5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「舞子」からすぐ近くの「明石藩」の「明石城」(兵庫県明石市)へ登城しました。

 

JR「明石駅」を降りるともうすぐに重要文化財の「巽櫓」と「坤櫓」が目に入ります。

 

「明石駅ホーム」から ↓

 

駅の北側には幅広の「中堀」が横たわり、橋の向こうには「太鼓門(大手門)跡」の巨大な桝形門跡があり、突き当たって右折れして更に左折れすると広々した「三の丸」跡に出ます。

 

「中堀(現在は「外堀」ともいう、東方向) ↓

「中堀(現在は「外堀」ともいう、西方向) ↓

「明石城跡」碑と坤櫓・巽櫓 ↓ 

「大手門(太鼓門)」 ↓

「大手門(太鼓門)」(「三の丸」跡側から) ↓

 

ではここで「明石城」の歴史と城主についてお話をしておきましょう。

 

「大坂の陣」の戦功で明石、三木など10万石を与えられた「徳川家康」の曾孫「小笠原忠真」は、「徳川秀忠」から西国大名に睨みを効かせる目的で明石にお城を築くよう命じられました。

 

1619年に「建部政長」等を普請奉行として派遣して、普請費用も幕府が全面的に負担し、「三木城」「船上(ふなげ)城」「高砂城」等の部材も使用しながら1620年に完成しました。

 

1632年「忠真」は、「小倉城」へ移封となりますと、その後も抑えとして「戸田松平家」「大久保家」「藤井松平家」「本多家」等の譜代大名が入城し、1682年以降は「越前系松平家」の「松平直明」が入城、以降「越前松平家」が幕末・維新まで領有します。

 

明石城」の縄張りは、西側から東側にかけて延び、西側の最も低いところが「山里曲輪」、一段上が「稲荷曲輪(西の丸)」、更に一段高い位置に「本丸」「二の丸」「東の丸(旧三の丸)」が一直線に並ぶ「連郭式」縄張りで、特に「本丸」から「東の丸(旧三の丸)」にかけては、南側、北側ともに高石垣で防御を固めています。また北側には堀と樹木地を挟み込む「北の丸」を置いて北側からの守りも固めています。

 

「天守」は建てられませんでしたが、「天守台」だけを設けて五重「天守」が建てられる規模の大きさで、「坤櫓」の後ろに築かれています。

 

最後の砦となる「本丸」~「東の丸(旧三の丸)」の各曲輪は、万一、西国外様大名が攻めてきても、「明石城」で食い止めるとの強い意思が感じられるお城となっています。

 

また、この連郭式の高石垣の南側の平地は「本三の丸」と呼ばれて「下屋敷」となっていましたが、1628年の「本丸御殿」の火災以降は、「本丸」に御殿を再建せずこの場所に「居屋敷」を建てて藩主の御殿、藩庁として利用しました。

 

「縄張図」(「史跡明石城跡保存活用計画」資料から) ↓

 

 

さて、広大な「三の丸」跡の東側半分が、「宮本武蔵」造園の庭と言われ、「小笠原忠政」の命を受けて作庭したもので、樹木屋敷・泉水・築山・滝を設けた城主の遊興場所となっていました。

 

「宮本武蔵」造園の庭の入口門 ↓

「宮本武蔵」造園の庭内の東屋 ↓

「宮本武蔵」造園の庭を復元

 

「宮本武蔵」は架空の人物と思っている人が多くいるようですが、江戸時代の初めに活躍した剣術家です。「小笠原家」等の大名家に仕えた兵法家であり、芸術家でもありました。「明石藩」では、町割りを始め、明石城や寺院の作庭をしています。

 

「三の丸」跡の西半分は、「本丸御殿」が焼失後は「居屋敷」として使用し、周囲を「内堀」で囲っていましたが、現在では「内堀」は埋められ「野球場」「三の丸公園」になっています。ここからは、「高石垣」上に並ぶ重要文化財の「坤櫓」や「巽櫓」が良く観察できる上に写真撮影もいいポジションになるので結構沢山の写真を撮りました。

 

「三の丸 居屋敷」跡(現 野球場) ↓

重文「坤櫓」 ↓

重文「坤櫓」 ↓

重文「巽櫓」 ↓

重文「巽櫓」 ↓

 

「本丸」跡へは、「二の丸」跡下の高石垣を上って行き途中で折り返して「二の丸虎口」である「大の門」跡に入ります。この門は「櫓門」だったようで右折れし左折れして「二の丸」跡に入ります。

 

「二の丸」跡の「高石垣」(左の空間は「空堀」) ↓

この坂道を上り途中で折り返し更に上ります ↓

途中から折り返して上がる坂道 ↓

上りきって右へ「大の門」跡を抜けると「二の丸」跡 ↓

 

「二の丸」跡から両サイドが「空堀」となっている「土橋」を渡り「番の門(本丸東の門)」跡を抜けると「本丸」跡です。

 

重文「巽櫓」(「空堀」手前から) ↓

「番の門(本丸東の門)」跡の向こうは「本丸」跡 ↓

「本丸」跡(「番の門」跡前から) ↓

 

左手には「巽櫓」が大きく迫り裏側が見えますが、「本丸」側には全く窓はありません。「巽櫓」と「坤櫓」の丁度真ん中に高いプラットホームが設けられて「土塀」越しに「三の丸」跡や周囲の遠望を楽しめるようになっています。両櫓の間には、阪神淡路大震災後に土塀が築かれて一体感が出るようになりました。

 

重文「巽櫓」(裏から見ると窓は無い) ↓

重文「巽櫓」と「土塀」 ↓

「土塀」越しに見る「三の丸」跡とJR・山陽電鉄の「明石駅」 ↓

「土塀」の「鉄砲狭間」から見た「三の丸」跡 ↓

「土塀」の「矢狭間」から見た「三の丸」跡 ↓

 

「坤櫓」の裏側はというと、「巽櫓」に比して窓は何箇所か見られる上に、格式を高める幾つかの装飾が施されています。一つは、二重目の東面の屋根瓦の破風が「千鳥破風」と「唐破風」が重なる「重ね破風」が採用されています。

 

重文「坤櫓」(窓は数か所ある) ↓

格式がある「重ね破風」(名古屋城の「西南隅櫓」、二条城の「西南隅櫓」にもあります) ↓

 

もう一つは、最上階の「入母屋破風」内の妻側に「木連(きづれ)格子」が採用され赤く塗られています。こういうこともあって「坤櫓」は、「伏見城」からの移築櫓だと謂われています。

