あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。

塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

また、「供侍(ともざむらい」「馬見所」等の特殊なモノもどうぞご覧ください。

お城の「歴史」や「城主(藩主)」、「立地」や「縄張り」については、今までに掲載してきた投稿をリンクしておきますのでどうぞご覧ください。

 

本日は「松本城」(長野県松本市)です。「日本100名城」に選定され、「天守群」は国宝に指定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

               ↓

城内の城郭建造物は、前述のように国宝の「天守群(大天守・小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓)」、現存の「二の丸金蔵」、復興の「黒門(高麗門・渡櫓門)」、復興の「太鼓門(高麗門・渡櫓門)」が建っています。
 
国宝「天守群」 ↓
 
今回の「その他の城郭建造物」は、上記の「黒門」「太鼓門」の枡形を構成する「土塀」、及び「本丸」と「二の丸」、「二の丸」と「三の丸」を繋ぐ「橋」をお届けします。
 
城内案内図(赤丸は下記掲載の土塀と橋の場所) ↓
 
まず1960年、1990年に復興された「黒門」の「桝形」を形成する「土塀」ですが、「天守群」と同様の「下見板張り」で「鉄砲狭間」と「矢狭間」が交互に設えています。桝形内から見ると、前面白壁で「控柱」が並び支えています。
 
復興「黒門」の「桝形」を形成する「土塀」 ↓
復興「黒門」の「桝形」を形成する「土塀」 ↓
復興「黒門」の「桝形」を形成する「土塀」(枡形内から) ↓
復興「黒門」の「桝形」を形成する「土塀」(枡形内から) ↓
 
次に1999年に復興された「太鼓門」の「桝形」を形成する「土塀」は、「黒門」の「桝形」と全く同形式となっています。ただ、北側の「太鼓楼」が置かれていた所が一段高くなっているので正面から見ると「土塀」が一段上に見えます。
 
復興「太鼓門」の「桝形」を形成する「土塀」 ↓
復興「太鼓門」の「桝形」を形成する「土塀」(右側は「太鼓楼」が置かれた場所) ↓
復興「太鼓門」の「桝形」を形成する「土塀」(枡形内から) ↓
 
続いて「橋」ですが、「本丸」と「二の丸」西側との間を繋ぐ「内堀」に架かる朱色の「埋(うずみ)橋」は、中央途中で折れ曲がった「折長橋」になっている橋です。黒い「天守群」と「朱色」のコントラストが美しく見える効果を果たしています。現在は、老朽化の為通行禁止となっています。
 
ただ「埋橋」は1930年に架けられた橋で、江戸時代にはこのような橋はなく、堀の中に塀を築き、敵の移動を妨げる「足駄(あしだ)塀」があったそうです。
 
朱色の「埋橋」と黒色の「天守群」 ↓
朱色の「埋橋」 ↓
「折長橋」の「埋橋」(天守から見下ろす) ↓
 
更に「二の丸」跡から「三の丸」跡に渡る木橋の「二の丸裏御門橋」が架かります。江戸時代からあった橋ですが現在は復元されたモノです。
 
木橋の「二の丸裏御門橋」(「二の丸」跡方向) ↓
 
 
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塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「高島城」(長野県諏訪市高島)です。「続日本100名城」に選定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

               ↓

城内には、復元「天守」を始め、復興「二重隅(角)櫓」、櫓門型式の復興「冠木門」、「御川渡門」跡に移築された現存「三之丸御殿裏門」が建ちます。
 
復元「天守」と「城壁」 ↓
「御川渡門」跡に移築された現存「三之丸御殿裏門」 ↓
当時の城郭図(赤丸は下記掲載の城壁と橋) ↓
 
「その他城郭建造物」は、「天守」から「冠木門」「二重隅櫓」にかけて「本丸」跡の北側に復興「城壁土塀」が建ち、お城の雰囲気を一層強調しています。
 
「本丸」跡北側の復興「城壁土塀」 ↓
復興「冠木門」と復興「城壁土塀」 ↓
復興「二重隅(角)櫓」と復興「城壁土塀」 ↓
 
復興「城壁土塀」は、「天守」等の城郭建造物の外観と同形式・同色の「下見板張り」が施されていますので、凄く一体感が図れています。また、屋根は「銅板」、壁は白漆喰部分は少なく、下見板張り部分に「狭間」を設けています。
 
