只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

北条流築城術を集大成したお城も”秀吉”大軍に攻められ落城した山中城

静岡県三島市

お城の歴史と城主

「北条早雲」として知られる「伊勢盛時(宗瑞)」は、15世紀末に伊豆一国を支配し「韮山(にらやま)城」を本拠地として更に「大森氏」が居城にしていた「小田原城」を奪い、1516年には「三浦氏」を滅ぼして相模全土を統一します。

 

2代目の「氏綱」が跡を継いで本拠地を「小田原城」に置き、その頃に「北条家」と名乗るようになります。その「北条家」3代目の「氏康」の時代の1558~70年にかけて「箱根十城」と呼ばれる城砦群が箱根連山の中に築かれ、その要となり「小田原城」の西の防衛を担う最重要地点となったのが「山中城」でした。

 

「山中城」は「東海道」を取り込む形で造られ、当初は城番が入るだけでしたが、後に一族の「北条氏勝」が城主として入りました。

 

天正年間(1573~92年)にかけて、防衛拠点としてますます重要性が高まり、特に1587年頃から大修築と拡張が行われました。

 

そして、1590年の「豊臣秀吉」による天下統一の総仕上げとして「小田原攻め」が行われ、「秀吉」の養子「秀次」を総大将にする7万人もの軍勢による「山中城攻め」が行われ、4000~5000の軍勢で対抗しましたがわずか半日で落城となりました。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

「山中城」では北条流築城術と言われる「障子堀」「角馬出」等を集大成したお城造りが施されていました。

 

「東海道」を制圧する為に本丸から南に延びる尾根を「岱崎(だいざき)出丸」として取り込みました。

 

大きく二股に別れる尾根の分岐点に「本丸」を置いて、西尾根に「二の丸」「元西櫓」「西の丸」「西櫓」を、南尾根に「三の丸」「南櫓」「岱崎出丸」を、そして「本丸」北側を「北の丸」「ラオシバ」曲輪(「老竹干し場」が転訛した言葉)が守ります。

 

「本丸」と「二の丸」には「大土塁」が巡り、畝を伴った「横堀」で区画されています。「本丸」と「二の丸」下段には「水堀」を隔てて巨大な居住エリアある「三の丸」が置かれました。

 

縄張り図(現地に掲出) ↓

 

岱崎(だいざき)出丸>

この「出丸」は、「東海道」から攻める敵に対して、「畝堀」「切岸」「長大な土塁」によって、徹底した防御ラインを構築していました。その「畝堀」は、角度70度程の傾斜角があって「土塁」までの高さは約20mもありました。

 

この「出丸」は中央部は「御馬場曲輪」と言われ、先端の「擂鉢(すりばち)曲輪」とともに構成していました。「擂鉢曲輪」は中央部を凹ませて周囲の土塁に向けて傾斜を挙げています。虎口は南側に設け、東側には8m四方の長方形の敷地がありそこは防備をする「武者溜り」となっていたと言われています。

 

岱崎出丸下の一の堀-畝堀 ↓

御馬場曲輪 ↓

すり鉢曲輪見張台 ↓

すり鉢曲輪 ↓

 

「出丸」跡から戻り、石畳敷きの東海道「箱根旧街道」を横切り、山中城跡バス停がある国道1号線を渡ると「三の丸」跡に入ります。

 

三の丸>

「三の丸」は、前述したように巨大な居住エリアが置かれた所ですが、曲輪の西側を南北に走る「三の丸堀」は、中央の畝を境にして東側の堀は「水堀」、西側の堀を「空堀」として使用しています。長さは180mもあり深さは約8mもあります。

 

三の丸堀 ↓

 

更に進むと、水の確保をする為の「田尻の池」「箱井戸(土)」が掘られています。

 

田尻の池(馬の水用) ↓

箱井戸 ↓

 

箱井戸から山道を上がり「二の丸」跡の脇の細い曲輪の中を通って上っていきますと、その横には「二の丸」跡があります。

 

「二の丸」跡の脇の細い曲輪 ↓

 

<元西櫓・西の丸・西櫓・帯曲輪>

山道を上がりきった所に「二の丸橋」へ向かう入口があります。「本丸」「二の丸」の各跡へ向かう前に、「元西櫓」「西の丸」「西櫓」の各跡を見て行きましょう。

 

二の丸橋から元西櫓へ ↓

 

「元西櫓」跡は小さな曲輪ですが、周囲には深い「空堀」を設け、しかも「畝堀」になっています。

 

「元西櫓」虎口跡 ↓

「元西櫓」跡 ↓

周囲の「畝堀」 ↓

 

「元西櫓」跡の西側には、「西の丸」跡があり周囲には「畝堀」と「障子堀」を施して西側の防御の中枢をなす曲輪となっていました。曲輪内には、三方を「土塁」を巡らせて、西端には巨大な「櫓台」を設けていました。

 

西の丸跡(奥に見えるのは物見台と土塁) ↓

西の丸下には畝堀(南側) ↓

西の丸下の障子堀 ↓

西の丸下の障子堀 ↓

 

また、更に西に配備した「西櫓」跡は、「西の丸」の馬出的な曲輪となっていました。そして周囲は「土塁」で囲われ、西側には「西櫓台」がありました。また、「掘立柱建物」もあったことが発掘調査でわかっています。

 

西の丸と西櫓の間の障子堀(各方向から) ↓

西の丸と西櫓の間の障子堀(各方向から) ↓

西の丸と西櫓の間の障子堀(各方向から) ↓

西櫓跡(西の丸跡から見下ろす) ↓

西櫓跡 ↓

西櫓周囲の土塁 ↓

西櫓内の掘立柱建物跡 ↓

 

「西櫓」「西ノ丸」の畝堀・障子堀の周囲を取巻き、そして「二ノ丸」の北側の森の中を回遊する細い曲輪「帯曲輪」があります。かなり細く山道の様で木々の根っこの盛り上がりが見られます。その「帯曲輪」が「北の丸」跡に繋がります。

 

帯曲輪跡脇の道 ↓

 

北の丸>

「北の丸」跡は「本丸」跡の北側に位置しています。「北の丸」跡の北側には「土塁」と深くて幅がある「北の丸堀」があり、「本丸」の防備を担っています。

 

北の丸跡 ↓

北の丸土塁 ↓

北の丸堀 ↓

 

「北の丸」跡から「本丸北橋」を渡るといよいよ「本丸」跡になります。

 

本丸北橋 ↓

 

本丸>

「本丸」は、城域の最高所に位置していて、二段になっています。東側を除く三方に「大土塁」を巡らし、上段の北西隅には、大きな「天守櫓台」を設けていました。城内の最高所586mの地点で一辺7.5mのほぼ方形になっていて、「井楼(せいろう)」か「高櫓」が建っていたようです。

 

下段には、「弾薬庫」「兵糧庫」があって、現在は「兵糧庫」が再現されています。

 

天守台 ↓

天守台上から下を見る ↓

兵糧庫、弾薬庫の柱穴 ↓

再現兵糧庫 ↓

本丸下段から本丸上段を望む ↓

 

<二の丸>

「本丸」跡の西側には「本丸西橋」が架かり、渡ると「二の丸」跡に入りますが、そのすぐ右手には「櫓台」があります。また、橋の下には「本丸堀(畝堀)」が拡がっています。

 

櫓台 ↓

本丸堀(畝堀) ↓

 

「二の丸」は、城内最大の広さを持つ曲輪で、「本丸」を補完する曲輪として機能していました。しかし平面ではなく南側へ曲輪全体が傾斜しています。

 

二の丸跡 ↓

 

「西元櫓」跡から「二の丸橋」を渡って「二の丸」跡へも入れます。

 

以上で、「山中城」をほぼ1周廻ってきました。

 

このように、小田原城を守るために箱根山中に築かれた「山中城」は、北条流の築城術全てを駆使した山城でしたが、豊臣軍6万8000人の軍勢に対して、北条軍は4000~5000人という圧倒的な兵力の差で三の丸→二の丸と落とされ、北条方は「畝堀」や「障子堀」で守られた「西の丸」まで追いつめられて、結果半日も持ちこたえることができませんでした。

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。

 

今日も、BSNHKでの放映を18時から見ましたので、少し早くお届けします。


今日のお話ですが、前々回くらいからドラマ映像では築城中だった「安土城」が完成して、城内においてその祝宴が繰り広げられます。

 

「信長」は祝宴の中で、若き「森蘭」と老臣である「佐久間」「林」「安藤」の重臣達に相撲を取らせ、余興と思いきや敗戦した老臣達に対しては厳しい仕置きが言い渡され、「信長」の冷徹さを「豊臣兄弟」など家臣達が感じるようになります。

 

実は、この三老臣が「本願寺方」や「武田方」に通じているとの噂があるとの情報があってのことで、追放されたようです。

 

この冷徹さが、いよいよ「明智光秀」に対しても迫ってくるのが最後のシーンでした。

 

「光秀」が後見後押ししていた「長宗我部元親」に対して、「信長」自身が今まで認めてきた四国の切取りをさせるなと「光秀」に命じたのです。梯子を外された「光秀」の脳裏には、「信長」によって京から追放された「足利義昭」が頭に浮かんでくるといった、「本能寺の変」に向けての線路が引き始められました。

 

今回は、信長の冷徹さについてはさて置き、城郭史上注目に値する総石垣造りで五重天守を建ちあげた「安土城」(滋賀県近江八幡市)を、過去のブログの中からピックアップしましたので御覧ください。

 

 

 

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昨日のBSイレブン「偉人敗北からの教訓」では、「上杉謙信」による「臼井城の戦い」で何故「謙信」はこの戦いで大敗北したかを、小説家の「伊東潤」さんが解説していました。

 

この番組は毎週見たりビデオに収録して後日見たりしますが、「伊東潤」さんの解説は、毎回選ばれた偉人の歴史と共に現代に通じる教訓が示されるのが解りやすくて勉強になります。

 

「上杉謙信」は「義」に篤い人で領土拡張は望まず、国衆の要望(援軍)に応じた戦いに出向くスタイルを取り続けていたことは良く知られています。

 

越後から「三国峠」を越えてまで「越山」して関東まで進出したのは、関東の各「国衆」が「北条軍」に攻め続けられていることで援軍要請を受けての進軍だったようで、7〜8回もあったようです。

 

その中で、最大の敗北を期したのが、上記の「臼井城の戦い」でした。

 

「上杉軍」は、「臼井氏」を追い出した「原氏」とその後押しをしている「北条氏」傘下の「千葉氏」に対して「臼井城」に攻め込むものの、退路を断たれると戻れなくなる恐れが出てきたことから撤退を行うも、その追っ手によって5000人もの兵を失うこととなりました。

 

今回の教訓は、国衆の援軍要請に積極的に応じたのは「謙信」の「義」によるものでしたが、それに付き従う報酬目当ての関東に点在していた「国衆」は、なかなか「義」だけでは動かないとのことでした。

 

この「臼井城」(千葉県佐倉市)ですが、一昨年の丁度今頃に、私は訪城して懐かしさもあって今回採り上げてみました。

 

まさに「印旛沼」の湖岸段丘に築かれた「お城」で、「本丸」の東側は断崖絶壁、「本丸」「二の丸」「三の丸」の各曲輪は深い「空堀」で守られていて、主郭である「本丸」へは狭い「土橋」しか築かれていないので最後の戦いには攻め込みにくい構造となっているようです。

 

詳細については、写真も豊富に添付していますので以前投降したブログをご覧いただければと思います。

      ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

”信長”が天下統一を掲げたお城でルイス・フロイスも記述した「岐阜城

岐阜県岐阜市稲葉山

城主と歴史

「織田信長」が、「岐阜城(当時は、稲葉山城)」を天下統一の偉業に踏み出すお城としたのが1560年代後半ですが、それに至るまで様々な「稲葉山城」奪取の攻防がありました。

 

JR「岐阜駅」前に立つ「織田信長像」 ↓

 

「稲葉山(現在は金華山)」に砦が築かれたのが1201年、その後15世紀中頃に美濃の守護代であった「斎藤家」が城を修復して居城としますが、その家臣であった「長井家」が城を奪います。その「長井家」の息子であったのが「斎藤道三」で1533年に城主になります。

 

「斎藤道三」絵(隅櫓内資料館に掲出分) ↓

 

「斎藤道三」の娘(濃姫)を妻として娶ったのが「織田信長」でしたが、「道三」は嫡男の「義龍」に殺害されたことで、「岳父」を殺害された「信長」は「岐阜城(稲葉山城)」を攻めます。「義龍」の嫡男「龍興」が城主となり「信長」の攻撃を交わしますが、城内の謀反によって当城が「信長」のものとなりました。

 

「斎藤義龍」絵(隅櫓内資料館に掲出分)

 

● お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

標高329mの「稲葉山(金華山)」山上の「山城」と、麓の「城館」で構成されていて、特に「織田信長」時代には、麓の拡充を行いました。

 

山上の「山城」の曲輪は、「稲葉山(現在、金華山)」の尾根を利用した「連郭式」のお城で、「天守」に向かって徐々に登っていきます。途中、座敷があった「台所」から「土橋」を渡って「天守」に繋ぎます。

 

岐阜城山頂の曲輪 ↓

 

一方、山麓の「信長居館」は、西側山麓の槻谷(けやきだに)入口に建てられ、この曲輪を「千畳敷」と呼ばれます。「信長」時代には、壮麗を極めた四階の「楼閣」があったことを、宣教師であった「ルイス・フロイス」が1569年に訪問した時の記録として「日本史」に記載があります。

 

<山上部分>

現在、麓から登城コースが5箇所ほどありますが、最も簡単なのはロープウエイを使用する方法です。

 

金華山山頂に聳える復興「天守」 ↓

 

山上のロープウエイ降車で降りると、「天下第一の門(冠木門)」があります。これは、当時の遺構跡に建てられたものではなく、後世、「織田信長」が「岐阜城」を皮切りに天下統一の偉業を目指した事を湛えて建てた門らしいです。

 

天下第一の門(模擬「冠木門」)  ↓

 

まず最初に巨石が転がる「伝一の門」跡は、その左上にあった「太鼓櫓」が「一の門」を監視していたようです。櫓台はゴツゴツした岩で「太鼓櫓」跡には、現在レストランが建っています。(※「伝」とは、伝説、言い伝え)

 

伝一の門跡 ↓

太鼓櫓台跡(現在上にレストランが建つ) ↓

 

「伝一の門」跡を通り抜けた細長い敷地は「馬場」跡です。そこから少し上がった所には、尾根をV字カットした「堀切」(切通しとも)を設え、簡単に「天守」まで行かせない仕掛けが設けられています。現在はその上を朱色の橋が架けられています。

 

馬場跡 ↓

堀切(切通し)跡 ↓

「堀切」を渡る朱色の橋 ↓

 

そこを通り抜けると「伝二の門」跡が構えていて、その中が「伝下台所」跡敷地となります。現在「伝二の門」跡には「冠木門」が入口として構えています。

 

「伝下台所」は、宣教師「ルイス・フロイス」の著書によると、若い貴人数100人程が生活をしていた座敷だそうで、「信長」支配下の領主の子供たちを住まわせていた場所のようです。

 

伝二の門跡に建つ模擬「冠木門」 ↓

伝二の門・伝下台所跡 ↓

 

階段を上がり平地になっている「台所」を経ると、真正面に「天守」が現われ攻め上がってきた敵に対しては脅威を与える造りとなっています。

 

「台所」跡から見える復興「天守」

「土橋」手前から望む復興「天守」 ↓

 

「台所」跡から「天守台」までを繋ぐ細長い「土橋」の土台両壁面には「野面積み」の「高石垣」が積まれています。この「高石垣」は東側下にある道から見上げることもでき、その脇には「井戸」が残ります。また、「土橋」手前を西側へ下りた所にも「井戸」があります。

 

台所跡と天守台を結ぶ土橋側面の高石垣 

「土橋」下から見上げた「石垣」 ↓

石垣東下の「井戸」 ↓

「土橋」手前の西下にある「井戸」 ↓

 

<山上部分 天守>

現在建っている模擬天守の「天守台」の石垣は、「野面積み」で隅石の積上げがありますが、「算木積み」が未発達の時代の様子がよくわかります。発掘調査で現在の天守台の西側に織田信長時代の「天守台」が見つかったとのニュースもありましたが、長さ180㎝、高さ70㎝ですので僅かな発見です。 

 

1579年建築の「安土城」の天守が「織田信長」が造った最初の「天守」と言われていましたが、「岐阜城」の方が日本最古の可能性が高いとも指摘されています。

 

天守下の石垣(算木積みが未発達) ↓

天守台の野面積み石垣 ↓

 

「天守」に関してですが、現在のモノは望楼型の復興「天守」で1956年(昭和31年)に建てられたものです。しかし驚くことに、これは2代目の模擬「天守」で、その46年前の1910年(明治43年)には、日本最古の復興「天守」として建てられたものがありました。それは残念なことに、1943年(昭和18年)に失火で焼失してしまいました。

 

復興「天守」 ↓

復興「天守」入口(東面) ↓

1910年築の日本初の復興天守(「隅櫓」風の資料館に掲出) ↓

1910年築の日本初の復興天守(「隅櫓」風の資料館に掲出) ↓

 

因みに、現在建っている最古の模擬復興「天守」は、1928年(昭和3年)に築城された「洲本城」です。

 

その18年も前に「岐阜城」が復興建築されていることを考えると、当時日本の中では、戦国時代を治め天下統一を果たそうとした「織田信長」という人物を大いにリスペクトしたい、その偉大な人物が建てた「岐阜城」は是非とも復興させたいという機運があったのではないかと思います。

 

更に「天守」についてのお話ですが、「織田信長」時代の「天守」であるのか、その後1584年に入城した「池田輝政」時代の「天守」であるのかはわかりませんが、「岐阜城」の「天守」は、現在の岐阜駅南側に拡がる「加納城」の天守代用の「御三階櫓」として、江戸時代初めに「徳川家康」によって行われた「天下普請」の「加納城」築城の際に移築されました。

 

その時の古文書や「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図が残っていたことから、それを参考にして再築されたのが、現在の「岐阜城」の復興「天守」だそうです。

 

岐阜城天守を奥平信昌が加納城へ移築した際に記された絵図 ↓

 

復興「天守」は、三層四階で最上階からは、濃尾平野を一望できる素晴らしい風景を見渡すことができます。

 

天守内 ↓

天守内展示の「信長南蛮具足」 ↓

天守最上階 ↓

天守最上階展望 ↓

天守から下界を見る ↓

 

「天守」から出て東側に少し下った所に「隅櫓」風の資料館が建ちます。その中で最も興味を引いたのは、先程の明治時代に建てられた復興「天守」の写真及び「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図です。

 

隅櫓風の資料館 ↓

 

<山麓部分(信長居館)>

さて、ロープウエイで山麓に下りると「信長居館」跡を見ることができます。

 

この山麓の「居館」は、西側山麓の槻谷(けやきだに)入口に建てられ、この曲輪を「千畳敷」と呼ばれます。「信長」時代には、壮麗を極めた四階の「楼閣」があったことを、宣教師であった「ルイス・フロイス」が1569年に訪問した時の記録として「日本史」内に記載があります。

 

信長居館の宮殿と奥座敷絵図 ↓

ロープウエイから見下ろす山麓の信長居館跡 ↓

 

1984年から発掘調査が行われ、2012年(平成23年)の居館跡発掘調査では、かなりのことまでが発掘調査によって分ってきたようで、当時の「信長居館」をコンピューターグラフィック(CG)によって再現されています。

 

発掘状況(現地で掲出-随分前のモノです) ↓

 

前述の宣教師「ルイス・フロイス」の文献「日本史」に書かれた「驚くべき大きさの石垣、1階に20室もの部屋がある、内部は純金で縁どって豪華絢爛であり、前廊の外には四つ五つの庭がある」等が証明できたようです。

 

宮殿と奥御殿のCG(天守内に掲出) ↓

四階建て宮殿CG(天守内に掲出) ↓

 

「信長居館」跡は、入口に模擬「冠木門」を建てて、「斎藤氏」時代の遺構なども見ながら「千畳敷」跡へクランクした通路で誘導されます。「千畳敷」跡「虎口」部分にも石垣を積み、横矢も掛かる石垣部分も見られます。

 

信長居館跡の入口に建つ冠木門 ↓

クランクした通路 ↓

信長居館跡 (稲葉山城時代の遺構も見られる、斎藤氏時代の遺構) ↓

信長居館跡 (千畳敷の入口)  ↓

信長居館跡 (千畳敷の入口の石積み) ↓

信長居館跡 (初期の石垣、入隅と出隅になり横矢を導入) ↓

 

「千畳敷」と言われる平坦な敷地には、「四階建ての宮殿(山麓御殿)」を始め「前廊下と歩廊下が併設した大広間」、「劇場風の建物」、「内庭」などが配備されていたようです。また金箔が貼られ瓦を持つ建物も存在していたようです。

 

信長居館の中枢について  ↓

金箔飾瓦が付く建物があった場所から庭園方向 ↓

信長居館跡 (千畳敷跡内の庭園跡) ↓

 

更に、「千畳敷」の奥の山裾には「千畳敷」から廊下を伝って「奥座敷」を設けたり、滝を造って庭園にしています。

 

信長居館(奥座敷跡方向) ↓

 

「織田信長」が、後に建てる「安土城」は、この「信長居館」で色々と試されて造られた建造物や庭園、石垣が導入されたものと思われます。

 

 

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日本最高所にあり山の地形と石垣を最大限に活用した山城岩村城(2)

岐阜県恵那市

 城主と歴史、立地と縄張り

前編「岩村城(1)」で、記載していますので、こちらからご覧ください。

            ↓

 

<重要伝統的建造物群、岩村町>

今回のブログは「岩村城」の城下町で、現在「重要伝統的建造物保存地区」に指定されている「岩村町」界隈を散策していきます。

 

ここには、江戸時代の街並みもさることながら、「岩村城」の遺構や、「岩村藩政」時代の面影が数多く残る素敵なエリアとなっています。

 

「伝統的建造物群保存地区 岩村本通り・城下町」の地図 ↓

岩村城下町案内図 ↓

「伝統的建造物群保存地区 岩村本通り・城下町」 ↓

 「伝統的建造物群保存地区 岩村本通り・城下町」 ↓ 

 

まずは、初代藩主「松平家乗」の後に一時入封した「丹波家」4藩主等の墓碑がある「乗政寺山墓地」は「大名墓地」として紹介されています。あまり整備がされていないで、少し寂しい感じです。

 

「丹波家」4藩主の廟所 ↓

 

「妙法寺」の山門は、「岩村城」の「二の丸赤時門」を移築したもので高麗門形式の立派な門の上には「頼山陽」の扁額「不弐門」が掲げられています。

 

この門以外にも、「土岐門」が現存移築されて「徳祥寺」山門に建ちます。少し古いですが以前撮った写真を掲載しておきます。

 

現存移築された「二の丸赤時門」(現 妙法寺山門、高麗式)、「頼山陽」の扁額「不弐門」 ↓

現存移築された「二の丸赤時門」(現 妙法寺山門、高麗式) ↓

移築現存している「土岐門」(現 「徳祥寺」山門、四脚門、2009.8の写真) ↓

 

「妙法寺」山門前の道を戻った界隈は「武家屋敷街」だった所らしく、石垣の囲いが何か所も見られました。 

 

「武家屋敷街」だった名残の石垣 ↓

 

メイン通りに戻る途中には、藩政時代に火縄銃や槍を製造していた「加納家」の建物が建ちます。

 

「加納家」建物 ↓

 

