只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

ペリー艦隊が上陸して調査した曲線使いの城壁が美しい「中城(なかぐすく)城」

(沖縄県中頭郡<なかがみぐん>中城村)

●城主と歴史

世界遺産「琉球王国のグスクなど」の一つで、「中城(ナカグスク)城」を紹介します。

 

世界遺産「中城城」標示 ↓

 

 「中城城」は、1300年代に地元の豪族が築城し、1440年頃には琉球の築城名手「護佐丸」によって、整備拡大されました。その後、「琉球王朝」の傘下に置かれ、「正殿」跡には行政施設として「番所」を設けて管理されました。

 

更に歴史に出てくるのが、1853年にアメリカの「ペリー」艦隊が「琉球」に上陸して、この「中城城」の調査が行われました。そしてその後に「ペリー」艦隊が本土の「下田」に現われるのです。

 

●お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「城(グスク)」の構成は、「一の郭」「二の郭」「三の郭」とほぼ一直線に段々と下る「連郭式」縄張りで、その周囲には「南の郭」「西の郭」「北の郭」が南から西側の守りを固めました。

 

各郭の周囲は、琉球「城(グスク)」の特徴である曲線使いの「城壁」によって囲われています。

 

縄張図 ↓

 

<三の郭・北の廓>

それでは、「三の郭」から「一の郭」方向に向かって見ていきます。

 

「三の郭」側は「グスク」の裏側になりますが、「裏門」前の広場から眺める「三の郭」の城壁は、高さは勿論のこと石垣の積み方が石灰岩の石の接合面を合わせて積上げる「相方(あいかた)積」、そして真ん中を曲線使いの凹型となっているので、凄さと美しさに圧倒されます。

 

凹形にしているのは、多分、中心にかかってくる圧力を両端へ分散するためですが、日本のお城でも現在このような手法で石垣を内側に凹ます工法を採っている所が有ります。例えば、「高取城」の本丸石垣や、「丸亀城」の二の丸石垣。高知城の本丸石垣などです。

 

中城城の「三の郭」の城壁(この上に「三の郭」が拡がる) ↓

「三の郭」に入る右側のアザナ(物見台) ↓

石灰岩の石積み ↓

相方(あいかた)積み ↓

 

 その石垣の右側にある「裏門」は「拱門(アーチ門)」で、「北の郭」の出入口となっています。

 

「裏門」の形式は「拱門(アーチ門)」 ↓

「裏門」入ってすぐの右側(「北の郭」アザナの端部分) ↓

「北の郭」のアザナにある狭間 ↓

「北の郭」のアザナ(大井戸の上) ↓

 

「北の郭」を通ってメイン郭である「三の郭」内に入ることができますが、「裏門」に入ってすぐ右手には「大井戸(ウフガー)」があり城内の水確保を担っています。

 

「北の郭」内にある「大井戸」 ↓

 

「三の郭」は、現在は広場になっていて、城壁の内側は「武者走り」を設けてアザナと呼ばれる「物見台」を置くことによって防御を強化しています。そして後ろを振り向くと「二の郭」の石垣が迫ってきます。

 

「三の郭」の広場、周囲は城壁 ↓

 

<二の郭・西の廓>

「二の郭」の城壁も「三の郭」の城壁と同様に、高石垣で、真ん中は凹型曲線美を描きますが、石垣の積み方はレンガ状に加工した石と石との間に目地を横へ通す「布積み」を採用しています。

 

「二の郭」の城壁、この上に「二の郭」が拡がる(手前が「三の郭」) ↓

 

「二の郭」へは、「北の郭」内にある「門」を通って「西の郭」経由で入ります。

 

「北の郭」から「西の郭」への門 ↓

 

「二の郭」内の城壁内側は「武者走り」を施しています。

 

「二の郭」周囲を取り巻く城壁と右奥には「一の郭」へのアーチ門が見える ↓

「二の郭」を取り巻く美しい城壁と「中城湾」が見下ろせる ↓

「二の郭」の城壁と武者走り ↓

 

そして「二の郭」に繋がる郭が、「一の郭」と「西の郭」です。「西の郭」は「一の郭」の北西下側に東西細長く延びた郭になっていて、当時は兵馬や弓の練習をしていた所だったそうです。

 

細長い「西の郭」跡 ↓

 

<一の廓>

「二の郭」から「一の郭」に入城する際は、これまた覆いかぶさるような城壁の真ん中を凹型湾曲させた中に開けた「拱門(アーチ門)」形式の「一の郭門」を通り抜けます。  

 

「一の郭」の城壁でアーチ門は「一の郭門」 ↓

 

「一の郭門」を潜れば「一の郭」が拡がります。そこは、「正殿」などの建物が建っていた敷地で、基壇石垣を始め広場、建物跡、物見台が残っています。この「正殿」の跡には、1729年に建てられた「番所」が残っていましたが、太平洋戦争の沖縄戦で焼失してしまいました。

 

「一の郭」周囲を取り巻く城壁と武者走り ↓

「一の郭」内正殿跡或いは番所の発掘作業中の写真(現在は大半が埋め戻されている) ↓

「一の郭」内正殿跡或いは番所の発掘作業中の写真(現在は大半が埋め戻されている) ↓

「一の郭」内の拝所 ↓ 

 何段にも立ち上る「一の郭」の石垣 ↓

 

「一の郭」の南西側には「南の郭」に通じる「門」があります。

 

 「一の郭」と「南の郭」を区切るアーチ門 ↓

 

<南の廓>

「南の郭」は、何ケ所かの「御嶽」があり「拝所」となっていた郭です。城壁には「狭間」が繰り抜かれていて、その西側下にある「正門」を監視していたようです。

 

「南の郭」内にある「御嶽」 ↓

「南の郭」石垣の狭間(三眼銃用) ↓

 

「中城城」は、「琉球王朝」下に置かれた直轄地でしたので、「正門」は「王朝」の主城であった「首里城」の方向に向けていました。門の形式は、格式が有る「櫓門」或いは「四脚門」であったようです。

 

「正門」跡石垣 ↓

「正門」と「南の郭」の石垣 ↓

「正門」と「南の郭」の石垣 ↓

 

「中城城」は、人の手による改変があまりされてない「城(ぐすく)」ということで、3箇所の曲線使いの城壁と最も高い「三の郭」からの素晴らしい眺めが楽しめる「グスク」です。

 

<中村家住宅>

最後に、「中城城」の近隣には、18世紀中頃にこの地の地頭職であった「中村家」の住宅が残され、歴史的建造物ということで重要文化財に指定されています。琉球時代の上層農家の建物がそっくり残されていて、当時の暮らしぶりが解る貴重な住宅だそうです。

 

中村家住宅の正面 ↓

中村家住宅のアシャゲ(離れ) ↓

中村家中門と高倉 ↓

中村家メーヌーヤー(畜舎と薪置き場) ↓

中村家居間(三番座) ↓

中村家母屋客間(一番座) ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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曲線美の城壁とエメラルドグリーンの海が美しい「今帰仁城(なきじんぐすく)」

(沖縄県国頭郡今帰仁村)

●城主と歴史

14世紀後半に、沖縄に登場した3つの勢力圏の一つで、「北山王(ほくざんおう)」の居城です。当時は、「北山」「中山(ちゅうざん)」「南山(なんざん)」がそれぞれ覇権を競っていました。

 

早くから中国等大陸からの土木工事に影響されて「主郭」を石垣にするなどして築城したようです。

 

1416年に、後に沖縄を統一して首里を中心に「琉球国」の覇者となる「中山」に侵攻を受けて「北山」は滅亡して、「中山」の重臣が監察として入りました。

 

そして、1609年の薩摩国の侵攻によって実質的に廃城となります。

 

●お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「主郭」は、石材に適した石を産する標高100mの山塊に置き、約1km北方向には海が、東側の急峻な崖下には「志慶間(しげま)川」が流れるといった天然の要害です。

 

「主郭」後方の低いところに「志慶間門郭(しげまじょうかく)」を置き、「主郭」から北側にかけて、「大庭(うーみゃ)」、最も崇高な拝所の御嶽(うたき)である「御内原(うーちばる)」、その外側に「大隅(うーしみ)」を配して、「平郎門」から「外郭」が拡がります。

 

