「なし(無し)」(形ク)の語源

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「な」の形容詞表現であり、「な」の確認(→「無き」「無く」)や心情表明(→「無し」)ですが、この「な」は平均化・均質化を表現し、この動態の均質化とはある動態とその動態の動態性を失わせる動態との相互作用であり、均質化が完成したとき、あらゆる動態は虚無化し相対的に喪失する。その意味性・存在性は喪失する。その喪失感を表現するのが「なし(無し)」の「な」(→「な(二人称)」(2024年12月7日)、その「N音の語音性」)。
「吾(あ)はもよ 女(め)にしあれば  汝(な)を措(き)て 男(を)はなし 汝(な)を措(き)て 夫(つま)はなし」(『古事記』歌謡5)。
「山邊(やまのべ)の小嶋子ゆゑに人ねらふ 馬のやつぎ(八つぎ:耶都擬)は惜(を)しけくもなし」(『日本書紀』歌謡79:この「やつぎ」は「ぎ(限)」の項(下記)。馬八頭くらいは惜しくもない)。
「衾道(ふすまぢ)を引手の山に妹を置きて山路(やまぢ)を行けば生けりともなし」(万212:これは亡くなった妻を葬った後の歌)。
「我妹子が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」(万446:(大宰府に)赴任するときともに見たあの木、それはあるが、妻はもういない(赴任先で亡くなった))。
「春日野の浅茅が原に遅れ居て時ぞともなし我が恋ふらくは」(万3196:「あさぢ」はその項(下記)。そのあさぢの原に私はひとり取り残されてしまった、ということ)。
「伊香保嶺に雷(かみ)な鳴りそね我が上(へ)には故(ゆゑ)はなけども(奈家杼母)子らによりてぞ」(万3421:雷よ、鳴らないでくれ、という歌ですが、私が怖いわけではないぞ、子供たちが怖がるからだ、ということか)。
「にくたらしいったらありゃしない」→にくたらしいとあるはありはしない→にくたらしいとあるはない→にくたらしくない、という意味になりそうですが、これはそういう意味ではなく、にくたらしい、とあるそういう例はほかにない、という意味であり、これは、世にほかに例はないほどにくたらしい、という意味。
「そう言ったそうじゃないか(そう言ったそうではないか)」、「そうしようじゃないか(そうしようではないか)」。これらの「~ないか」という「ない」につづく「か」は思考を発動させ、それに関する考えを促し、疑問の発動や勧誘になる。
「そういうことはするんじゃないぞ」。この「ない」は否定であり、禁止として伝わる。

・「ぎ(限)」
「ぐるり」。R音は退行化し「ぐうい」のような音(オン)が「ぎ」になった。「ぐるり」は回転を表現する擬態「くる」による語であり、何かの周全体をめぐる。それにより、「ぐるり→ぎ」は、そのなにか全体、それだけ、それきり、といった意味になる。
「愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹命(なにものみこと)を 那邇二字以音 下效此(下は此れに效(なら)へ) 子(こ)の一木に易(か)へつるかも、と謂(の)りたまひて(「謂易子之一木乎」)」(『古事記』:「一木」は「ひとつぎ」。「つ」は数を確認する。ただ子の一に、の意。「那邇妹(なにも)」は、名(な)の妹(いも)、「妹(いも)」というその名にふさわしい、まさに妹(いも)と言いうる、妹(いも)。これは、神々などを生み、そしてイザナミノミコトが「神避(かむさ)り」という事態になった際、イザナキノミコトがこう言ったとして書かれているものですが、イザナミノミコトをそれに易(か)えてしまったと言っている「子之一木」は一般に、子(こ)の「ひとつき」や「ひとつけ」と読まれ、人を数える語か、とも言われ、馬を数える「き」と同じという人もいる。「一木」という表記は神格を「柱(はしら)」と表現することの影響によるものでしょう→「この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして…」(『古事記』)。「柱」の影響は受けつつ、「主」は書かれない。神の存在化をそう表現したということ)。
「山邊(やまのべ)の小嶋子ゆゑに人ねらふ 馬のやつぎ(八つぎ:耶都擬)は惜(を)しけくもなし」(『日本書紀』歌謡79:馬八頭くらいは惜しくもない)。

・「あさぢ(浅茅)」
「あさはぢ(浅恥)」。浅い恥。少し恥ずかしいということですが、朝恥(あさはぢ:朝の恥)もかかっているかもしれない。なぜ恥ずかしいのかというと、これは植物名ですが、この植物の穂には綿毛のようなものがあり、古くはこれを、後世の綿のように、寝具の材料として用い、男と女が寝ることに関係しているからです。特に若い女がこれをたくさん集めていたりすることは、なぜあんなにたくさん要るのだろうと思われるのではないかと、人目も気になり、恥ずかしい。

 

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