只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

南部家の拠点で東北一の石でできたお城盛岡城

岩手県盛岡市

●城主と歴史

「豊臣秀吉」の小田原征伐による天下統一の少し前、「南部信直」が豊臣政権に巧く取り入ったことから、東北地方の北東部分を抑えることができました。

 

更に、「大浦家」が統治していた「津軽」をも手に入れようと「秀吉」に臨んだのですが、既に「大浦家」は小田原に参戦して領地を安堵されていたので、「南部家」の望みがかなえられなかったそうです。息子の「南部利直」は、「秀吉」の寵臣であった「蒲生氏郷」の養女を妻にして、一層豊臣政権に近づくことによって、「盛岡城」はこの頃から修築を始め居城としました。

 

「関ケ原の合戦」では、「利直」は徳川方について、「上杉景勝」を攻めるべく山形に出陣しました。このことで、本領を安堵されるようになります。「盛岡城」は、この後も修築を進め1633年に完成しました。

 

お城の概要と特徴

「盛岡城」は、石材となる花崗岩が豊富に産出する丘陵地に造られたことで、東北地方では珍しい石垣造りのお城となっています。

 

<縄張り>

西側の北上川に沿った「本丸」「腰曲輪」から「二の丸」「三の丸」にかけての面は長大な石垣が続き、特に「二の丸」西面の高石垣は立派で、積み方も「打込接」でありますが、殆ど隙間もなく「切込接」に近い積み方になっています。

 

縄張図(城内に掲出) ↓

盛岡城で一番高い石垣(14m)三の丸から ↓

 

曲輪配置は、「内丸」-「本丸」-「二の丸」-「三の丸」が北から南にかけて縦に並ぶ「連郭式」の曲輪で、「本丸」は約70m四方の小さな形でしたが、南東角には三層で屋根が赤瓦で葺かれた「天守」が築かれ、北西角と南西角には二重櫓(納戸櫓、二階櫓)が置かれました。

 

「天守」と南西角の「二重櫓」が写った古写真によると、「天守」最上階の屋根には唐破風が付き、銅製の巨大な鯱が上がり、壁には竪格子が入った「華頭窓」が付く優美な外観を持つ「天守」であったことがわかります。

 

古写真(右側に「天守」3階部分が見える) ↓

 

また、「本丸」周囲に西側から南、東側にかけて「榊山曲輪」「腰曲輪」「淡路丸」が取巻いていました。

 

本丸、二の丸

「本丸」の面積が狭いので、本丸御殿は「中奥」と「奥御殿」が置かれ、「表御殿」は空堀を跨ぐ「廊下橋」を渡った「二の丸」にも置かれました。御殿としては、「本丸」と「二の丸」が一体化されていました。

 

本丸跡内にある南部中尉像(日露戦争で活躍)の台、像は太平洋戦争で供出 ↓

天守台(御三階櫓の石垣) ↓

本丸納戸櫓跡(本丸内から) ↓

本丸二階櫓跡 ↓

御末御門跡 ↓

本丸石垣と渡雲橋(御廊下橋) ↓

本丸から渡雲橋(御廊下橋) 越しに二の丸方向 ↓

 

三の丸

「二の丸」からは櫓門で枡形を形成していた「車御門」で繋がります。「三の丸」からは大きな岩が出土する土地であることから歪な形をしていました。特に巨石である「烏帽子岩」が産出され、これを宝岩として祀られていました。また、「三の丸」から「御台所屋敷」に繋がる「不明御門」の脇にも巨石が露出しているので、当門の石垣はそれを避ける形になっています。

 

車御門跡(三の丸から二の丸入口) ↓

烏帽子岩(三の丸から出現) ↓

 

「三の丸」の入口には櫓形式の「瓦御門」がありました。「盛岡城」の建物の屋根は殆どが板葺きだった中で、この門だけが瓦葺だったので、このように呼ばれているようです。

 

瓦御門跡(枡形、渡櫓がのっていた) ↓

 

<腰曲輪、榊山曲輪、淡路丸>

「本丸」の周囲「コ」の字型に「腰曲輪」が置かれ西側は「榊山(さかきやま)曲輪」と呼ばれていて「吹上御門」が設けられていました。南側は「馬場」として使用されておりその南東角には「二重櫓」がありました。そして東側は「淡路丸」と呼ばれ「蔵屋敷」等が置かれていました。

 

現在の「馬場」跡には、城内唯一の現存建造物である「彦御蔵(ひこおくら)」があり、木造二階建て、切妻造りの瓦屋根、外壁が総白漆喰の建物になっています。

 

榊山稲荷曲輪の石垣(西側) ↓

吹上御門(枡形)跡 ↓ 

腰曲輪・吹上馬場跡 ↓

彦御蔵(現存唯一の蔵、土蔵造二階建て、外壁は白漆喰) ↓

彦御蔵 ↓

米内蔵(米蔵)跡 ↓

腰曲輪二重櫓(大櫓)跡 ↓

淡路丸小櫓の石垣 ↓

 

「淡路丸」の北側、「二の丸」の東側の低い敷地には「御台所屋敷」が設けられていました。その東側には「内堀」がありましたが、現在も庭園風になった木々の中を水を湛えた「内堀」跡が存在します。

 

御台所屋敷跡 ↓

台所御門跡 ↓

御台所屋敷跡から二の丸石垣を望む ↓

帯曲輪内鶴ケ池(内堀跡)に架かる橋 ↓

 

この北側の土塁上には1679年に鋳造した鐘が吊るされる「時鐘」が建っています。こちらは、城下に時を知らせていた「鐘楼」で、外堀の土塁上にあったもので再移築したものです。 

 

時鐘(外堀の土塁上にあったもので再移築して城内に) ↓

 

<内丸、新丸>

「内丸」の正面には、「桜山神社」がデーんと構えていますが、藩祖「南部信直」を祀っています。そしてこの「神門」は、城内の「綱(はがね)御門」の木材で造られたそうです。

 

櫻山神社神門 ↓

 

「桜山神社」の北側に構えた「内丸」は、「亀ケ池」「鶴ケ池」が堀として取り巻いています。 

 

亀ケ池 ↓

 

「新丸」は、「下屋敷」や「家老屋敷」があった所で、現在は役所街となっています。その中に「石割桜」と呼ばれる樹齢350年で国の天然記念物となっている桜があります。この桜は、大きな岩が二つに割れてそこから幹が出ている逞(たくま)しい桜です。

 

内丸の碑 ↓

石割桜(国の天然記念物) ↓

 

城下

城下にも、いっぱい見どころがあります。お城の「新山惣門」があった場所には碑が建っています。またその後ろにあるのが、「木津屋本店」の土蔵群ですが、そのうちのどれかが、「盛岡城」の「土蔵」から移築されたものらしく、どれかは判りませんが雰囲気のある蔵が並びます。

 

城新山惣門跡碑 ↓

木津屋本店の土蔵群(どれかが、盛岡城から移築) ↓

 

また「盛岡城」の「裏門」だった薬医門が「報恩寺中門」に移築されていて、当時の他の建造物の屋根瓦が「赤瓦」であったことからも嬉しい遺構です。

 

盛岡城裏門(現 報恩寺中門-薬医門) ↓

盛岡城裏門 ↓

 

