こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日も、BSNHKでの放映を18時から見ましたので、少し早くお届けします。


前回の「本能寺の変」は、壮絶な炎の中で自刃した「織田信長」を描くシーンが中心でしたね〜

 

今日のお話ですが、「備中攻め」の最中だった「秀吉」は、「信長」の死の報を聞くが最初は受け入れることができなかったが、「黒田官兵衛」等の家臣達の説得もあって現実を受け入れることに。

 

当初「秀吉」は、毛利方「清水宗治」の居城「備中高松城」をジックリと水攻めで落そうとしていましたが、「信長」の死を受け入れた「秀吉」は、「毛利方」の「安国寺恵瓊」と会談して「信長本隊軍」3万人が備中に向かっているとの大ほらを吹き「宗治」の切腹と引替えに和睦を首尾よくつとめることができました。

 

そして主君殺しの「明智光秀」を撃つべく弔い合戦の為に大急ぎで京へ戻ろうとします。世に言う「中国大返し」を敢行して僅か2〜3日で、拠点城だった「姫路城」へ戻ってきました。

 

その間「秀長」は、「京」周辺の諸将に対して、「明智方」に付かないよう工作を働き、特に「光秀」との縁戚関係にあった「細川藤孝」を出家に導き「明智軍」に参戦しないように計らいます。

 

いよいよ次回は、「山崎の合戦」でしょうか。
 

本日は「備中高松城」(岡山県岡山市)、以前ブログで投稿したモノで紹介します。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

その他の櫓群、珍しい馬屋、槻御殿と玄宮園、復元二の丸御殿が建つ「彦根城(2)

滋賀県彦根市

城主と歴史及、立地と縄張り

       ↓

 

縄張り図(総構え) ↓

縄張り図(内堀内) ↓

 縄張り図(本丸・二の丸) ↓

 

「彦根城(2)」では、その他の櫓、槻御殿、二の丸御殿(大広間、奥向き)等の城郭建造物を見て行きたいと思います。

 

その他の櫓など城郭建造物

「彦根城(1)」の主郭エリアに林立する櫓や門以外にも、現存の多門櫓や二重櫓があり重要文化財に指定されていると共に、復元された建造物もあって、お城全体の景観を美しくさせています。

 

佐和口二重櫓」は、「中堀」に構えられた枡形の「佐和口門」の両脇から守りを固める「多聞櫓」の両端に付随した「二重櫓」です。

 

まず「佐和口門」の左側(西側)に延びる「多聞櫓」とその西端に付随する「二重櫓」は、1767年の火災以降に再建された現存櫓で重要文化財に指定されています。「白漆喰総塗籠め」で「破風」は全く無いですが、腰部分に「鉄砲狭間」が「多聞櫓」から並んでいます。

 

重文「佐和口二重櫓」(「佐和口門」左に延びる「多聞櫓」に付随する) ↓

重文「佐和口二重櫓」(「馬屋」側から) ↓

 

次に「佐和口門」の右側(東側)に延びる「多聞櫓」には、門脇の真上と東端の二か所に「二重櫓」が付随していて、1960年に復元されたものです。

 

門脇真横の「二重櫓」は「妻」側を向け、東端の「二重櫓」は「棟(平)」側を見せています。こちらも「白漆喰総塗籠め」で「破風」は全く無く、腰部分に「鉄砲狭間」が「多聞櫓」から並んでいます。

 

復元「佐和口二重櫓」(枡形の「佐和口門」右脇に建ち右の「多聞櫓」に続く) ↓

「佐和口門」脇の「二重櫓」から東に延びる復元「多聞櫓」とその東端に付随するもう一つの復元「佐和口二重櫓」 ↓

 

「佐和口門」は桝形になっていて右へ曲がり直進すると左手に現存で重文の「馬屋」が建ちます。日本で唯一残る建造物です。中は間仕切りがされていて、馬との相性が良いとされる猿の形をした手綱掛けが施されています。また、馬用の水を確保する井戸もあります。

 

重文「馬屋」 ↓

重文「馬屋」内 ↓

重文「馬屋」内の「井戸」 ↓

 

「槻御殿」の「楽々の間」

そこから「内堀」沿い右手に進むと、藩主日常生活用の「下屋敷」が拡がり、国指定記念物の「御書院」「地震の間」「茶亭 楽々の間」が繋がる「槻(けやき)御殿」なっています。「井伊直弼」は、隠居した「井伊直中」の子としてこの御殿で誕生したそうです。

 

「御書院」内には藩主専用の「上の御間」が残され、国内でも「江戸城」と「彦根城」にしかなかった耐震構造の「地震の間」も現存しています。また、「茶亭 楽々の間」の前には枯山水庭が拡がります。

 

「御書院」の平面図(下記四角で囲った部分「楽々の間」が現存している) ↓

「槻(けやき)御殿」の車寄せ ↓

「槻(けやき)御殿」 ↓

「槻(けやき)御殿」内の「上之御間」 ↓

「地震の間」 ↓

 

玄宮園

また、楽々園(楽々の間)」の南東に隣接する「玄宮園」、「鳳翔台(ほうしょうだい)」と言われる「数寄屋」を中心に「池泉回遊式庭園」が拡がり、客人の接客饗応の為の空間になっていました。

 

現在でも西側の平山上には「本丸」跡の「天守」が望めますが、当時は今以上に「天守」に加えて「多聞櫓」「着見櫓」等の各種の櫓等を借景とした見事なまでに美しい庭園だったと思われます。

 

「楽々の間」の南東に隣接する「玄宮園」 ↓

「玄宮園」から望む国宝「天守」群 ↓

 

二の丸御殿(大広間、能舞台、表御殿奥向き)

更に当城のメイン出入口脇には「二の丸御殿」が復元されています。西側の「玄関」「大広間」はRC造りとなっていて、中は「井伊家」の宝物を展示している博物館になっています。兜、茶器、能装束、能面、古文書など当時の貴重なモノが展示、保管されています。

 

二の丸御殿(復元)屋根と天秤櫓(重文) ↓

二の丸御殿の外観復元の「玄関」 ↓

二の丸御殿の外観復元の「玄関」と「大広間」 ↓

二の丸御殿の外観復元の「大広間」 ↓

「大広間」縁側に表れた「ひこにゃん」 ↓

 

東側の「奥御殿(表御殿奥向)」のエリアは内部をほぼ当時の様相を忠実に復元されているようで、その一部には外部に移築されていた藩主の寛ぎの間であり来客用との対面用でもあった数寄屋造りの「御亭(おちん)」が再移築されて鎮座しています。

 

二の丸御殿の「奥御殿(奥向)」エリアの平面図 ↓

二の丸御殿の「奥向」入口付近 ↓

二の丸御殿の「奥向」の「御次之間」 ↓

二の丸御殿の「奥向」の「御座間」 ↓

二の丸御殿の「奥向」の「御座之御間」 ↓

二の丸御殿の「奥向」エリアの庭園と「茶室(天光室)」 ↓

「茶室(天光室)」 ↓

二の丸御殿の「奥向」エリアに再移築された「御亭」 ↓

「御亭」内 ↓

 

西側の「大広間」と東側の「奥御殿」を結ぶ場所には「能舞台」が築かれていますが、これも一時外部へ移築していたものを「二の丸御殿」復元に当たって当時の場所に再移築されたものです。当時は、来客があればこの場所で「能」を観賞しました。

 

二の丸御殿の再移築された「能舞台」 ↓

二の丸御殿の再移築された「能舞台」 ↓

 

 

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発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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“豊臣方”攻防に備え”天守”を始め早急に築城する必要のあった彦根城(1)

滋賀県彦根市

城主と歴史

「徳川家康」は、「関ヶ原の合戦」後、畿内の有力外様大名に睨みを利かすべく「佐和山城」に「直政」を入城させます。しかし「直政」は、2年後に「関ヶ原の合戦」で受けた傷が原因で逝去し、後を継いだ「直勝」がまだ幼少であったので、家老の「木俣守勝」が「家康」と相談して「彦根城」の築城を進めました。

 

築城に際しては、天下普請によって進められ、1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事が完成し、「直勝」が入城しました。その後「表御殿」等の建築が進められ1622年に完成しました。

 

病弱だった「直勝」に替わり異母弟であった「直孝」が継ぎ「大坂夏の陣」の働きや幕政にも関わったことから35万石まで加増され「井伊家」の基盤を盤石なものにしました。その後は江戸時代通じては、幕府の重鎮を務め代々老中や「井伊直弼」など5人の大老を輩出します。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

お城は「金亀(こんき)山」に築かれた「平山城」で、中枢の山部は「中世城郭」を思わせるような仕掛けを持つ「山城」ですが、各所に使用された石垣や多門櫓は「近世城郭」の様相でした。

 

「金亀(こんき)山」の周囲を「内堀」で取り囲み城下全体は、「中堀」「外堀」そして「琵琶湖」(松原内湖)と西側には「芹川」が堀の替わりをしていましたので、非常に堅固なお城でした。

 

「天守」の位置は、山上を削平した「本丸」の北東隅に建ちます。

 

縄張り図(総構え) ↓

縄張り図(内堀内) ↓

 縄張り図(本丸・二の丸) ↓

 

<登り石垣>

登城する際のメイン入口は「表御殿」脇の「表御門」跡になります。まず目に付くのが四箇所ある内の一つの「登り石垣」です。ここの「登り石垣」はそんなには長くはないですが、「鐘の丸」まで繋がっています。また、「鐘の丸」の西側にも「大手門」跡に向かって「登り石垣」が下っています。

