只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

「豊臣」「徳川」の天下人が威信をかけた巨城、大手門から二の丸南側の「大坂城(1)

(大阪府大阪市中央区)

城主と歴史

現在の「大坂城」の前身は、1496年に建設された「石山御坊」で、1533年には本願寺教団の本山となります。その後、本願寺教団は軍事力を持つ戦国大名化して「顕如」が現れてからは一向一揆の掌握や細川家や公家との縁戚関係を深め絶大な権力を持つようになります。

 

現在の「石山本願寺」跡を示す案内板 ↓

 

1570年には「織田信長」が「石山本願寺」の明け渡しを要求するも拒否し、「足利義昭」と結んで対決をして約11年間も抵抗し続けるがついに1580年に和議を結び退去します。

 

そして「信長」が「本能寺の変」で倒れた後、1583年に「豊臣秀吉」によって「大坂城」築城を開始します。

 

「秀吉」は在城2年間程で、「聚楽第」更には「伏見城」へ移り、「秀吉」の正室「お禰(おね)」が事実上の城主として君臨しますが、1598年に「秀吉」が亡くなり「豊臣秀頼」「淀殿」が「本丸」に入ると「お禰」は「京都新城」から「高台寺」に写り、更に「西の丸」には五大老筆頭の「徳川家康」が入城し政務を執ります。

 

「大坂の陣」では、浪人衆が集まり徳川の抵抗勢力として戦い、「真田信繁」は「真田丸」を築く等しましたが、1615年に落城します。

 

豊臣「大坂城」模型(南側から) ↓

徳川「大坂城」模型(南側から) ↓

 

1619年に「大坂城」は幕府領(天領)に編入されて、2代将軍「徳川秀忠」が天下普請で再建を開始して約30年間続きます。普請総奉行には「藤堂高虎」が付いて縄張りを行い、作事奉行には「小堀政一(遠州)」が、天守石垣は「加藤清正」の息子「忠広」等が当たりました。

 

三代将軍「徳川家光」は三度「大坂城」に来城しましたが、1634年が最後で父「秀忠」没後で「家光」の権威を畿内の直轄市民や西国大名に見せつけることが目的でした。以降、後に述べる「家茂」の来城まで約230年間は「大坂城代」が管理しました。

 

1665年には「天守」が落雷で焼失しましたが以降再建されませんでした。

 

幕末には、1863年に14代将軍「家茂」が上洛し、翌年「大坂城」に入りますが「大坂城」内で亡くなります。1868年には15代将軍となった「徳川慶喜」は「鳥羽・伏見の戦い」に敗れて密かに「大坂城」から脱出しました。

 

今日は、「大坂夏の陣」後に「徳川家」によって再築された「大坂城」にスポットを当てますが、その前に少し「豊臣期大坂城」の遺構について触れておきます。

 

お城の概要と特徴

豊臣時代の大坂城>

近年、オーストリアにある「エッゲンベルグ城」で慶長期(豊臣期)大坂城を中心に大坂の街並みが描写された屏風が見つかったことで話題になったことがあります。

 

エッゲンベルグ城で見つかった屏風絵(赤丸内は下記記載の「極楽橋」) ↓

 

というのも、以前から琵琶湖内に浮かぶ「竹生島」にある「宝厳寺唐門」が、豊臣大坂城天守北側にあった「極楽橋唐門」の遺構ではないかと伝わっていましたが、それとほぼ同じ形の絵が、前述の屏風に描かれていたからです。

 

そして、同じ「竹生島」にある都久夫須麻神社」にも、秀吉ゆかりの「伏見城」の遺構が移築されて再利用されていることからしても、その唐門も秀吉ゆかりのモノである可能性が高いとのことです。

 

豊臣時代の「大坂城」極楽橋唐門CG ↓

宝厳寺唐門(豊臣時代の「大坂城」極楽橋唐門) ↓

 

また、現在「大坂城京橋門」跡の西側には「ドーンセンター」「追手門学院小学校周囲に「三の丸石垣」の発掘展示が見られる他、「本丸」跡内の「御金蔵」付近の発掘調査で、「豊臣時代の石垣」が見つかり2026年4月には「豊臣石垣館」がオープンして、その遺構を見ることが出来ます。

 

「ドーンセンター」「追手門学院小学校」の「三の丸石垣」展示 ↓

「本丸」跡発掘調査の写真展示 ↓

「本丸」跡内「豊臣石垣館」で見られる「豊臣時代の石垣」 ↓

「本丸」跡内「豊臣石垣館」で見られる「豊臣時代の石垣」 ↓

 

<徳川時代の大坂城>

現在の「天守」は「本丸」跡の北端に建てられていますが、豊臣大坂城の上にすっぽりと土を被せ、その上に盛り上げた徳川大坂城天守台石垣の上に、豊臣時代の絵図を基にしたフォルムで作り上げた復興「天守」です。現在の写真と当時描かれた絵図とを見比べてみてください。方角は同じです。

 

豊臣大坂城の上にすっぽりと土を被せた徳川大坂城 ↓

復興天守(望楼型天守が良く分かる、西の丸から) ↓

豊臣時代の大坂城(夏の陣屏風より)第四師団司令部建物 現MIRAIZA) ↓

 

「大坂城」の縄張りですが、「本丸」の周囲は南側から南東にかけては「空堀」、それ以外は水堀で囲われています。「空堀」にしている理由はわからないそうです。その周囲を「二の丸」が囲む「輪郭式縄張り」で「藤堂高虎」が得意とする縄張りです。

 

縄張図(「名城を歩く 大坂城」PHP研究所より) ↓

 

更に、幅が広い「外堀」で周囲を囲み「外郭」「三の丸」が取り囲みます。もう少し詳細な曲輪を見ていくと「本丸」北側の一段低い所には「山里曲輪」、西側には「腰曲輪」という「隠し曲輪」が設けられ敵に対して背後から攻撃を加えることができるような仕掛けとなっています。

 

また「二の丸」も場所毎に曲輪名がついていて「西の丸」「市正(いちのかみ)曲輪」等があります。

 

そして主郭である「二の丸」内への出入口は4箇所あって、「大手門」から時計回りに「京橋門」「青屋門」「玉造門」といずれも枡形を形成しています。

 

それでは今回は、「大手門」から入り「二の丸」跡、「本丸」跡と見ていきたいと思います。

 

二の丸>

「大手門」は、大手口からスロープを上がりきった場所に構える城内最大の門で、その北側には「西の丸」跡の南西隅に建つ「千貫櫓」が睨みをきかせています。こちらは「西の丸」の所で説明します。

 

千貫櫓と大手門渡櫓門(いずれも重文)

 

「大手門」を構成しているのは、いずれも重要文化財に指定された「高麗門」「渡櫓門」「多門櫓」「土塀」で、それに囲われた大きな枡形から左側に折れて「二の丸」へ入ります。「多門櫓」は現存では最大の長さを誇ります。

 

大手二ノ門(重文、高麗門) ↓

渡櫓門と多門櫓(重文) ↓

 

またこの枡形内には、「高麗門」正面の「多門櫓」下の櫓台に3つの超巨石(鏡石)が「渡櫓門」側から、「大手二番石」(23畳、城内5位)、「大手見付石」(29畳、城内4位)、「大手三番石」(22畳、城内8位)と並びます。このように、「大坂城」には超巨石がいくつも見られる他に、巨石遣いの石積みが各所にあります。

 

渡櫓門と多門櫓下の3つの超巨石 ↓

「大手二番石」(23畳、城内5位) ↓

「大手見付石」(29畳、城内4位) ↓

「大手三番石」(22畳、城内8位) ↓

また特徴的なのは、「渡櫓門」脇の石と石の間の目地には「白漆喰」が施されていて、非常に格式を持たせた様式が採り入れられていいます。

 

「白漆喰」の「目地」が施されている ↓

 

一説には、2代将軍「徳川秀忠」が「大坂城」を幕府の居城と検討していた時期があったのでそれに相応しいお城に造っていたとも言われています。後述しますが、「本丸」には「三重櫓」が十基も林立させていたのもその一環とも言われています。

 

門を潜って少し進むと左手には「西の丸」跡の「西の丸庭園」の有料入口がありますが、後ほど見ることにします。

「南仕切門」「太鼓門」跡の綺麗な「切込接・乱積み」の櫓台抜けると「二の丸」跡が拡がり、現在は武道館「修道館」や「豊臣秀吉」を祀る「豊国神社」の敷地になります。江戸時代には、「西大番頭小屋」「大番衆小屋」「東大番頭小屋」の敷地となっていました。

 

「南仕切門」「太鼓門」跡の綺麗な「切込接・乱積み」の櫓台 ↓

 

その東側から南側にかけて取巻く「南外堀」に沿って、二重櫓の「一番櫓」から「七番櫓」が建っていましたが、現在残っているのは、「玉造門」近くの「一番櫓」と「修道館」裏の「六番櫓」だけでどちらも重要文化財に指定されています。どちらも、平側に千鳥破風を付けほぼ同じ外観になっています。

 

「一番櫓」(重文、玉造口から)

「一番櫓」(重文、二の丸跡側から) ↓

「六番櫓」(重文、南外堀越しに) ↓

「六番櫓」(重文、二の丸跡側から) ↓

 

また、各櫓の櫓台が残りますが、それぞれが「横矢を掛ける」ようにして櫓台が並びますので、「外堀」西側から「六番櫓」方向を見た時の石垣の美しさは私が一番好きな光景です。

 

「六番櫓」と各櫓台 ↓

南外堀沿いの「横矢掛り」 ↓

 

「二の丸」跡から「空堀」を渡る土橋の突当りに重文「桜門」があり「本丸」跡入口になりますが後程説明しますので、もう少し先に進んで外郭からの二つ目の入口「玉造門」跡に行きます。

 

こちらの両側には、雁木があって、その上がった所には「石狭間」という銃眼(鉄砲狭間)が沢山並んでいます。この「石狭間」はこの場所だけでなく城内各所に見られる仕掛けです。

 

「玉造口門」跡 ↓

脇の雁木と石狭間 ↓

 

ここからもう一度引き返すと、「切込接・乱積み」の石垣で積み木風の「東仕切門」跡があり、そこから北方向に「内堀」沿いの「雁木坂」に向かいます。

 

「東仕切門」跡の石垣 ↓

 

左手には、「本丸」跡の三重櫓が建ち並んでいた櫓台が一望でき、そこが日本でも最高所の32mの高石垣が見られる所です。

 

手前から具足櫓、月見櫓、糒(ほしい)櫓の各櫓台で32mの高石垣 ↓

古写真 手前から具足櫓、月見櫓、糒(ほしい)櫓 ↓

 

「大坂城(1)」では、「豊臣時代の大坂城」の遺構、「江戸徳川時代の大坂城」の「大手門」から「二の丸」跡南側を見てきました。次回「大坂城(2)」では、「二の丸」跡の東側から北側にかけてと「西の丸」跡を見て行きたいと思います。

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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江戸時代初期と幕末にスポットを浴びた「二条城(2)

京都府京都市中京区

城主と歴史、立地と縄張り

       ↓

 

「二条城(1)」では「二の丸御殿」「二の丸庭園」まで見てきました。今回「二条城(2)」では、「本丸」跡とその周囲を取り巻く「二の丸」跡を見て行きたいと思います。

 

縄張りがわかる案内絵図 ↓

 

お城の概要と特徴 

<二の丸跡東エリア> 

「白書院」西側の「溜蔵跡」を出ると、目の前には「本丸」に入る「本丸櫓門」(重文)が建ちますが、そこに入るのは少し後からにします。

 

左手の壁に沿って南側へ進んだ先に長屋門形式の少しサイズが短めの「桃山門」(重文)が建ちます。

 

「桃山門」(重文)は、「御水尾天皇」行幸時には大きな門でしたが、その後改築されました。扉わきには警備兵の番所と控室があります。

 

「桃山門」(重文、長屋門形式) ↓

「桃山門」(重文、長屋門形式) ↓

 

そこから西側へ更に進んだところには「南中仕切門」(重文)が建ちますが、北側にも同じ門形式の「北中仕切門」(重文)があります。この門は、石垣をくり抜いたような「埋門」形式で、冠木を初め鏡柱や扉全てに鉄板が張られ非常に堅固な門でした。また、屋根は独特な形をしていて「剥(むくり)屋根」を採り入れています。

 

「南中仕切門」(重文) ↓

「南中仕切門」(重文、屋根は珍しい構造) ↓

 

「桃山門」に戻り、その対の北側にあるのが「鳴子門」(重文)で、格式を重んじた薬医門形式になっています。

 

「鳴子門」(重文) ↓

 

それでは「本丸」跡に入っていきます。

<本丸>

「本丸」は、二代将軍「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「御水尾天皇」に嫁ぐにあたり、「二条城」が「和子(まさこ)」の居城となり、更に1626年9月の「御水尾天皇」の行幸に先立ち大規模な改築と拡張が行われました。

 

「本丸」は、「内堀」に囲われた正方形の敷地で各隅に「天守」を始め「隅櫓」を築きました。建築物は「伏見城」からも数多く移築されました。現在の「二の丸」跡(当時の「本丸」)の南西隅には「行幸御殿」「中宮御殿」「女院御殿」が建てられていました。 

 

丁度の真ん中の「本丸」跡側には「本丸東櫓門」(重文)が建ち、堀を跨いで木橋があります。

 

行幸時には、その木橋の上が廊下になっていた建物(廊下橋)があり「二の丸」側の「溜蔵」に続き、更に「黒書院」に繋がっていました。当時はこの廊下を歩いて、「本丸」に入り「天守」まで天皇が歩いて「天守」に登ったそうで、後にも先にも「天皇」が「天守」に上がったのは「御水尾天皇」だけらしいです。

 

この「溜蔵」と「二階廊下」は1930年(昭和5年)に解体され、部材は「二条城」内に保管されているそうですので、いつの日かに復元されるのが楽しみです。

 

「内堀」を跨ぐ「本丸東櫓門」(重文) ↓

「本丸東櫓門」(重文、現在二階は塗り込められていますが、当時は廊下橋の出入口が開いていました) ↓

「本丸東櫓門」(重文)の本丸側(櫓門二階には、橋長屋と廊下多門が付属していた) ↓

「本丸」跡周囲には「雁木」が施されている ↓

 

「本丸東櫓門」を潜ると階段を左に折れて登ったところが「本丸」跡になります。現在の「本丸御殿」は、京都御所内にあった「旧桂宮邸御殿」を1893年から翌年にかけて移築されたモノです。長年、保存修理工事をしていましたが、2024年9月から18年ぶりに一般公開されています。(下の写真は、改修前の写真です)

 

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築) ↓

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築) ↓

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築、西側から) ↓

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築)の車寄 ↓

 

「本丸御殿」は、1750年に落雷で焼失してから再建はされませんでしたが、幕末に2人の将軍(家茂、慶喜)を迎えるにあたり「仮本丸御殿」が建設されました。「天守台」から撮られた古写真が残されていますが、外観はかなり軽量級のように見えますが、内部はしっかりしていたのではと思います。

 

現在「本丸」跡の南西隅にある「天守台」ですが、当時「天守台」の上には、前述したように18世紀後半まで「天守」が聳えていました。この「天守」は「伏見城」からの移築したモノで、「天守」に纏わる経緯を簡単にお話しておきます。

 

 廃城とした「伏見城」の天守は、当初「淀城」に移築する予定でしたが、天皇の「二条城」行幸計画が持ちあがってきたことから、急遽「二条城」の天守として移されることになりました。

 

その「天守」は、五重五階地階1階、銅板瓦葺でした。しかし1750年の落雷で焼失し以降は築かれることはありませんでした。

 

「天守台」(東側の「桃山門」辺りから) ↓

「天守台」(北側の「本丸西虎口」から)  ↓

「天守台」の「本丸」跡側から ↓

「天守台」上には「鉄砲狭間」が施されている ↓

 

一方、「伏見城」天守の当初受け入れ先であった「淀城」は「伏見城天守」サイズで天守台を築いていましたが、その計画が無くなったので、それまで「二条城」に建っていた「天守」家康時代の「天守」で「大和郡山城」の「天守」だったものを移築した)を移したそうです。ただ、「伏見城天守」に併せて築いた淀城「天守台」だったので、四隅が空いてしまい四隅には小さな櫓四基を置いたそうです。

 

それまで建っていた「徳川家康」時代の「天守」(「大和郡山城」の「天守」)は、「二の丸御殿」の西北隅に移築して建っていたそうです。丁度現在の「清流園」内の「和楽庵」辺りに建っていて、「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「天守」のようです。 

 

「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)に描かれ「徳川家康」時代の「天守」(「東大手門」前にて掲出の写真) ↓

「家康」築城の「天守」があった場所(現在は、「清流園」内の「和楽庵」付近) ↓

 

「本丸」の西側の出入口は「本丸西虎口」と呼ばれ、「外枡形」を採り入れた堅固な門だったようです。

 

本丸西橋と出枡形(「天守台」より)  ↓

「本丸西虎口」と「西橋」(枡形が見える) ↓

 

「西橋」を渡った「西二の丸」跡の一角に、石を積み上げた場所がロープに囲われています。これは「旧二条城」の石垣の一部で、「織田信長」が「足利義昭」の為に築いた室町にあった「旧二条城」跡から発掘されたものです。

 

 「旧二条城」の石垣の一部 ↓

 

また、この少し「北側」に見える「石垣」の構造物が「西門」になります。この門は、「徳川慶喜」が「大政奉還」を行った後、ひっそりとこの門から城外へ出て「大坂城」へ向かったそうです。現在は、そばまで近づくことが出来ず、中の状態の写真を撮ることができませんが、「埋門」となっています。写真は、以前に中まで見ることが出来たときに撮った写真です。

 

重文「西門」の周囲「埋門」の石垣 ↓

重文「西門」の「埋門」(城内から、立入禁止前に撮影した写真) ↓

重文「西門」の「埋門」(城外から、手前に橋が架かっていた) ↓

 

「堀」沿いには重文の「北土蔵(米蔵)」と「南土蔵(米蔵)」が同規模で建っています。近くから見ると大きく、扉も厳重な鍵が施され、窓には小さな木の庇が付きます。 

 

重文「北土蔵(米蔵)」 ↓

重文「北土蔵(米蔵)」の扉

重文「南土蔵」(「天守台」より見下ろす) ↓

 

「北中仕切門」は、「南中仕切門」と同形式の門です。その北側は、手前が土塁となり外側は石垣ですが、丁度北に向かって石垣が折れ目となっている箇所には「太鼓櫓」が建っていたようです。

 

「北中仕切門」(重文) ↓

「北中仕切門」(重文)の鉄板貼り門扉 ↓

 

「北中仕切門」(重文)を抜けると、左手に現在は「清流園」という庭園と茶室があります。これは、「角倉了以」の屋敷から一部の建物と庭園の石を運び込み池泉回遊式庭園を1965年に築庭しました。 

 

更に進むと右手には、既に「桃山門」の時に説明しました「鳴子門」、更に進むと「東大手門」の時に紹介しました「北大手門」が左手に建ちます。

 

ここから右手に折れた南側には、三つ目の「土蔵」(重文)と「二の丸長屋門」が並びます。そこから「築地塀」の内側に沿って南方向へ「倉庫」が建ちますが、こちらは復元したものです。

 

その「北大手門」南側には東西に横たわる土蔵がありますが、それは「二の丸御殿北方の米蔵」で重文指定されています。真ん中辺りが長屋門になっていて潜戸も見られますが、その両端は蔵造りで、内側から見ると大きな扉が並んでいますが、残念なことに入場禁止エリアになっています。

 

重文「二の丸御殿北方の米蔵」と「長屋門」 ↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」の「長屋門」部分 ↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」と「長屋門」部分(二の丸御殿側から、望遠で) ↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」部分(横から覗き込んで) ↓