また、「徳清(とくせい)商店」にも蔵群もあり、こちらはお城の「勘定奉行所」が移築された建造物があるとのことでしたが、こちらもどれかは判らずで、これかな?と予想して一応写真を紹介しておきます。

 

徳清商店の蔵群(城勘定奉行所?) ↓

 

北上川沿いには、「ござ九」という昔ながらの商店があり格子戸が続きますし、大慈(だいじ)付近には「町家」が見られます。またその近くにある「大慈清水」は、第一井戸から第四井戸まで段々になっていて、現在でも近隣の方が利用しています。

 

盛岡町屋(大慈付近) ↓

大慈清水(第一井戸~第四井戸) ↓

ござ九(商店側、格子戸が続く) ↓

紺屋町番屋(望楼がある番屋、大正期の木造洋風建築) ↓

 

一昨日紹介した「弘前城」は、城内に御三階櫓(天守代用)が残る他に櫓や門が多数残っているので、観光化されていますが、「盛岡城」は殆ど現存の建造物が残らず立派な石垣が見られるだけです。

 

しかしながら、城下には昔ながらの街並みがあちらこちらで見られ、2023年には、米国「ニューヨーク・タイムズ紙」で「2023年に行くべき52カ所」の2番目に選ばれたことで世界的に注目され、外国人観光客に人気スポットになったこともある城下町です。

 

 

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南北朝時代の建武政権が発足した時に築かれた根城

青森県八戸市

城主と歴史

1333年に、南朝方の重鎮「北畠親房」の息子である「顕家」が、「後醍醐天皇」の息子「義良(のりよし)親王」に従って奥羽へ下向した時に、同行した「南部師行(もろゆき)」がここに城を築きました。「南朝方の根本になる城」との願いをこめて「根城」と命名されたそうです。

 

その後「師行」は京まで上りますが、北朝方の「高師直(こうのもろなお)」と戦い戦死してしまい、弟が家督を継いで「八戸南部家」はこの地で続きます。

 

「豊臣秀吉」が東北支配を治めた際には、「盛岡城」の「南部利直」が八戸周辺の支配権を接収して、「八戸南部家」は「遠野」へ移しました。それに伴って「根城」はその後1627年に廃城となりました。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

「根城」は、中世城郭ですので、「天守」は勿論のこと「櫓」などもない、「居館」中心のお城です。「馬淵川」の河岸段丘の上に、最西側の「本丸」から東側に向かって南北3つずつ合計6つの曲輪が並ぶ「連郭式」のお城です。

 

根城の縄張り(現地に掲出) ↓

根城の絵図 ↓

 

<本丸>

「本丸」には、「主殿」を中心に城主が居住と政務を行う「常御殿」、城主の家族が居住する「奥御殿」が建ちます。

 

「主殿」は、特別なお客と会ったり、様々な儀式を行ったりした所です。また、「南部家」に伝わる重宝が納められ大切に管理されていました。

 

本丸の模型(現地に展示) ↓

 

部屋は、儀式を行う一番格の高い部屋である「大広間」、「二の間」「祈祷の間」が続き、更に廊下沿いに「控えの間」「茶の間」、そして一番奥に来客の応対をする人が控える「詰の間」が配置されていました。

 

その他に大きなスペースを取っていた「重宝の間」や「台所」も併設されていて、廊下沿いの扉は、「吊り上げ戸」になっていました。

 

主殿(裏側、中馬屋から) ↓

主殿の入口部分 ↓

主殿の廊下と吊り上げ戸 ↓

主殿の二之間と広間がある部分 ↓

主殿の二之間 ↓

主殿広間(南部家の武運長久祈願の為に行った正月十一日の儀式) ↓

主殿の詰之間 ↓

 

更に、「番所」、来客用の馬をつなぐ「中馬屋」、倉庫の「板蔵」、色々な生活用品を製作する「鍛冶工房」や「納屋」が建っていました。これらは、現在発掘調査に基づいて復元されています。中世城郭の復元は初めてとのことだそうです。

 

番所 ↓

中馬屋(北門側から) ↓

板蔵、工房(奥御殿跡越し) ↓

奥御殿跡(奥は主殿) ↓

板蔵内(当主・家族使用の道具や衣類を収納) ↓

鍛冶工房 ↓

工房 ↓

三棟並ぶ納屋 ↓

 

「本丸」の出入口は、「東門」と「西門」がありますが、メインは「東門」でその外側には「薬研堀」が掘られ、曲輪間は木橋が架かって「中館(なかだて)」に繋がっていました。

 

西門 ↓

東門 ↓

薬研堀跡 ↓

東門から薬研堀を渡り木橋へ ↓

 

<中館・東善寺館>

「中館(なかだて)跡」には、現在休憩所を兼ねた「四阿(あずまや)」が建ちます。また、その手前の「東善寺館跡」も芝生に覆われて特に何もありません。

 

中館跡の四阿(あずまや) ↓

広場(東善寺館跡)で本丸に繋がる散歩道 ↓

 

「根城」の入口には、「八戸城」の「東門」が移築再利用されています。その門の前には、「根城」を築いた「南部師行」像と「八戸博物館」がモニュメントとして建っています。 

 

八戸城の東門(元は根城で使用していて八戸城に移築、更に現在は根城へ再移築) ↓

根城を築城した南部師行像 ↓

 

 

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先日から「日本100名城」のお城を紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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南部家支配から逃れて築き、現在では多くの城郭建造物が残る「弘前城(後編)

青森県弘前市

 

弘前城(前編)」では、「藩主(城主)と歴史」「立地と縄張り」をお話して、天守代用の「御三階櫓」、3基の「三重櫓」及び城内でも大きい櫓門「追手門」「亀甲門」の各重要文化財の城郭建造物を紹介しました。

 

「弘前城(前編)」 ↓

 

弘前城(後編)」では、櫓門の残り5基と、「本丸」「二の丸」「北の丸」「三の丸」「西の丸」各跡の現状と「長勝寺構」を見て行きます。

 

藩主(城主)と歴史

● お城の概要と特徴

城内案内図(現地掲載) ↓

 

<御三階櫓=天守代用>

<三重櫓

門群の「追手門」「亀甲門」

 

上記の2櫓門以外には、「南内門」「東内門」「東門」が建ちます。各櫓門の二階には庇付きの「出格子窓」が取り付けられ、一階には「見張番所」を設けて「潜戸(くぐりど)」脇に置かれた「出窓」から出入りをチェックできるようにしています。これら3門も重要文化財に指定されています。

 

南内門(重文、庇付出格子窓、番所の出窓、潜り戸) ↓

南内門(内側から、壁は真壁造り) ↓

東内門(重文、番所出窓、潜り戸、庇付出窓格子) ↓

東内門(重文)と土塁 ↓

東門(重文、枡形内から) ↓

東門(壁は真壁造り、三の丸側から) ↓

東門の番所出窓と潜り戸 ↓

 

更に、「東内門」の城内側には「与力番所」が昭和54~57年に移築復元されています。 

 

二の丸与力番所の表側 ↓

二の丸東門与力番所裏側 ↓

 

このように、現存の城郭建造物が10棟もしっかりと残っているお城は、そんなに数多くありませんので、非常に貴重です。しかも、各門は板張りで壁は柱が見える「真壁造り」の少し古いタイプの「櫓門」であるので情緒を醸し出しています。

