只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

本丸を固めた櫓群と出丸、総構えには16カ所の虎口があった「会津若松城(後編)

福島県会津若松市

城主と歴史、立地と縄張り

「城主と歴史」「立地と縄張り」及び「会津若松城(前編)」は下記からご覧ください。

 

 

本日の「会津若松城(後編)」は、「本丸」跡から見て行きます。

 

本丸-櫓群、茶室など

「前編」でも記載しましたように、復元「干飯櫓」は本丸と帯曲輪の周辺を取巻く土塁と石垣上に建ちます。この北側には「塩蔵之内櫓」そして時計回り順に「鐘之櫓」「北西櫓」「弓櫓」「茶壷櫓」「月見櫓」の七基の櫓が取り巻いていました。因みに、あと西出丸に二基、北出丸に二基の合計十一基の櫓がありました。

 

月見櫓跡(白壁総塗り込めの櫓・常に武器が保管、搦め手の物見櫓としても機能) ↓

塩蔵之内櫓跡 ↓

茶壷櫓跡 ↓

 

「天守」の東側には「本丸御殿」が建ち並び、その東側にある「本丸書院庭園」には、藩主のご休息所であり客用の「御亭(おちん)」と呼ばれる「御三階」と庭園がありました。

 

本丸御殿跡(天守屋根が黒瓦の時) ↓

御三階居間の庭跡 ↓

 

現在では、「御三階」の櫓台石垣が残っていましたので、その復元の検討がされていて色々な資料を収集しているそうです。ただ、その「御三階」は、城下の「阿弥陀寺」に本堂として移築されていますので、外観復元は可能と思われます。「阿弥陀寺」は一見の価値があります。

 

「御三階」の櫓台石垣 ↓

「阿弥陀寺」に本堂に移築された「御三階」 ↓

入口には「松平家葵紋」が付く ↓

 

本丸にはまだ見所があり、「茶壷櫓」跡の前に、「千少庵」が造った茶亭「麟閣(りんかく)」が現存再移築で残されています。

 

麟閣の表門(戊辰戦争後に城下へ移築、平成2年に元の場所へ移築) ↓

麟閣内 蒲鶴亭(ほかくてい) ↓

麟閣 蒲鶴亭 鎮<クギリ>の間(平成2年に森川家から移築) ↓

 

「少庵」は、「千利休」の子供で、利休が追放された後に「蒲生氏郷」に保護されて、この地で茶の湯三昧の生活を送ることができたようです。この茶室は、1871年の廃城令時に「石州流」の茶人が自宅で保存していたものを1990年に本丸内で再現したものです。

 

因みに、その後「千少庵」は子供の「宗旦(そうたん)」とともに京都に帰り、「千家」を再興。更に、孫の「宗左(そうさ)」は表千家を、「宗室」は裏千家を、「宗守(そうしゅ)」は武者小路家を興しました。

 

西出丸曲輪、北出丸曲輪

「西出丸」曲輪へは「西中門」を通り抜けて「梅坂」を下ると大きな「西出丸大手門」の枡形が入口となります。「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」があり城下に時を告げていました。

 

「西中門」の枡形 ↓

「西出丸大手門」の枡形 ↓

「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」 ↓

 

「北出丸」曲輪へは「太鼓門」の枡形を通り「椿坂」を下って右に折れると「大手門」の枡形に出ることができます。

 

太鼓門跡枡形(椿坂から) ↓

大手門跡(枡形の外門跡、雁木) ↓

 

総構え

「会津若松城」を中心に周囲約10㎞の水堀と土塁に囲まれた「惣構え」を形成していて、武家屋敷エリアと町とを分ける境界線となり、16箇所の虎口がありました。虎口には、門と番所が設けられており、主要虎口には石垣が築かれていました。

 

「戊辰戦争」時には、一旦「甲賀町口郭門」の中まで新政府軍が侵入しましたが、城内の守備の固さから「惣構え」から退去し、その後は外部からの砲弾による攻撃にならざるを得ませんでした。

 

現在は「甲賀町口郭門」の石垣が残り、その石碑が建てられています。また、「天寧寺口門」付近の「天寧寺口土塁」が現存しています。

 

甲賀町口門跡(北東から) ↓

天寧寺土塁(東西に延びる、西北側から) ↓

天寧寺土塁(北東隅) ↓

 

惣構え内部には、「御薬園(御薬園)」という「御茶屋御殿」と呼ばれる数寄屋書院や茶亭「楽寿亭(らくじゅてい)」が建てられている所があります。ここは、「保科正之」が別邸として改装したり、その後はその子である正経(まさつね)が園内で薬草栽培を始めたり、正経の子正容(まさかた)は朝鮮人参の栽培をしたりしていました。

 

御薬園 御茶屋御殿 ↓

御薬園 楽寿亭と御茶屋御殿 ↓

 

「旧滝沢本陣横山家住宅」は、藩主が参勤交代の時に旅支度を整える為の休息所でしたので、藩主「御座の間」や藩主用の風呂や厠までも設備されています。しかし、「戊辰戦争」の際にはこの場所が大本営となったことから戦いの場に変わり、柱には刀傷や弾丸の跡が生々しく残ります。

 

会津藩滝沢本陣正面(重文、1596年築、1679年開設) ↓

滝沢本陣 御座之間(手前は御次之間) ↓

滝沢本陣 戊辰戦争時の刀疵 ↓

 

ここから近い場所には、「白虎隊」が自刃した「飯森山」がありますが、その麓には「さざえ堂」(重文)という1796年に「僧郁堂」が考案建造した六角三層の建物があります。

 

この建物はさざえの螺旋形に似た形で、入口から入って螺旋階段を上るといつの間にか下っていて1階の出口に出てくるという魔訶不可思議な建物です。

 

さざえ堂(昔は三十三観音を安置、明治以降は皇朝二十四孝の絵額を掲げる) ↓

「飯盛山」で自刃した白虎隊士19人の墓 ↓

 

幕末の「松平容保」が藩主だった時の家老「西郷頼母(たのも)」邸をかなり詳細に復元した「武家屋敷」が復元されています。「容保」には、「京都守護職」を受けることを最後まで反対していた家老でしたが、「戊辰戦争」の際には、会津若松の為に最後まで必死に働き、しかもその家族全員が新政府軍の捕虜になりたくないとの思いで、「頼母」の屋敷で自刃したという悲しいドラマがありました。そのシーンを、この復元屋敷内で人形で再現しています。

 

復元家老屋敷の玄関 ↓

復元家老武家屋敷(御成御殿) ↓

 

この敷地内には、「中畑陣屋」の屋敷が現存移築されています。これは、福島県西白川郡矢吹町中畑にあった旗本「松平家」五千石の代官所で、当時の地方行政を担った代官所の建物構造が良くわかる建造物です。

 

「中畑陣屋」主屋の式台 ↓

「中畑陣屋」(二つの表座敷と台所) ↓

「中畑陣屋」の「表座敷」 ↓

 

城下町の見所はまだまだ沢山ありますが。御三階櫓が移築された阿弥陀寺がある「七日町通り」は、越後街道沿いに開けた街並みで、重厚な建物群も見られる賑わいのある町であります。

 

 

 

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戊辰戦争では徹底攻撃を受けるも崩落しなかった天守の「会津若松城(前編)

福島県会津若松市

城主と歴史

当城の前身は、会津守護職であった「蘆名家」によって築かれた「黒川城」ですが、「伊達政宗」が奪いました。しかし、「豊臣秀吉」の命で、「蒲生氏郷」を会津に入封させて新たに築城したお城に「若松城」と命名しました。その後、「上杉景勝」が入城して、「徳川家康」の征伐軍に備えるために、会津領内のお城を大改築しました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「加藤明成」が入城しましたが、「蒲生氏郷」時代に現在の廊下橋前の「大手門」の位置を、「北出丸」を増築してその北東部へ移して北からの防御の備えにしました。

 

復元天守(本丸御殿跡から) ↓

 

