昨日(3/16)は、天候がコロコロ変わる中、「伏見城(木幡、指月)」(京都市伏見区)に訪れました。

 

旧キャスルランドのモニュメント「伏見桃山城」の模擬天守群

 

阪急「石橋駅」から十三経由で「京都河原町」で下車し、生憎の雨の中鴨川を渡ればすぐに京阪「祇園四条駅」に着きました。「京阪特急」に乗って約10分で散策スタートの「丹波橋駅」に着きました。

 

11時過ぎでしたが、外はまだ雨がパラついていたので、「カスケード」というパン屋で昼食を取り、その内に雨が上がり晴れ間も見えてきました。

 

事前に散策ルートを地図に落とし込んでいたのでそれに基づき、まずは北側に進み「栄春(えいしゅん)寺」に向かいました。

 

当寺には、「伏見城」関連の遺構が3点あります。

まず「栄春寺山門」が「伏見城城門」、本堂裏のお墓が並ぶ台地が「伏見城北側総構土塁」、そして非公開ですが寺内「観音堂」に「血天井」があるそうです。

 

「伏見城北側総構土塁」は、本堂北側が石垣で補強されていて、土塁の部分があまり良く解りませんでしたが、何となくその雰囲気がありました。

 

 「伏見城北側総構土塁」

 「伏見城北側総構土塁」

 

「山門」に再利用されていると謂れのある「城門」は、薬医門形式でした。

 

「伏見城城門」(現 栄春寺山門)

「伏見城城門」(現 栄春寺山門)

 

非公開の「血天井」は、京都市内と周辺の5寺(※)に残っているのを知っていましたが、こちらのお寺にも有るというのを初めて知りました。

 

「血天井」と「伏見城」の関連って何?と思われる方が多くいらっしゃると思いますので、それについて一言付け加えておきます。

 

「秀吉」が築城した初代の伏見城は「指月城」と言われ1596年に地震で倒壊したものの、「指月城」で使える櫓や門などを移築して、早くも 1597年に木幡に二代目の「伏見城(木幡城)」を完成させました。1598年に「秀吉」がこの城で逝去し、「徳川家康」が京都における拠点として入城しました。

 

しかし、1600年に勃発した関ケ原の戦いの際に西軍に攻められて、城を死守していた「家康」の家臣「鳥居元忠」らは壮絶な戦いの末に落城しました。落城の際に、約200名が自刃して付いた血糊の手形や足型が残る部材を、再利用したと伝わる寺院の天井が「伏見城の血天井」と言われています。     

(※)興聖寺本堂(京都府宇治市)、源光庵本堂(京都市北区鷹峰北鷹峰町)、正伝寺本堂(京都市北区西加茂北鎮守庵町)、宝泉院本堂(京都市左京区大原勝林院町)、養源寺本堂(京都市東山区三十三間廻り) これらの「血天井」は次回以降のブログで紹介します。

 

「血天井」の一例(「源光庵本堂」)足形がクッキリと見える

 

話が少しそれましたが、「栄春寺」から東方向に緩やかな登り坂となっていて15分程歩くと「伏見北堀公園」に着きます。途中時雨れ(しぐれ)だして傘を差さざるを得なくなりましたが、「北堀公園」に着くころには上がっていました。

 

当公園は、「伏見城」の北側を守る大きな「北堀」だったようで、その雰囲気が残っています。

 

「伏見城北堀」跡(現 「伏見北堀公園」の東方向)

「伏見城北堀」跡(現 「伏見北堀公園」の西方向)

 

そこから南側は木々に覆われた丘になっていて、奥から「弾正丸」「大蔵丸」「徳善丸」という曲輪が並んでいた所です。グランド部分は「御花畑山荘」という曲輪で、それに沿って坂道を上った所が「旧キャッスルランド」のモニュメントで「伏見桃山城」と呼ばれている模擬「天守・小天守・付櫓」「大手門」が現われます。

 

「弾正丸」方向(北堀公園から)

「大蔵丸」方向(北堀公園から)

「徳善丸」方向(北堀公園から)

 

この模擬「天守」群と模擬「大手門」は、昭和39年に「伏見桃山城」として営業を開始しましたが、平成15年1月に閉園となり、その後放置されていましたが平成19年にそれを中心に「伏見桃山城運動公園」として市民に開放されています。

 

ただし、建築物の中には入れませんし、建物に近づく事も禁止されていますので、遠目から見上げるしかないですが、かなり大きく立派な建造物であることは写真ではお伝えできないかもしれません。ただ、56年間も経過しているのに剥げ落ちたりボロボロ感もなく、外壁の色も他のお城にない色ですのでひと際目立ちます。

 

「伏見桃山城」の模擬天守(北東方向より)

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬付櫓(北東方向より)

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬付櫓(東方向より見上げる)

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬小天守(南側より)

「伏見桃山城」の模擬大手門(内側より)

「伏見桃山城」模擬大手門の華美な装飾

「伏見桃山城」の模擬大手門(駐車場より)

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬小天守、模擬大手門

 

昭和39年築との説明書きを見て思い出しましたが、私が小学校3年生の頃でしょうか、このお城が建ってすぐに、両親に連れてもらったことを懐かしく思いました。当時は、歴史も知りませんでしたので「伏見桃山城」って本当にあって、「豊臣秀吉」が建てた「伏見桃山城」だから「大坂城」に似ているんだなーと思っていました。

 

さて模擬「大手門」も立派で装飾も「秀吉」好みの派手さを演出しています。「大手門」の右手には、「伏見城」の石垣だった大きな石材に「伏見桃山城」と彫られた碑が立ちます。

 

「伏見城」の大きな石材に「伏見桃山城」と彫られた碑

 

次回ブログでは、現在は「明治天皇伏見桃山稜」となっている「伏見城」本丸跡や二の丸跡、そして周囲に残されている石垣や石材、「秀吉」が最初に築いた「指月城」跡、そして再利用されている城郭建造物などを紹介したいと思います。

 

 

 

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