屋根は「銅板」、「下見板張り」部分に「狭間」 ↓
 
また、「冠木門」前の「内堀」に架かる橋が「冠木(かぶき)橋」で、殆どが木で造られた「木橋」です。
 
木橋の「冠木橋」 ↓
 
 
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」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「松代城」(長野県長野市松代)です。「日本100名城」に選定されています。

                

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               ↓

城内の城郭建造物は、色々と復元されています。
 
それは、本丸南側の本丸大手の場所に「櫓門」と「高麗門」で形成する「内枡形」の2004年に復元した「太鼓門(厳密には高麗門は「橋詰門」と呼ぶ)と、北側の搦手に当たる場所には「櫓門」と「高麗門」で形成する「外枡形」の復元「北不明門」が建ちます。
 
復元「太鼓門」 ↓
復元「北不明門」 ↓
 
そして今回の「その他城郭建造物」は、この各々の枡形を形成する「土塀」と内堀に架かる「橋」を紹介します。
 
現在の縄張り図(赤丸は、下記掲載の土塀、橋の場所) ↓

 
「太鼓門」の「内桝形」を形成する前面の「土塀」 ↓
「太鼓門」の「内桝形」を形成する前面の「土塀」 ↓
「太鼓門」前面の「土塀」(「栩葺」屋根、木枠「狭間」、枡形内から) ↓
 
 
 
また、「本丸」跡の東側の「東不明門」は復元されていませんが、その東内堀に架かる「東不明門前橋」も木橋で復元されています。
 
木橋で復元の「東不明門前橋」 ↓
木橋で復元の「東不明門前橋」 ↓
 
それから、江戸時代には主郭南側にあった「三の丸」「三の堀」の南越しに1864年に建てられた「真田邸(新御殿)」が現在も建っていますが、その「表門」「南長屋」から続く白壁の「長塀」が見られ、城下町の雰囲気を醸し出しています。
 
当時の縄張り図CG(赤丸は、下記掲載の土塀の場所) ↓
「真田邸」の白壁「土塀」 ↓
「真田邸」の白壁「土塀」 ↓
 
 
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」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「上田城」(長野県上田市)です。「日本100名城」に選定されています。

                

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城内に建つ「城郭建造物」は、現存で県宝の「北櫓」「南櫓」「西櫓」そして「武器庫」、更には「北櫓」と「南櫓」の間には1993年に復元された「東虎口櫓門」があります。
 
現存で県宝「西櫓」 ↓
城下絵図(赤丸は下記掲載の「土塀」の場所) ↓
 
その両櫓と復元「東虎口櫓門」を繋ぐ「土塀」が両建造物と同じ形式の「下見板張り」で建ちます。「土塀」の「下見板張り」箇所には箱型の「狭間」が並びます。
 
現存で県宝「南櫓」と「土塀」 ↓
「土塀」と復元「東虎口櫓門」 ↓
「土塀」と現存の県宝「北櫓」 ↓
「土塀」、復元「東虎口櫓門」、県宝「北櫓」 ↓
 
主郭の南東に位置する「出城」的な位置づけで、江戸時代には「上田藩主居館」となっていた跡地には現在「上田高校」が建っていますが、その校門に使用されている薬医門形式の「居館門」と共に、前面を囲う「土塀」が現存していて上田市指定文化財になっています。
 