 

登り石垣(表御門側) ↓

 

「登り石垣」は「秀吉」による朝鮮出兵時に朝鮮内にお城を築いた「倭城」に開発された仕掛けで、その後国内に持ち帰って導入したお城が有りますが、そんなには多くありません。例としては、松山城、洲本城、鳥取城、米子城で見られます。

 

<山切岸と大堀切>

「表御門」跡から石段を上っていく先には「天秤櫓」が見えてきますが、左手には崖が迫ってきます。これが「山切岸」という仕掛けで、「山」部分を削って簡単によじ登れなくした「山城」の仕掛けの一つです。

山切岸(左側の崖) ↓

 

<天秤櫓>

更に、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の尾根を分断した深い「大堀切」を通らなければならず、まずそこで「太鼓丸」側に建つ「天秤櫓」からの攻撃を受けることになります。

 

大堀切の上に架かる廊下橋と天秤櫓(重文) ↓

 

そしてそこを無事通り抜けて「鐘の丸」へ石段で上がっても、そこから「天秤櫓」前の橋を渡って「太鼓丸」に入らないと「本丸」へ行けませんので「橋」を渡ろうとすると、既に「橋」が切落されているかもしれません。もし「橋」がそのままで「天秤櫓」入城しようとすると、天秤型の東西両櫓からは再び攻撃の手が襲います。

 

天秤櫓の全景 ↓

 

この「天秤櫓」ですが、「長浜城」大手門からの移築櫓だと伝わっていますが真偽は不明です。ただどこかのお城からの移築であることは確かということです。当櫓は、現存で重文指定されています。それと櫓を支える石垣は左右積み方が違います。

 

天秤櫓(重文、右部分) ↓

天秤櫓(重文、左側) ↓

橋の右下側は「野面積み」の一種の「牛蒡積み」 ↓

橋の左下側は「落とし積み」 ↓

 

「天秤櫓」は、両端に二重櫓が備えられ、正面の右側の櫓は「桁面」を見せ、左側の櫓は「妻面」を見せています。

 

重文「天秤櫓」の1階内部 ↓

 

<太鼓門櫓>

「天秤櫓」を抜けると石段が続き、左手の「お鐘の台」に「鐘楼」が建っていますが、その脇を通り過ぎて右に折れると今度は「太鼓門櫓」が構えますので、再びそこからの攻撃を受けることになります。このように複雑なルートと関門になっていますので、「本丸」に至るのは並大抵ではありません。

 

「鐘楼」 ↓

重文「太鼓門櫓」と重文「続櫓」(正面より) ↓

重文「太鼓門櫓」(どかの城の城門を移築、左は「続櫓」) ↓

 

「太鼓門櫓」は、特殊な形をした「門」であり「櫓」でもあります。というのも、正面は「門」の右側に「続櫓」が併設され、そこから攻撃ができるようになっています。

 

一方「本丸」内から見ると、壁面は塗り込めの壁ではなく、中に置かれた「太鼓」の音が城外に聞こえるようにする為なのか開放となっています。また、半間幅の「廊下」に「高欄」が付くという珍しい構造になった建造物です。この建造物も、他のお城かお寺から持ち込まれて移築されたものです。

 

重文「太鼓門櫓」の高欄と半間通りの廊下 ↓

重文「太鼓門櫓」内部 ↓

 

<本丸-天守外観>

「太鼓門櫓」を潜り抜けると「本丸」跡に入ります。真正面には国宝「天守」が眩しく佇んでいます。

 

国宝「天守」の南面 ↓


「井伊家」二代目の「直継」は、1603年に本拠地を「佐和山城」から「彦根城」に移し、当時は対「豊臣」方に対抗すべく築城にスピード感が必要であったことから天下普請で築城されます。

 

従って、城内の城郭建造物は、「天守」を始め、先程お話したように「天秤櫓」「太鼓門櫓」、これからお話する「三の丸三重櫓」等は、他のお城から解体移築されて持ち込まれたと言われ、「天守」は1606年に完成したと謂われています。

 

「本丸」には、「大津城」の四重「天守」を三重に改修して持ち込まれた国宝「天守」が建ちます。「天守」は三重三階地下一階で、大入母屋の上に望楼を乗せたもので、梁行(東西面)に対して桁行(南北面)が2倍近くあるので、外観が各々の報告から見た時には全く違った見え方をします。

 

天守妻側から ↓

天守桁側 付櫓と続櫓(玄宮園より) ↓

天守南東方向から ↓

国宝「天守」北側から ↓

 

天守の形式は、「付櫓」が付く「複合型天守」で、「付櫓」には更に「続櫓」が繋がっていて、そこから入城するようになっていますが、もう一つ「天守」に直接入る入口を持ち、こちらは天守の石垣内に設けられた地下室から入るルートとなります。 

 

天守、付櫓、続櫓(多聞櫓) ↓

 

「天守」の外壁面は、「白漆喰塗籠」と1階の「下見板張り」併用で、様々な装飾が施され、華麗な天守を演出します。

 

まず「破風」ですが、「軒唐破風」「入母屋破風」「庇付切妻破風」「切妻破風」等が全部で18か所も配置され、唐破風内には金装飾が施されています。

 

金装飾を施した軒唐破風、廻縁と高欄、華頭窓、千鳥破風 ↓

 

最上階には、格式の高い「廻縁」と「高欄」を採用し、また窓も格式を重視した「華頭窓」を施して二重目と三重目に全部で18か所、一方一重目の窓は「突上戸」を採用しています。

 

天守(国宝、唐破風・千鳥破風が多数ついている、1階は突上戸) ↓

 

「天守」を乗せる「天守台」はそんなに高くなく「野面積み」になっています。

 

「天守台」 ↓

 

<本丸-天守内部>

それでは城内に入ります。城内側からは「鉄砲狭間」がたくさん並んでいますが、外壁にはそれが分らないように造られています。いざという時には、城内の鉄砲狭間の板を打ち破って銃眼を出せるように細工されています。

 

「天守」入口 ↓

天守内の鉄砲狭間(外からは形が見えない工夫) ↓

 

各階は身舎(もや)が中央にあり、周囲を「武者走り」で囲っています。壁の上部は白壁となり、最上階の天井は梁材と桁材が剥き出しとなっていて天井はありません。

 

天守1階部屋内と武者走り ↓

天守2階部屋内と武者走り ↓

天守2階の内壁 ↓

天守3階 ↓

天守3階 ↓

「天守」3階の天井は梁が丸出し ↓

天守内の3階から2階への階段(角度67度) ↓

 

<西の丸三重櫓>

「本丸」の北側には、「西の丸」という長い曲輪が控えていて、当時は等間隔に「櫓」が配置されていたようです。そしてその先に、「大堀切」を築いて「出曲輪」という「馬出的」な曲輪を設け、更には「西の丸」の北西隅に重文の「西の丸三重櫓」を築いて、そこからの敵の入城に監視の目を光らせていました。

 

「西の丸三階櫓」も他のお城からの移築された建造物であり、「小谷城」からの移築だと伝わりますが、その真偽は疑わしいそうです。ただ、どこかのお城から移築されたのは確からしいです。

 

「西の丸三重櫓」(重文、伝小谷城天守を移築) ↓

重文「西の丸三重櫓」の3階内部 ↓

重文「西の丸三重櫓」の2階内部 ↓

重文「西の丸三重櫓」に付随する重文「続櫓」内部 ↓

西の丸と出曲輪の間の大堀切から見上げる重文「西の丸三重櫓」 ↓

西の丸と出曲輪の間の大堀切(奥に「登り石垣」が見える) ↓

「西の丸三重櫓」と「続櫓」(北側より) ↓

 

「彦根城(1)」では、「豊臣方」との一戦に備えて早急に築き上げる必要があった「天守」を始め、「本丸」を守備する周囲の建造物を見てきました。

 

次回「彦根城(2)」では、その他の櫓等の城郭建造物を見て行きたいと思います。

 

 

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“京極家”を迎え入れるべく二つの主郭を持つ広大な山城「小谷城

滋賀県長浜市

歴史と城主

「小谷城」は、「浅井亮政(すけまさ)」が、当時跡目争いをしていた守護大名「京極家」を迎えるに当たって築城しました。二代目の「久政」の時には湖北の「六角家」と頻繁に戦いが繰り広げられていました。

 

しかし三代目の「長政」の時には、「六角家」に大勝利を収めて実力を大いに轟かせたことから上洛を目指す「織田信長」の目に留まり、信長の妹「お市の方」を「長政」に嫁がせる政略結婚によって両家の同盟関係が築かれました。

 

「長政」と「お市の方」像(JR河毛駅前) ↓

 

一方で、「浅井長政」は「朝倉義景」とも盟友関係を保っていましたので、「織田信長」による「朝倉攻め」が行われた時には、「長政」は「信長」に対して反旗を翻し、「織田軍」対「浅井・朝倉軍」による「姉川の合戦」が火ぶたをきります。

 

この戦闘では、「朝倉軍」が退いたことから「浅井長政」は「小谷城」に敗走せざるを得なくなって、「織田軍」による「小谷城攻め」が勃発することとなりました。

 

この「小谷城」を巡っては、様々なドラマが展開され、「久政」「長政」親子の自刃、「お市の方」と浅井三姉妹「江、初、茶々」を「秀吉(当時は木下藤吉郎)」が救出する話は有名です。 因みに、「江」は二代将軍「秀忠」の正室、「初」は小浜城主「京極高次」の正室、「茶々」は「秀吉」の側室です。

 

