只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

対豊臣大坂城を意識して天下普請で築城された「名古屋城(3)

愛知県名古屋市中区

 

「名古屋城」は情報量が多いお城ですので4回に分けて投稿していますのでどうぞよろしくお願いいたします。

●城主と歴史、立地と縄張り、お城の概要

         ↓

 

現在の縄張りがわかる絵図案内 ↓


今日の「名古屋城(3)」では、現存と復元された「櫓・門」を見て行きたいと思います。

 

●お城の概要と特徴

<本丸櫓群>

「本丸」には、二重三階の大きな「隅櫓」が三基建ち並んでいました。

 

 現在「本丸」跡には、「西南隅櫓(坤櫓)」と「東南隅櫓(巽櫓)」が建ちます。建築時期は1612年頃で、いずれも重要文化財に指定されています。

 

ただ、「西南隅櫓」は1891年(明治24年)の「濃尾大地震」による石垣の崩落で櫓自身も倒壊しましたが、新旧の部材で再築されています。「北東隅櫓」は、現在石垣が残っているだけです。

 

両隅櫓ともに、二重三階で、南側一重目の「破風」の形式が異なる他は、ほぼ同じ形で同じ大きさです。一重目は二階建てになっていて、二重目が最上階となります。この隅櫓には多聞櫓が続き、「本丸」の防備は鉄壁だったそうです。

 

両櫓の「破風」の違いは、「西南隅櫓」は、「軒唐破風」を重ねた格式が高い「重破風(かさねはふ)」及び「千鳥破風」を採用していますが、「東南隅櫓」は「切妻破風」を採用しています。

 

大きさは、東西11.8m×南北13.5m、高さ14.1mもあり、床面積は約50坪にも及ぶ、巨大櫓です。

 

南東隅櫓(重文、二重三階、南から) ↓

南東隅櫓(重文、東面) ↓

西南隅櫓と天守 ↓

西南隅櫓と天守の間も多聞櫓(古写真、隅櫓の解説に掲出の写真) ↓

西南隅櫓(南面は右側、重破風が見える) ↓

 

「西南隅櫓」の室内は、板張りの質素な造りで全く豪華さはありません。中心部分は「身舎(もや)」になっていて、それを「武者走り」で取り囲んでいます。二階から三階に上がる階段は、踊り場を設けて屈折させています。窓が多いので、光の差し込みがあり割と明るいです。 

 

西南隅櫓内(1階身舎、入口方向) ↓

西南隅櫓内(2階武者走り) ↓

西南隅櫓内(3階武者走りの天井) ↓

西南隅櫓内(3階身舎と武者走り) ↓

 

西南隅櫓の三階には「御窓台」が保管されています。これは、天守5階の四隅に置かれていたもので、城主が遠くを見る時にこれに上り使用した台らしいです。

 

西南隅櫓内(天守5階にあった「御窓台」を3階に保管) ↓

 

また、「本丸」の北東隅には、二重三階の「北東隅櫓」があって、「本丸搦手馬出し」との出入りであった「本丸東門」を監視する目的がありましたが、太平洋戦争で焼失してしまい、現在は櫓台が残るだけになっています。

 

本丸北東隅の櫓門石垣(本丸搦手馬出出入口) ↓

 

<御深井丸>

「本丸」の北西には、「御深井丸(おふけまる)」という曲輪が在りました。本丸からは「不明門(あかずもん)」で繋がります。北西端には、三重三階の「北西隅櫓」が建ちますが、先ほど来の隅櫓とは違う「層塔型」形式です。「清洲城」の天守を移築したものと言われています。

 

北西隅櫓(清洲櫓、重文) ↓

北西隅櫓(清洲櫓、重文、御深井丸側から) ↓

 

<本丸跡・二の丸跡・西の丸跡内の各種門>

現在「本丸・二の丸」跡内には、江戸時代から残る「門」が三基建ちます。ここでは現存の三基の「門」と復元或いは復興した「門」を見ていきます。

 

まず、「本丸」入口には、埋門形式・高麗門形式の「本丸表ニ之門」が現存して重文に指定されています。この門は右に屈折する枡形を形成していて、「本丸表二之門」と対になる「渡櫓門」の「本丸表一之門」がありましたが、太平洋戦争で焼却してしまったので、現在は櫓台だけが残ります。

 

因みに、「名古屋城」の場合の門の番号の振り方は、天守に近い方から「一之門」と呼び、外側を「二之門」と呼びますが、多くのお城は逆の呼び方をして「一之門」は外側の高麗門形式の門を呼ぶ場合が多いです。

 

本丸表二之門(重文、高麗門、表から) ↓

本丸表二之門(重文、高麗門、裏から) ↓

本丸表二之門袖壁の控柱 ↓

本丸表一之門 櫓門の石垣 ↓

 

「本丸」の天守下北側の「御深井丸(おふけまる)」に繋がる出入口には「不明(あかず)門」が戦前までありましたが、天守の火災と共に焼失してしまいました。現在は復元されています。

 

この門の特徴は、白壁と石垣を繰り抜いて造られた「埋門形式」で、庇を付けるとともに、剣の穂先を並べた剣塀が両脇に続きます。

 

復元「不明門」(本丸側から、本丸と御深井丸を繋ぐ門、1978年復元) ↓

復元「不明門」 (剣の穂先を並べた剣塀が両脇に続く) ↓

復元「不明門」と復元「大天守」 ↓

 

「本丸」東側の「本丸東二之門」跡には、現在「二之丸東門二之門鉄門」が移築されています。こちらも現存で重文に指定されている高麗門形式の門です。

 

「二之丸」からこの門を入った正面には「清正(せいしょう)石」が「鏡石」の役割を果たしています。「名古屋城」普請の際に、「加藤清正」自らがこの石の上に乗って、石運びを鼓舞したと伝わっていて、その様子の銅像が、「東南隅櫓」南の本丸馬出し跡手前に立っています。

 

本丸東二之門跡へ移築された二之丸東門二之門 (重文、鉄門、高麗門) ↓

本丸東二之門跡へ移築された二之丸東門二之門 (重文、鉄門、高麗門、本丸側より) ↓

「清正(せいしょう)石」が「鏡石」 ↓

石運びを鼓舞している「加藤清正」像 ↓

 

続いて「二之丸」跡内の現存「城門」を見ていきます。当門は、高麗門形式の「二之丸大手二之門」で重文に指定されています。当門も枡形になっていますが、櫓門であった「二之丸大手一之門」は失っています。

 

二之丸大手二之門(高麗門、重文)表から ↓

二之丸大手二之門(高麗門、重文)裏から ↓

二之丸大手一之門の櫓台 ↓

 

続いて「西之丸」跡は、「御深井丸」の南側で、「本丸」跡から「中堀」越しに位置する西側の細い敷地です。

 

現在「正門」になっている所には大きな「櫓門」が建っています。

 

ここには、「榎多門(えのきだもん)」が建っていましたが、明治時代になって、旧「江戸城」の「蓮池門」を移築して「名古屋公園」の正門になっていました。しかしながら、太平洋戦争にて焼失して、1959年(昭和34年)に「蓮池門」に似せた櫓門が再築されました。

 

「榎多門(えのきだもん)」跡に建つ名古屋公園正門(1959年に再築) ↓

鯱鉾(正門―江戸城から移築された蓮池門に付いていたもの) ↓

 

<本丸跡・西の丸跡内の角馬出し>

「名古屋城」には、大きな「角馬出し」が北側を除く東・西・南に配備されていました。

 

「馬出し」は、「本丸」等の「門」前に張り出した土地を設けて、周囲を土塁や土塀、堀で囲み、万一そこまで攻め入ってきた時には、そこで敵を攻撃できるように武士を待機させる場所に使用されました。

 

戦国時代には、武田家は「丸馬出」を、北条家は「角馬出」を多用したお城を築きました。

 

現在の「名古屋城」の「本丸馬出」は、東側に堀が切り込んで内側に入り込み両側に石垣が築かれていることを見ることができます。西側は埋め立てられています。

 

大手馬出し石垣(右側)と二之丸石垣に挟まれた鵜の首 ↓

大手馬出し内(周囲は土塁で囲われている) ↓

 

また、「西の丸」跡にも、切り込んだ「堀」が「本丸」側に入り込んでいる「鵜の首(うのくび)」と呼ばれている「馬出し」の遺構を見ることができます。

 

西の丸の鵜の首(天守から見下ろす) ↓

 

次回「名古屋城(4)」では、「二の丸」「西の丸」「三の丸」の各跡の現状を見て行きたいと思います。

 

 

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「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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煌びやかで贅を尽くした”本丸御殿”の復元が見られる「名古屋城(2)

愛知県名古屋市中区

 

「名古屋城」は情報量が多いお城ですので4回に分けて投稿していますのでどうぞよろしくお願いいたします。

主と歴史、立地と縄張り

       ↓

 

現在の縄張りがわかる絵図案内 ↓


今日の「名古屋城(2)」では、復元された「本丸御殿」を見て行きたいと思います。

 

●お城の概要と特徴

<本丸御殿>

太平洋戦争によって焼失してしまった「本丸御殿」は、木造による完全復元に向けて、2009年(平成21年)から順次復元工事が始まり、第一期に「玄関」「表書院」等が、第二期では「対面所」「下御膳所」等が、第三期では「上洛殿」「湯殿書院」「黒木書院」「上御膳立所」等が完成して2019年6月にグランドオープンしました。

 

復元本丸御殿 図 ↓

 

名古屋城の「本丸御殿」について少し解説しておきます。

 

戦国時代には、お城は自分の領地を脅かす敵に対する防御の為や、逆に攻め入る為の拠点として築城されていましたが、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、お城を中心に家臣を始め民衆や商人をお城内(城下)に集め、城主又は領主は彼らを統治するようになり「城主」は「居館」を設けてそこに居住するようになります。

 