「土塀」の下部は、「腰巻石垣」の土塁上に、更に「落とし積み」の石垣上に建っていますが、江戸時代の藩主居館だけあって「鉄砲狭間」は設けられていません。
 
現存「上田藩主居館門」と「土塀」 ↓
「上田藩主居館」跡の「土塀」(「狭間」は見られない) ↓
「上田藩主居館」跡の「土塀」(「腰巻石垣」の土塁上の「落とし積み石垣」に築かれている)  ↓
 
 
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」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「甲府城」(山梨県甲府市)です。「日本100名城」に選定されています。

                

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               ↓

城内の「城郭建造物」は、重要文化財「大手門」と同「三の門」の他に「武器庫」が建っています。
 
重要文化財「大手門」 ↓
城内「懐古園」案内図(赤丸は下記掲載の「土塀」の場所) ↓
 
「その他城郭建造物」では、上記の「三の門」に繋がる「土塀」があります。わずかな長さですが、正面から向かって右側に白壁の「土塀」が延び、小さな「狭間」も設けられています。
 
重要文化財「三の門」から延びる「土塀」 ↓
重要文化財「三の門」から延びる「土塀」 ↓
「土塀」には小さな「鉄砲狭間」と「矢狭間」が付く ↓
城内側から見た重文「三の門」 ↓
 
 
 
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昨日の夕方、息子ファミリーが「紅葉のライトアップ」に連れてくれるとのことで車に便乗しました。

 

こんな時期に「紅葉?」と思いましたが、車は神戸市内の北部山中へ向かいました。

 

終日降っていた雨も小雨になったものの、ドライブウエイに上がって行く道は濃霧が酷く、前方から下りてくる車のライトも濃霧の奥から辛うじて差し込んでくる光で判るくらいの状況でしたので、ヒヤヒヤしながらの徐行運転をしていました。

 

着いた場所は「神戸市立森林公園」で、私は以前に、ここの「あじさい園」に来たことがあった場所でした。

 

 

駐車場に降りると、濃霧の先にはライトが見えます。

 

まずは、「正門」近くの「メタセコイア並木」。濃霧で幻想的な世界に浸ることができました。

 

 

 

 

ボンヤリと見える「メタセコイヤ」の両脇から、ライトアップされた光が差し込み、向こうからくる人の姿もボンヤリと現われます。

 

良く見ると「メタセコイヤ」は既に紅葉していて黄色の葉っぱが見えて、黄色一色の世界が拡がっていました。私達は、もう感動のピークに達していました。

 

 

こちらは帰り際で、濃霧もスッカリ無くなった映像です ↓

 

 

この後移動した先は、「森林展示園」、中には巨大な「メタセコイア」の輪切りが出迎えてくれ、六甲山地の動植物のはく製や生き物展示を観察しましたが、これだけ色々の動植物が生息しているのには驚きました。

 

 

出たところには、木々にイルミネーションが飾られ、「アジサイ」を描いた傘にライトアップしたりして演出がいいですね〜

 

 

孫ちゃんは傘を差してハイポーズ!

 

更に坂を下っていくと、「モミジ」も真っ赤に紅葉している木もあり、そうでない木々には赤や青や緑のライトアップが行われていたので、まだ残っている霧との相性が素晴らしいでした。

 

 

 

 

 

後から調べたのですが、この場所の標高が450mとのことでしたので、私達が住んでいる場所よりもはるかに高度であることから、紅葉も進んでいたのだと改めて知ることとなりました。

 

既に19時もだいぶ過ぎていて、特に孫達はお腹を空かせていたので、夕食を何処かでと探しながら走行していたら、「御影」で丁度うまく「神戸屋レストラン」を見つけて入ることが出来ました。

 

早くも「紅葉のライトアップ」を見ることができ、息子ファミリー達とも久々の会話が弾み、楽しいひと時を過ごせた夜でした。

 

 

 

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あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。

」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「甲府城」(山梨県甲府市)です。「日本100名城」に選定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