それでは、今回は石の城壁を見ながら「外郭」から「主郭」方向を目指します。

 

縄張図 ↓

 

<外郭>

駐車場近辺に建つ「今帰仁村歴史文化センター」や「交流センター」で概観をインプットしてスタートすると分かりやすいです。入口付近には「今帰仁城世界遺産」碑が建ちます。

 

「今帰仁城世界遺産」碑(後ろは大隅<うーしみ>) ↓

 

そこから拡がるのが「外郭」で、高さ2m前後の低い城壁の石垣が数百m蛇行しています。発掘調査では、大きな炉跡を持つ建物群や石積の基壇を持つ建物群が見つかっているそうです。

 

外郭の城壁 ↓

外郭 ↓

 

「外郭」から見える「大隅(うーしみ)」の湾曲する石垣は城内で最も高く「百曲がり(ももまがり)」と呼ばれていて、非常に美しフォルムとなっています。

 

大隅(うーしみ)の大きくカーブした石垣 ↓

大隅の曲線石垣 ↓

 

<大隅(うーしみ)>

「大隅(うーしみ)」の出入口が「平郎門」で、当城の正門です。現在の門は1962年に修復されたもので、左右に「狭間」があり天井には大きな一枚岩を乗せた堅牢な造りとなっています。

 

平郎門(表側より) ↓

平郎門内側の銃眼室 ↓

平郎門内側からの狭間 ↓

 

「大隅(うーしみ)」は、かなり広い面積を持ち、かつては兵馬を集めるための場所だったようです。

 

大隅(御内原から見下ろす、コバルトブルーの海が望める) ↓

大隅の石垣(御内原から見下ろす) ↓

 

<大庭(うーみゃ)、御内原(うーちばる)>

「大隅」から「七五三の階段」を進んでいくと、「大庭(うーみゃ)」という郭に出ます。この場所は、様々な行事等に利用され所々に「拝所」が設けられた重要な広場となっていたようです。

 

大庭(うーみゃ)跡

 

その東側の一段高くなった所には「御内原(うーちばる)」という郭があり、そこから眺める景色は最高です。この場所は「女官」達が住んでいた場所であり、城内で最も崇高な拝所の御嶽(うたき)が置かれた場所でもありました。

 

御内原(うーちばる)跡 ↓

御内原内の御嶽(アマチジ、テンチジ) ↓

 

 <主郭>

「大庭(うーみゃ)」「御内原(うーちばる)」の南側一段高いところに「主郭」が置かれ「本丸」と呼ばれる所です。発掘調査によって、かつての建造物の配置や形が判り、陶磁器などが多数出土されています。

 

主郭跡全体 ↓

主郭の建物礎石 ↓

主郭の基板の断面 ↓

 

主郭は、独特の曲線ある石垣で囲われていて、特に「志慶真門郭(しじまじょうかく)」に入る門に至る石垣が盛り上がる曲線美や「志慶真門郭(しじまじょうかく)」の監視を兼ねた「アザナ」という「物見台」も見所です。

 

主郭から「志慶真門郭」へ繋がる石垣 ↓

「主郭」周辺の石垣 ↓

主郭の「アザナ」と石垣 ↓

主郭の「アザナ」(「志慶間門郭(しげまじょうかく)から見上げる」 ↓

主郭から志慶真門郭への門 ↓

 

<志慶真門郭(しじまじょうかく)>

「志慶真門郭」(しじまじょうかく)」は、「主郭」の裏側の低いところにあり、戦略上重要な場所で城壁は原型に近い形で残っています。

 

発掘調査では、4つの掘立柱建物跡や炉跡が残っていて、城主に仕えた身近な人々が住んでいたようです。一番南には「志慶真門(しじまじょう)」が裏門としてあり、現在でも岩盤が残っています。

 

「主郭」から見下ろした「志慶真門郭(しじまじょうかく)」 ↓

「志慶真門郭(しじまじょうかく)」の石垣 ↓

「志慶真門郭(しじまじょうかく)」の石垣 ↓

「志慶真門郭(しじまじょうかく)」の建物群跡 ↓

「志慶真門郭(しじまじょうかく)」の建物群跡 ↓

「志慶真門(しじまじょう)」 ↓

 

 

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本日は、歴史のお話や「お城紀行」をチョット一休みして、我が家の庭に生育している「グレープフルーツ」のお話をします。

 

先日、お隣の方から、「グレープフルーツ」の木に2つ「実」がなってますよ!と言われてビックリポン!

 

まだ実は青いですが2個結実しています ↓

 

というのも、我が家の狭いマンション1階の庭に生育している「グレープフルーツ」の大木は、幹が太く葉っぱと枝だけがドンドン上へ延びて、今やマンションの3階辺りまで成長していて、管理人の方からも「上階の方に迷惑がかかるかもしれないので切った方がいいですよ」と言われていて、今秋のマンションの植栽日に切って貰おうと思っていた所でした。

 

赤丸内の真ん中の木(マンション3階まで伸びています) ↓

我が家ベランダから見上げた「グレープフルーツ」の大木(実は左端で見えない) ↓

 

実はこの「グレープフルーツ」は調べてみると、2004年に叔母宅のマンションのベランダで種から生育した20〜30㎝程の苗を貰ってきて庭に植えたもので、肥料も全く施さず徐々に大きく育ったモノです。

 

毎年、アゲハチョウが一杯飛んできて卵を産みつけは、葉っぱをエサにして幼虫からサナギ、成虫になって飛び立つアゲハチョウの基地となっていました。

 

幹も太く大木に ↓

 

「グレープフルーツ」なんて日本では実がならないものと諦めていたのですが、なんと苦節22年にして初結実しました。

 

初結実の実 ↓

 

きっと花も咲いていたんでしょうけど、かなり上の方で我が家のマンションから見えずらい位置だったので見逃していました。

 

グーグルで調べると、「グレープフルーツ」は日本でも生育するそうですが、やはり種からとなると15〜20年はかかるそうです。

 

ということで、昨日、早速コーナンへ行き柑橘類の肥料を買い求め、初めて幹の周囲に肥料を施してやりました。来年はもっと実が成るのを楽しみにしたいと思いますが、管理人さんからのアドバイスもありますので、上部はカットしてもらおうかな-と考えています。

 

初めて柑橘類の肥料を施しました ↓

 

本当に嬉しいお話で、来年のこの時期が楽しみです。

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日は、お昼の12時15分からのNHK BS4Kの放映を見ましたので投稿は早いです。


前回のお話では、「あさひ(旭)」の輿入れに続き、「秀吉」「秀長」の母「なか(大政所)」も「家康」に人質として送り込み、「家康」は根負けして上洛を果たしました。

 

対面前日の接待役「秀長」との対談では、「家康」も心を動かされる話もあり、更には「秀吉」によるお忍びの面会もあって、翌日の対面では、「家康」は「秀吉」に臣従を誓って、「秀吉」から陣羽織を拝受しました。

 

そして今日のお話の最初は、「家康」も味方に付け、関白として「京」での執務の拠点としての建築を進めていた「聚楽第」が完成します。今までのお城は、戦(いくさ)の為のモノであったが、これからは平和に過ごせる、政治を行う拠点とするお城でなければならないと妻の「寧々」に話をします。

 

完成を記念したお祝いを「茶会」を催して盛大にしてはどうかと甥の「秀次」(「信吉」から改名)から提案を受け「秀吉」もその気になりますが、「秀長」は「天下一統」も道半ばで時期尚早ではないかと反対します。

 

しかし「秀吉」は、「千利休」に命じて、大名から商人迄参加できる「大茶会」を北野で催すことを決めます。

 

「北野大茶会」は盛況裏に催されましたが、その間、その前後に色々な事が起こります。

 

家臣だった「高山右近」がバテレンとの繋がりを絶とうとしないことに対して「秀長」が取りなしを行いますが、「秀吉」は「右近」に改易を告げます。

 

「大茶会」に訪れた中に、嘗て「秀長(小一郎)」の恋仲であった「お直」が助けた娘が産んだ「鍋丸」が中村時代の友人「玄太」と現われ、「秀長」に「鍋丸」を奉公させて欲しいと懇願すると、「養子」にすると宣言、「秀吉」もそれを認めますが、おいの「秀次」は良い顔をしませんでした。

 