更に、江戸時代も1615年の「大坂の陣」以降は殆ど平和な時代が続くようになりますと、お城は戦闘による防御施設から、民衆や商人達の平和のシンボルになり、城主(藩主)は、政治・行政等を家臣を使って行います。そこで、政治・行政を行う役所が必要となり、城主(藩主)の生活の場所やその家族が住む場所、そして政治・行政を行う家臣の仕事場として「居館」から「御殿」に進化していきます。

 

将軍が住み、政治・行政の中心地としての「江戸城」には、多くの「御殿」が建ち並んでいましたが、「名古屋城」にも「本丸御殿」や「二の丸御殿」等が建っていました。名古屋城の「本丸御殿」は、「来客」や「重臣」との重要案件の相談場所として使用されているのと、もう一つの目的である三代将軍「徳川家光」の「京」への上り下りする途中の宿泊場所としての機能を持たせて造られました。

 

従って、政治・行政を執り行っていた藩士達は「二の丸御殿」で働いていたようです。

 

まずは、「本丸御殿」を外から見ていくことにしましょう。

 

「本丸御殿」は、「本丸表門」の枡形を右手に折れて櫓門の櫓台石垣を左手に曲がると、正面に復元「本丸御殿車寄・玄関」が迎えてくれます。現在の入館は右手方向に進み「中の口部屋」がある建物入口からとなります。

 

本丸御殿「車寄、玄関」 ↓

本丸御殿「車寄」から「大廊下」と「表書院」を見る ↓

「表書院」の西面 ↓

左から「下御膳所」「対面所」(北側から見る) ↓

左から「小天守」「大天守」「鷺之廊下」「対面所」 ↓

「上洛殿」 ↓

「上洛殿」から本丸御殿「湯殿書院」を見る ↓

 復元「上台所」と「孔雀之間」 ↓

 

それでは、「本丸御殿」の中を見ていきましょう。「中の口部屋」で、傘、靴、リュックを預けて復元「玄関」に進みます。

 

中之口部屋(現在は、荷物や靴預かりのロッカー置き場に使用) ↓

 

これから、見ていく各部屋に描かれた「襖絵」や「床の間」の絵は、「狩野貞信」や「狩野探幽」などの「狩野派」が描いたモノの模写です。実物は、太平洋戦争に入り、外せるところは外して別の場所へ疎開させていたそうです。

 

全部で1047面あるそうで、重要文化財に指定されています。復元各間の襖絵や床の間に描かれている障壁絵は、顔料や材質を科学的に分析して、江戸時代の絵師による伝統的な画法を用いて緻密に再現したそうです。

 

「玄関」の間は、「一之間」と「二之間」に分かれていて、来訪者を威圧するような勇猛な「虎」と「豹」が描かれています。こちらは、正規の来客がまずは通される場所で、ここで待機しました。

 

玄関二之間 (こちらも虎と豹) ↓

玄関一之間の床の間と違い棚 ↓

 

「表書院」は「大広間」とも言い、その役割は来客や家臣と対面する部屋です。「表書院」は、一之間、二之間、三之間、上段之間が並んでいます。

 

特に「上段之間」には、左から「付け書院」「床の間」「違い棚」「帳台構え」となっていて、「帳台構え」の奥は「納戸之間」となっています。

 

上段之間の天井は「折上げ小組格天井」がしつらわれ、その廻りには天井絵が嵌め込まれるなど、豪華さが際立ちます。

「表書院」の襖や壁に描かれているのは「花・鳥・麝香猫(じゃこうねこ)」等が描かれて、美しさが目立ちます。

それでは、三之間から順番に上段之間まで見ていきます。

 

表書院三之間 ↓

表書院二之間 (襖絵は松と楓) ↓

表書院二之間西襖 ↓

表書院一之間東襖 ↓

表書院一之間から上段之間を臨む ↓

表書院上段之間の床の間と付書院 ↓

復元本丸御殿 (表書院上段之間の折上げ小組格天井) ↓

表書院西側前廊下 ↓

 

「対面所」の役割は、藩主とその家族との私的な対面、家臣との私的な対面、更には宴席をする場所として使用されました。

 

「上段之間」の壁や襖絵には、四季の京都の風物と名所、「次之間」は和歌山の風物と名所が描かれています。ほぼ生活の場として使用されていたので、落ち着いた四季が描かれています。

 

対面所を彩る絵画の解説(上段之間は京都名所、次の間は和歌山の名所) ↓

対面所次之間床の間(壁・襖絵は和歌山を描く) ↓

対面所次之間襖絵 (壁・襖絵は和歌山を描く) ↓

対面所上段之間(左から床、違い棚、帳台構えで襖絵は京都の名所が描かれる) ↓ 

対面所上段之間違い棚と帳台構え (京都の名所) ↓

 

鷺之廊下」は、「対面所」と「上洛殿」とを繋ぐ廊下で、壁には「鷺」の絵が描かれています。また、その北側は「梅之間」になっています。

 

梅之間」は、「上洛殿」と「対面所」の間にある北側の部屋で、将軍のお世話をする尾張藩上級家臣の控えの部屋でした。

 

上洛殿と対面所を結ぶ鷺之廊下 ↓

 

上台所」とは、将軍用の食事を作る建物ですが、現在中は土産物販売場として使用されています。

 

下御膳所」の役割は、藩主等が食事を執る際に、食事の温めや配膳をした場所です。囲炉裏や天井には煙出しがあります。

 

上御膳所」はより格式が高い配膳や温めをする場所で、御膳間、上之間、上段之間がありました。

 

下御膳所 ↓

 

上洛殿」の役割は、1634年の三代将軍「徳川家光」の上洛に併せて増築しました。「上洛殿」の構成は、「三之間」「二之間」「一之間」と並び、「一之間」の北側には「将軍」が坐する為に一段高くなっている「上段之間」を備え、その右手には「納戸之間」「松之間」が続きます。

 

上洛殿(南側の廊下突き当りの欄間彫刻) ↓

上洛殿 (1634年の家光の上洛に併せて鷺之廊下とともに増築、三之間の襖絵) ↓

上洛殿 (二之間と右に三之間)  ↓

上洛殿 (手前から三之間、二之間、一之間) ↓

上洛殿 (1634年の家光の上洛に併せて鷺之廊下とともに増築、一之間から三之間方向) ↓

上洛殿 (一之間から上段之間をのぞむ)  ↓

上洛殿 (上段之間で襖絵は「帝冠図」は狩野探幽作) ↓ 

上洛殿 (上段之間の帳台構え) ↓

 

「襖絵」や「天井板絵」、「欄間彫刻」や「飾金具」は、どれを取っても細部まで豪華絢爛で、贅の限りを尽くしています。「上段之間」に描かれた「帝冠図」や「雪中梅竹鳥図」は、「狩野探幽」によって描かれました。

 

本丸御殿上洛殿 (一之間の天井) ↓

本丸御殿上洛殿(上段之間の折り上げ格天井) ↓

上洛殿の襖の葵紋付取っ手 ↓

上洛殿の釘隠し ↓

 

次に建つ「湯殿書院」と「黒木書院」へは、「上洛殿」と廊下によって繋がっていますが、見学の際は、一旦スタート場所であった「中之口部屋」へ戻り外へ出て、「車寄」「玄関」前を通り「表書院」「対面所」「上洛殿」の建物が建つ南側を歩いて、「湯殿書院」の南正面に向かいます。

 

湯殿書院」の役割は、「上洛殿」の役割と同様で「家光」上洛時に造られたモノです。中は、「一之間」「二之間」及び「上段之間」、「湯殿」で構成されています。

 

湯殿」は、将軍専用の風呂場で、表には「唐破風」を施した湯殿入口から中に入りますが、湯船はなく「サウナ式蒸し風呂」でした。そして「将軍」が風呂上りに涼み休息をとる部屋が「上段之間」でした。

 

湯殿書院の風呂屋形(唐破風が付く湯殿、蒸し風呂形式) ↓

湯殿書院の風呂屋形(古写真) ↓

湯殿書院(上段之間) ↓

湯殿書院 (将軍が湯を楽しみ英気を養うくつろぎの空間、一之間) ↓

湯殿書院(一之間の釘隠し) ↓

 

将軍が使用したのは、「家光」の上洛時だけで、幕末まで将軍が上洛することなく、14代将軍「家茂(いえもち)」や15代将軍「慶喜」は、この風呂の使用はなかったようですので、約250年間で「湯殿書院」は数回のみしか利用されなかったようです。

 

黒木書院」も「家光」が上洛の際に建てられた書院で、上洛時の寝室に使用されたようです。この書院のみ良質な松材が用いられ、松の色が黒色していたので「黒木」と命名されたそうです。またこの書院は、「清須(洲)城」(愛知県清須市)内の「家康」の宿舎から移築されたモノとの伝説があります。

 

「黒木書院」の襖絵は、風格のある水墨画が描かれていて、将軍の寝室として落ち着いた格式高いデザインになっていました。二条城でもそうですが、将軍の居間「白書院」内部の襖絵は水墨画ですので、煌(きら)びやかな中で寝るのは、寝心地がわるかったのでしょうか。

 

黒木書院(奥から一之間、二之間) ↓

 

暫くの間「本丸御殿」内部を見てきましたので、次のブログ「名古屋城(3)」では、「本丸」から「二の丸」にかけてまだ紹介していない「櫓」と「門」及びその跡の遺構を見ていきたいと思います。

 

 

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対豊臣大坂城を意識して天下普請で築城された「名古屋城(1)

愛知県名古屋市中区

 

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●城主と歴史

 「徳川家康」が「徳川家」存続の為に「御三家」を設けます。その一つとなった「尾張藩」には、当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「家康」が天下普請で「名古屋城」を1610年に築城させて「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時の徳川対豊臣バランスから、名古屋から以東の徳川領土を如何に防衛するか、徳川の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城造りが求められました。

 

その後「尾張徳川家」に将軍を輩出するチャンスがありました。幕府は、6代将軍「徳川家宣」が亡くなり7代将軍に3歳の「徳川家継」が選ばれましたが、「家継」も1716年に亡くなって本家「徳川家宣」の血筋が途絶えてしまいました。

 