 

この「米蔵」に対して直角に南北に建つのが復元「収蔵庫」で、こちらも前述の「米蔵」の延長のように内側に扉が並んでいます。

 

このゾーンの西側には重文の「台所」と重文の「御清所」が並でいるので、これら「収蔵庫」は、食事の素材や薪等の燃料類が収納されていたと思われます。

 

復元「収蔵庫」と奥に「重文「二の丸御殿北方の米蔵」 ↓

復元「収蔵庫」(北向き) ↓

 

またこの西側には、「台所」と「御清所(おきよどころ)」が現存し、「台所」の内部は、広い土間と板敷きの広間、御善所、囲炉裏の間があります。「御清所」は料理する為の建物で調理から盛り付けまで行われ、二つの建物は付廊下で結ばれていました。これらは、「二の丸御殿」の付属建造物という位置づけでした。

 

ここは、時々イベント等で中を貸出しをしていてその際には見学ができます。

 

北側に「台所」、南側に「御清所」が建ち、「台所」の入口は大きく口を開けていて、外壁は「真壁造り」です。

 

重文「台所」の外観 ↓

重文「台所」出入口 ↓

重文「台所」の外壁 ↓

 

「台所」の中に入ると、主室内部は非常に大きく天井が高く、東側は土間で右側には板敷が拡がります。

 

「天井」が高い「台所」内部 ↓


「台所」内部の「土間」部分と「板敷き」部分 ↓

 

入口の南側には中二階の「見張所」が設けられ、小屋組みの天井には太い梁の木が数本も並んでいて圧巻です。

 

「台所」内部中二階の「見張所」 ↓

「台所」内部の小屋組みの天井には太い梁の木が並ぶ ↓

「台所」の敷居 ↓

 

「台所」の南に続く所には「御清所」が繋がり、その中心的な場所が「料理の間」で、床には大きな「長囲炉裏」、天井には「煙出し」が装備されています。

 

重文「御清所」の外観(「煙出し」が見える) ↓

「台所」から見た「御清所」 ↓

「御清所 料理の間」手前の間 ↓

 

「御清所 料理の間」の内部の壁は、下部は交互に障子戸と板張りが囲み、上部は白壁に柱が見えます。

 

重文「御清所 料理の間」 ↓

「御清所 料理の間」(天井に「煙出し」、東と南面の壁面は障子戸) ↓

 

復元「収蔵庫」の並びで、重文の「築地塀」が南に向かって延びていきますが、「御所」でも使用されている「築地」は圧巻です。

 

重文「築地塀」(南方向) ↓

 

以上で、「二条城」を見てきましたが、「二条城」にスポットが当たったのが、江戸時代最初の三代将軍(家康・秀忠・家光)時代と幕末の二大将軍(家茂・慶喜)時代で、その間の約230年間は、在番が居城していて補修のフォローがあったと思いますが、幕末には殆ど荒れ放題だったようです。

 

 

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「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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江戸時代初期と幕末にスポットを浴びた「二条城(1)」の国宝”二の丸御殿”

京都府京都市中京区

城主と歴史

「二条城」と呼ばれているお城は、時代々々の権力者が「京」を抑える為に築いたお城がありました。本格的なモノは、室町幕府13代の「足利義輝」の「二条御所」で、「永禄の変」で「松永久秀」「三好三人衆」が謀反を起こしたときに焼失します。これは、大河ドラマ「麒麟がくる」「豊臣兄弟!」でも描かれていました。

 

その後、「織田信長」が室町幕府15代将軍として「足利義昭」を担いで上洛した時に、「義昭」の為に築いた「二条御所」で「旧二条城」と呼ばれています。しかし、「信長」と「義昭」が不仲になり、「義昭」を1573年に追放した後は解体され、当時「安土城」建築真最中だったので、一部資材として転用されたそうです。

 

「旧二条城」碑 (平安女学院の北側) ↓

「旧二条城」の石垣(地下鉄烏丸線工事で発掘された石垣を御所の南西隅に展示) ↓ 

 

 また「信長」の京都で滞在する際の宿所として使用されていたのが「二條殿(古二条城)」で、後に「正親町天皇」の皇太子に譲ったので「二条新御所」とも呼ばれています。元々は公家「二条家」の二条邸であったモノを「光秀」とともに「京都奉行」であった「村井貞勝」に命じて改修させました。「本能寺の変」では「織田信忠」が籠城した場所となったそうです。

 

「京都まんがミュージアム」裏手の「両替町通り」沿いに「二條殿跡」碑 ↓

 

「豊臣秀吉」が「京」における拠点として築いたのが「二条第(にじょうてい)」で、天守も築かれていたようで、1587年に「聚楽第(じゅらくてい)」を築城させるとそちらへ移りました。

 

そして、「関ケ原の合戦」後、「徳川家康」が天下普請で建てたのが現在の「二条城」で、1603年には、現在の「二の丸」部分を完成させ「家康」の征夷大将軍の祝賀等一連の儀式が行われました。この祝いの儀式は、二代将軍「秀忠」、三代将軍「家光」まで引き継がれました。

 

天守は1606年に完成させ、1611年に当城で「豊臣秀頼」と会見を行い、「大坂冬の陣」では本営として使用されました。

 

1619年に、「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「後水尾天皇」に嫁入りする前に入る宿館として使用する為に、大規模改修を行いました。

 

更に1626年、三代将軍「家光」の時に、「後水尾天皇」による「行幸」を受け入れる為に、西側に増築して現在の「本丸」が造られ、天守台には「伏見城」の天守が移築されました。しかし「行幸」終了後は、多くの建物が解体や移築され、現在でもその遺構を目にすることができます。

 

「二条城」御殿の一部が、現在「三渓園」(横浜市中区本牧に移築「聴秋閣」として現存重文) ↓

伝「二条城」の建造物(現在は、「世田谷観音寺」の「阿弥陀堂」で、金閣寺を模している)↓

 

そして1634年には、「家光」は30万人と言われる大軍を率いて入城しましたが、朝廷や西国大名に対する威嚇的なデモンストレーションであったようです。

 

その後、4代将軍「家綱」から約230年間、城主不在のお城となり、「二条城代」から「二条在番」制となり江戸からの交替武士が管理しました。1720年には落雷で「天守」を焼失、更に火事で「本丸御殿」や「隅櫓」も焼失、地震で櫓や門や一部御殿も倒壊などがあり、それらは再築することなく幕末に至ります。

 

1862年に14代将軍「家茂(いえもち)」が、約230年ぶりの上洛を果たしますが、それに備えた「二の丸御殿」の修復と本丸には「仮御殿」が建てられました。1865年には、「第二次長州征伐」の為に再上洛した「家茂」は「大坂城」に移りますが、翌年病死します。

 

15代将軍「慶喜」は、1867年9月に「二条城」に入城しますが、10月には二の丸御殿の「大広間」で「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しました。その後12月までの間は、当城の「本丸」に建てられた「本丸仮御殿」に居住していたようで、その古写真が残されています。

 

お城の概要と特徴 

<立地と縄張り> 

「二条城」の曲輪は「輪郭式平城」で、「家康」の建築当時は現在の「二の丸」が「本丸」で単郭でしたが、「秀忠」「家光」の時に複郭となります。当初の「本丸」(現在の「二の丸」)は、現在の東半分しかなく望楼型「天守」が北西隅に御所を見下ろすように建っていたようです。

 

そして現在の「本丸」は西側に増築され、「内堀」を隔てて周囲を「二の丸」で取り囲まれています。「本丸」への東出入口は「本丸東櫓門」で、「二の丸溜蔵」間とは「廊下橋」で連結し、西側は「本丸西虎口」からの出入りになっていました。

 

「城内絵図」 ↓

 

<二の丸>

お城全体の出入口は、東側に「東大手門」を置き、西側に「西門」を、北側には「北大手門」がありました。この「北大手門」は、1626年の「後水尾天皇」行幸時に、御所からお迎えができる最短コースとして造られました。また「南門」もありますが、こちらは「大正天皇」の「行幸」の際に建築されたものです。

 

大正天皇の行幸時に建てられた「南門」 ↓

 

まず現在の出入口である「東大手門」(重文)から見ていきます。この門は正門にあたり「渡櫓門」になっています。門は、軒庇付連子窓の下に石落としを設け、鉄板を貼った門扉で堅固にしています。 

 

「東大手門」(重文、城外から) ↓

「東大手門」(重文、城内から) ↓

「東大手門」(鉄板を貼った門扉と金の装飾を施した柱) ↓

 

当門の北西にある「北大手門」もこれと同形式ですが、ひと廻り小さ目に造られていて朝廷対応の「大手門」の位置づけでした。「東大手門」より長さは3間短いが幅・高さは同じ、装飾性や部材は劣っていました。1626年の「後水尾天皇」行幸後は、北にあった「京都所司代」との連絡門として使用されていました。

 

「北大手門」(重文、城外から) ↓

「北大手門」(重文、城内から) ↓

 

「東大手門」を潜ると、右手に大きめの「番所」(重文)が建って前側は畳敷となり、ここで入城者あらためをしていました。

 

「番所」(重文、東大手門側より) ↓

 

そして突き当りには、西側奥に建つ「二の丸御殿」を守るかのように御所風の「築地塀(ついじべい)」が南北に走っています。

 

御所風の「築地塀」(重文) ↓

 

塀を右手に見ながら左へ折れると、左奥には現存で二重の「二の丸東南隅櫓」(重文)が建ち、この対として西南隅には「二の丸西南隅櫓」(重文)が建ちます。「東南隅櫓」の南側には「千鳥破風」が、「西南隅櫓」の西・東側には「唐破風」を付けていますが、それ以外は、二階壁の「長押(なげし)」、窓の形など全体の形も同形式になっています。「二の丸西南隅櫓」は「伏見城」からの移築櫓と謂われています。

 

