5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「舞子」からすぐ近くの「明石藩」の「明石城」(兵庫県明石市)へ登城しました。
JR「明石駅」を降りるともうすぐに重要文化財の「巽櫓」と「坤櫓」が目に入ります。
「明石駅ホーム」から ↓
駅の北側には幅広の「中堀」が横たわり、橋の向こうには「太鼓門(大手門)跡」の巨大な桝形門跡があり、突き当たって右折れして更に左折れすると広々した「三の丸」跡に出ます。
「中堀(現在は「外堀」ともいう、東方向) ↓
「中堀(現在は「外堀」ともいう、西方向) ↓
「明石城跡」碑と坤櫓・巽櫓 ↓
「大手門(太鼓門)」 ↓
「大手門(太鼓門)」(「三の丸」跡側から) ↓
ではここで「明石城」の歴史と城主についてお話をしておきましょう。
「大坂の陣」の戦功で明石、三木など10万石を与えられた「徳川家康」の曾孫「小笠原忠真」は、「徳川秀忠」から西国大名に睨みを効かせる目的で明石にお城を築くよう命じられました。
1619年に「建部政長」等を普請奉行として派遣して、普請費用も幕府が全面的に負担し、「三木城」「船上(ふなげ)城」「高砂城」等の部材も使用しながら1620年に完成しました。
1632年「忠真」は、「小倉城」へ移封となりますと、その後も抑えとして「戸田松平家」「大久保家」「藤井松平家」「本多家」等の譜代大名が入城し、1682年以降は「越前系松平家」の「松平直明」が入城、以降「越前松平家」が幕末・維新まで領有します。
「明石城」の縄張りは、西側から東側にかけて延び、西側の最も低いところが「山里曲輪」、一段上が「稲荷曲輪(西の丸)」、更に一段高い位置に「本丸」「二の丸」「東の丸(旧三の丸)」が一直線に並ぶ「連郭式」縄張りで、特に「本丸」から「東の丸(旧三の丸)」にかけては、南側、北側ともに高石垣で防御を固めています。また北側には堀と樹木地を挟み込む「北の丸」を置いて北側からの守りも固めています。
「天守」は建てられませんでしたが、「天守台」だけを設けて五重「天守」が建てられる規模の大きさで、「坤櫓」の後ろに築かれています。
最後の砦となる「本丸」~「東の丸(旧三の丸)」の各曲輪は、万一、西国外様大名が攻めてきても、「明石城」で食い止めるとの強い意思が感じられるお城となっています。
また、この連郭式の高石垣の南側の平地は「本三の丸」と呼ばれて「下屋敷」となっていましたが、1628年の「本丸御殿」の火災以降は、「本丸」に御殿を再建せずこの場所に「居屋敷」を建てて藩主の御殿、藩庁として利用しました。
「縄張図」(「史跡明石城跡保存活用計画」資料から) ↓
さて、広大な「三の丸」跡の東側半分が、「宮本武蔵」造園の庭と言われ、「小笠原忠政」の命を受けて作庭したもので、樹木屋敷・泉水・築山・滝を設けた城主の遊興場所となっていました。
「宮本武蔵」造園の庭の入口門 ↓
「宮本武蔵」造園の庭内の東屋 ↓
「宮本武蔵」造園の庭を復元
「宮本武蔵」は架空の人物と思っている人が多くいるようですが、江戸時代の初めに活躍した剣術家です。「小笠原家」等の大名家に仕えた兵法家であり、芸術家でもありました。「明石藩」では、町割りを始め、明石城や寺院の作庭をしています。
「三の丸」跡の西半分は、「本丸御殿」が焼失後は「居屋敷」として使用し、周囲を「内堀」で囲っていましたが、現在では「内堀」は埋められ「野球場」「三の丸公園」になっています。ここからは、「高石垣」上に並ぶ重要文化財の「坤櫓」や「巽櫓」が良く観察できる上に写真撮影もいいポジションになるので結構沢山の写真を撮りました。
「三の丸 居屋敷」跡(現 野球場) ↓
重文「坤櫓」 ↓
重文「坤櫓」 ↓
重文「巽櫓」 ↓
重文「巽櫓」 ↓
「本丸」跡へは、「二の丸」跡下の高石垣を上って行き途中で折り返して「二の丸虎口」である「大の門」跡に入ります。この門は「櫓門」だったようで右折れし左折れして「二の丸」跡に入ります。
「二の丸」跡の「高石垣」(左の空間は「空堀」) ↓
この坂道を上り途中で折り返し更に上ります ↓
途中から折り返して上がる坂道 ↓
上りきって右へ「大の門」跡を抜けると「二の丸」跡 ↓
「二の丸」跡から両サイドが「空堀」となっている「土橋」を渡り「番の門(本丸東の門)」跡を抜けると「本丸」跡です。
