先日のブログでは、「小野陣屋」の投稿をしました。

 

「小野駅」で昼食をと思いきや、駅周辺で食事がとれる所が全く見つからず、やむを得ず「三木城」の最寄り駅である神戸電鉄「三木上の丸駅」へ向かいます。

 

電車は1時間に1本でしたので、昼食をとる予定にしていた時間が余り、駅のベンチで涼しい風に吹かれ、汗一杯の身体を癒しました。

 

約15分で最寄り駅へ到着、駅真裏の崖上が「本丸」跡のようで模擬「城壁」も見えました。

 

ただ、そこへ行く道が判らず、神戸電鉄線路沿いを南東に少し進んでから坂道を上がります突き当りが断崖絶壁で木々が茂っていましたが、そこが「新城」跡のようで、更に坂道を上り右側の「保育園」沿いに上った所が「本丸」跡でした。

 

「本丸」跡には、「三木城」についての歴史や城郭の解説がありましたので、ここで説明しておきます。

 

三木城の城郭図(本丸跡解説版より)

 

「三木城」は、15世紀後半に東播磨の豪族であった「別所則治(のりはる)」によって築城され、その後一時落城しますが再度取り戻して「別所家」が居城しました。

 

「尼子」「三好」「有馬」の各家から再三攻められますが持ちこたえ、「三好三人衆」と和議を結んで城を守り続けました。

 

その後、「別所長治」は「織田信長」に接近して臣下となり、「三木城」は「信長」の毛利攻めの最前線となります。

 

ところが、突然「長治」は「信長」を裏切り「毛利方」となったので、「羽柴秀吉」が「三木城」の「長治」を22ケ月もかけて兵糧攻めにし、「干(ほし)殺し」を敢行したことで有名なお城となります。

 

「三木城」は、「美嚢(みのう)川」を背に断崖絶壁の台地の北端に「本丸」を置き、その南西には「堀」を隔てて「二の丸」を配備しました。「本丸」西側には「天守」も上げられ、「本丸」と「二の丸」の間の坂下には「城門」が築かれていました。

 

「本丸」「二の丸」の東側には、「長治」の叔父が住んだ「新城」を配備し、その南側には「南構」や「鷹尾山城」、そして谷を隔てて「宮ノ上要害」が配備された城郭となっていました。

 

「別所家」滅亡後は、「秀吉」城代が入りますが、江戸時代には「姫路城」の「池田家」の支城となって近世城郭に改修され、1615年には明石藩に編入されて「三木城」を廃城にして「明石城」築城の為に、建造物や石等は資材として運び出されました。

 

現在「本丸」跡には、前述したように北から西側にかけて模擬の「城壁」が建ち、北端には抜け穴伝説がある「かんかん井戸」、西側には「天守台」が残り、その上には「別所長治」の辞世の句の碑が立てられているとともに、天守台下には馬に跨る「別所長治」像が立ちます。

 

主郭部(本丸跡と二の丸跡)の現在図(右が北側)

本丸跡の「かんかん井戸」

本丸跡の「天守台」

天守台上の「別所長治」辞世の句碑

天守台から模擬「城壁」と「見嚢川」

馬に跨る「別所長治」像

 

「本丸」跡は結構広い敷地で、北側に盛土の上に大きな「忠魂碑」が、東側から南東側にかけて「保育園」「金物資料館」が、南側には「稲荷神社」が建ちます。

 

本丸跡北方向(忠魂碑) 

本丸跡 稲荷神社

 

空堀のような坂道を隔てて南側にある「二の丸」跡には、「歴史資料館」、「堀光美術館」とその「別館」が建つだけの広い敷地です。

 

本丸跡から二の丸跡をのぞむ

二の丸跡全景

二の丸跡碑(後ろは資料館と美術館)

 

「新城」跡は、現在は住宅地ですが、東に上っていく坂道や北側の絶壁もあって、当時の地形は保たれているようです。

 

新城跡の住宅街

新城跡北側の断崖絶壁

 

南側の「南構」跡は「雲龍寺」となっていますが、丁度山門や本堂等が改修工事中でした。この寺の裏には、「別所長治と照子夫人の首塚」が祀られ、脇の「由緒の記碑」の台座が、「三木城」の石垣を使用しているそうです。

 

雲龍寺の「別所長治と照子夫人の首塚」

「別所長治と照子夫人の首塚」

「由緒の記碑」台座は「三木城」の石垣の石を使用

 

「三木城」にはこの石垣以外殆ど石垣が残っていないのは、前述したように廃城後「明石城」の土木資材として運ばれたからだそうです。

 

「雲龍寺」東側には、こんもり盛り上がった小山が見えますが、これが「鷹尾山城」跡で、城跡には「空堀」と「土塁」が残っているそうですが、この夏場に鬱蒼とした森の中に入ることが憚られたので、断念しました。

 

「鷹尾山城」跡遠望

 

先程記載しました「城門」跡は、現在全く遺構も碑もありませんでしたが、その場所付近から、三木合戦の焼土上に羽柴・池田氏時代の武家屋敷の遺構が発掘されたという「本町滑原(なめら)跡出土石列遺構」の解説と写真が掲出されていました。

 

城門跡付近、左側が本丸跡、右側は二の丸跡

「本町滑原(なめら)跡出土石列遺構」と解説

 

非常に遅ればせながらの昼食を取るべく、丁度開いていた観光協会で伺って「ビストロ・ド・ノブ」という洋食グリル店に入り、本日のランチ「チキンピカタ」をいただきました。

 

「右ひめぢ道」立道標

 

この店舗の入口脇には、「右ひめぢ道」(姫路道)の立道標が立っていたので主要幹線沿いの店だったと思いました。

 

食後、「旧玉置家住宅」を前からチラっと覗きましたが、国登録文化財で江戸時代には舘林藩の「切手会所」として使われ、明治時代には「玉置家」の邸宅となった建物です。

 

「旧玉置家住宅」

「三木城」の西側下を崖際に「滑原(なめら)商店街」が走っていてその入口付近には、馬に乗り鎧兜を付け

た「別所長治」の「コテ絵」があったり、入口には「ようこそ三木合戦の地へ」という巨大看板にも「長治」のイラスト絵が描かれている等、「三木」の地では、地元の英雄として今でも語り継がれ尊敬の念を抱いている方が多いことが解りました。

 

「別所長治」のコテ絵

「ようこそ三木合戦の地へ」という巨大看板

 

少し離れた所にはこの地で亡くなった「秀吉」の軍師「竹中半兵衛」のお墓があるということでしたが、そこまでは足を延ばすことができませんでした。

 

帰りは、「三木上の丸駅」から「新開地行準急」に乗車しましたが、「鈴蘭台駅」までは各駅停車で、通過駅は「鵯駅」と「丸山駅」の二駅だけでした。

 

「新開地駅」は、「神戸電鉄」の他に、「阪急電鉄」「阪神電鉄」「山陽電鉄」が「神戸高速鉄道」の線路に総合乗り入れしている駅ですが、「神戸電鉄」だけが線路が狭軌な為に3鉄道との乗り入れはありません。

 

新開地駅から右側の阪急電車に乗る(左側は阪神電車)、どちらも「大阪梅田行」だが着く駅は別

 

帰りも「阪急電鉄」特急に乗車し十三経由で帰宅しました。当日は、17,000歩と真夏日の中を良く歩きましたが、これから益々暑くなる中を「お城巡り」する為の屈伸運動になったと思います。

 

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