「にうしすみ(荷牛済み)」。荷(に)を負(お)った牛(うし)で済(す)む、ということであるが、どういうことかというと、人は牛に荷(に)を負(お)わせ運ぶ。そのように牛や荷(に)を使う。牛は荷(に)を負(お)う。その荷は自分(牛)の荷(に)ではない。しかし牛はその荷(に)を自分の荷(に)にしてしまう。人がそうすることが「にうしすみ(荷牛済み)→ぬすみ」。荷牛(にうし)のように他者の荷(に:財)を自分の荷(に:財)とし荷牛(にうし)で済んでしまう。人間性のない牛であってもなんとも思わない。それは自分の荷(に)ではなく、荷(に:財)にかんする責任もない。それがどういうことなのかもわからない。それが「にうしすみ(荷牛済み)→ぬすみ」。
「御眞木入日子(みまきいりびこ:崇神天皇)はや 御眞木入日子(みまきいりびこ)はや 己(おの)が緒(を:血統)を ぬすみ(盗み:奴須美)しせむと…」(『古事記』歌謡23:「しせむと」にかんしては「しせ」の項・2022年10月12日)。
「花の色は かすみにこめて 見せすとも かをたにぬすめ 春の山かせ」(『古今和歌集』)。
「むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵のへ率(ゐ)て行くほどに…」(『伊勢物語』:これは、後世で言う略取・誘拐というようなものではなく、親が許さなかった娘をその気にさせ駆け落ちしたのでしょう)。
「上手ノ連歌ヲハ一タヒ(一度(ひとたび))ナリトモヌスミ候テハ…」(『初学用捨抄』:上手なる人の連歌を自分の歌であるかのように現す)。
「山河尓筌乎伏而不肯盛年之八歳乎吾竊儛師」(万2832:「筌(うへ)」は、河の中にしかける籠のような漁具。この歌は一般に、「山川(やまかは)に(山河尓) 筌(うへ)を伏(ふ)せて(筌乎伏而) 守(も)りもあへず(不肯盛) 年(とし)の八年(やとせ)を(年之八歳乎) 我(わ)がぬすまひし(吾竊儛師)」といった読みがなされ、「筒状の漁具を仕掛けておきながら、その魚(娘)をよく監督できない親の目を盗んで八年もの間娘と通じていたものだ」「川の中に魚獲りの罠を仕掛けておきながら、しっかり見張っていないから八年間もわたくしは魚を盗み続けたよ」(どちらもネットにあるもの)といった解釈がなされていますが、この歌の読みは「やまかはに(山河尓) うへをふせて(筌乎伏而) うけがへず(不肯) としのやとせを(盛年之八歳乎) あれぬすまへし(吾竊儛師)」でしょう。「うけがへ(肯へ)」は(神と)思いがあうこと。「としのやとせ」という表現は万3307(「歳乃八歳」)・3309(「歳八年」にもありますが、これは、物理的時間経過の八年という意味ではなく、それは、親に育てられる幼児ではなくなり、一人の人となることを現す象徴的な語なのでしょう。「盛年之八歳」全体を「としのやとせ」と読む。「ぬすまへ(竊儛)」は、竊(ぬす)み延(は)へ、であり、「はへ(延へ)」は「はひ(這ひ)」の他動表現。「ぬすみはへ→ぬすまへ」は盗(ぬす)む情況を這(は)はせること。歌意は、山川に(世界に)筌(うへ)を伏せて(なにか良いものがかかるにちがいない。なにかよいことがあるにちがいない、と期待し)、うけがへず(不肯)、神と思いはあわず、としのやとせを(盛年之八歳乎)、今一人前の人になり、そうなるまでの幼い頃の歳月は、あれぬすまへし(吾竊儛師)」…盗みだったような、ほかの人の歳月を自分の歳月にしたような、自分の歳月をほかの人の歳月にされてしまったような、そんな思いがする…。そういうことでしょう)。