その後に入封したのが「保科正之」です。彼は、二代将軍「徳川秀忠」の息子ですが、三代将軍になった「家光」とは腹違いの弟でした。「正之」は、父「秀忠」が側室に産ませた子供でしたが、恐妻「お江(おごう)」に気兼ねして高遠藩の「保科家」に成人となるまで預けられていました。

 

正室の子として「家光」の下には弟「忠長」がいましたが、幼少時から「家光」より健康で且つ優秀であったことから、両親やその取巻き達は「忠長可愛いしや」で次の将軍も「忠長」との呼び声高かったのですが、乳母の「春日局」の「徳川家康」への働きかけで、一転して「家光」にスポットが当たり逆転の将軍就任となりました。

 

以上の話は良く知られたエピソードですが、「秀忠」と「お江」の逝去後、「家光」は異母弟がいることを知り、自分のもとに高遠から招き入れ可愛がりました。一方、実の弟「忠長」に対しては、厳しい措置を取り、駿府に居城していましたが改易させ更には高崎藩お預かり後自刃に追い込ませました。

 

一方、「正之」は1643年に会津藩23万石で大名として取り立てられ、その後は「正之」の子孫は、「会津松平家」として幕末・維新まで存続します。「家光」からは、四代将軍となる「家綱」の補佐役となるように命じられ、幕閣の中心となり文治政治を推進しました。

 

特に、末期養子の禁を緩和したり、各藩の断絶を減らして、浪人を出さないようにしました。更に、先君が亡くなれば当時は家老達が殉死する習慣が残っていましたが、その禁止も普及させました。

 

また、財政再建も進め、江戸城天守の再建機運が高まっていたものの、巨額のお金が必要となる天守再建を断念させてことでも有名です。

 

この「会津松平家」は、幕末にもう一度、大きくスポットが当たります。尊王攘夷など幕末の混乱期に「京都守護職」を命じられた「松平容保(かたもり)」は、会津藩九代藩主でしたが、幕府からの再三の要請によっり、福島から多くの藩士を率いて京都の秩序維持の為に京都東山の「金戒光明寺」に常駐しました。

 

京都守護職門(現存) ↓

京都の金戒光明寺(松平容保が駐在) ↓

 

滞在して京都の安全警護に尽力したこともあり、「孝明天皇」には凄く信頼され、公武の均衡を保つことができていましたが、「孝明天皇」が逝去した後は、政敵として位置づけられる等、大変な期間を京都で過ごすこととなります。

 

結局は、最後の将軍「徳川慶喜」とともに江戸へ逃げ帰ることになり、更に会津若松へ戻りますが、「武家の棟梁たる徳川家への絶対随順である」という会津松平家の家訓を遵守して、徳川家を守る為に、会津若松城で徹底抗戦を行うこととなりました。

 

「会津若松城」には、新政府軍から多数の大砲が撃ち込まれ、特に天守も無残な姿になる写真を我々は目にすることができます。

 

古写真(戊辰戦争で砲弾を撃ち込まれた後の天守) ↓

 

その会津若松城は、現在は「天守」を始め、「鉄門」「走長屋」「南走長屋」「干飯櫓」が復元されています。

 

天守と走長屋 ↓

 

お城の概要と特徴

縄張り

会津若松城は、「小田垣」の丘に建つ平山城です。その本丸東側には二の丸、三の丸と二重三重もの備えがありました。

 

「蒲生家」「上杉家」時代は、「連郭式縄張り」だったものを、「加藤明成」が本丸・帯曲輪の中心地から西側には「西出丸」、北側には「北出丸」の各々馬出的な曲輪を設けて北西の守りを固めました。その後、「保科正之」が入城して一部修築があったものの、ほぼそのままの形で使用されました。

 

縄張鳥瞰図 ↓

 

今回は「三の丸」跡からスタートをします。

 

三の丸、二の丸

まず、「三の丸」跡から「二の丸」跡に入るのに「二の丸東門」跡を通ります。その右手には、現在はテニスコートになっている「伏兵曲輪」跡があります。

 

「東門」跡からは鬱蒼とし見えない死角の場所になっていて、もし攻められた際には、そこに兵を待機させる絶好の場所だったようです。

 

二の丸東門跡(三の丸方向より) ↓

伏兵曲輪と三の丸の間の堀 ↓

 

二の丸跡の南側にも「二の丸南門」があり三の丸跡に繋がりますが、「瓢箪堀」が迫ってきて門の外側は土橋状になっています。

 

二の丸南門跡 ↓

瓢箪堀の南端(二の丸南門跡を出て左手) ↓

 

帯曲輪

二の丸跡から、赤い「廊下橋」跡を渡って「帯曲輪」跡経由で本丸跡へ入ります。「蘆名時代」は、屋根が付いた廊下橋であったらしいです。そして、橋の下東側は「土橋」で、左右の水堀の水位を保つ為に「水戸違い」となっていました。

 

廊下橋(水戸違いになっている。茶壷櫓跡から) ↓

 

廊下橋を渡ると虎口は石垣となっているのと、特に向かって左側の石垣は高石垣の「打込接(はぎ)」が築かれていて、忍び返しの美しい扇の勾配を見ることができます。

 

茶壷櫓跡(草が生えている所)と高石垣(打込接で、高さ20m) ↓

廊下橋門跡(蒲生・上杉時代は本丸正門だった。廊下橋から) ↓

 

「廊下橋虎口門」跡を抜けますと、左側は石垣の壁が天守北東隅まで続きますが、これは、「本丸」と「帯曲輪」を分ける目的があります。これに沿いながら前進すると、「北出丸」へ繋がる「太鼓門跡」にぶつかります。そして更に前に進むと「帯曲輪」が拡がります。

 

帯曲輪と本丸を区切る石垣(氏郷時代にできた) ↓

 

更に進むと「天守」から南方向へ延びる復元の「走長屋」「鉄門(くろがねもん)」「南走長屋」「干飯櫓」の建物群が本丸に入るのを阻止するように、横たわっています。

 

天守と走長屋(左は鉄門) ↓

鉄門(本丸側から、帯曲輪から本丸に入る表門、扉や柱が鉄板に囲われている) ↓

手前は「鉄門」 ↓

 

手前から走長屋、鉄門、南走長屋、干飯櫓 ↓

 

2001年に「南走長屋」「干飯櫓」が木造で復元され、「天守」から「走長屋」「鉄門」の中を通り抜けて内部が見れるようになりました。「干飯櫓」は後述しますが、「本丸」周囲を取り巻く七基の櫓の一つです。

 

復元の「南走長屋」と「干飯櫓」 ↓

木造復元「走南長屋」の内部 ↓

木造復元「干飯櫓」の内部 ↓

 

 いよいよ、本丸へ入城です。

 

 本丸-天守

「天守」は巨大ですので、三の丸跡や二の丸跡からも見えていましたが、本丸に入ると真ん前に迫ってきます。この「天守」は野面積みの天守台の上に、1965年にRC造りの外観復元されたものです。幸いにも、冒頭見ました古写真に基いて外観復元をコンクリート造りで再築されました。

 

「天守」自体は五重七階ですが、南東方向から見ると六重にも見えます。これは、天守台の南東に土塀が取り巻いていることから、その屋根部分が天守の屋根の一部のように見えるからです。また、「切妻破風」の屋根までも数えると七重にも見えます。

 

復元天守(天守台の北側に天守が建ち、南側は土塀が囲むので6重に見える、南東方向より) ↓

復元天守(本丸御殿跡から、東側面) ↓

 

写真の瓦の色は赤瓦で、寒さが厳しい場所に建つ城郭建造物には瓦内に浸み込む水分が凍結するのを防止する釉薬を施します。かつては、瓦は黒色で復元されていましたが、2011年に、江戸時代(1648年に葺き替え)に葺かれていた瓦色の赤色に取り換えられました。

 

現在の「赤瓦」の「天守」 ↓

2011年の赤瓦葺き替え前の「黒瓦」の時の「天守」 ↓

 

天守台は「野面積み」で隅石も算木積みにはならず古いタイプです。「天守」入口は、天守台の石垣に開けられた出入口からの入場となり、入口には立派な一枚岩が頭上に置かれています。

