こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日は、18時からのNHKの放映を見ましたので少し投稿が早いです。


前回のお話では、「織田信雄・徳川家康」との「小牧長久手の戦い」で苦戦した「秀吉」が「信雄」と和睦して、結果「家康」は梯子を外された形となりました。和睦を終えて「丹羽長秀」から「羽柴(小一郎)長秀」が同じ名前であることから改名を進められ、「羽柴秀長」と名乗ることを宣言しました。

 

そして今日のお話ですが、まず「羽柴秀吉」と「徳川家康」との間の戦いは収束し、「家康」は次男の「於義伊(おぎい)」(後の「結城秀康」)を「秀吉」の養子に差し出します。

 

そして「秀吉」は続けて「紀州攻め」を行い、その褒賞として「羽柴秀長」は「和歌山城」を得ます。ドラマでは「紀州攻め」はほぼスルーでしたが、最後の現地紹介では「和歌山城」がキッチリと紹介されていました。

 

ドラマのストーリーでは、四国4ケ国を手に入れようとしていた「長宗我部元親」と、「秀吉」が関白になる為の話が中心に展開されていました。

 

「長宗我部元親」が、「秀吉」の提案(「土佐国」のみを安堵する)に対して反旗を翻したことから、「秀吉」は「四国攻め」を決断して、その総大将に「秀長」を命じます。

 

「秀長」は、「秀吉」の絶大な力を世に示すべく船舶1000隻という大軍を編成して「長宗我部方」を攻めます。まずは「長宗我部方」で「谷忠澄」が城代の「一宮城」を攻め立て、「秀長」は城代「忠澄」に対して「元親」の説得を託しますが「元親」はあくまでも「土佐・伊予2国」に拘ります。

 

そんな中「秀長」は「元親」が嘗て華やかな衣装で舞を踊った姿を思い出し、家臣や領民を思う優しい心を持ち合わせている「元親」に華やかな着物を送って「長宗我部家」を滅ぼす為に四国攻めを行っているのではないことを伝えます。それに応えた「元親」は「秀吉」に臣下を誓います。これが本日のドラマのエンディングでしたが、ストーリーの途中には下記の話が展開されました。

 

「秀吉」は、京に上り先の関白「近衛前久(さきひさ)」に会い、「二条家」に奪われている「関白」の座を「近衛家」に戻すべく、自分(秀吉)を「前久」の猶子(ゆうし、仮の親子)にすることで「関白」の座を奪い返し、その後は「近衛家」に関白を戻すことを約束して実現させます。

 

「関白」となった「秀吉」は、「四国攻め」に闘志を燃やし出兵を逸りますが、ここで「蜂須賀正勝」が「妙顕寺城」に現れて、「四国攻め」は「秀長」に最後まで任すように説得します。

 

次回のドラマは、いよいよ「秀長」が「四国攻め」の褒賞で「大和郡山城」城主となっていくお話だと思います。

 

本日は、「秀長」が「紀州攻め」の褒賞で得た「和歌山城」(和歌山県和歌山市)と「秀長」が落城させた「一宮城」(徳島県徳島市一宮町)を、過去のブログの投稿から添付しましたのでご覧ください。

 

「和歌山城」(8/17・18に「日本100名城」で紹介したばかりですが) ↓

 

「一宮城」 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

総高60mの四段積み石垣を誇り重文”天守”が建つ「丸亀城(1)

 

城主と歴史

この地には、室町時代から「奈良家」が築いた砦がありましたが、本格的なお城は、1587年に讃岐に入った「生駒親正(ちかまさ)」「一正」親子が1597年に「高松城」の支城として築城したのが始まりです。

 

「関ヶ原の合戦」では、親子東西に分かれましたが、息子の「一正」は東軍参加したので加増されて家督を継ぎお城も1602年に完成させます。その後、「高松城」を本城として「丸亀城」は城代を置いていました。1615年の「一国一城の令」では、樹木で隠してお城を守り切ったとのエピソードがあります。

 

その後1621年に息子の「高俊」が遊興に耽るとともに家臣間の権力闘争でお家騒動「生駒騒動」が起こり領地没収で流罪となります。

 

1641年に、「讃岐国」は二分され「高松城」には水戸徳川系の「松平家」が入り、「丸亀城」には「山崎家」が入り城の改修を行いますが完成まで30年間もかかり、そのうち嗣子なく断絶します。

 

そして1658年に「京極高和」が6万石で入城し、大改修をして現在の「天守」もその時(1660年)に完成しました。その後も「京極家」が幕末・維新まで7代続きます。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

標高60mの亀山に山裾を取り込んで築かれた「平山城」で、「亀山」を石垣造りで四段に取り巻いていて、石垣は「扇の勾配」を描いています。そして、平地部分には、「内堀」と「外堀」を巡らせています。

 

曲輪は、「本丸」「二の丸」「三の丸」「帯曲輪」「山下曲輪」があり、「輪郭式(渦郭式)」と「連郭式」を複合した縄張りです。

 

城内曲輪図 ↓

 

今回は、屋敷地であった麓からの「天守」の姿と高石垣の迫力を見ながら紹介していきます。

 

<屋敷地>

「外堀」跡の道路を「大手道」に入り、その両脇は「三の丸」跡ということで、市役所、税務署、学習センター等の行政・文化・教育施設が集まり市民広場が拡がります。

 

外堀跡碑 ↓

市役所前の公衆電話ボックス(三の丸跡) ↓

「大手道」から見た「丸亀城天守」と「大手御門渡櫓門」 ↓

「大手道」から見上げた「天守」と「一二三段石垣」 ↓

 

<山下曲輪>

「内堀」を渡った所が、重要文化財「大手御門」です。当門は、大手二の門が「高麗門」、大手一の門が「渡櫓門」で周囲を土塀で囲い右折れの桝形を形成しています。

 

桝形内の正面の石垣の中に大きな「鏡石」が二つ見えますが、城主の権威を表したり、畏怖を与えたりする役割を担っています。

 

「名古屋城」も、天守側の「櫓門」を一の門、外側の「高麗門」を二の門と呼んでいるのと同じ呼び方をしていますが、一般的にはその逆の方が多いようです。 「大手御門」は、1670年の「京極家」の時代に建築されたものです。

 

大手御門(重文)の大手一の門(右)と大手二の門(左) ↓

大手御門の枡形 ↓

枡形内の鏡石 ↓

 

特徴として、高麗門形式の「大手二の門」の控柱の下部は、海風による倒壊を防ぐ為に石で「継ぎ柱」としています。また「大手一の門」は南北十三間もあり「冠木」の桁材があまりにも長いので「継ぎ木」をしています。

 

大手二の門(重文、高麗門形式) ↓

大手二の門 控柱下部の石による「継ぎ柱」 ↓

大手一の門(重文、渡櫓門形式) ↓

大手一の門 長い冠木の「継ぎ木」 ↓

 

「大手一の門」の「渡櫓門」内には「太鼓」が設置された「太鼓櫓」であり、外側には八か所の窓があり、内部には石落としを兼ねた「足駄(あしだ)狭間」が設けられています。

 

大手一の門 渡櫓門内設置の太鼓、京極家家紋「平四ツ目結」が付く提灯 ↓

大手一の門 渡櫓門内の足駄狭間 ↓

 

「天守」に登るためには「見返り坂」を上っていきますが、まずは麓周囲を見ていきましょう。

右手に進むと見えるのが両脇に建つ白壁の土塀で、そこは天井の無い土橋の「廊下橋」となっています。「内堀」から山側に切り込んだ「あやめ池」に架かる橋となっています。

 

土橋の廊下橋(両脇の土塀の向こう側は堀) ↓

内堀からのぞむ廊下橋(土橋というものの、外側は石積み) ↓

御殿表門前の曲輪周囲を守る土壁(内堀から) ↓

 

 

この橋を渡った広場が、「山下御殿」前に造られた「馬出」的な敷地です。そこに現存するのが「山下御殿」の「御殿表門」とそれに併設した形の「番所」と「番所長屋」になっています。いずれも重要文化財に指定されています。「御殿表門」は、非常に重厚で立派な「薬医門」形式で、「京極家」の屋敷の表門でした。

 

御殿表門(重文、山下御殿の表門、薬医門形式) ↓

御殿表門併設の番所(重文) ↓

 

「番所」と「番所長屋」ですが、「表門」の出入りを管理する今でいうガードマン室のような所で、門番が詰めていました。「番所長屋」は、その門番の休養場所だったと思います。

 

番所長屋(有形文化財) ↓

御殿表門と番所長屋がある馬出的な曲輪 ↓

 

藩主居住の「山下御殿」が建っていた「山下曲輪」跡は広場になり「丸亀市立資料館」の建物が建ちます。その城側には、大昔に火山の噴出口であり、その通路部に安山岩が浸食を受けて円柱状に露呈した「かぶと岩」の岩頸が見られます。これは、「京極家御殿」であった「山下御殿」に併設していた庭園にも用いられていた名残のようです。

 

山下御殿跡 ↓

かぶと岩(京極家御殿の庭園の名残り) ↓

 

2018年10月の台風24号の影響で大規模な石垣の崩落があって、その後復旧工事が行われていますが未だに完全復元には至らず、2030年度末になる見通しだそうです。

 

その麓から「城内グランド」にかけて、崩落した石に番号を振って再積み直しを待っている石置き場となっています。こういう状況となった姿を見るのは、お城ファンとしては悲しいですが、石垣の中がどのようになっているのかを見ることができるめったにない機会でもありますのでご覧ください。

 

積み直しを待つ石の保管場所(2019年12月の写真) ↓

崩落している三の丸坤櫓付近(2019年12月の写真) ↓

崩落した帯曲輪の石垣(2019年12月の写真) ↓

 

「城内グランド」を廻りこんだ所には「搦手門」跡の石垣が残されていますが、ここは嘗て「大手門」がおかれていたところです。そして、城山の南東辺りの山沿いには生駒家時代の「野面積み」石垣が拡がり、その上には「三の丸月見櫓」台跡が聳えます。

 

搦手門跡 ↓

野面積み石垣が拡がる ↓

三の丸月見櫓台を麓から見上げる ↓

 

さて、城山を1周してきましたので、「見返り坂」を上り「天守」がある「本丸」跡を目指します。「見返り坂」を上り切った右側には、三の丸北側の「扇の勾配(又は武者返し)」と呼ばれる「高石垣」が迫ってきます。こちらは、丸亀城の中で最も高く約20mの城壁が続いています。

 

見返り坂 ↓

見返り坂を上りきった右側には高石垣(扇の勾配) ↓

三の丸北側の高石垣(「扇の勾配」、丸亀城で最も高い20m以上の石垣) ↓

ライトアップされた高石垣 ↓

 

<三の丸>

そこから右に曲がり続く坂道を上り切った所が「三の丸」跡になります。

左手には、「月見櫓」台跡と「丑寅櫓」台跡があって「丑寅櫓」台からの瀬戸内海の素晴らしい遠景や、「月見櫓」台からの「讃岐富士」の美しさを堪能することができます

 

三の丸丑寅櫓台 ↓

三の丸月見櫓台 ↓

三の丸月見櫓台からのぞむ讃岐富士(飯野山) ↓

 

「三の丸戌亥櫓」跡は「二の丸長崎櫓台」の脇から降りたところにあります。「三の丸戌亥櫓」台からは「二の丸長崎櫓」台や「天守」を見あげることができ、更には「本丸」跡の「姫櫓」台の「打込接」の凄い石垣もみることができる絶景ポイントとなります。

 

三の丸戌亥櫓台から二の丸長崎櫓台と天守を見る ↓

三の丸戌亥櫓台 ↓

三の丸丑寅櫓台 ↓

本丸姫櫓台(三の丸戌亥櫓台から) ↓

 

その石垣に沿って西側に行けば、「坤櫓」跡、「三の丸井戸」がありますが、前述したように高石垣の崩落に伴う修築工事の為立入禁止となっています。ただ、手前には、「搦手門口」に通じる門跡、そして石段、元大手門だった「栃の木門」跡が見られます。

 

栃の木門跡付近 ↓

栃の木門跡 ↓

「三の丸」跡石垣(「栃の木門」跡から見上げる) ↓

 

その他「三の丸」跡には、「延寿閣別館」という御殿建造物が建っています。この建造物は、江戸麻布にあった旧藩主「京極家」の江戸藩邸の一部を1933年に、丸亀城内に移築したものです。中は、当時の大名生活が偲ばれる構造になっているそうです。

 

延寿閣別館(旧藩主「京極家」の江戸藩邸の一部) ↓

 

「延寿閣別館」の北側沿いには、「二の丸」跡の石垣が壁のように立っていますが、良く見ると、「二の丸辰巳櫓」台から続く「二の丸石垣」が少し内側に湾曲しています。この手法を「平ノスキ」といい、当石垣が高石垣となっていることから、崩落回避の為に石垣の表面ラインを内側に湾曲させ、左右を出張らせて内側に圧力を集中させるという仕掛けになっているそうです。

 

少し内側に湾曲させている「平ノスキ」という手法(写真ではわかりにくいかも) ↓

 

次回「丸亀城(2)」は、「二の丸」から「本丸」に入り、重文「天守」を見て行きます。

 

 

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二基の重文”三重櫓”や復元の櫓門等城郭建造物が多く見られる「高松城(2)

香川県高松市

城主と歴史、立地と縄張り

     ↓

 

お城の概要と特徴

今回「高松城(2)」では、「北の丸」跡に建つ重文の「月見(着見)櫓」「続櫓」、「桜の馬場」との間に復元された「桜門」、更にもう一つの重文「艮櫓」、「新曲輪」跡、「米蔵曲輪」跡を紹介していきます。

 

<北の丸>

「披雲閣」の北側にある簡単な門から出た所が「北の丸」跡で、現存で重要文化財に指定されている「月見(着見)櫓」「続櫓」「水手御門」「渡櫓」が繋がっています。

 

城内からの「月見(着見)櫓」「続櫓」(重文) ↓

城内からの手前から「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文) ↓

 

間近で見ることとその大きさには圧倒されます。

「月見(着見)櫓」は、「総塗籠造り」の三重三階、軒垂木(のきたるき)全てを塗り込めた「大壁造り」、壁面上下に「内法長押(うちのりなげし)」と「腰長押(こしなげし)」を二引両として装飾しています。また、東西には、切妻破風と唐破風も備えています。凄く上質さと品格を醸し出している櫓で、私が好きな櫓NO1です。

 

城外からの「月見(着見)櫓」「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文) ↓

城外からの「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文) ↓

城外からの「月見(着見)櫓」(東面) ↓

城外からの「月見(着見)櫓」(東北隅) ↓

 

「水手御門」は、名前の通り海上から船で着いた時にこの前の雁木前に舟を付けて城内に入る門だったようです。「水手御門」の遺構は珍しいです。

 

城内から 手前から「渡櫓」「水手御門」「続櫓」「着見櫓」(重文) ↓

城内からの「渡櫓」「水手御門」(重文) ↓

城内からの「渡櫓」「着見櫓」(重文) ↓

 

「北の丸」の隅櫓で、西側に建っていた「鹿櫓」とともに、海上からの往来する船を監視する役割を持っていました。

 

「鹿櫓」台 ↓

 

また、「月見(着見)櫓」斜め北側の海岸近くに「報時鐘」が建ちます。これは、城内の外堀土手に建てられて時を城下に告げていた「時鐘櫓」ですが、その後各所へ移転し、1983年(昭和58年)にこの埋立地へ移築されたものだそうです。

 

「報時鐘」(「時鐘櫓」を移築) ↓

 

<桜の馬場>

「三の丸」内の「披雲閣」南側で「桜の馬場」の出入り口には、太平洋戦争前まで、下見板張りの櫓門「桜御門」が建っていましたが戦災で焼失、櫓台の石垣と礎石が残っていたり古写真などから2022年に木造復元されました。

 

復元「桜御門」(桜の馬場側から) ↓

復元「桜御門」(三の丸側から) ↓

「桜門」石垣の「すだれ仕上げ」 ↓

復元「桜御門」内部 ↓

復元「桜御門」内部の「石落とし」 ↓

 

当門の特徴は、万一外敵が侵入してきても「三の丸御殿」には直進できないように、「桜御門」内側には一直線の「一文字石垣」(又は、勢留石垣)が横たわります。このような仕掛けがある門は珍しく、「五稜郭」の「一文字土塁」が頭に浮かびます。

 

 一文字石垣 ↓

 

復元「桜御門」の西側には「多門櫓」が延びていましたのでその跡が、東側には「龍(たつ)櫓」跡と「多門櫓」跡が見られます。

 

「桜御門」の西側に延びる「多門櫓」跡 ↓

「桜御門」東側に延びる「多門櫓」跡とその先には「龍(たつ)櫓」跡 ↓

 

「桜御門」跡の前の土橋を渡った広い敷地が「桜の馬場」と呼ばれ、且つては現在の2倍の広さがあったそうです。当広場の南側から東側と北東側にかけて「中濠」が取巻いています。

 

「桜の馬場」跡 ↓

 

「桜の馬場」東側には、櫓門の「太鼓門」と「旭門」が枡形を形成していて、松平時代はそこが「大手門」の役割を担っていました。そして、「太鼓門と「旭門」枡形内北側の石垣の間には「穴門」が設けられていて、イザという時の脱出用となります。

 

「太鼓門」跡と「旭門」跡の間の枡形 ↓

「太鼓門と「旭門」枡形内北側の石垣の間にある「穴門」 ↓

 

「旭門」は現存の高麗門で、「大手道」があった「東の丸」へは「旭橋」が斜めに架かっています。それは、戦術的に大手からの侵攻に対して直線的に攻められないように敢えて斜めにしているそうです。

 

現存「旭門」(高麗門形式) ↓

現存「旭門」(高麗門形式)と「旭橋」(斜めに架かっている) ↓

 

この枡形を監視する目的があった「太鼓櫓」が「桜の馬場」の南東隅に建っていましたが、その櫓台の上には現在、「東の丸(米蔵曲輪)」の北東隅に建っていた「艮櫓」が移築されて聳えています。

 

「艮櫓」は、1677年築の三重三階で一重目に大きな千鳥破風があるのと四隅には大きな石落としを備えているのが特徴で、重要文化財に指定されています。1967年にこの場所に移築されました。

 

1967年「太鼓櫓」台跡に移築された「艮櫓」(重文)の北西側 ↓

「艮櫓」(重文)の西面 ↓

「艮櫓」(重文)の北東側 ↓

「艮櫓」(重文)の北面に付く大きな千鳥破風 ↓

「艮櫓」(重文)の四隅に備わる石落とし ↓

 

<東の丸>

最後に、現代建築の中に当時の石垣が残っているところがありますのでご紹介しておきます。

 

「県民ホール」の建物の下を潜るような形で「東の丸石垣」が延び、その先には、「太鼓櫓台」跡の上に移築された「艮櫓」台が、これまた大きなサイズでドカッと居座っています。更に、「艮櫓」台から南側に向けて長い石垣が延びています。

 

「ホール」を建築した際には、これらを破却しないで保存したことに敬意を表したいと思いますが、「艮櫓」は先ほどご紹介した「太鼓櫓」台の上に移築されたことは残念です。

 

「東の丸」石垣(「県民ホール」下を潜るような形で延びる) ↓

「艮櫓」台(この上の建物は、現在「太鼓櫓」台へ移築) ↓

「艮櫓」台石垣の「すだれ仕上げ」 ↓

「艮櫓」台から南側へも石垣が延びる ↓

 

更に、ホールの南側の敷地に建つ「香川県立ミュージアム」正面は、水を使ったアートを表現していますが、それに組み込まれた壁面には、既に遺構として残されていた石垣の上に、復元された石垣を積み増して、綺麗に設えがされていました。

 

「香川県立ミュージアム」1階前の現存石垣と復元石垣(横筋から下が現存石垣) ↓

「香川県立ミュージアム」前の石垣 ↓

「新曲輪(北の丸)」跡から「三の丸」跡への門跡 ↓

 

「ミュージアム」東側の「東の丸」跡や、「西の丸」「外曲輪」は現在住宅地や市街地となっています。

 

「東の丸」跡と堀沿いの石垣(「旭橋」から県民ホール、県立ミュージアム方向) ↓

 

 

 

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日本三大海城で海水が掘に入り込み南蛮型天守の天守台が映える「高松城(1)

香川県高松市

城主と歴史

「高松城」は、四国平定した「豊臣秀吉」が1587年に「生駒親正」に讃岐国を与えたことに始まります。当初「引田城」等を居城としていましたが手狭で東に寄りすぎている等から「高松」に新城を築城し1590年に完成します。

 

「関ヶ原の合戦」では、息子の「一正(かずまさ)」が徳川方に従ったので「生駒家」は存続しますが、四代目の「高俊」の時にお家騒動「生駒騒動」を起こし転封となります。

 

その後1642年に入城したのが、「徳川家康」の十一男「徳川頼房」の長男で「水戸光圀」の兄である「松平頼重」で、1670年には大改修を行っています。

 

しかし本家水戸藩を継いだ「光圀」は、儒教精神が高いこともあって、兄の「頼重」を差し置いて「水戸藩主」になったことに凄く憂いを持っていたようで、「水戸藩」の三代藩主には、「頼重」の息子である綱條(つなえだ)を「高松藩」から呼び戻し、一方、「光圀」の息子である「頼常(よりつね)」を「高松藩主」とする、たすき掛け人事のトレードを行いました。

 

その後「高松城」には、光圀系の藩主に替わりますが、江戸時代通じて「水戸藩」の支藩的な位置付けで徳川家の「家門」として格式の高いお城でした。

 

因みに、本来であれば、「水戸藩」は長男である「頼重」が二代藩主として継ぐべきであったのですが、これは、当時の徳川三代将軍「家光」が、水戸藩二代藩主に「光圀」を押したことからそのようになったらしいです。「光圀」の名前も、「家光」の一字「光」を貰っていることから、かなり覚えが良かったのでありましょう。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

瀬戸内海に面した水城で、三重の堀があり、天守台のある天守曲輪を中心に、二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸の曲輪が、時計回りに配備されている「輪郭式平城」です。

 

当時は、瀬戸内海とお城が接していたので海から見ると浮かんでいるようだったらしいですが、現在は海とお城の間に陸地ができて、水城の面影はありません。

 

ただ、海からの水を堀に取り入れている「水門」が残っていたり、海からは灯台的な役割を果たしていたと思われる三重の「着見櫓(月見櫓)」が残っている他、当櫓の「続櫓」に付随して海から荷物などを水揚げする為に造られた「水の手御門」も残っています。

 

今回は、「二の丸」「本丸」を見て周辺の曲輪「三の丸」「北の丸」等を見ていきたいと思います。

 

縄張図 ↓

 

<二の丸>

琴電の「高松築港駅」は、「高松城」の「二の丸」と「本丸」各跡の石垣と内濠に併設されていますので、駅構内からの写真をふんだんに撮ることができます。

 

特に、「本丸」の「地久(ちきゅう)櫓」と「矩(かね)櫓」、「二の丸」の「文(ふみ)櫓」の櫓台が城外からも良く解る絶好のポイントです。また、「内濠」に美しく浮かぶ廊下橋の「鞘(さや)橋」も、真横から写真撮影ができます。

 

本丸「地久(ちきゅう)櫓」台 ↓

本丸「矩(かね)櫓」台 ↓ 

廊下橋の復元「鞘橋」と内濠 ↓

二の丸「文(ふみ)櫓」台 ↓

 

さて「高松城」の正門である「黒鉄(くろがね)門」跡からの入城になりますが、「黒鉄門」は、「二の丸」から「三の丸」へ入る箇所にも同名でもう一箇所あって、そちらの方が立派な石垣が積まれています。

 

二の丸「黒鉄門」跡 ↓

 

入城してすぐ左手に雁木と「廉(れん)櫓」跡の櫓台、北東隅にある「武(たけ)櫓」跡が見られ、右手には「二の丸」跡の広場が広がります。「二の丸」跡の北側を横断して「黒鉄(くろがね)門」跡を抜けると「三の丸」跡に入りますが、「二の丸」「本丸」各跡を見てから入ります。

 

二の丸「廉櫓」台(外側からの写真) ↓

二の丸「武櫓」台(外側からの写真) ↓

 

「内濠」沿いの「二の丸」側は石垣が積まれた石塁となっています。一方、「琴平電鉄」の「築港高松駅」から見た「文(ふみ)櫓」跡と「弼(ゆみだめ)櫓」跡の櫓台を内側から観察ができます。

 

「二の丸」跡(南側から海方向) ↓

「二の丸」跡東側内側の石垣 ↓

内堀と二の丸の東面石垣 ↓

「二の丸文櫓」台 ↓

 

いよいよ「本丸」跡への登城です。「二の丸」跡からは「鞘橋(さやばし)」という復元廊下橋を渡ります。藩主が中を行き来するが、濠の外から見えないようにする為に、橋に屋形が被せられています。「廊下橋」は、「和歌山城」「福井城」「府内城(大分城)」でも復元されています。

 

復元「廊下橋(鞘橋)」 ↓

復元「廊下橋(鞘橋)」(天守台から見下ろす、二の丸跡方向) ↓

 

「内濠」を「鞘橋」で渡ると、「本丸」跡の虎口には「中川櫓」が建ち、北西隅には「矩(かねの)櫓」が、南西隅には「地久(ちきゅう)櫓」が建っていました。特に「地久櫓」は、城内でも大きな櫓であり、しかも「本丸」内にあったので、格付けの高い櫓だったことが、遺構の櫓台の大きさからも想定できます。

 

「本丸中川櫓」台(奥に天守台が見える) ↓

「本丸矩(かねの)櫓」台 ↓

 

「本丸地久(ちきゅう)櫓」台 ↓

 

 

「内濠」側から見る「天守台」は、両側に拡がるスマートな形をしています。また、「本丸」跡側から見上げる「天守台」は二段になっています。

 

「天守台」東面 ↓

「天守台」北東隅 ↓

 

「天守台」の中には礎石が残っていて、ここには三重四階地下一階の「南蛮造り」の天守が上がっていました。天守の古写真が残っていてその姿は、天守台からはみ出す「張り出し」と、四階が三階よりも大きなサイズでその間には屋根が無いという「南蛮造り」特有の形で、一重目と二重目には「比翼入母屋破風」と「唐破風」が、最上階には「華頭窓」を持つ個性的な姿でした。 

 

「南蛮造り」の「天守」のイラスト(城内に掲出) ↓

天守の古写真(南蛮型が良く判る) ↓

 

最近まで天守台の上にあった神社が他所へ移され、発掘調査と修復工事が完了したことから、将来的には天守の復元が期待され、城内にも復元の様子のイラストが掲出されていました。

 

「天守台」(本丸跡側から見た所) ↓

「天守台」地下の礎石と周囲(1階部分) ↓

 

「天守台」からの眺めは良く、北は「内濠」から「水門」跡と海を望め、南東には大きな「艮櫓」が間近に見えます。また、「三の丸」跡手前の隅部は、角石垣の角度を75度から80度の鋭角になっているのが解りますが、これは、石垣の地盤が弱い部分の補強策として導入されているようです。

 

「天守台」から望む「水門」方向 ↓

「天守台」から望む瀬戸内海 ↓

「天守台」から望む「艮櫓」(重文)方向 ↓

「天守台」から望む「披雲閣」 ↓

「天守台」から望む「三の丸南西隅の鋭角な石垣隅」 ↓

「三の丸南西隅の鋭角(75~80度)な石垣隅」 ↓

 

<三の丸>

それでは、「二の丸」跡に戻り「三の丸」跡の入口である「黒鉄門」跡を見ます。こちらには、大きな「櫓門」がたっていたそうで、その櫓台には「鏡石」が嵌め込まれています。

 

三の丸跡への入口に構える「黒鉄門」跡 ↓

「黒鉄門」櫓台と鏡石 ↓

 

「三の丸」跡入口に見えるのが、当城の特徴でもある「水門」跡です。この門は、当時「二の丸」「三の丸」の北側が海であり、海水を城内の濠に取り込む為の取水口となっていました。現在は、埋め立て工事で城北側を走る国道下に通された水路で海と水門が繋がっているので、稚魚が入り込み成長したタイ等の海水魚が泳いでいる姿がみられます。

 

水門跡(内堀側より見る) ↓

堀内で泳ぐ鯛 ↓

 

また「水門」の外側では、満潮時に海水が湧きだす光景を見ることができます。満潮時の時には、みるみるうちに海水が湧き出てくる光景を見ることができ、また「月見(着見)櫓」とともに併設する「続櫓」「水の手門」「渡櫓」前が海水で満たされている光景は感動モノです。写真に写っている建物群は、後段詳しくお見せして説明します。

 

「月見(着見)櫓」と櫓群・水手御門前に海水が湧き出す様子 ↓

二の丸跡石垣前に海水が湧き出している様子 ↓

 

「三の丸」跡には、「披雲閣(ひうんかく)」という御殿建造物が建ちます。これは、江戸時代に、藩庁と藩主住居として建てられましたが、明治時代になって老朽化で取り壊されました。しかしながら、1917年に貴族院議長を務めた12代当主「松平頼壽(よりなが)」が「三の丸」跡に建築しました。純和風建築の「大書院」は142畳もの広さがあり「槇の間」や「蘇鉄の間」等も備え、現在は茶会や生花会場等に開放されています。

 

「披雲閣」車寄せと玄関 ↓

「披雲閣」 ↓

「披雲閣」の「松の間」 ↓

「披雲閣」の大書院 ↓

 

これらの建物前に拡がる「披雲閣庭園」も「頼壽」が「披雲閣」を建築した際に、江戸時代の「三の丸御殿」の庭園を一部生かして造られた庭だそうです。

 

「披雲閣庭園」内の大きな灯籠 ↓

「披雲閣」の蘇鉄群 ↓

 

次回「高松城(2)」では、「北の丸」跡に建つ重文の「月見(着見)櫓」「続櫓」、「桜の馬場」との間に復元された「桜門」、更にもう一つの重文「艮櫓」、「新曲輪」跡、「米蔵曲輪」跡を紹介していきます。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

“東二の丸“に天守代用の“御三階櫓“があった徳島城

徳島県徳島市

● 城主と歴史

戦国時代の阿波国は群雄割拠していましたが、「長宗我部元親」によって平定されました。しかし、「豊臣秀吉」軍(大将は「秀長」)による四国平定後は、「蜂須賀家政」が阿波一国を賜り「一宮城」に入りその後に「徳島城」を築城しました。

 

藩祖「蜂須賀家政」像 ↓

 

その「蜂須賀家政」についてですが、父親の「蜂須賀小六(正勝)」は「豊臣秀吉」の物語「太閤記」でも出てくる野武士の棟梁で、「墨俣(すのまた)一夜城」の築城で木曽川を利用した木材運搬に大きく貢献しました。更には「長篠の戦い」の軍功、「賤ケ岳の戦い」の働きなど、「秀吉」の目覚ましい出世は、「正勝」とその息子「家政」の武功によって得られたといっても過言ではありません。

 

しかし、「家政」は「石田三成」とは疎遠であったので、「関ケ原の合戦」では、「家政」とその子「至鎮(よししげ)」とは西軍と東軍に別れて戦うことで、家を守ろうとする策にでました。結果、「至鎮」は毛利軍の抑えの役割で実戦には参加しませんでしたが、「家政」は出家して隠居することで、「至鎮(よししげ)」に阿波国17万6000石が安堵されました。

 

「大坂夏の陣」で手柄を立てた「至鎮(よししげ)」は、「淡路国」を加増されて25万7000石になり、「徳島城」を近世城郭として整備拡張して幕末・維新まで統治することになりますが、家祖「正勝」以来の血統が7代藩主「宗英(むねひで)」で途切れ、その後8代・9代は「高松松平家」からの養子、10代は「佐竹家」からの養子の「重喜(しげよし)」が継ぎました。

 

「重喜」は、「明和の改革」という藩政改革を断行、「淡路国」を任せていた「洲本城」城代の「稲田家」の専制を廃するほか、様々な荒業を導入したことから破局を迎えることにもなります。

 

「洲本城」模擬天守(日本最古の模擬天守-昭和3年築) ↓

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「徳島城」は平山城で、「寺島川」「助任(すけとう)川」更には「福島川」「新町川」に挟まれた天然の要害に築かれたお城です。

 

城山部分に「西三の丸」「西二の丸」「本丸」「東二の丸」と続く連郭式のお城になっています。「天守」は、本丸にはなくて、「東二の丸」に「御三階櫓」として建てられました。「西二の丸」には「弓櫓」、「西三の丸」には「帳(とばり)櫓」等が建っていました。

 

縄張図(パンフより) ↓

城山(本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸があった、62m)

 

<本丸>
「本丸」跡に登る石段脇の石垣は、緑色した地元産の「緑泥片石」の「野面積み」を採用しているのが特徴で、その緑色が奇麗です。

 

本丸(62m)への石段と野面積み石垣 ↓

本丸の石垣(緑泥片岩の野面積み) ↓

 

特に「本丸」跡東端の「野面積み石垣」は城内で最も古いモノです。また「本丸」跡北面の石垣には継ぎ足し部分 も見られます。

 

本丸東端の石垣(野面積み、天正期の石垣で城内最も古い石垣)  ↓

「本丸」跡北面の石垣には継ぎ足し部分 ↓

 

「本丸」は、御座敷、留守番所、馬具・武具・火縄・弓櫓が置かれていて、現在は広場になっています。「弓櫓」跡ですが、当初この上に「天守」が建っていたと推定されていますが、50年程で「東二の丸」へ新たに建てられました。

 

本丸跡全景(東から西へ、御座敷、留守番所、馬具・武具・火縄・弓櫓があった) ↓

本丸跡から見下ろす徳島市街地 ↓

本丸搦手門跡 ↓

「弓櫓」跡(初期の天守が置かれていたと謂われる) ↓

 

<東二の丸>

「東二の丸」には、天守台の石垣はなく三重三階の望楼型の「御三階櫓」が1875年まで建っていました。三重三階の「望楼型」ではあったけれども、上に上がる毎に一定の逓減があったようです。そして、「下見板張り」の外観だったようです。現在は、広場になっています。

 

東二の丸 天守跡(天守台はなく、3重3階) ↓

 

<西二の丸、西三の丸>

「西二の丸」は、「本丸」西側にある曲輪で、「鉄砲櫓」「帳(とばり)櫓」が建っていました。「西三の丸」は、「西二の丸」から一段下がった曲輪で、「材木櫓」「平櫓」が建っていました。

 

西二の丸跡 ↓


西二の丸門跡の巨石群  ↓

西三の丸門跡(西側大手筋の最初の桝形、文禄~慶長期の古い石垣)  ↓

西三の丸材木櫓跡 ↓

 

<西の丸、御花畠>

城山南西麓には、12代「斉昌」の「西の丸隠居屋敷」造営時頃に築かれた立派な「切込接・布積み」の石垣が残っています。

 

「西の丸隠居屋敷」造営時頃に築かれた見応えある石垣 ↓

「西の丸隠居屋敷」造営時頃に築かれた見応えある石垣 ↓

 

城山部分の西側には、「西の丸」「御花畠」があり元藩主の屋敷などがありましたが、現在は小学校、野球場とコート、行政施設などになっています。

 

西の丸御殿跡 ↓

「西の丸」跡石垣 ↓

西の丸隅櫓台跡  ↓

「御花畠」跡 ↓

 

<御殿>

城山部分の南側には、「表御殿」などの屋敷が並び、その前には庭園が拡がっていました。

 

現在は、御殿風の「徳島城博物館」が建ち、その東側には、「表御殿庭園」が現存しています。茶人武将の「上田宗箇(そうこ)」の作庭と言われています。「枯山水」と「築山泉水」が組み合わされている桃山様式を伝える名園となっているのが特徴です。「枯山水」の中には、大きな地元産の緑泥片岩で作った自然石橋が横たわります。 

 

御殿風の徳島博物館(1992年完成、白壁銅板葺書院造り) ↓

表御殿庭園の枯山水 ↓

表御殿庭園内(蜂須賀至鎮踏割伝説のある自然石橋) ↓

 

「御殿」東側には「内堀」を設けて「内堀」沿いに櫓を多数装備していました。また、「御殿」南側には、馬出的な「三木曲輪」が設けられていました。

 

<御殿周囲の防衛>

北側隅から「隅櫓」「旗櫓」「屏風櫓」「月見櫓」が内堀沿いに置かれました。その間には「数寄屋橋」を城下に渡して枡形の「数寄屋橋門」を設けていました。

 

現在でも各櫓の石垣が残り、青々とした水が一杯の堀とそれを跨ぐ「数寄屋橋」、更にはその背景になっている山城の新緑とが、美しい光景を創り出しています。

 

「隅櫓」台 ↓

数寄屋橋(数奇屋門は不明門だった) ↓

旗櫓跡と数寄屋橋と堀 ↓

屏風櫓跡の石垣が出張っている ↓

左は表御殿庭園、右は屏風櫓台跡 ↓

堀川(人工堀) ↓

 

「三木曲輪」へ渡る「下乗橋」の北側には「大手門」の枡形があり、その両脇から見据えるのが西側に建つ「月見櫓」と、東側に建つ「太鼓櫓」で、どちらも物見や娯楽の目的で建てられた様相です。というのも、「太鼓櫓」は、望楼型の三重四階の大型櫓で天守のような佇まいでした。また、「月見櫓」は、二重櫓ですが高欄が巡らされていました。いずれも、櫓台石垣が残ります。「月見櫓」は古写真で見ることが出来ます。

 

大手門(黒門)跡の桝形 ↓

大手門(黒門)跡桝形内の石垣 ↓

月見櫓台(2層2階の下見板張り) ↓

太鼓櫓(3層3階)台 ↓

太鼓櫓台の「天端石」 ↓

下乗橋から月見櫓跡と多門櫓跡方向 ↓

下乗橋(三木郭から御殿への正面で入口、当初木製が1869年に花崗岩製に) ↓

 

<三木曲輪>

「下乗橋」を渡ると「三木曲輪」となっていて、南側の表門として番所付薬医門の「鷲(わし)の門」がありました。「鷲の門」は、戦災で焼失しましたが、現在は本来の大きさから少し縮小されて当城で唯一復元されている城郭建造物です。

 

三木曲輪全景(NHKが見える) ↓

鷲の門全景鷲の門(薬医門)正面、脇戸付き ↓

鷲の門(薬医門)正面、脇戸付き ↓

鷲の門(三木曲輪側から) ↓

鷲の門(三木曲輪側から) ↓

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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重要伝統的建造物群保存地区の”三の丸”や豪商・幕末志士居住の城下萩城(2)

山口県萩市

お城の歴史と城主、立地と縄張り

      ↓

 

お城の概要と特徴

今回「萩城(2)」では、「三の丸」と簡単に「城下」を巡って見たいと思います。

 

<三の丸>

「南門」を出た前が、「厚狭(あさ)毛利家萩屋敷」が広がっていた敷地で、「毛利元就」の五男「元秋」を始祖とする毛利家の屋敷がありました。現在は51mの長さの「旧厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋」が残り、重要文化財に指定されています。

 

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重文)東面から、屋根は入母屋造り本瓦葺 ↓

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重文)の内部 ↓

 

「三の丸」は、「二の丸」から中堀を隔てて南側から東側に位置していて、重臣の屋敷などが置かれていました。

 

重臣屋敷には、城郭建造物の延長のような造りとなっていている邸宅もあり、「益田家」の物見櫓、「大野毛利家」の隅櫓、「児玉家」の隅櫓などがいざという時用として城郭化されているようでした。その他にも、「旧周布家長屋門」「口羽家邸宅」など、重臣の邸宅やその長屋門などが各所で見ることができます。

 

旧益田家物見櫓(北の総門の北西側) ↓

旧周布家長屋門  ↓

口羽家(重文、萩最大の長屋門と主家が残る) ↓

口羽家の主家 ↓

口羽家の主家内 ↓

 

「口羽家」そばの道は、「鍵の手状道路」で「鍵曲(かいまがり)」と呼ばれる直角に折れて、敵の侵入があっても真直ぐに進めなくする仕掛けが施されています。

 

口羽家前の石塀 ↓

鍵曲(かいまがり、口羽家そばの鍵の手状道路) ↓

 

また、「三の丸」から城下町に出入りする「総門」が3か所(北・中・南)設けられていました。現在「北の総門」が高麗門で復元され、「総門」脇の土塁や船着場、土塀付きの土橋が整備されるとともに「外堀」も復元されています。「外堀」の内側を堀内と呼ばれ、現在では堀内地区「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

 

復元北の総門(奥桝形、高麗門) ↓

復元北の総門と土橋・土橋土塀 ↓

復元外堀と土塁と船着場 ↓

 

城郭建築の一つとして「船倉」も見ることができます。浜崎地区「重要伝統的建造物群保存地区」には藩主の「御座船」や「軍船」などを格納する「萩藩御船倉」が全国唯一現存しています。元々は浜辺にありましたが、海を埋め立て土地化しましたので、現在は街の真ん中に建っています。

 

旧萩藩御船蔵 ↓

旧萩藩御船蔵 ↓

 

幕末の志士達が居住していた家や商家や町家、藩校が残る城下町は、更に東側から南側に拡がっていきます。

 

「毛利家」重臣達の櫓風の邸が並び、夏ミカンの樹が土塀の中からたわわになった姿が見られる美しい街並みが堀内地区・平安古(ひやこ)地区「重要伝統的建造物群保存地区」として残ります。

 

特に、「二の丸」に最も近い場所には、「毛利家」藩祖である「輝元」の隠居所であり菩提寺でもありましたが、現在は廃寺になって「輝元」の墓所だけがポツンと寂しげに立っている「天寿院墓所」があります。

 

三の丸内の「重要伝統的建造物群保存地区」 ↓

三の丸内の「重要伝統的建造物群保存地区」 ↓

三の丸内の「重要伝統的建造物群保存地区」(土塀と瓦塀) ↓

三の丸内の「重要伝統的建造物群保存地区」(石塀) ↓

天寿院(毛利輝元)墓所の墓所入口の唐破風門、元「輝元」の隠居所 ↓ 

天寿院(毛利輝元)墓碑 ↓

 

そして、桟瓦葺きで寄棟造り、鴟尾(しび)が屋根に付く珍しい形をした「旧毛利家別邸表門」が見られる他に、永代家老で11,000石の「福原家の上屋敷表門」や「二宮家長屋門」なども保存地区の中に横たわります。

 

旧毛利家別邸表門 (桟瓦葺、寄棟造り、鴟尾付) ↓

福原家の上屋敷表門 ↓

二宮家長屋門(右手片潜り門、四畳二間の番所) ↓

繁沢家長屋門 ↓

 

<豪商邸が並ぶ城下>

さて、「外堀」替りの水路を渡り呉服町筋を東に歩みますと、海鼠壁の美しい土蔵と豪商の邸宅が建ち並びます。藩御用達豪商の「菊谷家住宅」ですが、江戸前期の建築で、5棟が重要文化財に指定されています。また、幕末の商家だった「久保田家」の住宅も筋沿いに並びます。

 

菊屋家住宅(藩御用達豪商) ↓

菊屋家住宅 (菊屋横丁沿い海鼠壁、南方向) ↓

菊屋家住宅 (主屋座敷) ↓

菊屋家住宅 (主屋書院) ↓

菊屋家住宅 (主屋縁側から庭園) ↓

旧久保田住宅  ↓

旧久保田住宅(主屋座敷)  ↓

旧久保田住宅 (主屋の縁側と庭)

 

<幕末の志士建ちの居宅・生家が並ぶ城下>

呉服町筋から南に折れた江戸町横丁を進むと、そこには幕末の志士達を輩出した中・下級武士の邸宅や誕生地が固まります。「木戸孝允(たかよし)」「青木周弼(しゅうすけ)」の邸宅、「高杉晋作(しんさく)」の誕生地の家が並び、もう少し南に進むと「久坂玄端(げんば)」の誕生の地もあります。

 

「木戸孝允」の邸宅 ↓

「木戸孝允」の邸宅 ↓

「高杉晋作」の誕生地 ↓

「高杉晋作」の誕生地 ↓

 

国道191号線沿いには、6代藩主「吉元」が創建して、14代「敬親」がこの地に移転させた藩校「明倫館」があります。

 

「明倫館」の切妻造、本瓦葺、四脚門の非常に大きな「表御門」が目立ちますが、それ以外にも、現在「明倫小学校」の敷地内には、当時の藩校の史跡で、正門と聖廟の間に位置していた「観徳門(聖廟前門)」や、明倫館内で剣術・槍術の稽古場として使用されていた「有備館」、更にはプールとして利用されていた「水練池」も残っています。

 

「明倫館 表御門」 ↓

 「明倫館 観徳門(聖廟前門)」 ↓

「明倫館 有備館」 ↓

 

国道191号線を更に東へ進み松本川を跨ぐ「松陰大橋」を渡ると、「伊藤博文」の旧宅や邸宅を見ることができます。そして、「松陰神社」の脇には、かの有名な「松下村塾」の小屋が「吉田松陰幽囚ノ旧宅」とともに佇んでいます。

 

国指定史跡「松下村塾」は、言わずとも知れた「吉田松陰」が、1842年に松陰の叔父「玉木文之進」が私塾を開いたところを、1857年に松陰が引き継いで、身分に関係なく沢山の門下生を受け入れ、幕末の志士を育成した所で、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の当初中心場面にもなっていました。

 

国指定史跡「松下村塾」 ↓

「吉田松陰幽囚ノ旧宅」 ↓

 

この付近にも、多くの志士の卵たちが誕生したり居住したりしていました。特に明治新政府において立身出世を遂げ初代首相になった「伊藤博文」の生誕の家と、その後別邸として構えた邸宅も生誕地の横に残ります。

 

「伊藤博文」の生誕家 ↓

「伊藤博文」別邸玄関 ↓

 

 

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”指月山”を背後の守りとして梯郭式で海防に注力した縄張りを持つ城郭「萩城(1)

山口県萩市

お城の歴史と城主

この地は、元々「吉見家」が居城していていました。「毛利家」の始祖「毛利元就」は、安芸国の国人から一代で中国地方全土を制圧して有力戦国大名にのし上がり「吉田郡山城」(広島県安芸高田市)を中心に勢力拡大を図りました。

 

一方「吉見家」は、戦国時代に「指月山」に出城を築きますが、1554年以降はその「毛利元就」に仕えます。

 

「毛利元就」の息子達「毛利隆元」「吉川元春」「小早川隆景」の三人は「毛利の三本の矢」で有名ですが、長男「隆元」は、「元就」よりも先に逝去したことでその息子「輝元」が後を継ぎ、叔父の「小早川隆景」のフォローの下で、室町幕府将軍「足利義昭」を支えて「織田信長」と戦いました。

 

その後「信長」が「本能寺の変」で亡くなり、中国地方を攻めていた「豊臣秀吉」と和睦してからは、豊臣政権下で重要な役割を果たし勢力を延ばして、五大老までに昇りつめます。

 

しかし「関ケ原の合戦」で西軍の総大将として担ぎ上げられた「毛利輝元」は、戦後、9ケ国あった領地が「長門・周防」二か国に減封となり、幕命によって「毛利家」が日本海側の「萩」に築城することを決められたことで、「吉見家」はこの場所を「毛利家」に譲ります。

 

「毛利家」にとっては、辺鄙な土地に築城させられ、また築城に際しては城石の件で重臣が処罰を幕府から受けるなど、「毛利家」は非常に幕府に対する恨みを積年重ねていて、新年挨拶には必ず重臣が「倒幕の準備が整いました」と言い、それに対して藩主は「時期尚早である」と応えたというエピソードが伝わります。

 

「毛利家」は当初、外様の有力大名として警戒されましたが、幕府と表向きは協調を図りました。しかし、江戸中期以降は、藩政改革を積極的に採り入れ、教育にも熱心に取り組み下級藩士の登用も図りました。特に、幕末藩主「毛利敬親(たかちか)」の時には、「長州藩」が「薩摩藩」とともに倒幕勢力となりました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「萩城」は、「日本海」と「指月山」を背後の守りとした「梯郭式」の城郭で、「指月山」を囲む型で「本丸」が置かれ、更にそれを「二の丸」が囲い、その南側に「三の丸」を構える構成となっています。指月山の山頂にも、「本丸」と「二の丸」が配備されています。

 

「詰丸」部分の模型 (旧厚狭毛利家萩屋敷長屋中間部屋内に置かれた萩城模型の一部) ↓

「本丸と二の丸の一部」部分の模型 (同上) ↓

「二の丸東」部分の模型 (同上) ↓

 

山頂に「詰丸」と呼ばれる軍事施設と山麓には「本丸」を中心とした政庁施設が配備されている構成は、「元就」が居城としていた山城の「吉田郡山城」と「輝元」が築城した平城の「広島城」を組み合わせたような縄張りのようです。

 

指月山(詰丸があった、143m) ↓ 

 

本丸>

「本丸」へは、「本丸内門」で手前の土橋「極楽橋」で「内堀」を渡って入城します。

 

「本丸内門」を挟んで、向かって右側(東側)へは土塀(石垣)が延びて「月見櫓」が建ち、左側(西側)へは「土塀」の先に「天守」が建っていて「本丸」の南西隅になります。

 

月見櫓跡から本丸表門跡、土塀跡、天守台跡(手前から内堀越し) ↓

天守台と極楽橋 ↓

月見櫓跡石垣(内掘越し) ↓

極楽橋から本丸内門跡を臨む ↓

本丸内門桝形 ↓

 

「天守」は、五重五階の望楼型「天守」が建っていました。「天守」は石垣から出っ張った「張り出し」を採用し、北側へは「多聞櫓」とも繋がった「複合式天守」でもありました。「本丸内門」までは土塀で繋がり、土塀下には「雁木」を築いていました。

 

天守台(本丸内門前極楽橋より) ↓

西側からのぞむ天守台 ↓

天守台の礎石  ↓

天守台と土塀跡(東側から) ↓

土塀下の雁木 ↓

天守続櫓跡石垣 ↓

 

「天守」の瓦は寒暖の差に強い赤瓦を採用したそうです。「天守」の幕末から明治初めにかけての勇姿は、古写真で知られるところで、その大きな模型もJR「東萩」駅前にデーンと据えられていましたが、倒壊の恐れが出てきたとのことで2022年9月に35年の雄姿が解体されました。

 

天守の古写真(城内掲出の写真より) ↓

東萩駅前の萩城天守模型(2022年9月に解体済) ↓

 

「本丸」の中には「本丸御殿」が建てられていましたが、現在はその跡地に初代藩主から12代藩主まで祀った「志都岐山(しずきやま)神社」が建てられ、その前には藩校「明倫館」前の「万歳橋」の遺構が移築されています。

 

藩校「明倫館」前の万歳橋の遺構(志都岐山神社前) ↓

 

更に、元々「毛利敬親(たかちか)」の別邸で幕末にはそこで国事を画策したという茶室「花江茶亭」(1887年にここへ移築、入母屋造り茅葺)や「旧梨花家茶室」も移築されていて、御殿がない所へ多くの遺構が集められているのは非常に親切でいいことだと感心しました。

 

花江茶亭(藩主別邸にあった茶室) ↓

花江茶亭(藩主別邸にあった茶室)の庭園 ↓

旧「梨花家」茶室 ↓

 

二の丸>

「本丸御殿」の東北側で下記に記載の海側沿いに建てられた櫓との間の敷地は「二の丸」ですが、そこに「満願寺」が建てられ、南側には「東園(とうえん)」と呼ばれる庭園が拡がっていました。現在でも、鬱蒼とした場所で庭園跡やその池が残っています。

 

東園跡 ↓

 

更に「二の丸」は、「本丸」の東側から南側にかけて囲っていて、特に「指月山」麓の日本海側沿いから「二の丸」の南西側にかけて、北から「山中櫓」「三摩地院櫓」「万願寺櫓」「荒川櫓」「紙櫓」「時打櫓」「塩櫓」「華櫓」「青海櫓」「八間櫓」が建ち並び、日本海側沿いにあった各櫓の櫓台を現在でも見ることができます。

 

日本海側砂浜へは、「潮入門」跡から出ることができ、南側にかけては石垣がズーと延びてその上に復元された土塀が海岸沿いに美しい曲線を描いています。

 

潮入門跡石垣  ↓

二の丸東側石垣と復元土塀、奥には紙櫓跡(手前、潮入門跡から) ↓

二の丸東側石垣(海側) ↓

 

一方、砂浜を北側に進みますと、どんどんと石が大きくなり、ゴツゴツした岩の上を歩いて行かないと櫓台にたどり着かないですが、海沿いの石の上をそろりそろりと進みますと、まさに海しぶきを受けて、恐怖を感じながらの写真撮影となりました。しかし「山中櫓」までは足を延ばすことができませんでした。

 

三摩地院櫓台跡  ↓

満願寺櫓台跡と菊ケ浜海岸 ↓

荒川櫓台跡 ↓

紙櫓台跡石垣(奥の出っ張り部分) ↓

時打櫓台跡石垣 ↓

 