また、九州平定後、「肥後国」を任せていた「佐々成政」の不手際もあり一揆を起こされ収めることが出来ず「秀吉軍」が出兵、「成政」はその申し開きの為に「秀吉」に会いに上京してきますが、「尼崎」で足止めされ、「秀長」の「秀吉」に対する説得も聞き入れられず切腹を命じられます。

 

以上の様々な事が起こる中、「秀長」を訪ねたのが嘗ての室町幕府将軍「足利義昭」で今は僧侶となって現れます。

 

既に「秀吉」の噂を聞いたり、「大茶会」で会ったりしたようでしたが、「秀長」に対しては、「偉くなればなるほど人を変えてしまう。そして廻りの者も変えてしまう」ので、シッカリと「関白から離れないように」との助言を与えます。「秀吉」と「秀長」の間にも隙間風が感じられるようになった「秀長」は、今一度「豊作の世を作る」ことを目指すよう意に決します。

 

本日のストーリーは、今後の「秀吉」の行動を予見させるような下地作りのような感じを受けました。

 

さて、本日最後の「大河ドラマ紀行」では「北野大茶会」が開催された「北野天満宮」が紹介されていましたが、今回は「秀吉」が「京」での政務の場所として築城した「聚楽第」(京都府京都市上京区)について、嘗て「聚楽第」を紹介したブログを少しリメークして掲載しましたのでご覧ください。

 

一時「聚楽第」天守と謂われていた「飛雲閣」 ↓

 

●歴史と城主

「聚楽第」は、「羽柴秀吉」が「関白」となって築城を始め、1586年の「太政大臣」昇任時に「豊臣姓」となり、1587年に「聚楽第」に移ります。

 

そして翌年には「後陽成天皇」を「聚楽第」へ行幸させるとともに、「秀吉」は諸大名を臣従させます。

 

1591年には、甥で養子だった「秀次」に「関白職」と「聚楽第」を譲りますが、1593年に実子の「秀頼」が生れると、1595年には「秀次」に謀反の疑いがあるとのことで高野山に追放、その後切腹を言い渡します。そして、「聚楽第」も悉く破城されてしまいます。

 

その際には、建築中であった「伏見城」等に多くの建造物が移築されています(詳細は後述)。

 

●立地と縄張り

「聚楽第」のある場所は、「二条城」がある場所から北に約2~3㎞の所に拡がっていたようです。

 

「聚楽第」の縄張りですが、後述する石垣が出土した場所に「縄張り」絵図が掲出されていました。ガラスに水滴が付き見にくかったのでAI「ジェミニ」で修正しました。

 

縄張図(AI「ジェミニ」で修正) ↓

 

ザクッというと、「本丸」を中心に、「濠」が巡らされ、北側に「北之丸」、南側に「南二之丸」を「濠」越しに配備、また南西方向にも「濠」越しに「西之丸」が配備され、それぞれの周囲は「濠」で囲われていました。更に、それらの南側には「外郭南濠」が掘られていたようです。

 

そして「本丸」は、現在の「智恵光院通」と「中立売通」の交差点周囲から南東方向に拡がっていたようです。

 

●現在の遺構巡り

まず、南側からアプローチして行き、「南濠」跡があるという「松林寺」(京都市上京区分銅町智恵光院出水下る)に向かいます。

 

新しい山門前には「此附近 聚楽第南外濠跡」碑が立ち、山門から先は坂になり奥は低地となっていましたが、それが「濠」の形跡との事です。

 

「松林寺山門」の奥が下がっている ↓

「松林寺山門」の奥が下がっている ↓

山門前の碑 ↓

松林寺内から山門方向(濠の跡とか) ↓

 

次に、東に少し歩き「松屋町通り」を北に少し入った所に小さな「松永稲荷社」(京都市上京区南清水町)があります。その前には「常夜燈」と「碑」があり、「碑」には「聚楽第鵲(かささぎ)橋之旧蹟」碑と書かれています。「南二之丸」の南東にあたり、ここに「濠」を渡る「鵲橋」が架かっていたそうです。

 

「松屋町通り」と「松永稲荷社」 ↓

「松永稲荷社」の前に碑が ↓

「聚楽第鵲(かささぎ)橋之旧蹟」碑(右側) ↓


 

そこから北方向へ真っすぐ「松屋町通り」を上り、今時珍しい煙突が立ち入口上に唐破風の屋根が付くお風呂屋さん「長者湯」を左折して「上長者町通り」を西側に進みますと、「智恵光院通り」との交差点に出ます。東南角にある京都府警の社宅の様な建物を左折し、公園の手前に説明書きがある所が、「石垣出土場所」(上京区智恵光院通上長者町南東角)です。

 

ガラス越しで、中に露が付いていて「縄張図」が見づらくなっていましたが、石垣の出土風景の写真は良く解りました。

 

青い所の右に「説明書き」が設置(手前は、「智恵光院通り」) ↓

青い所に「説明書き」が設置(手前は、「智恵光院通り」) ↓

発掘調査時の石垣の状況写真(説明書きから撮影) ↓

 

「聚楽第跡」碑は二か所所在しています。まずは「聚楽第」の「本丸」西北端で現在は「正親小学校」の北東隅に立ちます。

 

一つ目の「聚楽第址」碑(京都市中京区新枡屋町425)は、「正親小学校」の北東隅に3つの碑と説明書きが纏められて立っています。

 

「正親小学校」の北東隅に3つの碑と説明書き(左端) ↓

「正親小学校」の北東隅の「聚楽第址」碑と説明書き二枚 ↓

 

まずはメインの「聚楽第址」碑ですが、その脇の説明書きから読み取ると、丁度、「正親小学校」の場所の東側を縦に走る「裏門通り」が、「西濠」があった所だとのことです。

 

こちらの「説明書き」は京都弁で解りやすく説明したものです ↓

 

そして同じ場所に立つ他の碑は、一つが「唐津小笠原藩邸跡」碑、もう一つが「平安京大蔵省跡」碑があった場所との表示でした。

 

「唐津小笠原藩邸跡」碑 ↓

「平安京大蔵省跡」碑 ↓

 

もう一つの「聚楽第址」碑(京都市上京区新元町222大宮通り)は、小学校の北側前を走る「中立売通り」を東側へ280mほど移動した「大宮通り」との交差点北西隅に立ちます。この碑には、「此付近 大内裏及び聚楽第東濠跡」と刻まれています。従って、「本丸」の横幅は約300m弱だったことがわかります。

 

もう一つの「聚楽第跡」碑 ↓

上記の「聚楽第址」の横側には「大内裏及び聚楽第東濠跡」と記載 ↓

 

この碑から道路を隔てた所には、現在「ハローワーク西陣」が建っていますが、建て替え工事の時には、ここからは「金瓦」が発掘されてそれが「重文」指定されているようです。

 

「金瓦」が発掘された「ハローワーク西陣」(この左「大宮通り」が東濠跡) ↓

 

前述しましたように、現在でも、各所に「聚楽第」の遺構と伝わる城郭建造物が見られます。「大徳寺唐門」(京都市北区紫野大徳寺町)は「聚楽第」のモノと認められていますが、その他にも遠くは、山口県の「常念寺山門」は、「毛利輝元」が「秀吉」から拝領したものと伝わります。

 

大徳寺唐門 ↓

「常念寺山門」 ↓

 

また、「妙覚寺大門」(京都市上京区)、「妙心寺播桃院玄関」(京都市右京区花園)にも移築建造物が伝わる他、「西本願寺飛雲閣」(京都市下京区堀川通花屋町入る)が「聚楽第」の「天守」相当の建造物との伝承も長年ありましたが、現在はそうではなく、「聚楽第」の何処かの建造物との意見もあるようです。

 

因みに「聚楽第図屏風」に描かれている「天守」は、四重で一階と二階は同じ大きさ、二重目を棟が南北方向の入母屋屋根にし、その上の三重目も南北方向の入母屋屋根にしていて、その上に望楼を乗せています。

 

「妙覚寺大門」(だいぶ以前に撮った写真なので色褪せてます) ↓

「西本願寺飛雲閣」(国宝、三層杮葺の楼閣建築) ↓

「西本願寺飛雲閣」(二層目は三十六歌仙が描かれた「歌仙の間」) ↓

「西本願寺飛雲閣」裏側から ↓

 