 

天守台の内部地階は塩貯蔵庫として使用されていて現在、人形を使ってそれを再現しています。「天守」はコンクリート造りの資料館ですので、ビル内と変わりない雰囲気です。

 

「天守台」とその「隅石」 ↓

「天守台」に切られた入口 ↓

入口の一枚岩 ↓

天守台内部の塩貯蔵庫の再現 ↓

天守内部(階段部分) ↓

天守内部(最上階) ↓

「本丸御殿跡」(天守最上階から) ↓

 

「会津若松城(後編)」では、「本丸」跡から始め、「西出丸」「北出丸」更には「総構え」等を見て行きたいと思います。

 

 

 

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“三の丸”の石垣と“箕輪門”がビューポイントを創る「二本松城

福島県二本松市

城主と歴史

「二本松」は、「畠山家」の嫡流であった「二本松畠山家」が築城します。しかし、戦国時代に入り「蘆名家」「伊達家」等の有力領主に圧迫されて衰退していきます。

 

その後は、「伊達家」→「上杉家」→「蒲生家」→「加藤家」と変遷しますが、「加藤家」が改易となり幕府領となります。そして1643年に「白河小峰城」から移封となった築城名手の「丹羽光重」が、入城して近世城郭に大改修させています。

 

「丹羽家」の統治は、幕末・維新まで続きますが、戊辰戦争では戦場となります。「会津若松城」の「白虎隊」と同じように「二本松少年隊」が編成され攻防しましたが、落城してしまいます。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

標高345mの「白旗ケ峯(しらはたがみね)」の山頂に築かれた城郭部分と、山麓の居館から構成されてる「平山城」です。もっとも古いのが山頂の「本丸」周辺で「畠山家」時代には、そこから延びる尾根に曲輪を配置して「堀切」等を導入していました。

 

「丹羽家」によって「近世城郭化」され、「本丸」は総石垣造りで築かれました。「本丸」から下段には「三の丸」が置かれ、藩政の中枢部となり御殿も築かれていました。

 

「箕輪門」を出ると、郭内が拡がり武家地や町人地となり、北から「竹田門」「池ノ入門」「久保丁門」「松坂門」「西谷門(搦手門)」の5つの門が郭外との出入りになっていました。

 

更に丘陵地に「二本松神社」等の寺院を配置して防御施設としました。

 

縄張り図(城内に掲出) ↓

現在地図に城跡を表示(城内に掲出) ↓

城跡案内図(現地に掲出) ↓

 

<本丸>

「本丸」は、「白旗ケ峯」山頂にあり非常に狭いエリアです。「天守台」とそれに「多門櫓」で繋がる「東櫓」「西櫓」が建っていたようです。1995年に修築整備工事が行われて、現在のようになっています。

 

「本丸」跡平面図(現地に掲出) ↓

「本丸」跡の桝形虎口 ↓

「天守台」(南側から本丸入口付近から) ↓

「天守台」から「本丸」跡を見下ろす ↓

「天守台」西直下の二段石垣 ↓

「天守台」から「東櫓」への「多門櫓台」 ↓

「本丸東櫓」台 ↓

「西櫓」台 ↓

 

しかし、「天守台」には平屋の建物が描かれた絵図があるだけで、「天守」を築いたという記録はありませんので「天守台」だけが造られたのかもしれません。

 

このようなお城は結構多く(明石城、赤穂城、津城など)、江戸幕府が出来てから近世城郭に変更しようとするときに、特に外様大名は、幕府に憚って「天守」を建てないか、「天守」の替わりに「三階櫓」に少し天守らしく装飾をして「御三階櫓」と申し出たようです。

 

「本丸」跡の端に、戊辰戦争で自刃した城代「丹羽和左衛門」と勘定奉行「安部井又之丞」両氏の供養塔碑建ちます。

 

両氏の供養塔碑 ↓

 

「本丸」は総石垣だったようで、現在では南側にその痕跡である「野面積み」の石垣が拡がっていて城内最古の石垣だそうです。

 

「野面積み」石垣 ↓

 

<二の丸>

山頂の「本丸」から東側へ少し下りると「本丸」を補完する曲輪「乙森(おともり)」が配備され、更にその下には「煙硝蔵」「松森館」等と呼ばれる曲輪が点在していました。

 

「乙森」跡 ↓

「松森館」跡 ↓

「煙硝蔵」跡 ↓

 

一方、「本丸」から西へ少し降りた裏手にあたる所に「搦手門」がありました。現在は、門の台石の石垣と礎石が残っています。発掘調査では、新旧2時期の門跡が確認されたので、「蒲生家」時代の掘立柱の門、「加藤家」時代の礎石を使う程の門があったと想定されています。

 

「搦手門」跡 ↓

 

この「搦手門」跡の脇の「土塁」越しには、二段構えとなっている「新城館(しんじょうだて)」跡が拡がります。中世の「畠山時代」の本城で、「会津城の支城時代」には、二人の城代が東館と西館に居城していてこの場所は西館だったそうです。下段には「智恵子抄碑」が、上段は、砲術道場で学ぶ少年隊士が稽古を行った場所で「少年隊士顕彰碑」が建っています。

 

「搦手門」跡の脇の「土塁」 ↓

「新城館」跡(「少年隊士顕彰碑」が立つ) ↓

 

「搦手門」とは反対の東側の斜面の途中には、現在でも水が湧きだしている「日影の井戸※」が残っています。この井戸は、「日本三大井戸」の一つだそうです。因みにあと二つは千葉県印西(いんさい)市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」です。

※深さ16mで、岩盤をえぐって北に14m延びているとか

 

「日影の井戸」 ↓

 

<三の丸>

「三の丸」には、藩庁の建物や城主等が居住する「新御殿」「御部屋住居」「御殿」が建てられ、周囲には庭園や興を楽しむ所も設けられていました。

 

その一つとして「霞池」があり、そのほとりには現在天然記念物の「霞ケ城の傘松」が見事な枝をひろげています。

 

「霞池」 ↓

霞ケ城の傘松(天然記念物) ↓

 

また、「洗心亭」という茅葺で寄棟平屋造の「茶亭」も建っています。これは、幕末近くまで城内に建っていて現在唯一残る城郭建造物です。1837年の山崩れがあって、阿武隈川河畔に藩主の「釣茶屋」として使用されていましたが、1907年に旧地に戻された建造物です。

 

「洗心亭」という茅葺で寄棟平屋造の「茶亭」 ↓

 

「三の丸」の石垣は、現在でも壮大な形で目にすることが出来ます。まずは、「三の丸」跡から「箕輪門」までの途中には、土塀がなくて松の木が植えられていて樹齢350年以上の赤松の木が残ります。

 

「三の丸御殿」跡 ↓

塀重門跡 ↓

 

「箕輪(みのわ)門」はお城の正門で、石段を上がり右に折れて入城し、現在は模擬の「二階櫓」と復興の「多門櫓」の櫓台の間に挟まれて建っています。

 

「箕輪」の名前は、「丹羽光重」が築城に併せて門の建築を行う際に、その材料を領内の「箕輪村山王寺山」の樫の神木を使用して「楼門」を築いたことから命名されたそうです。1982年に復興され、門の上は「白漆喰総塗籠め」で、表側には木製の大きな窓が付けられています。

 

復興「箕輪門」と復興多門櫓 ↓

復興「箕輪門」と模擬二階櫓 ↓

石段と模擬二階櫓(右に折れると「箕輪門」) ↓

 

「三の丸」の石垣とその上に復興された「長塀(城壁)」、そして「箕輪門」「二階櫓」は「二本松城」を象徴する風景です。

 

城壁と二階櫓(西側から) ↓

城壁と二階櫓(東側から) ↓

 

<郭内~郭外>

「二階櫓」の南側に広場がありますが、そこは兵士達が集められる場所で「千人溜」と言われています。

 

そして丁度その前には、「戊辰戦争」で12~17歳の少年62名が動員され「大壇口の戦」に出陣した「二本松少年隊群像」が立ちます。激戦であったため、多くの少年兵が命を落とし供養の為に像が立てられています。

