我が家の大正時代の雛人形 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

我が家には祖母の嫁入り道具として、母上に受け継がれた大正時代の雛人形の「勝手道具」が、ほぼ完全に揃って保存状態も大変良く残されているのだが、残念な事に「主役」の雛人形の保存状態が余りにも思わしくない。

今まで兵庫県・龍野市の博物館で何度か歴史的雛人形の展覧会を見て来て、「我が家にも道具類だけは立派なのが残っているのだから、美しく保存状態の良い雛人形が揃えば、博物館に展示出来る位の作品になるのに。」と思っていた。

 

2018年8月22日、神戸市の古物商から歴史的な「親王雛」(古今雛の一種、御殿様と御姫様)の人形が我が家に送られて来た。 
此の雛人形の箱には「三越呉服店」と表示されている事から、「三越・百貨店」の歴史と照合して見ると、明治37年(1904)~昭和2年(1927)の時代の作品と特定される。
又、人形の顔立ち、寸法、衣装の材質、装飾品、等からして、大正時代初期(1912~15年)頃制作されたと推測される。
間も無く同月29日には、今度は京都の古物商から其の他の雛人形全て、即ち「三人官女」、「五人囃子」(ごにんばやし)、「随身」(左大臣と右大臣)、「仕丁」(しちょう)が我が家に送られて来た。
前記の「親王雛」と寸法が適合する事、一部が全く同じ布で作られている事、仕立て方が同じである事からして、これ等の雛人形は同じ工房で、ほぼ同時代に制作された可能性が高い。
かくも都合良く雛人形15体全てが短期間に揃えられたのは、(妄想染みた事を書く様だが)あたかも「古今雛」の御殿様と御姫様が、自らの従者達を呼び寄せてくれた様な気がしてならないのである。
いずれの人形も現代の雛人形に比べて小型ではあるが、繊細な技術で作られて優美な容貌で、而も保存状態も事の他良好なのである。
これ等の雛人形は正に我が憧れの「平安時代の雅」と「大正時代の浪漫」が融合していると言える。
更に同月31日には、京都市・右京区の和雑貨の店から雛人形用の「金屏風」及び「桜」と「橘」(ちりめん製)が送られて来た。


9月4日には京都の別の骨董業者から雛人形の道具類の一種である「御所車」(牛車)が送られて来た。
此の作品もデザイン、材質、仕立て方、等から見て、大正時代に制作された物の様である。
御所車は平安貴族の乗り物の代表格なので、織物、焼き物、書物、等の日本の伝統工芸品の装飾主題として長きに渡って愛好されている。

英語の諺に"Late is better as nothing"(遅くとも何も無いよりは良し)と言うが如く、時間はかかったが、此度、我が家の雛人形の道具類に理想的な「親王雛」と其の従者雛15体全てが手に入った事には、少年時代より公家の姫様に憧れて止まない余も、そして長き思い出のある我が母上も感無量の喜びである!
全く季節外れの「雛祭り」と言った感じであるが、同時に我が祖母の嫁入り道具を完全に甦らせて上げる事が出来た思いなのである。