立地と縄張り

日本五大山城の一つ(小谷城、観音寺城、月山富田城、吉田郡山城、七尾城)です。

 

標高495mの小谷山の地形を活かして、尾根に沿って沢山の郭を置き、馬蹄状に連名がっています。

 

物見的な「出丸」から尾根沿いに「金吾丸」「番所」「桜馬場」等を階段状に置き、その上が広く細長い敷地の「大広間」がありその上段に「本丸」を置いていました。

 

更に大堀切を設けて「中丸」「京極丸」等を経て詰城的な「山王丸」を置いています。その背後には寺院6坊があった「六坊」「大嶽(おおづく)」を頂点にもう1つの尾根に「福寿丸」「山崎丸」を設けています。

 

そしてその間の水が豊富な「清水谷」には家臣達の屋敷を配備して、麓には平和時に「浅井氏」が居住した「御屋敷」を設けていました。

 

さて、「小谷城」を目指すルートは何種かありますが、「小谷城戦国歴史資料館」を起点に一般的な「追手道」コースを辿ります。

 

城跡案内図(縄張図、パンフより) ↓

 

お城の概要と特徴

出丸~金吾丸

「出丸」跡から入るのが一番良いのですが、資料館から一旦戻ることになるので、「資料館」脇から「追手道」に入り、帰りに「出丸」を見ると良いと思います。

 

「出丸」跡 ↓

 

「案内図」では、最初に出会う郭が「金吾丸」跡ですが、「出丸」跡からの「追手道」に辿りつくまでの急坂、更にそこからのだらだらと続く坂道は非常にしんどいです。「望笙(ぼうしょう)峠」から湖北の町と琵琶湖を遠望できる眺めは、しんどい分ご褒美となります。

 

「望笙(ぼうしょう)峠」からの遠望 ↓

 

そこまで上ってきた距離とほぼ同距離を上り続け「金吾丸」跡に到着します。ここは、「久政」時代とそれ以前に「六角高頼」が攻めた時、「朝倉教景(金吾)」が援軍に来てここに陣を置いたことから名付けられたようで、4段の郭と土塁があるそうでしたが、木々で良く解りませんでした。

 

金吾丸跡 ↓

  

「金吾丸」跡から下りた所が「番所」跡になり、そこから「御茶屋」跡、「御馬屋敷」跡、「馬洗池」が繋がります。

「御茶屋」跡は、「番所」跡の上に有り、名前とは全く異なった主郭の最先端で軍事施設があったそうです。各郭には、郭図と解説がありますので、非常に解りやすいです。

 

「御茶屋・御馬屋敷・馬洗池・桜馬場」跡図 ↓

「御茶屋」跡 ↓

 

<御馬屋~桜馬場>

続く「御馬屋」跡は、「本丸」の前面にあり本丸を守る郭という位置づけで、西側の深い谷である「清水谷」側斜面に「帯曲輪」を設けています。そして当郭の後方にある「馬洗池」は、馬を洗う為の池のイメージを受けますが、山城に必要な飲料水確保の池であったようです。

 

「御馬屋敷」跡 ↓

馬洗池 ↓

 

ここからは、郭が段々畑のように重なって上がって行きます。一番手前の「桜馬場」跡の入口付近には、「首据(くびすえ)石」がありますが。こちらは、1533年に京極家の被官であった「今井秀信」の首をここに晒したとの伝説がある石です。

 

首据(くびすえ)石 ↓

 

「桜馬場」跡は、細長く左右2段、西側の曲輪には建物の礎石が見つかっている曲輪です。こちら脇道からは、丁度「本丸」跡東下にある「赤尾屋敷」跡に繋がります。ここで、「浅井長政」が自害した場所と言われています。「桜馬場」跡内には「浅井家の供養塔」が立てられています。

 

「桜馬場」跡入口(奥には、「黒金門」跡) ↓

「桜馬場」跡 ↓

「桜馬場」跡内に立つ「浅井家の供養塔」 ↓

 

<大広間~鐘丸(本丸)>

「桜馬場」跡の後方一段上る所には、古びた石段と両脇に石積みが見られます。これが「黒金門」跡で、「大広間」跡の入口となります。この両脇にも大きな石や岩が斜面に張り付いています。

 

「黒金門」跡 ↓

 

「黒金門」跡の石段を上った所からは、広い敷地の「大広間」跡が縦長に延びて遠くに壇が見通せます。ここは、「千畳敷」とも呼ばれていて、建物、井戸、蔵等も置かれた当城最大の郭になっています。そして、奥に「本丸(鐘ケ丸)」跡が壇上に築かれています。

 

「本丸」「大広間」の絵図 ↓

「大広間」跡(奥の檀上は「本丸(鐘ケ丸)」跡 ↓

「大広間」跡内の「井戸」跡 ↓

「本丸(鐘ケ丸)」跡から「大広間」跡を見る ↓

 

「本丸(鐘ケ丸)」跡の南面は、多くの石が積まれ防御がされていて、壇上は2段になっています。そして、後ろの少し高い所には、重層の「櫓」が建っていてようです。「櫓」といっても白壁のあるようなものではなく中世城郭の櫓ですので木で組まれたものだったと思います。

 

 「本丸(鐘ケ丸)」跡の南面に見える石積み ↓

 「本丸(鐘ケ丸)」跡の南面隅の石積み ↓

 「本丸(鐘ケ丸)」跡(奥が一段高くなっている) ↓

 

「本丸(鐘ケ丸)」跡」の北側は、断崖となっていて、その向こう側には再び壇となった「中丸(なかのまる)」跡があります。丁度のこの間が「大堀切」となっています。「本丸(鐘ケ丸)」から下りて南面の石垣隅の脇を抜けた所が「御局屋敷」跡になりますが、そこから見た「大堀切」の大きさは実感ができます。

 

「御局屋敷」跡付近から見る「本丸(鐘ケ丸)」跡北側の「大堀切」 ↓

 

<中丸(なかのまる)>

「大堀切」の北側にあるのが3段の郭が段々に上る「中丸(なかのまる)」跡で、2段と3段の間には小規模な石垣と虎口を設けていて、防御態勢を一層高めた郭になっているのが解ります。そして最上段には水が干上がった小さな「刀洗池」跡がありますが、これも水分確保の池だったのでしょう。「中丸」跡の三段の郭は見応えがあります。

 

「中丸」の絵図 ↓

三段の「中丸」跡 ↓

「中丸」跡 ↓

「中丸」跡の最上段にある「刀洗池」跡 ↓

 

<京極丸>

その後ろには「大広間」跡に次いで広い「京極丸」跡が南北四段あり、南西には枡形もある郭で、「京極氏」の屋敷があった場所だったそうです。

 

「小丸」「京極丸」の絵図 ↓

「京極丸」跡の入口 ↓

「京極丸」跡 ↓

 

<小丸~山王丸> 

その上が「小丸」跡になります。こちらは、左右2段の郭で、「浅井久政」が自刃した場所ということです。

 

「小丸」跡 ↓

 

いよいよ最後の砦である「山王丸」跡です。入口である南側には「虎口」の痕跡があり破城の際に出た石が散乱しています。また、その前には「馬出」に相当する敷地が設けられています。「山王丸」跡は標高400mの最高所にある詰めの丸に当たり、4段からなって中央の郭には「山王社」が祀られていたようです。当郭北側には「土塁」が残りその裏側には石が積まれています。

 

「山王丸絵図 ↓

「山王丸」跡南面虎口脇の石積み ↓

「山王丸」跡南側「虎口」の痕跡があり破城後に散乱した石 ↓

「山王丸」跡 ↓

「山王丸」跡の「馬出」跡 ↓

「山王丸」跡後方の石積みと土塁 ↓

 

<六坊~清水谷>

詰めの丸であるので、次の郭である「六坊」跡への北側の道は断崖絶壁です。

 

下りきった所にある「六坊」跡は搦手に当たり、六つのお寺を集めた場所だったそうです。この郭が四辻になっていて、一方は「月所丸」跡へ向かう道、一つは「大嶽(おおづく)城」跡から「福寿丸」跡、「山崎丸」跡を通り下山するコースの道、もう一つは「清水谷武家屋敷」跡があるコースの道です。

 

「六坊」の絵図 ↓

「六坊」跡 ↓

 

ここから「月所丸」跡や「大嶽(おおづく)城」跡にも行けますが、「清水谷」から降りるコースを見ていきます。

 

急な坂道続きで、杖なしでは非常に危険な道です。というのも、そこは「清水谷」という名の通り、山から湧き出る水が川になって流れていく谷底を歩く道だからです

 

「小谷城跡清水谷絵図」 ↓

 

滝や川ばかりの少しの空き地には、「浅井家」家臣達の屋敷が設けられていて、その跡地が標識で明示されています。

 上から、「大野木土佐守屋敷」跡、「三田村屋敷」跡が急な地形地に造られていますが、周囲は大きな岩や巨岩が横たわります。

 

「大野木土佐守屋敷」跡 ↓

「三田村屋敷」跡 ↓

 巨岩の「丸子岩」 ↓

 

やはりこの辺りでも、水を確保する「水の手」がありますし、崖上の「主郭」から「清水谷」に向かっては、防衛上の幾筋かの「竪堀」が掘られた跡が残ります。

 

「水の手」跡 ↓

「竪堀」跡(主郭から下っている) ↓

 

平地近くなった所が「御屋敷」跡で、平和時には「亮政」「久政」や「長政」「お市の方」とその娘たちが生活をした館があった場所です。かなりの広い敷地となっていて当時は優雅な生活が送られていたのだなーと偲ばれましたが、南側には防御の為に「土塁」が横たわっていました。