本来であれば徳川家NO2の「尾張徳川家」から将軍を出すべきでしたが、丁度「尾張藩」も後継者問題に苦労していて1713年に4代「徳川吉通」が亡くなると、嫡男「徳川五郎太」が3歳で5代藩主として家督を継承しますが、その後2ヵ月ほどで「五郎太」も死去し、「吉通」の弟「徳川継友」が6代尾張藩主となりました。

 

この時、NO3の「紀州藩」では、藩主「徳川吉宗」がすでに息子がいたことや、紀州藩での藩政改革で実績を挙げていたことから8代将軍は「吉宗」になり、「尾張藩」からの将軍選出がなりませんでした。

 

その後7代尾張藩主となった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。この中央への対抗思想が、今の名古屋には受け継がれているのかもしれません。

 

幕末時には、14代と17代の藩主となった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子ですが、幕政にも参加して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は上洛して14代将軍の補佐を命じられますが、幕末には「尾張藩」の実権を握り、徳川家にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて新政府軍に参加します。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

縄張りは堅固で、北側の沼地を背中にした「本丸」を中心に、「西之丸」「御深井丸」「二之丸」が取り巻き、更にその南東から南側にかけて「三之丸」が取り囲む所謂、「梯郭式」の縄張りでした。そして、その周辺には「総構え」が拡がる鉄壁な守りとなっていました。

 

現在の縄張りがわかる絵図案内 ↓

 

<概要>

太平洋戦争で、日本最大級であった「天守」と「小天守」を始め、最大規模の「本丸御殿」までも焼失してしまい、幸いなことに御殿内の障壁画や天井絵約各300枚は避難していて残りました。

 

 1612年に完成した「名古屋城」の「天守」は城下全体の規模は勿論のこと、「大天守」は当時としては「江戸城」に次ぎ「大坂城」と並ぶほどの大きさで、1657年の大火による「江戸城天守」焼失と1665年の大火による「大坂城天守」焼失後は、約280年もの間、日本NO1の大きさと、屋根上の「金の鯱」とともに日本全国一番のお城を誇っていました。

 

因みに「大天守」の屋根に付いていた「金の鯱」は、木製の芯の表面に黄金の板を張り付け、それに金の鱗を取り付けて制作し、215㎏の金を使用したそうです。現在1gが23,000円位(2026.6月現在)で、鯱の純度が80%ですので、40億円位でしょうか。

 

現在の金の鯱は、レプリカで工事期間中は「正門」の脇から特別展示が終了し、1921年7月22日にヘリコプターで天守に戻されたとか。

 

金の鯱鉾(石膏模型で地階→正門脇→特別展に展示していましたが、現在は天守に戻された) ↓

 

国宝にも指定されていた「天守群」や「本丸御殿」、その他多くの「櫓」と「門」が、太平洋戦争による爆弾投下で焼失してしまいました。

 

<天守・小天守>

「天守」は、「連結式層塔型天守」で、地下1階地上五重五階の大天守です。「天守台」は19.5mで建屋は36.1mで合計55.6mになります。

 

江戸時代通期で現存した「天守」の中では、最大の規模で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高さ等14項目で日本一でした。内部の畳数は大京間畳1759畳あったそうです。

 

柱は2階までの「通し柱」と各階を支える「管柱」の2種類が使われています。当初の屋根は最上階のみ銅瓦葺でしたが1755年の大工事の際に2重目以上は軽量の銅瓦葺きとなっています。

 

地階には「黄金水」と呼ばれる「井戸」を設けていました。

 

地下1階の復元黄金水の井戸枠 ↓

 

現在の天守は、1959年(昭和34年)にコンクリート造りで外観復元ですが、老朽化に伴い木造による建て替え復元工事に向けた色々な調査が進んでいます。当初の予定では2022年12月の完成を目標に約500億円の費用をかける予定のようでしたが、バリアフリーの問題や石垣の耐震問題等が解決されていない上に、建材の高騰問題も出てきて、完成はまだまだ後ズレする模様です。

 

取り壊しを待つ外観復元コンクリート造りの大天守(東面) ↓

外観復元の大天守(南西より) ↓

古写真(奥より大天守、小天守、本丸御殿) ↓

旧国宝天守の礎石 ↓

右から大天守、小天守、本丸御殿(手前左から下御膳所、孔雀之間) ↓

大天守を見上げる ↓

天守入口の石垣(中が観覧できていた時の写真) ↓

天守3階「藩主の間の再現」 (中が観覧できていた時の写真) ​​​​​​ ↓

天守3階「御用部屋」の再現(中が観覧できていた時の写真)  ↓

天守3階「城下のくらし」をテーマにした展示(中が観覧できていた時の写真) ↓

大天守の階段 (中が観覧できていた時の写真) ↓

大天守最上階(中が観覧できていた時の写真)  ↓

焼失前の「大天守1階」の古写真(巨大さがわかる) ↓

 

「大天守」と「小天守」は繋がっていますが、通常の「連結式天守」では「多聞櫓」で接続するところ、名古屋城では天井が無い「橋台(きょうだい)」と呼ばれる通路で繋がります。

 

これは、「多門櫓」にすることで延焼になる可能性があるので、それを防ぐことにあります。ただ、両壁の軒下をよく見ると、剣が並んでいる「剣塀」となっていて、外部からの防御は固いです。

 

渡り廊下(橋台)から見上げる復元天守(中が観覧できていた時の写真) ↓

大天守と橋台(中が観覧できていた時の写真) ↓

橋台の外側には剣が並ぶ剣塀 ↓

大天守と小天守(「本丸御殿」が建つ前の写真) ↓

橋台から見上げる復元小天守(中が観覧できていた時の写真) ↓

「橋台」を東側(本丸側)から見た ↓

外観復元の小天守、橋台で大天守と連結 ↓

 

江戸時代初めに天下普請で建てられた「名古屋城」は、当時まだ「大坂城」にいた「豊臣秀頼」との一戦に備えて、西側にも「小天守」を繋げる計画があったようです。しかし、1615年に「大坂夏の陣」で「豊臣方」が滅びたので、その工事は中断されましたが、その形跡を現在でも目にすることができます。

 

 天守台(西側)石垣に残る西小天守用通路跡(縦に2本の筋が見える) ↓

本丸石垣の勾配 ↓


次回の「名古屋城(2)」では、復元された「本丸御殿」を見て行きたいと思います。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

木曽川沿いの断崖絶壁に美しく建つ国宝「天守」の「犬山城(2)

愛知県犬山市

城主と歴史、立地と縄張り

前編「犬山」で記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

ありし日の「犬山城」 ↓

縄張り絵図 ↓

 

お城の概要と特徴

今回「犬山城(2)」では、いよいよ「本丸」跡に入り国宝「天守」を見て行きます。更に、その後「三の丸」跡へ足を延ばします。

 

<本丸>

復興「本丸鉄門」を潜ると「本丸」跡です。左の階段を少し上ると、右前には国宝「天守」が眼の前に飛び込んできます。「天守」は2019年に大修復を行いリニューアルが完成しました。

 

復興「本丸鉄門」 ↓

国宝「天守」 ↓

 

国宝「天守」を詳細に見る前に、「本丸」跡をぐるりと先に廻ります。「本丸」跡にも幾つかの櫓や門がありました。左手前の南西隅には「弓矢櫓」跡が残り、その土手沿いの北西端下には「千貫櫓」が建っていましたが、「天守」西側には入ることができず櫓台の確認ができません。

 

「弓矢櫓」台 ↓

 

次に北東隅には、「七曲門」跡があります。こちらは、「櫓門」であったらしく石垣もしっかりと残っていて、ここから麓へ折れ曲がりの七曲道を下って「水の手門」まで通じていたそうですが、現在は通行止めとなっています。

 

「七曲門」跡(下段から) ↓

 

古写真で城山東面に建つ「丑寅櫓」や「水の手櫓」が写っていて「七曲門」跡の下にありましたが、この先入城禁止地帯です。

 

「七曲門」跡から土手上の「多門櫓」跡沿いに南下した所には「大砲櫓」台が残ります。「本丸鉄門」横の城郭建築風のトイレ脇にあるので少し見づらいですが、結構な敷地でしたので名前の通り大きな櫓だったのかもしれません。

 

「大砲櫓」台(「杉の丸」跡方向から) ↓

 

<国宝「天守」>

「天守」は、三重四階(地階二階)で二重の上に望楼が乗る「望楼型天守」、現在は向って右側に切妻の「付櫓」を設けた「複合型天守」ですが、元々はもう片方にも付いていたようで、現在は、城下の「奥村邸」に移築されてフレンチレストランに再利用されています。

 

20数年前に訪れた時は「奥村邸」の土蔵として使用されていて、そこに「旧付櫓」だったことが表示されていたのに驚き写真を撮りましたので、後ほど撮った写真を見てください。

 

国宝「天守」を見上げる(右には付櫓、こちらも天守一体で国宝) ↓

付櫓(国宝) ↓

犬山城付櫓(旧奥村邸土蔵に移築されたとか、現フレンチ奥村邸) ↓

 

「天守」の外観特徴をもう少し記載しておきますと、壁面は「下見板張り」で、二重の望楼下には南北に「軒唐破風」を置き、そこから三階の明り取りがされています。

 

入母屋望楼型、軒唐破風が良く解るポジションから ↓

 

最上階には、「廻縁」と「高欄」を設けていて最上階の廻りを回遊することができて遠望を楽しめるようになっています。また、「廻縁」への出入口の両脇白壁には「華頭窓」がありますが、これは窓の機能を果たすモノではなくて、格式を上げるために壁に貼付けた装飾品です。

 

最上階には廻縁、華頭窓が見える ↓

 

一階西側の下が断崖絶壁ではありますが、北側に比べると幾分登って上り易いとのことだからか、ここにだけ「石落し」が設けられていて、室内は「石落しの間」という部屋となっています。

 

天守西側の「石落し」 ↓

 

「天守」内ですが、入館は「天守台」を繰り抜いた地下二階からとなり、そこには脇戸を持つ厳重な扉が備わり、地下一階の踊り場から一階へ上がります。

 