いずれにしても、それら伝承を想像するだけでも、私達素人は昔の絵姿や当時の暮らしぶりを想像し楽しませてもらえるので、それはそれで良いと思っています。

 

「聚楽第の遺構巡り」は、現在、町家や商店、住居等になっている姿が大半ですが、この下深くには、未だ見ぬ(未発掘の)伏見桃山時代に栄えた土地が埋まっていると思うと感激せざるをえません。

 

 

 

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今日のNHK番組「ブラタモリ」は「静岡県沼津市」でした。

 

「沼津」へは、新鮮な魚や朝採れ干物を求めて県内外から多くの人が訪れています。それは何故かの「お題」で進められました。

 

「富士山」からは栄養分が豊富な水が流れ込み、「黒潮」が「駿河湾」に注ぎ込まれ、更には「駿河湾」沖には深海がある、それらによって多くの魚や珍しい魚が集まる漁場となっていることが説明されました。

 

また歴史的には、明治時代の「東海道本線」の敷設の為に、その開通よりも前にその資材運搬用の鉄道が「沼津港」から引かれたことや、その後は「沼津港」から「沼津駅」まで魚を運搬する線路に付け替えられて再利用されたことを見てきました。

 

このように近年だけでなく、江戸時代中頃には、「沼津」に「沼津藩」が立藩して「沼津城」が築かれ、その「本丸」近くを旧「東海道」が通ると共に、そのすぐ脇には「狩野川」が流れ、伊豆半島上流から駿河湾までの交通の要所にもなっていました。

 

そんな「沼津城」にタモリさんは足を運びましたが、現在は「沼津城跡碑」が公園内に立つものの遺構が全く見当たりません。しかし「狩野川」沿いには明治初年に建てられた乾物を扱う店舗の石蔵が残り、船着き場辺りを散策して、当時の賑わいを思い起こすことができました。

 

遺構が何も残っていない「沼津城」ですが、以前(2019年)に投稿した「沼津城」(静岡県沼津市)を少しリメークして掲載しますのでご覧ください。

 

「沼津城」は、近世になって、中世戦国時代に築城されていた「三枚橋城」をベースに整備されたお城です。

 

曲輪図(中央公園内に掲出の解説板より) ↓

 

●歴史と城主

中世戦国時代に甲相駿の各国を、「武田家」「北条家」「今川家」が統治していましたが、駿河を領有していた「今川義元」が桶狭間の戦いで敗死した後は、「武田家」と「北条家」が凌ぎを削りました。「武田家」が、西側で台頭してきた「徳川家」に攻撃をしかけるべく、「三枚橋城」には「北条家」への抑えとして「武田家」の息のかかった者を配置しました。

 

その後、「徳川家康」により「武田勝頼」が滅ぼされ、「三枚橋城」は「徳川家」のものとなります。

 

1601年に「大久保忠佐」が城主となりますが、嗣子なく廃絶して、お城も廃城となりました。

 

その後、幕府の管理下に置かれますが、1777年になって「水野忠友」が、幕府からの築城許可と築城資金の貸与によって、「三枚橋城」の縄張りをほぼ踏襲した形で「沼津城」を築城します。

 

●立地と縄張り

「沼津城」は、「狩野川」を背にした「梯郭式平山城」で、「本丸」の北西方向に「二の丸」「三の丸」が造られました。

 

天守代用の「三階櫓」を「本丸」に建てて、「二の丸」には「二の丸御殿」を置きました。その後も普請は続き、「二重櫓」も建てられたようです。最終的には、「水野家」5万石の城下となり幕末・維新まで続きました。

 

●現在の姿

現在は、徹底的に破却されたので、お城の遺構は殆どと言っていいほどありません。これだけ、完全に破壊された近世城郭は、新潟県長岡市の「長岡城」にも匹敵するぐらいです。

 

沼津城本丸址の石碑 ↓

 

「本丸」跡は、静岡銀行や野村証券等の会社が建ち並ぶ市街地エリアとなっています。地名として「大手町」が残りますが、勿論「大手門」はなくその跡地は交差点となっています。

 

大手町交差点(大手門跡付近) ↓

静岡銀行前から野村証券迄の間が本丸跡 ↓

沼津城と三枚橋城の本丸跡(現中央公園) ↓ 

 

また、リバーサイドホテル前には、掘り出された「三枚橋城(沼津城)」当時の石垣が組まれているのを見ることができます。

 

また、メイン道路裏側の「中央公園」西側には、「本丸址碑」が立てられていますが、その基礎部分の石群は、「三枚橋城(沼津城)」で使用されていた石垣の石を使用しているとのことです。

 

発掘された三枚橋城の石垣 ↓

三枚橋城外堀の石垣(リバーサイドホテル前) ↓

本丸址碑周辺の石は三枚橋城で使用された石垣一部  ↓

 

「沼津城」の丑寅に位置した城の守護神であった「城岡神社」は、本殿等は焼失しましたが再建されています。

 

城岡神社 ↓

 

「乗運寺」は、藩主「水野家」の菩提寺で、立派な門、本堂、美しい庭園を見ることができます。

 

乗運寺山門(藩主水野家菩提寺) ↓

乗運寺本堂 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

”天守・重層櫓”を築かず”御殿”建築だけの薩摩藩の「鹿児島城」

(鹿児島県鹿児島市)

●城主と歴史

「島津家」は、戦国大名としての地位を築き九州統一に向けて、北九州の「大友家」と「龍造寺家」を破りましたが、「秀吉」の大軍に大敗して降伏しました。その結果、「島津義弘・家久(忠恒)」親子が豊臣政権で働くこととなり、朝鮮出兵でも活躍しました。

※「家久」は「貴久」の四男にもいる

 

「関ケ原の合戦」では西軍に参加したものの、戦後「家久」は、「義弘」が勝手に西軍に参加したと主張したことから、幕府も大軍を擁する「島津家」との対決を回避する為に、領土を安堵したようです。

 

その後も幕府は「島津家」に対して警戒を続け、一方「島津家」も、石高72万石の大大名にも拘らず目立った動きをしないよう、特に居城である「鹿児島城(鶴丸城)」は、「天守」は勿論のこと「重層櫓」も建てることを抑えて居館だけのお城に徹しました。

 

しかし、江戸時代中期頃からは、将軍家に接近する方向を採り、五代藩主「島津継豊」の妻に五代将軍「徳川綱吉」の養女を迎え、その後も八代藩主「重豪(しげひで)」の娘が、十一代将軍「家斉」の妻となります。また、幕末には、十二代藩主「斉彬」の養女「篤姫」が十三代将軍「家定」の妻に迎えられ、幕政に意見を言えるだけの地位を築くに至りました。

  

しかしながらその間、お城は一貫して、当初の居館中心のお城には変化がありませんでした。

 

<立地と縄張り>

標高107mの「城山」(中世の上山<うえやま>城跡があった)の麓の平地に築かれた「居館」で、まるで鶴が翼を広げた形に似ていることから「鶴丸城」と呼ばれました。

 

中世以来の館造りを踏襲した城は、華麗な御殿建築のみで構成され、「天守」や重層「櫓」は存在しませんでした。

 

「本丸」と「二の丸」の二曲輪で構成され南北750m・東西200mの規模で、お城の東側に一族や重臣の屋敷と役所群が置かれました。

 

1696年には「本丸」と「二の丸」の一部が焼失して、1704年に再建完了しました。

 

城内配置図 ↓

 

<本丸>

2018年度のNHK大河ドラマ「西郷どん」や2008年の「篤姫」のドラマの中で必ず映像で出現したのが、正門の「御楼門」の櫓門です。これは、正面10間(18m)もある豪壮な門で、右側に直角に折れて石段を上り「本丸御殿」に至る構造で、2階は「海鼠壁」を施しています。

 

この「御楼門」の復元工事が2020年3月に完成して立派な門を見ることが出来ます。

 

木造復元「御楼門」(2階部分に「海鼠壁」) ↓

木造復元「御楼門」(北東方向から) ↓

木造復元「御楼門」(南東方向から) ↓

木造復元「御楼門」の番所 ↓

木造復元「御楼門」内の階段↓

木造復元「御楼門」桝形部分 ↓

木造復元「御楼門」桝形から本丸跡へ ↓

木造復元「御楼門」(南面) ↓

木造復元「御楼門」(裏側=本丸跡から) ↓

古写真「御楼門」 ↓

 

