コロナ禍で、見学が中止されていた「和田岬砲台」(兵庫県神戸市兵庫区)の見学が再開されていたので、先日、「三菱重工」のHPからネット予約申込をしていて、本日(5/9)がその日となりました。かれこれ3年近く待っていたので非常にワクワクして出かけました。

※見学日は、毎月第二木曜日の午前9時30分と10時20分で定員20名です。

 

そして折角、神戸まで足を伸ばすからには、他にも行くところが無いかと考えて、本日は「砲台巡り」をしようとして「明石藩舞子台場跡」(兵庫県神戸市垂水区)と「西宮砲台」(兵庫県西宮市)にも足を運ぶ計画を立てました。同時に、舞子に行くならば少し電車に乗れば「明石城」(兵庫県明石市)へも行けると欲張り、タイムスケジュールの計画表を作成しました。

 

和田岬砲台」は、「三菱重工神戸造船所」正門集合で、敷地内はマイクロバスで「砲台」前まで移動でした。

 

「三菱重工神戸造船所」正門 ↓

 

外観の写真は撮れると思っていましたが、敷地内は一切写真撮影はNGで砲台内だけ写真撮影ができるといった、通常のお城内や寺院内とは全く逆の対応でした。というのも、敷地内は潜水艦製造や原子力、宇宙産業などの国家機密の塊の場所であることから全くダメの対応です。

 

しかし外壁は綺麗に切り石が積まれ、一部漆喰が残っている姿なども目にすることができて感動モノです。また中は当時の技術力の高さとかなりのお金をかけて造られた様子が伝わってくるような堅固な造りになっています。社員の方が詳細に説明をされて、中の写真は自由に撮れました。

 

木材の丈夫さが伝わります ↓

砲台の玉を収納する棚 ↓

大砲を打ち続けて加熱するのを冷やす水を供給する井戸 ↓

 

帰りには、詳細な内容等が記載されたパンフレットをいただき、外の写真が撮れなかったけれども、パンフには写真が掲載されていたので満足しました。

 

パンフに掲載されている「和田岬砲台」の写真 ↓

 

11時に解散となり、「三菱重工」社員通勤用で朝夕しか走っていないJR和田岬線の「和田岬駅」の写真を撮り、地下鉄湾岸線で「新長田駅」まで行き、昼食を取ってからJR神戸線で「舞子駅」へ向かいました。

 

JR和田岬駅 ↓

 

「舞子駅」下車は初めてで、ここから「淡路島」へ渡るバスが出ています。「明石藩舞子台場」跡は駅からすぐのところにあり、総石垣造りの台場だったそうで発掘調査がされましたが殆ど埋め戻されているので、現在は一部の石垣とWの形が残る程度でしたが、真ん前には「明石海峡大橋」と「淡路島」が見える絶好の位置で、しかも青天であったので非常に美しい光景が望めました。

 

「明石藩舞子台場」跡の石垣の一部 ↓

「明石海峡大橋」と「淡路島」(「台場」脇から) ↓

 

「舞子駅」から「明石駅」までは電車で5分という近さ、「明石城」の登城は久々でしたので、この選択は良かったと自画自賛。

 

明石城」の縄張り図を朝出かける前にネットで抽出してプリントアウトしてきたので、それに沿って巡回しました。

 

先ほども記載しましたが、本当にいい天気で空も真っ青でしたので、「坤櫓」「巽櫓」共に綺麗に写真が撮れました。また、「二の丸」「東の丸」の各跡の境目も以前は曖昧でしたが、今回はハッキリと理解できましたし、「東の丸」跡から「東帯曲輪」跡へ下りる坂道と「箱堀」へ繋がる道の間の複雑な桝形門もジックリ観察できました。

 

「大手門」桝形から両櫓が見える ↓

重要文化財「坤櫓」 ↓

重要文化財「巽櫓」 ↓

手前は「巽櫓」奥が「坤櫓」 ↓

両櫓の間の「土塀」に付く「鉄砲狭間」から「三の丸」跡を見る ↓

「天守台」(稲荷曲輪から見上げる) ↓

 

「高石垣」が続く「本丸」「二の丸」「東の丸」北側の「桜堀」は鬱蒼とした場所で更に「北の丸」に繋がる密林地は「山城」を彷彿するようでした。

 

「二の丸」「東の丸」各跡の「高石垣」 ↓

「桜堀」側から見る「本丸」跡の「高石垣」 ↓

「桜堀」(東方向) ↓

「桜堀」の北側の密林 ↓

 

「稲荷曲輪」跡の西面の石垣や東西の「不明門」跡の石垣もキッチリ残っているのを確認できました。

 

「稲荷曲輪」跡西面の石垣 ↓

「西不明門」跡 ↓

 

約1時間半で足早に「明石城」を見学した後は、JRで「三ノ宮駅」まで行き、阪神電車に乗り換えて「香櫨園(こうろえん)駅」まで乗車して、「夙川」脇の桜と松並木の道を南下していきました。いい並木道です。

 

「夙川」脇の桜と松の並木の道 ↓

「夙川」には沢山の鯉のぼりが泳いでました ↓

 

「香櫨園(こうろえん)」は私が小学校低学年のころ、両親に連れて貰って海水浴場に来たことがある場所ですが、現在は海の沖は埋め立てられていて工場地帯、住宅地帯に変貌しています。

 

「夙川」が海に流れ込む砂浜が「御浜公園」となっていてその東端に「西宮砲台」と外郭の一部が残ります。

 

「夙川」が海に流れ込む砂浜 ↓

「西宮砲台」 ↓

 

「西宮砲台」の内部の木造部分は火災になってコンクリートで修築されたそうですが、外観は当時のままだそうです。中へは入れませんが、ここでは周囲からの写真は撮り放題です。

 

「西宮砲台」と外郭の一部 ↓

 

以上、本日は3カ所の「砲台、台場」を廻りましたが、幕末には「京都」を諸外国から護るとの姿勢で「大阪湾」には「和田岬・湊川崎」「明石藩舞子」「西宮・今津」「舞子」の対岸である淡路島の「徳島藩松帆台場」、そして「堺」に配置されていました。

 

幕末に、時の「孝明天皇」は攘夷をするように強力に「江戸幕府」に求めていたことへの対策がこれらの台場・砲台配置であったことが良く解ったのと、当時の世界では最新鋭の砲台ではなかったものの、その築城技術は非常にレベルが高いものであったことが、神戸淡路大震災でもビクともしなかったことで証明されたようです。

 

各「砲台・台場」と「明石城」については、後日詳細を投稿していきますので、またご覧ください。

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー