只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
総高60mの四段積み石垣を誇り重文”天守”が建つ「丸亀城(1)」
●城主と歴史
この地には、室町時代から「奈良家」が築いた砦がありましたが、本格的なお城は、1587年に讃岐に入った「生駒親正(ちかまさ)」「一正」親子が1597年に「高松城」の支城として築城したのが始まりです。
「関ヶ原の合戦」では、親子東西に分かれましたが、息子の「一正」は東軍参加したので加増されて家督を継ぎお城も1602年に完成させます。その後、「高松城」を本城として「丸亀城」は城代を置いていました。1615年の「一国一城の令」では、樹木で隠してお城を守り切ったとのエピソードがあります。
その後1621年に息子の「高俊」が遊興に耽るとともに家臣間の権力闘争でお家騒動「生駒騒動」が起こり領地没収で流罪となります。
1641年に、「讃岐国」は二分され「高松城」には水戸徳川系の「松平家」が入り、「丸亀城」には「山崎家」が入り城の改修を行いますが完成まで30年間もかかり、そのうち嗣子なく断絶します。
そして1658年に「京極高和」が6万石で入城し、大改修をして現在の「天守」もその時(1660年)に完成しました。その後も「京極家」が幕末・維新まで7代続きます。
●お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
標高60mの亀山に山裾を取り込んで築かれた「平山城」で、「亀山」を石垣造りで四段に取り巻いていて、石垣は「扇の勾配」を描いています。そして、平地部分には、「内堀」と「外堀」を巡らせています。
曲輪は、「本丸」「二の丸」「三の丸」「帯曲輪」「山下曲輪」があり、「輪郭式(渦郭式)」と「連郭式」を複合した縄張りです。
城内曲輪図 ↓

今回は、屋敷地であった麓からの「天守」の姿と高石垣の迫力を見ながら紹介していきます。
<屋敷地>
「外堀」跡の道路を「大手道」に入り、その両脇は「三の丸」跡ということで、市役所、税務署、学習センター等の行政・文化・教育施設が集まり市民広場が拡がります。
外堀跡碑 ↓

市役所前の公衆電話ボックス(三の丸跡) ↓

「大手道」から見た「丸亀城天守」と「大手御門渡櫓門」 ↓

「大手道」から見上げた「天守」と「一二三段石垣」 ↓

<山下曲輪>
「内堀」を渡った所が、重要文化財「大手御門」です。当門は、大手二の門が「高麗門」、大手一の門が「渡櫓門」で周囲を土塀で囲い右折れの桝形を形成しています。
桝形内の正面の石垣の中に大きな「鏡石」が二つ見えますが、城主の権威を表したり、畏怖を与えたりする役割を担っています。
「名古屋城」も、天守側の「櫓門」を一の門、外側の「高麗門」を二の門と呼んでいるのと同じ呼び方をしていますが、一般的にはその逆の方が多いようです。 「大手御門」は、1670年の「京極家」の時代に建築されたものです。
大手御門(重文)の大手一の門(右)と大手二の門(左) ↓

大手御門の枡形 ↓

枡形内の鏡石 ↓

特徴として、高麗門形式の「大手二の門」の控柱の下部は、海風による倒壊を防ぐ為に石で「継ぎ柱」としています。また「大手一の門」は南北十三間もあり「冠木」の桁材があまりにも長いので「継ぎ木」をしています。
大手二の門(重文、高麗門形式) ↓

大手二の門 控柱下部の石による「継ぎ柱」 ↓

大手一の門(重文、渡櫓門形式) ↓

大手一の門 長い冠木の「継ぎ木」 ↓

「大手一の門」の「渡櫓門」内には「太鼓」が設置された「太鼓櫓」であり、外側には八か所の窓があり、内部には石落としを兼ねた「足駄(あしだ)狭間」が設けられています。
大手一の門 渡櫓門内設置の太鼓、京極家家紋「平四ツ目結」が付く提灯 ↓

大手一の門 渡櫓門内の足駄狭間 ↓

「天守」に登るためには「見返り坂」を上っていきますが、まずは麓周囲を見ていきましょう。
右手に進むと見えるのが両脇に建つ白壁の土塀で、そこは天井の無い土橋の「廊下橋」となっています。「内堀」から山側に切り込んだ「あやめ池」に架かる橋となっています。
土橋の廊下橋(両脇の土塀の向こう側は堀) ↓

内堀からのぞむ廊下橋(土橋というものの、外側は石積み) ↓

御殿表門前の曲輪周囲を守る土壁(内堀から) ↓
この橋を渡った広場が、「山下御殿」前に造られた「馬出」的な敷地です。そこに現存するのが「山下御殿」の「御殿表門」とそれに併設した形の「番所」と「番所長屋」になっています。いずれも重要文化財に指定されています。「御殿表門」は、非常に重厚で立派な「薬医門」形式で、「京極家」の屋敷の表門でした。
御殿表門(重文、山下御殿の表門、薬医門形式) ↓