 

「御屋敷」跡 ↓

「御屋敷」跡南側の土塁 ↓

 

そこから南側にかけて平地が続き、「浅井家」の菩提寺であった「徳昌寺」跡、浅井一族の「浅井山城守屋敷」跡、重臣の「遠藤屋敷」跡や「遠藤丹波屋敷」跡等が並び、「小谷城戦国歴史資料館」に戻ってきます。

 

「浅井家」の菩提寺であった「徳昌寺」跡 ↓

浅井一族の「浅井山城守屋敷」跡 ↓

 

この城山の麓沿いには、「小谷城」下の集落エリアがあったらしく「西本町」跡碑や「東本町」跡碑、「大谷市場」跡碑が田んぼの中に立っていますが、戦国時代から「小谷城」下を通行する道沿いに発達した街です。

 

また江戸時代には、北陸諸藩の参勤交代の道として利用される「北国脇往環(わきおうかん)」として、「北国街道」の枝わかれた街道だったようで、現在でも「郡山宿」や「高札所」跡などが見られます。

 

「小谷城」下の「西本町」跡 ↓

「小谷城」下の「東本町」跡 ↓

「小谷城」下の「大谷市場」跡 ↓

「小谷城」下の「高札場」跡 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

野面積みの高石垣を各所に用い、御定番屋敷も残る「松坂(まつさか)城

三重県松阪市

歴史と城主について

「蒲生氏郷」が、「豊臣秀吉」からこの地を与えられて「松ヶ島城」に入りますが、手狭であったことから「松坂城」を築城し1588年に完成させます。

 

しかし「秀吉」は、「小田原征伐」を終えて「奥羽仕置」を行うにあたり、信頼がおける「氏郷」を陸奥会津42万石で入封させて、「伊達家」の監視をさせます。その後「服部一忠」が入るも「豊臣秀次」事件に連座させられたので、その後に「吉田重勝」が入城して現在のような城郭に仕上げています。

 

弟の「重治」が「大坂夏の陣」の功績で「浜田城」へ移封後は、「紀州藩」の直轄地になりますが、建造物は整備されず荒れるままになっていたそうです。


お城の概要と特徴
<立地と縄張り>

松阪市の「四五百森(よいはのもり)」と呼ばれる標高35mの独立丘陵に築かれた平山城で梯郭式の縄張りです。

 

縄張り図 ↓

 

「本丸」「二の丸」「三の丸」「きたい丸」「隠居丸」「出丸」といった曲輪で構成され、「本丸」「二の丸」「きたい丸」「隠居丸」は総石垣造りで、その周囲には「三の丸」、更に土塁が巡っていました。

 

石垣の大半は「野面積み」で場所によっては「高石垣」があったり、「打込接」や「算木積み」の新しい工法も採り入れています。

 

「本丸」は上段と下段に分かれ、上段には「天守」と「本丸御殿」が置かれました。「天守」は三重で「付櫓」が付随し周囲を「敵見櫓」「多門櫓」「金の間櫓」が繋がっている「連立式天守」であったようです。

 

それでは、「三の丸」跡に面する「大手門」跡から「表門」跡→「きたい丸」→「本丸上段」→「本丸下段」→「二の丸」→「隠居丸」のコースで見て行きましょう。

 

大手門からきたい丸まで>

古い町並みのエリアから少し南下した所に「大手門」があった場所ですが跡表示があるだけです。しかし、その場所から見る「表門」跡は素晴らしい面(ツラ)構えです。

 

「大手門」跡から見える「表門」跡 ↓

 

正面はL字型の枡形となっているので、まるで一文字土塁のように石垣が見え、真正面の「遠見櫓」から続く石垣と、「本丸上段」にある「金の間(かねのま)櫓」の石垣の重なり、更には両脇の石垣壁が延びる光景は入城者を圧倒させます。

 

「表門」跡正面の一文字土塁に見える石垣 (左から入り、その後左折れ) ↓

「表門」跡右側の高石垣 ↓

 

「表門」跡に入って右折れ、左折れして正面に突き当たった所に「松坂城跡」碑と縄張り図の案内板が立ちますので、それで大体の構成が把握できます。

 

「表門」跡正面の「松坂城跡」碑と「本丸」跡石垣 ↓

「表門」跡の石垣 (左面は「本丸下段」の石垣) ↓

 

右に折れて少し坂道を上がる途中には、左斜め上の「遠見櫓」からの監視を受け、突き当たった所には、現在、左右対称の翼部が目立つ「松阪市立歴史民俗資料館」が建っていますが、明治時代末に建てられ「旧飯南(いいなん)図書館」として使用されていたもので、「国登録文化財」に指定されています。

 

「表門」跡を右に折れて坂道上がると左手には「遠見櫓」台 ↓

「松阪市立歴史民俗資料館」(「旧飯南(いいなん)図書館」、国登録文化財) ↓

 

そこからヘアピンで南向きの坂道になりますが“表二の門”の位置付けである「助左衛門御門」跡があります。秀吉政権~江戸時代初めにかけて城主だった「吉田重勝」の弟「吉田助左衛門」の功績にちなんで命名されたそうで、「表門」と同形式の「櫓門」が建っていました。ここから、「きたい丸」までの登城路には、数多くの櫓が林立して監視を強めていきます。

 

「助左衛門御門」跡 ↓

 

突き当りが「本丸下段」の入口で、「鐘の櫓」台下をヘアピンカーブで曲がり北方向に坂道を上った所が「藤見櫓」台です。「鐘の櫓」台は、「本丸上段」東側にある「金の間(かねのま)櫓」台から見下ろせる位置にあります。

当城の主な櫓跡上には、「櫓名」表示が立ちますので非常に解りやすくなっています。

 

「鐘の櫓」台(東面でこの先のヘアピンカーブで北上する) ↓

「藤見櫓」台 ↓

 

その途中には、「本丸上段」の石垣に「排水溝」が見られますが、珍しいのはその真下に設えられた石でできた「受け口(皿)」です。

 

「本丸上段」跡の排水溝 ↓

上記の排水溝から流れる雨水を受ける石でできた受け口 ↓

 

<きたい丸>

「本丸上段」の東面から西面の通路沿いに進むと「きたい丸」という非常に広い曲輪に出ます。この曲輪の各隅には櫓台が置かれていて、取り囲む周囲は内外両側ともに石垣で築かれ、周囲を「多門櫓」で取り巻いていたようです。

 

「きたい丸」跡(北側から南方向) ↓

「きたい丸」周囲を取り巻く「多門櫓」台(内側も石垣積み) ↓

 

西側から見下ろす風景は高く、はるか下には「三の丸」跡に造られた中学校の敷地が見られます。

 

「きたい丸」の高石垣と「三の丸」跡に建つ「殿町中学校」敷地 ↓

 

本丸上段>

「きたい丸」の東側には「本丸上段」があります。その北西隅に「天守台」が築かれていて、当時は「付櫓」を伴う「三重天守」が建っていましたが、1644年の台風で倒壊しその後は再建されていません。

 

「天守台」(「きたい丸」から見上げる、南東隅) ↓

「本丸上段」跡の入口(左に「天守台」がある) ↓

 

その「天守」の瓦には金箔が施されていた可能性が発掘調査からも判り、同時代の「安土城」を参考にして築城されたのではないかと言われています。また、「きたい丸」側にかけて「付櫓」が連結していたことが遺構の「付櫓台」でも判ります。

 

「天守台」の手前(「きたい丸」側)に「付櫓台」 ↓

「天守台」(「本丸上段」跡の東側から) ↓

「天守台」上(「本丸上段」の「本丸御殿」や「敵見櫓」に連結していた) ↓

 

「天守」は「本丸上段」にあった「本丸御殿」や「天守台」とも隣接する「敵見櫓」に連結し、更に「本丸上段」の東から北にかけて「本丸上段」を取り囲む「多門櫓」によって南東隅に建っていた「金の間(かねのま)櫓」に繋がっていたようです。

 

「敵見櫓」台(奥が「天守台」、北東側から) ↓

「天守台」「敵見櫓」台から「本丸上段」周囲を取り巻く「多門櫓」台 ↓

 

 

「金の間櫓」は、他の櫓より規模が大きく、内部を金箔に張った部屋もあったようです。その上からの眺めは良く、今まで通ってきた「表門」跡、「助左衛門御門」跡、後述する「本丸下段」跡やそこに建っていた「月見櫓」跡を俯瞰できます。

 

「金の間櫓」台 ↓

「金の間櫓」台(「本丸下段」跡から) ↓

 

本丸下段>

「本丸上段」の「金の間櫓」南から枡形で下る階段によって「本丸下段」へ降ります。

 

「本丸上段」から下段への枡形階段 ↓

「本丸下段」跡(西端から) ↓

 

「本丸下段」南の東端に「月見櫓」が、西端には「太鼓櫓」が建っていて、いずれもその下の「二の丸」跡から見る高石垣の双璧は豪華です。

 

「月見櫓」台(「二の丸」跡東端から見上げた) ↓

「月見櫓」台(「表門」方向から) ↓

「月見櫓」台(「本丸下段」方向から) ↓

「太鼓櫓」台(「二の丸」跡西端から) ↓

「太鼓櫓」台(「本丸下段」跡方向から) ↓

 

「本丸下段」から「二の丸」に下りる所であり搦手である「裏門」からの通り道となる地点に「中御門」跡があります。これもL字型の枡形となっていて、当初は「櫓門」でしたが、途中から「茅葺平屋」建てに変更されています。

