JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。

 

鳥取城」(鳥取県鳥取市)に到着しましたので、「北ノ御門」跡から登城を開始します。

 

その前に、歴史と城主についてお話をしておきます。

 

1500年中頃には「久松山(きゅうしょうざん)」には「山名氏」によって砦が築かれました。1573年に、因幡守護の「山名豊国」は守護所をここへ移します。

 

その後、「毛利氏」の傘下になりますが、「織田信長」軍との間で籠城戦が行われ、特に1581年の「羽柴秀吉」による兵糧攻めでは、お城の中は凄惨を極め多くの餓死者を出して毛利方の「吉川経家」の自刃と引き換えに開城されました。

 

豊臣政権下では「宮部氏」が入城し、近世城郭に改修して山頂や山麓に石垣や櫓などを築きました。

 

関ケ原の戦い後は、「池田輝政」の弟「長吉」が入城します。

 

その後は、「池田家」のお城となりますが、複雑な系統の中で城主が替わりました。

 

「輝政」には三人の息子がおり、正室の子「利隆(としたか)」、「徳川家康」の孫「忠雄(ただかつ)」と「忠継」がいました。「利隆」は、「輝政」の遺領42万石と「姫路城」を継ぎましたが、その中から10万石を「岡山城主」の「忠継」に与えられました。

 

「利隆」が亡くなった時にその子「光政」が幼少であったので、幕府としては重要な拠点「岡山城」を任すには幼過ぎるとのことで、1617年に鳥取藩主とされ「鳥取城」に入城し、「岡山城」には「忠雄」が入城します。

 

その後、「岡山城主」であった「忠雄」が亡くなると、今度は「忠雄」の子「光仲(みつなか)」が幼少であったので、「岡山藩と鳥取藩の領地交換」を幕命によって指示され、「鳥取城主」だった「光政」が「岡山城」に入城し、逆に「光仲」が「鳥取城主」となりました。その後、「光仲」の系統が幕末・維新まで統治することになります。

 

「鳥取城」の縄張りですが、中世城郭を改修して近世城郭化した「山上のノ丸」と、1617年に入城した「池田光政」が整備した「山下(さんげ)ノ丸」を構えました。

 

「山下の丸」の縄張り図(現地にて掲出)

 

「山上ノ丸」には、「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」があり「本丸」には付櫓が付随する二重の「天守」(当初は三重だったが望楼部分を無くして二重に)が建てられていました。

 

一方「山下ノ丸」には、城下と繋ぐ「北ノ御門」「中ノ御門」「南ノ御門」を改修して、「二ノ丸」「三ノ丸」「天球丸」を置き、「二ノ丸」には天守代用の「御三階櫓」を建てると共に、「菱櫓」「走櫓」「角櫓」を配備して藩主「居館」を置きました。

 

「三ノ丸」は1716年以降に、藩主「居館」が置かれるようになりました。「天球丸」は、「池田光政」の伯母「天球院」が居住する為に造成された曲輪で、「三重櫓」が建っていました。

 

 

さて私は、前回のブログでも記載したように「北ノ御門」跡から入城しました。

 

「北ノ御門」跡

「北ノ御門」跡手前の「内堀」

 

入ってすぐ右手は「米蔵」等が建っていた「丸ノ内」跡で復元された「中ノ御門」まで続いています。

 

「丸ノ内」跡と「内堀」

 

左手には「鳥取県立博物館」が建つ敷地ですが、そこは山麓から「城代屋敷」跡、「上厩(かみのうまや)」跡、「米蔵」があった「丸ノ内」跡であった場所です。

 

「鳥取県立博物館」の敷地が「城代屋敷」跡、「上厩(かみのうまや)」跡、「米蔵」跡

 

「鳥取県立博物館」の敷地から道を挟んで東側の広大な敷地には「仁風閣」という立派な洋館が建っています。これは、明治40年に後の「大正天皇」である「嘉仁皇太子」が行啓時に宿泊したそうで、「旧池田家」がそのために建築したそうです。

 

重要文化財「仁風閣」

 

「仁風閣」の裏には、 1863年に12代藩主「池田慶徳」が、若くして先代藩主の未亡人となった「宝隆院」を慰める為に造園した「宝隆院庭園」があります。 そして庭園内には、「宝扇庵」という「扇御殿化粧の間」が建っていて、それが城内に唯一残る江戸時代後期築の城郭建造物ということで重要文化財に指定されています。

 

私は、「三階櫓」台上から写真を撮って帰り時に見ようと思っていたのが時間が無く寄れなかったのが残念でした。

 