 

千人溜前の二本松少年隊群像 ↓

 

そこから少し下った所には「藩庁門」跡碑があり、当城の「大手門」に当たる「坂下門」は、そこから東に向かって丘陵地を超えた所にありました。

 

「藩庁門」跡碑 ↓

 

「丹羽光重」が入城して以来代々の藩主が望んでいた「櫓門」は、やっとのことで幕府からの許可が降りて1832年に完成しました。

 

江戸時代後半の建築ですので、現在残る櫓門台は「崩れ亀甲積み」と言われる積み方になっています。しかし「戊辰戦争」で焼失しますので僅か30年にしかその姿を領民に見せることが出来なかった櫓門でした。現在は、歴史資料館の敷地内になります。

 

大手門(坂下門)櫓台 ↓

大手門(坂下門)櫓台 ↓

 

また、そこから東側には「二本松神社」が建ちますが、「丹羽光重」が「白旗ケ峰」に鎮座していたのを、入国時に現在地に移し「御両社(ごりょうしゃ)と呼ばれていました。当寺以外にも、この辺りには防御施設として寺院が集まっていた所です。

 

二本松神社 ↓

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。


今日のお話は、「小谷城の戦い」の功績で北近江を得た「秀吉(藤吉郎)」と「秀長(小一郎)」が苗字を「羽柴」と替え、城持ち大名に出世します。そして「今浜(長浜)」にお城「長浜城」を築き、城下を発展させる施策を打ち出します。

 

そんな中「竹中半兵衛」からは、家臣づくりが必要だとの助言があり、城下で選考会を催した結果「石田三成」「片桐且元」「脇坂安治」が選ばれ、「秀長(小一郎)」には「藤堂高虎」が付けられました。

 

また後に「秀吉」の絶対的な家臣となった「加藤清正」「福島正則」が、成人になって登場してきましたね。よく知っている名前が次から次へと出てきます。

 

一方「織田信長」は「岐阜城」に戻り、「小谷城」で自刃した「浅井長政」の介錯をしてその後助けられた妹「お市」とその娘たちと対面を果たします。これまた本日、後の「淀君」となる「茶々」等が登場しましたね。

 

ということで、今回は「長浜城」(滋賀県長浜市)を、過去に掲載したブログの中からピックアップしましたので、どうぞご覧ください。

 

 

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

本丸と二の丸に桝形門を配備した厳重な構えの「山形城

山形県山形市

●歴史と城主

1356年に、「斯波兼頼」が山形に城を築いたのが最初で、その子孫が苗字を「最上家」と改称します。

 

「最上義光(よしあき)」の時に「山形城」を拡張して近世城郭化を進め、「関ケ原の合戦」の東北版の「長谷堂(はせどう)城の戦い」で武功をあげたので57万石の大大名になります。

 

しかし、「義光」の孫の代に家臣の争いを収めきれず所領没収となり、「徳川家康」の忠臣だった 「鳥居元忠」の子「忠政」が入城して大城郭に改修します。

 

その後は、親藩や譜代大名の出入りが12家も続きます。特に、3代将軍の「徳川家光」の異母弟である「保科正之」が城主であった時は、20万石の立派なお城に変貌しましたが、その後入城する大名は、「幕政」で失政を行った譜代大名の左遷先のお城となり、次々に石高の少ない譜代大名が入り、最後の城主「水野家」は石高も5万石まで減少していったので、大城郭を維持することや修築がままならない状況でした。

 

戊辰戦争では、「水野家」に新政府から「庄内藩」討伐の命令が出ますが、「奥羽越列藩同盟」に参加したことから賊軍扱いとされます。「庄内」と「久保田」へ転戦しますが、主要な同盟藩が降伏したので、当藩も降伏します。

 

お城の概要と特徴

立地と縄張り>

さて当城は平地に築かれた「平城」です。「縄張り」は、ほぼスクエアな「本丸」を中心に、「二の丸」「三の丸」が堀を隔てて取り囲む「輪郭式」の縄張りです。

 

「本丸」には「天守」を設けなかったですが、「御殿」と三隅に「月見櫓」などの「櫓」が設けられ、「二の丸」との出入りは「一文字門」と「北大手門」の2門あり、いずれも枡形構造を採っていました。

 

「二の丸」から「三の丸」への出入口は、最上時代には5つの虎口がありましたが、その後は「北不明門」「東大手門」「南大手門」「西大手門」の4つになり全て石垣で枡形を形成していました。

 

縄張り図(パンフレット) ↓

 

それでは今回は、「三の丸」から「二の丸」へ入る4つの虎口の内、メイン虎口である「東大手門」から入り、「本丸」跡を見てから「三の丸」跡の遺構を紹介します。

 

<二の丸>

現在の「東大手門」は、明治時代に喪失していましたが1991年に山形市政100周年事業として、木造によって復元されました。

 

正面には「高麗門」、右側に「北櫓」、左側に「櫓門」と「続櫓」が配置されて、周囲を石垣と「土塀」に囲われた桝形を通って左へ入ります・櫓門・続櫓・北櫓・土塀によって囲われた非常に堅固な枡形を形成させ非常に立派な門に仕上がっています。

 

復元「高麗門」 ↓

復元「東大手門」の「高麗門」と「東大手門橋」 ↓

復元「東大手門」の「高麗門」 ↓

復元「東大手門」の「渡櫓門・続櫓」(枡形内から) ↓

復元「東大手門」の「渡櫓門」 ↓

 

 

「東大手門」の手前には、「堀」を渡る「東大手橋」が架かりますが、現在その下はJR「奥羽本線」の線路となっていて、時々「山形新幹線」の車両が走り抜けていきます。

 

堀跡を走るJR奥羽本線 ↓

 

「高麗門」の中に入ると桝形がかなり大きい面積をとっています。「櫓門」を抜けると「二の丸」跡ですが、「櫓門」の大きさは半端ない大きさです。高さは約13m、桁行約32m、奥行き約8mと巨大です。

 

復元「東大手門」の枡形内(かなり広いスペース) ↓

「渡櫓門」の門扉 ↓

「東大手門」の「渡櫓門」と「土塀」を城内から見る ↓

 

「東大手門」を入ると目に飛び込んでくるのが「最上義光(よしあき)」騎馬像で、「長谷堂の戦い」に馳せかける勇壮で躍動感溢れる姿が描かれています。

 

「東大手門」の城内側に立つ「最上義光」騎馬像 ↓ 

 

「三の丸」に繋がる他の「大手門」を紹介しておきます。現在「南大手門」跡は、桝形となった石垣の間を道路が通り抜け、自動車の行き来も有りますが、当時のまま残されています。

 

「南大手門」跡の石垣 ↓

「南大手門」跡の石垣(枡形) ↓

「南大手門」跡脇の「雁木」 ↓

「南大手門」跡前の「二の丸堀」 ↓

 

次に「二の丸西不明門跡」も桝形構成の門で、2基の櫓が監視していました。

 

「二の丸西不明門」跡 ↓

「二の丸 西不明門」跡の向かって右側の水堀  ↓

 

また「二の丸北不明門」跡ですが、こちらも桝形を形成していましたが、現在は少し崩れた状態です。ただ、巨大な櫓台や門台等を持った石垣の門であることが解ります。

 

「二の丸北不明門」跡 ↓

「二の丸北不明門」跡(城内から) ↓

「二の丸北不明門」跡石垣の裏側は「土塁」になっている ↓

 

「二の丸」の周囲は高さと勾配が際立った「土塁」によって囲われていて、その各隅には「未申櫓」「艮櫓」等を建てつつ横矢を掛けていました。現在でも櫓台の遺構が残るとともに、「土塀」が建っていた痕跡の遺構も見られます。

 

「二の丸北側の土塁」「土塁上から見下ろす」 ↓

勾配のある「二の丸北側土塁」 ↓

「二の丸坤櫓台」 ↓

「土塁上の土塀」跡 ↓


「二の丸艮櫓台」 ↓

「横矢が掛かる土塁」と「土塀」跡 ↓

 