「二の丸東南隅櫓」(重文、外堀越し、千鳥破風が付く) ↓

「二の丸東南隅櫓」(重文、城内側より) ↓

「二の丸西南隅櫓」(重文、外堀越し、唐破風が付く) ↓ 

「二の丸西南隅櫓」(重文、城内側より、唐破風が付く) ↓

 

「築地塀」が西に折れ曲がった所に、桃山形式の色鮮やかなで彫刻が美しく豪華な切妻造・檜皮葺の「唐門」(重文)が建ち、門の間から見える「二の丸御殿」の「車寄」と「遠侍」の建物に惹かれます。

 

「二の丸御殿唐門」(重文) ↓

「二の丸御殿唐門」(重文) ↓

「二の丸御殿唐門」(重文)の桃山風の彫刻 ↓

 

<国宝二の丸御殿>

「二の丸御殿」(国宝)は、「車寄・玄関」から入城し、「遠侍(とおざむらい)」「式台(しきだい)」「大広間」「蘇鉄(そてつ)の間」「黒書院」「白書院」の建物が北西に向かって雁行状に繋がります。

 

「二の丸御殿」平面図 ↓

 

「車寄」は、「遠侍」の玄関で、入母屋造で屋根は檜皮葺で、朝廷からの使者が牛車で来れるように、床は石と敷瓦となっています。

 

「二の丸御殿の”車寄・玄関”」(国宝) ↓

 

「二の丸御殿」内は写真撮影が禁止ですので、外観の写真を掲載します。一部「パンフレット」に掲載の内部写真は少し補正して掲載しました。

 

「遠侍」は、登城した大名達の控えの間で「一の間」~「三の間」「勅使の間」で構成されていました。「勅使の間」とは、将軍が勅使(天皇からの仕え)を迎える間で、上段に勅使が座り、下段に将軍が座りました。室内は、金地で楓の障壁画が飾られています。

 

「二の丸御殿の”車寄せと遠侍”」(国宝) ↓

「二の丸御殿の”遠侍”の大屋根」(国宝) ↓

「遠侍 勅使の間」内の「帳台構え」(入城パンフレットの写真より) ↓ 

 

「式台」は、大名が老中と対面する部屋で、将軍への献上品をここで渡しました。北側には、老中の執務室になっています。

 

「二の丸御殿の”遠侍””式台””大広間”(右から)」(国宝) ↓

 

「大広間」は、将軍が大名と公式に対面する場所で、1867年に15代将軍「慶喜」が、諸大名を集めて「大政奉還」を宣言した大部屋です。こちらも「一の間」~「四の間」があり、「一の間」は上段に当たり、付け書院、床の間、違い棚、帳台構えを備えていて、襖絵は「狩野探幽」作の「松と鷹」が雄大に描かれています。

 

「二の丸御殿の”大広間”」(国宝、東面) ↓

「二の丸御殿の”大広間四の間”」(国宝、入城パンフレットの写真より) ↓ 

「二の丸御殿の”大広間一の間”」(国宝、入城パンフレットの写真より) ↓ 

「二の丸御殿の”大広間”と”蘇鉄の間”」(国宝、手前に蘇鉄が植わる) ↓

 

「大広間」と「黒書院」の間には、蘇鉄が描かれた廊下「蘇鉄の間」によって結ばれます。この間(ま)の庭には蘇鉄が植えられていたのでこの名称が付けられたようです。

 

「二の丸御殿の”蘇鉄の間”」(国宝) ↓

 

「黒書院」は、将軍と親藩や譜代大名とが内輪に対面できる所で、小広間とも呼ばれています。障壁画は「狩野尚信」で、四季の情景が描かれています。これら建造物の裏北側に拡がる広場がありますが、ここには、将軍の生活を支える機能を持つ建造物などが数多く繋がっていました。

 

「二の丸御殿の”黒書院”」(国宝、東面) ↓

「二の丸御殿の黒書院」(国宝、南面から) ↓

「二の丸御殿の”黒書院一の間”」(国宝、入城パンフレットの写真より) ↓

 

最後に「白書院」ですが、「御座の間」とも言われ、将軍の居間であり寝室となっていました。寝室に相応しく落ち着いた水墨山水画になっていて「雪中花鳥図」等です。

 

「二の丸御殿の”白書院”」(国宝) ↓

 

<二の丸庭園>

これらの建物の西側に拡がる「二の丸庭園」は、「小堀遠州」作で桃山形式の「池泉回遊式庭園」です。どの建物からでも眺められるように作庭されていますが、特に「大広間」の将軍が座る「上段の間」からの眺めが最高の眺めとして作庭されているそうです。

 

「大広間上段の間」から見た二の丸庭園 ↓

 

この入口は、「車寄」西側に置かれ、冠木の無い鏡柱だけの「塀重門(へいじゅうもん)」が建ちますが、明治時代になってからの建造物です。

 

「二の丸庭園」入口の「塀重門」 ↓

 

また、この入口の左側に拡がる所は、「家光」時代に「後水尾天皇」の行幸があった際に「天皇」やそのお付きの為の御殿「行幸御殿」や「中宮御殿」等を急遽築城した跡地のようです。「行幸御殿」の御殿門が前述した「唐門」で、「伏見城」から移築されたものと言われています。

 

「二の丸庭園」(三つの島と四つの橋、西北隅に滝) ↓

「二の丸庭園」(三つの島と四つの橋、西北隅に滝) ↓

 

「二条城(1)」は「東大手門」から入り「唐門」を潜って「二の丸御殿」「二の丸庭園」を見てきました。次回「二条城(2)」では、「本丸」跡とその周囲を取り巻く「二の丸」跡を見て行きたいと思います。

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日は、20時からのNHKの放映を見たので少し投稿が遅くなりました。


前回、「秀吉」は「信長」が亡くなった報を知り、「毛利方」と早々に和睦を行い、「姫路城」までの「中国大返し」を行いましたね-

 

今日のお話ですが、まず、「秀長」は「京」周辺の諸将に寝返りをさせ「明智方」に付かないように仕掛け、更に「光秀」との縁戚関係にあった「細川藤孝」には「明智軍」に参戦しないように工作を行っていた結果、「光秀軍」に集まる軍勢はかなり少ないものとなりました。

 

「秀吉」は、「信長」の三男「織田信孝」から「明智光秀」討伐の為の差配を任せられます。「光秀」とは「天王山」と「淀川」を挟む隘路「山崎」での合戦となりましたが、「信孝・秀吉軍」の足並みは揃わず、「高山右近」「中川秀政」が早々に「明智軍」に仕掛けて突入し、更に「秀長」の息子「与一郎」は「信孝」を守るために負傷してしまいます。

 

ドラマ後半は、この「与一郎」が亡くなるまでの話が展開され「秀長」が悲しみにくれると共に、「秀吉」は「信長」の後継者になることを「秀長」に打ち明けます。

 

追い詰められた「光秀」は、形勢不利となり防衛の拠点となっていた「細川藤孝」の居城「勝竜寺城」に後退、更に軍勢立て直しの為に一旦「坂本城」へ帰城しますが、その途中に「秀吉軍」に生け捕りされ、「秀吉」は「信長」を襲った真相を「光秀」に聞き出すという演出になっていました。そして「秀吉」は、「光秀」の首は農民が襲い「秀吉方」に届けられたことにするよう命じました。

 

史実では、現在の「京都市伏見区東部」の「小栗栖(おぐりす)」で農民に襲われ死亡したことになっていましたが・・・

 

また、最近発見された「古文書」から、実は「秀吉」はこの「山崎の合戦」には間に合ってなくて、最大の功労者は「池田恒興」だったのではということが分かってきたようです。

 

「秀吉」は「天王山」の中腹辺りに本陣を構え、「秀吉軍」に叱咤激励を行い差配していたとの今までの通説もこの「古文書」によって覆されそうですが、「光秀」が農民に襲撃されたお話も今後どのようになるのかわかりませんね。
 

本日は、「山崎の合戦」が行われた場所と「秀吉」が「大坂城」築城まで居城していた「天王山」に築かれた「山崎城」(京都府乙訓郡大山崎町)及び「光秀」が合戦で使用した「勝竜寺城」(京都府長岡京市)を、以前ブログで投稿したモノで紹介します。どうぞご覧ください。

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

本丸を中心に六角氏の家臣団達の居住地跡や大石垣も残る「観音寺城(2)

滋賀県近江八幡市

城主と歴史、立地と縄張り

      ↓

 

観音寺城へのルートマップ ↓

「史蹟観音寺城跡縄張図」の散策路 ↓

 

お城の概要と特徴

伝平井屋敷跡、伝落合屋敷跡>

「伝本丸跡」を目指す前に、「伝平井屋敷跡・伝池田屋敷跡」へ向かいますがその途中右手には「大石段」が見られます。それは後ほど紹介するとして、その前を通過して「伝三ノ丸」跡の広場を抜けて「大石垣まで7分」の道標の先を進みます。

 

「伝三ノ丸」跡 ↓

 

すると石段の下の右手目の前に現れたのが「伝平井屋敷」跡の南面の石塁の壁です。それを見ると一気にテンションがあがります。

 

石塁の壁には、大きな石が使われていてそれが門跡まで続きます。門に積まれた石も立派で、中に入ると「平井氏屋敷跡」碑が立っていて、跡地の周囲は石塁の裏側が良く解る状態になっています。また、奥には一段高い土壇がありそこには二階建ての建造物が建っていたかもしれないとのことです。

 

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡)南面の石塁  ↓

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡)南面の巨石  ↓

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡)の門跡 ↓

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡)内の北方向(この奥に土壇がある) ↓

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡)周囲の石塁 (居館跡内から) ↓

 

北側には「大土塁」が壁となり、更に奥の一段高い場所へ入る位置には両サイドに方形の「石積み」が見られますが目的は何かは不明です。

 

「伝平井丸」跡の北東隅の「大土塁」 ↓

「伝平井丸」跡北西奥の盛り上がった敷地に入る「虎口」の石垣 ↓

「伝平井丸」跡の真ん中に方形の石積み、二箇所の内の一箇所 ↓

「伝平井丸」跡の真ん中に方形の石積み、もう一箇所 ↓

 