               ↓

「甲府城」内の城郭建造物は、順次復元が行われてきて「稲荷櫓」を始め、「鍛冶曲輪門」「稲荷曲輪門」「内松蔭門」が「舞鶴公園」内に建っています。更に、「甲府駅」北側広場の「清水曲輪」跡には「山手御門(高麗門・渡櫓門)」も復元されています。
 
「舞鶴城公園」案内図(赤丸は下記掲載の土塀、橋の場所を示す) ↓
 
「その他城郭建造物」は、まず「舞鶴城公園」内の南側「鍛冶曲輪」跡の「南堀」沿いに「城壁・土塀」が復元されています。白壁には□と△の「狭間」を設けています。また、城壁の裏側は、全て「控柱」で支えられています。
 
「鍛冶曲輪」跡の「南堀」沿いの復元「城壁・土塀」 ↓
 
現在「城壁・土塀」の間には、「舞鶴城公園」の南正面から「南堀」を渡って入る「遊亀(ゆうき)橋」が架かっていますが、江戸時代にはなかった橋です。明治時代に入り廃城となり多くの建造物が取り壊され、解体された建物の石材などを再利用して、1911年に現在の石造りの橋が架けられました。 
 
この橋脇には、橋名の「亀」を捉えて、「鶴」と「松」が飾られ一体感を出そうとしています。
 
「遊亀(ゆうき)橋」とそこから望む「天守台」 ↓
「遊亀橋」脇には「鶴」が舞う像が
 
次に、「舞鶴城公園」の南西入口となっている復元「鍛冶曲輪門」の両脇、及びその北側の「二の丸」跡の南側にも「城壁・城門」が再現されています。形は、前述の「鍛冶曲輪」跡の「南堀」沿いのモノと同様です。
 
復元「鍛冶曲輪門」両脇、及びその北側の「二の丸」跡の南側に建つ「城壁・城門」 ↓
「鍛冶曲輪門」脇の「城壁・土塀」の「控柱」 ↓
「鍛冶曲輪門」脇の「城壁・土塀」 ↓
 
「鍛冶曲輪」跡から一段が上がった所が「稲荷曲輪」跡ですが、北東隅に復元された「稲荷櫓」から東方向にかけて続く石垣上には「城壁・土塀」が続いていて、遠くからでもお城の雰囲気が感じられる建造物です。
 
復元「稲荷櫓」と「城壁・土塀」 ↓
復元「稲荷櫓」とそれに続く「稲荷曲輪」石垣上の「城壁・土塀」 ↓
「稲荷曲輪」北側の「城壁・土塀」(「控柱」が並ぶ) ↓
 
「舞鶴城公園」の北西入口となっている復元「内松蔭門」の門脇にも「城壁・土塀」が再現されています。
 
復元「内松蔭門」の門脇に建つ「城壁・土塀」 ↓
復元「内松蔭門」の門脇に建つ「城壁・土塀」 ↓
 
続いて「甲府駅」北側の「清水曲輪」跡に拡がる「甲府市歴史公園」には、復元「山手御門」が2007年に「高麗門」と「渡櫓門」が再建されています。その二つの門は「桝形」を形成していてその周囲を復元「土塀」が取り囲んでします。
 
復元「山手御門」の「桝形」を取囲む「城壁・土塀」 ↓
復元「山手御門」の「桝形」を取囲む「城壁・土塀」 ↓
復元「山手御門」の「桝形」を取囲む「城壁・土塀」 ↓
 
 
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」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「小田原城」(神奈川県小田原市)です。「日本100名城」に選定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

               ↓

 

城内の城郭建造物は数多く復元されていて、「天守」を始め「二の丸隅櫓」「常盤木(ときわぎ)門・多門櫓」「銅門・内仕切門」「馬出門・内冠木門」があります。

 

復元「天守」 ↓

復元「常盤木門」 ↓

城内案内図(赤丸は下記に掲載の「土塀」「橋」の場所) ↓

 