重文「巽櫓」(「空堀」手前から) ↓
「番の門(本丸東の門)」跡の向こうは「本丸」跡 ↓
「本丸」跡(「番の門」跡前から) ↓
左手には「巽櫓」が大きく迫り裏側が見えますが、「本丸」側には全く窓はありません。「巽櫓」と「坤櫓」の丁度真ん中に高いプラットホームが設けられて「土塀」越しに「三の丸」跡や周囲の遠望を楽しめるようになっています。両櫓の間には、阪神淡路大震災後に土塀が築かれて一体感が出るようになりました。
重文「巽櫓」(裏から見ると窓は無い) ↓
重文「巽櫓」と「土塀」 ↓
「土塀」越しに見る「三の丸」跡とJR・山陽電鉄の「明石駅」 ↓
「土塀」の「鉄砲狭間」から見た「三の丸」跡 ↓
「土塀」の「矢狭間」から見た「三の丸」跡 ↓
「坤櫓」の裏側はというと、「巽櫓」に比して窓は何箇所か見られる上に、格式を高める幾つかの装飾が施されています。一つは、二重目の東面の屋根瓦の破風が「千鳥破風」と「唐破風」が重なる「重ね破風」が採用されています。
重文「坤櫓」(窓は数か所ある) ↓
格式がある「重ね破風」(名古屋城の「西南隅櫓」、二条城の「西南隅櫓」にもあります) ↓
もう一つは、最上階の「入母屋破風」内の妻側に「木連(きづれ)格子」が採用され赤く塗られています。こういうこともあって「坤櫓」は、「伏見城」からの移築櫓だと謂われています。
重文「坤櫓」
重文「坤櫓」妻側に格式を持たせた赤い「木連(きづれ)格子」 ↓
「坤櫓」の後方には、五重天守が建てられるほどの面積を取った「天守台」がありますが、そこに「天守」は建てられていません。
「天守台」の東面 ↓
「天守台」上 ↓
「天守台」の北側に林になった中に盛り上がった所がありますが、そこは「人丸(ひとまろ)塚」と呼ばれています。880年頃に楊柳寺の住職が「柿本人麿呂」のお告げがあって以来「人麿公」を祀ったとか。「明石城」が造られてからはお城の守り神として祀ったそうで、「本丸御殿」があった時は庭園の一部として取り込まれていたそうです。
「人丸塚」 ↓
その替りに、「本丸」4隅に三重櫓を設けてその間には「多門櫓」が防備を固めていました。4隅の三重櫓の内現存しているのは、先ほど来記載している両櫓(巽櫓と坤櫓)で、残り「艮櫓」は明治時代早々に解体されて学校建築に建材として提供し、傷みが激しい「乾櫓」は1901年に解体されました。
「多門櫓」跡(北方向) ↓
「乾櫓」台 ↓
「乾櫓」台上の礎石と「多門櫓」台(南方向) ↓
「艮櫓」台 ↓
「本丸」跡には北側に「稲荷曲輪」跡や「桜堀」へ下りる「埋見門(本丸北の門)」跡があります。
「埋見門(本丸北の門)」跡(「稲荷曲輪」跡から上がってきて「本丸」跡への虎口) ↓
「本丸東の門(番の門)」跡を再度抜けて「二の丸」跡へ入ります。南側は眺めが良好ですのでベンチが置かれています。北側は「土塁」が一直線に築かれていて、その北下は「高石垣」になっています。
「二の丸高石垣」への石段と「巽櫓」(「二の丸」跡から西方向) ↓
「二の丸」跡 ↓
「二の丸」跡の北側「土塁」(この下は「高石垣」) ↓
公園としての一体化を実現するために、「二の丸」跡と「東の丸」跡の間はスムーズに行き来できるように、間の石垣を一部取り払ったように見えます。本来は、「二の丸」からは北側に「方の門」跡があるのでそこから「東の丸」に入るものと思われます。
「方の門」跡(「東の丸」跡から「二の丸」跡方向) ↓
「東の丸」跡は「二の丸」跡よりも広い面積があり、ここも南側にベンチを置き、北側には「土塁」が続きその北下には「高石垣」が築かれています。
「東の丸」跡の北側「土塁」(左下は「高石垣」) ↓
「東の丸」跡(「天の門」前から西方向) ↓
「東の丸」跡から北側へ出る虎口が「真の門」、東側の「東帯曲輪」跡へ出る虎口が「天の門」でいずれも桝形になっています。まず東側へ出ると、更に東側に枡形の「出の門」があって城域を出ます。
「東の丸」跡から北側へ出る「真の門」跡 ↓
東側の「東帯曲輪」跡へ出る「天の門」跡 ↓
更に東側に枡形の「出の門」跡 ↓
「前編」はここまでとして、次回のブログでは「東帯曲輪」跡から「桜掘」、「稲荷曲輪」「北の丸」の各跡などをお届けします。
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