メイン通りには、カステーラで有名な「松浦軒本店」は、岩村藩医が長崎で、ポルトガルかスペインのカステラの製造方法をこの岩村に持ち帰って出来た当地特有のカステラです。

 

カステーラで有名な「松浦軒本店」 ↓

 

続いて商家「勝川家」は、幕末に台頭し藩財政にも貢献した家柄で、建造物は江戸後期築の二階建て建造物で、二階から見下ろす邸宅内の庭園や白壁の蔵群が綺麗です。

 

「勝川家」の店舗部分 ↓

「勝川家」の居間 ↓

 

それだけでなく、「岩村城」の遺構が、邸宅内のあちらこちらに残り、まずは四個の海鼠壁の蔵が4個並ぶ「四個前土蔵」は、「岩村城内」の米蔵を移築したものだそうです。

 

「岩村城」の鬼瓦(「離れ」の建物に付く) ↓

「勝川家邸宅」と岩村城の「米蔵」 ↓

「岩村城」内の「米蔵」(四個の海鼠壁の蔵が4個並ぶ「四個前土蔵」) ↓

「岩村城」内の「米蔵」(四個の海鼠壁の蔵が4個並ぶ「四個前土蔵」) ↓

 

また、店舗から座敷に通じる鴬張りの「縁」は「岩村城」建造物の部材の一部を使用したり、廊下の板も「岩村城」の建造物から移設したものだそうです。

 

「岩村城」建造物部材の一部を使用(店舗から座敷に通じる鴬張りの「縁」) ↓

 

また城下町特有の、道路を直角に曲げて敵の侵入を容易にできない仕掛け「升形」があります。ここは「下町升形」と言って三つあった内で最大規模のようです。また「高札場」も置かれていました。

 

「下町升形」(城側から見た、右へ折れる) ↓

 

「木村邸」「家村家」にしてもこの「勝川邸」にしても、「岩村藩」を支える商家が数多くあったし、それ以外でも「土佐屋」「柴田家」「加納家」「水野家(水野薬局)」「松浦軒」等の江戸時代から明治時代にかけて開業した店舗も、良く現在まで維持できてきたことに感心しました。

 

「木村家」(岩村藩の財政を支えた問屋で、御用金調達を何度か実施。藩主専用の玄関がある) ↓

「家村家」(松平家乗とともに岩村に移転、幕末三代は大庄屋)  ↓

「家村家」店舗内 ↓

「土佐屋」(呉服屋) ↓

 丸い「五平餅」を販売する「大黒屋」 ↓

 「岩村」が舞台になった2018年朝ドラ「半分青い」のチラシ ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

日本最高所にあり山の地形と石垣を最大限に活用した山城岩村城(1)

岐阜県恵那市

城主と歴史

12世紀後半に「加藤氏」が城を築いたとされ、その後「加藤氏」は「遠山氏」と名乗ります。そのうち「遠山影任(かげとう)」は、「織田信長」に臣従し、1570年に「武田方」から攻められますが、その時には「明智光秀」が援護撃退します。

 

「影任」が亡くなったので、「信長」の五男「勝長」をその養子としますが、「影任」の未亡人(「信長」の叔母)は、幼少の「勝長」に代わって女城主として采配を振るいました。

 

しかし、武田方の「秋山信友」は、再度攻城を行うとともに女城主に求婚してそれが受け入れられたことで「勝長」が人質として甲斐へ送られてしまいます。これに激怒した「信長」は、「岩村城」を攻めて奪還するとともに、「信友」とともに女城主も処刑しました。

 

その後は、「本能寺の変」で「信長」とともに死んだ「森蘭丸」の兄「森長可(ながよし)」が城主になって城を改修しますが、「小牧・長久手の戦い」では「羽柴方」で憤死し、その弟が入ります。しかし「関ケ原の合戦」では西軍で戦ったので攻撃を受け、戦後は「松平(大給)家乗」が入ります。

 

その後、「丹羽家」が入封して4代続きますが、1702年に再度「松平(大給)家」が入ってからは藩主が定着し、幕末・維新まで続きます。

 

お城の概要と特徴

「岩村城」は、山麓の「藩主邸」、山上の「山城」、城下の「伝統的建造物群保存地区・岩村町」の3つから構成されています。今回は、まず「藩主邸」を見てから「山城」へ向かい、最後に城下を少し散策してみます。

 

<藩主邸>

「明知鉄道」の「岩村駅」から城下の「伝統的建造物群保存地区・岩村町」を抜けて約30分で到着します。

保存地区から「常夜燈」のある所を左に曲がり、更に右に曲がった所に藩校「知新館」跡があり、その前にある藩政時代に藩校生徒が喉を潤したという井戸「温故の井」が残ります。

 

藩校生徒が喉を潤した「温故の井」 ↓

 

「藩邸」跡の少し手前から石垣の段が見られ、関連建物が建っていたと思われますが、すぐ前には、「藩主邸跡」に建つ復興「太鼓櫓」が建っています。

 

復興の「御正門」「平櫓」そして現存移築された藩校の「知新館正門」と共に邸跡西隅に並んで建つ姿は、我々観光客をお迎えするように謙虚に見えます。

 

復興「太鼓櫓」と復興「御正門」 ↓

復興の「御正門」 ↓

復興の「太鼓櫓」「御正門」「平櫓」 ↓

現存移築された藩校「知新館正門」 ↓

 

「御正門」の階段を上って拡がる広場は非常に広く、奥に建つ「岩村歴史資料館」は小さく見えます。戦国時代には、山上の「本丸」を居城としていましたが、1601年に入城してきた「松平家乗」はこの山麓に居館を設けました。

 

「藩主邸宅」跡(奥に「岩村歴史資料館」、右は現存移築された「知新館正門」 ↓

 

「岩村歴史資料館」手前の少し判り難い所には、江戸幕府の儒家である「林大学頭」の「林淡斎」が、藩主「松平乗保」(老中で78歳まで存命の長寿大名)に寄贈した灯籠が立ちます。これは、江戸藩邸にあったもので、昭和47年に「松平家」が岩村へ寄贈したものですが、わかりづらい所に立つのが残念です。

 

儒家「林大学頭」の「林淡斎」が、藩主「松平乗保」に寄贈した灯籠 ↓

 

<山城の縄張り>

「本丸」は、山頂721mの最も標高が高い場所に置かれた山城で、山の形や急峻な地形を巧みに利用しながら縄張りを行い、曲輪は、「本丸」「二の丸」「東曲輪」「帯曲輪」「出丸」「八幡曲輪」を設けています。

 

山上に向かうまでに、多くの門跡や櫓跡に遭遇し、石垣は総延長約1.7kmあり約4万個の石が使用されているという素晴らしい光景が目にできます。

 

縄張図 ↓

 

 

<八幡曲輪まで>

それでは登城口から、順番に上りながら紹介していきたいと思います。

 

登場口から「一の門」までは、「藤坂」と呼ばれる長い坂が続きます。途中、有事に備えて門を設ける「初門」は、非常に急で行く手を大きく曲げた箇所があります。「土岐門」辺りまでは、畳石が敷かれています。

 

藤坂 ↓

「初門」跡 ↓

 

各ポイントには、解説と併せて、どのような建造物がどのような配置で置かれていたかが解る絵図が掲出されているのと、解説板下のバーコードにスマホを近づけるとその当時のCG映像が映し出される仕組みとなっていて、非常にバーチカルに理解できるようになっています。

 

「一の門」は、櫓門が建ち、右には多聞櫓、左には土塀、手前は石垣を大きく張り出させて死角を作ったような所があり、現在は石畳に沿って石垣が続きます。また、右上の曲輪には「番所」を置いて監視していました。

 

「一の門」跡 ↓

 

そこから左へ階段を上がると第二の門である「土岐門」があり、「薬医門」か「四脚門」が建っていたそうです。門の名前の謂れですが、「土岐家」を破ってその戦勝の意味を込めて「土岐家居城」の門を移築したことから名付けられたらしいです。

 

「土岐門」跡内側から(下の方に「一の門」上の番所跡が見える) ↓

 