 天守入口地下二階に相当 ↓

天守地下一階と天守台の石垣 ↓

 

「天守」の一階・二階は、1601年に築城された現存最古の天守と言われています。三階の望楼部分は後年付け足されたそうです。因みに、最近まで最古の天守と言われてきた「丸岡城」天守は、天守そのものは1576年に築城されたのですが、1613年に大改修されたか、或いは造り直されたモノだとする説が有望らしいです。

 

一階中央部分には、書院造り風に「床の間」「違い棚」を設えた「上段の間」が備えられ、「納戸の間」が脇に造られています。ただ「上段の間」は、城主の居間ではなくて、幕末に装飾として造られたものらしいです。

 

上段の間(床の間、違い棚、右は納戸の間) ↓

 

周囲は「武者走り」のような廊下となっていますが、良く見ると廊下を横切る「敷居」が何本かあることから、一階全てが部屋として使用されていたのではないかと言われています。また、壁も白壁が天井まで上がっています。

 

一階廊下には敷居を設置 ↓

一階フロア(二階への急階段) ↓

 

また、「付櫓」内は、階段で降りて中から外を見ることができます。前述の「石落しの間」を外から見ると確かに石などを落とす仕掛けにはなっていて、従来は部屋内部の床に切った蓋を開閉できる「石落し」があるのでしょうが、この部屋内には見当たらず、どのようにして石を落とす仕掛けになっているのか謎でした。

 

一階の段下にある付櫓内 ↓

一階の石落しの間 ↓

 

急な階段で二階へ上がります。二階も天井まで白壁で、中央には「身舎(もや)」が設けられ、その中には「天守」の骨組み模型が置かれていました。「身舎」の周囲は、一階とは違って幅が広い「武者走り」が取巻いています。

 

二階の武者走り ↓

二階身舎(武具の間)内に置かれている天守骨組み ↓

 

三階は、入母屋屋根の中にあるので、採光の為に「軒唐破風」の内側を「入込の間」として利用し窓を設けています。屋根裏部屋ですので、狭い空間となります。

 

三階(奥に唐破風の間、赤絨毯が敷かれた階段) ↓

 

最上階の四階へ上がります。階段は赤く、途中から見上げて一番に目に入ったのが、真っ赤な床の色です。というのも、最上階の床面には赤い絨毯が敷き詰められています。

 

この理由は、1781年~1838年に城主がオランダ商館長から当時珍しかった「絨毯」、しかも赤色のモノを入手して敷いたのが始まりだそうです。現在敷き詰められている「絨毯」は、当時のものではないでしょうが、その後ずっと赤い「絨毯」が敷かれ続けているのです。

 

四階の床には赤絨毯が敷かれている ↓

天井にも赤絨毯の赤色が写っている ↓

 

「廻縁」から見下ろす「本丸」跡は結構な広さで、復興「本丸鉄門」を中心に、右には「小銃櫓」台の上に建つ茶室用の「模擬櫓」、左にはトイレを城郭建築風に建てているので、天守上部から見下ろすと、立派な城郭建造物による守りを見ることができます。そして、その向こう南方向には城下が開けて見えます。こちらへは、後ほど参りたいと思います。

 

最上階の望楼を取り巻く高欄・廻縁 ↓

貼り付けただけの花頭窓 ↓

天守からの遠望(本丸跡、奥は三の丸城下) ↓

 

「廻縁」西側に立つと、顔を背ける程の「木曽川」からの強い風を受けますが、眺めは最高です。木曽川越しに見える三角の単独山は「伊木山」でその近くには「ライン大橋」が良く見下ろせます。北から東の方角を向くと、名鉄電車と道路が並ぶ「ツイン犬山橋」もバッチリ見渡せます。

 

天守からの遠望(木曽川、ライン大橋、伊木山) ↓

天守からの遠望(ツインブリッジ犬山橋) ↓

 

先ほど上ってきた「大手道」を下って、城山の北側から西側にかけての断崖絶壁の麓を木曽川沿いに歩くと「ライン大橋」に辿り着きます。

 

城山北側下の断崖絶壁の岩を繰り抜いたトンネル

 

そこから眺める「国宝天守」も美しい形をしています。「荻生徂徠」が言う中国長江流域の「白帝城」とはこんな感じだったのかと、思いを馳せることができる絶好のポジションです。

 

荻生徂徠が見たであろう木曽川と国宝「天守」

南側からアップで ↓

 

<三の丸>

「ライン大橋」からの遠望を堪能した後は、「犬山城」の正面「松の丸」跡に戻り、そこから南へ真っ直ぐに延びる「本町通り」を歩きます。

 

こちらは、「犬山城下町」のネーミングの下で、従来から残っていた古い町並みを、電線地中化工事を加えることや店舗のハザード等を江戸時代風情に統一するなどの努力によって観光化が進んできました。

 

通りを入ってすぐ左手には「三の丸馬場跡」碑が、更に少し進むと「藩校敬道館」跡碑等が並びます。

 

「藩校敬道館」跡碑 ↓

 

この界隈は「三の丸」跡に当たるエリアだった所ですので、お城関連の施設や城郭建造物が沢山集まっていたと思われます。

 

「高札場」「問屋場」「火の見櫓」があった場所には、「火の見櫓」が再現されていますし、左手の少し開放的な場所は「大手門広場」となっていて、そのすぐ近くの「犬山福祉会館」辺りに「大手門」があったようです。

 

「大手門」の古写真が残っていて、「大手門桝形跡」の遺構復元を2028年度末の完成を目標に整備が進行中です。

 

犬山城下絵図(総構えの範囲がよくわかる) ↓

「高札場」「問屋場」「火の見櫓」があった場所に「火の見櫓」を再現 ↓

大手門広場 ↓

大手門の古写真(大手前広場に掲出) ↓

 

「本町」通りには、登録有形文化財に指定されていて江戸時代の町屋建築である「旧磯辺家住宅」があります。

 

外形は、穏やかな曲線美のある「起り(むくり)屋根」で、中に入ると板間、主屋の座敷、渡り廊下で奥座敷に繋がり、奥には三つの土蔵が並びます。またその他にも、この界隈には旧町家を活用した様々な店舗が並びます。

 

旧磯部家住宅の起り屋根 ↓

旧磯部家住宅の主屋の吹き抜け ↓

高木邸(酒業) ↓

 

最後になりますが、犬山市内、特にお城周辺の寺院に「犬山城」の「城門」が多く移築されていますのでご紹介しておきます。

 

「常満寺山門」には、「松の丸裏門」が移築されていて門形式は「薬医門」、「専念寺山門」には、城内の「城門」がこちらも薬医門形式でした。また、名鉄「犬山遊園駅」の東側に建つ「瑞泉寺山門」は、犬山城「内田門」が移築されています。

 

犬山城「松の丸裏門」(常満寺山門に移築、薬医門)

犬山城「城門」(専念寺山門に移築、薬医門)

犬山城「内田門」←その前は「美濃金山城大手門」 (瑞泉寺山門に移築、薬医門)

 

「専念寺山門」の手前に保育園がありましたが、その西側が「外堀跡」ということで、「専念寺」辺りから坂道になって下っていきますので、堀であったことが偲ばれます。

 

外堀跡

外堀跡に向かう坂道

 

「犬山城」の「城門」の遺構が、この「犬山城」下以外にも、数多く移築されて再利用されています。

 

犬山城「松の丸門」(浄蓮寺山門へ移築、愛知県一宮市千秋町)

犬山城「二の丸矢来門」(専修院東門へ移築、愛知県丹羽郡扶桑町)

犬山城「黒門」(徳林寺山門へ移築、愛知県丹羽郡大口町)

  犬山城「城門」(雲善寺山門に移築、愛知県一宮市) ↓

犬山城「二の丸矢来門」(専修院山門に移築、愛知県丹羽郡扶桑町) ↓

 

時間が有れば、国宝の茶室「如庵」や城下をゆっくり散策することをお勧めします。

 

国宝茶室「如庵」(「有楽苑」のHPからお借りしました) ↓

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日も、BSNHKでの放映を18時から見ましたので、少し早くお届けします。


前回の最後の方のシーンで、「信長」が心変わりして「長宗我部元親」に四国全部を切り取らせないよう、仲介役の「明智光秀」に指示しました。今まで間を取り持ってきて梯子を外された感じの「光秀」は苦難の様相を呈していました。この案件は、「本能寺の変」の伏線と考えられていますね。

 

今日のお話ですが、前回のシーンを受けて「元親」は激怒して、益々「光秀」は苦境に立たされます。そして命じた「信長」は甥で「光秀」の娘婿でもある「織田信澄」が謀反を企てているとの思い込みと、「信澄」の父親だった「信長」の弟「織田信勝」を殺害したことに対する後ろめたさによる疑心暗鬼に捉われ、「信澄」に蟄居するように命じました。

 

「信澄」は、舅の「光秀」が間を取り持った「長宗我部元親」と「信長」との関係改善を図るべく密かに「元親」に近づいていたことを「信長」に攻められることになります。

 

「豊臣兄弟」は、「信澄」の蟄居を解き、「信長」の疑心暗鬼の苦しみを取り除くために、何とか「信長」を元気づけようと色々と画策する為に、「秀吉」の養子として貰い受けていた「信長」の五男「秀勝」に会いに行くよう進め「秀吉」の居城「長浜城」に「お市の方」と共に招き、「羽柴家」一同があれやこれやと宴を催して、最後には「信長」の勘気も解けたというストリーでした。

 

最後の「信澄」と「光秀」との間で交わされたシーンでは、「本能寺の変」に繋がる意味深な事実を「信澄」から「光秀」は聞かされます。

 

「信澄」は若くて「織田一門」の中でも重要視されていた一人でしたが、「本能寺の変」の後には、「光秀」と共謀した謀反人と見なされて襲撃を受け命を落とすのが史実ですが、ドラマでもこのようなストーリーとなるのでしょうか。

 

本日は「織田信澄」が城主だった「大溝城」(滋賀県高島市)を紹介します。

 