その二つの石積みの間には、大小の墓石が点在していて、特に一番大きな墓標の表側には「梵字」が刻まれていました。

 

「伝平井丸」跡の真ん中に立つ「梵字」が刻まれた墓標 ↓

 

また、門跡から南西隅の隅石には大きな直方体の石を交互に乗せ、上には円形の石を乗せていました。そこから奥に延びる状態は、石塁というよりも石垣のような積み方がされています。

 

「伝平井丸」跡(平井氏の居館跡) の南西隅石 ↓

 

「伝平井丸」跡門前には、「伝落合屋敷跡」碑が櫓台の前に立っています。その左手から「伝池田丸」跡方向への下り散策路が付いていて、右手には小さな曲輪が2つ並び低い石塁が続き、間には曲輪へ上がる石段も残ります。

 

「伝落合屋敷跡」碑と櫓台のような石垣 ↓

「伝落合屋敷」跡の櫓台のような石垣 ↓

「伝落合屋敷」跡南側の小さな曲輪の「石塁」 ↓

 

伝池田屋敷跡>

「伝池田丸」跡が細長くその先は幅広に拡がっているのが石段上から見下ろせます。

その「虎口」には、門跡のような石が並びそこから右に折れて跡地に下ります。「伝池田丸」跡は「六角氏」の家臣であった「池田家」の居館が建っていて、三方の周囲は石塁で囲われた堅固な曲輪となっています。 

 

「伝池田屋敷跡」の「北虎口」前の石群 ↓

 

西側に立派な「虎口」がありその両脇には高さのある石塁が立ち、手前に櫓台のような石塁が積まれた所も見られます。

 

「伝池田丸」跡の「西虎口」跡 ↓

「伝池田丸」跡の「西虎口」跡から南へ延びる石塁(城外側) ↓

「伝池田丸」跡の「西虎口」跡脇にある櫓台の様な石塁 ↓

「伝池田丸」跡(池田氏の居館跡) の北側から南方向 ↓

 

特に、西側から南側にかけての石塁は良く残っていて、「南虎口」跡手前の石塁には高さがあります。

 

「伝池田丸」跡(池田氏の居館跡) の北西隅の「石塁」 ↓

「伝池田丸」跡(池田氏の居館跡) の「南虎口」跡 ↓

 

<伝木村丸跡>

「伝池田丸」跡の「南虎口」跡から先に「伝木村丸」跡に降ります。「伝木村丸」跡の山裾西面には石積みが見られ、「埋門」跡の標識もありますが、崩れた後なのか「門」という感じはしません。

 

「伝木村丸」跡(南から北方向) ↓

「伝木村丸」跡の西面に貼りついた石垣 ↓

「伝木村丸」跡の西面に貼りついた石垣 ↓

「伝木村丸」跡の「埋門」跡 ↓

 

<大石垣・女郎岩>

そして「大石垣・女郎岩」の場所へ辿り着きます。高さ約10m位で長さもその3倍位はあるでしょうか、往時にはこのような高石垣が至る所で見られたのではないかと思いましたが、廃城時に「安土城」築城の為に持ち去られたのでしょう。

 

「大石垣」 ↓

「大石垣」 ↓

 

断崖絶壁の場所から、東眼下には「東海道新幹線」がひっきりなしに行き来しています。また、その向こうには鈴鹿山脈、御在所等が見えています。

 

「大石垣」から見下ろす「東海道新幹線」 ↓

 

「観音寺城」という凄く大きな幟が立っていて、「大石垣」と共に新幹線の車窓から見えるそうです。

 

幟「観音寺城」 ↓

幟「観音寺城」 ↓

 

「大石垣」入口付近には3巨岩がそそり立ち、最も大きいモノに「女郎岩」という名前が付いていてこの場所の見所になっています。

 

一番右端が「女郎岩」 ↓

 

<大石段、伝本丸跡>

続いて「伝本丸」跡へ向かう為に、先程通過してきた「伝池田丸跡」「伝平井丸跡」「伝三の丸跡」に引き返し、通り過ぎた「大石段」まで戻ります。

 

「伝本丸」跡へはこの「大石段」を上がる方法と、一旦「観音正寺」の方へ少し戻る方法とがありますが、「大石段」を上ります。

 

「大石段」の長さは目を見張るほど真っ直線で「伝本丸」跡まで続き、その脇には「側溝」が横の岩との間に設けられています。「伝本丸」跡へはこの石段を上るほうが近道となりますが凄い長さです。

 

「大石段」(下から見上げる) ↓

「大石段」の側溝 ↓

 

「織田信長」が「六角氏」を追い出し当城を検視した時にこの「大石段」を見て、後に築く「安土城」の直線的な石段を採用するヒントにしたのではないかと思いましたが、既に「信長」は「小牧山城」で直線大手道を実証実験済みでした。

 

「伝本丸」跡に辿り着くと、「本城跡」碑と「観音寺城跡」の朽ちかけた説明板が立っています。

 

「本城跡」碑 ↓

 

「伝本丸」跡は細長く、西側から北側にかけて「石塁」が残り、その内側には「井戸」跡でもない2m×3m位の壁面を石積みにした「窪み」がありますが用途は不明です。

 

「伝本丸」跡の「西虎口」跡 ↓

「伝本丸」跡の「西側石塁」跡 ↓

「西石塁」跡の近くに残る「窪地」(壁面は石積み) ↓

 

今度は正面に戻り、「大石段」を上らなかったらここに出てくる「表虎口」の石塁まで戻ります。左側に門跡の石積みがあり、更にその中に入ると右手から「石塁」が延びてきて「伝本丸」跡の二重の「虎口」となっているようです。

 

「伝本丸」跡の「表虎口」跡左手の「石塁」 ↓

「伝本丸」跡の「表虎口」跡右手の「石塁」 ↓

 

「伝本丸」跡の「裏虎口」は、右手奥から北側に貼りつく「石塁」に続いて「喰い違い虎口」になっています。城内から見ると、左手から伸びた「石塁」によって前方を塞がれた形で右手に折れ曲がらないと外へは出られない仕掛けになっていますので、城外からは真っすぐに入城はできません。

 

「伝本丸」跡の北側「石塁」 ↓

「伝本丸」跡の北側「石塁」 ↓

「伝本丸跡」の北側「石塁」から「裏虎口」跡に繋がる ↓

「伝本丸跡」の「裏虎口」跡(喰い違い虎口) ↓

「伝本丸跡」の「裏虎口」跡(喰い違い虎口) ↓

「伝本丸跡」の「裏虎口」跡(喰い違い虎口、門外から) ↓

 

「裏虎口」を出て坂を下ると右手に洞穴があり、中が「大夫井戸伝承地(大井戸跡)」となっていて、内側は石積みで水が豊富に湧き出ているようです。

 

「裏虎口」出た所にも石塁 ↓

「大夫井戸伝承地(大井戸跡)」 ↓

「大夫井戸伝承地(大井戸跡)」(中は石積み) ↓

 

「裏虎口」前に戻り、「桑実(くわのみ)寺」から「伝本丸」跡までの登城路を下って行きます。距離的には1kmも無く登りで約30分とのことですので、下りであれば25分くらいでしょうか。

 

「観音寺城」の「裏虎口」から「桑実寺」へ下る坂道 ↓

「観音寺城」の「裏虎口」から「桑実寺」へ下る坂道途中に流れる水の手 ↓

 

「桑実(くわのみ)寺」は入山料(300円)です。「桑実寺」は、室町幕府第12代将軍「足利義晴」が京都の戦乱を逃れて、近江守護であった「六角氏」を頼って、当寺に滞在し「室町仮幕府」となっていた由緒あるお寺です。

 

「本堂」は南北朝時代建立で屋根は入母屋造り檜皮葺の立派な大屋根で重要文化財に指定されています。本尊は「薬師如来像」で「大日如来坐像」等が安置されているそうで中に入ることとも出来ます。

 

「桑実寺本堂」(重要文化財) ↓

「桑実寺本堂」がある敷地の石垣はまるで城郭 ↓

この石垣の隅石は変わっている ↓

 

「桑実寺」から「山門」までの途中にも「石塁」が見られ、この辺りも「観音寺城」の曲輪があったのでしょう。

 

「桑実寺山門」 ↓

「桑実寺山門」周辺にも「石塁」が貼りつきます ↓

 

JR「安土駅」まで2km少しあります。振り向くと今下山してきた「観音寺城」跡がある「繖(きぬがさ)山」の姿が良く解るポジションで、北には「安土城」があった「安土山」が聳えます。

 

「観音寺城」跡がある「繖(きぬがさ)山」 ↓

片や「安土城」跡がある「安土山」 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

“安土城”よりも早く総石塁造りで築城された「観音寺城(1)

滋賀県近江八幡市

城主と歴史

当城は近江守護職「佐佐木六角氏」の本城で、築城は長い年月をかけて1468年に完成し、その後1523年には家臣団の屋敷を城内に築き、1555年~58年にかけては鉄砲に備えるべく石塁の改修を行いました。

 

1568年に「織田信長」と対立した「六角義賢・義治父子」は無血開城したので、「信長」が入城し「佐佐木氏」に守らせましたが、「信長」が亡くなり「安土城」と共に廃城となりました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

お城は、「観音正寺」を取巻くように、標高432mの「繖(きぬがさ)山」の尾根伝いに無数の曲輪を配置し、更に要所には石垣で固めていました。石垣が採用された最古期のお城であると言われています。

 

観音寺城へのルートマップ ↓

標高432mの「繖(きぬがさ)山」 ↓

「史蹟観音寺城跡縄張図」の散策路 ↓

 

「戦国時代」の山城としては特異な配置になっています。というのも、「本丸」が「繖(きぬがさ)山」の山頂に置かれずに、やや下がった南西尾根上に構えられています。これは、平安時代に建立された「観音正寺」の「奥の院」が山頂付近に建てられていて、当時力が強かった寺院に配慮して山の端にしか城を構えることが出来なかったようです。

 