「土岐門」に続く第三の門が「追手門」で、手前には「畳橋」が空堀の上にL字型で架かり、その奥には「三重櫓」が睨みを利かせていました。「三重櫓」は、城内最大の建造物で、天守代用として、城下からも見えるような位置に置かれていました。

 

現在「畳橋」跡は道になっていますが、「追手門」跡の石垣や「三重櫓」の櫓台、「空堀」の一部は残されています。

 

「畳橋」解説 ↓

「追手門」跡と「畳橋」跡 ↓

三重櫓台 ↓

三重櫓台 ↓

 

ここを抜けると、両側の曲輪の間に真っすぐな道が延びていて、左側は「八幡曲輪」、右側には「竜神の井戸」を持つ大きな「曲輪」があります。

 

真っすぐな道の左側は「八幡曲輪」右側は「霧の井」がある曲輪 ↓

 

特に、右側の更に上段の曲輪内には、「霧ケ井(きりがい)」という城主専用の霊泉があって、敵が攻めてきた時に蛇骨を投げ入れると霧に覆われて城を守るという伝説がある井戸です。「霧ケ城」とも言われる当城名は、そこから付けられたもので、現在も、前述の「竜神の井戸」とともに健在です。

 

「霧ケ井(きりがい)」という城主専用の霊泉 ↓

 

左手の「八幡曲輪」も広く、その最奥部には「遠山氏」が崇敬していた「八幡神社」が造営されて「本殿・拝殿」と「八幡櫓」が建っていました。現在は、曲輪を囲う石垣と「八幡社」へ上がる階段が残る程度です。 

 

「八幡曲輪」内の「八幡神社」跡 ↓

「八幡曲輪」の石垣の算木積み ↓

 

<二の丸、東曲輪>

その斜め右手に拡がる曲輪が、城内最大の曲輪の「二の丸」で、番所、役人詰所、朱印蔵、武器庫、米蔵等が並んでいて、その中心部には「弁天池」が掘られていました。しかし現在は、木々に覆われて中まで入ることができない状態です。

 

「二の丸」より一段高い曲輪の角には「菱櫓」が建てられていました。ここは、敷地の角地ですが地形が方形となっていないことから、地形に併せて角度が90度を超えて拡がっています。

 

「菱櫓」台跡(丸みを帯びている、奥に「六段壁」が見える) ↓

 

この前には、二重櫓門の「俄坂(にわかさか)門」が建っていて、戦国時代までは「岩村城」の正門だったようですが、現在は、そこからの下り道の跡が見られる程度で石垣等もみることはできませんでした。

 

「俄坂門」跡 ↓

 

さて「岩村城」の最大の見せ場である「六段壁」が真前に鎮座しています。見事なまでの段々で、元々は高石垣であったものが、江戸時代後期に石垣の崩落を防ぐために下段へ石垣を継ぎ足し、継ぎ足しを繰り返した結果出来た石段だそうです。

 

真正面からの「六段壁」 ↓

やや下から見上げた「六段壁」(左下には巨石) ↓

「東曲輪」後横から見上げた「六段壁」 ↓

「六段壁」ですが「七段壁」に見える(一番上は本丸「埋門」の門台か?) ↓

 

階段を上がり左手に拡がる「東曲輪」に上がると、そこは「本丸長局」の一段下にあたり、「本丸」に対する外枡形的機能を持たせていて、「二重櫓」が建っていました。現在は広場です。

 

「東曲輪」跡(南方向から) ↓

「東曲輪」跡から撮った「本丸長局埋門(ながつぼねうずみもん)」跡 ↓

 

<本丸>

「本丸長局埋門」は、「東曲輪」から「本丸長局=本丸下段」に入る門です。「本丸長局」とは、「本丸」の一部としての位置づけで一段下の曲輪(本丸下段)であって、細長い帯曲輪的に「本丸上段」を取り囲んでいました。そして「本丸長局」から「本丸」へ入る門は三か所設けられていました。

 

長局埋門(真ん中が帯曲輪の「長局」跡、右側が「本丸上段」跡の石垣) ↓

 

三か所の門の内、東側にある「東口門」が「本丸」の表門(正門)で、内枡形となっていています。絵図では、右側の石垣上は土塀が、左側の石垣上には左方向へ「多聞櫓」が延びていました。そして左に折れた先には、現在「礎石」が見られます。「東口門」は、「長局埋門」とセットで見るべきなのかもしれませんが、ここでは別モノとして記載します。

 

「本丸東口門」跡(内枡形で「長局」から「本丸」への入口) ↓

「本丸東口門」跡の礎石と奥が「本丸」跡 ↓

 

そして「本丸」の裏門にあたる門が、北側にある「埋門」でこちらは外枡形となっています。非常に複雑な構造です。現在も、良く石垣や礎石が残り、特に「野面積み」「打込接」「切込接」の三種の積み方の異なる石垣が見られる貴重な場所となっています。

 

「本丸裏門」にあたる埋門(ここが出口、奥の石垣は「打込接」か、左側の櫓台の左面は「野面積み」) ↓

「本丸裏門」にあたる「埋門」の礎石 ↓

「本丸裏門」(折れ曲って右へ下りる、正面の石垣は「切込接」のように見える) ↓

 

「本丸」は、結構広大で中心部分には建造物がなかったそうですが、北西隅に二重の「納戸櫓」が、南西隅には「二重櫓」がそれぞれ置かれ、西側と東側には「多聞櫓」が築かれていました。また、東南隅には「昇龍の井戸」が掘られ、岩村城内には17もの井戸が確保されていました。現在は、各櫓と多聞櫓跡の石垣が残り、「昇龍の井戸」も水を湛えています。

 

本丸絵図 ↓

「本丸」跡 ↓

本丸北西隅の「納戸櫓」跡 ↓

「本丸」跡南東隅にある「昇龍の井戸」 ↓

 

「本丸」跡東西からは遠くまで見渡すことができます。特に「本丸」西側から見下ろす、或いは見上げる絶壁の険しさには凄いものがあります。

 

「本丸」跡から城下を見る ↓

「本丸」跡の断崖絶壁の西面石垣 ↓

「本丸」跡の断崖絶壁の西面の「鉢巻・腰巻石垣」 ↓

 

<出丸、南曲輪>

「本丸」の南東には「出丸」曲輪があり、こちらには「二重櫓」の他に「太鼓櫓」や「武者隠多門」等が置かれていたようです。現在は、駐車場と管理事務所のような建造物が建ちます。

 

「出丸」跡 ↓

 

「本丸」跡の南下を現在は通り抜けするような道路が有りますが、その道越しに「南曲輪」が配置されていました。「南曲輪」は、戦国時代の曲輪で、江戸時代には一部武家屋敷として使用されていたようです。現在の「南曲輪」跡は、二か所の堀切、竪堀等が存在しているようで、手前に「堀切」が見えます。

 

「南曲輪」跡の「堀切」 ↓

 

山上の山城から一気に下山して「藩邸」跡まで下ります。そこから、今度は「重要伝統的建造物保存地区」である城下の「岩村町」を紹介したいと思います。この城下には「岩村城」の遺構も残っていますので次回ブログにご期待ください。

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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戦国時代に京文化をふんだんに採り入れた城下の中心一乗谷城朝倉氏館

福井県福井市一乗谷

城主と歴史

「一乗谷城朝倉氏館」は、「朝倉義景」の居館であり、「お城」でありながら「京」文化をふんだんに採り入れたと言われています。そして、現在は発掘調査に基づいて、城下町の再現が行われています。

 

「朝倉家」は、源平以前からの天皇家から分かれた家系の豪族でした。1471年には7代目の「敏景」が越前守護職となって一乗谷に本拠を移しました。この一乗谷の中心となったのが当主「朝倉家」の居館でしたが、その背後には「一乗谷城」という詰城も築かれました。

 

「応仁の乱」が始まると、「京」を逃れた公卿や高僧、文化人が多く滞在して「北ノ京」とも呼ばれる程になり越前の中心地となりました。

 