 

本丸>

縦長長方形で総石垣造りの「本丸」は、北側から東側にかけ「内堀」が取り巻き、その周囲を「二の丸」が構えます。更に「中堀(二の丸堀)」がそれを取り囲み「三の丸」が拡がっていて、その周囲を「外堀」が巡ります。

 

下乗橋(二の丸と本丸を繋ぐ) ↓

 

「本丸」の東南隅には天守代用の「御三階櫓」がありますが(現在は石垣工事中で移動中)、元々は「本丸」の西南隅に「天守」が聳えていましたが、現在は「天守台石垣」だけが残ります。

 

本丸未申櫓(元々は天守台)への階段 ↓

 

「本丸」北西隅には、「戌亥櫓」跡の櫓台が残る他、中心部分は「本丸御殿」跡でその中に「御金蔵」跡があります。 

 

本丸戌亥櫓台跡 ↓

本丸御殿跡 ↓

御金蔵跡 ↓

 

内北の丸~二の丸

「本丸」北側から「鷹丘(たかおか)橋」を渡ると「内北の丸」が拡がります。「子(ね)の櫓」跡と「籾蔵」跡の礎石が見られます。

 

鷹丘橋と内堀(北の丸から本丸方向) ↓

子の櫓跡(三重櫓、芯柱の穴あり) ↓

籾蔵跡(四代藩主「信枚」生母の久祥院の屋方の後に「籾蔵」に) ↓

 

そこから、東へ歩みますと「二の丸」が少し細くなった敷地の土塁の上に、石段を積んだ現存の「丑寅櫓」が建ちます。

 

北の丸

その脇にある「賀田(よしだ)門」跡から「賀田橋」を渡りますと、現在はレクリエーション広場と「護国神社」の敷地となっている広い敷地の「北の丸」跡に出ます。搦手門の「亀甲(かめのこ)門」は、この北側に位置します。

 

賀田(よしだ)門跡(枡形になっている) ↓

北の丸、左は護国神社、奥に亀甲門 ↓

 

二の丸

一方、「本丸」から「土橋(廊下橋)」を抜けて低くなった南側には「角馬出」があります。「武者屯(むしゃだまり)御門」跡を抜けて赤く映えた「下乗門」を渡ると「二の丸」に繋がっています。

 

亀の石(本丸南虎口の巨石) ↓

武者屯御門跡地(高麗門があった) ↓

御三階櫓より下乗橋を見下ろす ↓

 

<二の丸>

「二の丸」の南側には、「前編」で紹介した「辰巳櫓」「未申櫓」が構えています。また「馬場」があった敷地でもあり、現在「馬場」跡の再現と「土塁」が見られます。

 

二の丸の松林 ↓

馬場跡と小土塁 ↓

 

<三の丸>
「南内門」を出て「杉の大橋」を渡ると「三の丸」が拡がります。

現在「三の丸」には、市民広場を中心に「市立博物館」や「市民会館」等があり、その敷地の南側に現存の「追手門」が建ちます。また、「三の丸」東部分には「土塁」と「小土塁」が見られます。
 

中堀に架かる「杉の大橋」 ↓

南外堀と芝土囲、追手門 ↓

 

また「三の丸」の東南地域の旧三の丸庭園であった所には「弘前城植物園」が拡がり、その北側には、「二の丸」の現存「東内門」から繋がる道が現存「東門」へ向かい、「東門」から左手に折れる枡形を抜けると「外堀」に出ます。

 

弘前城植物園(旧三の丸庭園) ↓

三の丸土塁 ↓

三の丸小土塁 ↓

亀甲橋から望む外堀(東向き) ↓

 

西の丸

「二の丸」南側に戻り西側に進むか、「角馬出」まで戻り西側へ足を進めるとそこは「西の丸」になります。「西堀」と「蓮池」の間の低い敷地で、弓矢の的場を立てる土盛りである「垜(あずち)」跡、「埋門」跡や「西の丸未申櫓」跡があります。

 

西の丸の土塁 ↓

西の丸 未申櫓跡の土塁櫓台 ↓

西の丸 三重の未申櫓の礎石 ↓

西の丸 埋門跡の石垣 ↓

「垜(あずち)」跡 ↓

 

<長勝寺構>

城下の南側に並ぶ長細い敷地は、曹洞宗のお寺を並べ「出曲輪」として利用されました。「長勝寺構(かまえ)」としてお城の防御ラインとされていました。

 

西端には「長勝寺」が建ち、そこに続く道は禅林街といわれ33の寺院が並び、その入口には桝形となって「土塁」を構えていて現在でもその遺構が残ります。

 

茂森町の「桝形」跡の道路 ↓

「長勝寺構」入口付近の「土塁」 ↓

「長勝寺構」入口付近の「土塁」 ↓

長勝寺構えの黒門 (弘前市有形文化財、出城としての総門で高麗門) ↓

「長勝寺構」の真直ぐな道 ↓

「長勝寺三門」(重文) ↓

 

城下町

お城の「亀甲門」から北側には、江戸後期築で藩内のわら加工品や荒物を扱う商家「石破家」や、石高100石前後の中級武士の居宅に似る藩医宅「伊東家」住宅があります。それらは、「仲町伝統的建造物群保存地区」の中にあり江戸時代風情を味わうことができます。

 

石場家(重文、江戸後期築、藩内のわら加工品や荒物を扱う商家) ↓

伊東家住宅(石高100石前後の中級武士の居宅に似る、藩医宅) ↓

仲町伝統的建造物群保存地区の街並み ↓

 

その他、旧弘前市立図書館(県重宝、ルネッサンス様式、堀江佐吉設計、明治39年築)や、旧東奥義塾外人教師館(県重宝、明治33年築)、 弘前カトリック教会会堂(オージェ神父設計、尖塔のあるロマネスク様式、明治43年築)など明治時代の建造物が建ち並ぶエリアもあり、見逃せない場所です。

 

旧弘前市立図書館 ↓

旧東奥義塾外人教師館 ↓

弘前カトリック教会会堂 ↓

 

 

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南部家支配から逃れて築き、現在では多くの城郭建造物が残る「弘前城(前編)

青森県弘前市

藩主(城主)と歴史

青森県には二つの大きな勢力を持つ「津軽家」と「南部家」があります。各々の居城が「弘前城」(青森県弘前市)であり、「盛岡城」(岩手県盛岡市)であります。

 

「津軽家」は、元々は「南部家」の支配下にありましたが、「大浦為信」の時に、「南部家」の津軽支配の中心城であった「石川城」を攻めて独立を宣言し、津軽各地を攻略しました。そして、小田原遠征に向かう途上の「豊臣秀吉」にいち早く謁見して、津軽の支配権が安堵されました。これは、「南部信直」が小田原に参陣する前に、「大浦為信」が「秀吉」に謁見したことから、「南部家」は津軽の領地を失うことになります。

 

更に「大浦為信」は、京都の公家「近衛家」に近づくことで、名字を「津軽家」と改めることになりました。

 

「関ケ原の合戦」では、東軍の徳川軍につくことによって加増され、「為信」の息子「信枚(のぶひら)」の時に、「弘前城」が完成します。以上のような経緯から、江戸時代通じて両隣の「南部家」と「津軽家」の反目が続いたそうです。

 