「三の丸」への出入口には、「南門」と「東門」が構えられ、いずれも枡形を形成、特に「南門」は二重枡形という凄く堅固な構えになっています。

 

二の丸南門跡 ↓

二の丸南門正面に「毛利輝元像」 ↓

二の丸南門跡(二重桝形) ↓

東門跡 ↓

 

次回「萩城(2)」では、「三の丸」と簡単に「城下」を巡って見たいと思います。

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日は、18時からのNHKの放映を見ましたので少し投稿が早いです。


前回は、「秀吉」の行動に不満を持つ「信雄(のぶかつ)」が「家康」に近づき、今まで色々なところで我慢を強いられてきた「家康」も密かに「秀吉」への対抗心を目覚めさせます。

 

そして今日のお話ですが、「織田信雄(のぶかつ)」は、「秀吉」を「信長」の逆臣と理屈をつけた「家康」を味方に付けて挙兵を行います。「家康」は「秀吉軍」よりも先んじて「小牧山城」で籠城をする為に「秀吉軍」を迎える準備を進め城郭化します。

 

そこで「秀吉軍」の「池田恒興」は、「家康」の本拠城である「岡崎城」を攻めることで、「家康軍」を「小牧山城」から誘い出す策を提案。そして「秀吉」の姉「とも」の子が宮部家の養子となりその後「三好家」の養子に入った「三好信吉」(後の豊臣秀次)が自ら志願して大将に付きます。

 

しかし「秀吉軍」は「家康軍」の奇襲攻撃によって、「秀吉軍」の重臣「池田恒興・元助」親子等が命を落とす大敗を喫します(小牧・長久手の戦い)。

 

その後、越中、土佐、安芸、関東の各所でも「秀吉方」と「家康方」の小競り合いがあったものの両者は静観し、5ケ月もの膠着状況が続きましたので、「羽柴長秀」は早くこの戦線を切り上げるべく「家康」との和睦を「秀吉」に提案します。

 

まさにその時「丹羽長秀」は、「信雄」が「家康」に対して嫌悪感を抱いているとの情報を持ち込み、「秀吉」は「信雄」との和睦には大義があると判断し「信雄」を呼んで和睦を進め、結果、「家康」は梯子を外された形となりました。

 

和睦を終えたある日、「丹羽長秀」と「羽柴長秀」は顔を突き合わせ話をします。「長秀」は兄「秀吉」を支えることで「秀吉」が「信長」を越える人物になるだろうと太鼓判を押され、更に同じ「長秀」では良くないので改名するように勧められ、ここに「羽柴秀長」と名乗るようになりました。

 

本日は、「家康」が籠城した「小牧山城」(愛知県小牧市)、「秀吉」の陣城とした「楽田城」(愛知県犬山市)について、過去のブログの投稿から添付しましたのでご覧ください。

 

「小牧山城」は元々、「織田信長」が美濃攻略の拠点としたお城ですので中腹から山上部分は「信長」時代の遺構が見られ、中腹から麓部分に「家康」籠城の遺構が残ります。

            

「小牧山城」

  ↓

「楽田城」は写真を一部ですが掲載します。
  
 
 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

“錦帯橋”とコラボする為に前方に移動して再建された“南蛮型天守”の「岩国城

山口県岩国市

● 歴史と城主

「岩国城」は、戦国時代の末期に、中国地方の殆どを領有していた「毛利元就」の所領のお城でした。しかし「関ケ原の合戦」の時に、「元就」の孫に当たる「吉川広家」は「毛利家」存続の為に東軍に貢献する動きを取り、「毛利輝元」が西軍に担がれることを回避しようと動きますが、「輝元」が西軍の軍議に参加したことが発覚、その結果西軍方の大将であったと見なされ「輝元」は防長2ケ国に減封となりました。

 

「広家」は、「毛利家」にとっては減封に導いた張本人と見なされ、出雲の「月山富田城」の城主から「長州藩」の一支城の城主として「岩国」に移動させられました。

 

「吉川広家」は岩国に城を築き、山頂の要害と山麓の「御土居(居館)」で構成しましたが、1615年の「一国一城の令」によって山頂のお城はわずか7年で破却されてしまい、山麓の「居館」だけを残してそこで政務を執るようになりました。

 

幕末は、宗藩の「長州藩」とは、前述のような江戸時代初期における確執があって以来長年疎遠となってきましたが、旧「毛利家」一丸となった動きをすべく、1856年に「長州藩」からの申し出もあり、1863年の「八月十八日の政変」の際には、長州へ落ち延びる七卿の護衛をしたり、1866年の「長州再征」に対しては「長州軍」とともに戦いに参加しています。

 

そして「長州藩」の「毛利敬親」は、朝廷に「岩国藩」の正式な立藩を認めさせて諸侯に列させました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

ここのお城の特徴は、何といっても「錦川(にしきがわ)」を跨ぐ「錦帯橋」と山上に聳える「岩国城」とのコラボです。

 

霧に霞む城山と錦帯橋 ↓

城山の天守と錦帯橋 ↓

錦帯橋から見上げる復興天守 ↓ 

 

山上のお城へ上る為には、ロープウエイに3分程乗り込むと山頂まで運んでくれ、下界の眺めは最高です。ロープウエイ駅から見下ろしたときにはハッキリと「錦帯橋」や「山麓居館」跡周辺を眺めることができます。

 

ロープウエイから見下ろす吉香公園と錦帯橋  ↓

 

山上の縄張りは、西側から「二の丸」「本丸」「北の丸」と連郭式で並び、「本丸」と「北の丸」との間には「大空堀」で分断されています。また「二の丸」の南側には「大手門」があり、その脇には「出丸」がありました。

 

「天守」の位置は、現在は「本丸」跡の南側に建ちますが、本来の場所は「本丸」跡の後方にあって、現在は「天守台」が積みなおしされて復元されています。

 

これは、観光化の為に、「錦帯橋」と「天守」がコラボできるように昭和37年(1962年)に敢えて50m前に移動させて「天守」が再建されたからです。

 

縄張図(城郭案内図) ↓

 

<北の丸>

今回は、ロープウエイの降車場から「北の丸」へ向かう道を行きますが、その途中には「大釣井」と呼ばれるお城の水場地帯となる井戸があります。

 

大釣井  ↓

 

その脇の道を進みますと「北の丸」跡になりますが、「本丸」跡との間には、日本最大級と言われる箱型をした「空堀」があります。私が行ったときは丁度霧が発生していて、帰りには晴れたので両方の写真があります。

 

「北の丸」跡には、二つの矢倉が建っていたとのことですが、遺構はありません。

 

空堀跡(霧の中に光が差し込み幻想的) ↓

空堀跡(日本最大級の箱堀) ↓

北の丸跡 ↓

 

「北の丸」跡を取り巻く「北の丸周辺散歩道」を辿ると、「北の丸」跡の東南部分の石垣を見ることができ、更にあちらこちらに破却した石垣の石が無造作に散らかっています。石垣は、「本丸」跡から「大手門」跡、「二の丸」跡まで続いています。

 

北の丸の東南に残る石垣  ↓

北の丸の東南に残る石垣と石群 ↓

 

<本丸>

いよいよ「本丸」跡に入りますが、「北の丸」跡との間にはコンモリ盛り上がった「矢倉台」跡があり、更にその西側奥にある旧「天守台」は、発掘調査で往時の姿がだいぶ残っていたので、場所を少し移動して積み直しを行い復元したもので、積み方は「野面積み」です。

 

本丸内の東矢倉台 ↓

旧天守台(復元保存) ↓

旧天守台(復元保存) ↓

 

旧「天守台」の南側に建つ現在の「天守」は、立面の「古図面」を参考にして再建した「復興天守」で、四重六階で、三重目の入母屋屋根に望楼部分を乗せた構造になっています。

 

復興天守の望楼部分(北東側) ↓

 

特徴的な形の天守は、最上階(六階)が廻縁を内(室内)側に取り込むことによって五階よりはみ出ていて、更に五階の屋根は省かれています。

 

また、三重目も内側は三階と四階に分かれていて、四階が廻縁を内側に取り込んだ形になっていて三階の屋根が省略されているので、四階がはみ出た形となっています。このような形の天守を「南蛮造り<唐造り>」と呼ばれていて、「小倉城」や「高松城」の天守でも例があります。

 

復興天守 (桃山風南蛮造り<唐造り>、四重六階) ↓

復興天守 (東面) ↓

復興天守の石落とし、狭間、突上げ窓 ↓ 

復興天守内 (最上階) ↓

 

<二の丸>

「二の丸」跡は、当時の石が残されていますが、そこからの天守の見え方もいいです。

 

二の丸跡から見上げた天守 ↓

二の丸跡と本丸跡の西面の石垣 ↓

 

「大手門」跡には模擬の「冠木門」に似た門が建ち、その脇には「出丸」と呼ばれる出張った土地があります。この下にも石垣が「本丸」跡から続いています。

 

大手門跡 ↓

 