まず城内で見られる「その他城郭建造物」は、「三の丸」跡から「二の丸」跡の「小田原城址公園内」に架かる朱色の「学び橋」です。
 
「二の丸広場」に1992年まであった城内小学校への通学橋として利用されたことから命名されました。ただ、江戸時代には存在していない橋ですが、現在「擬宝珠」を付けた朱色の橋として小田原城のシンボル橋となっています。
 
「学び橋」(江戸時代には存在しなかった模擬「橋」、奥に見えるのが復元「隅櫓」) ↓ 
 
「三の丸」跡から「馬屋曲輪」跡に入る本来の登場路上に建つ2009年に復元された「馬出門」は「内冠木門」とによって枡形を形成していて、その枡形を取り囲む「土塀」が見られます
 
桝形内から見ると「土塁」上には△や□の「鉄砲狭間」や「矢狭間」が施された白壁の「土塀」が築かれ、裏側は「控柱」で支えています。
 
復元「馬出門」の枡形を囲う「土塀」 ↓
復元「馬出門」脇の「土塀」 ↓
「馬出門」と「内冠木門」よる枡形を取り囲む「土塀」(土塁上に建つ) ↓
「内冠木門」と「土塀」(「馬屋曲輪」側から見る) ↓
 
「馬屋曲輪」跡から「二の丸」跡へは、復元「住吉橋」を渡り復元「銅門(あかがねもん)」の「内仕切門」を潜ります。「住吉橋」は短い太鼓橋風の形ですが「擬宝珠」を8本も設けています。
 
「馬屋曲輪」跡から「二の丸」跡に架かる復元「住吉橋」 ↓
「馬屋曲輪」跡から「二の丸」跡に架かる復元「住吉橋」 ↓
 
1997年に復元された「銅門」は「内仕切門」と「渡櫓門」で「桝形」を形成していて、周囲は白壁の「土塀」で囲っています。
 
こちらは、桝形内から見ると「石垣」上に「鉄砲狭間」や「矢狭間」が施された白壁の「土塀」が築かれ、裏側は「控柱」で支えています。
 
復元「銅門」は渡櫓門と「内仕切門」で枡形を形成し周囲を「土塀」が囲う ↓
「内仕切門」と「土塀」(手前は「住吉橋」) ↓
枡形の周囲を囲う「土塀」(石垣上に建つ) ↓
 
「二の丸」跡から「本丸」跡へは朱色の「常盤木橋」が「本丸東堀」上を跨ぎ「渡櫓門」と「多門櫓」で構成された「常盤木門」に繋がります。「常盤木門」は右に折れ曲がりますが、「土塀」で囲う「桝形」は形成していません。
 
「本丸東堀」上を跨ぐ朱色の復元「常盤木橋」 ↓
 
 
 
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また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

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本日は「江戸城(後編)」(東京都千代田区、中央区、港区の一部)です。「日本100名城」に選定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

               ↓

城内には、「天守」が焼失してからは天守代用として聳えていた三重櫓「富士見櫓」や「富士見多門櫓」が「本丸」跡に建つ他、「山里曲輪」跡には「伏見櫓・多門櫓」が、「三の丸」跡には「巽櫓(桜田二重櫓)」が現存で建っています。ただ、これらは「宮内庁」管理の為、重文指定されていません。
 
「富士見櫓」 ↓
「伏見櫓」 ↓
「巽櫓(桜田二重櫓)」 ↓
 
また「門」では、重文指定されている「外桜田門」「清水門」「田安門」の他に、「三の丸大手門」「西の丸大手門」「坂下門」「平河門・不浄門」「半蔵門」「北桔橋門」「乾門」「山里門」が、城内で場所が替わったり、向きが替わったり、或いは復元されたりして建っています。
 
更に「同心番所」「百人番所」「大番所」も現存で建っていますが、こちらも「宮内庁」管理の為に重文指定されていません。
 
「その他城郭建造物」の「後編」は、「橋」を掲載していきますが、橋が沢山ありますので特徴的な橋をピックアップしました。また「土橋」は掲載していません。

 

「江戸城」の象徴的な「橋」といえば「二重橋」です。手前の「石橋」と奥の「(正門)鉄橋」が二つあるから「二重橋」と勘違いしやすいのですが、実際は奥の鉄橋が「二重橋」であって昔はその場所に、橋桁が上下二重に組んである木橋があったので「二重橋」と言われました。
 
手前の「石橋」は、1887年(明治20年)の建造で、「二連アーチ構造」であることから「眼鏡橋」とも呼ばれています。奥の「(正門)鉄橋」は、1888年(明治21年)に「明治宮殿」造営にともない、ドイツ人ウィリアム・ハイゼの設計により架け替えられました。
 
現在「二重橋」と呼ばれる「石橋」(奥には「伏見櫓・多門櫓」) ↓
現在「二重橋」と呼ばれる「石橋」(奥には「正門鉄橋」と「伏見櫓・多門櫓」) ↓
現在「二重橋」と呼ばれる「正門鉄橋」 ↓
現在「二重橋」と呼ばれる「正門鉄橋」 ↓
現在「二重橋」と呼ばれる「正門鉄橋」の橋上 ↓
 
次に「本丸」の北端の「北桔橋(はねばし)門」前の「平河(平川)堀」「乾堀」の間に架かる「北桔橋(はねばし)」で橋の片方を跳ね上げて渡れなく出来る橋です。江戸時代にはこの橋はほとんど跳ね上げた状態になっていたらしくて、現在でも門の柱には橋を跳ね上げるための滑車をつるした金具(下の写真の赤丸)が見られます。
 
ただ現在の橋は固定されて手摺は鉄製になった橋が架かります。
 
「北桔橋(はねばし)」と「北桔橋門」 ↓
「北桔橋(はねばし)」と「北桔橋門」 ↓
「北桔橋門」に付く橋を跳ね上げるための滑車をつるした金具(赤丸) ↓
 
続いて、「平河(平川)門」前の「平河(平川)堀」と「大手堀」の間に架かる木橋の「平河(平川)橋」です。1614年にできた橋ですが、何度か架け替えられていて、現在は1988年に台湾ひのき材を使用し、橋脚と橋台は石、脚桁は鉄骨の橋になっていますが、非常に曲線美が美しい橋です。
 
木橋の「平河(平川)橋」と「平河(平川)門」 ↓
木橋の「平河(平川)橋」と「平河(平川)門」 ↓
木橋の「平河(平川)橋」と「平河(平川)門」 ↓
 
次は「竹橋」ですが、「北の丸」の東出入口で、1620年にできた橋です。かつては竹で編んだ橋が架かっていたことから「竹橋」と名付けられたらしく、ここにも「竹橋門」がありました。
 

現在はみかげ石の「アーチ型石橋」になっています。

 

「アーチ型石橋」の「竹橋」 ↓

 

「西の丸下曲輪」跡の東側に掘られた「和田倉堀」と「馬場先堀」の間に架かる幅広い橋が「和田倉橋」です。門の名前の由来は、近くに倉(蔵)があったことからだそうで、1620年にできた橋です。城内側には「和田倉門」の桝形石垣が残っています。

 

現在の橋は木橋の面影が残るコンクリ-ト橋になっています。

 

「和田倉橋」 ↓

「和田倉橋」 ↓

「和田倉橋」の脇に残る「和田倉門」櫓台 ↓

「和田倉橋」(城内側から) ↓


 

ここから「外曲輪」を見ていきますと、「外堀」等に架かる橋と共に「見附門」が建てられ、「橋名」が付く「見附門」が多数あります。

 

まず、1602年頃から架かっていた「神田橋」です。その後、「江戸城」の鬼門を守る要所であるために「上野寛永寺」や「一橋徳川家」「酒井家」などの大名家を配置したり、「大手門」にも近いとのことで「神田門」が内郭門として1629年に築かれました。徳川将軍が「上野寛永寺」に参詣する「御成道」であったたので門の警備は厳重だったようです。
 