 

重文「坤櫓」

重文「坤櫓」妻側に格式を持たせた赤い「木連(きづれ)格子」 ↓ 

 

「坤櫓」の後方には、五重天守が建てられるほどの面積を取った「天守台」がありますが、そこに「天守」は建てられていません。

 

「天守台」の東面 ↓

「天守台」上 ↓

 

「天守台」の北側に林になった中に盛り上がった所がありますが、そこは「人丸(ひとまろ)塚」と呼ばれています。880年頃に楊柳寺の住職が「柿本人麿呂」のお告げがあって以来「人麿公」を祀ったとか。「明石城」が造られてからはお城の守り神として祀ったそうで、「本丸御殿」があった時は庭園の一部として取り込まれていたそうです。

 

「人丸塚」 ↓

 

その替りに、「本丸」4隅に三重櫓を設けてその間には「多門櫓」が防備を固めていました。4隅の三重櫓の内現存しているのは、先ほど来記載している両櫓(巽櫓と坤櫓)で、残り「艮櫓」は明治時代早々に解体されて学校建築に建材として提供し、傷みが激しい「乾櫓」は1901年に解体されました。

 

「多門櫓」跡(北方向) ↓

「乾櫓」台 ↓

「乾櫓」台上の礎石と「多門櫓」台(南方向) ↓

「艮櫓」台 ↓

 

「本丸」跡には北側に「稲荷曲輪」跡や「桜堀」へ下りる「埋見門(本丸北の門)」跡があります。

 

「埋見門(本丸北の門)」跡(「稲荷曲輪」跡から上がってきて「本丸」跡への虎口) ↓

 

「本丸東の門(番の門)」跡を再度抜けて「二の丸」跡へ入ります。南側は眺めが良好ですのでベンチが置かれています。北側は「土塁」が一直線に築かれていて、その北下は「高石垣」になっています。

 

「二の丸高石垣」への石段と「巽櫓」(「二の丸」跡から西方向) ↓

「二の丸」跡 ↓

「二の丸」跡の北側「土塁」(この下は「高石垣」) ↓

 

公園としての一体化を実現するために、「二の丸」跡と「東の丸」跡の間はスムーズに行き来できるように、間の石垣を一部取り払ったように見えます。本来は、「二の丸」からは北側に「方の門」跡があるのでそこから「東の丸」に入るものと思われます。

 

「方の門」跡(「東の丸」跡から「二の丸」跡方向) ↓

 

「東の丸」跡は「二の丸」跡よりも広い面積があり、ここも南側にベンチを置き、北側には「土塁」が続きその北下には「高石垣」が築かれています。

 

「東の丸」跡の北側「土塁」(左下は「高石垣」) ↓

「東の丸」跡(「天の門」前から西方向) ↓

 

「東の丸」跡から北側へ出る虎口が「真の門」、東側の「東帯曲輪」跡へ出る虎口が「天の門」でいずれも桝形になっています。まず東側へ出ると、更に東側に枡形の「出の門」があって城域を出ます。

 

「東の丸」跡から北側へ出る「真の門」跡 ↓

東側の「東帯曲輪」跡へ出る「天の門」跡 ↓

更に東側に枡形の「出の門」跡 ↓

 

「前編」はここまでとして、次回のブログでは「東帯曲輪」跡から「桜掘」、「稲荷曲輪」「北の丸」の各跡などをお届けします。

 

 

 

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5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「舞子」からすぐ近くの「明石藩」の「明石城」へ登城しその後「西宮砲台」へ向かいましたが、「砲台」繋がりで先に「西宮砲台」(兵庫県西宮市)をお届けします。

 

「明石駅」からは、JR神戸線で「三ノ宮駅」まで新快速に乗車し、「阪神電車」に乗換えて「香櫨園(こうろえん)」まで普通電車に乗りました。

 

「香櫨園駅」は、大昔(私が小学校低学年の頃)、両親に連れられて泳ぎに行って足が届かなくて怖い思いをした海水浴場があった駅で、ウン十年ぶりの下車です。勿論周囲の記憶は殆どありませんが、「夙川」沿いの土手を歩いた記憶が微かにありました。

 

この「夙川」沿いの土手は、北に向かっては「JR神戸線」「阪急神戸線」の各線路を潜り、「阪急甲陽線」沿いの「苦楽園駅」辺りまで続きます。一方、南へは「阪神本線」から河口近くまで続き、途中「酒蔵通り」と交差する散歩道です。松や桜並木となっているので、春は頗る綺麗な道です。

 

散歩道(夙川オアシスロード) ↓

 

今は、「夙川」に両岸から数mごとに「鯉のぼり」が吊られ、風に泳ぐ「鯉のぼり」を見ながらの散策もいい雰囲気です。

 

「夙川」に吊られた「鯉のぼり」 ↓

「夙川」に吊られた「鯉のぼり」 ↓

 

並木道や「鯉のぼり」を見ながら歩くこと15分位で河口に出ます。大昔は、はるか沖まで見える海でしたが、現在は海の向こうは埋め立て地となり、マンションや倉庫地帯となっているのが少し興ざめでしたが、砂浜が東側に続き、まるで小規模な砂丘が形成されていますし、海の中ではウインドサーフィンを楽しんでいる姿も見られました。

 

「夙川」の河口 ↓

河口の西方向にはマンション群 ↓

海ではウインドサーフィンを楽しむ人が ↓

 

以前は車で来たので、こんなに砂浜を歩いた記憶がなく、「西宮砲台」はそこから約5分くらい東側の砂浜の中に建っています。

 

手前には(西側)には、「土塁」が残りそこには松の木々が生い茂っていました。

 

「西宮砲台」とその外郭の一部(松の木の所から北へ) ↓

 

「西宮砲台」も、「外国船」の脅威に対応するために「今津砲台」と共に築城された砲台で、「和田岬砲台」「湊川崎砲台」と併せて4基が「石堡塔(せきほとう)」という19世紀のヨーロッパで実用化されていた「マルテロ・タワー」という海防施設を参考にして造られました。

 

「石堡塔(せきほとう)」(北方向) ↓ 

 

「勝海舟」が建議して、門下の「佐藤与之助」が設計をして1863年に着工して1866年に完成しました。しかし、実戦に使用されることなく1884年に火災にあい、木造2階建ての内部と天井を焼失しました。

 

その後修復がされましたが、幾度もの風水害で「外郭の土塁」は現在一部だけ残っているだけとなりました。

 

1975~6年にかけて大修理が施され、内部は鉄骨で補強し外壁は築城当時の姿に復元されました。

 

基本的には「和田岬砲台」と同じような円筒型で末広がりの形をしていて、入口は1階北側に1カ所あり、2階には大砲が撃てるように砲眼が周囲に開いています。「石堡塔」部分は、周囲の囲いで保護されていますが、自由に写真を撮ることができます。

 

「石堡塔」の1階入口 (南方向) ↓

「石堡塔」(東方向) ↓

2階の「砲眼」 ↓

 

また、「外郭」の一部が西から南西にかけて残存していて「土塁」とそこに生えている松が見られるほか、南から南東にかけては「外郭石材」が残ります。

 

「石堡塔」(北西方向、外郭の「土塁」と「石材」) ↓

外郭の「土塁」と「石材」) ↓

 

全国には、幕末に約1,000基以上もの「台場」が造られましたが、その中で「石堡塔」を用いたのは大阪湾沿いの4基だったということから、非常に貴重な砲台であるということです。

 

以上、「和田岬砲台」「明石藩舞子台場」「西宮砲台」と見てきましたが、「大阪湾」沿いにある未だ見ていない砲台・台場にも興味が湧いてきたので、また見学に行こうと思いました。

 

次回のブログは、後回しにしてしまった「明石城」をお届けします。

 

 

 

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5/9(木)の「和田岬砲台」を見学した後も砲台・台場巡りを敢行、次は舞子にあって現在は発掘遺構が残る「明石藩舞子台場」(兵庫県神戸市垂水区)へ向かいました。

 

JR和田岬線の「和田岬駅」は、「三菱重工神戸造船所」へ勤める方々の足として朝夕の運行しかないので、単線の車止め脇の駅には勿論誰一人いません。

 

JR和田岬線の「和田岬駅」 ↓

JR「和田岬駅」の時刻表(朝夕しか運行しない) ↓

 

また「神戸市営地下鉄湾岸線」の「和田岬駅」から「新長田行」に乗車しましたが、午前11時台になると車両はガラガラでした。

 

「神戸市営地下鉄湾岸線」の車両 ↓

 

「新長田駅」で下車して、私の大好きなマクドに入って早めの昼食、「サムライマック(サイドメニューは全てLサイズで)」を食べてJRに乗り「舞子駅」まで行きました。

 

「サムライマック」を食べてパワ-アップ!

 

私は「舞子駅」で下車するのは初めてで、いつも電車内から「明石海峡大橋」を眺めているだけでしたが、その日は目の前から淡路島へ繋がる巨大な大橋が目の前に迫り、青い空と青い海をバックにして架かる大橋は絵になります。

 

「明石海峡大橋」 ↓

 

「明石藩舞子台場跡」は陸橋を渡ってすぐの所にあったので助かりました。

 

明石藩舞子台場」は、外国船の侵攻に備えて、1863年に幕命を受けた「勝海舟」の指導の下、「明石藩」が築城した砲台場です。対岸の「徳島藩松帆台場」と連携して、明石海峡を通行する外国船を挟み撃ちにして攻撃を加えようとしていたようです。

 

「明石海峡」を通航する客船 ↓

 

台場の形式は「稜堡式」で、石垣の平面を「W字型」にした西洋の様式を導入して築城されました。発掘調査の結果、全てが埋まっていたようで、現在残っている石垣は6mですが、当時は10mの高さがあったようです。

 

石垣の平面を「W字型」にした「稜堡式」 ↓

 

現在は「W字型」部分が一部解るようになっていて、下を覗くと「石垣」が見えますが、全体像は残念ながら読み取りはできません。

 

公開されている全体像 ↓

説明書きと「明石藩舞子台場跡」碑 ↓

「明石藩舞子台場跡」碑 ↓

「W字型」の一部と「石垣」(西方向) ↓

「W字型」の一部と「石垣」(東方向) ↓

「石垣」(東方向) ↓

「天端石」? ↓

 

しかし、対岸の「淡路島」と「明石海峡大橋」そしてここの「台場跡」とのコラボは、当日の青天と相まって素晴らしい光景になっていました。

 

「淡路島」と「明石海峡大橋」と「台場跡」とのコラボ ↓

 

また、「淡路島」にある「徳島藩松帆台場」はここからは分からないでしたが、この近さでの攻撃力は凄いものがあっただろうと想像できます。

 

以前、「ぶらタモリ」でも「松帆台場」が紹介されたことがあって、一度行きたいな~と思っていましたが、こんな近くにあるのなら、今度「舞子駅」からバスで「明石海峡大橋」を渡って行ってみようと決心が付きました。

 

この後、「明石藩」の「明石城」へ登城しますが、次回のブログは「砲台」繋がりで先に「西宮砲台」をお届けします。

 

 

 

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コロナ禍で、見学が中止されていた「和田岬砲台」(兵庫県神戸市兵庫区)の見学が再開されていたので、先日、「三菱重工」のHPからネット予約申込をして、5/9(木)に訪城しました。かれこれ3年近くも待っていたので非常にワクワクです。

※見学日は、毎月第二木曜日の午前9時30分と10時20分で定員20名です。

 

「三菱重工神戸造船所」正門前集合で、敷地内はマイクロバスで「砲台」前まで移動しました。

 

「三菱重工神戸造船所」正門前 ↓

 

事前の説明では、写真撮影は内部のみとは書かれていたものの、外観の写真は撮れるものと思っていましたが、脇にある説明書きも一切ダメでした。というのも敷地内は、潜水艦製造や原子力、宇宙産業などの国家機密の塊の場所であるので申し訳ないが撮れないとのことでした。

 

その替り、内部の写真はしこたま撮ることができました。国宝「二条城」やお寺の仏像等の写真撮影禁止とは全く逆の対応です。

 

中心となるのは、「石堡塔(せきほとう)」と呼ばれる円筒形の筒でこの中に大砲が設置されていました。周囲は、五角形の「土塁」「石塁」を巡らす「台場」でしたが、現在は「土塁」「石塁」は失われています。

 

「石堡塔(せきほとう)」も古写真(周囲にが「土塁」が見られる、パンフレットから抜粋) ↓

 

1863年に当時、幕府講習所砲術師範役の「勝海舟」の設計に基づいて製造され「石堡塔」は1864年に完成していましたが「土塁」はまだ未完でその後完成したものの、結局、中に大砲が据えられることなく使命を終えたそうです。

