只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
本丸を固めた櫓群と出丸、総構えには16カ所の虎口があった「会津若松城(後編)」
(福島県会津若松市)
●城主と歴史、立地と縄張り
「城主と歴史」「立地と縄張り」及び「会津若松城(前編)」は下記からご覧ください。
本日の「会津若松城(後編)」は、「本丸」跡から見て行きます。
<本丸-櫓群、茶室など>
「前編」でも記載しましたように、復元「干飯櫓」は本丸と帯曲輪の周辺を取巻く土塁と石垣上に建ちます。この北側には「塩蔵之内櫓」そして時計回り順に「鐘之櫓」「北西櫓」「弓櫓」「茶壷櫓」「月見櫓」の七基の櫓が取り巻いていました。因みに、あと西出丸に二基、北出丸に二基の合計十一基の櫓がありました。
月見櫓跡(白壁総塗り込めの櫓・常に武器が保管、搦め手の物見櫓としても機能) ↓
塩蔵之内櫓跡 ↓
茶壷櫓跡 ↓
「天守」の東側には「本丸御殿」が建ち並び、その東側にある「本丸書院庭園」には、藩主のご休息所であり客用の「御亭(おちん)」と呼ばれる「御三階」と庭園がありました。
本丸御殿跡(天守屋根が黒瓦の時) ↓
御三階居間の庭跡 ↓
現在では、「御三階」の櫓台石垣が残っていましたので、その復元の検討がされていて色々な資料を収集しているそうです。ただ、その「御三階」は、城下の「阿弥陀寺」に本堂として移築されていますので、外観復元は可能と思われます。「阿弥陀寺」は一見の価値があります。
「御三階」の櫓台石垣 ↓
「阿弥陀寺」に本堂に移築された「御三階」 ↓
入口には「松平家葵紋」が付く ↓
本丸にはまだ見所があり、「茶壷櫓」跡の前に、「千少庵」が造った茶亭「麟閣(りんかく)」が現存再移築で残されています。
麟閣の表門(戊辰戦争後に城下へ移築、平成2年に元の場所へ移築) ↓
麟閣内 蒲鶴亭(ほかくてい) ↓
麟閣 蒲鶴亭 鎮<クギリ>の間(平成2年に森川家から移築) ↓
「少庵」は、「千利休」の子供で、利休が追放された後に「蒲生氏郷」に保護されて、この地で茶の湯三昧の生活を送ることができたようです。この茶室は、1871年の廃城令時に「石州流」の茶人が自宅で保存していたものを1990年に本丸内で再現したものです。
因みに、その後「千少庵」は子供の「宗旦(そうたん)」とともに京都に帰り、「千家」を再興。更に、孫の「宗左(そうさ)」は表千家を、「宗室」は裏千家を、「宗守(そうしゅ)」は武者小路家を興しました。
<西出丸曲輪、北出丸曲輪>
「西出丸」曲輪へは「西中門」を通り抜けて「梅坂」を下ると大きな「西出丸大手門」の枡形が入口となります。「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」があり城下に時を告げていました。
「西中門」の枡形 ↓
「西出丸大手門」の枡形 ↓
「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」 ↓
「北出丸」曲輪へは「太鼓門」の枡形を通り「椿坂」を下って右に折れると「大手門」の枡形に出ることができます。
太鼓門跡枡形(椿坂から) ↓
大手門跡(枡形の外門跡、雁木) ↓
<総構え>
「会津若松城」を中心に周囲約10㎞の水堀と土塁に囲まれた「惣構え」を形成していて、武家屋敷エリアと町とを分ける境界線となり、16箇所の虎口がありました。虎口には、門と番所が設けられており、主要虎口には石垣が築かれていました。
「戊辰戦争」時には、一旦「甲賀町口郭門」の中まで新政府軍が侵入しましたが、城内の守備の固さから「惣構え」から退去し、その後は外部からの砲弾による攻撃にならざるを得ませんでした。
現在は「甲賀町口郭門」の石垣が残り、その石碑が建てられています。また、「天寧寺口門」付近の「天寧寺口土塁」が現存しています。
甲賀町口門跡(北東から) ↓
天寧寺土塁(東西に延びる、西北側から) ↓
天寧寺土塁(北東隅) ↓
惣構え内部には、「御薬園(御薬園)」という「御茶屋御殿」と呼ばれる数寄屋書院や茶亭「楽寿亭(らくじゅてい)」が建てられている所があります。ここは、「保科正之」が別邸として改装したり、その後はその子である正経(まさつね)が園内で薬草栽培を始めたり、正経の子正容(まさかた)は朝鮮人参の栽培をしたりしていました。
御薬園 御茶屋御殿 ↓
御薬園 楽寿亭と御茶屋御殿 ↓
「旧滝沢本陣横山家住宅」は、藩主が参勤交代の時に旅支度を整える為の休息所でしたので、藩主「御座の間」や藩主用の風呂や厠までも設備されています。しかし、「戊辰戦争」の際にはこの場所が大本営となったことから戦いの場に変わり、柱には刀傷や弾丸の跡が生々しく残ります。
会津藩滝沢本陣正面(重文、1596年築、1679年開設) ↓
滝沢本陣 御座之間(手前は御次之間) ↓
滝沢本陣 戊辰戦争時の刀疵 ↓
ここから近い場所には、「白虎隊」が自刃した「飯森山」がありますが、その麓には「さざえ堂」(重文)という1796年に「僧郁堂」が考案建造した六角三層の建物があります。
この建物はさざえの螺旋形に似た形で、入口から入って螺旋階段を上るといつの間にか下っていて1階の出口に出てくるという魔訶不可思議な建物です。
さざえ堂(昔は三十三観音を安置、明治以降は皇朝二十四孝の絵額を掲げる) ↓
「飯盛山」で自刃した白虎隊士19人の墓 ↓
幕末の「松平容保」が藩主だった時の家老「西郷頼母(たのも)」邸をかなり詳細に復元した「武家屋敷」が復元されています。「容保」には、「京都守護職」を受けることを最後まで反対していた家老でしたが、「戊辰戦争」の際には、会津若松の為に最後まで必死に働き、しかもその家族全員が新政府軍の捕虜になりたくないとの思いで、「頼母」の屋敷で自刃したという悲しいドラマがありました。そのシーンを、この復元屋敷内で人形で再現しています。
復元家老屋敷の玄関 ↓
復元家老武家屋敷(御成御殿) ↓
この敷地内には、「中畑陣屋」の屋敷が現存移築されています。これは、福島県西白川郡矢吹町中畑にあった旗本「松平家」五千石の代官所で、当時の地方行政を担った代官所の建物構造が良くわかる建造物です。
「中畑陣屋」主屋の式台 ↓
「中畑陣屋」(二つの表座敷と台所) ↓
「中畑陣屋」の「表座敷」 ↓
城下町の見所はまだまだ沢山ありますが。御三階櫓が移築された阿弥陀寺がある「七日町通り」は、越後街道沿いに開けた街並みで、重厚な建物群も見られる賑わいのある町であります。
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