現在の橋は1925年(大正14年)に架けられ、1980年に補修された「コンクリート橋」です。
 
「神田橋」 ↓
「神田橋」 ↓
「神田橋」について ↓
 

次に「常盤橋門」前に架かる「常盤橋(正確には常磐橋)」です。1629年に架けられた橋で、江戸城内郭の「大手門」に接続する「常盤門」前の橋でしたので重要な橋でした。

 

現在は、1877年に「石橋」が架かり、橋の石積み部分と桝形石垣の一部は国の史跡に指定されています。

 

「常盤橋門」跡と「常盤橋(正確には常磐橋)」 ↓

「常盤橋門」跡と「常盤橋(正確には常磐橋)」 ↓

「常盤橋(正確には常磐橋)」について ↓

 

次は、神楽坂に通じる現在の早稲田通りにある「牛込橋」で、1636年にできた橋です。手前には「牛込門」が建っていた場所で、現在でも枡形の石垣の一部が残っています。 

橋は鉄橋になっていますが、擬宝珠の替りに「平櫓」の模型が乗っかかり、夜になると明かりが灯ります。

 

「牛込橋」 ↓

「牛込橋」と「牛込橋門」の櫓台 ↓

 

最後は「小石川門」の前に架かっていた「小石川橋」で、1636年にできた橋です。現在の「神田川」と「日本橋川」の

合流地点すぐ上流にかかり何の特徴もない橋ですが、1927年に造られた年期の籠った「鉄橋」です。

 

「小石川橋」 ↓

「小石川橋」 ↓

「小石川橋」について ↓

 

 
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あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。

」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。

また、「供侍(ともざむらい」「馬見所」等の特殊なモノもどうぞご覧ください。

お城の「歴史」や「城主(藩主)」、「立地」や「縄張り」については、今までに掲載してきた投稿をリンクしておきますのでどうぞご覧ください。

 

 

本日は「江戸城(前編)」(東京都千代田区、中央区、港区の一部)です。「日本100名城」に選定されています。

                

城主(藩主)、立地・縄張りについては下記をクリックしてご覧ください 

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城内には、「天守」が焼失してからは天守代用として聳えていた三重櫓「富士見櫓」や「富士見多門櫓」が「本丸」跡に建つ他、「山里曲輪」跡には「伏見櫓・多門櫓」が、「三の丸」跡には「巽櫓(桜田二重櫓)」が現存で建っています。ただ、これらは「宮内庁」管理の為、重文指定されていません。
 
「富士見櫓」 ↓
「伏見櫓」 ↓
「巽櫓(桜田二重櫓)」 ↓
 
また「門」では、重文指定されている「外桜田門」「清水門」「田安門」の他に、「三の丸大手門」「西の丸大手門」「坂下門」「平河門・不浄門」「半蔵門」「北桔橋門」「乾門」「山里門」が、城内で場所が替わったり、向きが替わったり、或いは復元されたりして建っています。
 
更に「同心番所」「百人番所」「大番所」も現存で建っていますが、こちらも「宮内庁」管理の為に重文指定されていません。
 
さて、「その他城郭建造物」ですが、「前編」で「城壁・土塀」を紹介し、「後編」で「橋」を掲載していきます。
 
「城壁・土塀」は、殆どが「門」に付随して建っていますので、既に「櫓門・城門シリーズ」で掲載した写真と重複するモノもありますのでご了承ください。
 
中心部分から見ていきますと、「本丸」跡の北側で「北の丸」への出入口となる「北桔橋門」には付随する「土塀」が城壁として見られます。白壁には「鉄砲狭間」は施されていませんが、石垣との接点には「銃眼」が等間隔に設けられているのが見えます。
 