「大溝城」は、「明智光秀」の縄張りで築城されて「織田信澄」が城主となり、秀吉の「長浜城」、明智光秀の「坂本城」、そして信長の「安土城」が、「信長」の近江における城郭ネットワーク四城と呼ばれる程、重要なお城の一つでした。

 

現在は、「大溝城」時代の「天守台」石垣が残る他に、二の丸跡には「分部神社」が建っています。

 

「大溝城跡」碑 ↓

「大溝城」天守台石垣 ↓

「大溝城」天守台石垣 ↓

「大溝城」天守台石垣 ↓

「広報たかしま」の高島市歴史散歩より ↓

 

また三の丸跡は江戸時代に「分部家」の「大溝陣屋」が置かれ、陣屋跡には「高島市民病院」の敷地にもなっています。

 

また唯一残る「陣屋」の城郭建造物は、「陣屋惣門」であった長屋門が民家として利用されていたものを近年改装保存されています。「丸の内に三引き」の分部家定紋入り瓦が屋根上で見ることができます。

 

「大溝陣屋」の「陣屋惣門」(修築後) ↓

「大溝陣屋」の「陣屋惣門」(修築前の民家) ↓

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

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国宝天守迄は大手道沿いの曲輪と櫓・門による堅固な構えの「犬山城(1)

愛知県犬山市

城主と歴史

「犬山城」の始まりは、古くは室町時代に遡るようで、「織田家」のお城でしたが、戦国時代には稲葉山城主だった「斎藤道三」との奪い合いがあったりしました。最終的には「織田信長」の叔父に当たる「織田信康」が入城して修築し、その後は「織田信清」「池田恒興」「中川定成」等の諸将が入城しました。

 

江戸時代に入り、徳川家康の臣下である「平岩親吉」が初代藩主となりますが、その後「名古屋城」に御三家が設けられたことから、「尾張徳川家」の付家老「成瀬家」のお城となりました。

 

「犬山城」城主の「成瀬家」は、「尾張徳川家」の陪臣であり長年、将軍の直臣である大名になれるよう陳情がなされましたがそれは叶わず、明治新政府に替わってやっとのことで諸侯に列したのです。しかし、他藩の付家老と同様に1871年の廃藩置県で、大名としては数年間だけの在位になりました。

 

しかし特筆すべきことは、その他のお城では、藩主や城主であった各家は、明治時代になって早々と売却したり地元や役所等への寄付や贈呈を行いましたが、「犬山城」だけは、つい最近(2004年)まで、この「天守」を自費で旧お殿様であった「成瀬家」が所有していました。その後は、財団法人を作って管理運営を任すようになりました。個人で、所有とは、かなり大変なことだったと思います。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

木曽川のほとり90m弱の丘に築かれた平山城で、その佇まいが中国長江流域の「白帝城」に類似していることから、江戸時代中期の儒学者「荻生徂徠(おぎうそらい)」が、「白帝城」と命名したと伝わっています。「荻生徂徠」は、「犬山城」を見上げて、余程感動したのでしょう。でも、当時は写真もなく、現地にも行っていないでしょうから、長江と白帝城の絵画から想像したのでしょうねー 

 

白帝城と言われた犬山城 ↓

 

お城の中心の「本丸」を城山の最高所に置き、「天守」はその北端、更にその下は「木曽川」が流れ断崖絶壁となっています。「本丸」内には「御殿」が置かれ、二重の「大砲櫓」「小銃櫓」「弓矢櫓」が建ちました。

 

「本丸」南に「本丸鉄(くろがね)門」が建ち、そこは「岩坂門」との間に桝形を形成した重厚な造りになっていました。そこから「黒門」まで真っすぐな坂道の「大手道」が貫き、その両脇には「杉の丸」「桐の丸」、反対側には「樅(もみ)の丸」が置かれて、その3つの曲輪が「二の丸」でした。

 

その南側には大きな面積の「松の丸」を配備して、後に「御殿」はここに移されました。更に、南に「三の丸」を置き武家屋敷が並びました。そして堀を隔て「三の丸大手門」を抜けると城下町が拡がっていました。

 

ありし日の「犬山城」 ↓

縄張り絵図 ↓

 

それでは、城山麓から(松の丸跡、二の丸跡)から見ていき、その後「三の丸」「城下」を見ましょう。

 

<松の丸>

国宝「天守」へ向かう為には、まず「松の丸」「二の丸」を抜けなければなりません。正面には、右側から「針綱(はりつな)神社」の鳥居、「三光稲荷神社」の赤い鳥居と社(やしろ)、そして「猿田彦神社」の社殿が並びますので、どこから入れば「天守」に行けるのか迷うかと思いますが、どこから入っても到達はできます。この辺り一帯が「松の丸」跡で、ここには「松の丸御殿」が建っていました。

 

「松の丸」跡に建つ「針綱(神社」の鳥居 ↓

「松の丸」跡に建つ「三光稲荷神社」の赤い鳥居と社(やしろ)、「猿田彦神社」の社殿(左端) ↓

 

それぞれの神社の謂われは旧城主「織田信康」時代に狛犬を奉納したり、「成瀬家」時代には守護神として祀ったりと昔からそこに鎮座していたようです。

 

「猿田彦神社」左側の「大手道」を登っていきます。その登り口には「中門」があったそうですが特に遺構は見られず真っすぐ進んだ所には、北側から下ってきて東側に折れまがり「三光稲荷神社」の北側まで至る大きな「空堀」が見られます。

 

「中門」跡付近 ↓

 

<二の丸>

その「空堀」は、ちょうど「樅(もみ)の丸」跡を西側から南側にかけて取り巻くような防備となっていて、「樅の丸」南西端には「屏風櫓」台を見上げることができます。現在「樅の丸」は、外からは見えないようになっていて管理用の建物があるようです。

 

「空堀」跡(「樅の丸」(右側)の西側、北方向) ↓

「空堀」跡(「樅の丸」(右側)の南側) ↓

「樅の丸」南西隅にあった「屏風櫓」台 ↓

「樅の丸」跡の石垣(東面) ↓

 

「空堀」に沿った「大手道」は、「桐の丸」跡に向かって緩やかに上がります。その途中には「矢来門」跡、「松の丸門」跡が標識と共にあり、更に進むと突き当たりが「桐の丸」南西端の「道具櫓」台となりますが、現在はその上に「針綱神社」の社務所が建ちます。

 

「矢来門」跡 ↓

「松の丸門」跡(右に、「松の丸」跡」へ下りる石段あり) ↓

「道具櫓」台の上に建つ「針綱神社」の社務所 ↓

 

「道具櫓」が監視していた「黒門」跡が真下にあり礎石が確認できます。その脇の石段を登った敷地全体が「桐の丸」跡で、現在は「鉢綱神社」の境内になっています。

 

「黒門」跡の礎石 ↓

「桐の丸」跡から「松の丸」跡へ下りる石段(この左手に「宗門櫓」があった) ↓

「杉の丸」跡南面の石垣(針綱神社の裏側) ↓

 

「桐の丸」は、前述の「道具櫓」の他に「宗門櫓」が建っていた曲輪です。「針綱神社」から「大手道」に出ますと、長い急な石段「長坂」が始まりますが、丁度その右手には「御成櫓」台を見ることができます。

 

「大手道」の長坂(突き当りが「長坂門」) ↓

「杉の丸」の南西隅の「御成櫓」台 ↓

 

この長坂を登り切った所に「長坂門」跡があります。その手前右手には「杉の丸」跡の広場が拡がります。ここの東側には「多聞櫓」と東南隅に「器械櫓」が有ったそうですが、中には入れませんので遠方より眺めるだけでした。

 

「長坂門」跡(奥に復興「本丸鉄門」が見える) ↓

 

さて、「長坂門」跡と復興「本丸鉄門」の間は大きな桝形となっていて、「長坂門」脇には「小銃櫓」が睨みを効かせていました。現在の「小銃櫓」台の上には櫓風の茶室が建っていて一般開放されています。

 

「長坂門」跡と復興「本丸鉄門」の間にある「鏡石」 ↓

「小銃櫓」台(現在上には、櫓風の茶室が建つ) ↓

 

次回「犬山城(2)」では、いよいよ「本丸」跡に入り国宝「天守」を見て行きます。更に、その後「三の丸」跡へ足を延ばします。

 

 

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重文”二の丸御殿”を見ると当時の職務別仕事内容や格付けが解る「掛川城(2)

静岡県掛川市

歴史と城主、立地と縄張り

前編「掛川」で記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

主要部分の昔の配置図(現地で掲出) ↓

縄張り絵図(デアゴスティーニ「日本の城」より) ↓

 

「掛川城(2)」では、重要文化財の「二の丸御殿」や復元された「大手櫓門」等をみていきたいと思います。

 

お城の概要と特徴

二の丸と二の丸御殿>

「二の丸」跡の一番の目玉は、現存の「二の丸御殿」が建っている事です。「二の丸御殿」は、全国で4現存「御殿」(※)の内の一つで非常に貴重な江戸時代の御殿建築で、重要文化財に指定されています。

 

(※)二条城の二の丸御殿(国宝)、高知城の本丸御殿(重文)、川越城の本丸御殿(埼玉県有形指定文化財)

 「二の丸御殿」(重文、「天守」から見下ろす)

 

「二の丸御殿」は一体となった建造物ですが、内部は南側に玄関・広間を置き、西面の南側(右)から「大書院」 、北側(左)が「小書院」となっていて、東面全体が「藩の業務を行う役人の部屋」で構成されています。

 

「二の丸御殿」西面の南側(右)から「玄関」「広間」、手前が「大書院」 ↓

「二の丸御殿」西面の手前が「小書院」、奥の屋根が「藩業務を行う役人部屋」 ↓

 

「玄関」は特徴ある屋根を施していて「起(むくり)破風」の中には「蕪懸魚」が見えます。「玄関」で靴を脱ぎあがった所が売店になっていますがそこは「広間」だった所で、その裏側には外部からの要件取次、会談や会議に使用する「御談の間」になっています。

 