 

「中御門」跡(複雑なルートを降りる枡形構造、太鼓櫓から見下ろす) ↓

「中御門」跡下りた所(枡形構造) ↓

 

二の丸>

「二の丸」跡は、「紀州徳川家」の出先機関的存在であった「徳川陣屋」跡で、「二の丸御殿」を築いていました。1877年に焼失しましたが、平面図や古写真も残っていることで一時再建の話も出ていたそうです。

 

「二の丸」跡(「徳川陣屋=二の丸御殿」跡(「太鼓櫓」台から見下ろす) ↓

 

この場所は、「御定番屋敷」(重文)が良くのぞめる場所で、ここからの写真がよく雑誌等に掲載されています。この屋敷は、幕末に松阪城警護の任にあたった40石取り紀州藩士20人とその家族が住んだ屋敷で、現在でもその子孫の方が居住されています。

 

「御定番屋敷」(重文、「二の丸」跡西端から) ↓

 

<隠居丸>

「二の丸」跡の西側に並ぶ曲輪が「隠居丸」跡で、初代藩主「吉田重勝」が隠居する為に設けた曲輪ですが、その後は「宝蔵」「米蔵」「道具蔵」となり、南側は「二の丸」跡同様に高石垣で守られていました。現在は、「本居宣長旧宅」が移築保存されています。

 

「本居宣長旧宅」門(「隠居丸」跡内) ↓

「本居宣長旧宅」(「隠居丸」跡内、「太鼓櫓」台上から見下ろす) ↓

 

そして「隠居丸」跡の裏側(西側)には「埋門」跡があり、現在は「本居宣長記念館」の玄関付近となっていています。また、記念館入口脇の「隠居丸」高石垣の武者返しが美しいです。

 

「埋門」跡(工事中、「本居宣長記念館」の玄関付近) ↓

「隠居丸」跡石垣(綺麗な「武者返し」) ↓

 

「二の丸」跡から枡形で降りる階段の途中に構えるのが「裏門」です。「裏門」には、「表門」と同様に瓦葺二階の「櫓門」が建っていましたが、台風で二階部分が損壊し、その後は茅葺平屋建ての門になっています。

 

「裏門」跡(「太鼓櫓」台から見下ろす) ↓

「裏門」跡 ↓

「裏門」跡(正面) ↓

 

御定番屋敷から同心町>

「裏門」跡の正面からお城方向御定番屋敷」の石畳の道が真っすぐ南方向に延び、その両脇に二棟の長屋が続きます。各棟には10軒、合計20軒が区割りされていますが、手前の1軒だけが見学用として開放されています。

 

「御定番屋敷」 ↓

「御定番屋敷」の石畳の道 ↓

 

石畳から各軒の前は木の生垣になっていて中が見えなくなっていますが、門前は生垣が切れて出入りできるようになっています。また裏側は、両端に翼部があり台所とトイレになっているようです。

 

見学用の1軒表側 ↓

見学用の1軒裏側 ↓

 

「御定番屋敷」を抜けると「殿町」「同心町」通りが走っていて、昔はこの辺りには武家屋敷が建っていたような雰囲気が残ります。

 

「同心町」 ↓

 

「松坂城」の建造物の遺構が唯一城内に残っているのが、「御定番屋敷」の北側入口入ってすぐの所にある「土蔵」で、「隠居丸」内に「米蔵」として使用されていた後、明治初期に「御定番屋敷」の管理組合的な「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」に払い下げられました。中は3室に分かれていて、結構大きなサイズの建物です。

 

「松坂城」内唯一の城郭建造物(「土蔵」、西側から東方向) ↓

「松坂城」内唯一の城郭建造物(「土蔵」) ↓

「南龍神社」(「土蔵 」西端に紀州初代藩主「徳川頼宣」 (南龍)」を祀る神社) ↓

 

<城下>

お城から「松阪駅」まで間には、「旧長谷川治郎兵衛家」「本居宣長宅跡(建物は「松阪城」内に移築)」「牛銀」「旧小津清左衛門家」「三井家発祥の地」の旧所名跡が集まっています。この一帯は、「旧参宮街道」界隈でもあったので、昔の名残が見られました。

 

「旧長谷川治郎兵衛家」 ↓

「牛銀本店」(すき焼き専門店) ↓

「旧参宮街道」 ↓

「旧小津清左衛門家」 ↓

「三井家発祥の地」 ↓

「本居宣長宅跡(建物は「松坂城」内に移築)」 ↓

 

最後に、明和町の「転輪寺裏門」に「松坂城城門」が移築されていて写真を撮ってますので紹介しておきます。

 

「松坂城城門」(明和町の「転輪寺裏門」に移築) ↓

「松坂城城門」(明和町の「転輪寺裏門」に移築) ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

”藤堂高虎”得意の高石垣、建築中の天守が嵐で倒壊し今は木造模擬天守の「伊賀上野城

                      (三重県伊賀市

城主と歴史

元々は、「天正伊賀の乱」(1578~81年)の後に、「筒井定次」が1585年に平楽寺と薬師寺跡である高丘に「伊賀上野城(筒井古城)」を築城、「本丸」の北東隅には三重「天守」を置き、「本丸」の西に「二の丸」「三の丸」等を置いて、「大坂城」の「出城」として機能していました。

 

その後、今治の城主だった「藤堂高虎」が、「豊臣秀頼」が居城していた「大坂城」を攻略する為に「徳川家康」から「伊賀上野城」へ移封を命じられ、「今治城」で開発した無破風の層塔型天守を「伊賀上野城」の天守に据えるべく、移築する段取りを進めていました。その際には、「高虎」配下の伊賀忍者に命じて、全国148城の城図面を盗み出させて、城の改修の参考にしたとも言われています。

 

しかし丁度その時に、「徳川家康」から当時まだ「大坂城」に居た「豊臣秀頼」の包囲網として「丹波亀山城」を「天下普請」で築城するように命じられた「高虎」は、「伊賀上野城」へもっていく予定の天守を「家康」に献上して「丹波亀山城」へ据えました。この天守は、幕末・維新まで存在していて、古写真でも見ることができます。

 

「今治城」から「丹波亀山城(亀岡城)」へ移築されたと謂われている天守(古写真) ↓

 

一方の「高虎」の移封先の「伊賀上野城」では、五重「天守」を建築していましたが、建築中の「天守」は嵐によって倒壊、「大坂夏の陣」で「豊臣家」は滅びたこともあって、以降は「天守」が築かれず、またお城造りの普請部分(石垣や土塁、堀)も中途半端な形で築城を完了したようです。

 

しかし、現在「本丸」跡西側に残る「高石垣」はその時の名残で、上から覗くと恐ろしい程高く、「高虎」の築城技術が生かされています。

 

以降江戸時代には、「藤堂家」が「伊勢国の一部」と「伊賀国」を統治しますが、「一国一城の令」以降も、「伊賀国」の行政の中心地としてお城は存続しました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

城域は、「筒井古城」の3倍に拡張され、「本丸」は西に大きく広がり、三重天守のあった「古城」には「城代屋敷」を置きました。

 

北西隅に「天守台」を設けて「五重天守」を置く予定が、前述したように完成間近で倒壊しその後は再建しないまま江戸時代を通しました。

 

「大手」を南側に変更して、「内堀」で囲われた「本丸と筒井古城」を「内堀」が取り囲み、その東・南・西を「コ」の字型に「二の丸」を置き、「二の丸」の外側にも「コ」の字型に「外堀」をスクエアに置きました。

 

「外堀」の土塁上には、2基の「二重櫓」と8基の「平櫓」が置かれ、大手門も「東大手門」「西大手門」が長さ40mの「多門櫓」を有する城門でした。

 

縄張り図 ↓

縄張り図(二の丸内) ↓

 

<筒井古城>

筒井古城の「虎口」は北側と南側の二カ所あります。その上は発掘調査された遺構跡の表示などされている他に、南東隅には三重「天守」が建っていた「天守閣跡碑」が建って盛り上がりが見られます。

 

筒井古城(城代屋敷)跡の石垣 ↓

筒井古城(城代屋敷)跡の石列遺構 ↓

筒井古城の天守跡 ↓

 

南側の「虎口」から降りると枡形のような道が見られ、その周囲の石垣も、「野面積み」石垣を見ることができます。

 

筒井古城(城代屋敷)跡の北西側の虎口 ↓

筒井古城(城代屋敷)跡の北西側の虎口 ↓

筒井古城(城代屋敷)跡の南西側の虎口 ↓

 

<本丸>

現在の「伊賀上野城」天守は、1935年(昭和10年)に地元の有力者「川上克」氏によって築城された「伊賀文化産業城」で、三重三階の層塔型、白漆喰総塗り込めで木造の「模擬天守」です。二重二階の「小天守」も模擬で築城されています。

 

模擬天守と小天守 ↓

 

前述のように天守は、築城中の倒壊後は築かれなかったので、現在見られる大天守と小天守は、模擬天守と言えるでしょう。ただこの天守は、なんと1936年(昭和10年)に木造で築城されたモノで、復元・復興・模擬天守の中では四番目に古い天守になっています。また、木造の天守としては「郡上八幡城」に次いで古い天守となります。

※(岐阜城-最初の模擬天守は1943年に焼失)、洲本城、大坂城、郡上八幡城、伊賀上野城

 

現在建つ「大天守」は、層塔式ながらも、唐破風や切妻破風を多数飾り付けて見栄えを良くしています。

 