「北桔橋門」には付随する「土塀」
「北桔橋門」には付随する「土塀」
 
次に、「三の丸」の「平河堀」沿いに建つ「平河門」は枡形を形成していて、「桝形」周囲を取り囲む「土塀」が見られます。かなり長い城壁となっています。ここの白壁も「鉄砲狭間」は施されていませんが、石垣との接点には「銃眼」が等間隔に設けられているのが見えます。
 
「平河門」と「桝形」周囲を取り囲む「土塀」 ↓
「平河門」の「桝形」周囲を取り囲む「土塀」 ↓
「平河門」の「桝形」周囲を取り囲む「土塀」 ↓
「平河門」の「桝形」周囲を取り囲む「土塀」 ↓
「平河門」の「桝形」内から(「控柱」が城壁と一体化) ↓
 
そこから少し南下すると「江戸城」を見学する際の出入口である「三の丸大手門」が建ちますが、その「桝形」周囲を取巻く「土塀」があります。
 
桝形内から見ると、「銃眼」が良く判る他に、「控柱」は白壁と一体になった構造をしています。
 
「三の丸大手門」の「桝形」周囲を取巻く「土塀」 ↓
「三の丸大手門」の「桝形」周囲を取巻く「土塀」 ↓
「三の丸大手門」の「桝形」内から見た「土塀」(「銃眼」の穴が並ぶのが見える) ↓
「三の丸大手門」の「桝形」内から見た「土塀」(控柱は塀と一体化、銃眼と雁木が見える) ↓
 
「桔梗堀」に沿って行くと「桔梗門(内桜田門)」が建ち、ここも「桝形」を取り囲む「土塀」が見られます。「江戸城」内の「門」の「桝形」を構成する「土塀」は全てが同じ形式で、こちらも「銃眼」が設けられ裏側には「雁木」が造られています。
 
「桔梗門(内桜田門)」の「桝形」を取り囲む「土塀」 ↓
 
「西の丸下曲輪」の南側に建ち「桜田門外の変」で有名な「外桜田門」も桝形を形成していますので、周囲を「土塀」で取り囲んでいます。
 
「外桜田門」の桝形周囲を囲う「土塀」 ↓
「外桜田門」の桝形周囲を囲う「土塀」 ↓
「外桜田門」の桝形周囲を囲う「土塀」 ↓
 
「桜田堀」沿いに坂道を上がり西側へ移動していくと「土橋」の先に「半蔵門」が見えます。元の「半蔵門」は焼失した後、「和田倉門」或いは「吹上門」から移築されたものですが、その両脇には「土塀」が建っています。
 
「半蔵門」と「土塀」 ↓
「半蔵門」と「土塀」 ↓
 
ここからグルッと時計回りで北の方へ向かい「千鳥ヶ淵」から「牛ケ淵」沿いに建つ「田安門」に向かいます。「田安門」は「北の丸」跡の北端の出入口で、ここは桝形の前面を囲う「土塀」が築かれています。今まで見てきた枡形門の土塀とは違って、裏側は柱を伴う「控柱」で壁を支えています。また、「銃眼」は見られないようです。
 
「田安門」の「桝形」を形成する「土塀」 ↓
「田安門」の「桝形」を形成する「土塀」 ↓
「田安門」の「桝形」を形成する「土塀」(「控柱」と「雁木」) ↓
 
そこから「牛ケ淵」沿いに少し南東側へ廻って「清水堀」との間に建つのが「清水門」です。「清水門」の一の門「高麗門」の袖壁の「土塀」が見られます。「袖壁」を支えるのは柱を伴う「控柱」です。
 
「清水門」の一の門「高麗門」の袖壁の「土塀」 ↓
「清水門」の一の門「高麗門」の袖壁の「土塀」(「控柱の柱で支える) ↓
「清水門」の一の門「高麗門」の袖壁の「土塀」 ↓
 
以上の「土塀」以外にも、「西の丸山里曲輪」内には、「山里門」とそれに続く「土塀」がありますが、残念ながら非公開ですので見ることが出来ていません。
 
 
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