 現在でも、同じ県内であるけれども、文化や方言等が違い対抗意識が強いと言われています。

 

● お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「弘前城」は「岩木川」の河岸段丘の上に築かれたお城で、「梯郭式」の「平山城」であります。天然の要害として、西側に流れる「岩木川」と東側に流れる「土淵川」も堀として利用しています。

 

城内案内図(現地に掲載) ↓

 

更に、「岩木川」から水を取り込んだ水堀の「外堀」「中堀」「内堀」を設け、西側には巨大な溜池の「蓮池」や「西堀」も防御の為に掘られました。

 

本丸から蓮池、西の丸方向 ↓

 二の丸と三の丸の間の中堀 ↓

西堀(春陽橋から、左は桜のトンネル) ↓

 

<御三階櫓=天守代用>

当城の普請物ですが、現在は、本丸に天守代用の「御三階櫓」を始め、全国の現存「三重三階櫓」では最小の櫓である「丑寅櫓」「辰巳櫓」「未申櫓」の櫓群や、「追手門」「南内門」「東内門」「東門」「亀甲(かめのこう)門」の門群が重要文化財に指定されています。また再移築された「与力番所」も建ちます。

 

「弘前城」の天守は「御三階櫓」と言い、三層三階の「本丸辰巳櫓」を天守代用に設えました。

 

当初の櫓の時の屋根は「栩(くぬぎ)葺」でしたが格式を持たすために銅板本瓦葺に替え、更に層塔式に変更して、「二の丸」側からの見栄えを破風を付けて天守の顔を持たした天守建築にしました。一方「本丸」側の側面は、採光用の連窓と鉄板戸が付き、軒垂木は白木のままの櫓建築の様相を残したままにしています。

 

重文「御三階櫓」と赤い「下乗橋」(本来の位置) ↓

重文「御三階櫓」(元々は本丸辰巳櫓、下乗橋から見える部分だけを「切妻破風」の装飾を施す) ↓

重文「御三階櫓」(南西方向より、連窓で破風がない) ↓

重文「御三階櫓」(西面、採光の為に連窓と鉄板戸) ↓

重文「御三階」の銅板本瓦葺(豪雪、寒冷対策) ↓


内部は、「箱窓」がズラリと並び「切妻破風」の内部が部屋になっています。また、階段は凄い急角度です。

 

箱窓が並ぶ ↓

二階内部(切妻破風の内側) ↓

急な階段(1階から2階へ) ↓

急な階段(見下ろす) ↓


 

「天守台」の本丸側は、低く4段で「切込ハギ」で整えられていますが、外側は高石垣で「打込み接・乱積み」となっています。

 

「天守台」内側石垣は「切込接(ハギ)」 ↓

 

その高石垣の解体・積み直し工事が2015年から行われ2024年末には完成し、2026年の夏には「天守」の引き戻しが行われる予定です。

 

ここで「御三階櫓、御三階」についてお話します。1615年発令された幕府は「武家諸法度」の中で「一国一城の令」を出しその後も「改訂武家諸法度」を発信して、基本的に新らたな築城を禁止しました。

 

しかし、大名の中には、「天守」を城のシンボルにしたいとの思いが強い大名もおり、天守並みの「櫓」を造って幕府を刺激しないように「天守」とは言わないで「御三階櫓」を建てたとの報告をしたようです。

 

前述したように「天守台」工事の為に2026年夏頃までは、「曳家工法」によって約80m移動されています。解体中には、御三階櫓四隅からイカ型をした石「いかすみ石」が見つかっています。これは、「御三階櫓」を四隅から支える為に設けられたようです。

 

2026年夏頃までは「本丸」跡へ80m移動された「御三階櫓」 ↓

2026年夏頃までは「本丸」跡へ80m移動された「御三階櫓」 ↓

いかすみ石 ↓

 

櫓群>

3つの櫓「丑寅櫓」「辰巳櫓」「未申櫓」は全て土塁の上に建っています。現存の「三重三階櫓」では最小サイズの望楼型で、その屋根は、「栩(くぬぎ)葺」でしたが、現在はその上に銅板を覆っています。

 

特に「未申櫓」には、「腰庇(こしひさし)」を巡らす古式な手法を採用していて、福井県の「丸岡城」天守でも見ることができます。

 

二の丸丑寅櫓(重文、庇付出格子窓) ↓

二の丸丑寅櫓(重文、望楼部分) ↓

二の丸辰巳櫓(重文、壁は漆喰塗) ↓

二の丸辰巳櫓(重文、庇付出格子窓、屋根はクヌギ葺に銅板) ↓

二の丸未申櫓の東面 ↓

二の丸未申櫓(南面、屋根の銅板の下はクヌギ葺き) ↓

二の丸未申櫓の素木造りの垂木 ↓

二の丸未申櫓の腰庇板 ↓

 

門群

次に「門」ですが、「追手門」は、大手門に相当する門で、その周辺の堀幅を狭くしたり空堀にするなどわざと攻めやすくして敵を油断させて正面に集中させる作戦をとり、一方裏方面を堅固にして裏から攻撃をしかける手法=仕掛けを導入しているそうです。

 

追手門(重文、銅板本瓦葺、庇付出格子窓) ↓

追手門内側より ↓

追手門の庇付出格子窓 ↓

追手門の番所出窓と脇潜り戸 ↓

追手門に続く板塀 ↓

 

従って「搦手門」に相当する「亀甲(かめのこ)門」は非常に立派な裏門になっていて、これは「大光寺城」から移築したものと言われています。戦国時代のお城からの移築ですので、柱などをよく見ると、弓矢の矢じり傷が残っているのが分かります。

 

亀甲橋と亀甲門(重文、北門、他の門と形状が違う、大光寺城からの移築) ↓

亀甲門(重文、城内最大の門、城内から) ↓

亀甲門脇の袖壁と塀 ↓

亀甲門の枡形を囲う塀 ↓

亀甲門の門柱に残る矢じり傷 ↓

 

「弘前城(後編)」では、「櫓門」の「南内門」「東内門」「東門」から紹介していきます。

 

 

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先日から「日本100名城」のお城を紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

戦後まで存在した「天守」は失火しRC造りで外観復元松前城

北海道松前郡松前町

●城主と歴史

津軽の「安東家」が蝦夷に進出した時の臣下であった「蠣崎(かきざき)家」は、蝦夷で勢力を伸ばしていきました。五代目の「慶広」の時に、「豊臣秀吉」に謁見して、「蝦夷島(北海道)」の支配者として大名に準ずる扱いを受けます。

 

徳川政権下においても、アイヌ交易独占権を公認されて「蝦夷島」の支配は認められ、姓を「松前家」と改めます。居城は、現在の場所に「福山館」という陣屋を設けました。

 

幕末になると、ロシア艦隊が頻繁に表れるようになり、幕府から北方警備の為に、「福山館」の場所に築城することを幕府から命じられ、1854年に「松前城」が出来ます。五島列島の「福江(石田)城」と同様に、江戸時代最後に建築されたお城となりました。

 

● お城の概要と特徴

縄張り>

「松前城」は、高崎藩の長沼流軍学者「市川一学」の理論によって築城されたお城で、大手門からの通路は曲がりくねった構成で防衛力には優れていました。しかし一方で、裏側の搦手からは敵が攻めてこないものとして築城されていました。「戊辰戦争」の「箱館戦争」の際には、「土方歳三」によって搦手から攻撃され、成すすべもなく落城しました。