その他の建造物は、「御楼門」の北側に「表具所多門」と呼ばれる1重2階の「多聞櫓」が配置され、本丸の北東隅で直角に折れて北側の「北御門」まで1重1階で繋がっていました。

 

そして、この北東隅の石垣は「鬼門除け(よけ)」の為に、内側に凹ます「切欠き」を行っていました。また、「本丸」跡の石垣はほぼ「切込接・布積み」になっています。

 

「御角櫓」「御楼門」「表具所多門櫓」が並ぶ古写真 ↓

北東隅の鬼門除け(この上に「表具所多門」が位置していた) ↓

「表具所多門」が建っていた所 ↓

 

その北東隅から北へ本丸石垣が延びて奥には「御北門」がありました。

 

北東隅から北へ伸びる本丸石垣(奥に御北門があった) ↓ 

「御北門」跡と土橋 ↓

本丸石垣(切込接・布積み)と堀 ↓

 

「本丸」跡は現在、「黎明館」という建物が建っていて、中は県の歴史資料センターです。鹿児島の歴史民俗や文化遺産に関する展示・研究が行われており、貴重な文化遺産が15万5千点も収蔵されています。

 

「本丸」跡と「黎明館」 ↓

 

南東隅角部には、「角(すみ)櫓」という平櫓が置かれていて、現在は櫓の跡を平面表示させています。その他には、門が数か所あり「唐御門」「塀重御門」「御中門」「桜之門」などが置かれていました。

 

「角櫓」跡(本丸の南東隅にあった) ↓

 

「本丸」は、政庁と藩主居館となり、「表書院」「奥書院」「奥向御殿」「裏書院」や「対面所」「広間」、「役人詰所」「台所」などの建物が建ち並び、「角櫓」の北側の「奥向御殿」には庭園と杮葺きの「茶室」「水屋」「小泉所」「麒麟の間」の数寄屋風の寛げる空間がありました。

 

「本丸御殿」の平面図 ↓

古写真「鷺の間」「麒麟の間」(現地に掲出) ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は「本丸」南側に位置していて「世継ぎ部屋」「御用部屋(家老たちの詰所)」「御勘定所(財政や民生を担当する役所)」がありました。

 

現在は、図書館、二の丸庭園などの敷地になり、「二の丸御門」跡がその出入口となっています。

 

「二の丸」の石垣は「打込接・布積み」ですが、特に「切石」という製法のより技術力が高い積み方になっています。

 

本丸跡と二の丸跡の境目石垣 ↓

二の丸跡側から見た本丸石垣(切石) ↓

復元された「深勝園」(二の丸庭園) ↓

「二の丸御門(矢来御門)」跡(右折れ) ↓

「二の丸」跡の更に南に延びる石垣 ↓

 

三方を石垣と堀とで囲い込んだ新城の居館の後ろには、中世からの後詰の「城山」(107m)を要していて、天守や高層櫓がなくても充分に守れる態勢を整備したお城でありました。

 

城山(鶴丸城の後詰めとなっていた) ↓

西郷隆盛像 ↓

 

城内には「御厩」がありましたが、その場所に「西郷隆盛」が新政府内での「征韓論」の議論に敗れて1874年に下野し、旧武士達の不平不満の暴発を回避する目的で陸軍士官養成する「私学校」を建てました。

 

しかし、この学校の生徒達が、「大久保利通」等に不満を抱いて「鹿児島鎮台」の弾薬庫を襲撃したことをキッカケとして「西南戦争」が起り、その後はこの学校は廃止されます。現在は、門と壁が残り、その壁には弾痕の跡が多数残されています。

 

御厩跡に建てられた西郷隆盛設立の私学校石垣 ↓

西郷隆盛の私学校石垣跡に残された西南の役での銃弾跡 ↓

市内から望める「桜島」 ↓

 

<外城制度>

また、「島津家」は、「一国一城令」の後も、本城の防御を担うべく隠れ城的施設の「麓(ふもと)」を、薩摩・大隅・一部日向国の中に約100箇所も持つ「外城(とじょう)制度」があり、本城がいざという時の為に、日ごろは「麓」で農業を行っている武士たちが駆け付ける仕組みが採られていました。「麓」の一部をご紹介しておきます。

 

「知覧麓」綺麗に刈り込まれた木々と整然と並ぶ切石の石垣 ↓

「知覧麓」内 ↓

「知覧麓」内 ↓

「知覧麓」内の平山克己邸の門 ↓ 

「知覧麓」内の平山克己邸の母ケ岳を採り入れた借景園 ↓ 

「加治木麓」 ↓

「重富麓」 ↓

「喜入麓」 ↓

 

<磯御殿>

最後に、「鹿児島城」から少し離れていますが、「島津家」の別邸である「磯御殿」を紹介しておきます。

 

ここには、庭園「仙巌園(せんがんえん)」があり、「桜島」を築山に、「錦江湾」を池に見立てた借景方式を採り入れた壮大な庭園で、「島津光久」が1658年に造園しました。

 

磯庭園と獅子乗大石灯籠 ↓

 

大河ドラマ「西郷どん」では、北川景子演じる「篤姫」が見守る中、渡辺謙演じる「島津斉彬」と鈴木亮平演じる「西郷吉之助」が力強い相撲をとっていた場所です。

 

磯御殿の遠景と庭園 ↓

 

幕末には、「島津斉彬」はこの庭園の敷地を一部取り込んで、「反射炉」を用いたヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなど、近代化を「集成館」で試みました。また1857年には、園内にある石灯籠にガス管を繋いで火を灯す実験なども行いました。

 

仙巌園内 反射炉跡(島津斉彬が鉄の必要性から作らせた) ↓

島津忠義時代に造った工場「就成門」へ送電する発電用貯水施設 ↓

鶴灯籠-日本で始めてガスを使用した灯籠(1857年) ↓

 

「磯御殿」は、明治時代に入り、島津家の鹿児島での生活の場として使用する為に大改築を施しました。また、立派な正門や、珍しい錫でできた屋根を持ち朱色の梁や柱の「錫(すず)門」も現存しています。

 

磯御殿正門 ↓

磯御殿玄関-明治17年改築された部分中心に三分の一が残る ↓ 

磯御殿-島津家の別邸として建造 ↓

磯御殿 殿居間 ↓

磯御殿 謁見の間 ↓

磯御殿 化粧の間 ↓

磯御殿内の錫門(光久のときに建造) ↓

 

 

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お城や旧藩主住まい”豫章館”の周囲は小京都の風情が色濃く残る「飫肥城(2)」

(宮崎県日南市飫肥)

●城主と歴史、立地と縄張り

     ↓

 

縄張図 ↓

 

●お城の概要と特徴

今回「飫肥城(2)」では、「飫肥城」の城郭建造物であった「長倉」や、廃藩後に旧藩主「伊東家」の住まいとされた「豫章館(よしょうかん)」、更に「藩校」の建造物、そして「重要伝統的建造物群保存地区」となっている城下を見ていきます。

 

<城下「重要伝統的建造物群保存地区」>

お城の遺構としては、屋根が本瓦葺と巨木の小屋組みが特徴である「飫肥藩役所物産方の長倉」が、「櫓門」を入る手前の広場に建ちます。

 

現在は、飫肥名物の「カツオメシとおび天」を食べさせてくれる「おび天本舗」の店舗となっています。カツオの生身にお茶をかけて食べる「カツオメシ」と、少し甘めの天ぷら「おび天」を、昼食にいただけます。

 

飫肥藩役所物産方の長倉(現 おび天本舗所有、それ迄は大手門茶屋として使用) ↓

 飫肥藩役所物産方の長倉 ↓

 

1977年に、「飫肥城」と城下の武家屋敷群が、九州初の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、お城以外にも見るべき所が一杯あります。

 

藩校である「振徳堂」や、1869年(明治2年)に建てられた藩主「伊東家」の住まいである「豫章館(よしょうかん)」の屋敷と庭園などの他にも、多くの武家屋敷や町家が残り、九州の小京都とも言われるほど、しっとりとした雰囲気が漂っています。

  