9代「貞景」の時には、10代足利将軍「義稙(よしたね)」が朝倉家を頼って一乗谷に流れてきて、「朝倉義貞」の協力を得て将軍職に復職しています。

 

その後、13代将軍「足利義輝」の弟であり、当時は「一条院覚慶(かくけい)」という還俗した僧で、後の15代将軍「足利義秋(義昭)」が亡命してきましたが、その時は11代「朝倉義景」は「義秋(義昭)」の上洛を支える為の行動は起こさなかったことから、業を煮やした「義秋(義昭)」は「信長」に頼ることになるのです。

 

その結果1568年には、「信長」が「義昭」を奉じて上洛することになります。しかし、5年後の1673年には「信長」配下の「柴田勝家」を先鋒とする「信長軍」によって火をかけられて「一乗谷城」は焼失してしまいました。そして「朝倉義景」は、「越前大野」に逃げ込みますが、そこで自刃して「朝倉家」は滅びます。

 

お城の概要と特徴

<お城の構成>

「一乗谷城」は、「朝倉家」やその家臣達が居住していた「朝倉氏館」と「城下町」、そして詰城である中世山城であった「一乗谷城」で構成されています。

 

今回はその「朝倉氏館」を中心とした城下町を写真で紹介していきたいと思います。「一乗谷朝倉氏館」遺跡は、全国でも有数な規模を誇る戦国時代の城下町遺跡と言われています。

 

城下町の入口である「下城戸(しもきど)」跡から、一番南側の「上城戸(かみきど)」跡まで約2㎞弱あり、一乗谷川に沿った細長い谷エリアに、武家屋敷やその庭園、町家、寺院が所狭しと当時は並んでいました。

 

これが、発掘調査によって顕わとなり、現在では「平面復元地区」と「朝倉館跡」、「諏訪館跡庭園」、「立体復元地区」で復元建造物や平面表示で当時の概略がわかるようになっています。

 

配置図(小学館「名城を行く」から) ↓

 

<城戸>

JR福井駅から出ているJR「越美(えつみ)北線」の「一乗谷駅」を下車して南に向かって進みますと、まず現われるのが「下城戸」跡の巨石です。

「下城戸」は枡形になっています。城下町の北面を守る防御施設で土塁と巨石を組み合わせています。現在は、2~3段積みの巨石とその手前に堀の一部があります。

 

下城戸前の堀の一部 ↓

下城戸跡 (桝形の城戸口で巨石使用) ↓

「下城戸」跡の巨石 ↓

下城戸の土塁跡 ↓

 

<平面復元地区>

城戸内に入りますと、城下町の「平面復元地区」が拡がります。そこには、平面表示が施されてあり、発掘遺跡から想定される職業等の表示もされています。各区画には「井戸」が設備として施されていてライフラインが充実していたことが窺えます。

 

「平面復元地区」(四角のモノは「井戸」) ↓

「平面復元地区」 ↓

「平面復元地区」 ↓

 

そこから、もう少し進んだ所に「雲正寺(うんしょうじ)平面復元地区」がありますが、こちらは奥深く入り込んだ谷に延び多くの家が建て込んでいたようです。お墓や五輪塔が出てきたので「雲正寺院跡」ということらしいです。

 

平面復元地区 (雲正寺地区の絵図) ↓

 

この谷の入口付近の高台には「月見櫓」跡があり、当時はこの場所から月を愛でて優雅な時間を過ごしていたのでしょう。

 

月見櫓跡 ↓

 

<立体復元街並み地区>

発掘調査で戦国時代の城下町の具体例が判明したことから、「復元街並み」がかなりのスペースで再現されています。

 

復元街並(諏訪館庭園跡から臨む) ↓

 

土壁の土塀が曲線を描いて続き、藍染めをしていた紺屋等の「町家」が数軒再現され内部まで見学できます。

 

復元の町家と街並み ↓

復元の町家 ↓

復元の町家 ↓

紺屋の「町家」 ↓

 

更に街並みを歩きますと「武家屋敷の武家門」があり、門を入ると板蔵、納屋、井戸、厠でもが、発掘調査に基づいた配置で再現され、復元武家屋敷主殿や台所の内部にはその当時の雰囲気を出した人形迄置かれています。この中世の復元城下町は、ドラマや映画のロケでも良く使用されているようです。

 

復元「武家屋敷門」 ↓

武家屋敷敷地内の板蔵、納屋、井戸 ↓

武家屋敷敷地内の厠 ↓

武家屋敷台所 ↓

武家屋敷主殿 ↓

 

<朝倉館跡、親族の御殿・庭園跡>

復元街並みの東側にあるのが、「朝倉館跡」地で「一乗山」を背にして三方を堀と土塁で巡らせています。この正面に建つ「唐破風」が特徴の「唐門」は、「朝倉氏館」を紹介する写真には必ず掲載されている門です。

 

ただこの「唐門」は、「朝倉氏館」当時の門ではなくて「松雲院(しょううんいん)」の門が江戸時代に移築れたそうです。

 

朝倉氏館と唐門 ↓

唐門正面から ↓

唐門裏側から ↓

唐門(横から) ↓

朝倉氏館の土塁 ↓

朝倉氏館の土塁と堀 ↓

朝倉氏館の櫓台 ↓

 

敷地内には、「常御殿」等の建物の礎石群が露出展示され、庭園跡やその脇には「朝倉義景の墓」も立ちます。ただ、「義景」の墓は、「越前大野城」下にもあり、そちらの方は自刃した近くにある本当の墓のようで立派です。

 

常御殿の平面図 ↓

朝倉氏館の敷地内 ↓

朝倉氏館庭園 ↓

朝倉義景の墓 ↓

越前大野城下にある朝倉義景墓 ↓

 

「朝倉氏館」から少し山肌に沿って「湯殿跡庭園」「中の御殿跡」「諏訪館跡庭園」が南方向に並んでいます。

 

特に、「諏訪館跡庭園」は、「義景」の妻「小少将(こしょうじょう)」の館の庭園で、上下ニ段構成で、上段の庭園は下段への水を誘導する機能を兼ねて優雅な曲水を描いています。また、石も古びた感じが残っています。「中の御殿」跡は、「義景」の母「光徳院」の屋敷跡と言われています。

 

諏訪館跡庭園 ↓

諏訪館跡庭園 ↓

中の御殿跡 ↓

 

<上城戸>

そこから「一乗谷川」に沿って南下した所に、南側からの城門であった「上城戸(かみきど)」の盛土が見えます。近くから見ると、土塁ですが石段があり上に上がれるようになっていますが、下部は石積みとなっています。

 

上城戸の土塁(北から) ↓

上城戸の土塁(南から) ↓

上城戸の石段 ↓

上城戸の石積み ↓

 

「一乗谷城」は、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」で、「明智光秀」が初めて仕官した「朝倉義景」のお城として一躍テレビでも取り上げられたりしましたね。

 

「明智光秀」は、「朝倉義景」に仕官したことによって、この文化度の高いお城近くに居住し、城内でも仕事をしたと思われますので、自然と「京」の知識・文化・仕来り(しきたり)等をここのお城で身に着け、その後の仕事の拡がりに役だったのではないかと思います。

 

 

 

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「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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日本最古級の二重天守が残る古風な「丸岡城

福井県坂井市丸岡町

城主と歴史

「丸岡城」は、「柴田勝家」の甥の「勝豊」が築城し、その後「柴田勝家」が「北ノ庄城」で滅ぼされた後は「丹羽長秀」の所領となり城代が置かれ、更には「福井城」に移封となった「結城秀康」の所領となり、後に付家老の「本多成重」が城主となります。

 

「丸岡城」天守の階段下にある碑に刻まれた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が、日本で最も短い手紙であることで有名ですが、その手紙の中に書かれている「お仙」が「本多成重」の幼名で、父親の「本多重次」が長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られています。


 一筆啓上碑「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 ↓

 

「本多家」のお家騒動があり、その後1695年に「有馬家」が入り、その後は幕末までこの地を統治することになります。

 