 

最上階に「本丸」を置き、其の下に「二の丸」更に下には「三の丸」を置く雛壇状となっていて、そこには七基の「砲台」が日本海に向けて据え付けられていました。

 

城図(城内に掲出分) ↓

 

<天守(三重櫓)外観>

「本丸」の東南隅には三重三階、層塔型で破風無し、白漆喰総塗籠めの天守代用「三重櫓」が建ち、その西側には「本丸御門」を据えました。

 

復元天守(二の丸側から) ↓

 

「天守」唯一の装飾は、「竪格子窓」の上下に設けられた「長押(なげし)」だけです。長方形の「竪格子窓」は、桁(平)側に四つ、妻側に二つを各階に設けていました。

 

復元天守と重文本丸御門 (二の丸側から) ↓

本丸御殿跡から(「長押」と「竪格子窓」が良く分かる) ↓

 

屋根は、北海道の気温の寒暖差や雪の重さに耐えられるよう「銅板葺き」にして軽量化を図っていました。また「天守」の軒先も元々は何も塗らない素木(しらき)のままでしたが、「銅板」が張られています。

 

復元天守の軒裏も銅板張り ↓

 

この天守代用「三重櫓」は、旧幕府軍艦からの砲撃に耐え、太平洋戦争にも耐えましたが、1949年(昭和24年)の火事によって、残念ながら焼失してしまいました。

 

その後、コンクリート造りで外観復元されましたが、この「三重櫓」も老朽化によって、木造による建て替えが計画されているとのことです。写真、図面、資料がふんだんに残っていることから、内部も詳細に復元されるのではないでしょうか。

 

天守(三重櫓)内部>

内部の写真はあまりありませんが、1階と2階は、中央に「身舎(もや)」という部屋を設けて周囲を「入側」によって囲っています。3階は、「入側」がなくて一部屋になっていて、天井は小屋組みで天井板は張っていませんでした。

 

また、「天守」壁の内側には厚さ約6cmの「欅(けやき)」の厚板を張って、外国船による海上からの砲弾に対する備えも行っていました。写真ではちょっとわかりずらいです。現在は、RC造りですので全くそれらは再現されていません。

 

在りし日の天守内部(天守二階入側と身舎、天守内に掲出写真) ↓

在りし日の天守内部(天守三階天井、天守内掲出写真) ↓

現在の天守内 ↓

現在の天守内2階 ↓

現在の天守内最上階 ↓

 

<天守台>

当城の「天守台」は3~5段の石垣造りの「切込接(はぎ)」で約2.5mと低い石垣になっています。「天守」は「天守台」の上にギリギリに建つのではなくて、少し引いた「犬走り」状の空白地を設けて建てられました。

 

「天守台」の石は、軽くて柔らかく風化しやすい「緑色凝灰岩」であり、加工しやすいので「亀甲積み」となっています。また、「天守台」とともに西側に延びる土塀下の石垣に穴が多数見られるのは、戊辰戦争で撃ち込まれた銃弾の跡です。

 

「天守台」(二の丸側から) ↓

「天守台」から「土塀」下の石垣に砲弾の跡 ↓

 

<本丸御門>

先程少し触れました「本丸御門」は、特徴のある櫓門で、前面から見ると低い二階建てですが、「本丸」内側の背面は櫓部分がなく門と石垣の上に屋根が乗っているスタイルで、現在は重要文化財に指定されています。このような櫓門は全国でもこちらしかありません。

 

本丸御門(二の丸側から) ↓

本丸御門(重文、本丸側から) ↓

本丸御門(重文、横から、右側が二の丸側、左側が本丸側) ↓

本丸御門の屋根も銅板葺き ↓

 

本丸御殿>    

「本丸」には、「本丸御門」の真正面に玄関が立派な唐破風を持った「本丸御殿」が建てられていました。廃城後にはその「玄関」を小学校の校舎の玄関として使用されていましたが、現在では「本丸」跡の端に移築保存されています。

 

本丸御殿跡 ↓

本丸御殿CG ↓

表御殿玄関部分(道有形文化財、玄関部分だけを切り取って保存) ↓

表御殿玄関上の鶴亀の彫刻 ↓

 

「本丸」跡の端に移築されている「本丸御殿玄関」の近くには、「耳塚跡碑」が立っています。これは1669年のアイヌ民族との衝突「シャクシャインの戦い」時に、アイヌ人から削いだ耳を埋めた塚だそうです。戦果をカウントする手法だとしても、なんと惨いことでしょう。

 

耳塚跡碑 ↓

 

<内堀、月琴堀、大土塁>

主郭である「本丸」を守る為に、東側には「内堀」が築かれ、北西を守る外堀として「月琴(げっきん)堀」が掘られています。そして北側には「大土塁」と更にその北側には「馬出」が装備されました。

 

「内堀」 ↓

「月琴堀」 ↓

「大土塁」 ↓

 

二の丸>   

「二の丸」には、「太鼓櫓」と「東郭隅櫓」が、白漆喰総塗籠で破風なし銅板葺きのシンプルな櫓であったことが、古写真から窺うことができます。

 

古写真(幕末、天守内掲出の写真、左から、多聞櫓、太鼓櫓、天守代用三階櫓、隅櫓が見える ↓

二重太鼓櫓台跡(二の丸南東隅) ↓

東郭内隅櫓跡(二重銅版葺屋根) ↓

 

正面には「大手門」が置かれ枡形を形成していて「一の門」「二の門」以外にもう一つ門があったそうです。東側には「搦手門」が置かれ、現在は「反橋」、「三本松土塁」、「搦手ニの門」とその脇の「土塀」や「外堀」が復元されています。 

 

二の丸跡と奥は大手門跡 ↓

反橋と三本松土塁と復元「搦手ニの門」 ↓

復元「搦手二の門」 ↓

 

三の丸> 

「三の丸」は、土塁に沿って七基の「砲台」が海側に向けて据えられ、現在は「七番台場」跡の上に屋形が組まれ、「五番台場」の跡と共に目にすることができます。ここから眺める日本海は、非常に雄大に見えて美しいですが、明治初年の旧幕府軍艦が浮かんでいて、艦砲射撃を受ける側としては恐ろしい場所だったと思います。

 

三の丸七番台場 ↓

三の丸五番台場跡 ↓

三の丸土塁(六番台場跡方向) ↓

三の丸五番台場跡から城下と海を臨む ↓

 

「三の丸」から城下に出る門は、「馬坂門」と「天神坂門」など5か所あったようで、「天神坂門」は復元されています。

 

馬坂門跡(馬坂側から三の丸方向) ↓

復元「天神坂門」(高麗門) ↓

天神坂 ↓

 

城下(寺町等)> 

「本丸」内の「内堀」から北側に進むと「寺町門」跡があり、そこを出るとお寺が集まる「寺町通り」となっていてお城の防御緩衝地帯です。「阿吽(あうん)寺」の山門には、「松前城」の「寺町門」が移築されて現存しています。

 

寺町門跡 ↓

移築の「寺町門」(現 阿吽寺山門) ↓

移築の「寺町門」(現 阿吽寺山門) ↓

 