破風が一杯の大天守と二重目に二つの千鳥破風を付ける小天守 ↓

模擬天守(面西) ↓

 

また、「高虎」が建てようとした五重五階「天守」の「天守台」の上に建てられ、敷地の半分程しか使用していないので、敷地が余って周囲を土塀で囲っています。

 

模擬大天守(多くの破風が付く、天守台の周囲を土塀で取り囲む) ↓

 

木造の館内は、コンクリートのモノとは違い奥深く渋みがあります。1階正面には「藤堂高虎像」が置かれ、1階の壁には黒装束した忍者の人形が飾られて「忍者の伊賀」をアピールしています。

 

1階正面の「藤堂高虎像」 ↓

1階の壁に黒装束した忍者の人形 ↓

 

一階から二階は吹き抜けになっています。三階に上がると、天井は「格天井(こうてんじょう)」となっていて、「横山大観」「川合玉堂」等日本画家や各界から寄せられた1m角の色紙が46枚も嵌め込まれています。

 

奥深く渋みがある木造の模擬天守の2階 ↓

模擬天守内(木造なのでお城の雰囲気が出ている) ↓

3階の「格天井」 ↓

有名な日本画家などの1m角の色紙が46枚 ↓

 

「本丸」跡西側に向かいますと、大きな石が並べられていて、そこから下を覗き見ると約30mの高さを実感できますが恐怖を覚えます。

 

「本丸」跡西側の「天端石」 ↓

 

「本丸」の周囲の内堀には、「大坂城本丸」の東側の石垣に匹敵するぐらいの直線的「高石垣」が築かれ、その下には「内堀」が水を湛え「本丸」を取巻きます。そして「内堀」の廻りには「二の丸」を配して、更にその外周には「外堀」が築かれました。

 

30mの高石垣の上から ↓

直線的「高石垣」を脇から望む ↓

本丸跡「高石垣」を内掘越しに見上げる ↓

本丸跡「高石垣」を内掘越しに見上げる ↓

 

<二の丸>

城内建築物で現存しているのは「武具蔵」で、元々は武器倉庫として使用されていました。現在は「県立上野高校」の敷地に中に、ひっそりと佇んでいます。また、「城門」が「忍者博物館」の出入口に移築、「米倉」は上野公園敷地内に移築されています。

 

唯一の現存城郭建築物「武具蔵」(上野高校内) ↓

唯一の現存城郭建築物「武具蔵」(上野高校内) ↓

現存「城門」(現伊賀忍者屋敷の門) ↓

 

城下には、全国的にも僅かしか現存しない藩校「崇広堂(すうこうどう)」があり、赤い門が目立つので「赤門」の愛称で親しまれています。これは、1821年に伊勢津10代藩主の「藤堂高兌(たかさわ)」の時に、津藩校「有造館」の支校として建てられたもので、「講堂」は当時のまま残っています。

 

藩校「崇広堂(すうこうどう)」の赤門 ↓

藩校「崇広堂(すうこうどう)」の赤門 ↓

藩校「崇広堂(すうこうどう)」の「御成門」 ↓

藩校「崇広堂(すうこうどう)」の講堂 ↓

藩校「崇広堂(すうこうどう)」の講堂内 ↓

 

城跡の中心部は、上野公園として整備され、松尾芭蕉を祀る「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」「伊賀流忍者博物館」、県立上野高校敷地となっています。

 

上野公園入口の模擬東大手門(白鳳門) ↓ 

実際の「西大手門」(古写真) ↓

実際の「東大手門」(古写真) ↓

「俳聖殿」 ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

川の合流の断崖絶壁に築かれ歴史的な合戦の舞台となった「長篠城

愛知県新城市

城主と歴史

1508年に、地方豪族であった「菅沼元成(もとなり)」が築城し、代々「菅沼家」が支配しますが、「今川家」配下であったことで「桶狭間の戦い」後は国主となった「徳川家康」に従います。

 

しかし、1571年に三河に侵攻した「武田信玄」軍に攻められ「武田家」配下となります。その後「信玄」死後「家康」は再度支配下に治めます。「武田家(「武田勝頼」)」の再度の侵攻に備えてお城を拡張整備した姿が現在の「長篠城」で、城主に「奥平貞昌(後に信昌に)」を据えて侵攻に備えました。

 

1575年5月には、「徳川方」の「貞昌(後に信昌に)が守ったお城に、「武田勝頼」が1万5千人の軍を率いて取り囲みました。片や「貞昌」側は5百人の兵で、連日の攻撃を受け「織田・徳川連合軍」が駆けつけるまでに、落城寸前で持ちこたえます。これが、「長篠・設楽原(したらがはら)の戦」の緒戦となりました。

 

この時のエピソードで、「貞昌」は、「徳川家康」へ援軍要請をする為に「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」を使者として出すも、役割を果たし戻ってくるところを「武田軍」に捕えられました。助命の代わりに、「徳川方の援軍は来ない」と豊川越しに「長篠城」へ叫べと強要されるも、「援軍がまもなく駆けつけるのでご安心をー」と大声で伝えた為に、「強右衛門」は逆さ磔され槍で刺殺されます。

 

「鳥居強右衛門」の逆さ磔で有名な「長篠の戦い」の現場となる「長篠城」 ↓

本丸跡のこの場所の豊川対岸で磔された ↓

対岸の磔された場所(白い看板辺り、JR飯田線車内より) ↓ 

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「長篠城」は、自然の要害である「豊川」と「宇連(うれ)川」が合流する断崖絶壁の崖上に「本丸」を真ん中に据え、その最南端には「櫓」を置いています。そこを中心に扇型に拡がる中で6つの郭を持ちます。

 

北側には「帯郭」「巴城(はじょう)郭」「瓢(ふくべ)郭」を、南側には「野牛(やぎゅう)郭」を、西側には「弾正郭」を置きました。「大手門」と「搦手門」は、扇形の底辺となる辺りに置かれました。

 

長篠城縄張図 ↓

 

<帯曲輪、本丸>

現在「保存館」が建つ敷地は「帯郭」跡で、左には「内堀」が曲線を描いて「本丸」跡の東側を取巻きます。

 

帯郭跡と奥には堀が見える ↓

本丸東側の内堀と土塁 ↓

本丸東側の土塁と堀(巴城郭跡より) ↓

本丸東側の堀跡、左は本丸土塁 ↓

本丸東側の堀跡、左は本丸土塁 ↓

 

「帯郭」跡から「本丸」跡へ入る括(くび)れた場所に、「土橋」と「門」があったようで、右手に「史跡長篠城址」碑が立ちます。

 

「本丸」跡は大きな広場になり、「本丸址」碑や、「鳥居強右衛門」の磔場所方向を示す説明板や、攻め寄せる「武田軍」の配置を示す説明板が立てられ、丁寧に説明されています。

 

本丸北側の土橋跡、奥が本丸跡 ↓

本丸北側の土橋跡(奥は保存館、本丸跡側から) ↓

長篠城本丸跡碑 ↓

本丸跡 ↓

 

「本丸」跡東側には背の高い「土塁」が連なり、上に登るとその裏側に掘られた立派な「空堀」を見下ろすことができます。

 

土塁上から本丸跡を見下ろす ↓

 

<巴城(はじょう)郭、厩郭>

「本丸」跡の入口迄戻り、草に覆われた「巴城(はじょう)郭」跡と「厩」跡を通る細い道を進むとJR「飯田線」の踏切があります。そこから豊橋方向を眺めると右手にカットされた「土塁」が大きく迫ります。この辺りには「物見櫓」があったようです。

 

本丸東側の土塁(巴城郭跡から) ↓

JR飯田線で分断(右は本丸土塁上に建つ神社跡) ↓

 

<野牛(やぎゅう)郭、弾正郭>

草むらとなった中に、井戸の遺構「殿井(とのい)」があり、その前には「野牛(やぎゅう)郭」が拡がります。

 

野牛郭跡 ↓

野牛郭跡にある殿井 ↓ 

 

更に、細い道を下って行ったところには、冒頭記載した川の合流点上に設けられた「櫓台」がこんもりと盛り上がっていて、この場所から敵方の監視を行っていたものと思われます。

 

櫓跡(豊川と宇連川の合流地点の最先端) ↓

 

「弾正郭」も広場になっていますが、入り口部分には少し「石積み」が見られます。

 

弾正郭跡 ↓

「石積み」が見える弾正郭跡 ↓

 

<大手門、搦手門>

「大手門」跡は、国道151号線沿いのロードショップの駐車場端にポツンと碑だけが立っています。また、「搦手門」跡は、国道151号線を北に向かった所、JR「長篠城」駅までの途中に「搦手門」跡碑が、後世に置いたような数十個の石の塊の中に立ちます。

 

大手門跡付近 ↓

搦手門跡付近 ↓

 

城郭建築風の「長篠城址史跡保存館」は、お城や戦いなどの説明書きがあります。この中で、「奥平貞昌(信昌)」の正妻になった「亀姫」(家康と築山御前の長女)の屋敷だった門扉が保存されています。また、「鳥居強右衛門」人形が可愛いい姿で販売されていました。

 

城郭建築風の「長篠城址史跡保存館」 ↓

亀姫屋敷の門扉(桃牛寺からの寄贈品) ↓

鳥居強衛門(とりいすねえもん)人形、保存館内 ↓

 

 

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大城郭であった徳川家康生誕地の「岡崎城

愛知県岡崎市

歴史と城主

「岡崎城」は、古くは三河守護「仁木氏」の守護代「西郷家」が築いた中世城館でしたが、その後「松平信光」が攻撃を仕掛けて「松平家」のお城となります。

 