「有馬家」といえば、キリシタン大名のイメージが強いです。古くから島原半島で勢力を拡大していて、「有馬晴信」は貿易で富を築き、「龍造寺家」から独立して「豊臣秀吉」からは所領を安堵されました。

 

「関ケ原の合戦」では、中立を保ったことから本領を安堵されましたが、その後の幕府のキリシタンに対する圧政の中で、長崎奉行の暗殺計画を企てたとの罪で、「有馬晴信」は切腹を命じられ「有馬家」はお家断絶となりました。

 

しかし、「有馬晴信」の嫡子「直純」の妻は、「徳川家康」の養女ということからお家再興が叶い、領地もキリシタンの多い島原から延岡に移してもらい、更に「有馬清純」を始祖とする「有馬家」は「糸魚川」を経由して「丸岡」に移封となります。

 

天守(二重三階望楼型、南東から)  ↓

本丸復元絵図 (天守入口の資料館掲出) ↓

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

「丸岡城」は、不等辺多角形の独立丘陵上に「本丸」を置いた平山城で、天守の周囲を「腰曲輪」で取り巻いていました。

 

「本丸」北側には「二の丸」を配置し、「二の丸」東側に「東の丸」、西側には「西の丸」を置きました。そして、以上の曲輪を取巻く「内堀」があり一部幅が広い所がありました。

 

「内堀」外側は「三の丸」で「外堀」と堀を代用する川が囲っていました。

 

本丸古地図(不等辺五角形の内掘)(天守入口の資料館に掲出) ↓

 

<天守と本丸>

「天守」は、本年(2026年)3月から2027年11月(予定)にかけて保存修理工事が行われていますので、「天守」への入場はできません。

 

重要文化財の「天守」の特徴は、二重三階の独立式望楼型で下見板張り、出格子・破風・狭間から細部に採光されます。一階には、雨水が城内部に侵入しないように「腰屋根」を設け、「出格子」が石落としの役割も担っていました。

 

天守(重要文化財) ↓

天守(西より) ↓

下見板張と腰屋根(水切り屋根) ↓

天守1階出格子出窓 ↓

突上戸の格子窓と格子出窓 ↓

 

上階へ上る階段は、非常に急角度で、現在は上り用としてロープが設けられています。二階は、入母屋の屋根裏となり、三階には廻縁を付けていますが外に出て望楼を楽しむ為のものではなく、格式をあげるための装飾として付けられているだけです。

 

2階切妻屋根の出部屋 ↓

1階の格子窓 ↓

1階入側 ↓

3階(階段にロープ) ↓

 

屋根は、近辺で取れる「忽谷(しゃくだに)石」で吹かれた石瓦で寒暖差の大きい土地特有の葺き方で、天守台の脇には以前使用していた石の鯱が置かれています。昭和23年に発生した福井地震で天守が倒壊したのは、一つにはこの重い石瓦が原因であったとも言われています。

 

高欄廻縁と石瓦  ↓

天守高欄廻縁(出られない) ↓

石瓦の鯱鉾 ↓

昭和23年福井大震災で倒壊した天守(資料館掲出の写真) ↓


「野面積み」石垣が積みあがった「本丸」跡は、上下段あって現在は芝生が植えこまれています。

 

本丸内 ↓

西面野面積みの本丸跡石垣 ↓ 

本丸下の曲輪 ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は、「本丸」の北側に置かれ「二の丸御殿」が建てられていて「大手門」が西側に置かれていました。「二の丸」の東側には「東の丸」を配置し「裏門」をこちらに置きました。 

 

二の丸跡 ↓

裏門跡付近 ↓

 

「本丸」「二の丸」「東の丸」を取り巻く「内堀」は、最大幅90mもある五角形の水堀でした。現在は完全に埋め立てられていますが、それが道路になっているので、凡その輪郭がわかります。

 

内掘跡(現駐車場) ↓

 

<三の丸>

更には、その周辺に「三の丸」を置き、外側には二重、三重と堀があり、更に東側では「田島川」も利用しながらの一部四重堀となっていて、水堀で防備を行っていました。

 

外堀代わりの田島川 ↓

  

周辺には、数か所の門が置かれていましたが、現在は各門があった場所を示す「標識」だけがあり、門があった跡は殆ど見ることができません。

 

里丸岡口門跡碑 ↓

福井口門跡(手前は外堀跡の田島川) ↓

南三の丸と平章館跡  ↓

切支丹灯籠 ↓

 

<城下>

城下には、藩主であった「本多家」歴代の墓が「本光院」に、「本多家」の後に藩主となった「有馬直純」と直純の室「日向御膳」の墓は「白道寺」に並んでいます。

 

本多家歴代墓(本光院) ↓

有馬直純と直純の室日向御膳の墓(白道寺) 

 

城郭建造物は、「天守」しか現存していませんが、丘の上の古風な姿を眺めると、地震後に復元されてよくぞ今まで持ちこたえてくれたなーと思うことしきりであります。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

重文”三十間長屋”、戸室石が美しい玉泉院丸、黒漆喰海鼠壁の鼠多門「金沢城(2)

石川県金沢市

城主と歴史、立地と縄張り

前編「金沢」で、記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

お城の概要と特徴

<本丸付壇>

「本丸」跡の遊歩道を進んでいくと、「本丸付壇」の入口に「鉄門(くろがねもん)」跡があります。この石垣は「切込接・布積み」の櫓台です。

 

鉄門跡 ↓

 

ここでちょっと「金沢城」の「天守」に触れておきます。

1602年に「天守」が焼失したとの記録はありますが、往時の姿は不明です。その後、城のシンボルとして「三階御櫓」が三重五階の望楼型で建てられました。白漆喰の壁で1重目は海鼠壁を施し、一重目と二重目の大屋根には曲線を描いた唐破風造りの「出窓」を設けていましたので、今まで見てきた「二の丸菱櫓」のようだったかもしれません。

 

場所は、現在の「三十間長屋」の南側に建っていましたが1759年に焼失して以降再建はされませんでした。

 

天守代用の「三階御櫓之図」 ↓

 

その「三十間長屋」は、現存で重要文化財に指定されています。切込ハギの種類の「切石積み」と呼ばれ、4~5段の美しい石垣上に、「鉛瓦」で「海鼠壁」の二重長屋が建てられていて、内側は「格子窓」と入口が並びますが、「玉泉院丸」側には格式高い「唐破風」や「入母屋破風」を付けた「出窓」が三つも並んでいます。

 

三十間長屋 (鉛瓦、海鼠壁) ↓

三十間長屋(海鼠壁と出入口) ↓

三十間長屋 (海鼠壁、出窓あり) ↓

 

「本丸付壇」から坂道を登った所には「二の丸」に続く「坂門」跡があり、「極楽橋」を渡ると二の丸跡へ戻ります。「二の丸」と「本丸付壇」の間には「堀切」のような空堀が掘られています。

 

本丸付壇(左)と二の丸の間の空堀 ↓

 

<玉泉院丸>

「三十間長屋」の裏から覗き込んだ「玉泉院丸」は、回遊式庭園の復元と御殿風の建物が建築されています。

 

「玉泉院丸」は、初代藩主「前田利長」の正室「玉泉院」が晩年過ごした場所で、死後は庭園になりました。因みに「玉泉院」は、織田信長の四女「永姫(えいひめ)」のことです。

 

庭園の壁面には、この周辺土地から算出される「戸室石」による「色紙短冊積石垣」が復元されていて、長方形や正方形などの短冊に模したカラフルな色の石を積み上げた光景には、さすが前田100万石!と絶賛せざるを得ないです。 

 

玉泉院丸庭園の玉泉庵(三十間長屋 より見下ろす) ↓

復元玉泉院丸庭園 ↓

戸室石の色紙短冊積石垣(玉泉院丸庭園内) ↓

戸室石の色紙短冊積石垣(玉泉院丸庭園内) ↓

 

現在の「玉泉院丸」には模擬「御殿」が建っていて、その入口には「鼠(ねずみ)多門」と呼ばれる立派な二重櫓門が復元されています。

 