寺町通りには立派なお寺が並び、「龍雲院」の惣門は重要文化財で、このお寺は戊辰戦争で焼失しなかった唯一の寺です。藩政時代の伽藍が当時の姿を見せます。「法源寺」は曹洞宗のお寺で、山門は道内最古17世紀中期建築のもので重要文化財に指定されています。「光善寺」に植わっている「血脈桜」は、松前三大名桜の一つで有名です。

 

龍雲院惣門 ↓

法源寺山門 ↓

光善寺山門 ↓

 

「法幢寺」は「松前家」の菩提寺で、「松前藩主松前家」墓所55基が見事に立ち並んでいます。また、唐破風を持つ「墓所門」も格式を感じます。

 

 法幢寺山門 ↓

松前家藩主墓所門(唐破風) ↓

墓所内の墓群 ↓

 

以上のように、「寺町通り」には、各々に特徴があるお寺が残されており、回遊してみるだけでも様々なモノに触れることができます。

 

最後に少し北東方向へ歩みますと「松前藩屋敷」にたどり着きますが、こちらは、藩政時代の松前城下を再現したテーマパーク的なエリアになっています。中は、復元「沖の口奉行所」から「武家屋敷」「廻船問屋敦賀屋」「藩屋敷近江屋」「自番所小屋」等が建ち並び、江戸時代の中へタイムスリップしてきた感じになります。

 

藩屋敷 武家屋敷門(藩士最末席士分110石) ↓

藩屋敷 廻船問屋(敦賀屋、北前船の荷が揚げられた) ↓

藩屋敷 近江屋 ↓

藩屋敷 旅籠(越前谷) ↓

藩屋敷 自身番小屋 ↓

 

以上が「松前城」とその城下でしたが、日本では最後に建てられた天守や櫓を伴う「和式城郭」(長崎県の「福江(石田)城」の方が幕末に近いですが天守や櫓は建てず)です。

 

以前は、JRが木古内から走っていましたが、現在は、木古内からバス或いは函館からバスでの長旅(函館からだと3時間と少し)になります。しかし、最果て感を体験できる城下町で時間をかけて訪城したことに、満足感を得ることができます。

 

 

 

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昨日から「日本100名城」のお城を紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介していきます。

 

激動の幕末・維新時に建造された“西洋式稜堡”五稜郭」(「箱館奉行所」

北海道函館市

 

城主と歴史

箱館には、1854年の日米和親条約の締結に基づく箱館開港に伴い、「箱館奉行所」を置きました。その後、増強の必要性が起こり老中「阿部正弘」等の幕閣によって「五稜郭」の建設が決定します。

 

そして設計は「武田斐三郎」が担い、1864年には竣工して奉行所を五稜郭内に移転して業務を開始し1866年に全ての工事が完成しました。

 

しかし1867年に大政奉還が行われ、1868年4月に新政府によって「箱館府」が置かれ、引続き政庁として使用されます。

 

その後、1868年10月に「榎本武揚」が率いる旧幕府軍が蝦夷地に上陸すると、箱館府の「清水谷知事」は逃走したので旧幕府軍が「五稜郭」を占領します。また「松前城」を「土方歳三」が奪取して旧幕府軍の拠点を増やしていきました。

 

その前の歴史を少し振り返ってみますと、「薩長」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。

 

一方新政府に“朝敵”の赦免嘆願する為に東北諸藩が一丸となって「奥羽越列藩同盟」を結成しましたが、それを拒否されたことから「同盟」が新政府軍と戦う意思を示し、奥羽越エリア内の各所で地域戦の戦いが繰り広げられました。

 

戦いが進むうちに、奥羽越内の各藩では、新政府軍に寝返ったり降伏したりして、お城を開城するところもあれば、戦果を交えて落城したり、或いはお城を敵方の戦線に利用されないよう自ら燃やして逃げる等を行いました。

 

最終的には「会津若松城」城下で新政府軍が攻め立てた「会津戦争」によって、多くの人身を失い「会津藩」は降伏し終結しました。

 

これで一旦解決したかに見えましたが、旧幕府軍は、江戸湾から回航した旧幕府軍の軍艦に乗船した旧幕軍と仙台から乗船した桑名藩主、旧幕臣、新選組残党等が合流して約3,500人にもなり、蝦夷(北海道)へ自らの存在を得るために移動を果たしました。

 

それまで蝦夷地(北海道)では、「松前藩」以外は幕府直轄地であったことから、幕府は「箱館奉行所」を置いたり東北諸藩に「出張陣屋」を設けて出兵させていました。

 

しかし、新政府軍の侵攻で「松前藩」の「松前城」は新政府軍の拠点となったことで、「五稜郭」内の「箱館奉行所」も新政府軍が駐屯し「箱館府」を置きました。

 

新政府軍方に付いた「松前城」攻めを、「土方」軍が砲撃を繰り返しながら搦手門から入り落城させます。

 

更に1869年10月には「五稜郭」へ「大鳥圭介」と「土方歳三」率いる旧幕府軍の箱館進撃によって、新政府軍は「五稜郭」を放棄して旧幕府軍は「無血入城」を果たします。そして「無血入城」を果たした旧幕府軍は、「榎本武揚」を総裁とする「蝦夷共和国」を立国します。

 

しかしながらその後、新政府軍が本土から4~5隻の軍艦に大軍を乗せて次々と上陸させて、旧幕府軍の防衛線を突破して、ついに1869年5月に新政府軍は降伏を勧告したことから、「榎本武揚」はそれを呑み、「五稜郭」を明け渡しました。 

 

五稜郭内の復元「箱館奉行所」(「五稜郭タワー」から見下ろす) ↓

 

お城の概要と特徴

縄張り>

「五稜郭」の築城に際しては、「佐久間象山」の下で西洋兵学や砲学を学んだ大洲藩の蘭学者「武田斐三郎」が担い「西洋式稜堡」の城情報を採りいれて、砲撃戦に備えた縄張りを導入しました。

 

「五稜郭」を「五稜郭タワー」から見下ろす ↓

 

それは、五角形(星形)にすることで、側面攻撃(横矢を掛ける)を行うことができるメリットがあり、更には五角形(星形)の窪みの所から三角形の「半月堡」を設けることで、一層の側面攻撃が可能でした。

 

稜堡先端(南西部分)の石垣と堀 ↓

五稜郭の縄張り絵図 ↓

 

このように、当初計画では星形の窪みの所の5か所には「半月堡」を設ける予定でしたが、南西側の「大手口」に「半月堡」を築いただけで、財政的に厳しい状況下にあった幕府はその他4か所については未完成のままでした。

 

しかし「五稜郭」全体を水堀や石垣と土塁によって囲い込むことで、強固の防衛線を築きました。また、1か所しか造らなかった三角形の「半月堡」は、和洋式のお城の「馬出し」にも相当し、空堀と水堀で周囲を取り囲んでいます。

 

半月堡(「五稜郭タワー」から見下ろす) ↓

半月堡内から大手虎口を見る ↓

半月堡の先端(68度の鋭角、空掘の向こうに土塁、掘に) ↓

 

郭内の各種仕掛け>

※跳出し石垣

「大手口」等重要な場所には、石垣と土塁を組み合わせるとともに、最重点場所である「大手口」にある石垣の「天端」には、石を一列に外側に飛び出す「跳出石垣」が採用されています。石の積み方は、当時の最新手法である「落し積み」(谷積み)という、石を斜めに積上げていく手法を採り入れています。

