昨日(11/27)の「大坂城 豊臣石垣館」の続きです(「大坂城」訪城は11/26)。
「豊臣石垣館」を出て、城内の「二の丸」跡、「大手門」を抜けて「空堀商店街」まで乗車予定の地下鉄谷町線「谷町四丁目駅」方向へ向かいました。
途中、色々な「城郭建造物」を見ながらの行軍でしたので、その写真を掲載していきます。
まず、「豊臣石垣館」の西側に建つ重文「御金蔵」です。江戸時代に幕府の財産をこの金蔵で管理していました。
重文「御金蔵」と復興「天守」 ↓

続いて「本丸」の南側の出入口の重文「桜門」、「桜門」脇の城壁に開けられた「銃眼」、そしてその桝形内の巨石「蛸石」を見ながら「土橋」を渡って「二の丸」跡に出ます。
重文「桜門」脇の「銃眼」 ↓

桝形内正面に嵌る城内最大の「蛸石」 ↓

重文「桜門」 ↓

「大手門」の重文「渡櫓門」と「高麗門」を抜けると、大規模な「土橋」を下り西側の「三の丸」跡に出ます。
重文「大手門渡櫓門」 ↓

「三の丸」跡から「南堀」を東方向に眺めるのが私の常ですが、重文「一番櫓」と「七番櫓」跡などの櫓台と横矢を掛ける石垣が非常に美しい光景です。
重文「一番櫓」と櫓台跡が横矢を掛ける ↓

東方向の「南外堀」(桜の紅葉が綺麗) ↓

またこの場所からは、重文「千貫櫓」「大手門」ともに望めるビューポイントになっています。
重文「千貫櫓」と重文「大手門」 ↓

さて、「谷町四丁目駅」に着きましたが、「空堀商店街」がある「谷町六丁目駅」までは一駅、少し疲れましたが歩けるような気がして、徒歩で移動することを決断しました。
首のストレートネックをしていましたので少しは首も支えられているようで、首が疲れると時々指で顎を支えながら進みました。
「空堀商店街」に着いてランチタイムにもなったので、入口付近の中華料理店「興隆園」で食事を取り、一休みしてから商店街の中を「松屋町筋」方向へ下って行きます。
エビ卵定食(黒いタレは濃厚でした) ↓

「松屋町」は正式には「まつやまち」なんですが、大阪人は「まっちゃまち」と呼びます。私も、昔からそのように言います。
「松屋町」交差点の英語表記は「まつやまち」 ↓

商店街が、かなり急な坂道に沿ってあるというのは全国的にも珍しいのではないかと思います。この辺りは戦災に合っていなくて昔ながらの建物も残り、それを利用した新しい店舗も並びます。
「空堀商店街」 ↓

左へ下っていくのが分るでしょうか ↓

昔の建物をリノベートした新店舗 ↓

昔の建物をリノベートした新店舗 ↓

そして「豊臣秀吉」が築いたと謂われる「惣構」南側の「空堀」は、「空堀商店街」の南側だったそうで、商店街から南への脇道を入ると段差が見られます。まさにその部分が、前述した「大坂冬の陣」跡の講和条件によって徳川方によって埋められた場所が含まれ、「野面積み」の石垣や窪み地が見られます。
大阪高低差学会代表 (新之介さんのブログ) からお借りしました(『僊台武鑑』の大坂冬の陣配陣より) ↓

大阪高低差学会代表 (新之介さんのブログ) からお借りしました(上の赤丸部分が左側のピンクの位置) ↓

ただ、段差や窪み地すべてが「空堀」跡ではないそうです。
というのも、「窪み地」は「空堀」を埋めた土が沈んだ所もありますが、実はこの辺りの地名が「瓦屋町」と言いい、「大坂の陣」で徳川方に付いた大坂の瓦屋「寺島宗左衛門」が「大坂城」内の情報を「徳川軍」に教えた功から、戦後は「徳川家康」から46000坪もの土地を拝領しました。
瓦を焼く為の土取場としたことで空堀跡も含めて現在大きな「窪み地」となって段差が見られる所があるそうです。
そして、その焼いた瓦は、船で江戸へ送られ「江戸城」の瓦として使用されています。
街角には「秀吉」の馬印「千成瓢箪」が ↓

「空堀商店街」から「空堀」跡又は「土取り」跡の窪み地方向 南へ下る脇道 ↓

「北ふれあい広場」(窪み地、土取り跡か空堀跡かは?) ↓

この石垣は「野面積み」の隙間をコンクリートで固めているが、当時のものかどうか ↓

当広場から「空堀商店街」方向(北方向) ↓

先ほどの広場の窪み地を見下ろす ↓

「窪み地」(西方向) ↓

以上の歴史的な場所も訪ねたかった所で、本日「大坂城豊臣石垣館」と同時に見れたことで、「豊臣大坂城」のことがだいぶ勉強になった1日でした。
この後、「松屋町駅」から「地下鉄 長堀鶴見線」で「心斎橋駅」まで乗車し、「御堂筋線」で「なんば駅」へ向かい、最終目的地の「難波髙島屋」へ行きました。
「地下鉄 長堀鶴見線」 ↓

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