「本丸」から続く尾根筋に「平井丸」「落合丸」「池田丸」等の曲輪を階段状に築いてそこを城の中心部にしました。

 

東側の守りには「布施淡路丸」を構えています。そして山頂の稜線部分には曲輪は構えられず、北側からの攻めに対しては山稜を巨大な「土塁」として見立てたようです。稜線の南側には、「馬場丸」「伊庭丸」「三井丸」「馬淵丸」「三国丸」が置かれています。

 

更に特徴としては、遮断性のある「堀切」は殆ど採用されず、防御性の高い「石垣」を導入した山城で、「安土城」以前に「石垣」を導入した山城です。

 

それでは今回は、「東端」から「西端」に向かって見て行きます。「観音正寺」の駐車場から「本堂」への歩道沿いにある「伝目加田屋敷跡」から「観音寺城散策路」をスタートします。

 

<伝目加田丸、布施淡路丸>

「伝目加田屋敷跡」は、南側の「虎口」跡や南側から西側にかけて取り巻いている「土塁」の存在が確認できます。跡地内には「井戸」跡もあります。

 

「伝目加田(丸)屋敷」跡周囲の土塁 ↓

少し窪んでいる所が「伝目加田(丸)屋敷」跡の「南虎口」跡 ↓

「伝目加田屋敷」内に残る「井戸」(中は石で積上げ) ↓

 

「伝目加田屋敷(丸)」跡から歩道へ戻り先に進むと今度は右手上には「伝布施淡路丸」跡の石塁が側面に貼りついた状態で目にすることが出来ます。 

 

下から見上げる「伝布施淡路丸」跡の南西面石塁

 

「虎口」の石垣が見えて、そこは「枡形」になっていて結構な広さを感じることができ、周囲が低い「石塁」で囲われています。

 

「伝布施淡路丸」跡の「虎口」跡(下から見上げる) ↓ 

「伝布施淡路丸」跡の「虎口」から北東に伸びる石垣 ↓

「伝布施淡路丸」跡の三方はこのような石塁で囲われている ↓

 

南側の「虎口」石垣の脇には石段も見られ「石塁」上に上がれるようにもなっています。

 

「伝布施淡路丸」跡の「石塁」上に上がる石段 ↓

 

<大土塁沿いの各丸跡>

「伝布施淡路丸」跡を出ると、「観音正寺」への参拝路とお城の「大土塁」方向への分岐点になります。分岐点から「大土塁」方向へ進むと、木々が被い繁った中へ吸いこまれるような細い山道の上り坂に入ります。

 

「大土塁」方向へ上がる坂 ↓

 

大土塁と南側の郭群

入って上った所すぐ辺りの左手(南側)には、「大見付」跡らしき石塁が見られます。「大見付」跡を抜けて行くと右手には「伝伊庭丸」跡の曲輪が拡がります。

 

「大見付」跡の石塁か? ↓

「伝伊庭丸」跡に見える石塁 ↓

 

大土塁」は、南西に向けた急坂を登り切った所から西方向へ尾根伝いに続いていて、まさに名前通りの大土塁です。

 

「大土塁」へ上がる石段 ↓

 

 

その急坂を登り切った所が「伝馬場丸」跡で、巨石が並んでいます。その裏手には大巨石の上に碑が立っていて裏側に「大正四年十一月建立」とあり、それが「佐佐木城跡」碑です。「観音寺城」というのは、近江国守護で近江源氏の嫡流である「佐佐木六角氏」の居城として築かれた山で、その碑がこの場所に立っているということです。

 

「伝馬場丸」跡内にある巨石 ↓

「伝馬場丸」跡内にある巨石 ↓

「伝馬場丸」跡裏手に立つ「佐佐木城跡」碑(裏側に大正4年11月建立の文字が) ↓

 

「伝馬場丸」跡から少し進んだ所に、当城には珍しい「堀切」が見られます。

 

「堀切」 ↓

「堀切」に「土橋」が架かる ↓

「大土塁」上の山道を北側下から見上げた(脇は「切岸」が施されている) ↓

 

「大土塁」は暫く続き稜線を進みますが、その両側は谷底になります。道幅は狭いので、よそ見をして歩くと滑り落ちそうになります。進行方向の左手下には「伝三井丸」「伝馬淵丸」の各曲輪跡があり、「伝馬淵丸」跡内には2基の門跡石塁が残ります。

 

「大土塁」上を歩く ↓

「伝馬淵丸」跡内の門跡石塁 ↓

「伝馬淵丸」跡内の苔生した門跡石塁 ↓

 

そこから道が登っていた先には、大きな巨石「三国岩」があります。

 

「伝三国丸」跡にある「三国岩」 ↓

 

散策路沿いの「伝三国丸」跡には石塁が残っていて、その中に入ると南側の盛り上がった石塁跡とその崖下南面の石垣も良く確認出来ます。

 

「伝三国丸」跡の入口付近の石塁 ↓

「伝三国丸」跡の天端石 ↓

「伝三国丸」跡の南面の石塁 ↓

 

三叉路には道標があり、右手に行くと「433mの三角点」があり、左手に行くと「伝本丸跡」になります。

冒頭「縄張り」でお話ししたように、「本丸」跡は最高所にないので、「伝沢田丸」跡から「伝楢崎丸」跡の石塁を左に見ながらドンドン下っていきます。

 

「伝沢田丸」跡から「伝楢崎丸」跡の南側石垣 ↓

「伝沢田丸」跡脇を降りた所  ↓

「伝本丸」跡への下り道 ↓

 

観音正寺>

坂道を下りきった所にも道標が立っていて、左手180mで「観音正寺」、右手150mで「伝本丸跡」になっていますので、まず「観音正寺」へ足を向けます。

 

道標 ↓

 

「観音正寺本堂」の敷地は、「観音寺城」の曲輪の一部だったようですが、現在は「西国三十三か所巡礼地」になっています。

 

「観音正寺本堂」 ↓

「観音正寺」からの遠景 ↓

 

次回「観音寺城(2)」は、「六角氏」の家臣が居住した「曲輪」跡や、「大石垣」を経て「本丸」跡を見て行きます。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

八角形の天主台穴蔵に並ぶ礎石で想像が膨らむ天主姿の「安土城(2)

滋賀県近江八幡市) 

歴史と城主、立地と縄張り

      ↓

 

縄張図 ↓

 

お城の概要と特徴

前回「安土城(1)」は、麓から一直線の「大手道」を上り「伝二の丸」跡まで見てきましたので、「安土城(2)」では「本丸」跡と「天主」跡等を見て行きます。

 

<本丸・三の丸>

現在「蛇石」と呼ばれている石の脇から「天主台」が草に覆われて聳え立っていますが、それに沿って西側に進んだ大きな広場が「伝本丸」跡になります。

 

「伝本丸」跡 ↓

「伝本丸跡」の礎石 ↓

 

「伝本丸」跡の南側は上に土塀か多門櫓が建てられていたような石積みによって囲われ、東側には「伝三の丸」跡の石垣の壁が目に入ります。そして北側の「伝本丸取付台」跡との間には「伝本丸北虎口」跡が口を開けていますが、「伝本丸南虎口」と同様にそこから以降へは足を踏み入れることが出来ません。

 

「伝本丸」跡の南側は上に土塀か多門櫓が建っていた? ↓

「伝三の丸」跡の北隅の石垣(右は「伝本丸」跡) ↓

「伝本丸北虎口」跡 ↓

 

前述の「伝本丸北虎口」跡に近い「伝本丸取付台」跡の隅石は鈍角に拡がった「鎬(しのぎ)積み」が見られます。

 

「伝本丸取付台」跡隅石の「鎬積み」 ↓

 

本丸取付台・天守台>

「伝本丸取付台」跡は「伝本丸」跡から石段を数段上がった段上で、「天主台」を北側から南東にかけて取り巻いています。

 

「伝本丸」跡から見上げた「天主台」 ↓

 

「伝本丸取付台」跡へ上がる「伝本丸」跡からの石段 ↓

 

「伝本丸取付台」跡からいよいよ「天主台虎口」跡を抜けて「天主台穴蔵」へ入ります。

 

「天主台虎口」跡 ↓

 

その「穴蔵」に並ぶ24個の礎石の壮観さは、何度見ても飽きることはなく、八角形をした「天主台」の上に地下一階地上六階の「大天主」が聳えていたと思うとこの場所が神聖な所の様に思えます。今は亡き「天主」の想定の姿は、後ほど「安土城郭資料館」内に展示されている模型の写真を見ていただきます。

 

「天主台」現状平面図(現地に掲出) ↓

1階平面図(「信長の館」内に掲出の想定図) ↓

「天主台穴蔵」内に並ぶ「天主礎石」 ↓

「天主台穴蔵」周囲を囲む石垣 ↓

「天主台」1階から見下ろす「礎石」 ↓

 

また「天主台」からは「二の丸」跡にある「織田信長廟」を見おろせ、遠くには「琵琶湖」ものぞめます。

 

「天主台」から「二の丸」跡を見下ろす ↓

「天主台」からの眺望(奥に琵琶湖、かつては手前まで湖だった) ↓

 

<摠見(そうけん)寺跡>

「天主台」を堪能した後は、先程二手に道が分かれていた「織田信忠邸」跡へ戻り、摠見(そうけん)寺」跡に足を進めます。その入口左手にはかなり高い石垣が築かれ、寺跡入口も石段で上がるようになっています。

 

「摠見(そうけん)寺」が建っていた郭跡の石垣 ↓

「摠見(そうけん)寺」入口付近の石垣 ↓

 

「摠見(そうけん)寺本堂」跡から南西にかけて四段の段があり、そこからは「琵琶湖内湖」が綺麗に見える絶景の場所です。

 

「摠見(そうけん)寺本堂」跡 ↓

「摠見(そうけん)寺本堂」跡から望む「琵琶湖内湖」 ↓

 

そして「安土城」の築城に併せて城内に建てられた「三重塔」は現在重要文化財に指定されていますが。「湖南市」の「長寿寺」から1454年築のモノを移築したと謂われていて、屋根裏の彫刻には歴史を感じさせます。