「二の丸御殿」の平面図(パンフレットに掲載) ↓

「二の丸御殿」の「玄関」 ↓

「二の丸御殿」の「玄関」(屋根は「起(むくり)屋根」で「蕪懸魚」が付く) ↓

 

その左の一角が「大書院」で「三の間」「次の間」「二の間」そして藩主(城主)が外部の人と謁見する「御書院上の間」が並び、その間は書院造で、「床の間」「違い棚」が備わっています。

 

「二の丸御殿」の「三の間」 ↓

「二の丸御殿」の「次の間」から「大書院-御書院上の間」を見る ↓

「二の丸御殿」の「大書院-御書院上の間」(左から「床」「違い棚」) ↓

 

「大書院」の北側には「御書院上の間」とは一部屋を挟んで背中合わせに藩主(城主)が座る「小書院」が配置されています。ここでは、藩主(城主)の執務室となっていてこちらも書院造ですが、「床の間」「違い棚」に加えて障子によって「付書院」を表現させています。

 

「二の丸御殿」の「小書院」 ↓

 

「次の間」の奥には、藩主(城主)が寛げる居間としての縦長の「長囲炉裏の間」がありその天井には「太田家家紋」があしらわれています。

 

「二の丸御殿」の「次の間」 ↓

「二の丸御殿」の「長囲炉裏の間」 ↓

 

「大書院」「小書院」のもう一つの特徴として、廊下部分は全て畳敷きになっています。

 

「二の丸御殿」の畳敷きの「廊下」 ↓

 

この畳廊下から板敷廊下に替わって東側に渡るとそこからは役所エリアとなって役人たちが控える部屋が並びます。先ほどまでの開放的な書院造りとは対照的な窓の少ない暗い廊下沿いに部屋が並びます。

 

書院から役所部分への渡り廊下 ↓

 

東側の並びは手前から足軽や下級武士を監督した「足軽目付」「徒(かち)目付」の部屋や「吟味奉行」「張役所」「賄方」「御文証」等の小さい窓しか無い土壁と板敷の部屋が並びます。

(※)因みに「吟味奉行」とは藩内の訴訟・事件・経理関係の吟味をした部署、「張役所」とは邸内の警備担当、「賄方」は城内の修理修繕、「御文証」は文書管理 、今でいう総務部の各課

 

「二の丸御殿」の「役所」側の板敷廊下(この両側に部屋が並ぶ) ↓

「二の丸御殿」内の「足軽目付」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「徒目付」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「吟味奉行」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「御文書」部屋 ↓

「二の丸御殿」外から(手前の内部は「賄方」「御文庫」、奥の内部は「御談の間」「広間」) ↓

 

一方西側の「大目付」「御用人部屋」は身分の高い役人の部屋ですので、中庭に面して明り取りの障子や襖が入り、畳敷きになっています。

(※)「御用人部屋」は、財務・庶務担当の部署

 

「二の丸御殿」内の「大目付」部屋 ↓

「二の丸御殿」 障子が入る部屋は「大目付」部屋(中庭から) ↓

「二の丸御殿」内の「御用人部屋」 ↓

 

「御殿」を一周して当時の藩主中心に藩運営がどのような役職で賄われていたか、そしてその序列等を知ることができます。

 

「御殿」から外へ出ると、「御殿」裏側には、「黒土塁」という「二の丸御殿」を外部から隠す目的の背の高い土塁を見ることができます。

 

「二の丸御殿」を東側から隠す「黒土塁」 ↓

 

「二の丸御殿」の東側下には、大きな池に赤い橋が架かっていますが、それが「内堀」の「蓮池」で、対岸には城下の様相に併せた「市立図書館」の建物が建っています。

 

「内堀」(蓮池)跡 ↓

 

<大手門>

「外堀」替わりの「逆川(坂川)」を渡る橋向うには復元「大手門」と現存移築された「番所」が並びます。「大手門」は、廃藩後民間に払い下げられた先で焼失した門でしたが、1994年に元の場所から約50m北方へ移動して木造復元されました。

 

総二階建櫓門、左側に脇戸を設け、背面左側には二階へ上がる階段が付き、窓は塗込連子窓、一階は梁先に「出桁」を置いてその四方に「板庇」を付けています。

 

復元「大手門」(窓は「塗込連子窓」、1階は梁先に「出桁」を置いてその四方に「板庇」) ↓

復元「大手門」 ↓

復元「大手門」(手前は「番所」) ↓

復元「大手門」背面の二階への階段 ↓

復元「大手門」の背面には歴代藩主の「家紋」と「家名」が列挙 ↓ 

 

「大手門」の内側(北側)には、移築「番所」がセットで配備されていて、こちらは、「谷家」の居宅として移築されていたものを1978年に掛川市へ寄贈され、1995年に大手門脇へこの場所へ再移築されました。

 

移築現存「番所」 ↓

移築現存「番所」 ↓

 

<下台所、竹の丸>

「下台所」跡は、現在「大日本報徳社」の敷地と多くの歴史を感じさせる建造物群が並んでいる敷地となっています。

 

「大日本報徳社」とは、「二宮金次郎」の報徳思想を伝承する大本山で、正門の真正面に構える「大起破風」を持つ玄関とその上に入母屋屋根を持つ二階建ての「大講堂」(重文)は非常に立派な建物です。

 

「下台所」跡の石垣 ↓

「下台所」跡の敷地内にある「大日本報徳社」の「正門」と「大講堂」(重文) ↓

 

他にも、この敷地内には「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)、「仰徳記念館」(県指定文化財)等が並んでいます。

 

「下台所」跡の敷地に建つ「大日本報徳社」の「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)

 

「竹の丸」跡は、「天守丸」「二の丸御殿」の真裏(北側)の崖下になり、当時は重臣や家臣の屋敷が建ち並んでいた場所でした。

 

「竹の丸」跡の北東側に残る「土塁」、この下は「乾堀」跡 ↓

 

「竹の丸」跡には立派な和風建築が建っています。これらは江戸時代に葛布問屋だった「松本家」が1903年にこの場所を得てここに本邸宅を築きました。

 

その後1920年頃には離れを二階建てにしてステンドグラス入り貴賓室を設けたり、枯山水の回遊式庭園を造園しました。現在は、豪商の屋敷を伝えて市指定文化財に指定されていますが、市民に対して貸室などを提供しています。

 

旧「松本邸」の塀重門 ↓

旧「松本邸」和風建築 ↓

旧「松本邸」和風建築 ↓

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

木造復元“天守”現存“と”太鼓櫓、後段は”二の丸御殿”と”櫓門”の「掛川城(1)

静岡県掛川市

歴史と城主

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初で、それは現在の「掛川古城」でした。

 

その後「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込み、「家康」は「掛川古城」を本陣にして攻め立てます。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、「家康」が関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主交代が有りました。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

立地は、中小河川によって形成された沖積平野にある標高57mの独立丘陵にある平山城です。

 

丘陵最頂部に「天守丸」を置き、「本丸」をその南側下の前面に配置し、「二の丸」「三の丸」等主曲輪がそれを取り囲む「梯郭式縄張り」を採用していました。これは「山内一豊」によるものです。

 

城山の南を流れる「逆川」を「外堀」として取り込み、その内側には「松尾丸」と「内堀」によって「本丸」を防衛していました。

 

主要部分の昔の配置図(現地に掲出) ↓

縄張り絵図(デアゴスティーニ「日本の城」より) ↓

 

本丸>

復興「四足(よつあし)門」前の階段を上がると、右手には「三日月堀」が水を湛えています。正面には「本丸」跡の入口である「本丸門」跡の石垣が構えます。

 

復興「四足(よつあし)門」 ↓

「三日月堀」 ↓

 

お城に近づくにつれ、「天守」と共に目に入る「太鼓櫓」(市指定文化財)が「本丸門」石垣南側の「荒和布(あらめ)櫓」台の上に1955年に現存移築されて建っています。一重目の建物が多聞櫓風でその上に望楼が付き、外壁は下見板張りで柱を見せる「真壁づくり」、内部に「太鼓」が置かれて時を刻んでいた櫓です。

 

「荒和布(あらめ)櫓」台の上に現存移築された「太鼓櫓」(市指定文化財) ↓

現存移築され「太鼓櫓」(登城路から見下ろす) ↓

 

その下を通り抜け入場券を購入して入った前の花壇広場が「本丸」跡で、「本丸御殿」が建ち並んでいた場所です。そして、左下には堀代わりの「松尾池」が「本丸」南側を守備していたようですが現在は失われています。

 

「本丸(本丸御殿)」跡 ↓

 

「天守」へは右側のつづら折れになった「登城路」を上っていき、途中に建っていた二重櫓の「腰櫓」台跡から「登城路」は向きを変え、土塀が石段に沿って上がっていきます。

 

「天守」への「登城路」 ↓

「登城路」沿いの復元「土塀」 ↓

 

登り切った所には「冠木門」が築かれていますが、そこには当時、櫓門が建っていた「天守下門」跡になります。

 

「冠木門」が建つ場所が「天守下門」跡(「天守」から見下ろす) ↓

 

「天守丸」周囲には白壁の土塀が控柱を伴って取巻き、深さ45mで日本で第3番目(※)の深さだという大きな石の上に井桁がある「霧吹き井戸」が横たわります。この井戸は、「家康」が「今川氏真」を攻めた時に、ここから霧が吹きだし城を見えなくしたという伝説がある井戸です。

 

「天守丸」跡を取巻く復元の「土塀」 ↓

「霧吹き井戸」 ↓

 

 <天守外観>

「天守」は、三重四階の「望楼型」、東西両側に「張出り」を設け、南側には「付櫓」で大きく見せる工夫を行うと同時に、二重目の出窓には「唐破風」を付けて壁には「華頭窓」、最上階には周囲を「廻縁・高欄」を施して格式を上げています。

 

1854年の「安政東海大地震」で倒壊し、1994年に木造復元されました。

 

前述のように、張出し、付櫓、出窓が付随していますので、見る方向によって様々な見え方がする「天守」で、面白みが有ります。以下、様々な方向からの写真を掲載しますのでどうぞご覧ください。

 