「宝隆院庭園」

「宝扇庵」という重要文化財「扇御殿化粧の間」

 

「城代屋敷」跡の脇の石段を上がって右に折れると高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」が建っています。この門は1975年(昭和50年)に強風で倒壊しましたが、後年に復元した門です。この門も、現存していた門でもあります。

 

高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」

高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」

 

この門を潜って坂道と石段を上がっていくと、右手真上には「御三階櫓」台が聳えています。その左脇の「裏御門」跡を通ると「二の丸」跡に上がれます。

 

「二の丸」跡の石垣と聳える「御三階櫓」台

「裏御門」跡(「二の丸」跡から見下ろす)

「裏御門」跡(「御三階櫓」台から見る)

 

私はそこを上がらないで、左手に拡がる「右膳の丸」跡という平坦地沿いの山道を進み「角櫓」跡の櫓台下へ辿り着きました。

 

「右膳の丸」跡

 

「角櫓」台は、いかにも古い「野面積み」で「武者返し」の勾配も先端部分で急に上を向いています。

 

「角櫓」台(「右膳ノ丸」跡側から)

「角櫓」台

 

「角櫓」台の脇を上がった所が「二ノ丸」跡ですが、丁度入口付近にはこのお城の特徴でもある「登り石垣」を見ることが出来ます。次に行く「米子城」にも採用されている「登り石垣」ですが、ここの石垣は、あまり朽ちることなくキッチリと残されている感じがしました。

 

「登り石垣」

「登り石垣」

 

「二ノ丸」跡は東西長く、江戸時代初期には藩主が居住し、家老たちが政治を行う「藩主御殿」が建っていました。また山麓沿いは「石切場」が広範囲に残っていて、当城の石垣は全てがここから調達されたものであることが分かります。

 

「二ノ丸」跡(東方向)

「石切場」(西側)

「石切場」(東側)

 

「二の丸」跡の南側には、「櫓」が西側から「角櫓」「御三階櫓」「走り櫓」「菱櫓」が建っていて、特に「御三階櫓」は天守代用ということで立派な姿であったことが古写真から想像できます。

 

古写真「御三階櫓」(現地にて掲出)

 

1617年頃築の三重三階建ての櫓で、山陰地方初の「層塔型天守」、1階の敷地面積は14.5㎡と非常に大きく、下見板張りの外壁には妻側各階に大きな「竪格子連子窓」が付いています。1693年の大火で山上の天守焼失後は天守代用となりますが、1720年に焼失、しかし再度再建し1736年に竣工しています。

 

「御三階櫓」台と手前は「裏御門」跡の石垣

「御三階櫓」台

「御三階櫓」台の入口石段

「御三階櫓」台上

 

「御三階櫓」の東側には平櫓の「走り櫓」が、東端には二重二階の「菱櫓」が建っていました。

 

「走り櫓」跡

「菱櫓」台と「多門櫓」台

「菱櫓」台(手前)と「多門櫓」台

「菱櫓」台上

 

更にその後方には「多門櫓」に繋がる「鉄御門」が建っていて、現在でも「菱櫓」台から「多門櫓」台、「鉄御門」石の石段付きの立派な石垣を目にすることができます。

 

「菱櫓」台と「多門櫓」台

「鉄御門」跡の石垣

「鉄御門」跡の石垣

「鉄御門」跡の石垣

 

更に「鉄御門」入口付近東側には非常に珍しい「登り雁木」が採用されていて、斜めの敷地に巧く斜めの雁木を用いています。

 

手前に「登り雁木」、奥の石垣は「天球丸」跡

「登り雁木」

「登り雁木」

 

現在は、「風呂屋御門」跡を通って「天球丸」跡へ行けないので「二の丸」跡の東側にある「中坂稲荷鳥居」を潜って山道を上がります。

 

「風呂屋御門」跡

「中坂稲荷鳥居」

 

「天球丸」跡は、後ほど見る事にして「久松山山上」の「山上の丸」を目指します。

 

「物見御殿」跡を少し上がった所には、「八幡宮」跡がありますが、ここは、武運の神を祀る社があった場所で、かつて境内には本殿、鳥居を設け、階段前の窪みを池にたとえて橋がかかっていたそうです。

 

「御台」(藩主専用の見晴らし台)から望む「三ノ丸」跡方向

「八幡宮」跡

「八幡宮」跡

 

さあこれから、263mの山上を目指して山道を登って行きます。この辺りからだと約200mの比高差です。

 

次回ブログでは、「山上の丸」と再び下山して「天球丸」跡から「太鼓櫓門」跡、復元「中の御門」をお届けしたいと思います。

 

 

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