扨、先ず雛人形の起源についてであるが、雛人形の衣装はあたかも平安時代の公家の装束を彷彿させるので、随分昔の時代より「雛祭り」が行われていた様に思えるのだが、実は3月3日の節句に雛人形を飾る習慣が成り立ったのは江戸時代になってからの事である。
先ず室町時代に現在の雛人形の原形とも云える「立雛」が制作され、江戸時代になって坐った姿の人形(寛永雛)が出来上がった。
当初は男女一対の内裏雛を飾るだけの物であったが、次第に華美で贅沢な装飾品や道具が追加される様になって行き、江戸中期頃には大型の「享保雛」等が作られる様になった。
此度我が家に入った「親王雛」は等身大に作られた「享保雛」の衣装とよく似ていて、雛人形の原点及び宮廷の装束を忠実に再現していると言える。
明治・大正時代の雛人形について解説すると、今日の様に有名な童謡「嬉しい雛祭り」の歌詞に含まれている人形の種類: 親王(御殿様と御姫様)、三人官女、五人囃子、随身(左大臣と右大臣)、仕丁が統一され、これ等の人形と道具が一式揃えで供給される様になるのは大正中期頃からである。
其れ以前は家庭毎に人形師や道具屋から気に入った品を買い集めて個性的な装飾を行っていたらしい。
例: 祖母の代の雛飾りに嫁いで来た嫁の雛を組み合わせ、其の後、女児が誕生すると流行りの雛道具や添え人形を付加する等して、製作年代の異なる人形や道具を同じ雛段に飾っていた。
明治時代(1868~1912年)の雛人形は比較的大型で豪壮な造りで、「御殿飾り」にも家の権勢を誇示する様な堂々とした構えが見られる。
其れが大正時代(1912~1926年)に入ると様式が一変し、百貨店が制作した小型の繊細で優美な「段飾り雛」や「御殿飾り雛」の一式揃えが都市部で流行する様になった。
此れをEuropäische Kunstgeschichte(ヨーロッパの美術史)に譬えると、丁度Barock様式(1600~1735年頃)とRococo様式(1735~1810年頃)を比較するのとどことなく似ている。
又、関東と関西で制作される雛人形はまるで顔つきが違う事も特筆すべき事柄である。
関西(特に京都産)の雛人形は目が切れ長で、鼻は筋が通って高く、唇の幅が狭い、典型的な「貴族顔」なのに対し、関東の雛人形は目、鼻、口がいずれも関西の雛人形より大きめでメリハリの利いた顔である。
因みに我が家の雛人形は典型的な京都産の「貴族顔」であるが、気品はあっても冷たさは無く、寧ろ判然とした「個性」そして、どこかしら「愛嬌」すら感じさせるのである。



我が家にある同じ大正時代の「雛飾り」の注目すべき点として、雛段の下方に置かれる所謂「勝手道具」が挙げられる。 例: 雪洞(ぼんぼり)、手鏡、鏡台、手洗(たらい)、湯桶(ゆとう)、茶碗、箪笥(たんす各種)、長持、几帳(衣文掛け)、裁縫箱、重箱、火鉢、等
これ等は当時、京阪神・都市部の富裕層、名門の家で飾られた品物で、「大名道具」の如き調度品とは異なり、其の他に場合によっては井戸や流し場、洗濯道具や清掃道具、等も揃えられ、当時の家庭の様子や女性の暮らし振りを知る上でも大変興味深い資料である。
尚、これ等の「勝手道具」は関西地方独特の調度品で、関東の雛人形には見られない。
此度入手した「古今雛」は「人形の命」と言われる顔も貴族的な優美さを漂わせ、着物等の布製品の色褪せも汚れも殆ど無く大変良好な状態である。
ただ、姫様の宝冠の瓔珞(ようらくの様な「垂れ飾り」と扇が欠落していたのだが、諺の「渡りに船」の如く、我が家の雛人形にこれ等を補充出来る部品が全て揃っているので、即座に余が自ら修理した。
其の他の三人官女、五人囃子、随身、仕丁の各人形も必要な箇所を修理、修正し、欠落している部品も作成して取り付けておいた。
中でも特に余は少年時代から「右大臣」の人形が好きなので特別に施しをした。
欠落していた冠の老懸(おいかけ)及び袍(ほう・着物)の平緒(ひらお)の房を糸で作り、色褪せた袍(着物)を赤の油絵の具で塗り直し、重藤の弓も竹串と糸で作り出した。
そして長い間我が家の倉庫にしまっていた雛人形の道具類を取り出し、此の「古今雛」と組み合わせて早速飾って見た。
大正時代の雛人形は昭和、平成時代の其れと比べて小型なので、現在の雛壇では寸法が合わず、同じく大正時代の雛壇を入手するのも容易な事では無い故、余は止むを得ず大型の屋久杉の机の上に飾っている。
今でこそ雛人形は5段ないしは7段の「雛壇」に飾られる事が常識となっているが、雛祭りが儀式化されていた江戸時代中期には床上もしくは一段の台や机の上に飾られていたのであった。

 