<本丸>

それでは「本丸」跡を見ていきます。現在は、「一文字門」に渡る「大手橋」と門の石垣それに桝形を取巻く土塀が復元されています。その上に建つ「一文字櫓」と呼ばれる櫓門の復元の話もあるようで、外観が解る写真や図面などの展示とともに発掘調査も行っています。「一文字門」の謂れですが、この予想図面を見ると「櫓門」が「一」に見えることから名づけられたそうです。

 

復元された本丸「一文字門」と橋 ↓

復元「一文字門」の「高麗門」 ↓

復元「一文字門」の「高麗門」と「土塀」に囲われた桝形 ↓

「一文字門」の完成予想絵図 ↓

 

また、「本丸」の東側と南側の「内堀」は埋め立てられていましたが、掘り返して土塁とともに復元されています。

 

復元された「内堀」(西側土塁、空堀) ↓

復元された「内堀」と本丸に架かる「埋門」橋の土塁 ↓

 

<二の丸跡南東隅>

「二の丸」南東隅の「霞城(かじょう)公園」には、レトロで色彩も良く目立つ「山形市郷土館」が建ちます。こちらは。「旧済生館病院本館」で1878年に完成した建造物で重文指定されています。 

 

「山形市郷土館」(旧 済生館病院本館) ↓

「山形市郷土館」(旧 済生館病院本館) ↓

 

<三の丸> 

「三の丸」は、上・中級家臣の屋敷が建ち、11の門が置かれ東側には「大手門」が設えられて、いずれも枡形構造でした。現在、東側に「三の丸土塁」が一部残っている所が有ります。

 

「三の丸」土塁 ↓

「三の丸」土塁 ↓

 

  <城外の移築城郭建造物>

「山形城」の東側にある「黒山実光院本堂」や「万松院山門」に、それぞれ御殿と城門が移築されていますので、古い「山形城」を偲ぶことができます。

 

「御殿」の一部(現在は「黒山実光院本堂」) ↓

城門(現在「万松院山門」) ↓

 

因みに「最上義光」死後は、最上家の内紛によって最終的には5,000石まで落とされましたが、名門の「家」であることから、幕府の「高家」として存続しました。

 

また城主となった中に「松平直矩」が数年間統治しました。「直矩」は「引越大名 三千里」という映画のモデルになった大名で、彼は当城から7回目の転勤先のお城「小峰白河城」へ異動していきました。

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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家康から出羽国に追いやられた「佐竹家」が造った土のお城「久保田城

秋田県秋田市

城主と歴史

常陸国に中世以来統治していた「佐竹家」の当主「佐竹義宣(よしのぶ)」は、北方の「伊達家」や西方の「後北条家」の圧力に屈することなく自領を守り、「石田三成」を通じていち早く「秀吉」とよしみを持ったことから常陸国と下野国の一部を安堵されました。

 

しかし、小田原攻めで「後北条家」の領地は「徳川家康」に与えられ、常陸国に領地を持つ「佐竹家」が「家康」にとって邪魔になる存在であったことから、「義宣(よしのぶ)」が「関ケ原の合戦」や「会津攻め」に参加しなかったことを理由に、出羽国に追いやるとともに大幅な領地削減を行いました。

 

「義宣」は、「出羽国」の土崎湊に入りましたが、すぐに「久保田城(1642年に窪田城から改名)」を築き、その後、「佐竹家」はここを統治の中心地として幕末まで続きました。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

「久保田城」は、旭川東側の丘陵地を利用した平山城で、二段に形成された「本丸」と「二の丸」が「内堀」に囲われ、「二の丸」の南から東南にかけて拡がる「三の丸」や「本丸」北側に拡がる「北の丸」は、外堀で守られていました。

 

久保田城絵図 ↓

 

今回は、登城コースに沿って「三の丸」から「二の丸」「本丸」と向かいます。

 

<三の丸>

「大手門」は、「三の丸」の南東隅にありましたが、メインの入口は「中土橋」という土橋から入城します。両脇には幅広い「大手門の堀」と「穴門の掘」の両「外堀」が横たわり、夏にはその中から「睡蓮(スイレン)」の葉っぱが水面を覆うとともに、ピンクの蓮の花が美しく咲き乱れます。

 

大手門跡から城郭方向 ↓

大手門の堀と中土橋 ↓

大手門の堀と三の丸跡 ↓

穴門の堀  ↓

 

「三の丸」には当時「武家屋敷」が並んでいましたが、現在は学校の敷地が大半です。丘陵の山麓沿いには「内堀」が掘られていてその名残が見られ、そこから右手に坂道が続き途中には「松下門」があり、登り切った所が「二の丸」になっています。

 

内堀 ↓

松下門跡 ↓

 

東側の「三の丸」にも侍屋敷があって、そこからも登城コースとなっていました。そこには「二の丸御門(黒門)」が置かれていて「二の丸」の入口となっていましたが、当時はこちらが正規ルートだったようです。

 

黒門跡脇の東堀 ↓

黒門跡碑と礎石 ↓

 

二の丸

「二の丸」は「本丸」東側の崖下に帯曲輪状に置かれ「馬場」として使用されていたようです。現在は庭園となって素敵な「二の丸胡月池」の灯篭があります。

 

二の丸(本丸東側)馬場跡 ↓

二の丸胡月池の灯篭 ↓

 

登城ルートは、ここから「長坂門」を経て上がっていきます。「長坂門」の周囲には当城では珍しく「土塁」下に石垣が少し見られる「腰巻石垣」を採用しています。

 

「久保田城」は「土塁」を多用したお城造りがされており、石垣は虎口や土塁の下部に一部使用されるだけでした。これは、「佐竹家」の中にも、秋田にも石工技術者がいなかったことによるものらしいです。

 

「長坂門」跡(二の門、上から見下ろす) ↓

「長坂門」脇の腰巻石垣(土塁下の石垣) ↓

 

さらに上ると「本丸表門」に辿り着きますが、その手前には大きな「御物頭(おんものがしら)番所」が置かれ登城者を監視していました。

 

「御物頭番所」は18世紀後半に建築された城内唯一の現存城郭建造物です。切妻造で杮葺き、中は座敷になっていて、床の間のある部屋もあります。秋田市の指定文化財に指定されています。

 

「御物頭番所」(現存18世紀後半建築、切妻造で杮葺き、市文化財) ↓

「御物頭番所」 ↓

「御物頭番所」床の間のある座敷 ↓

 

本丸

「本丸」正面に建つ「表門」は城内最大規模の「櫓門」形式の「本丸」正門です。1階部分が「素木造り」、2階が「真壁造り」の古風な意匠を伝える門で、江戸期には何度かの焼失があり再建されています。現在の櫓門は、2001年に絵図に基づき再建された復興櫓門です。

 

復興表門(一の門、櫓門) ↓

復元表門(本丸側から) ↓

 

「本丸」の表門の正面に「本丸御殿」がありました。周囲は「多門長屋」と「板塀」で囲み、「表門」「裏門」「帯曲輪門から土門」「埋門」の四か所に出入口がありました。

 

表門前の「本丸御殿玄関」付近 ↓

多門長屋跡(土塁上に、この先に隅櫓) ↓

裏門跡 ↓

帯曲輪門跡(本丸から帯曲輪に抜ける) ↓

土門跡(帯曲輪門からの道) ↓

埋門跡 ↓

 

そして、天守は築かれず、天守代用として書院風の二階建て「御出し書院(おだししょいん)」を建てました。「御出し書院(おだししょいん)」は、元々は「御三階櫓」でしたが、台風で最上階が倒壊したので、重層の櫓座敷に改造したらしいです。唐破風造りの大きな物見窓が付き、藩主が来客をもてなす際に使用されたようで、古写真にも残ります。

 

御出し書院(本丸南西隅の高台に建てられ天守の代わり)跡 ↓

御出し書院跡の上 ↓

御出し書院と穴門橋の古写真(城内で掲載写真) ↓

  

「櫓」は城内に8基(本丸に二重櫓4基、二の丸に二重櫓4基)あったそうです。

 