1869年に建てられた藩主「伊東家」の住まいである「豫章館(よしょうかん)」は、「大手門」の前に立派な「薬医門」を持つ武家屋敷です。明治2年に旧藩主の「伊東祐帰(すけより)」が知藩事に任命されて、「本丸」からこちらに建築した屋敷に移り住みました。

 

薬医門の先には、千鳥破風の玄関を持つ「母屋」の他に、「数寄屋」「雑舎」などの建造物があり、その前には「武楽(学)(ぶがく)流」の枯山水の庭園が拡がっています。

 

豫章館の薬医門と源氏塀(腰長押下は黒板張り、上は白漆喰壁に瓦屋根付き) ↓


豫章館玄関(千鳥破風の玄関屋根、主玄関と脇玄関あり) ↓

豫章館主屋の主座敷 ↓

豫章館主屋主座敷の中 ↓

豫章館主屋奥座敷の中 ↓

豫章館数寄屋 ↓

豫章館数寄屋の中 ↓

豫章館数寄屋の欄干 ↓

豫章館庭園(武学流の作庭) ↓

豫章館庭園南側の塀(埋門) ↓

 

藩校「振徳堂」は、お城の東側へ延びる「横馬場通り」を進むと、「常真馬場通り」と「八幡馬場通り」との交差点の角にあります。

 

1831年に開校され、近代日本外交の礎を築いたといわれ「日露戦争」後の「ポーツマス条約」の締結を行った「小村寿太郎」もこの藩校出身です。

 

「振徳堂」の建物は、「長屋門」と主屋の「玄関」と「当番の間」「素読の間」が残ります。 

 

藩校「振徳堂」の建物配置図 ↓

藩校「振徳堂」現存の長屋門 ↓

藩校「振徳堂」現存の主屋(1831年藩主祐相が増改築) ↓

藩校「振徳堂」(玄関から当番の間) ↓

藩校「振徳堂」素読の間 ↓

藩校「振徳堂」主屋全景 ↓

 

「大手門通り」沿いと、「本町通り」沿いには、豪商だった「旧山本猪平」邸、「小村寿太郎」の生家、表座敷・中座敷・奥座敷・茶の間・土間が残り藩主の重臣であった「伊東伝左衛門」邸があります。

 

旧山本猪平邸(豪商)の大手門通りに面する門 ↓

旧山本猪平邸 主屋 ↓

旧山本猪平邸主屋座敷 ↓

伊東伝左衛門邸(上級家老屋敷、150石、棟門と源氏塀)↓

伊東伝左衛門邸(中は、表座敷、中座敷、奥座敷、茶の間、土間) ↓

伊東伝左衛門邸の庭 ↓

 

また、主屋と蔵5件が国の登録有形文化財になっている「旧高橋源次郎家」邸、明治初期に豪商だった「山本五兵衛」が建てて商家を資料館にした白漆喰塗り込めの建物など、江戸風情をふんだんに残していますので、ぶらぶらと散策するのが楽しくなる街並みです。

 

旧高橋源次郎邸の門と塀 ↓

旧高橋源次郎邸 ↓

郡司家(下大手地区の武家屋敷、薬医門、切石の上に建つ塀) ↓

服部邸(武家屋敷通り) ↓

後町通りの武家屋敷と鯉遊泳 ↓

後町通りの武家屋敷と鯉遊泳 ↓

小村寿太郎生家(1921年に当地へ移設) ↓

 

「報恩寺」跡に建つ「五百禩(いおし)神社」の奥には「伊東家累代の廟所」があります。「報恩寺」は「伊東家」の菩提寺でしたが、1872年の廃仏毀釈によって廃寺となり、墓所は引継ぎされました。

 

「報恩寺」跡に建つ「五百禩(いおし)神社」 ↓

伊東家累代の廟所内の墓碑 ↓

 

 

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大手門の櫓門、裏門、松尾の丸御殿が復興されている「飫肥城(1)」

(宮崎県日南市飫肥)

●城主と歴史

戦国時代に、日向国飫肥の地を領していた「伊東家」は、「島津義久」に領地を奪われましたが、九州遠征時の「豊臣秀吉」に助けを得て旧領を回復しました。

 

「伊東家」は「関ケ原の合戦」では、領地を奪われ恨みもあった「島津家」に対抗する為に東軍につきましたので、戦後は本領を安堵され「飫肥城」は5万1千石の居城として幕末・維新まで続きます。

 

●お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「飫肥城」は、櫓門の「大手門」を入ると、「松尾の丸」「中の丸(新本丸)」「旧本丸」「今城」の曲輪が並びます。

 

「旧本丸」は、「松尾の丸」の北側に一段と高い土地に築かれていましたが、1660~1680年頃に生じた地震によって甚大な被害を受けたことから、幕府の許可を得て「中の丸」と「今城」を平たんに地ならしを行い、「新本丸」に大改修を行いました。

 

「旧本丸」の北側には、「西の丸」「松の丸」「中の城」「北の城」の曲輪が造られ、それぞれの曲輪の周囲には「空堀」を設けられていたので、攻められても次々と曲輪に逃げ込める仕組みがあるお城でした。

 

縄張図 ↓

 

<大手門周囲>

現在は、明治時代の廃城時に取り壊されていた「大手門」の櫓門が地元飫肥杉によって1978年に復興され、門の前両脇には「空堀」が巡らされています。また「大手門」は枡形を形成しその内部には、白壁の「長塀」が「切込接」の石垣の上に復元されています。

 

飫肥城 復興大手門(飫肥杉で1978年に建築) ↓

大手門前の堀(向かって右側) ↓

 

櫓門から大手桝形に入り左斜め前から出ると「犬馬場」(右)跡と「本丸」(左)跡に至る石段を上ります。

 

復興「大手門」の櫓門(城内より) ↓

復興大手門から大手道を望む ↓

復興大手門桝形(大手門の左側) ↓

櫓門桝形を取り囲む「築地塀」と「控柱」 ↓

復興大手門から桝形を通り犬馬場(右)と本丸(左)に至る石段 ↓

 

石段を上がると、右手に現在は小学校のグランドになっている「中の丸(新本丸)」跡へ入る虎口があり、左手には「松尾の丸」跡の入口となります。 

 

「中の丸」跡に入る門跡 ↓

 

まずは「松尾の丸」跡から見て行きましょう。

 

<松尾の丸>

「松尾の丸」には、1979年に木造による「復興御殿」が、「二条城」などの外観や内部を参考にして復興されています。

 

「御殿」内部は、玄関を2か所持たせ、書院造りの中には「御座の間」「化粧の間」「御寝所」「湯殿と涼櫓」「台所」などの部屋を再現させています。

 

御殿の平面図 ↓

復興 松尾の丸御殿の2つの玄関 ↓ 

松尾の丸御殿屋根瓦 飫肥藩伊東家家紋(中大丸十曜) ↓

松の丸御殿の主玄関 ↓

松尾の丸御座の間(書院造り) ↓

御座の間の前の廊下 ↓

松尾の丸御化粧の間 ↓

松尾の丸茶室 ↓

 

「湯殿」は、樹齢100年を超える飫肥杉を使用して、京都西本願寺の国宝「飛雲閣」の「黄鶴(おうかく)台」の浴室を模して再現されたようです。また、風呂上がりの後に涼める「涼櫓」が復元されているのは珍しいです。

 

松尾の丸御湯殿 ↓

松尾の丸涼み櫓(1階湯殿) ↓

松尾の丸涼み櫓と長局 ↓

松尾の丸長局 ↓

松尾の丸女中の間 ↓

松尾の丸台所と土間 ↓

松尾の丸賄方(まかないかた) ↓

松尾の丸土間 ↓

 

<旧本丸>

「旧本丸」は、階段を上った場所にあり、「表門」の枡形や礎石が残ります。中は広大な敷地で、現在は成長した飫肥杉が所狭しと植わっています。そして「西の丸」「松の丸」等の北側の曲輪に通じる復興「裏門」が1979年に「薬医門」で建てられています。

 

旧本丸入口部分石垣、切込接 ↓

「旧本丸」入口の門礎石 ↓

旧本丸の桝形部分 ↓

旧本丸全景 ↓

旧本丸全景(苔生して、飫肥杉が林立) ↓

旧本丸 復興裏門 ↓

旧本丸 復興裏門(旧本丸側から) ↓

「中の城」跡(現飫肥中学校グランド)と「北の城」跡 ↓

 