戦後の日本では一般的に御殿様を向かって左側に、御姫様を右側に飾る傾向がある。
此の原因は一説によると、明治時代から日本に蔓延し始めた ”Europäisierung”「欧化主義」らしい。
此の「欧化主義」にかぶれた明治時代の雛人形の極端な例を挙げると、何と殿様がヨーロッパ式の軍服を着て、十二単を着る姫様と居並んでいるのである。
因みに当時の貴族の婚礼でも同様に、新郎がヨーロッパ式の軍服を着て、新婦が日本の着物を着る所謂「和洋折衷形式」が、しばしば好んで採用されていた。
ヨーロッパ各国のPhilologie(言語学)では、本来「右」はpositiv(肯定的な)意味があり、一方「左」はnegativ(否定的な)意味がある。
例: ラテン語でdexter(右)は「招福」、sinster(左)は「不吉」を意味し、ドイツ語でrechts(右)は「正しい」を意味し、links(左)は「緩んだ」を意味している。
英語のright(右)、left (左)の本来の意味も前記のラテン語、ドイツ語に似たりよったりである。
其れ故に「右側」は「左側」より上位とされている。
明治、大正、昭和初期にかけて作られている人形で左手を着物の袖で隠した作品が多々見受けられるのは、此の ”Europäisierung”「欧化主義」の影響が起因しているのではないかと思われるのである。
しかし本来、雛人形は平安時代の天皇御夫妻をモデルにしているし、奈良時代より唐(中国)の宮廷から継承した「左方上位」(例:左大臣は右大臣より位が上)がある。

故に、かつて朝廷のあった京都の様に殿様が姫様の左側に座るのが正しい位置関係であると余は考えるので、朝廷の儀式を踏襲した「京都式」(即ち御殿様を向かって右側に、御姫様を左側に飾る)を採用している。

   

余が雛人形に魅せられる理由として先ず平安時代及び公家への憧れと、もう一つは雛壇に敷く布(毛氈ひもうせん)が余の最愛の色「」である事である。
では何故此の「毛氈」がいかと言うと、古来よりは生命の源である「血」、「太陽」、「火」を象徴する神聖な色として扱われ、古代人達はい色を身に着けて其の神聖な力で自身を守ろうとしていた。   
即ち神社の鳥居が(ないしは)塗りであるのと同様に「魔除け」の意味を持っているのである。   
故に雛人形の雛壇にも此の縁起を担いでい毛氈を敷く様になっているのである。

かつて奈良時代から平安時代初期頃までは系の色は全て「あか」一括りで表現していた。

しかし平安時代中期頃になると、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」に代表される「仮名文學」が流行る様になって以来、日本の系の色には様々な呼び名が付けられる様になった。 例:朱、赤、茜、紅、緋、丹、

あらゆる物の色彩表現や人間の微妙な心情を表現するにも、単に「あか」だけでなく、それぞれ独自の色名で明確に仕分けして表現する様になったのである。
そして雛人形に供えられる「菱餅」の3色()には次の具象的、及び抽象的な意味がある。 桃色:桃の花、息災、厄除け、 :雪、純潔、浄化、 :草木、健康、安息

余はドイツに足掛け13年も住んで、現地のKunstakademie(芸術大学)で学び、首都Berlin及びBrandenburg州の公認の芸術家として活動し、近隣のヨーロッパ各国も訪れていた故、どうしても日本の文化や国民性を日本人としてだけでなくDeutsche Mentalität u, Sensibilität(ドイツ人的な心理性と感受性)で観察してしまうのである。
ヨーロッパ人の感覚で見ても日本の数ある伝統工芸品、美術品の中でも特に「雛人形」は豪華絢爛で優美、且つ奥深い意味を有する品物であるのは確実である。
実に日本を訪れて雛人形を見た外国人は皆、其の精巧な造り、豊かな色彩、そして高級な材質に圧倒されているのである。
此れ程高品質で美しい人形は世界規模で探しても、例を見ないと言っても過言ではない。
余が親しい戦前生まれの何人かの女性に聞いた話だが、戦前に制作された雛人形は第二次世界大戦末期の大規模な焼夷弾による空襲や、地震、洪水、等の自然災害によって失われた物が少なくないらしい。
其れ故に此の我が家の大正時代の雛人形・雛道具も、其の他の日本国内に現存している江戸時代から昭和初期までの雛人形・雛道具と同様に往時の伝統文化と技術の証として大事にして、後世まで残して行かなければならないと思えるのである。

<嬉しい雛祭り>(1936年)
明かりをつけましょ雪洞に 御花をあげましょ桃の花。 
五人囃子の笛太鼓 今日は楽しい雛祭り。

御内裏様と御雛様 二人並んで澄まし顔。 
御嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔

金の屏風に映る灯を 微かにゆする春の風。
少し白酒召されたか 赤い御顔の右大臣。

着物を着変えて帯締めて 今日は私も晴れ姿。
春の弥生の此の良き日 何より嬉しい雛祭り。

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