江戸時代後期の京人形「猩々」 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

2018年10月13日に江戸時代後期の京人形「猩々」(体長24cm)を入手した。
今までに「猩々」の人形は数多く制作されてはいるが、江戸時代の「猩々人形」が市場に出品されるのは極希であるので、今回は希少な好機を物に出来たと思っている。
芸大で美術史を学び、美術品の修理もする余の鑑定では、今回の「猩々」は以下の様々な特徴から江戸時代後期・安政年間(1854~60年頃)の京人形であると見ている。
*顔つき:目は優しげであるが、まだ口が「へ」の字の形を採っている。
*手足の部品の形状:それぞれの部品が短めで末端部が丸く成形されている。
又、指の関節の皺も刻み込まれている。
*着物の仕立て、模様:明治時代以降では袍(上着)には「菊」又は「葉」の模様、袴には「波型」の模様、そして「平緒」が施されるのが定番となっているが、此の人形にはまだ其れ等が無い。 
又、明治時代以降は袖口が所謂「楔形」に開いているが、此の人形の袖口はまだ丸い。

何せ「年代物」であるので、左足の部品が劣化して不安定であった故、接着剤で貼り合わせ、パテで罅、隙間を埋めて成形し、其の上から油絵の具を塗って修復しておいた。
更に安定性を良くする為、持ち上持ち上げている右足の袴をヘアピンで支えておいた。
そして消失している「扇」も明治時代の人形用で寸法が丁度良いのが手元にあったので、此れを持たせた。
其れ以外は江戸時代に制作されたとは思えない程、保存状態も大変良好で、渋味がかった色が美しく、而も今にも動き出しそうなMovement「躍動感」のある作品で、此れならば博物館に展示出来る程の価値があると思えるのである。

江戸時代の「猩々人形」は直に見るのも初めてなだけに、まして其れが自分個人の人形コレクションに加わったのだから、喜びも並大抵ではない!
余は既に「猩々」の人形は「京焼」(1930年代・平安祥鳳)、「奈良一刀彫」(1960年代・染川宗進)、木目込の「京人形」(1970年代・作者不詳)、

「京人形」(1990年代・二条静扇)

そして「姫路押絵」(1910年代・秀雅)を所有している。(※各制作年代は余の推定による)

因みに此の「姫路押絵」は明治から大正時代にかけて創始者・宮澤由雄と其の子らによって確立され人気を博したが、残念ながら第二次世界大戦後に消滅した言わば「幻の伝統工芸」である。
現在では兵庫県・姫路市書写の「書写の里・美術工芸館」で当時の作品を見る事が出来る。

因みに京都の上京区に「宝鏡寺」と云う禅宗の尼門跡寺院があり、かつて正保三年(1646)以来ここに後水尾天皇・皇女が居住する様になってから、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、御所より彼女達に多くの人形が送られていた事に因んで、当寺院は通称「人形寺」と呼ばれる様になり、現在でも数多くの貴重な江戸時代以降の人形コレクションを所有している。
其の中にも天保時代(1830年頃)に制作された「猩々」の人形がある。
余は此の人形を画像だけでしか見た事が無いのだが、此の画像を見る度に「此の様な江戸時代の「猩々人形」が我が家に来てくれたらどんなに嬉しいだろうか。」と常々思っていた。
其れが遂に現実になったのだから、夢が正夢になったと言うべきである。
又、当寺院では定期的に「人形供養」が執り行われており、境内に立つ「人形塚」には碑文に我が敬愛する※武者小路実篤先生の御言葉「人形よ、誰が作りしか、誰に愛されしか知らねども、愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ。」が刻まれている。
(※先生については同ブログの記事「文豪・武者小路実篤先生に寄せて」参照)

 

「猩々」の伝説は大変古く、古代中国で紀元前403年から220年頃に作成された最古の地理書「山海経」(せんがいきょう)の中に既に登場する。
日本でも西暦931~938年に作成された辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)の中で「中国の伝説に在る毛の人面で言葉を話す酒を好む不思議な生物」として記述されている。
室町時代後期に成立した「能」の演目『猩々』では、彼は高風(たかふう)と云う親孝行を尽くす若い酒商人の店を度々訪ねては大量の酒を飲んでいた。
ところが全く酔い潰れる様子が無い。
不思議に思った高風が素性を尋ねると、「我は海に住む猩々也。」と名乗り、彼の親孝行振りを褒め讃えて舞を見せ、最後には彼に褒美として決して尽きる事の無い不思議な酒壺を与える。
此れに依って「猩々」は備えの陽気な酒好きで、親孝行者に福をもたらす者として神格化されたのであった。