 

しかしその「石堡塔」の造りは堅固で、地下の基礎構造は1000本以上の松杭を打込み、その上に暑さ45㎝の「銅木」を置き、更に厚さ24㎝の「盤木」を敷き詰めて、三段の基礎石、犬走石を積上げた上に円筒状に花崗岩の切石を積み上げました。

 

外壁は外国船に目立たないように黒ないし鼠色の漆喰で仕上げていました。現在でも、その一部が壁に貼りついているのが確認できました。

 

内部には靴を脱いで入り、社員の方の詳細な説明がありました。

 

内部は木造二階建てで、一階の半分は土間(土と石灰を混ぜたもの)で、残り半分は棚が並ぶ「火薬室」です。二階には上がれなかったですが、説明によると窓が1カ所と砲眼が11カ所設けられています。

 

1階と2階の平面図(パンフレットより抜粋) ↓

 

二階の床に大砲を据えるので、一階には50㎝前後のケヤキの柱と大きな梁、そして小さな梁が絶妙に組み合わされて頑丈に造られています。また二階には屋上の床をささえる為に当時珍しい鉄製の柱が使用されているそうです。

 

50cm前後の頑丈なケヤキの柱 ↓

頑丈な梁材が複雑に組み合わされている ↓

頑丈な梁材

周囲の柱 ↓

周囲の柱の礎石 ↓

1階火薬室の入口 ↓

「火薬室」内の砲弾棚 ↓

2階への階段 ↓

2階床(井戸水を汲み上げれるように穴が空く) ↓

2階修理後の写真(パンフレットより抜粋) ↓

 

柱と梁を固定した金具や、打ち付けられた金具の大きさ、頑丈さも驚くばかりでした。

 

頑丈な金具 ↓

 

大砲を継続して放射すると筒が加熱してくるので、大砲を冷やす為の水が必要となる為に一階中央に大きな「井戸」が掘られています。そして冷やすために使用される水が二階に溜まらないように、銅製の水管が1階へ繋がっているのも目にすることができます。

 

中央に掘られた「井戸」(海水だったようです) ↓

2階に溜まった水を1階へ流す「銅管」 ↓

 

中を見る限り腐食している箇所は殆ど見られないのは、2009~2014年に木造部分の全解体修理を施し、使用できる部材はそのまま使用し腐食した部分は修理する等をして再組立てを行ったそうです。

 

帰りには、詳細な内容等が記載されたパンフレットをいただき、外の写真が撮れなかったけれども、パンフには古写真とともに現在の写真も掲載されていたので満足できました。

 

「石堡塔」の現在の姿(パンフレットより抜粋) ↓

 

今回は、幕末の外国船の来襲に備え、特に「孝明天皇」が在住していた「京都」を護るべく、「大阪湾」には多くの台場と砲台設置が行われたことを改めて勉強する機会となりましたので、この後、「明石藩舞子台場跡」や「西宮砲台」へ行こうという気分向上のキッカケにもなる訪城でした。

 

※「大阪湾」には「和田岬・湊川崎」「明石藩舞子」「西宮・今津」「舞子」の対岸である淡路島の「徳島藩松帆台場」(ここは確か「ぶらタモリ」でも紹介されていたような)、そして「堺」に配置されていました。

 

 

 

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コロナ禍で、見学が中止されていた「和田岬砲台」(兵庫県神戸市兵庫区)の見学が再開されていたので、先日、「三菱重工」のHPからネット予約申込をしていて、本日(5/9)がその日となりました。かれこれ3年近く待っていたので非常にワクワクして出かけました。

※見学日は、毎月第二木曜日の午前9時30分と10時20分で定員20名です。

 

そして折角、神戸まで足を伸ばすからには、他にも行くところが無いかと考えて、本日は「砲台巡り」をしようとして「明石藩舞子台場跡」(兵庫県神戸市垂水区)と「西宮砲台」(兵庫県西宮市)にも足を運ぶ計画を立てました。同時に、舞子に行くならば少し電車に乗れば「明石城」(兵庫県明石市)へも行けると欲張り、タイムスケジュールの計画表を作成しました。

 

和田岬砲台」は、「三菱重工神戸造船所」正門集合で、敷地内はマイクロバスで「砲台」前まで移動でした。

 

「三菱重工神戸造船所」正門 ↓

 

外観の写真は撮れると思っていましたが、敷地内は一切写真撮影はNGで砲台内だけ写真撮影ができるといった、通常のお城内や寺院内とは全く逆の対応でした。というのも、敷地内は潜水艦製造や原子力、宇宙産業などの国家機密の塊の場所であることから全くダメの対応です。

 

しかし外壁は綺麗に切り石が積まれ、一部漆喰が残っている姿なども目にすることができて感動モノです。また中は当時の技術力の高さとかなりのお金をかけて造られた様子が伝わってくるような堅固な造りになっています。社員の方が詳細に説明をされて、中の写真は自由に撮れました。

 

木材の丈夫さが伝わります ↓

砲台の玉を収納する棚 ↓

大砲を打ち続けて加熱するのを冷やす水を供給する井戸 ↓

 

帰りには、詳細な内容等が記載されたパンフレットをいただき、外の写真が撮れなかったけれども、パンフには写真が掲載されていたので満足しました。

 

パンフに掲載されている「和田岬砲台」の写真 ↓

 

11時に解散となり、「三菱重工」社員通勤用で朝夕しか走っていないJR和田岬線の「和田岬駅」の写真を撮り、地下鉄湾岸線で「新長田駅」まで行き、昼食を取ってからJR神戸線で「舞子駅」へ向かいました。

 

JR和田岬駅 ↓

 

「舞子駅」下車は初めてで、ここから「淡路島」へ渡るバスが出ています。「明石藩舞子台場」跡は駅からすぐのところにあり、総石垣造りの台場だったそうで発掘調査がされましたが殆ど埋め戻されているので、現在は一部の石垣とWの形が残る程度でしたが、真ん前には「明石海峡大橋」と「淡路島」が見える絶好の位置で、しかも青天であったので非常に美しい光景が望めました。

 

「明石藩舞子台場」跡の石垣の一部 ↓

「明石海峡大橋」と「淡路島」(「台場」脇から) ↓

 

「舞子駅」から「明石駅」までは電車で5分という近さ、「明石城」の登城は久々でしたので、この選択は良かったと自画自賛。

 

明石城」の縄張り図を朝出かける前にネットで抽出してプリントアウトしてきたので、それに沿って巡回しました。

 