現在「本丸」の北西隅に建っている「新兵具御隅櫓」は、三重四階で模擬で再建された櫓ですが、当時は二重櫓で城内最大の大きさだったので、天守代用となっていたようです。壁面は、1階は「下見板張り」で、上階は「白漆喰総塗籠め」になっています。

 

摸擬隅櫓(北東側から、櫓は全部で8基あった) ↓

摸擬隅櫓(北西側から) ↓

摸擬隅櫓(望楼部分) ↓

摸擬隅櫓(1階の下見板張り) ↓

摸擬隅櫓内(RC造りだが内部はウッディ) ↓

摸擬隅櫓内(RC造りだが内部はウッディ) ↓

摸擬隅櫓内最上階 ↓

摸擬隅櫓から秋田市内を望む ↓

 

その他「門」が「二の丸」に8基、「三の丸」に7基あったようです。

 

城下他

「久保田城」の遺構が、周辺のお寺に移築されています。

 

一つは「御裏門」で、元々楼門であったのが平屋に改築されて「鱗勝院」(秋田市旭北寺町)の山門として再利用されています。また「城門」が、「休宝寺」(秋田市土崎港)の山門になっています。

 

本丸裏門(鱗勝院山門、楼門から平屋に改築、裏御門坂あがった場所にあった、現在礎石あり) ↓

城門(現 休宝寺山門、薬医門) ↓

 

 

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「小幡陣屋」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の「最強の城 スペシャル」は、「美をまとう城」をテーマに5城がピックアップされて紹介されました。


いつものメンバーに加えて、ファッションモデルという「美」を表現するお仕事をしている「アンミカ」さんが特別出演して、お城の美について素晴らしいコメントを奮発していたのが印象的でした。

 

5城で紹介された各お城の箇所を掲載している今までアップしたブログを下に貼りつけていますので、また復習でご覧ください。

 

まず1城目は「二条城」(京都府京都市中京区)、「二の丸御殿」の各部屋の襖や壁に描かれた絵画や「釘隠し」にスポットが当てられていて、初めて聞くお話もあり勉強になりました。

 

特に「御殿」内の「釘隠し」のデザインが、「熨斗」のアワビを包む奉書紙の形に因んでいるとのことでした。

 

二条城「二の丸御殿」 ↓

二条城「二の丸御殿」 ↓

 
 
2城目は「彦根城」(滋賀県彦根市)の「玄宮園」「槻御殿」内にある「茶室」で藩主が優雅に嗜むことや、「二の丸御殿」内に築かれた「能舞台」(現在再移築)で客人をもてなすという生活の中での美を紹介。特に「能舞台」の床下には能を演じる人の足音が良く聞こえるような音響効果が施されていることが紹介されていました。
 
また「天守」に多数付けられた「破風」「華頭窓」が装飾美を放っていることも。
 

「彦根城」天守の様々な装飾 ↓

「彦根城」池泉回遊式庭園「玄宮園」内の数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」 ↓

「彦根城」二の丸御殿内の能舞台 ↓

 
 
3城目は、「小幡陣屋(小幡城)」(群馬県甘楽郡甘楽町)で、お城の多くのスペースを割いて池泉回遊式「庭園」を設けているお城です。
 
当城は「織田信長」の息子「織田信雄」が築いたお城で、「信長」の文化的センスが息子にも受け継がれてできた庭園であることが強調されていました。(下のブログはだいぶ以前に掲載したものですので庭園の写真もイマイチですが・・・)
 
「小幡陣屋(小幡城)」 ↓
4城目は「松本城」(長野県松本市)、5基の建造物の「天守群」そのものが「美」を醸し出していますが、特に平和な時代になり将軍「家光」を当城に迎えるにあたり「月見櫓」を増築した櫓で、周囲を朱色の「廻縁」で囲い開放的な部屋を演出しています。
 
「松本城」天守群 ↓

最後5城目は「金沢城」(石川県金沢市)、石垣の博物館と言われるほど、色々な積み方、形、色彩が豊富な石垣が見られるお城です。

 

「前田家」は、100万石という太守でしたので、幕府に目を付けられないように、石垣には戦闘的なことを出さずに文化・芸術的な面に軸足を置いて築いていたのが良く判ります。特に「玉泉院丸」の「色紙短冊積み石」は色・デザイン共に秀逸です。

 

 

 

 

 

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“伊達政宗”が築いた守りが堅固だがダテで優美な「仙台城

宮城県仙台市

● 城主(藩主)と歴史

「仙台城」は「伊達政宗」が、1600年に築城に着手し1602年に一応完成したお城です。

 

「政宗」が「仙台城」を築城する前は、「岩出山城」(宮城県大崎市岩出山)に12年間居城していましたが、統治していた領地の西に偏っていることや主要街道から外れている事、また城下町が狭いので不満を持っていたとのことです。

 

「伊達家」の領地のお話を少ししておきますと、元々は「米沢城」を中心に会津地方を領していました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原攻め」をきっかけに東北の諸大名にも、「小田原」に出向いて臣従を誓うことを求めましたが、「伊達政宗」は最後まで抵抗し、最終的には死に装束である白装束で「秀吉」の前に現われ臣従を誓ったというエピソードも残ります。

 

その結果、会津地方を「秀吉」に取られて石高数を減らされ、「政宗」の父親の代から城主であった本拠地「米沢城」から「岩出城」に移り住むという経緯がありました。

 

「秀吉」没後は、「徳川家康」に近づき、娘を「家康」の息子「松平忠輝」に継がせ、「関ケ原の戦い」では東軍に属したことから、戦後は加増され62万石となり「仙台城」を築くことになりますが、それは、関ケ原の戦い後すぐということもあり、後方には豊臣方の「上杉家」が控えていたので、南側の徳川方を防御する役割を担う築城を求められました。

その後は、幕末・維新まで「伊達家」は当城の城主として領地を治めます。

 

更には、「大坂夏の陣」で長男「伊達秀宗」の戦功によって、「宇和島城」を与えられここも幕末・維新まで「伊達家」によって統治されます。

 

維新の「戊辰戦争」(1868年)では、「仙台藩」が「奥羽越列藩同盟」の「盟主」となり、新政府に対して「会津・庄内藩」が“朝敵”であることを赦免嘆願する書状を「総督府」に提出しました。

 

しかしそれが却下されてからは、奥羽全体の命運をかけて新政府軍と全面戦争に突入します。当初は進撃しましたが、「三春藩」の裏切り、「久保田藩」とその同調藩の「同盟」からの離反、更には「同盟」主力の「米沢藩」も投降したことで、「仙台藩」藩主「伊達慶邦」は降伏しました。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

「広瀬川」が形成した河岸段丘面を利用して最高値に有る「青葉山段丘」を「本丸」として、各段丘面の高低差を巧く使用して「二の丸」「三の丸」を設けています。

 

「本丸」は山城となり防御性を重視した城郭で、千畳敷と呼ばれた「大広間」、書院や大台所等の御殿が建ち当初は4基の三重櫓と1基の二重櫓が建っていましたが、1646年の地震で倒壊した後は築かれませんでした。

 

「二の丸」は、2代藩主「忠宗」が、晩年の「政宗」の隠居城であった「若林城」の「御殿」を移築して、「藩主」の私邸と藩庁として増改築されます。

 

「三の丸」は、当初は「政宗」の茶室や庭園が置かれていましたが、その後は米蔵、酒造屋敷等が置かれました。

 

仙台城俯瞰絵図 ↓

広瀬川沿いの石垣 ↓

仙台城本丸遠景(広瀬川から) ↓

 

<三の丸>

今回は、「三の丸」→「二の丸」→「三の丸」と攻めていきます。

 

「三の丸」は、築城当初は、「政宗」が使用した茶室や庭園が置かれていましたが、その後は「蔵屋敷」や年貢米を保管する「御米蔵」が並んでいました。北側には「子(ね)の門」が、南側には「巽門」が置かれていました。二階門だった「巽門」は戦前まで現存していましたが、戦災で焼失してしまい、現在では礎石のみ見ることができます。

 