「徳川家康」の祖父である「松平清康」が1531年に「明大寺(めいだいじ)城」から入城した後は、「清康系の松平家」の居城となりますが「清康」は家臣に殺害されて「松平家」の力が衰えます。その後息子の「広忠」(「家康」の父)が継ぎますが1549年に病死(或い暗殺とも謂われている)で、幼い「竹千代」は僅か6歳で「織田信長」の父「信秀」に送られ、更には8歳で「今川義元」の人質となります。

 

今川の支配下の時は「今川家」の城代が入りましたが、「松平家」のお城であるということはそのままでした。「家康」はこちらで産まれ「家康」自身は思い入れのあるお城でしたので、「桶狭間の戦い」後「岡崎城」に戻って以降「浜松城」へ移る迄の10年間は「岡崎城」に居城(拠点)しています。

 

その後には、息子の「信康」が入城し、更に「家康」の重臣「石川数正」「本多忠次」等が城代を務めました。

 

しかし、「豊臣秀吉」によって、「家康」は関八州へ移され、「秀吉」の臣下であった「田中吉政」が入り、「近世城郭」に改修します。

 

「関ケ原の合戦」の時には「田中吉政」は東軍に加わったので、戦功によって「柳川城」へ替わりますが、その後は再び「家康」の支配下のお城となり「本多康重」が入城し、以降も譜代大名の「水野家」「松井松平家」そして「本多家」(最初の「本多家」とは違う系統)と替わって幕末・維新迄続きます。

 

「家康」誕生のお城ということで、お城自身は「三重天守」を始め、「二重櫓」が19基、多聞櫓と櫓門が42基もある大城郭であったそうですが、城主(藩主)の石高は5万石前後であったので、お城の維持管理は大変だったと思われます。

 

立地と縄張り

南側に「菅生(すごう)川」を天然の要害として、その北側に「本丸」を置くごく低い崖に築かれた「平山城」です。「本丸」を中心に複雑且つ多くの小さく曲線的な曲輪を設けて拡がっていて、中世的な曲輪が並んでいます。

 

丘陵の南西部に「本丸」を置き、狭くて不整形な「本丸」南には、「風呂谷曲輪」を介して「内堀」を掘っています。

 

「本丸」西には「空堀」を挟んで細長くて低い「坂谷(さかたに)曲輪」があります。「本丸」北には狭くて深い「空堀」を設けて小さな「持仏堂曲輪」を置き、更にその北側には正方形の「二の丸」とその東側には「東曲輪」が続きます。

 

「本丸」東側には水堀を隔てて半円形の「隠居曲輪」があります。また、「坂谷曲輪」や「備前曲輪」からは「丸馬出し」は、「武田家軍学」から学んだ成果が反映されています。

 

縄張り図 ↓

当時の「岡崎城」の模型 ↓

 

お城の概要と特徴

天守

「天守」は、複合式望楼型で三重三階、地下一階で、東側には渡り櫓で繋がる二重二階の「井戸櫓」が建ちました。また、南側には、二重の付櫓、更に一重の付櫓、更にもう一段下に付櫓が段々に建ちました。

 

現在は、「天守」「渡櫓」「井戸櫓」が外観復元のコンクリート造りで再築されていますが、南側には二重「付櫓」ではなくて一重の「付櫓」が復元されているだけですので、完全な復元ではありません。

 

持仏堂曲輪から見上げた復興天守と井戸櫓 ↓

龍城神社前から見る復興天守(現在の復興付櫓は単層) ↓

 

入城は、地下一階の穴藏から入りますが、地階の入口は通常の倍くらいあります。一重目の南北面が「入母屋破風」、東西面は「千鳥破風」で壁いっぱいの大きな破風が付いています。

 

天守南面下から (地階入口が大きい) ↓

龍城神社前から見る復興天守(東西面は壁いっぱいの大きな「千鳥破風」) ↓

復興天守(南面) ↓

 

現在は、最上階に本来無かった「高覧廻縁」を付けて観光用に対処しています。

 

復興天守(北面、高欄廻縁を付けた) ↓

隠居曲輪から天守を見る(東面) ↓

復興天守(二の丸跡から) ↓

天守最上階の内部 ↓

天守最上階の内部 ↓

天守から見下ろす復興井戸櫓 ↓

 

本丸>

「本丸」の守備は固く、「天守」に繋がる「井戸櫓」の西側には、「多門櫓」が続き「本丸御門と入口多門」「辰巳櫓」「本丸二階門」「平櫓」「月見櫓」「埋門」等の建造物と土塀で囲われていました。

 

本丸への出入口の本丸表門跡(切込接・乱積み、持仏堂曲輪から) ↓

本丸月見櫓跡 ↓

本丸埋門跡 (本丸4つの虎口の一つ、本丸側より) ↓

本丸埋門跡(坂谷曲輪側から) ↓

 

現在は、前述の「天守」群の他には、「辰巳櫓」跡に城郭建造物風の「巽閣」が建ちくつろぎの空間として多機能の使われ方がされています。また、その脇には城郭風のトイレ等の建物が続きます。更に「龍城(たつき)神社」が大きな敷地を占めます。

 

辰巳櫓跡に建つ巽閣(くつろぎの空間としての有料施設) ↓

 

本丸周辺の曲輪群

「本丸」の南側を取り巻く一段下の細長い敷地は「風呂谷(ふろたに)曲輪」になり、枡形となっている「本丸埋門」や「本丸二階門」から降りるようになっています。

 

帯曲輪の風呂谷曲輪(手前)と神橋 ↓

 

「風呂谷曲輪」の南側にある「内堀」越しには、東側にある「菅生(すごう)曲輪」と西側にある「白山曲輪」を結ぶ「菅生川」沿いとなり、江戸時代には「船着場」として利用されていました。また、川からの攻撃に備えて、「横矢」を掛けられるように石垣を屈折させて築かれています。

 

菅生川沿いの船着場跡  ↓

菅生川端石垣(横矢が掛かる石垣、屏風折れと横矢枡形を導入)  ↓

 

「菅生曲輪」は、「東曲輪」から下段となった所で、現在は広っぱになっていて、復興された「東隅櫓」が遠くに見えます。「白山曲輪」は現在は住宅街となっています。

 

 菅生曲輪の広場と奥に東曲輪と復興東隅櫓  ↓

 

「本丸」西側の深い空堀越しには、南北に細長い「坂谷曲輪」を設け、「内堀」越えに「丸馬出」が構えていたようです。

現在は「東照公産湯の井戸」や「東照公えな(へそのお)塚」があります。

 

「東照公産湯の井戸」 ↓

「東照公えな(へそのお)塚」 ↓

 

「本丸」東側は深く切れ込んだ「西海(せいかい)堀」が「内堀」から続きます。現在、「本丸」の南東隅の「辰巳櫓」跡には「巽閣」が建ちますが、「辰巳櫓」の二段構えの櫓台の石垣は見事です。

 

隠居曲輪と本丸(右)の間に食い込む清海堀 (せいかいぼり)  ↓

清海堀を見下ろす巽閣 ↓

本丸辰巳櫓下の石垣  ↓

本丸辰巳櫓下の石垣 (右)と風呂谷曲輪の石垣 ↓

 

その堀越しに半島のような舌状の敷地になっているのが「隠居曲輪」で、現在は「茶室 葵松庵・城南亭」が静かな佇まいの中に建ちます。

 

本丸跡と隠居曲輪跡(右) ↓

隠居曲輪跡に建つ茶室 ↓

 

「本丸」の北側は、深い「空堀」によって分断された「持仏堂曲輪」があり、「本丸御門」で繋がります。「空堀」の「持仏堂曲輪」側の壁面はかなりの量の石垣を積み上げていて非常に強固で壮観です。

 

持仏堂曲輪跡  ↓

持仏堂曲輪跡の石垣(左)と本丸跡の間に空堀 ↓

持仏堂曲輪跡の石垣(右)と本丸跡(左)の間に空堀 ↓

持仏堂曲輪跡で見られる「転用石」(四角の石) ↓

 

また、「持仏堂曲輪」西側には、「本丸」の「天守」裏へ渡ることができた「廊下橋」が架かっていたそうで、現在は橋だけが架けられていますが通行はできません。またこの横には、幼い頃の家康「竹千代」と成人の「徳川家康」像が並んで置かれています。今から紹介する「二の丸」跡にも、「徳川家康像」が見られます。

 

持仏堂曲輪から本丸に繋がる廊下橋跡 

持仏堂曲輪跡 (家康と竹千代像)

 

「持仏堂曲輪」跡の土手は、堀底部分が石垣積みで上部が土塁となった「腰巻石垣」を採用しています。

 

持仏堂腰巻石垣(二の丸能楽堂脇から下りた坂谷曲輪跡から)

 

 更に「持仏堂曲輪」の北側には「二の丸」が横たわっていて、「二の丸御殿」や「庭園」「能舞台」等が建ち並んでいました。

 

二の丸跡と持仏堂曲輪跡(左)の間の空堀 

 

二の丸>

現在は、「岡崎公園」の中心的な敷地となっていて、売店の脇には「御殿」に併設していたであろう「二の丸井戸」跡が見られます。最も、大きな面積を占めるのが、「三河武士のやかた家康館」で、「松平家」の発祥から「徳川家康」の活躍に至るまでの諸資料が納められています。また、「徳川四天王」(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)の一人「本多忠勝像」が立ちます。

 