 

余の論文「我が家の大正時代の雛人形」の中にも記している様に、古来より「」は生命の源である「血」、「太陽」、「火」を象徴する神聖な色として扱われ、古代人達はい色を身に着けて其の神聖な力で自身を守ろうとしていた。   
即ち備えの「猩々」も神社の鳥居が(ないしは)塗りであるのと同様に「魔除け」の意味を持っていると考えられていた様である。
元禄十六年(1703)に書かれた「小児必用養育艸」(しょうにひつようそだてくさ)と云う育児書に「黒い痘は命が危うく、い痘は治りが早い。」と記されている事にもあやかって、江戸時代の半ば頃から「猩々人形」が痘瘡の見舞い品として贈られる縁起担ぎの習慣が出来たらしい。

深層心理学の分析では「人形」は人間関係を煩わしく思う「閉鎖性」、「孤独」、又は愛情への「渇望」を意味している。
ドイツのPorzellanfigur(陶磁器人形)、並びに日本の衣装、木目込人形をコレクションにしている余にもこれ等の意味が多少は該当しているかも知れない。
余は幼少の頃より「」と云う色に尋常ならぬ愛着があり、其の上親父殿から「猩々」の話を聞いていた思い出もあるので、「猩々さん」には大変な愛着がある。
余の部屋には既にドイツを中心としたEuropäische Kunst und Antiksammlung(ヨーロッパの美術、骨董品コレクション)が満杯の状態で置かれているので、今回の「猩々人形」は我が母上の部屋に置かせてもらっている。
(迷信染みた事を書く様だが)あたかも「猩々さん」が余に「此れからも親孝行に励みなされ!さすれば更なる福が来るぞ!」と応援してくれている様な気がしてならないのである。

追伸:
2019年1月18日、此の日は我が心の故郷Königreich Preußen (プロイセン王国・1701年)及びDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国・1871年)の成立記念日と言う最も目出度い祝日である。
奇しくも此の日、東京の古美術商から(前記の)余が注文した平安祥鳳による京焼の「猩々」人形が送られて来た。


此の人形は素焼きで体長が22cmあり、着物の柄を細密丁寧に描き込んでいるなかなかに見事な作品で、而も保存状態も良好である。
余は当初此の人形をコンピューターの画面で見た時には、1950年代後半~1960年代前半の作品と推定していたのだが、実際はもっと古く1930年代の作品である事が判明した。
と言うのは此の人形が入っていた木箱の中に制作年代を決定付ける古新聞の断片で昭和13年12月14日と記載された物が入っていたからなのである。
此の新聞には「けふ(今日)南京陥落一周年、現地記念式厳かに挙行」と言う記事が投稿されている。

 

かつての随筆『縁は人も物も結び付ける』の中に「今までの我が人生に於いて、世の中の「縁」とは誠に不思議な物であると感じた事が何度もあった。」と書いているが、此度も同様に感じさせられてしまった。
何故なら我が家には同年・同時期の昭和13年9月1日~12月1日にかけて陸軍歩兵部によって発行された書籍「支那事変・戦跡の栞」(上、中、下巻)が保存されているからなのである。
此の本は我が親父殿の兄貴が「日中戦争」に従軍し功績があった事で、記念品として陸軍から贈与された物で、余が彼の没後に譲り受けて所蔵している。
又、此の木箱の中には同時代の物と思われるRosette(薔薇を模ったブローチ)が入っていた。
此の事から此の「猩々人形」は当時何らかの祝典儀式に持ち込まれた物であると推理されるのである。
ともすると其れは国内に於ける前記の「南京陥落一周年記念式典」であったとも考えられる。
いずれにせよ此の様に縁起の良い「猩々人形」がまたしても「縁」によって我が家に入って来てくれた事には、大きな喜びと同時に又もや不思議な思いにも駆られるのである。

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