「子の門」跡(三の丸北の入口) ↓

「巽門」跡の礎石 ↓

 

「三の丸」の敷地は、堀替わりの「五色沼」と「長沼」に囲われ、更には周辺を土塁で固めた曲輪でした。現在は、「仙台市博物館」の敷地になっています。また、その裏側には、非常に精悍な顔つきの「伊達政宗」胸像が立ちます。 

 

堀替わりの「五色沼」 ↓

堀替わりの「長沼」(左には広瀬川、右は三の丸土塁」 ↓

三の丸東側の土塁 ↓

「伊達政宗」胸像(三の丸跡) ↓

 

「三の丸」の北エリアから東エリアにかけても城域は拡がっていて、「登米伊達家」「水沢伊達家」の武家屋敷が並んでいた敷地で、現在は行政諸施設や公園となっています。

 

「登米伊達家」「水沢伊達家」の武家屋敷が並んでいた敷地 ↓

 

「三の丸」或いは「二の丸」から、「本丸」へ至る登城路は、2ルートありました。

①   一つは、「大手門」から入り南側に向かう結構きつい上り坂ですが、途中に「中の門」「沢の門」を通って本丸北面の高石垣前に出るルートです。

 

②   もう一つは、「三の丸巽門」脇から延びる登城路で、「酒蔵」跡の前を通り「清水門」を抜け急坂を上って「沢の門」で前述のルートに合流する道です。

 

それでは①のルートから登城していきます。

 

<二の丸>

「二の丸」は、「政宗」の子女の屋敷が建っていましたが、2代藩主「忠宗」の時に、「若林城」の御殿を移築してきて、藩主の私邸と藩庁として使用されるようになります。現在の「二の丸」の跡地は、「東北大学」川内(かわうち)キャンパスになっていて大学の建物が建っています。

 

「二の丸御殿」跡(現在 東北大学川内キャンパス内) ↓

二の丸「詰の門」跡付近(二の丸の入口) ↓

 

「二の丸」東側には、桃山形式の立派な「大手門」がありましたが、その脇にあった「隅櫓」とともに太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。現在は、「隅櫓」が復元されている他、「城壁の太鼓塀」が一部現存しています。その「大手門」は名護屋城の城門で「豊臣秀吉」から下賜されたと言われています。

 

因みに、「大手門」の図面などが残っているので再建を検討されているようです。

 

復元「隅櫓」と「太鼓塀」の間は「大手門」跡(戦災で焼却) ↓

焼失前の「大手門」と「隅櫓」 ↓

復元「大手隅櫓」 ↓

現存「太鼓土塀」と復元「大手隅櫓」 ↓

現存「太鼓土塀」 ↓

現存「太鼓土塀」と復元「大手隅櫓」 ↓

 

「大手門」から入り南側に向かうと結構きつい上り坂になる車道ですが、途中に「中の門」「沢の門」を通って本丸北面の高石垣前に出ます。

 

「中の門」跡 ↓

「中の門」跡 ↓ 

「沢の門」跡(二つの登城ルートがここで合流) ↓

 

もう一つのルートでは、「三の丸巽門」脇から延びる登城路で、「酒蔵」跡の前を通り「清水門」を抜け急坂を上って「沢の門」で前述のルートに合流する道です。

 

「酒蔵」跡 ↓

「清水門」跡(既に工事は完了済) ↓

「清水門」跡から「沢の門」跡へ通じる登城ルート ↓

 

<本丸>

「沢の門」から坂道をどんどん上がっていった正面には高石垣が見えます。「本丸」の北側に、「切込接・布積み」の中でも「箱積み、木摘み」という積み方の堅固な高石垣で、角(隅)部分は「江戸切り」という丁寧な加工で稜線を際立たせています。

 

本丸北東の切込接布積みの高石垣 ↓

本丸北東の切込接布積みの高石垣 ↓

 

本丸正門は、二階建ての「詰門」とその両脇には三重の「東脇櫓」「西脇櫓」が睨みをきかせました。

 

本丸の俯瞰絵図 ↓

本丸「東脇櫓」跡石垣 ↓

「詰の門」跡左側石垣 ↓

「詰の門」跡右側石垣 ↓

「詰の門」跡右側石垣、奥に「西脇櫓」跡石垣 ↓

 

更に三重の「艮櫓」「巽櫓」と「酉門」脇の二重櫓が築かれ守りを固めていました。現在は、櫓跡の石垣が残るのみです。また、「天守」は建てられなかったけれども「天守台」は「護国神社」の脇にあります。 

 

「艮櫓」跡石垣 ↓

「巽櫓」跡 ↓

「護国神社」(本丸内、左奥に天守台) ↓

 

現在その脇には「本丸会館」「青葉城資料展示館」が建ち、仙台城や仙台藩の歴史が説明されています。

 

「本丸」の敷地には、「千畳敷」と呼ばれた「大広間」「書院」「台所」などの「御殿」が建ち並び、特に断崖絶壁に懸かる「懸造(かけづくり)」は、城下を一望できる「政宗」自慢の建造物であったようです。

 

「伊達政宗銅像」(本丸跡内) ↓

「本丸御殿」跡(現在は「大広間」の遺構表示整備がされている、左は断崖絶壁) ↓

「懸造」跡(崖上に数寄屋風書院造り建築物が懸っていた) ↓

「本丸」跡から望む仙台市内 ↓

本丸「埋門」跡 ↓

 

<城下、瑞鳳殿、仙台東照宮、観欄亭> 

「仙台城」と「伊達家」関連遺構が、城下周辺に多く残されています。

 

「仙台城」の唯一の城郭建造物である「城門(中門)」が、現在、「宮城県知事公館正門」(県指定文化財)に移築されています。ここへ移築前は、大正年間に「第二師団長官舎の門」として使用されていました。

 

「仙台城城門」(現在 宮城県知事公館正門) ↓

「仙台城城門」の門扉 ↓

 

「仙台城」の東側を流れる「広瀬川」越しにある丘陵地「経ケ峰(きょうがみね)」には、「伊達政宗」が遺言で場所指定した「廟所」があります。二代藩主「忠宗」によって、「御霊屋(おたまや)」である「瑞鳳(ずいほう)殿」が造営されます。

 

「御霊屋」は、本殿、拝殿、唐門、御供所(ごくしょ)から構成され、桃山形式の絢爛豪華な廟であります。近くには、二代藩主「忠宗」の廟所「感仙殿」と三代藩主「綱宗」の廟所「善応殿」が建ち、いずれも煌びやかな彫刻は眩い限りに造られています。

 

これら三つの廟所は、国宝指定されていましたが、太平洋戦争の戦火で惜しくも焼失してしまいました。しかし、「瑞鳳殿」は昭和54年に往時の姿に復元され、「善応殿」と「感仙殿」は昭和60年に再建されました。

 

焼失前の国宝「瑞鳳殿」 ↓

復元「瑞鳳殿」の「涅槃門」 ↓

復元「瑞鳳殿」の「中門」 ↓

復元「瑞鳳殿」の豪華絢爛の彫刻 ↓

復元「瑞鳳殿」の豪華絢爛の彫刻 ↓

復元「感仙殿」の霊廟(二代藩主「忠宗」) ↓

復元「善応殿」の霊廟(三代藩主「綱宗」) ↓

 

「仙台東照宮」は、1654年に二代藩主「忠宗」によって造営されたものであり、「随身門」や「唐門」が残り重要文化財に指定されています。

 

「仙台東照宮」の「随身門」 (三間一戸のハ脚門、重文) ↓

「仙台東照宮」の「唐門」(一間一戸の銅葺向唐門) ↓

 

仙台から少し足を延ばした「松島」にも、「伊達政宗」ゆかりの建造物が集まっています。

 

「豊臣秀吉」から「伏見城の茶室」の一棟を拝領したと言われている「観欄亭」が海岸沿いに建ちます。元々は、江戸品川の藩邸にあった建造物で、二代藩主「忠宗」がこの地に移築したものです。

 