1階の東西「張出し」が良く解る写真(南面) ↓

「唐破風」、出窓の「華頭窓」、「廻縁・高欄」が良く解る(「本丸」跡=南面から見上げる) ↓

「付櫓」と「登城路」の「土塀」が良く解る(南東方向から) ↓

1階の東「出張り」が良く解る(東南からやや東方向、「二の丸御殿」から見上げる) ↓

1階の東「出張り」が良く解る(東からやや北東方向、「下台所」跡付近から) ↓

ライティングされている薄暮の「天守」(南東方向) ↓

 

「天守」を支える「天守台」は5~6段の石垣であまり高くはなく、「打込接(うちこみはぎ)・乱積み」となっています。

 

「天守台」  ↓

 

「天守」西側と東側1階の「天守台」との間には、「忍び返し」を設えています。これは、当時設備されていて復元したのか、それとも「山内一豊」が「高知城天守」で採用した「忍び返し」を当城の復元に当たって採り入れたのかは不明です。

 

「天守」西側に設えた「忍び返し」 ↓

 

「天守」館内へは「付櫓」から入城します。復元されて30年余りにもなりますが、内部の木造はまだ美しいままです。

 

「付櫓」からの入館 ↓

 

天守内部>

1階の天井が高く、階段も急角度で、周囲は「武者走り」を設けています。隅の天井には「火打ち梁」で耐震強化を図っています。

 

非常に高さのある1階と急角度の階段 ↓

2階から見下ろす1階 ↓

1階の武者走り ↓

1階の「石落とし」 ↓

1階天井の隅に施された「火打ち梁」 ↓

 

2階は梁が低いですが、窓が多く明るいフロアになっています。

 

天井は低い2階 ↓

2階壁面に「狭間」 ↓

2階から3階への階段 ↓

 

最上階は、四面に開放的な大きな窓を設けて、窓越しには周囲を取り巻く「擬宝珠」付きの「廻縁・高欄」が目に入ります。また天井には天井板が張られています。

 

最上階の開放的な窓 ↓

最上階を取巻く「廻縁・高欄」 ↓

最上階の板が張られた「天井」 ↓

 

「天守」を下りて「二の丸」跡へ向かいましょう。「本丸」跡と「二の丸」跡の間には、「三日月堀」よりも大きな「十露盤(そろばん)堀」が横たわります。

 

「十露盤(そろばん)堀」 ↓

 

次の「掛川城(2)」では、重要文化財の「二の丸御殿」や復元された「大手櫓門」等をみていきたいと思います。

 

 

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”天守台”発掘調査時の光景、三の丸と駿河代官所跡を巡る「駿府城(2)

静岡県静岡市葵区

歴史と城主、立地と縄張り

前編「駿府城(1)」で、記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

駿府城 絵図 ↓

駿府城 絵図 ↓

 

「駿府城(2)」では、2025年12月まで「天守台」の発掘調査現場が見学できていた「天守台」の写真を掲載し、その後「三の丸」跡、「城下」の一部を見たいと思います。

 

「天守台」発掘現場(現在閉場中)

発掘現場は、2025年12月まで無料で入場できてましたが、現在は2027年春以降に天守台が整備され展示館等の新施設建築の為に閉場中です。

 

ということで発掘現場の写真は2023年に撮影したものです。

 

開場時は、一面に石垣や石、土が見え、その間に「赤」や「緑」や「黄」のコーンが置かれていました。

 

それらのコーンの意味する所は、「緑」コーンは「慶長期」のモノ、つまり「徳川家康」が築いた(「天下普請」で築かせた痕跡)「天守台」の石垣や「本丸」部分の石垣、「赤」コーンは「天正期」のモノ、(発掘時は「豊臣政権下」に入城していた「中村一氏」が築いた「天守台」の石垣部分と言われていましたが、その後の調査で「天守台」も「家康」が築いたものではないかと言われています)で、「黄」コーンは「今川氏時代」の「今川館」のモノということです。ただ、「黄」コーンは殆ど目につきませんでした。

 

当時の入口すぐの所からは、「慶長期」の「本丸石垣」と「天正期」の「天守台」石垣が重なっている場所ですので、時代の差による石垣の積み方の違いが良く解りました。所謂、「天正期」の「野面積み」に対して、「慶長期」の「打込接」の違いです。

 

「慶長期小天守台東面」と「天正期天守台入口南面」(南の方からのぞむ) ↓

手前(緑コーン)は「慶長期本丸西面石垣」、奥(赤コーン)は「天正期天守台南西隅」 ↓

「天正期天守台石垣」 ↓

「天正期天守台」南西隅 ↓

 

「駿府城」の「天守台」発掘調査が行われている最中の2019年1月頃に、「中村一氏」の「天守台」が内側から見つかり、当時「豊臣秀吉」が「一氏」に築かせた「天守」が建ち、金箔瓦も使用されていたというニュースが報じられていたのが思い出されます。しかし「天正期」のモノも、「徳川家康」が築いた「天守台」ではないかと言われています。

 

展示館内に展示の金箔瓦(矢印の部分に金箔) ↓

 

その「天正期の天守台」の大きさは、「慶長期の家康」の「天守台」に比べれば小さいですが、一分重なっている部分があるということは、それを潰してその上から「天守」が建てられたということでしょう。

 

発掘上空からの写真(慶長期と天正期の天守台) ↓

緑の「慶長期家康」の「天守台」が赤の「天正期」の「天守台」に被る(現地掲出資料から) ↓

 

「家康」の「天守」の「天守台」の大きさは、発掘現場の西側に廻るとその大きさが実感できます。「天守台」の「打込接」の石垣が下から数段積まれている(積み直し或いは一部復元か)西面を見るとその壮観さが分かります。

 

「慶長期本丸西面石垣」 ↓

「慶長期天守台西面」 ↓

「慶長期天守台北西隅」 ↓

 

「慶長期天守」も「天正期天守」もどちらも「大天守」に「渡櫓」で連結した「小天守」を伴う「連結式天守」であったことが発掘調査からも示されています。発掘調査現場においても、「小天守」台の石垣の表示を見ることができました。

 

「慶長期の小天守台」の根石 ↓

「大天守」と「小天守」の位置関係(現地に掲出の資料) ↓

 

「本丸堀」も、その石垣に沿って西側から北側にかけて復元されています。また、その後方には、石垣の裏に入れ込まれていた細かい石の「栗石」が山積みにされているのが見えます。

 

「慶長期の天守台北面」 ↓

「慶長期天守台北西隅」 ↓

「慶長期天守台南面」 ↓

後方に置かれた「栗石」 ↓

 

また、「駿府城」が明治時代になって破壊された際に、石垣の石を「本丸堀」へ埋め込まれていたらしいですが、発掘調査で「本丸堀」を掘り返す際に出てきた石垣の石も北側の空き地に山積みにされているのを目にすることができます。

 

「本丸堀」から掘り返された「堀沿いの石垣」 ↓

「本丸堀」から掘り返された「堀沿いの石垣」 ↓

 

大きな石垣に「刻印」された石も展示されていますが、これらは「天下普請」の際に各大名が刻んだものなんでしょう。

 

北面からも「天守台」を数段積んだ姿を見て、その大きさには「家康」の当時の力の大きさが反映したものだと思います。

 

「天守台」の大きさは、当時の「江戸城」「大坂城」よりも大きく、日本最大の大きさがあったと言われていた「寛永期江戸城(家光時代の天守)」の1.5倍の広さの「天守台」を持っていたらしいですが、一説によると、この「天守台」の上には、「大天守」だけでなく「小天守」や「櫓」群等が建っていた可能性があるとか。

 

「天守台」の大きさ比較(現地に掲出) ↓

 

<天守>

「天守」は、1607年に再建中に火災で焼失して1608年に再建されました。

 

駿府城天守模型 (日本平ロープウエイ乗り場) ↓

 

「天守」の平面は12間×10間(25m×21m)でしたが、「天守台」は23間×24間(60m×50m)もあり、「江戸城寛政天守」(18間×16間)をはるかに凌ぐ平面面積でした。「天守」は「天守台」一杯に建てられず、「天守台」の周囲を「多門櫓」や「隅櫓」「櫓門」で取り囲んでいて、「天守曲輪」の様相でした。

 

六重七階の史上最重多階で、一階と二階は周囲を廻縁・高欄を設けた御殿の様な造りでした。屋根は、一重と二重は土瓦、三~五重は鉛瓦、六重目は銅瓦で、鯱や金具は金、懸魚は銀、壁面は下見板張りの替わりに「銅板張り」に松脂(まつやに)を原料とした黒色塗装していたようです。破風も、三重目以上に唐破風や千鳥破風を多く取り入れています。

 

しかし1635年の大火で焼失して以降再建されず、「天守台」も明治期に解体され現在は見ることが出来ません。

 

三の丸>「三の丸」には4つの門があり、特に大きな「大手御門」は「駿府城代」が警護し、「四足御門」は「駿府定番」が警護していました。

 

「大手御門」跡は直角に折れて桝形を形成しますが、「櫓門」の前には門(高麗門等の)は設けられませんでした。門の前には、堀に「土橋」が架かり、右に折れた所に「櫓門」が建てられました。現在も、道路が正面に突当り右に直角に折れ曲るのが残っており礎石も見られます。また石垣の積み方は「切込接・布積み」となっています。

 

大手御門の桝形石垣(県庁側から南方向) ↓

大手御門の桝形石垣(県庁側から北方向) ↓

 

「四足御門」跡は、「切込接・乱積み」と「切込接・布積み」で構成された門の石垣は桝形の一部を構成していた箇所のようでかなりの長さの石垣が残っています。

 

三の丸四足御門の石垣 ↓

 

西側の「三ノ丸堀」が残る所へ足を進めますと、まず目につくのが「櫓台」で、「三ノ丸堀」沿いの道には「外堀の散策道」と名前が付き、その散策道から堀越しには「三ノ丸」跡内に建つ「病院」「税務署」「裁判所」「高校」「教会」と様々な施設が見られます。

 