先ほども記載しましたが、本当にいい天気で空も真っ青でしたので、「坤櫓」「巽櫓」共に綺麗に写真が撮れました。また、「二の丸」「東の丸」の各跡の境目も以前は曖昧でしたが、今回はハッキリと理解できましたし、「東の丸」跡から「東帯曲輪」跡へ下りる坂道と「箱堀」へ繋がる道の間の複雑な桝形門もジックリ観察できました。

 

「大手門」桝形から両櫓が見える ↓

重要文化財「坤櫓」 ↓

重要文化財「巽櫓」 ↓

手前は「巽櫓」奥が「坤櫓」 ↓

両櫓の間の「土塀」に付く「鉄砲狭間」から「三の丸」跡を見る ↓

「天守台」(稲荷曲輪から見上げる) ↓

 

「高石垣」が続く「本丸」「二の丸」「東の丸」北側の「桜堀」は鬱蒼とした場所で更に「北の丸」に繋がる密林地は「山城」を彷彿するようでした。

 

「二の丸」「東の丸」各跡の「高石垣」 ↓

「桜堀」側から見る「本丸」跡の「高石垣」 ↓

「桜堀」(東方向) ↓

「桜堀」の北側の密林 ↓

 

「稲荷曲輪」跡の西面の石垣や東西の「不明門」跡の石垣もキッチリ残っているのを確認できました。

 

「稲荷曲輪」跡西面の石垣 ↓

「西不明門」跡 ↓

 

約1時間半で足早に「明石城」を見学した後は、JRで「三ノ宮駅」まで行き、阪神電車に乗り換えて「香櫨園(こうろえん)駅」まで乗車して、「夙川」脇の桜と松並木の道を南下していきました。いい並木道です。

 

「夙川」脇の桜と松の並木の道 ↓

「夙川」には沢山の鯉のぼりが泳いでました ↓

 

「香櫨園(こうろえん)」は私が小学校低学年のころ、両親に連れて貰って海水浴場に来たことがある場所ですが、現在は海の沖は埋め立てられていて工場地帯、住宅地帯に変貌しています。

 

「夙川」が海に流れ込む砂浜が「御浜公園」となっていてその東端に「西宮砲台」と外郭の一部が残ります。

 

「夙川」が海に流れ込む砂浜 ↓

「西宮砲台」 ↓

 

「西宮砲台」の内部の木造部分は火災になってコンクリートで修築されたそうですが、外観は当時のままだそうです。中へは入れませんが、ここでは周囲からの写真は撮り放題です。

 

「西宮砲台」と外郭の一部 ↓

 

以上、本日は3カ所の「砲台、台場」を廻りましたが、幕末には「京都」を諸外国から護るとの姿勢で「大阪湾」には「和田岬・湊川崎」「明石藩舞子」「西宮・今津」「舞子」の対岸である淡路島の「徳島藩松帆台場」、そして「堺」に配置されていました。

 

幕末に、時の「孝明天皇」は攘夷をするように強力に「江戸幕府」に求めていたことへの対策がこれらの台場・砲台配置であったことが良く解ったのと、当時の世界では最新鋭の砲台ではなかったものの、その築城技術は非常にレベルが高いものであったことが、神戸淡路大震災でもビクともしなかったことで証明されたようです。

 

各「砲台・台場」と「明石城」については、後日詳細を投稿していきますので、またご覧ください。

 

 

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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

今回は、「竜野城」と「三日月陣屋」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

竜野城」(兵庫県たつの市

1499年頃に「赤松村秀」が「鶏籠(けいろう)山」に中世城郭を築いたのが始まりでしたが、1577年の「羽柴秀吉」による中国攻めで、当時の城主「赤松広秀」がお城を開け渡します。

 

「秀吉」配下の「蜂須賀正勝」が1581年に入城後は、「福島正則」「木下勝俊」「小出吉政」が短期間で入替り入城しますが、1600年に播磨が「池田輝政」の領地となると、ここに城代を置きました。

 

1617年に「本多家」が、その後は「小笠原家」「岡部家」「京極家」が入替り立ち替わり入城しますが1658年に廃城して、建造物も取り壊しが行われ一時天領となりました。

 

しかし1672年に幕命によって「脇坂安政」が入城します。「脇坂家」は城主格ですが幕府に遠慮して「天守」等を築かず、幕末・維新まで統治し続けました。その間、幕閣へは「脇坂家」から2人の老中を輩出しています。

 

現在「」において「平(一重)櫓」が見られるのは、1979年にRC造りで復興された「埋門」に付随する「続櫓」です。外壁は門と同じ「白漆喰総塗籠め」で、門に横矢を掛ける為に門の右前に出っ張って築かれています。

 

RC造りで復興された「埋門」に付随する「続櫓」 ↓

RC造りで復興された「埋門」に付随する「続櫓」 ↓

RC造りで復興された「埋門」に出張って見えるのが「続櫓」 ↓

 

もう一つは、「竜野歴史文化資料館」の南東に建つRC造りの復興「武具櫓」(多門櫓)で東側で折れ曲がって建ちます。

 

RC造りの復興「武具櫓」(多門櫓) ↓

RC造りの復興「武具櫓」(多門櫓、東側で折れ曲る) ↓

 

 

三日月(乃井野)陣屋」(兵庫県佐用郡作用町

「本能寺の変」で討ち死にした「森蘭丸」と同じ祖先を持った名門「森家」の「森長俊」が、15,000石で分地され「津山藩」の支藩「津山新田藩」を経て「三日月藩」へ転封され、1700年に「三日月(乃井野)」の地に陣屋を築きました。

 

現在「三日月陣屋」において「平(一重)櫓」が見られるのは、「二重櫓」との判断が分かれるところですが現存再移築された「物見櫓」があります。

 

この「物見櫓」は、1871年の廃藩置県後、長年の間、地元の公民館として使用されていましたが、2003年に元の位置に戻されました。表から見ると屋根は一重ですが、中は二階建てで、裏側から見ると庇が設けられているので二重にも見えます。

 

表側の一階・二階共に格子板を貼り付け、二階は出格子となっていて上部は柱が見える「真壁造り」になっています。また裏側は、庇を支える柱が立ち、その下は軒下になっています。外壁は、表面と同じく板格子の出窓と板の雨戸でできています。

 

現存再移築された「物見櫓」(ニ階部分の出格子窓が出張る) ↓

現存再移築された「物見櫓」(裏側、庇が柱に支えられて軒下となる) ↓

現存再移築された「物見櫓」(裏側、一階の格子窓) ↓

 