<新本丸(中の丸)>

「新本丸」跡には、飫肥小学校とそのグランドが拡がり、その南側は「犬馬場」が横たわっています。「犬馬場」端にある二階櫓跡の上には「鐘つき堂」が建てられています。

 

「旧本丸」跡から「中の丸」跡への石段 ↓

中の丸(1693年からこの場所が本丸に。飫肥小学校グランド) ↓

中の丸東端の石垣(現飫肥小学校) ↓

犬馬場の広場と二階櫓跡に建つ釣り鐘堂 ↓

隅櫓台(左犬馬場)と鐘つき堂(犬馬場の上隅櫓跡に建つ) ↓

鐘つき堂 ↓

 

また、「犬馬場」東端には結構高さのある「土塁」が取り囲んでいるのを見ることが出来ます。

 

「犬馬場」東端にある「土塁」 ↓

 

次回「飫肥城(2)」では、「飫肥城」の城郭建造物であった「長倉」や、廃藩後に旧藩主「伊東家」の住まいとされた「豫章館(よしょうかん)」、更に「藩校」の建造物、そして「重要伝統的建造物群保存地区」となっている城下を見ていきます。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

遠くから雲霞の如く見える石垣群の”西の丸”と江戸情緒溢れる城下がある「岡城(2)」

(大分県竹田市)

●お城の歴史と城主、立地と縄張り

      ↓

https://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=12981818298

 

岡城全景絵 ↓

 

●お城の概要と特徴

今回「岡城(2)」では、城内にあった「御廟所」跡、遠方から雲海のように見える石垣群の「西の丸」跡、そして「武家屋敷」通りがあった「城下」を巡って行きたいと思います。

 

<御廟所跡>

本丸から「三の丸裏門」を通り、更に東側に進みますと「東中仕切門」跡の石垣が横たわっています。

 

三の丸裏門(本丸からの出入口) ↓

東中仕切跡石垣と奥に本丸金倉跡 ↓

 

そして、「米倉」跡の敷地に沿って歩くと「廟所」跡の敷地が拡がりますが、その手前左側に藩主専用の門といわれる「清水門」跡があります。

 

清水門跡石垣 ↓

 

「廟所」跡は、広大でかつてはここに墓所があったそうですが、現在は入口部分の石段と門跡が僅かに残るほどです。

 

御廟所の石段と門跡 ↓

御廟所跡 ↓

 

 

 

そしてこの「廟所」沿いの石垣に沿って進むと、「中川家」が入城する1594年頃までは「大手門」として使われていた「下原(しもばる)門」跡の石垣が聳えています。

 

御廟所の石垣が下原門跡迄続く ↓

下原門の櫓台石垣 ↓

「下原門」跡石垣 ↓

 

ここまでが、山上部分のお城の東端となります。

 

<西の丸>

それでは、もう一度来た道を戻り「城代屋敷」跡付近から「西の丸」へ移動したいと思います。最初に見た「大手門」跡に戻り、「西の丸」跡に足を運び入れます。

 

まず、「西の丸」跡を俯瞰する為に、「三の丸」跡の「城代屋敷」跡や家老「但見屋敷」跡付近から望むことをお薦めします。目の前に拡がる石垣は、まるで何重にも重なる雲海のように霞んで見えます。

 

西の丸、民部屋敷、覚左衛門屋敷の各跡石垣を望む ↓

 

これら雲海のような石垣の正体は、家老「中川覚左衛門屋敷」跡、家老「中川民部屋敷」跡、「新屋敷」跡そして「西の丸御殿」跡です。これだけの石をどこから運び、そして積み上げたのか、当時の人達の凄さが伝わってきます。

 

武具方跡石垣(賄方跡から) ↓

但見(家老)屋敷石垣と賄方跡 ↓

普請方跡から民部(家老)屋敷、西の丸御殿跡を望む ↓

西の丸御殿(新屋敷)門跡 ↓

 

「西の丸御殿」は、三代藩主「中川久清」の隠居所として造営されたものですが、その後も「御殿」として使用されました。「大手門」から「御殿」に続く石段は20mもの幅があり、他のお城でも例がないそうです。

 

東門跡(西の丸御殿への幅20m石段) ↓

民部(家老)屋敷から西の丸石垣を臨む ↓

 

「中川覚左衛門屋敷」跡は、板床の上に間取りを復元して、居間の様子がよくわかるようになっています。

 

この屋敷跡に続いて「普請方」跡がありますが、その奥にはお城と城下町を繋ぐ3つの道の一つの入口「近戸(ちかど)門」跡があります。この門を抜けると、「七曲り」を通って城下へ出ます。

 

中川覚左衛門(家老)屋敷玄関付近 ↓

中川覚左衛門(家老)屋敷復元間取(居間付近) ↓

中川覚左衛門(家老)屋敷の井戸跡と櫓台跡 ↓

普請方跡入口 ↓

近戸門跡石垣 ↓

近戸門跡石垣 ↓

 

<城下>

城下に降りて、城下町を訪ね歩きたいと思います。

 

「家老屋敷」奥にある「近戸門」跡から「七曲り」で下っていきますと、竹田高校付近に出ます。そして、「鷹匠町」という如何にも武家屋敷街であった名前の町名が残る所に、「武家家老屋敷」跡の石垣が横たわっています。

 

鷹匠町の武家家老屋敷跡石垣 ↓

 

その前を通り、「稲葉川」沿いに出ますと、川沿いには復興土塀と石の行燈が、「岡藩主おたまや公園」付近まで、見事なまでに立ち並んでいます。夜に、この行燈に火が灯されれば素晴らしい光景になることでしょう。

 

稲葉川沿い復興土塀と石の行燈 ↓

 

「岡藩主おたまや公園」は、藩主「中川家」の墓所となっている「碧雲禅寺」を取込んだ公園となっています。「龍吟池」という池を前面に設け、石橋を渡ると墓所の廻りを巡らす土塀の門に至る構造となっていて、極楽浄土へ渡ることをイメージした素晴らしい光景です。

 

中川家墓所(碧雲禅寺、龍吟池を渡る橋と土塀) ↓

中川家墓所(碧雲禅寺)門 ↓

中川家墓所(碧雲禅寺、中川久持墓所) ↓

 

ここから、竹田駅へ戻る道沿いには「小京都的」な城下町が凝縮されています。

 

まず、「殿町武家屋敷通り」は、土壁の土塀と白壁に続いて土壁の長屋門などが残り、江戸時代の風情が残る一帯です。

 

更に、そこから少し山に登った所には、重要文化財で宝形造りの形をした「愛染堂」が建っていいます。これは1635年に「中川久盛」が江戸城普請の無事を祈願して建立されたものです。

 

殿町武家屋敷通りの土壁と白壁の土塀が続く ↓

殿町武家屋敷通り沿いの土壁の長屋門と白壁の蔵 ↓

愛染堂(宝形造り、国重文) ↓

 

石段を降りますと、1806年築の「御客屋敷」が現存しています。この屋敷は、来藩した客人を迎える屋敷として造られたものです。また、この界隈には、「滝廉太郎」が住んでいた家を活用した「滝廉太郎記念館」もあります。

 

御客屋敷 ↓

滝廉太郎記念館(「滝家」の表札がかかる) ↓

 

白壁が続く「八幡川横丁」には、道の脇に水路が流れていて涼しげな気持ちの良い横丁となっています。

 

更にJR「竹田駅」方向に歩みますと、「上町通り沿い」の町屋建築が道脇に続き、雛祭りの時期には、各町家の中に様々な雛人形が飾られ目を楽しませてくれます。

 

八幡川横丁(白壁が続く、道の脇に水路) ↓

上町通り沿いの町屋建築 ↓

ギャラリー竹びな(500本並ぶ、城下町雛祭り) ↓

 

全く、城郭建造物が残らないお城ではありますが、これでもかという程の石垣の凄さ、立派さにすこぶる感動できますし、町内では江戸時代の雰囲気を満喫できてお城巡りをすることができる城下町になっています。

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

九重連山を望む山頂に築かれ総石垣造りの近世山城だった「岡城(1)」

(大分県竹田市)