 

これら西洋式城郭式の手法は長野県佐久市にある「龍岡城」も五稜郭で星形を導入していて、周囲を取巻く石垣には「跳出石垣」が採用されています。また、和式城郭では熊本県人吉市の「人吉城」の石垣に一部「跳出石垣」が採用されています。

 

大手虎口、冠木門跡付近(「五稜郭タワー」より) ↓

大手虎口水堀から先の空堀部分と「跳出し石垣」 ↓

半月堡の桔出石垣(かなりの反り) ↓

大手虎口脇石垣の落積(おとしづみ)工法 ↓

 

※見隠(みかくし)土塁

まだまだ多くの特徴があり、「大手口」含む3か所の出入口には、橋を渡った真正面から内部を見えないように、一文字土塁といわれる「見隠(みかくし)土塁」が築かれました。

 

大手虎口内側の一文字土居(見隠土塁、入城者を威圧する石塁づくり) ↓

大手虎口前の一文字土居(見隠土居) ↓

 

東虎口前にも、橋がありましたが、現在は橋は取り除かれています。「橋台」の後の石垣や「冠木門」跡の石垣が残ります。「東虎口」には二つの「空堀」があり、「大手虎口」同様に真正面から内部を見えないように、一文字土塁といわれる「見隠(みかくし)土塁」が築かれました。

 

東橋台石垣前の低塁と石垣 ↓

東虎口とその前の空堀 ↓

東虎口から見える一文字土居(奥) ↓

 

裏門にあたる「北門」にも虎口があって、「大手虎口」や「東虎口」とほぼ同様の構造になっています。ここの虎口の石垣には「亀甲積み」が見られます。

 

北虎口付近(「五稜郭タワー」からのぞむ) ↓

北虎口と橋(現在は管理用に造られた門と橋) ↓

北虎口両脇の掘は空堀 ↓

北虎口の石垣(亀甲積みが見られる) ↓

北虎口前一文字土居 ↓

 

※稜堡先端の砲台と大砲を上げる坂道、火薬庫

「五稜郭」は、五角形(星形)の先端部分に大砲を置いて攻撃する際、大砲置き場に運搬する為に、内側から土のスロープを設けています。

 

大砲を運ぶ坂と火薬庫保護用の土塁(左) ↓

稜堡の先端には砲台を置いた ↓

東稜堡の先端部分 ↓

南西稜堡の先端部分 ↓

 

<建造物ほか>

 「五稜郭」の城郭建造物は、「箱館奉行所」を中心として、「近中長屋」「用心長屋」「公事人腰掛」等の長屋、「兵糧庫」等の「土蔵・板蔵」「厩」「表門」「裏門」等の門が並んでいました。

 

現在は、その内「兵糧庫」1棟だけが、解体を免れて現存して建っていますが、その他の建造物については、礎石跡が残されていますの、それらの位置確認ができます。

 

兵糧庫(唯一残る建物、1864年築) ↓

兵糧庫(唯一残る建造物) ↓

兵糧庫の内部 ↓

 

「五稜郭」地内かなり広い敷地で、復元「箱館奉行所」と「兵庫蔵」の間にはコンモリとした小さめの土塁が横たわっています。

 

小土塁(奉行所と兵糧庫群との間に走る) ↓

 

またその脇には、「箱館戦争」で旧幕府が使用していた英国製の大砲「ブラッケリー」やドイツ製の大砲で新政府軍の軍艦「朝陽」に据え付けられたクルップ砲(新政府軍艦「朝陽」が並べて展示されています。「兵庫蔵」内の資料展示ともに「箱館戦争」が蘇ってきます。

 

英国製の大砲「ブラッケリー砲」とドイツ製の大砲「クルップ砲」 ↓

 

「箱館奉行所」の屋根上には「太鼓櫓」を上げていましたが、前述の長屋・蔵など大砲の標的にならないように平屋で建てていました。

 

復元板蔵と一文字土居(北側) ↓

 

現在の「奉行所」は、外観が古写真で残っていたのでそれを参考にし、また内部も色々な資料に基づいて2010年に木造復元されています。

 

古写真箱館奉行所庁舎全景(現地に掲出) ↓

復元箱館奉行所庁舎全景 ↓

箱館奉行所の平面図(現地に掲出) ↓

奉行所庁舎の式台と小玄関 ↓

立派な奉行所庁舎の式台 ↓

復元奉行所庁舎屋根上の太鼓櫓 ↓

北側から復元奉行所庁舎を見る、復元奉行所庁舎の各詰所部屋が並ぶ ↓

 

「奉行所」内部は、全体の1/3に当たる「大広間」や「表座敷」等が復元されています。特に「大広間」は、「四之間」「参之間」「弐之間」「壹之間」があり、襖を取ると72畳の大部屋となりました。

 

大広間(四之間から壹之間を臨む) ↓

壹之間 ↓

表座敷(箱館奉行が通常執務をしていた間) ↓

 

「箱館奉行所」が「五稜郭」内に移るまでは、「箱館山」麓に固まる外人洋館や「南部藩出張陣屋」付近に建っていたそうで、古写真が僅かにその姿をとらえています。

 

「旧箱館奉行所」の古写真(箱館山麓に建つ、「五稜郭タワー」内に掲出写真) ↓

現在の旧函館区公会堂の場所 ↓

最初の箱館奉行所跡の切込接石垣(五稜郭内に移る前) ↓

 

 

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今まで、色々なお城を、色々な切り口でテーマを設けてブログで掲載してきましたが、ここで一旦立ち止まって「日本100名城」のお城をあらためて紹介していこうと思います。

 

「日本100名城」とは、何万とある日本のお城のうち、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

公式ガイドブックも発行されていてそれの付録に付くスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を今まで私が撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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前置きはこれぐらいにして、それでは、本日は「(1)根室半島チャシ跡群」(北海道根室市温根元)です。

 

アイヌ民族の戦闘用だけでなく色々な用途があった「根室半島チャシ群

 

● アクセスと周辺観光

なかなか行きづらい場所で、「釧路駅」前バスターミナルから根室行「特急ねむろ号」に乗車すると、平原と湿原の中を約2時間40分位で根室に到着します。

 

「根室駅」からは、レンタカーで納沙布岬経由で約40分です。「根室半島周遊バス」もありますが、本数が少なく時間を余程見ておかないと乗り遅れに注意が必要です。兎に角遠いです。

 

折角本土最東端の日本で一番早く朝日が見れる地に行くので、1872年に設置された道内初の洋式灯台「納沙布岬灯台」を見てきてください。またそこには「北方館」と「根室市北方領土資料館」もあり、北方領土の最も近い貝殻島までが3.7㎞、水晶島でも7.0㎞で肉眼で見えるときもあるのでご覧ください。

 

納沙布岬灯台 ↓

「納沙布岬」碑前には、北方領土の島々までの距離がペイント ↓

 

チャシについてチャシとアイヌ民族)

「チャシ」とは、元々はアイヌ民族が戦闘用や見張り場用としてや、神や英雄を祀る聖域とする場であったり、集会場として造られたそうですが、特に江戸時代に入り、北海道へ進出する和人との戦いに使用されるお城的な場にも進化していったようです。

 