2003年に上記「物見櫓」を再移築時に学校に現存移築されていた「長屋」も元の位置に戻され、新たに木造再築された門や前述の「物見櫓」を繋ぐ多門的な役割を担っています。

 

現存再移築された「長屋」 ↓

現存再移築された「長屋」 ↓

現存再移築された「長屋」と木造復元「門」 ↓

現存再移築された「長屋」「物見櫓」と木造復元「門」(裏側から) ↓

 

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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けしていますが、数多く見られますので4回に分けてお届けしていて、本日は4回目最後です。

 

4回目は、「西の丸」跡の西側断崖絶壁際に築かれている「百間廊下(長局)」の「平櫓(一重櫓)」を掲載します。

 

姫路城(4)」(兵庫県姫路市

「姫路城」の歴史と城主については、「姫路城(1)」でも記載しましたが、再度掲載しておきます。

 

古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めに際して、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後はやっと藩主が定着しました。    

 

現在「姫路」の「平(一重)櫓」は非常に多いので、前述の通り4回に分けてお届けしていて今回が最終です。

 

「西の丸」跡の「百間廊下(長局)」は、前述の歴史と城主の所でも記載したように、「徳川家康」の孫娘「千姫」が城主「本多忠政」の嫡男「忠刻」と結婚する際の化粧料で造営された「西の丸」内に築かれた西側の断崖絶壁に沿って建つ多門櫓群と二重櫓で構成されています。

 

防御面から見ると「土塀」とは違って、「多門櫓」であることから強力な防御施設として使用されていたと思います。

 

現在残る「西の丸 百間廊下(長局)」は、二重櫓「ワの櫓」から入り、次のような配列となっています。

 

「ワの櫓」(二重櫓)-「レの渡櫓」(一重櫓)-「ヲの櫓」(二重櫓)-「タの渡櫓」(一重櫓)-「ルの櫓」(二重櫓)-「ヨの渡櫓」(一重櫓)-「ヌの櫓」(二重櫓)-「カの渡櫓」(一重櫓)-「化粧櫓」(一重・二重櫓)

 

左が「西の丸」(「名城を歩く 姫路城」PHP) ↓

 

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」は、「西の丸」をシッカリと防御する堅固な建物群として見えると同時に、白壁の建物がクネクネと曲がる城郭建造物群の美を感じさせるモノでもあります。

 

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」(レの渡櫓) ↓

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」(レの渡櫓、タの渡櫓、ヨの渡櫓、カの渡櫓、化粧櫓) ↓

 

レの渡櫓」は「百間廊下」の中でも長い「渡櫓」で途中北東方向に曲がり、外部への出入口を設けています。更に2階へ上がって廊下が左折れした突き当りにある「ヲの櫓」に繋がります。

 

「レの渡櫓」(出入口がある) ↓

「レの渡櫓」途中の外部への出入口 ↓

「レの渡櫓」が二階へ上がります ↓

「レの渡櫓」の2階から左へ折れます ↓

「レの渡櫓」が「ルの櫓(二重櫓)」に繋がります ↓

「ワの櫓(二重櫓)」と「レの渡櫓」(「好古園」から望む) ↓

 

タの渡櫓」は最も短く「ルの櫓」に繋がりその櫓の2階へあがって、最も長い「ヨの渡櫓」に繋がっていきます。「ヨの渡櫓」は途中の接続部分で左へ折れ曲がり、更に左へ「く」の字型の逆に折れ曲って「ㇴの櫓」に繋がります。

 

手前から「タの渡櫓」「ルの櫓(二重櫓)」「ヨの渡櫓」 ↓

「タの渡櫓」内の天井 ↓

「タの渡櫓」内の女中部屋(ここは板扉が無い) ↓

「ルの櫓(二重櫓)」から「ヨの渡櫓」 ↓

「ヨの渡櫓」(左へ折れる) ↓

「ヨの渡櫓」(奥に見えるのは、「ヨの渡櫓」の接続部) ↓

「ヨの渡櫓」(左へ折れて「ヌの櫓(二重櫓)」へ) ↓

 

廊下途中の西側の壁には「狭間」や「石落とし」が設けられていて、西側の断崖絶壁をよじ登ってくる武者への対応もキッチリと施されています。

 

「廊下」途中にある「狭間」 ↓

「廊下」途中にある腰の高さの「石落とし」 ↓

「廊下」途中にある腰の高さの「石落とし」 ↓

「廊下」の「高窓」 ↓

「廊下」途中にある「大扉」 ↓

 

ヨの渡櫓」の1/3辺りから「カの渡櫓」内にかけては、「奥女中部屋」が数か所造られていて敷居もあって個室対応になっています。

 

「ヨの渡櫓」の内部、右側は「女中部屋」 ↓

「奥女中部屋」の敷居 ↓

 

「ヲの櫓(二重櫓)」から「カの渡櫓」は直線で「化粧櫓」に繋がります。

 

「ヲの櫓(二重櫓)」と「カの渡櫓」 ↓

「化粧櫓」と廊下とのつなぎ目 ↓

 

化粧櫓」は一部が一重櫓で南側が二重になった櫓です。内部は、18畳・15畳・6畳の3室あって、天井は「杉柾(すぎまさ)張り」(木目が平行に通った杉材)、壁面は全て黒い木枠に紙を貼ったものを使用して技巧をこらした住宅様式になっています。

 

「化粧櫓」(右が一重部分、左が二重部分) ↓

「化粧櫓」(天守より見下ろす) ↓

「化粧櫓」の天井は「杉柾(すぎまさ)張り」 ↓

「化粧櫓」内部の部屋 ↓

 

以前内部は、「千姫」らしき人形が置かれていましたが、現在は有料で中を閲覧できるようになっています。また南側の外には「武者だまり」を設けています。

 

以前の「化粧櫓」内の部屋 ↓

「化粧櫓」南側の「武者だまり」 ↓

 

以上で、「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」は終了です。4回に亘ってご覧いただき有難うございました。

 

次回も引き続き各お城にある「平櫓(一重櫓)」をお届けしていきますので、どうぞご覧ください。

 

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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けしていますが、数多く見られますので4回に分けてお届けしていて、本日は3回目です。

 

3回目は、「との一門」から「備前丸」跡の東側に拡がる「帯の郭」跡から「上山里郭」跡にかけて築かれている「平櫓(一重櫓)」を掲載します。

 