それでは、麓へ移動しましょう。

<御土居(居館)>

「一国一城の令」で山上が破却された後の江戸時代通じては、この場所で、政務と行政が行われていました。現在、堀に囲われた敷地内には、藩主だった「吉川家」を祀った「吉香(きっこう)神社」(重要文化財)や、「矢倉台」の跡に建てられた「錦雲(きんうん)閣」があります。

 

「御土居」は、1698年に5代藩主だった「吉川広遼(ひろみち)」の幼少時の居所として「仙鳥館(せんちょうかん)」が建てられた時に「御館(おたて)」という名前に替え、更に1868年に12代藩主「吉川経幹(つねまき)」が正式な大名として城主格となったので、「御城(おしろ)」と呼ばれるようになりました。

 

絵図によると、敷地一杯に「御殿建造物」が描かれ、南東隅には二重の「矢倉」とその北側にも二重の「矢倉」が描かれています。更に正面には、枡形の「櫓門」もあったようです。

 

居館であるお土居の絵と解説(現地に掲出) ↓

 

「錦雲閣」は、藩政時代の「矢倉」跡に矢倉に似せて建築された「絵馬堂」です。

 

吉香神社の絵馬堂 (御土居 矢倉跡に建てられた櫓風の建物)  ↓

吉香神社の絵馬堂 ↓

吉香神社 (吉川家を祀る神社、重文) ↓

 

「御土居」跡の西側は「吉香公園」となり、白壁の土塀が建てられ城跡の雰囲気作りが行われています。重要文化財に指定されている土壁の黄色っぽい色が目に映える「旧目加田家住宅」があります。そこは、藩御用人を務める中級武士の邸宅でした。

 

錦雲閣と吉香公園の間の堀 ↓

吉香公園内の白壁 ↓

旧目加田家住宅  ↓

旧目加田家住宅 ↓

 

「吉香神社」の南側の堀を越えた所には、「旧吉川邸厩門」が横たわっています。

 

旧吉川邸厩門 ↓

旧吉川邸厩門 ↓

 

その南西側に建つ「昌明館付属屋と門」は、7代藩主「吉川経倫(つねとも)」の隠居所として建造され、廃藩置県の際には「岩国県庁舎」が置かれて岩国の政治の拠点となりましたが、現在は長屋と棟門が現存して市指定有形文化財になっています。

 

昌明館付属屋 ↓

昌明館付属屋と門 ↓

 

更に西側にある「香川家長屋門」も立派で、岩国藩の五家老の一家の武家屋敷門で、こちらは県指定有形文化財に指定されています。

 

香川家長屋門 ↓

 

「錦帯橋」のお城側入口近くに立っている銅像は、「錦帯橋」を創建した「広家」の孫にあたる藩主「広嘉(ひろよし)」像で、その偉業を湛えて立てられたそうです。

 

吉川広嘉(ひろよし)像 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

三角州内に建ち三つの堀と多くの櫓に守られていた平城の「広島城(2)

広島県広島市

城主と歴史、立地と縄張り

      ↓

 

縄張り図(城内掲出分から、黒ポチは「櫓」配置) ↓

 

お城の概要と特徴

「広島城(2)」では、馬出し的な「二の丸」、そして城内に造られた大名庭園「縮景園(しゅっけいえん)」、そして外郭の遺構を見て行きます。

 

<二の丸>

「本丸」の南側に配置された馬出的な「二の丸」へは、「中御門」を潜り「土橋」を渡る仕組みになっています。

 

「二の丸」内には「三の丸」からの出入口である「表御門」とそれに併設する「平櫓」、更にそれに繋がる「多聞櫓」「太鼓櫓」と「番所」「馬屋」で構成されていました。 

 

「二の丸」跡の平面図 ↓

 

現在は、ここの城郭建造物は「番所」と「馬屋」を除いて1991年に「表御門」が、1994年には「平櫓・多聞櫓・太鼓櫓」が木造復元されました。

 

「表御門」の特徴は、城内の中でも最も格式が高く門の上に櫓を築いた「櫓門」です。壁は柱、桁、長押の木部分をそのまま見せる「真壁造り」で、柱上には「舟肘木(ふなひじき)」を置く古い形式を再現して、「毛利輝元」時代の姿に復元されているそうです。

 

木造復元の「表御門」正面 ↓

木造復元「表御門」と「平櫓」、手前は「御門橋」 ↓

「表御門」の「二の丸」跡側 ↓

木造復元「表御門」の内部 ↓

 

「平櫓・多聞櫓・太鼓櫓」は江戸時代の姿に復元され、「平櫓」には鉄砲狭間が、「太鼓櫓」の上階には太鼓が置かれるとともに「高欄」も持たせています。また「番所」跡と「馬屋」跡には配置表示がされています。

 

木造復元の「平櫓・多聞櫓・太鼓櫓」 ↓

木造復元の「平櫓」と「表御門」 ↓

木造復元の「平櫓」(東面) ↓

「表御門」と「平櫓」と「太鼓櫓」の古写真(城内で掲出分) ↓

木造復元の「多聞櫓」と「太鼓櫓」(「二の丸」跡側から) ↓

木造復元「多聞櫓」の内部 ↓

木造復元「太鼓櫓」(南東隅から) ↓

木造復元「太鼓櫓」「多聞櫓」「平櫓」 ↓

木造復元「太鼓櫓」内部に置かれた太鼓 ↓

「二の丸」跡内の「番所」跡と奥には「馬屋」跡 ↓

 

<三の丸>

「広島城」全体の櫓数は最大で88基、門が10基もあって、全国最大級の規模を誇っていました。「櫓」「門」「塀」の外観は、全て「下見板張り」の漆喰塗で統一されていたようです。

 

特に、「福島正則」の時代に、「太田川」沿いの土塁上に石垣を築き、その上に二重櫓をほぼ等間隔で12基も築きました。

 

また、「三の丸」や「外郭」の各隅にも「二重櫓」が築かれた他にも、「三の丸」と「外郭」の各辺にはほぼ等間隔に規模の大きい「平櫓」が多数置かれていました。

 

櫓の配備状況(中心の「本丸」内の櫓は白チョボで、それ以外の櫓は黒チョボで表現されている) ↓

 

現在、残念ながら現存の城郭建造物は勿論、復元櫓や門は「二の丸」跡以外は全く見ることができませんが、櫓台の石垣が太田川の土塁上で見られたり、城下でも石垣の一部を目に見ることができるのは嬉しいことです。

 

旧太田川(現本川)沿いの「櫓」台石垣(「二重櫓」が12基も並んだ) ↓

「広島美術館」北側に残る石垣 ↓

「三の丸」跡と「北の丸」跡の間に残る石垣 (アストラムライン「城北駅」付近)  ↓

 

<縮景園(大名庭園)>

東側の「外郭」端には「縮景園(しゅっけいえん)」と呼ばれる「泉水屋敷」と「池泉回遊式庭園」があり、「浅野長晟(ながあきら)」が1620年に茶人で家老でもあった「上田宗箇(そうご)」に作庭させた庭園です。

 

原爆で大破しましたが、1949年に復旧し1951年から再開園されて、現在は市民や観光客の憩いの場となっています。

 

「縮景園」案内図 ↓

「縮景園」 (「宝暦の大火」で全焼後に、浅野重晟の命で清水七郎右衛門が大改修) ↓

「縮景園」(跨虹橋、ここうきょう) ↓

「縮景園」 (楊貴妃型石燈籠) ↓

 

復元された建物が建っていて「清風館」は「数寄屋風書院造り」で、内部は「清風之間」「老候之間」「次之間」「玄関之間」「茶室」「水屋之間」等を備えています。

 

また、茶室の復元「明月亭」もで数寄屋造りで、窓枠は牛車の車輪がデザインされています。 

 

「縮景園」 (清風館-数寄屋風書院造り) ↓

「縮景園」 (明月亭-数寄屋造りの茶室) ↓

原爆投下後の「縮景園」(園内掲出写真より) ↓

 

<外郭>

南側の「外郭」は「大手」とも言われ、現在は広島市の行政施設や文化施設、商業施設が集まる一大集積地となっています。

 

「本丸」跡南側の「大手曲輪」跡と「三の丸」跡には、県立総合体育館広島グリーンアリーナが建ちます。北東方向は「外郭 北の丸」跡、「外郭 北の丸出丸」跡で、現在は「白島小学校」「中国総合通信局」「広島逓信病院」等が建っています。

「本丸」跡南側に見える「大手曲輪」跡と「三の丸」跡の市街地 ↓

「外郭 北の丸」跡、「外郭 北の丸出丸」跡の建物群 ↓

 

また、更に北東方向には「徳川家康」を祀る「広島東照宮」が建っています。これは、生母が「家康」の三女であった四代藩主「浅野光晟」が造営に熱心で1648年に創建されました。

 

こちらは爆心地から2㎞程の距離があったことから原爆の影響を受けなかった建造物もあり、「唐門」「翼廊」「御供所」「本地堂」等が残り、その後補修を経て現在に至っています。

 

「広島東照宮」正面の鳥居 ↓

「広島東照宮」の「唐門」と「東西翼廊」(いずれも現存) ↓

「広島東照宮」 ↓

 

 

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