●お城の歴史と城主

「岡城」は、「大友家」の領地であった「岡城」に対して、薩摩の「島津家」が豊後に攻めてきましたが、「大友家」の重臣「志賀親次」の指揮で再三にわたって「島津軍」を撃退したので、「豊臣秀吉」からは褒賞を受けました。しかし、「大友家」が「秀吉」から朝鮮出兵の働きに対する責めを負った為に「親次」は「岡城」を去ることになりました。

 

その後「岡城」の城主となった「中川家」は、戦国時代末期に、「中川清秀」が摂津の有力者となり、「清秀」の息子「秀政」の妻に「織田信長」の娘を迎えることによって、「信長」の傘下に入ります。

 

「本能寺の変」以後、「清秀」は「豊臣秀吉」に従いますが「賤ケ岳の戦い」で戦死、息子の「秀政」は朝鮮出兵で戦死した為に、「清秀」の弟「秀成」が「中川家」を継いで、「関ケ原の合戦」では東軍についたので「岡城」は安堵され、江戸時代を通じて豊後の竹田を治めました。

 

「岡城」の城主(藩主)で三代目「中川久清」についてのエピソードを紹介したいと思います。

 

「久清」は、「熊沢蕃山」に心酔していて、本人を岡山藩から招聘することによって藩政の強化を図りました。

 

また「久清」は、九重連山の「大船山」を凄く好みましたが、少し足が不自由だったので、強靭な担ぎ手の肩に乗る「ひとうま」という鞍に乗せてもらって絶えず山登りをしていました。そしてお墓は、「久清」が大好きだった「大船山」中腹に造らせました。

 

この、担ぎ手「ひとうま」と「久清」を登場させた短編小説「ひとうま譚」が、「白石一郎」著の「島原大変」の中に納められていますので、一度是非ご覧ください。

 

●お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

325mの「天神山」の上に東西2.5㎞、南北0.4㎞の幅で横たわる典型的な山城で、「中川家時代」に縄張が西側に拡張され、本丸、二の丸、三の丸、三の丸御殿、櫓を造営しました。

 

「本丸」には、「御三階櫓」を建てて、「志賀家時代」に「大手門」の役割を担っていたのが「下原門」でしたが、「中川家時代」には、「近戸門」を新たに造って、西側に「大手門」を変更しました。

 

更に、二代「久盛」の時に「清水門」が造られ、三代「久清」の時には「西の丸」を築いて、重臣屋敷を吸収した「西の丸御殿」を造営しています。

 

1771年の大火で城郭建築物の大半が焼失、更には1871年の廃城令ですべての建造物が破却されてしまいましたので、移築現存している城郭建築物は皆無となっています。

 

岡城全景絵 ↓

 

<大手門~蔵・家老屋敷・城代屋敷>

それでは、現在どのような「兵(つわもの)どもも夢の跡」となっているかを、登城口である「大手門」方向から、尋ね歩いていきます。

 

現在売店が建っている「鉄砲方詰所」跡をスタートしますと長い登り道があり、その片方には、「蒲鉾型石塁」がそそり立つ「大手門」石垣に向かって続きます。

 

かまぼこ型石塁(右上に大手門の石垣が見える) ↓

 

石垣の右側に「車軸築石積み」が残ります。大きな石が車の軸に見えることから、そのような呼び方になっています。所謂「鏡石」です。大手門は、左側に折れる枡形になっています。

 

「かまぼこ型石塁」沿いの登城路から見上げる「大手門」石垣 ↓

大手門石垣(右側に車軸築石積みが見える) ↓

大手門の礎石(櫓門であった) ↓

大手門の桝形と雁木 ↓

古大手門跡石垣(朝日が眩しいとの理由で加藤清正が現地へ移転させた) ↓

 

「大手門」からは、東手に向けて比較的平坦な道があり、そこを進むと「朱印状倉」跡、「中休憩所」跡、「家老中川但見屋敷」跡、「賄方」跡が、平坦な土地に拡がります。

 

朱印倉跡(奥は西の丸御殿跡) ↓

家老中川但見屋敷の石垣 ↓

家老中川但見屋敷入口跡 ↓

家老中川但見屋敷跡(奥に見えるのが「西の丸」跡) ↓

 

東に向かって進み「城代屋敷」跡、「籾倉」跡沿いの道を通り過ぎると、石垣に突き当たります。

城代屋敷跡 ↓

 

<三の丸>

「三の丸」入口には「西中仕切門」跡とその脇に据えられた「鐘櫓」跡の櫓台石垣が控えています。この後目にする門や櫓台の石垣の積み方が「切込接(はぎ)・布積み」が多いですが、江戸時代に入り各所において積み直しがされていると思われます。

 

西中仕切跡の石垣 ↓

「鐘櫓」台 ↓

 

そこを通り抜けると目の前に見えるのが、険しく切り立った崖になっている美しい「三の丸」の高石垣で、古くはJRの観光キャンペーンポスターの写真にも使われ、最近でも良く写真で目にする風景です。

 

三の丸の高石垣 ↓

三の丸の高石垣(険しく切り立った、JRのポスターに使用) ↓

 

「太鼓櫓門」跡の石垣が行く手を遮り、「武具庫」跡、空井戸が「三の丸」跡敷地内に並んでいます。少し高く石垣が築かれた敷地が「本丸」跡ですが、そこへは一旦「二の丸」跡に入ってから「本丸入口門」を通るルートで進みましょう。

 

太鼓櫓門跡 ↓

太鼓櫓台跡 ↓

「三の丸」跡(右の石垣は「本丸」跡石垣) ↓

「武具庫」跡 ↓

三の丸跡と二の丸跡の間の空井戸(1594年築城時に造られた) ↓

 

「三の丸」跡の西側から望める曲輪跡が「西の丸」跡で、「西の丸」跡の素晴らしい石垣群を見ることが出来ます。ここで一部を見ていただきます。

 

三の丸跡から西の丸跡方向 ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は三角形をして突出し、先端には「月見櫓」が設けられていました。ここからの「九重連山」の眺めは素晴らしいです。

 

二の丸跡(この先に月見櫓跡がある) ↓

二の丸月見櫓跡の高石垣 ↓

二の丸跡の高石垣 ↓

 

前述の、「久清」もこの「月見櫓」から眺めては、連山の中にある「大船山」登山への衝動を抑えきれなかったのではないでしょうか。

 

二・三の丸跡から一望できる九重連山(大船山中腹に中川久清の御廟あり) ↓

 

「二の丸」跡には、「滝廉太郎」像が、お城から遠くを眺めながら座っています。「滝廉太郎」が少年時代に遊び場だった場所で、「荒城の月」の作曲を構想したお城として有名です。因みに、その作詞は「土井晩翠」が故郷の「仙台城」で想いを描いた詞とのことです。城下町には、「滝廉太郎」が住んでいた家も残されています。

 

滝廉太郎像(二の丸跡内) ↓

 

<本丸>

本丸入口には、「本丸門」の礎石が残り、本丸跡にも「御三階櫓」跡、「金倉」跡の礎石を見ることができます。「御三階櫓」は、創建当初のモノは1769~71年頃に風雨と地震によって倒壊しましたが、1774年に再建されて明治時代まで残っていました。

 

二の丸跡から見た本丸石垣 ↓

本丸門の礎石 ↓

本丸跡 ↓

「本丸」跡内に建つ「天満社」 ↓

 

再建された「御三階櫓」は、最上階に「廻縁」を巡らせて、渡櫓によって「本丸」北西隅にあった三重の「角櫓」と連結し、北東側には「続櫓」が付く「層塔型」でした。

 

御三階櫓台(この辺りの石積みは「落とし積み」が見られる) ↓

「御三階櫓」台上の礎石 ↓

角櫓台(小御三階櫓台)本丸石垣と三の丸跡から本丸跡へ上がる石段 ↓

本丸金庫櫓台 ↓

本丸金庫台上 ↓

本丸金庫跡石垣の積み増しが見られる珍しい石垣(大分県の中津城、熊本県の熊本城でも見られます) ↓

 

次回「岡城(2)」では、城内にあった「御廟所」跡、遠方からは雲海のように見える石垣群の「西の丸」跡、そして「武家屋敷」通りがあった「城下」を巡って行きたいと思います。

 

 

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