姫路城(3)」(兵庫県姫路市

「姫路城」の歴史と城主については、「姫路城(1)」でも記載しましたが、再度掲載しておきます。

 

古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めに際して、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後はやっと藩主が定着しました。    

 

現在「姫路」の「平(一重)櫓」は非常に多いですので、前述の通り4回に分けてお届けしています。

 

まず「への門」「との一門」「ちの門」に囲われた郭から南側に見える一重の櫓ですがこれは「折廻櫓」と呼ばれている櫓です。

 

そこからの見え方は、櫓台の石垣上に鉄格子が入った窓や狭間が並ぶ如何にも厳(いか)つい櫓なんですが、実は、表側「備前丸」方向から見ると「二重櫓」になっています。 しかも中は、裏側の厳つい姿とは裏腹に中は茶釜を備える数寄屋造りになっています。 裏側から見える櫓台の石垣の表側は部屋になっているので「二重櫓」として見られています。

 

二重櫓「折廻櫓」(一重に見えるが「備前丸」側から見ると実は「二重櫓」です) ↓

二重櫓「折廻櫓」(「備前丸」側から見ると「二重櫓」) ↓

 

「ちの門」を潜ると平櫓の井楼櫓」があります。 全面がオープンになっている櫓で中には井戸の屋形を構えた「井戸」があります。 前回ブログで「ロの渡櫓」内にも「井戸」が設けられていましたが、近い場所にもう一つ井戸があります。

 

平櫓の「井楼櫓」 ↓

平櫓の「井楼櫓」(中に井戸屋形) ↓

 

「備前丸」跡への出入口である「備前門」の斜め前には「コ」の字型になった「平櫓」の「帯の櫓」があります。 向かって右側の建物の内部も「数寄屋造り」で「茶の湯」ができるようになっています。 この「帯の櫓」が建つ櫓台は、「との四門」脇から立ち上がる高石垣の上に築かれています。 眺めを楽しみながらの茶の湯が行われていたのではないでしょうか。

 

平櫓「帯の櫓」(「コ」の字型、右側の中は「数寄屋造り」) ↓

平櫓「帯の櫓」(中が「数寄屋造り」の建物、「腹切丸」跡から見上げる) ↓

平櫓「帯の櫓」(高石垣上にある、東面) ↓

平櫓「帯の櫓」(右側)と二重櫓「帯郭櫓」(左側) ↓

 

「帯の櫓」下の「埋門」を通り抜ける石段下が「帯郭(腹切丸)」跡となっていて、中央には「井戸」が掘られています。

 

その井戸前には、二重の「帯郭櫓」が建ち、中は検視台のようなものが見られ、前には井戸があったことから切腹をして井戸の水で血を流しその後、櫓内で検視する場所だったのではないかということで「腹切丸」との名が付いたとも言われていますが、実際はそうではないようです。 当櫓は、裏側の高石垣下から見上げると表側の二重が一重に見えますが、これは「二重櫓」と分類されています。   

 

二重櫓「帯郭櫓」(手前左に「井戸」がある) 

二重櫓「帯郭櫓」の一階内部が「検視台」に見える 

前下の櫓が「帯郭櫓」(一重に見える、奥上が平櫓「帯の櫓」、左は「太鼓櫓(への櫓)」 ↓

 

次に「備前門」前まで戻り南に向かって突き当りにあるのが折曲り平櫓の「太鼓櫓(ヘの櫓)」です。 この櫓は、その右下にある「りの門」を監視する役割があり窓には庇が付いています。 江戸時代には「ヘの櫓」と呼ばれていましたが、明治時代になって解体した櫓から太鼓が当櫓に移されて「太鼓櫓」と呼ばれるようになりました。

 

折曲り平櫓の「太鼓櫓(ヘの櫓)」 ↓

折曲り平櫓の「太鼓櫓」 ↓

折曲り平櫓の「太鼓櫓(ヘの櫓)」 ↓

 

「りの門」を抜けると「上山里曲輪」跡で、西端には3つの櫓が連なります。 どれも曲輪内から見ると二重櫓ですが、この内「リの二渡櫓」は、外側から見ると一重に見えます。 これは、前述した「折廻櫓」と同様、外側の櫓台石垣の内側が穴蔵になっているからで、この中に銃弾の火薬の原料となる物質が保管されていたことから石垣で保護されていたようです。

 

二重櫓「リの一櫓」「リの二櫓」(手前から) ↓

二重櫓「リの二渡櫓」 ↓

左から「リのニ渡櫓」(2階建てだが1階部分が石垣で内部が穴蔵)、「リの一渡櫓」「チの櫓」↓

 

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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けしていますが、数多く見られますので4回に分けてお届けしていて、本日は2回目です。

 

2回目は、北側断崖絶壁に沿って築かれている「平櫓(一重櫓)」を掲載します。

 

姫路城(2)」(兵庫県姫路市

「姫路城」の歴史と城主については、「姫路城(1)」でも記載しましたが、再度掲載しておきます。

 

古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めに際して、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後はやっと藩主が定着しました。    

 

現在「姫路」の「平(一重)櫓」は非常に多いですので、前述の通り4回に分けてお届けしています。

 

今回は、北側断崖絶壁に沿って築かれている「渡櫓」と名称が付く「多門櫓」と「平櫓」を紹介します。ただし、現在は「ハの渡櫓」以降は立入禁止エリアとなっています。

 

「イの渡櫓」から「ロの渡櫓」「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」「ホの渡櫓」「ヘの渡櫓」及び「トの櫓」があります。「渡櫓」は、北側からの砲撃に対して「土塀」よりも強固な備えとして建てられれいて、内部は倉庫等として使用されていましたので、簡素な造りとなっています。

 

「イの渡櫓」(「ほの門」手前から見る) ↓

「イの渡櫓」(「ほの門」を潜って出た所から) ↓

「イの渡櫓」(折れ曲がっている、奥に見えるのが「ロの渡櫓」 ↓

「ハの渡櫓」(現在、これ以降へは立入禁止) ↓

「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」(手前、奥の二重櫓は「ホの櫓」、その向こうが「ホの渡櫓」) ↓

「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」(手前の二重櫓は「ホの櫓」) ↓

「ホの渡櫓」 ↓

「ホの渡櫓」の内部(内部は土壁) ↓

「ヘの渡櫓」 ↓

「ヘの渡櫓」の内部(内部は土壁) ↓

「ヘの渡櫓」と「との一門」 ↓

 