「観欄亭」(重文、「伏見城茶室」の遺構) ↓

「観欄亭」縁側 ↓

「観欄亭」の「来賓の間」(床の間、襖、障子腰板に金箔、狩野派系統の絵師作) ↓

 

観欄亭」は京間18畳2室内で、藩主・姫君・側室等の松島遊覧や、幕府巡見使の宿泊・接待に使用されていたそうです。ここの縁側から望む「松島湾」は、一気に旅の疲れを癒してくれる素晴らしい場所です。

 

「観欄亭」からのぞむ「松島湾」 ↓

 

「政宗」を始め「伊達家」の保護の下に反映した「臨済宗 瑞厳寺」は、「本堂」や「庫裏」が国宝に、「御成門」「中門」等は重要文化財に指定されている由緒ある寺院です。

 

1646年創建で、「政宗」の孫「光宗」の霊廟である「円通院三慧殿」がある「円通院」、「政宗」の娘で「徳川家康」の息子「松平忠輝」の嫁になった「五郎ハ姫(いろはひめ)」の仮霊屋も残ります。

 

「松島」は、海岸の風光明媚な地形として有名ですが、前述のような歴史ある建造物が集積している歴史を体験できるエリアとなっています。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

古代大和政権が北方支配の為に設置した「多賀城

宮城県多賀城市

歴史と城主

「多賀城」は、平城京の律令政府が全国統一の一環として北方の「蝦夷」を支配する為の軍事拠点として設置したもので、724年に「大野東人(あずまびと)」が築き、平時は「国府(役所)」として機能しました。

 

8世紀から11世紀半ばまで置かれ、762年に第2期として「藤原朝獏(あさかり)」が改修を加えました。その後は反乱による焼失や大地震による倒壊や津波による被災がありその都度修築を重ねました。

 

当初は「陸奥国府」という位置づけでしたが、その後は「出羽国」まで監督下に置き、行政・経済・軍事の中心として機能しました。

 

江戸時代に土中から「多賀城石碑」が発見され、それは「藤原朝獏(あさかり)」が改修した時に建てられた記念碑と考えられています。

 

● お城の概要と特徴

縄張り

縄張りといいますかその範囲(外郭)は、一辺約1km弱の不整方形、周囲は土で押し固めた上に屋根を設けた「築地塀」を設けて、地盤軟弱な所は「材木塀」で取り囲んでいたようです。

 

不整方形の「外郭」(案内図パンフレット) ↓

 

「外郭」への出入口は、南・東・西にあり、特に「南門」は格式が高い「二重門」、「東門」と「西門」は「八脚門」であったようです。

 

重要な政務決済や儀式が行われた「政庁」は、お城のほぼ中央に置かれ、約100m四方の築地で囲まれていて、中央やや北側に「正殿」が、その手前両脇には「東脇殿」「西脇殿」、その他に「後殿」「東楼」「西楼」「翼楼」等が建っていました。

 

館前遺跡

「国府多賀城」駅前に横たわる「館前遺跡」ですが、ここは赴任した「国司の館」で、9世紀前半に建物が6棟建ち、それらの全面には庇付が付く格式高い建物だったとのことですが、この場所は「外郭」から外れた南東に位置します。

 

館前遺跡 ↓

 

<南門、多賀城碑>

木々が繁る小高い丘が見え、後ろには2025年4月に復元された「南門」が見えます。私が訪れたのは丁度シートの中で工事の真っ最中でしたので、完成の姿は見ていませんので、写真は「多賀城HP」からお借りしたものです。

 

復元「南門」 (写真は「多賀城HP」からお借りしたもの) ↓

復元「南門」 (写真は「多賀城HP」からお借りしたもの) ↓

 

その西側には、2024年に国宝指定された「多賀城碑」が屋形に包まれて立っています。屋形姿はよく写真で見ていましたが、中の碑石に奈良時代に刻まれた文字を目の前で直に見ることが出来て、奈良時代がこんなに身近に感じたことは初めての体験でした。

 

国宝「多賀城碑」の屋形 ↓

国宝「多賀城碑」の屋形 ↓

 

碑面に刻まれている内容は、「多賀城の位置」「大野東人(あずまひと)による724年の創建」、「藤原朝獏(ふじわらのあさかり)による762年の改修」についてだそうで、「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれています。 

 

国宝「多賀城碑」(奈良時代に刻まれた文字が生で直視できます) ↓

国宝「多賀城碑」(奈良時代に刻まれた文字が生で直視できます) ↓

 

築地塀跡>

復元「南門」が建つ木々が繁った小高い丘から見下ろせて東側に延びる土塁状のようなモノが走ります。

 

東へ延びる「土塁状」のようなモノ ↓

木々の所が「南門」と「多賀城碑」が建つ小高い丘 ↓

 

その土塁状のものは、「外郭南辺の築地(ついじ)」跡であり、更にはその中央辺りに突き出た三本の柱が建つ場所が、「築地塀」に取りつく「櫓の土壇」で、これらは、発掘調査で判明したそうです。

 

「外郭南辺の築地跡に取りつく「櫓の土壇」 ↓

発掘時の状況(現地の説明板写真より) ↓

推定復元図(現地の説明板写真より) ↓

 

その南側の堀状の池は、当時この辺りは湿地帯であったのでそれを表現しているらしいです。

 

湿地帯の再現と「築地塀」跡 ↓

外郭の南東隅 ↓

 

<南北大路、政庁跡>

「多賀城碑」屋形に戻り、その脇を通り抜けて自動車道を越えた所に、「政庁」に通じる「南北大路(おおじ)」が見えます。

 

「政庁」に通じる復元「南北大路」 ↓

「南北大路」にある再現「排水用石桝」 ↓

 

幅23mもあるという「南北大路」の茶色の復元道は、途中から石段でグッと上へ向けて登って行くように見えます。その上が「政庁」跡です。当時、この幅広の大路の先に建つ「政庁」はまるで空に浮かぶ船のように見えたのではないでしょうか。

 

はるか先に見える「石段」と登り切った所にある「政庁」跡 ↓

 

この長い「大路」を進みますと、右手には「城前地区」と言われるエリアがあり現在建造物を復元中でした。

 

「城前地区」内で建造物を復元中 ↓

 

「石段」を上るにつれて、前には徐々に見えてくる「政庁」跡、後ろを振り向くと真直ぐ延びる「南北大路」先には「南門」(復元中の写真)が見下ろせます。

 

「石段」を上がれば「政庁」跡 ↓

「南北大路」先には復元中の時の「南門」 ↓

 

「石段」を登り切ると解説板と第二期の8世紀後半時を想定した「政庁」の推定模型が展示されています。目の前に拡がる礎石の各建物名やその当時の姿を思い浮かべることができます。

 

第二期「政庁」の推定模型 ↓

 

一番南には「政庁南門」が横たわり、その「礎石」エリアの両脇の土塁のような所には「翼楼」が建ちその延長は「築地塀」が取り囲んでいたようです。

 

「政庁南門」跡エリア表示と「礎石」 ↓

「政庁南門」の推定図(現地に掲出) ↓

「政庁南門」跡両袖には「翼楼」跡 ↓

 

「南門」エリアの北側には石壇となっている「正殿」跡とその「礎石」を見ることが出来ますが、その間は、ゴツゴツした石畳になっています。

 

「正殿」跡の石壇 ↓

「正殿」跡前の「石畳」 ↓

 

「正殿」の「礎石」はやはり大きいものですが、敷地はそんなに大きなモノではないという印象です。ただ、推定復元図を見る限りでは非常に立派な建造物であったようです。

 

「正殿」の推定図(現地に掲出) ↓

「北殿」跡のエリアと礎石、奥には「正殿」跡 ↓


「正殿」の手前の東西には「脇殿」が置かれ、その後ろには東西「楼」が建っていたようです。そして「正殿」の後ろには「後殿」のエリアと礎石が見られました。

 

「東楼」跡のエリアと礎石 ↓

「東殿」跡のエリアと礎石 ↓

「政庁東殿」の推定図(現地に掲出) ↓

「筑地塀」の「東殿」 ↓

「政庁」跡周囲の「築地塀」跡 ↓

 

 

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