「伏見城(木幡城・指月城)」(京都府京都市伏見区)の「中編」です。

 

前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12582884263.html

 

「明治天皇伏見桃山御陵」(本丸跡)へ向かう参道脇に並ぶ「伏見城」の石材

 

「前編」で採り上げた「伏見桃山城」南側の大きな駐車場から西方向に暫く歩いて行くルートは、当初計画で地図に落とし込んでいましたが、出て直ぐの所を南方向に向かう小道が有ったのでそちらに進みました。しかし、これがその後の道を迷うキッカケとなってしましました。

 

木々が鬱蒼と茂る小道左手に梢の間から池が見えましたが、それは「治部少丸」の北側に掘られた「治部池」であることがわかりました。「治部少」とは、「豊臣秀吉」の股肱の臣「石田三成」の官職名で正式には「治部少輔(じぶしょうゆう)」ですが、通常は「治部少」と言われていたそうです。「石田三成」の邸宅があった曲輪なのでしょう。

 

「治部池」

「桓武天皇御陵参道」(左は「治部少丸」跡

 

真っ直ぐに進んだ所に、東西に通る幅広い砂利道に出ます。この道が「明治天皇伏見桃山御陵」に至る参拝道です。左手に拡がる森の中が「ニノ丸」跡で、右手にも森が続きます。

 

 「明治天皇伏見桃山御陵」に至る参拝道

 

そして、砂利道右脇には、「伏見城の石」と書かれた看板が立っていて、一つ一つがかなり大きく、所々には石をノミで割るために付けられ「矢穴」が並ぶ石も横たわっていました。

 

「伏見城の石」(矢穴が目立つ)

「伏見城の石」

 

暫く進むと右手が谷のようになっていて、前が大きく拡がる所に出ます。この谷になっている所が、「本丸」を守る「空堀」跡のような気がしました。

 

「ニノ丸」跡方向(御陵入口付近から)

「本丸」跡南側の空堀

 

両脇沿いの森から脱出した解放的な空間の場所が、「伏見城」の「本丸跡」のようで、少し廻りこんだ所に鳥居がありその奥に饅頭状に盛土がありますが、そこが「明治天皇伏見桃山御陵」です。

 

「明治天皇伏見桃山御陵」

 

私が持参してきた「木幡山伏見城縄張図」(地元郷土史家加藤次郎氏公表の縄張りに京都市の都市計画図を重ねたモノ)は、本からのコピーですが、それで確認すると盛土のほぼ北側に徳川時代の「天守台」が有ったとされていましたので、その辺りの写真を掲載しておきます。

 

「木幡山伏見城縄張図」

「明治天皇伏見桃山御陵」盛土の奥に天守台があったようです

 

鳥居の反対方向である南側は、断崖絶壁で桃山から宇治にかけての眺めがよく見渡せます。前述の「縄張図」では、断崖の下が「四の丸」跡と「大名屋敷」跡、更に南東方向には「山里丸」そして宇治川に繋がる巨大な「御船入」跡が配備されていたようです。

 

「明治天皇伏見桃山御陵」前の井戸(伏見城の頃のモノかどうかは?)

「四ノ丸」跡と「大名屋敷」跡方向

 

私の計画では、この断崖絶壁にある階段を下りて「京阪桃山南口駅」方向へいく予定になっていましたが、もと歩いてきた砂利道を下って行ってしまいJR奈良線「桃山駅」に着きました。

 

そこが「京阪桃山南口駅」と勘違いして、線路沿いを下っていく谷が先ほど「本丸」跡から方向を確認していた「御船入」跡で、そこから北へ上がった所にある「桃山小学校」が、「伏見城の石垣」がある「桃山南小学校」だとこれまた勘違いしてしまいました。

 

しかし、「桃山小学校」の校門内側には「指月城の石材」と江戸時代後半に「竹田街道」に敷かれた「車道」の一部が展示されていまいたので、てっきりとそこが「桃山南小学校」と信じてしまいました。

 

「桃山小学校」の校門内側に展示している「指月城の石垣の石」

「桃山小学校」の校門内側に展示している「指月城の石垣の石」

「桃山小学校」の校門内側に展示している「車道」の一部

 

写真を撮ってもと来た道を引き返すも「京阪桃山南口駅」に辿りつかず「御香宮」に出てしまい、そこでルートを間違っていたことに気が付きスマホに頼ることにしますと、何ともうすでに「指月城」跡付近に居ることが解りました。そして、先ほど尋ねた小学校も「桃山小学校」であり、「御船入」跡だと思っていた谷も単なる谷だったことに気付いたわけです。

 

予定していた「桃山南小学校」の「伏見城の石垣」、「御船入」跡、そして「観月橋駅」の南にある「向島城」跡は、ふっ飛ばした形になりましたので、それらの見学は諦めて「指月城」跡から以降を尋ねることにしました。

 

「指月城」とは、1594年に太閤となった「豊臣秀吉」が指月の地に新築した伏見のお城でしたが、 1596年の「慶長伏見大地震」で倒壊してしまいました。倒壊だけで火災がなかったようでしたので、すぐに倒壊被害の無かった部材を流用して次の木幡に築城を始めました。

 

現在は、マンション前に発掘された石垣の石を積みなおし、その脇には発掘時の状況や発掘物の写真や縄張り図、解説が掲出されていました。その周辺エリアは高台になっているようで築城する場所としては最適な立地だったと思いました。

 

「指月城」(秀吉の一期目の「伏見城」)跡付近のマンション群

「指月城」跡から発掘された石垣を復元

「指月城」跡から発掘された石垣を復元

「指月城」の縄張(発掘石垣の解説板に掲出されていた縄張図)

「指月城」跡付近の広場

 

 

 

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