この中で「ロの渡櫓」内は「井楼櫓」となっていて内部には「井戸」が設けられています。「トの櫓」は、「との一門」の脇に建てられた門の監視を行う為の櫓であったようです。

 

「ロの渡櫓」 ↓

「ロの渡櫓」は「井楼櫓」になっていて中に「井戸」がある ↓

「トの櫓」 ↓

「との一門」(右に接続しているのが「トの櫓」) ↓

 

「ハの渡櫓」の屋根は曲線が美しいラインを描ています。

 

「ハの渡櫓」の屋根部分は弧を描く ↓

 

これら「渡櫓」全体を捉えようとすると、「中曲輪」跡内にある「シロトピア記念公園」から良く見ることができて、「天守群」やそれらを繋ぐ「渡櫓」含めてまるで軍艦のように見えるポジションです。

 

石垣の上に並ぶ「渡櫓」群 ↓

 

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5/3(金)に近江の「六角氏」関連の近江三城巡り(「布施山城」「箕作山城」、「長光寺城」は登城路が分からず断念)をして、「箕作山」から下山した先が、「繖山」との間の国道8号線でした。

 

昨日のブログでも記載したように、「近江鉄道」の電車時刻表と所要時間(約40数分)で決断したのは「五個荘駅」へ向かって歩くことにしました。

 

暫くすると「近江商人発祥の地」像という、「天秤棒」を担いだ商人姿の大き銅像が立っていて、この辺りが「近江商人の里(てんびんの里)」でここから「旧中山道」(滋賀県東近江市)が分岐している所に出ました。

 

「中山道散策MAP」 ↓

「近江商人の里(てんびんの里)」(ここから「旧中山道」) ↓

 

これはラッキーと思い、「旧中山道」へ入りました。

 

少し行くと「石塚の一里塚」が立ち、そこが江戸日本橋から123番目の一里塚らしいです。(ウッカリしていて写真を撮り損ねました!)

 

もう早速、江戸時代の旅人の雰囲気にしてくれました。

 

次に道の右手には今ではなかなか見れない茅葺の家が登場、ここは「片山半兵衛家」といい麻布類を扱う近江商人の本宅であって、当時は宿場町の間にあって大名家や公家の諸家の「小休所」を務めていた家だそうでした。1864年には尾張徳川家の藩主が休憩したんだそうです。

 

「片山半兵衛家」 ↓


この道沿いには「常夜燈」が2基も残っていました。まずは、「金毘羅大権現常夜燈」で1837年に建立したもので、もう一つは少し先に進んだ右手にある「新堂の常夜燈」でその基壇には「右京道」「左いせ、ひの八日市」と刻まれていました。この常夜藤は、上から宝珠・請花・傘・火袋・中台・棹・反花・基壇が全て揃った美しい形をしていて1844年に建立されました。

 

「金毘羅大権現常夜燈」 ↓

「新堂の常夜燈」 ↓

 

常夜燈は、夜でも火が灯っていたと思いますので、この辺りは明るい夜道、安全な夜道だったのだろうと予想できます。

 

「金毘羅大権現常夜燈」の後ろの建物は、今はトタン屋根になっていますが、以前は茅葺だったようで往時は「ういろう」を販売していたようです。

 

「ういろう」店だった ↓

 

直ぐ近くの左手には、明治時代になって「明治天皇」が北陸東海巡幸の際の1878年10月に小休止した呉服などを扱う近江商人「市田太郎兵衛宅」で碑が立っています。また、道路越しには「明治天皇北町屋御小休所」碑がありました。

 

「市田邸」碑 ↓

「市田邸」玄関前の「明治天皇御聖蹟」碑(「東郷平八郎」筆) 

「明治天皇北町屋御小休所」碑 ↓

 

また「萬松園」といって、道沿いに「蔵」と「町屋」が面していますが、呉服商の近江商人「市田庄兵衛」の明治初期築の京町風建築本宅が残されていました。

 

「蔵」と「町屋」が面する「萬松園」 ↓

「市田庄兵衛」の明治初期築の京町風建築本宅 ↓

 

2階建ての洋風建物も目につきます。これは1925年に竣工された「旧五個荘郵便局」で大正モダンを今に伝えて「国登録有形瓶家財」に指定されていました。

 

大正モダンの「旧五個荘郵便局」 ↓

 

以上の様に江戸、明治、大正の年月を経た「旧中山道」沿いに残されたものを実際に見て歩ける機会というのはなかなか体験できないですが、更に「中山道マップ」が設置されていて往時の賑わいも知ることができました。 このエリアは「中山道 五個荘(ごかしょう)」と呼ばれているようです。

 

「中山道マップ」 ↓

 

昨年(2023年)7月に、大和郡山藩の出張所的な陣屋「金堂陣屋」を投稿しましたが、それは「中山道 五個荘」の西側に位置するエリアですので、一緒に散策するのがお薦めです。

 

大和郡山藩の出張所的な陣屋「金堂陣屋」 ↓

 

 

中山道をもう少し進むと、右手には再び茅葺屋根の家やベンガラ使用の家などが並んでいました。

 

茅葺屋根の家 ↓

ベンガラ使用の家 ↓

 

更に、往時の「旧中山道」の両脇には夏の暑さよ除けや冬の雪除けを担う松並木が続いていたそうですが、現在「蔵」を使用した案内所脇には「名残の松」という名の付く一本だけが残る松がありました。

 

「名残の松」 ↓

蔵を使用した案内所と「名残の松」 ↓

 

ここから、斜め右に入る道先に近江鉄道の「五個荘駅」があります。その斜めに入った道脇には「小幡の道標」が立ち「右京みち」「左おせ ひの 八日市みち」と刻まれています(電車の時間が迫っていたので写真を撮り忘れました)。

 

「五個荘駅」は街道沿いにある駅に相応しいレトロ感覚の駅舎となっていました。

 

近江鉄道「五個荘駅」 ↓

 

全く予定していなかった「旧中山道」を歩いて写真も一杯撮ることができて、満足して電車に乗ることができました。

 

ただ近江三城巡りは、事前の予習が少し足りなかったので、最も登城したかった「長光寺城」に行けなかったことや、「箕作山城」では「石積み」や「東郭」跡を見れなかった事など、反省点が多々あるお城巡りとなりました。

 

しかし、前述したように予定外の「中山道 五個荘」を散策でき、しかも青天の下で気分も晴れやかに33,000歩も歩くことができたことへの体力の自信もできていい1日となりました。

 

 

 

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