 

重文「三重塔」 ↓

重文「三重塔」の屋根裏の美しさ ↓

 

城内順路としては、「三重塔」から急峻な石段を降りた所に「二王門」が建ちます。こちらも「安土城」築城時に現在の「甲賀市」の「柏木神社」から移築された門で両脇に室町時代作の「金剛力士立像」が建ち、門・像と共に重要文化財に指定されています。


「三重塔」から下りる急峻な階段脇で見れる二段構えの石垣 ↓ 

重文「二王門」 ↓

「二王門」両脇に立つ室町時代作の「金剛力士立像」(重文) ↓

「二王門」両脇に立つ室町時代作の「金剛力士立像」(重文) ↓

 

「二王門」から石段を下りていくと「百々橋口」跡に出ます。そこにも「安土城跡」碑があって、その前の「百々橋」を渡ると「安土城」下に入ります。当時建てられていた「神学校(セミナリヨ)」の跡やその脇には舟を付けれるような入り江を設けていました。

 

「百々橋口」跡に立つ「安土城跡」碑 ↓

「百々橋」の向こうは「安土城下」 ↓

「神学校(セミナリヨ)」跡 ↓

「神学校(セミナリヨ)」跡脇の「入り江」 ↓

 

最後に、JR「安土駅」駅前北側に立つ凛々しい「織田信長」像と駅前南側に建つ「安土城郭資料館」内の「安土城模型」や「安土城屏風絵陶板画」等の展示物を紹介しておきます。

 

駅前に立つ「織田信長」像 ↓

「安土城郭資料館」内に展示の「安土城天主」模型 ↓

「安土城郭資料館」内に展示の「安土城天主」模型 ↓

「安土城郭資料館」内に展示の「安土城屏風絵陶板画」 ↓

「安土城郭資料館」内に展示の「織田信長の南蛮甲冑」 ↓

 

 

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真直ぐ延びる“大手道”先に“天守”が聳え立つ光景は見たかった「安土城(1)

滋賀県近江八幡市) 

歴史と城主

1576年正月に「織田信長」は普請奉行に「丹羽長秀」を命じて、標高199mの「安土山」に大急ぎで築城を進めさせ1577年には城郭ができあがり、更に1579年5月には「天主」を完成させました。

 

1581年に、イエズス会の「ヴァリニャーニ」に「安土城」を描いた屏風絵を贈呈し、1582年5月には「徳川家康」を招いて接待をするなど「安土城」を内外ともに披露をしていました。

 

しかし、1582年6月2日の「本能寺の変」で「信長」は「本能寺」で自害し、6月5日には「明智光秀」が「安土城」に入城、その後は娘婿の「明智秀満」が守っていましたが、「光秀」が「山崎の戦い」で敗北したことで「坂本城」へ逃げ帰りました。

 

誰もいなくなった「安土城」は、6月15日に誰かの放火で「天主」と「本丸」は焼失してしまいます。

 

6月27日の「清須会議」で、「三法師(織田秀信)」が「安土城主」となりましたが、1585年に「豊臣秀次」が「八幡山城」を築城させたことに伴って廃城となりました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「安土山」の最高所に「不等辺八角形」の「天主」台が置かれ、それを中心に西側には「信長」の廟所が置かれている「二の丸」、北側から東側にかけて「二の丸」と同じ高さの「天主取付台」が続き、堀切(城門跡)を隔てて「三の丸」と呼ばれている小郭が配置されていて、周囲より4m程地盤が低い所に小さい曲輪で「本丸」とされている所が置かれています。

 

しかしその配置については「貞享古図」という安土城焼失から1世紀跡に作られた古図を基に現在は命名されていて疑問が多くあるそうです。

 

というのも「本丸」がこんな小郭で低い場所に置かれることがないので、「天主台」周囲の小郭全体で「本丸」を構成していたのではないかとも謂われています。「秀吉」が建てた「信長廟所」のある「二の丸」跡こそが「御座敷」と「御幸の間」からなる「本丸表御殿」跡であり、現在の「本丸」跡が「信長」が常居る「御座所」、「三の丸」跡が賓客らとの会合をした「江雲寺(こううんじ)御殿」だったと想定されています。

 

では「二の丸」はどこかというと北側に離れてある「八角平」ではないかと推定されているそうです。

 

縄張図 ↓

 

登城口・登城路・家臣邸宅

それでは「安土山」の麓から登城していきたいと思います。

 

まず古めかしい「安土城址」碑がデーンと立っている脇を通り過ぎるといよいよ、低い石塁が横へ伸びその内側には芝生が植えられ綺麗に整備された「大手口」跡に辿り着きます。

 

「安土城址」碑(昭和初期の年代が刻まれている) ↓

 

「大手口」の石塁部分から見て行きますと、その石塁は「大手道」の登り口で出土した石塁の下部に基づいて復元したそうで、一番東側の「虎口」には「薬医門」か「唐門」が建っていてそこから「上段郭」へ入ったようです。

 

「大手口」周辺の復元石塁と「上段郭」跡 ↓

 

その「虎口」から西側にかけて伸びる石塁には大きめの石が縦に等間隔で並べられる「模様積み」が施されています。

 

大きめの石が縦に等間隔で並べられる「模様積み」の復元 ↓

 

「大手口」から西側方向には、二箇所の出入口がありその西側が二度折れする「桝形虎口」、東側は直ぐに城内に入れる「平虎口」になっています。

 

「桝形虎口」(右へ折れる) ↓

「平虎口」(内側から) ↓

 

「大手道」は「大手口」からスタートしていますが、少し上った所にある入城料徴収入口から直ぐの位置左手に「羽柴秀吉邸」跡、右手に「前田利家邸」跡が構えています。

 

「伝羽柴秀吉邸」の入口には「櫓門」が据えられていた様子が現地の案内絵図で分かります。更には下段と上段に分かれていて、下段から上段を見上げた時の風情は石垣が非常に立派に見えます。上段には、御殿跡の礎石が建ち並んでいるので、かなり立派な御殿だったことが推測できます。

 

「伝羽柴秀吉邸」復元絵図 ↓

「羽柴秀吉邸」跡の下段から上段を見上げる ↓

「羽柴秀吉邸」跡上段の礎石 ↓

 

「伝前田利家邸」も立派な石垣が構えられ、奥の方にも敷地が広がっています。

 

「前田利家邸」跡(奥にずっと拡がる) ↓

「前田利家邸」跡 ↓

 

両端に「側溝」を伴う真直ぐな「大手道」はやはり迫力があり、真正面の森の上に、当時は「天主」が聳えていたと想像するだけでも身震いがします。

 

真直ぐな「大手道」と「側溝」 ↓

真直ぐな「大手道」と「側溝」 ↓

「大手道」を上から見下ろす ↓

 

1932年(昭和7年)に「伝徳川家康邸」跡へ移された「摠見(そうけん)寺本堂」から左手に大きく折れ曲る「大手道」は、その後何度かの折れを伴いながら高さのある石段が続き、石段に使用された「石仏」が各所で見られ賽銭が置かれています。

 

「伝徳川家康邸」跡へ移された「摠見(そうけん)寺本堂」 ↓

左手に曲がる「大手道」 ↓

どんどん石段の高さが増す「大手道」 ↓

石段の各所で見られる「石仏」 ↓

石段に使用されている「石仏」 ↓

 

途中左手に上がる石段先が「伝武井夕庵邸」跡で礎石を残して横たわります。

 

左の石段上は「伝武井夕庵邸」跡 ↓

「伝武井夕庵邸」跡の礎石 ↓

 

そこから少し上がった平坦地の場所が「信長」の息子「伝織田信忠邸」跡のようでした。

 

「伝織田信忠邸」跡 ↓

 

ここから道が二手に分かれ、順路としては後程訪れる「摠見(そうけん)寺本堂」跡や「三重塔」「仁王門」方向とは反対の「本丸」跡方向へ進みます。

 

ここからは、木立に囲われた幅広い石段が続き、その突当りの左手に大きな櫓台が「伝黒金(くろがね)門」になります。途中左手には、「織田信澄」邸、「森蘭丸邸」の各跡があった場所との碑が立っています。

 

「織田信澄」邸、「森蘭丸邸」跡の各碑 ↓

「伝黒金門」跡へ向かう石段 ↓

 

二の丸>

「伝黒金門」跡は、まず左手に折れ、更に右手に折れて上がり切った正面には「伝二の丸」跡の「野面積み・乱積み」石垣の壁が行く手を遮ります。更に右に折れた所も広い敷地になっていて大きな桝形のようです。

 

「伝黒金門」跡の櫓台 ↓

「伝黒金門」跡の桝形内 ↓

「伝黒金門」跡の桝形内 ↓

「伝黒金門」の礎石 ↓

「伝黒金門」を上がった正面に立ち塞がるのが「伝二の丸」跡の西面石垣 ↓

 

「伝二の丸」跡石垣を西方向に向けて進んだ先には「仏足石」が置かれています。

 

「伝二の丸」跡の隅石は鈍角(東方向) ↓

「仏足石」(石垣の石として運ばれたとか) ↓

 

そこを左手に曲がって石段を上り左手に更に上がった敷地が「伝二の丸」跡になっていて、「織田信長廟所」として「信長」が祀られています。ここは「信長」が「本能寺」で倒れた翌年に「秀吉」によって供養法要が施され「廟所」が建てられました。

 

「織田信長の廟所」 ↓

 

「伝二の丸」跡は、「本丸」跡よりも高い位置にありますので、次回のブログ「安土城(2)」では、石段下まで一旦下りて「本丸」跡を目指します。

 

 

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本日、友達に誘われて映画「黒牢城」を見てきました。

 

場所は、映画の場面である「有岡城」(兵庫県伊丹市)のすぐ横にある「イオンモール伊丹」の中にある「TOHOシネマ」です。

 

「イオンモール伊丹」内の「TOHOシネマ」 ↓

シネマ入口 ↓

 

