今回は「和歌山城」(和歌山県和歌山市)をお届けします。
まず「和歌山城」の城主と歴史に付いて触れておきます。
1585年に「豊臣秀吉」の命で「豊臣秀長」が築城しますが、その際、「秀吉」が縄張りを行い「藤堂高虎」に工事を担当させています。
城には城代として重臣の「桑山重晴」が入り、関ヶ原の戦いでは東軍に味方して暫く城主でしたが、その後「浅野幸長」が37万6000石で入城し、この時に「天守曲輪」が整備され「天守」が造営されたようです。
1619年に「徳川家康」の十男「頼宣」が城主となり1621年には城郭を拡張しています。
1846年に落雷によって、「大天守」「小天守」が焼失しますが、御三家ということもあり直ぐにその再建工事が始まり1850年に完成しています。しかし、その天守群と天守曲輪は、太平洋戦争で焼失し、1958年にRC造りで外観復元されています。
それでは、お城の様子について見ていきたいと思います。私が2年前の何度目かの訪問の際に、「大手口門」から入城しましたので、そのルートで見ていきます。
大手口門(昭和57年3月復元)と一の橋(翌年付け替え)
「大手口門」は、古写真が残っていたようでして復元で再築されています。太鼓橋風になった「一の橋」を渡りますが、向かって右側には「月見櫓」跡と「物見櫓」跡の石垣が、北堀に沿って見られます。この堀沿いの風情は、美しいです。
「一の橋」を渡り、左手の「井戸」跡を見てまっすぐな道を行きますと。「太鼓櫓」跡石垣が残っていて、そこで右にクランクして「一中門」跡があります。「一中門」跡の二の丸庭園跡側には亀の甲形が少し崩れた形の石を積んだ「亀甲形」石垣が見られます。
一中門跡石垣(亀甲崩し)
二の丸御殿が建っていた二の丸跡は、西の丸の続きで見ていきたいので後に回して、「一中門」跡から「御蔵の丸」を通り抜けて「岡中門」跡へ向かいます。
「岡中門」は、「岡口門」と「土塀」と「野面積みの石垣」に大きく囲われた「岡口枡形」の北側入口であり、南側入口は、現存で重要文化財の「岡口門」です。この門に続く「土塀」は、浅野氏時代の遺構とのことで、唯一現存の「土塀」です。
岡中門跡石垣
現存土塀(左側)と巽櫓跡
「岡口門」は、両脇の石垣の上に乗っかった渡櫓門でしたが、両端の多門櫓がなくなっていますので、両端は切妻となっています。
重要文化財「岡口門」(重文、60m四方の桝形が石塁で区画され、その二の門)
重要文化財「岡口門」(渡櫓門の多門櫓が無くなっているので切妻になっている)
更に、枡形虎口を形成している野面積みの石垣には、階段を向かい合うように造られた階段で二方向上に向かって付いている「合坂(あいざか)」が数か所見られます。この「合坂」は、会津若松城、津山城、八代城ぐらいでしか見ることができない、珍しい積み方です。
「岡口門」桝形内石塁の両側から昇れる階段、合坂(南側)
他城の合坂(あいざか)例
八代城の唐人櫓台 津山城の月見櫓台
会津若松城の櫓門へ
「岡中門」を上から睨んでいるのが、松の丸に併設している「松の丸櫓台」です。この櫓台は、布積みの一種で箱積みで切込接(はぎ)、野面積み石垣が多い場所の中で、ひと際目立ちます。
松の丸櫓台(箱積み、目地が横線に整然と並ぶ)
松の丸から「本丸表門」跡を通り、「天守一の門」跡、「本丸跡」の下を通って「天守曲輪」に向かうルートがありますが、二の丸側の「台所門」跡から登城するルートもあります。
天守一の門跡石垣
本丸御殿跡(現城内給水場)立入禁止地域
「中編」は、南の丸から砂の丸、西の丸から二の丸を経由して、天守曲輪に向かいたいと思います。55万5千石のお城ですので、様々な跡が残っていています。
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