二の丸大書院庭園跡 ↓


二の丸跡内 (二の丸御殿井戸) ↓


二の丸跡内の「三河武士のやかた家康館」 と本多忠勝像 ↓

 

その他公園内には、先程も触れた「家康」の像が「松平元康」時代のモノも含めて3体あります。一つは「家康」が分かりし時代の「松平元康像」、二つ目が「家康しかみ像※」です。これは「三方ヶ原の戦い」で武田の大軍に対して無理な戦をしかけ負け戦となって多くの家臣を失った「家康」が自戒の念を忘れることがないように描かせたと言われている画像の像です。

※この画像の正式名は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(名古屋市内の「徳川美術館」所蔵)

 

松平元康像 ↓

徳川家康のしかみ像 ↓

 

もう一つは晩年の姿を捉えた「徳川家康公銅像」です。

 

徳川家康銅像 ↓

 

東曲輪>

「岡崎公園」の入口として建てられた復興「大手門」がモニュメント的に建ちますが、本来の場所ではありません。「櫓門」の櫓台は、地元産の御影石を使用して「切込接(はぎ)」で積まれ、脇には「土塀」も造られています。

 

復興大手門 ↓

復興「大手門」の御影石使用の櫓台と「土塀」

 

復興「大手門」の東側が「東曲輪」跡ですが、現在は駐車場となっています。その東隅には、2010年に木造で建てられた望楼型の「東隅櫓」があります。「松山城」(愛媛県松山市)の重文「野原櫓」を参考にして再築したそうです。

 

木造復興東隅櫓 ↓ 


木造復興東隅櫓 ↓ 

木造復興東隅櫓1階 ↓


木造復興東隅櫓2階 ↓

 

更に「二の丸」の北側から北東方向には「北曲輪」や「三の丸」「浄瑠璃曲輪」「備前曲輪」等が置かれていて、「備前曲輪」には「馬出」が設けられていたそうですが現在は住宅地になっています。このように「岡崎城」は、北側から東側にかけて城下が拡がる「総構」の大城郭でありました。

 

 

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本日放映の「ブラタモリ」は、「織田、豊臣、徳川…天下人の理想のまちづくり」とのお題ですが、次週の「徳川家康」が造った「名古屋」のまちづくりの前に、「織田信長」が築城した「安土城」下の「安土」の街並みと、「豊臣秀吉・秀次」が築城した「八幡山城」を中心とした「近江八幡」の街並みが紹介されました。


「信長」が造った幻の城「安土城」下の町に「楽市楽座」によって集まった商人達は、「本能寺の変」の後、「秀吉・秀次」によって「近江八幡」へ移され、そこで近江商人を生んだ「豊臣の町」の秘密に迫っていきました。ただ内容的には、以前に放映された内容がかなり挿入されて再編された内容ではありました。

 

ところで、明日のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では「本能寺の変」が放映される予定ですし、先週の「本能寺の変」前哨戦の内容も含めて、暫くはまさに「信長」一色の期間になりそうですね〜

 

そうそう、本日BS11の「偉人・敗北からの教訓」でも、「信長」の息子で後継者として期待されていた「織田信忠」にもスポットが当てられる内容のようです。

 

本日は、近江商人を生み「豊臣の町」として発展し続けた「近江八幡の街並み」とその中心的城郭「八幡山城」(滋賀県近江八幡市)について、以前投稿したブログを掲載しますのでどうぞご覧ください。

 

 

 

 

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対豊臣大坂城を意識して天下普請で築城された「名古屋城(4)

愛知県名古屋市中区

 

「名古屋城」は情報量が多いお城ですので4回に分けて投稿していますのでどうぞよろしくお願いいたします。

●城主と歴史、立地と縄張り、お城の概要

         ↓

 

現在の縄張りがわかる絵図案内 ↓


今日の「名古屋城(4)」では、復元された「      」を見て行きたいと思います。

 

●お城の概要と特徴

<二之丸>

「名古屋城(3)」では、「二之丸」跡に建つ重文「二之丸大手二之門」を見てきましたが、それ以外の「本丸」跡周囲を取り巻く「内堀」東側と「外堀」東側の間に挟まれた「二之丸」跡の見所を見ていきます。

 

「二之丸」跡西側にある「埋門」跡は、藩主が緊急時に逃げる通路の入口だったそうで、垂直の階段を下りて濠を渡り「御深井丸」から勝川、定光寺経由で木曽へ逃れる為の通路となっていました。

 

藩主が緊急時に逃げる通路の入口である埋門跡 ↓

 

「二之丸」には、「二之丸御殿」が多くのスペースを使って建っていました。主に、「将軍」用の「本丸御殿」とは違い、江戸時代通じて「藩主」やその家族の居住場所であり、「藩」の政務を執り行う場所であったので多くの事務方の藩士が積める部屋がありました。また、来客や藩主・その家族の寛ぎの場所として造営された「二之丸庭園」や二か所の「能舞台」も置かれました。

 

現在は、その跡に「名勝二之丸庭園」「二之丸東庭園」「二之丸茶亭」として市民に開放されていて、現在も復元・整備が進んでいます。また、「二之丸御殿」北御庭を守る東西に長い「南蛮たたきで固めた練塀」が一部残り○の狭間が付いた状態で残されています。

 

二之丸御殿の絵図 ↓

二之丸庭園 ↓

二之丸東庭園と二之丸御殿跡 ↓

二之丸御殿北御庭を守る東西長い南蛮たたきで固めた練塀 ↓

 

その他「二之丸」跡には、1868年に、京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主「徳川慶勝」が勅命を受けて帰国した直後に、藩内の佐幕派に対する弾圧命令を出して三家老を含めて14名が斬首された「青松葉事件」の、「青松葉事件の遺跡碑」が立ちます。

 

松葉事件の遺跡碑 ↓

 

織田信長が、最初にお城を与えられたのが「那古屋城」で、当時の「二之丸」はそこを包含して築かれましたので、その位置に「那古屋城跡」碑が立ちます。

 

那古屋城跡碑 ↓

 

「二之丸」跡は広くて、現在の「二之丸庭園」「二之丸東庭園」「二之丸茶亭」の南側には、「愛知県体育館」が建っていましたが、2025年7月に「IGアリーナ(愛知国際アリーナ)」が新たに建てられています。

 

夏には大相撲夏場所の会場となりますので、「二之丸東門跡」には「太鼓矢倉」が立ち、各力士の幟が林立します。「二の丸東門」跡には、桝形と櫓台の石垣が残り、幅広い「空堀」の「中堀」が全面を守備します。

 

二之丸に立っていた嘗ての愛知県体育館 ↓

大相撲夏場所では石垣の前に力士幟が林立 ↓

二之丸東門跡に立つ大相撲太鼓矢倉 ↓

二之丸東門跡の枡形と櫓門櫓台跡石垣 ↓

二之丸東面石垣と空堀(東門から南方向) ↓

二之丸中堀(二之丸南東隅) ↓

 

御深井丸、西之丸>

「清洲櫓」が建つ「御深井丸」跡には、城郭建造物ではないですが、日本で現存する明治時代初期築の最古の「陸軍弾薬庫(火薬庫)」が建っていて登録有形文化財に指定されています。

 

乃木倉庫 ↓

 

「御深井丸」跡の南側には、「鵜の首」という「角馬出し」北側の堀部分が残っていて、その南側に「西之丸」跡が「本丸」跡から「中堀」越しに位置する西側から南側の一部にかけての細い敷地となっています。

 

鵜の首(角馬出しの北側の細い堀) ↓

「榎多門(えのきだもん)」跡に建つ名古屋公園正門(1959年に再築) ↓

 

<三之丸>

「三之丸」は、「中堀」と「外堀」の間を占めていて「外郭」と言われる所です。

 

現在の「三之丸」跡は、主に官庁街や図書館などの行政施設や文化施設が建っていますが、その周囲には「外堀」が取り巻き、手前「三之丸」側沿いには「土塁」が築かれていたのでその跡が見られます。

 

また、所々には、「外郭」の立派な「門」跡の石垣が見られます。

 

「西の丸」跡に建つ「正門」から、西方向に見て、南に下り、今度は東側に辿っていき、最後にはお城の北側へ足を運んでいきます。

 

西之丸の西南端で北側方向 ↓

正門脇の櫓台石垣 ↓

正門出てすぐの中掘(空堀) ↓

愛知県図書館内の内側が土塁 ↓

御園門跡石垣(愛知県図書館の南側) ↓

巾下門跡石垣 ↓

三之丸土塁(丸の内付近) ↓

三之丸土塁(丸の内付近) ↓

三之丸東御門跡から土塁と清水橋 ↓

三之丸東御門跡(清水橋から) ↓

三之丸東御門跡北側の土塁は犬走りを伴う、三之丸堀 ↓

三之丸東御門跡南側の三之丸堀 ↓

 

最後に、かつて「名古屋城」内にあって、現在他所へ移築再利用されている、或いは移築されたと謂われている「城門」を紹介しておきます。

 

名古屋城三の丸清水門(現在「妙興寺総門」愛知県一宮市) ↓

名古屋城出丸門か?(現在「興正寺東山門」名古屋市昭和区) ↓

名古屋城城門(現在「正福寺山門」愛知県一宮市) ↓

名古屋城城門(現在「円乗寺山門」 愛知県北名古屋市) ↓

 

また、かつて熱田にあった尾張藩別邸「浜御殿」の門が、春日井市立中央公民館の敷地内に移築保存されています。

 

尾張藩御浜御殿の門 (現在「春日井市立中央公民館の敷地内」愛知県春日井市) ↓

 

 

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