代物になる程、製作技術は高く、冠、烏帽子、束帯、十二単(じゅうにひとえ)、等の着物、扇、刀、弓矢、楽器、其の他の生活道具に至るまで全て熟練の職人達による手作りで、細部に至るまで実物同様に正確に作られているのには感心させられる。
此れ等の見事な技術は日本の伝統文化の一環として、いつまでも受け継いでもらいたいものである。
「芸事」と言っても多種多様ではあるが、いずれにも共通している事は、「師匠」や「達人」「名人」になるまでは、本来の才能だけでなく大変な研鑚と修練と精進を必要とする。
此の事を踏まえて「人形」を鑑賞すれば更に味わい深く、其の価値がより理解出来るのではなかろうか。
今年の12月15日、今度は京都の古美術商より「御所人形」が届いた。
余が今まで京都の博物館や其の他の地でも古き人形の展覧会を見たり、図書や資料で調べて来た限りでは、今回の人形は体長25cmと「御所人形」としては異例な程の大きさである。
最大の「御所人形」では赤子の等身大があると文献で読んだ事はあるが、此の人形は余が見て来た中では最大の物である。
又、古美術品の評価に於いて最重要条件の一つである保存状態についても、此の人形は最上級で、汚れ、色褪せ、欠落も無く、殆ど修復する必要が無かった。
製作技術の精巧さ、顔の表情、及び材質からして、恐らく此れも明治時代の終わり頃の作品と推定出来る。
次に、此の人形の容姿についてだが、この装束は平安時代の「水干」(すいかん)を模して作られている。
着物は「西陣織」で作られ、「袖括り」まで手作りである点、「立て烏帽子」は厚紙の表面に砂を貼り付けて、其の上から漆黒を塗り仕上ている点、大小二つの扇の柄も手書きである点等、明治時代らしい技術と材質の高さが見事に表現されている!
又、「人形の命」とまで称される顔に於いても、眉、目、鼻、口の均整がとても良く取れていて、ほんのりと薄く頬紅が施されているのも愛らしい。
此れにて余の所有する明治時代の「御所人形」は計五体になったのである。
更に2014年2月28日には同じく京都の古美術商より大変美しい「京人形」が届いた。
此の京人形は装束(小袖と打掛)、髪型から見て、安土桃山時代の公家の姫君をモデルに制作した作品の様である。
彼女(人形)の顔の作りや、櫛が戦前によく使用された(楠の樹脂で作る)セルロイド製である事、「西陣織」と「丹後ちりめん」で作られている衣装の色具合、人形ケースのデザイン、及び其の扉の房の色の褪せ具合から判断して、恐らく昭和時代初頭(1926~29年)頃の作品ではないかと推測している。
彼女(人形)は、色白の餅肌、丸みのある顔、三日月型の眉、円らな瞳、筋の通った高い鼻、幅が狭く厚みのある唇、と云った余の最も好む典型的な「京美人」の特徴を見事に表している。
ただ、京人形にしては体のProportion(比率)が約7.5頭身と異例なので、実際の「京美人」でも此の数値に達するのは先ず無理ではなかろうか。
(余は個人的には日本人女性なら7頭身以下位が丁度良いと思うのだが・・・)
其の制作技術は、余が知り得る数ある京人形の工房の中でも特に高く(作風から推測して下京区の橋本人形店の作)、又、材質、及び保存状態も非常に良好であるので、修理する必要すら無かった。
余は既に「御所人形」「舞妓」「藤娘」其の他の「京人形」を11体所有しているのだが、今回は余が幼き頃より憧れていた公家の姫君を象った京人形を入手出来ただけに何とも嬉しくてならない!
早速、彼女(人形)を毎日眺められる場所に置いて、毎日うっとりと見つめている。
諺の「餅は餅屋」の如く、やはり「京人形」は年代物でも新品と同様に地元京都にて購入するのが良いとつくづく実感した次第である。
続いて2014年3月23日、三度、京都の古美術商より今度は京人形「京小町」が届いた。
人形の全体を見渡した処、其の技術や材質から見て、大正時代(1912~26)と鑑定して間違い無い。
流石に100年近くの経年により、人形、ケース共にかなりの劣化があった。
早速、其の日の内に修理に取り掛かり、先ず彼女(人形)の足がぐらついていたので、膝関節をスポンジ、厚紙、紐そして接着剤にて強化し、下駄も貼り直してしっかりさせた。
更に人形ケースの接合部が剥がれているのも接着剤にて修理し、背板の内側の顔料の剥離した部分を塗り直して、表面の汚れも除去した。
とは言え何よりの救いは「人形の命」と言われる彼女(人形)の顔が大変可愛らしく、そして全くの無傷である事である。
そして装身具(髪飾り、鈴)は大正時代らしく実物の様に細部まで正確に作り上げている。
最重要課題として、著しく色褪せした彼女(人形)の着物(丹後ちりめん製)の修復なのだが、当初は如何にすべきかと迷ったが、思い切って本来の「朱色」を日本絵具にて全体を塗り直し、最後に欠けていた「帯締め」を付け加えて、3時間余りで全ての修復作業が完成した。
此れにて彼女(人形)は完全に蘇り、本来の美しさを見事に取り戻したのである!
余も今まで様々な美術品、骨董品の修理をして来たが、人形の衣装を全体塗り直したのは初めての事で、良き経験となった。
尚、此度の修理箇所は異例な程多かった故、着物の知識と着付けの技術を持つ我が母上の指導及び手助けを受けながら進めて行った次第である。
其れから後の2017年3月14日には京人形「猩々」を入手した。
大抵の場合、美術工芸の世界で「猩々」は扇を持った姿で表現されているのだが、 此の人形は右手に柄杓、左手に杯を持っており、余の鑑定では1970年代頃に製作した物と推測される。
表面上は完全無欠と言って良い程の保存状態であったが、首と胴体の接合面に緩みがあった為、金属パテと接着剤で首の後ろを補強しておいた。
更に2018年3月6日には二条静扇作の京人形「猩々」を入手した。
此度の人形は典型的な扇を持った姿で表現されていて、身長が32cmあり、体のProportion(比率)は約7.5頭身と実際の人間の理想的Proportion同様に作成している。
舞台を模った木製の台の色から推測して、1990年代後半頃の作品と思われる。
因みに人形師の姓は余の憧れの公家の「御摂家」の二条家と同じであるので、大変良き縁起を感じる。
「猩々」の伝説は大変古く、古代中国で紀元前403年から220年頃に作成された最古の地理書「山海経」(せんがいきょう)の中に既に登場する。
日本でも西暦931~938年に作成された辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)の中で「中国の伝説に在る赤毛の人面で言葉を話す酒を好む不思議な生物」として記述されている。
室町時代後期に成立した「能」の演目「猩々」では高風(たかふう)と云う親孝行を尽くす若い酒商人の店を度々訪ね、大量の酒を飲んで、彼の親孝行振りを褒め讃え、最後には決して尽きる事の無い不思議な酒壺を褒美として与える。
此れに依って「猩々」は赤備えの陽気な酒好きで、親孝行者に福をもたらす者として神格化された。
余は幼少の頃より「赤」と云う色に尋常ならぬ愛着があり、其の上親父殿から「猩々」の話を聞いていた思い出もあるので、此の人形が手に入った時の喜びは大変な物であった。
Kunstmarkt von Heinrich Gustav
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