「海鼠壁」の目地に「黒漆喰」を使用していることが特徴の「鼠多門」と、 城内最大規模の木橋「鼠多門橋」が、明治期に失われて以来約140年ぶりに復元整備され、2020年7月に往時の姿が甦りました。 

 

鼠多門(玉泉院丸)と二の丸御殿の古写真-金沢城内掲出分 ↓

古写真の鼠多門(玉泉院丸)と鼠多門橋 ↓

木造復元「鼠多門」と「鼠多門橋」 ↓

木造復元「鼠多門」(玉泉院丸内から) ↓

復元「鼠多門」の丸瓦に前田家家紋「梅鉢紋」 ↓

復元「鼠多門」の黒漆喰海鼠壁 ↓

復元「鼠多門」1階 ↓

復元「鼠多門」2階 ↓

 

「玉泉院丸」から坂を上る壁面には、金沢城で唯一黒色の「坪野石」を使用した石垣があります。「玉泉院丸」の中で見てきたカラフルな色から一転した黒色は、良く引き立ちます。

 

金沢城で唯一黒色の坪野石を使用 ↓

 

<数寄屋屋敷>

そして登り切った所に藩主の側室が住んでいた「数寄屋屋敷」がありましたが、そこの石垣は、直方体に切られた「切石積み」(切込ハギの一種)の「布積」で見栄えが凄く素敵です。

 

数寄屋敷石垣(奥方が居住した数寄屋周辺で、切石積み)

 

跡地には「旧第六旅団司令部」が明治31年に置いた木造平屋建て建造物が建ちます。その正面には、現存の「切手門」が建っています。

 

現存「切手門」、奥に見えるのが「旧第六旅団司令部」建物 ↓

 

「切手門」を潜ると、「二の丸」の裏側にあった「二の丸裏門」跡に出ます。そして、その横から「二の丸菱櫓」まで堀が設けられています。

 

「二の丸裏口門」跡 ↓

 

左側には「北の丸」と「三の丸」を結ぶ土橋に面していたので「土橋門」の名がつけられた門跡の石垣があります。「土橋門」の「切石積み(切込ハギ)」の中には、「亀甲積み」の箇所があり、水に親しむ「亀」を置くことにより防火の願いを込めていたそうです。

 

「土橋門」跡 ↓

「土橋門」石垣(亀甲形石垣が組み込まれている) ↓

 

<新丸>

「新丸」は、元々は町人の住まいや寺院が建っていた場所でしたが、お城の拡張に伴い、「大手門」から「二の丸」へ入る曲輪として整備されました。

 

現在は広大な広場になっていて、「新丸」から見上げる「二の丸」跡に復元された「菱櫓」が美しく映えます。

 

新丸全景(土橋門跡付近から)​ ↓​​​​​​

新丸から望む「二の丸菱櫓」 ↓

 

「新丸」の広い広場を横切ると、「大手門(尾坂門)」跡の石垣群に行き当たります。ここには、かなり立派な櫓門が建っていたのだろうと思われる程の石垣が並びますが、実際は「棟門」が建てられていただけでした。

 

そして、丁度下から登ってくる正面には「鏡石」が据えられています。この門の制作にあたっては、「前田利家」が在住の頃に居候をしていた「高山右近」の指導によって、「大手門」をこの「尾坂門」に移したと言われています。

 

「大手門(尾坂門)」跡石垣(大きな石垣であるが、櫓門の設置はなく棟門だけ)

「大手門(尾坂門)」跡石垣の鏡石

 

「大手門」前には、「大手堀」が横たわり、「腰巻石垣」が見られます。そして、「大手堀」のもう一方の端と尾崎神社の間には「黒門」が置かれていて、その跡の石垣が見られます。 

 

大手堀と腰巻石垣 ↓

「黒門」跡 ↓

 

「尾崎神社」の拝殿は、元は「北の丸」に建てられていた「東照宮」が移築されたもので重要文化財に指定されています。

 

「東照宮」って各所で聞かれたことがあると思います。「東照大権現」たる「徳川家康」を祀った神社であって、江戸時代には全国で約500社建てられ、現存しているのが約130社あると言われています。

 

「東照宮」(重文、現尾崎神社拝殿) ↓

 

この他、前述の「鼠多門橋」を渡った敷地が「金谷口丸」跡で、現在は前田家の藩祖「前田利家」と正室「お松の方」を祀る「尾山神社」の敷地となっています。その敷地内には「金沢城」の「二の丸御殿唐門」が移築されています。

 

「尾山神社」 ↓

移築された「二の丸御殿唐門」 (現 尾山神社山門) ↓

 

また「尾山神社」の神門は、洋風建築を模した「擬洋風建築」で中国風が混ざっていて、竜宮城のような雰囲気です。

 

「尾山神社」の神門は、洋風建築を模した「擬洋風建築」 ↓

 

また、「犀川」を渡った所にある「中村神社」には、「二の丸能舞台」が拝殿として移築されていますので、足を延ばして見学することをお薦めします。

 

「二の丸能舞台」(現 中村神社拝殿) ↓

 

日本三大名園と言われている「兼六園」は、「金沢城」の出城的な位置づけで作られたものです。今回は、「兼六園」の特徴的な写真の掲載だけをして、その他は割愛したいと思います。

 

徽軫灯籠(ことじとうろう)と霞ケ池  ↓

霞ケ池と蓬莱島  ↓

唐崎の松(13代藩主「斉泰」が琵琶湖の唐崎から松の種を取り寄せる)  ↓

雁行橋(一枚一枚が亀の甲をしている、赤戸室石を鴈が列をなして飛ぶ姿を描く)  ↓

栄螺(さざえ)山(霞ケ池を掘った土でできた山、らせん状の道が栄螺に似ているのでこの名前が付いた) ↓

兼六園内の辰巳用水(1632年に堀の水や防火用水用として11km先の犀川から引いた)  ↓

重文 成巽閣(せいそんかく) (1863年に前田斉泰の母真龍院の隠居所として竹沢御殿跡の一隅に造営された)  ↓

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。


今日のお話ですが、先週の冒頭で「有岡城主」の「荒木村重」の所へ「小寺(黒田)官兵衛」が説得する為に単独で「有岡城」へ乗り込むと捕らわれの身となってしまい、約1年が経過してしまいました。

 

「織田軍」は「摂津攻め」と並行して「官兵衛」を助けるべく「有岡城」を攻めますが膠着状態が続きます。こんな中「羽柴秀長(小一郎)」は調略によって「村重」の奥方から説得させて、いよいよ「村重」は投降を決意しますが、家族や家臣達を置いたまま密かに「有岡城」を抜け出して単独で逃げることに成功しました。

 

その結果、「織田信長」の命で、「村重」の奥方を始め一族が打ち首、張付けとなっていまい、「小一郎」は心を痛めます。そして「小寺(黒田)官兵衛」は足を痛めたものの助け出されました。

 

一方「秀吉」は、「竹中半兵衛」が「三木城」攻城中に病没してしまいます(先週のお話)が、「三木城」を兵糧攻めによって城主「別所長治」を切腹に導き開城させることに成功します。

 

ということで、今回は「荒木村重」の居城有岡城」(兵庫県伊丹市と、番組最後の現地紹介で放映されていた「小寺氏」の御着城」(兵庫県姫路城)を、過去に掲載したブログの中からピックアップしましたので、どうぞご覧ください。また、姫路城の中における「小寺官兵衛・羽柴秀吉」時代の石垣の写真も掲載しました。

 

先日のブログでも掲載しましたが、一昨日(6/19)から「有岡城」を舞台に、「荒木村重」と「黒田官兵衛」を中心に戦国時代におけるミステリー超大作の映画「黒牢城」が封切りされています。

 

タイミングバッチリの映画でもあるし、俳優も「荒木村重」は「本木雅弘」、その妻「千代保(テレビでは「だし」)」は「吉高由里子」、「黒田官兵衛」には「菅田将暉」等の豪華キャストということもあって、是非鑑賞したいと思っています。

 

 

 

 

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