投稿ブログの中には面白くないとの評価もありましたが、私の評価としては、面白い構成で展開させていく非常に興味深いストーリーで、最後には事件の裏に関わった人物がいるなど、楽しく見ることが出来ました。

 

シネマ入口の柱に掲出されたポスター ↓

 

ストーリーの展開は、冬春夏秋の4季節でそれぞれ完結していきますが、各季節に城内で生じた怪奇な事件の深層を「有岡城」主である「荒木村重」が、城内の「牢屋」に捕らわれの身となっていた策士「黒田官兵衛」に事件の解決の糸口を探りに牢屋に足繁く出向いて解決していきます。

 

4季節で起こる怪奇な事件(シネマ入口に掲出) ↓

 

今までのドラマ等での演出では、「荒木村重」が登場する場面というのは「織田信長」を裏切り「信長」の「有岡城攻め」では「黒田官兵衛」を幽閉する荒くれ者のイメージが強く演出されてきましたが、モックンこと「木本雅弘」演じる「村重」は思慮深い名君のイメージがあり、「村重」のイメージを変えて凄く好感が持てました。

 

「荒木村重」と「黒田官兵衛」(シネマ入口に掲出) ↓

 

「有岡城」を脱して「尼崎城」へ向かう最後のシーンでは、途中迄警固に当たってきた家臣に「最後まで生きろよ」と言う場面は、「信長」に「村重」一族を殺されてでも「毛利方」に亡命して、更に「信長」死後は堺に移って「茶人」として余生を送ったことに繋がるように思いました。

 

最後に余談ですが、「黒牢城」の映画に誘ってくれた友人は、ドラマに出ていた「村重」の家臣「伊丹一郎左衛門」と同じ苗字で、自分の先祖かもしれないので鑑賞したいとの事で、誘ってくれました。

 

映画終了後、折角近くに「有岡城」(兵庫県伊丹市)がある(JR「伊丹駅」を挟んで西側)ので友人を誘い、気温36度近くある中で「有岡城」の主郭部分だけ見学に行きました。何度か訪城はしていましたが、映画を見た後なので、少し思いを巡らすことができました。

 

有岡城跡(駅の陸橋から) ↓

駅前の「土塁」 ↓

「堀」跡(右が主郭) ↓

「有岡城」跡虎口(石垣は当時の積み方でなく切込接・布積み) ↓

主郭に残る当時の「野面積み」石垣 ↓

その石垣内に転用石(お墓の基壇) ↓

主郭内の「井戸」跡 ↓

主郭内の建物跡礎石 ↓

主郭内の「土塁」 ↓

 

この後は「イオンモール伊丹」内の「コメダ珈琲」でアイスコーヒーと無性に甘いものを食べたくて「氷点下ショコラ」を食べて身体を冷やしました。

 

久しぶりに、映画鑑賞をして開放感のある1日となりました。

 

「コメダ珈琲」で身体を冷やしました! ↓

 

 

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中堀、外堀沿いの門跡や石垣等の守備力が高い「彦根城(3)

滋賀県彦根市

城主と歴史及、立地と縄張り

       ↓

 

縄張り図(総構え) ↓

縄張り図(内堀内) ↓

 縄張り図(本丸・二の丸) ↓

 

「彦根城(3)」では、内堀、中堀、外堀沿いに見られる門跡や石垣などを見て行きます。

 

内堀、中堀、外堀沿いに見られる門跡など

それでは、最後に「内堀」沿い、及び「外堀」沿いに築かれた門の跡が現在でも市街地内で見られたりしますし、堀沿いに色々な普請物がありますので紹介しておきます。

 

「二の丸御殿」の手前には「表御門」跡の石垣がありますので、そこから時計と反対廻りに見て行きます。

 

表御門跡 ↓

鉢巻石垣と腰巻石垣、表御門橋 ↓

 

内堀に沿って北上した所には「裏御門」跡があり、更に北上して「西の丸」東下から「内堀」を渡り「玄宮園」への出入口となる「黒御門」跡があります。古写真では「黒御門」は、白漆喰総塗籠めの立派な「二重櫓門」が建っていました。

 

「裏御門」跡 ↓

「黒御門」跡 ↓

「黒門」の古写真(「彦根城博物館」に掲出分) ↓

 

その「黒門」から「本丸」跡の「天守」東側へ上る坂道がありますが、そこから「本丸」跡と「西の丸」跡の見事な石垣が良く観察できます。

 

「黒門」跡と「本丸」跡を結ぶ坂道から「本丸」跡の横矢が掛かる石垣を見る ↓

「黒門」跡と「本丸」跡を結ぶ坂道から「本丸」跡石垣を見る ↓

「黒門」跡と「本丸」跡を結ぶ坂道から「西の丸」跡石垣を見る ↓

 

また「黒門」跡から左手「内堀」越しに石垣が続き、さらにその奥には「高石垣」と「横矢掛かり」の折れが見られますが、そこが「山崎曲輪」跡です。この先端部分には二重の「北東之御櫓」と三重の「西角三階御櫓」が建っていたようです。

 

「内堀」沿いの石垣 ↓

「横矢掛かり」が見られる、右手が「山崎曲輪」跡 ↓

 

この後、東に向かって進んでいくと「中堀」に出ます。「中堀」沿いには石垣が築かれた土地が続いていますが、ここは元々は「家老屋敷跡」で現在は「文化財保存用地」となっていて「滋賀大学」や「駐車場」「検察庁」「家庭裁判所」として使用されています。

 

「中堀」を渡った正面には「船町口門」跡の石垣が構え、右に折れ曲がっています。曲がった右手には長い「雁木」が残っています。

 

「船町口門」跡の石垣 ↓

「船町口門」跡脇の「雁木」 ↓

「船町口門」の古写真(「彦根城博物館」内に掲出) ↓

 

「中堀」に面して城内へ渡る門は北側から「長橋口門」「船町口門」「京橋口門」「佐和口門」の四箇所です。

 

「山崎口門」の古写真(「彦根城博物館」内に掲出) ↓

  

「内堀」に沿って「腰巻石垣」と「土塁」が曲線を描いて非常に美しい光景が見れるポイントですが、そこ辺りから南側にかけて当時は米倉が建ち並んでいた「米蔵曲輪」になり「大手門」近くまで広がっていました。その途中には、「米入門」という「水門」跡があり現在でも両脇の石垣が残っています。(先日2026年6月の大雨で石垣が崩落しています)

 

「内堀」沿いの美しい曲線美を見せる「腰巻石垣」 ↓

「水門」跡(中は「米蔵曲輪」跡) ↓

 

「大手御門橋」を渡ると「大手御門」があり大きな桝形を形成していました。橋を渡ると正面には「冠木門」が右手の櫓台には「橋詰冠木御門之上御櫓」が睨みを効かせ、左に折れて「大手御門櫓門」が建っていました。

 

そこから「内堀」に向かって「続之多門」続いて二重の「御用米口御鉄砲櫓」が建ち並んでいて、これは古写真でも見ることが出来ます。

 

「大手御門橋」と「大手御門」跡 ↓

「大手御門櫓門」台 ↓

左から「御用米口御鉄砲櫓」、「続之多門」、「大手御門櫓」の古写真(「彦根城博物館」内に掲出) ↓

 

いずれも櫓台や門の礎石は現存しており、「続之多門」の裏側には「雁木」も備えていました。

 

また、「彦根城」の最大の特徴でもある4箇所の「登り石垣」の一つが、「大手御門櫓門」から「鐘の丸」に向かって伸びており現在もそれを見ることが出来ます。

 

「登り石垣」(「鐘の丸」へ伸びる) ↓

 

「大手門」跡から少し南下すると、大津地方裁判所の敷地南側に「旧西郷屋敷長屋門」が建っていて、その前で道路が左に折れ更に右に曲がる桝形になっています。ここが「中堀」に面する4つの門の一つ「京橋口門」跡です。手前右手には、「船町口門」同様に「雁木」が積まれています。

 

「旧西郷屋敷長屋門」 ↓

「京橋口門」跡の桝形 ↓

「京橋口門」跡(「中堀」側から) ↓

「京橋口門」の古写真 ↓

 

「三の丸」跡には、「井伊直弼」が部屋住み時代に過ごしていた屋敷「埋木の舎」が現存していますが、それ以外にも重臣や家臣達の屋敷跡も多くあって、現在でもその門等の遺構を目にすることが出来ます。

 

「井伊直弼」が部屋住み時代に住んでいた「埋木の舎」 ↓

「井伊直弼」が部屋住み時代に住んでいた「埋木の舎」 ↓

家老「木俣家」屋敷門(佐和口門裏) ↓

重臣「脇家」の蔵建築 ↓

「鈴木家」長屋門 ↓

 

「京橋口門」跡の桝形内には大きな「鏡石」が真正面に嵌め込まれています。「京橋口門橋」を渡って真っすぐな道路が伸びますが、ここが現在「夢京橋キャッスルロード」と命名された、昔ながらの城下町風の街並みを再現して、各種店舗が貼りつき観光名所となっている所です。

 

 「夢京橋キャッスルロード」  ↓

 

「三の丸」跡を西に向かって突っ走る「夢京橋キャッスルロード」が更に「外堀」を越え「善利(芹)川」との間には、「中級・下級侍屋敷」と「足軽長屋・組屋敷」が並んでいたエリアが拡がっていました。

 

「惣構え」の縄張り図(赤丸は、下記「番所」の位置、左が北向き) ↓

 

このエリアには、日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」が現存しています。

 

この「物見番所」は、丁度辻の角に位置していますが、防御を目的として道を意図的に少しずらして、見張りが容易にできる仕掛けを採っています。

 

屋根は「切妻造り」の「桟瓦葺き」、外壁は板張りと下見板張りで角部分に小さな窓を設けて外を監視できるようになっています。今で言うと「交番所」のような感じです。

 

近くには「御普請方長屋」の遺構もあります。

 

日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」 ↓

日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」 ↓

「芹川(善利川)」(惣構えの最外郭を形成している) ↓

 

 

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