御殿表門併設の番所(重文) ↓

「番所」と「番所長屋」ですが、「表門」の出入りを管理する今でいうガードマン室のような所で、門番が詰めていました。「番所長屋」は、その門番の休養場所だったと思います。
番所長屋(有形文化財) ↓

御殿表門と番所長屋がある馬出的な曲輪 ↓

藩主居住の「山下御殿」が建っていた「山下曲輪」跡は広場になり「丸亀市立資料館」の建物が建ちます。その城側には、大昔に火山の噴出口であり、その通路部に安山岩が浸食を受けて円柱状に露呈した「かぶと岩」の岩頸が見られます。これは、「京極家御殿」であった「山下御殿」に併設していた庭園にも用いられていた名残のようです。
山下御殿跡 ↓

かぶと岩(京極家御殿の庭園の名残り) ↓

2018年10月の台風24号の影響で大規模な石垣の崩落があって、その後復旧工事が行われていますが未だに完全復元には至らず、2030年度末になる見通しだそうです。
その麓から「城内グランド」にかけて、崩落した石に番号を振って再積み直しを待っている石置き場となっています。こういう状況となった姿を見るのは、お城ファンとしては悲しいですが、石垣の中がどのようになっているのかを見ることができるめったにない機会でもありますのでご覧ください。
積み直しを待つ石の保管場所(2019年12月の写真) ↓

崩落している三の丸坤櫓付近(2019年12月の写真) ↓

崩落した帯曲輪の石垣(2019年12月の写真) ↓

「城内グランド」を廻りこんだ所には「搦手門」跡の石垣が残されていますが、ここは嘗て「大手門」がおかれていたところです。そして、城山の南東辺りの山沿いには生駒家時代の「野面積み」石垣が拡がり、その上には「三の丸月見櫓」台跡が聳えます。
搦手門跡 ↓

野面積み石垣が拡がる ↓

三の丸月見櫓台を麓から見上げる ↓

さて、城山を1周してきましたので、「見返り坂」を上り「天守」がある「本丸」跡を目指します。「見返り坂」を上り切った右側には、三の丸北側の「扇の勾配(又は武者返し)」と呼ばれる「高石垣」が迫ってきます。こちらは、丸亀城の中で最も高く約20mの城壁が続いています。
見返り坂 ↓

見返り坂を上りきった右側には高石垣(扇の勾配) ↓

三の丸北側の高石垣(「扇の勾配」、丸亀城で最も高い20m以上の石垣) ↓

ライトアップされた高石垣 ↓

<三の丸>
そこから右に曲がり続く坂道を上り切った所が「三の丸」跡になります。
左手には、「月見櫓」台跡と「丑寅櫓」台跡があって「丑寅櫓」台からの瀬戸内海の素晴らしい遠景や、「月見櫓」台からの「讃岐富士」の美しさを堪能することができます
三の丸丑寅櫓台 ↓

三の丸月見櫓台 ↓

三の丸月見櫓台からのぞむ讃岐富士(飯野山) ↓

「三の丸戌亥櫓」跡は「二の丸長崎櫓台」の脇から降りたところにあります。「三の丸戌亥櫓」台からは「二の丸長崎櫓」台や「天守」を見あげることができ、更には「本丸」跡の「姫櫓」台の「打込接」の凄い石垣もみることができる絶景ポイントとなります。
三の丸戌亥櫓台から二の丸長崎櫓台と天守を見る ↓

三の丸戌亥櫓台 ↓

三の丸丑寅櫓台 ↓

本丸姫櫓台(三の丸戌亥櫓台から) ↓

その石垣に沿って西側に行けば、「坤櫓」跡、「三の丸井戸」がありますが、前述したように高石垣の崩落に伴う修築工事の為立入禁止となっています。ただ、手前には、「搦手門口」に通じる門跡、そして石段、元大手門だった「栃の木門」跡が見られます。
栃の木門跡付近 ↓

栃の木門跡 ↓

「三の丸」跡石垣(「栃の木門」跡から見上げる) ↓

その他「三の丸」跡には、「延寿閣別館」という御殿建造物が建っています。この建造物は、江戸麻布にあった旧藩主「京極家」の江戸藩邸の一部を1933年に、丸亀城内に移築したものです。中は、当時の大名生活が偲ばれる構造になっているそうです。
延寿閣別館(旧藩主「京極家」の江戸藩邸の一部) ↓

「延寿閣別館」の北側沿いには、「二の丸」跡の石垣が壁のように立っていますが、良く見ると、「二の丸辰巳櫓」台から続く「二の丸石垣」が少し内側に湾曲しています。この手法を「平ノスキ」といい、当石垣が高石垣となっていることから、崩落回避の為に石垣の表面ラインを内側に湾曲させ、左右を出張らせて内側に圧力を集中させるという仕掛けになっているそうです。
少し内側に湾曲させている「平ノスキ」という手法(写真ではわかりにくいかも) ↓

次回「丸亀城(2)」は、「二の丸」から「本丸」に入り、重文「天守」を見て行きます。
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