「西三ノ丸堀」と「櫓台」 ↓

「西三ノ丸堀」を渡り「三ノ丸」跡へ ↓

 

「教会」と「高校」の間にある「三ノ丸堀」を渡る橋を渡り「二ノ丸」跡に入って南方向には「清水御門」跡が見えます。更に東へ直進して「三ノ丸堀」を渡る橋の前には「深草御門」跡の石垣が横たわりますが、両脇に石垣を構える立派な門跡です。

 

「三ノ丸堀」に架かる橋の手前「深草御門」跡の石垣 ↓

「三ノ丸堀」に架かる橋の手前「深草御門」跡の石垣 ↓

「深草御門」跡の石垣の東側の「三ノ丸堀」 ↓

「草深御門」跡の西側「三ノ丸堀」の水位が異なる?場所 ↓

 

<城下>

大政奉還後、徳川家16代「家達(いえさと)」は、「駿河藩」としてこの駿河で存続を許されるとともに、15代将軍「徳川慶喜」は、明治2年から新政府からの許しが得られる明治31年まで、趣味に没頭した優雅な生活を送る地となりました。

 

そして「慶喜」の邸宅地が「駿河代官所」が置かれていた所でして、庭園は「小川治兵衛」に作庭させる池泉回遊式庭園としました。

 

現在ではその場所は料亭「浮月亭」となっていますが、当時の雰囲気を残した庭園が見られます。

 

「徳川慶嘉」邸宅跡、元駿河代官所跡(現在は料亭「浮月亭」) ↓

現在「料亭浮月楼」の庭園(元徳川慶嘉邸宅、駿府代官所跡) ↓

徳川慶嘉邸宅跡で庭園は小川治兵衛に作庭させた池泉回遊式 ↓

徳川慶嘉邸宅跡で庭園は小川治兵衛に作庭させた池泉回遊式 ↓

現在「料亭浮月楼」 ↓

 

 

 

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現在復元東御門、巽櫓、乾櫓が建つ天下普請で築城した巨大城郭「駿府城(1)

静岡県静岡市葵区

歴史と城主

室町時代に駿河の守護となった「今川氏」が「今川館」を築いたのが最初でした。2017年のNHK大河ドラマ「女城主 直虎」では、頻繁に「今川館」が登場していましたねー  そして「尾上松也」扮する「今川氏真」が蹴鞠をしている姿が印象的でしたし、2023年の「どうする家康」では「溝畑淳平」が「氏真」に扮していました。

 

「桶狭間の戦い」で「今川義元」が敗死した後は、「織田家」と「武田家」との間に挟まれ両家から領地を狙われていましたが、「本能寺の変」後に「武田氏」が進攻してきましたので、「今川氏」は「北条氏」の庇護下に入り存続します。その後、「武田勝頼」が「織田・徳川軍」に滅ぼされた後は、今度は「家康」の庇護を得て「今川氏」は存続する一方で、その遺領を「徳川家康」が領することとなりました。

 

「家康」は、1585年に「今川館」の地に「駿府城」を築城し翌年に本拠地として入城しますが、1590年には「家康」の「江戸」への移封に伴い「駿府城」は豊臣政権下の「中村一氏」が入城します。

 

「関ケ原の合戦」後、1607年に「家康」は隠居城として「天下普請」で拡張しますがその途中で焼失します。しかしすぐに再建を果たして大城郭として、1608年に「家康」の10男「頼宣」を城主とするとともに、「家康」自身は「隠居城」として「駿府城」にとどまり、引続き「大御所」として将軍「秀忠」の幕府を「駿府」からバックアップしました。

 

「頼宣」が「和歌山城」へ移封となった後は、3代将軍「家光」の弟である「忠長」が居城しましたが、「家光」に「忠光」が乱心したとの理由で改易され「高崎城」預かりでその後自刃するという悲しい運命をたどりました。

 

「忠長」改易後は、1632年に「駿府城」は藩主のいないお城となり、幕末まで「駿府城代」といったお城の管理役人が在住するのと、「駿府在番・勤番」という「城代」の補佐が置かれました。また、幕府直轄の天領でしたので、「駿河代官所」も置かれていました。

 

「大政奉還」後、新政府軍に敗れた「徳川慶喜」は、1868年に「慶喜」の養子「家達(いえさと)」が駿府藩主として入城しました。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

「徳川時代」の縄張りをお話します。「家康」の隠居城として築城され、「本丸」を中心に「二の丸」「三の丸」が配され、三重の堀に囲まれた典型的な「輪郭式縄張り」で、本丸北西隅には六重七階の巨大な「天守」が建っていました。

最近(2025年)には、「天守」の構造や建物の平面配置が詳細に描かれた絵図が発見されています。

 

駿府城 絵図 ↓

駿府城 絵図 ↓

 

「本丸」の外側は幅23mの「内堀」によって囲われていて、本丸への入口は、南に正門である「玄関前御門」東には「台所御門」が構えられ、「本丸」周囲には「多門櫓」で囲み、要所に二重櫓を配してました。

 

「本丸」を取り囲む「二の丸」は、四隅に重層櫓を置き、南と東が主に多門櫓、北と西は土塁に土塀が巡っていました。「二の丸」の正面は「二の丸御門」となりますが、現在復元されているのは「二の丸東御門」とその脇に立つ「巽櫓」、そして南西隅の「坤櫓」です。

 

それでは、現在最も目立つ建造物であり、入城門となっている「二の丸東御門」「巽櫓」から写真をみていきましょう。

 

<二の丸>

現在は、1996年に復元された立派な木造「東御門」が、一の門として「高麗門」、二の門として桁行13間(24m)、梁間4間(7m)という巨大な「櫓門」、そして西側と南側に「多門櫓」が周囲を取巻く「内枡形」を形成しています。「高麗門」の内側には「雁木」が設けられ、守備兵を素早く配備できるような配慮もされています。外壁は白漆喰総塗籠めです。

 

復元東御門 (正面、高麗門と櫓門) ↓

復元巽櫓と東御門 ↓

復元東御門の高麗門(桝形内から) ↓

復元東御門高麗門脇の雁木 ↓

復元東御門の渡櫓門(桝形内から) ↓

復元東御門を構成する渡櫓門と多門櫓 ↓

復元東御門の多門櫓部分(桝形内から) ↓

 

その南側には「東御門」よりも早い1989年に復元された二重三階の木造「巽櫓」が建ちます。折れ廻りの櫓となっていて、堀側から見ると矩形の櫓に見えますが、二の丸側から見ると、「大坂城」の「乾櫓」のようにL字型になっています。入母屋屋根は「大棟(おおむね)」が直交していて、3基の鯱が載っていて、外壁は「白漆喰総塗籠め」です。

 

復元巽櫓 (東南方向から) ↓

復元巽櫓 (北方向から、奥行きが無いのが分る) ↓

復元巽櫓(城内から、L字型) ↓

二の丸堀と二の丸石垣(東側) ↓

 

「二の丸」の正面になるのが、桝形を形成していた「二の丸御門」跡で、門の石垣が残りその前には「二の丸橋」が架かります。また、そこから南東方向に「中堀」が延びて「巽櫓」が見えるポジションになります。

 

二の丸御門と二の丸橋 ↓

二の丸御門跡から二の丸堀沿いの南側石垣で奥に巽櫓が見える ↓

 

「二の丸」の南西隅には、2014年に二重三階の「坤櫓」が復元されました。1階と2階が同型で、層塔型で平面が7間(12.6m)と一般的な三重天守に相当する規模で「白漆喰総塗籠め」です。形は、「名古屋城東南隅櫓」とほぼ同じで「張出し」がありその下には石落としを設けていて、徳川家の城郭に多用された形式です。

 

復元坤櫓(南西隅) 東南方向より ↓

復元坤櫓(南西隅、平成27年復元、二層三階) ↓

復元坤櫓(南西隅) と復元灯籠櫓 ↓


「坤櫓」がありそこから「西中堀」沿いに進んだ所に「二の丸清水御門」跡があります。「二の丸清水御門」前にも「清水橋」が架かり、現在はその石垣が残り両脇には「腰巻石垣」になっています。

 

復元坤櫓から西側二の丸堀(清水門跡方向) ↓

清水御門跡 ↓

清水御門跡(西側) ↓

二の丸土塁と腰巻石垣(清水御門の南側) ↓

二の丸清水御門跡 から北西方向 ↓

 

「西中堀」を進み戌亥(北西)の角を廻ると「北中堀」になり、その東寄りに「二の丸北御門」跡があります。この門の櫓台は「外枡形」で堀側に突出していましたので、現在もその突出した石垣を見ることが出来ます。

 

二の丸堀と堀に突出した北御門跡石垣 ↓

北御門跡石垣 ↓

北御門跡石垣、入ってすぐ右側に馬場先門があった ↓

北御門跡石垣 (内側から) ↓

「北御門」跡の石垣裏の「雁木」 ↓

「馬場先御門」跡 ↓

 

<本丸>

「本丸」は「内堀」に囲われていましたが、現在は殆ど埋められていて、「東御門」を入った所に一部分だけ掘り起こされて復元されています。また、「内堀」の水位調整の為の施設である「二の丸水路」が存在しています。

 

復元本丸堀(東南方向より) ↓

二の丸水路 ↓

二の丸水路 ↓

 

そして「北御門」先にも本来は「本丸堀」があったのですが、現在は埋められていますので「本丸御殿」跡の広々した敷地が拡がります。

 

「本丸御殿」跡(北御門跡から) ↓

「本丸跡」碑 ↓

 

「本丸跡」碑の後方には、鷹狩姿の「徳川家康」像が立ち、その脇には「家康御手植えのミカン」が植わっています。「家康像」は特に東海地方の各所で見ることが出来ますが、この像は我々がイメージしている「家康像」を最もよく表しているのではないかと私は思いました。

 

鷹狩姿の「徳川家康」像 ↓

 

「駿府城(2)」では、2025年12月まで「天守台」の発掘調査現場が見学できていた「天守台」の写真を掲載し、その後「三の丸」跡、「城下」の一部を見たいと思います。

 

 

 

 

 

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