「チャシ」は、基本的には高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設であったようです。

チャシの形状の分類法には、

①平坦地や湖の中に孤立した丘や島を利用したもの。

②山や尾根の頂の部分を利用したもの。

➂突出した台地(丘や岬など)の先端を利用したもの。

④崖地の上に半円形の壕を築き、その内部を利用したもの。

 

根室半島にはチャシが32箇所あり、その内24箇所が「根室半島チャシ群」として指定されています。因みに、北海道全体では約500箇所あるそうです。

 

ヲンネモトチャシとノツカマフチャシ

まず「ヲンネモトチャシ」は、崖の上に盛土をして更に頂上部に重ね餅のように盛土をしています。

 

そして頂上部には平坦面が二箇所あります。そこからの納沙布岬方向の海と崖の眺めは素晴らしいです。また、温根元漁港から見たチャシは、「お供え餅」のように見えます。

 

温根元漁港から見る「ヲンネモトチャシ」は重ね餅に見える ↓

貨車を使ったヲンネモトチャシ跡の表示 ↓

ヲンネモトチャシについて

崖上に盛土されて造られている ↓

頂上部の平坦面(2箇所ある) ↓

城跡碑と温根元漁港 ↓

盛土した平坦部から見下ろす ↓

もう一つの平坦面 ↓

もう一つの平坦面への道 ↓

 

ここから、また数分で「ノツカマフチャシ1号・2号」があります。

 

こちらのチャシは、駐車場から海方向に、ミズナラ林を抜けて自然に生えたアヤメの群生を見ながら、少し足を進めた先のオホーツク海が一望できる崖上にあります。

 

半円形の壕が二つ連結して壕の内側には盛土がある1号、半円形の浅い壕がある2号が横たわっています。

 

写真は夏草に覆われていますので、しっかりとは形が判りずらいですが、壕跡と中心部分の盛土は何となくわかります。

 

ノツカマフチャシの解説板

ノツカマフチャシ跡の道標 ↓

ノツカマフチャシの1号碑 ↓

ノツカマフチャシの1号半円形の壕と盛土 ↓

ノツカマフチャシの1号円形土塁 ↓

ノツカマフチャシの2号碑と風車 ↓

ノツカマフチャシの2号チャシ跡平坦土塁 ↓

ノツカマフチャシ2号チャシ跡の盛土(濠下から見上げると結構高い) ↓

城跡の断崖 ↓

 

城跡から海岸沿い の断崖絶壁を見る ↓

 

ノツカマフチャシの歴史

「ノツカマフチャシ」には、歴史が刻まれています。

 

というのも、和人とアイヌ民族との間で双方の勘違いによって勃発した「クナシリ・メナシの戦」の結果、このチャシでアイヌ人が処刑された場になりました。

 

寛政の蜂起和人殉難墓碑(納沙布岬に立っている) ↓

 

また1778年にロシア商人の「シャバーリン」が来航して交易を求めたのがこの場所であり、「日露外交交渉発祥の地」と言われています。

 

そのほかの根室の見どころ

根室十景と言われる見所がありますが、牛たちが寝そべっている草原、谷底に溜まった水がシーンと張りつめた神秘的な「トーサムポロ沼」、オホーツク海を望む約75haの原生花園の「北方原生花園(かえん)」、地平線とオホーツク海の水平線に繋がっていく素晴らしい光景、根室市街には高田屋嘉兵衛が1808年に建立した「根室金刀比羅神社」内の「高田屋嘉兵衛像」、花咲ガニで名前が知られている「花咲灯台」、灯台崖下の荒々しい波が打ち付ける所にある国の天然記念物の「車石」、日本最東端の「東根室」駅等々見所が一杯あります。折角「根室」にまで行くなら、是非訪れてみたい所ですね!

 

北方原生花園(かえん) ↓

「北方原生花園(かえん)」とポニーの放牧 ↓

草原に寝そべる牛たち ↓

トーサムポロ沼 ↓

花咲灯台下の「車石」 ↓

高田屋嘉兵衛像 ↓

 

 

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「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズは完了しました。

 

私が訪れた北海道から沖縄までのモノで151城をピックアップしました。他にもあるかもしれませんが、ここで一旦終了して、「総集編」を掲載しています。

 

「城郭建造物」というのは、「天守(御三階櫓)」「櫓」「門(櫓門、城門)」「御殿・居館(御亭、茶室、能舞台)」「番所」「蔵」を一般的に言いますが、それ以外の建造物を「その他の城郭建造物」として採り上げましたので、それの私なりの定義を今一度記載しておきます。


塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げています。「塀」には白漆喰や下見板張りの「土塀」や板張りの「板塀」、石壁による「石塀」の他に、石を積上げた石壁による「石塁」で「城壁」となっているモノも採り上げました。

次に「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けしました。

また、「供侍(ともざむらい」「馬見所」等は数少ないですが掲載しています。
 

佐土原城 ↓

都之城(都城麓) ↓

天ケ城(高岡城) ↓

飫肥城 ↓

鹿児島城 ↓

中城城 ↓

勝連城 ↓

今帰仁城 ↓

座喜味城 ↓

首里城 ↓

糸数城 ↓

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日のお話は、「織田信長」の包囲網を構築していった「朝倉・浅井軍」が「延暦寺」の僧兵と共に、近江の「宇佐山城」を攻め立てた所から始まりました。

 

この戦いで「織田軍」の重臣「森可成(よしなり)」が討ち死にしたことから、「信長」は加勢した「延暦寺勢」に対して、「焼き討ち」を敢行、その隊長に「明智光秀」と「木下藤吉郎」が命じられます。

 

「信長包囲網」の一端を担っていた「足利義昭」と「光秀」とは依然繋がりがあるとの疑いの目を「信長」から受けていた「光秀」は、意を決して「延暦寺焼き討ち」を実行します。

 

その結果の褒賞として、「信長」から「近江国」を得て「延暦寺」の東下に「坂本城」を築くことになりました。

 

一方「秀吉」は、「焼き討ち」に対する甘さを「信長」に指摘され切腹を申し渡されるものの、弟「小一郎」の働きによって、「浅井方」の「宮部継潤(けいじゅん)」を「織田方」に寝返らすことに成功しました。

 

この寝返らす過程のお話では、いつも明るく振舞う「宮澤エマ」演じる「とも」の涙が、痛く私の涙も誘うシーンとなりました。

 

今回は、上記の「宇佐山城」(滋賀県大津市)「坂本城」(滋賀県大津市)を、過去に掲載したブログの中からピックアップしますので、どうぞご覧ください。

 

 

 

 

 

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本日の「ブラタモリ」は、国宝天守5城の一つ「犬山城」(愛知県犬山市)でした。

 

「犬山城」の城主ではなかったものの、領域を押さえていたということから、「戦国三英傑(信長、秀吉、家康)」が愛したお城との切口で話が進められていました。

 

お城の築城目的がわかる主要部分の立地、攻撃からの防御に適した地質と地盤状態、城下の繁栄を促した大手道の作り替え等、が説明されていました。

 

最後には、「犬山城」を2004年まで、日本で唯一個人所有されていた「成瀬家」の方の出演もあり、このお城の重みを感じることが出来ました。

 

今までブログにアップした「犬山城」のモノを掲載しましたので、どうぞご覧ください。

 

 

 

 

 

 

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