生まれてきてよかったという実感
生まれてきてよかったという実感が欲しいです。皆さんは、そう感じられていますか?和多志は今まで一度もそれを実感したことがありません。逆に、好きに生きてはいけないと言われているように感じられています。人生を生きる為に必要なモノやサービス、人生を楽しむ上で欲するモノやサービス。何を得るにしても、あらゆるモノやサービスに値札が付いていますね。対価の支払いを突きつけられるたびに、自分がただ生きているだけではダメな存在なのだと言われているように感じて生きてきました。今でもそうです。何かを差し出さなければならない。誰かに喜ばれなければならない。誰かの役に立たなければならない。得意なこと、できること、求められること。何でもいいから差し出せと言われてるようで仕方がありません。ですが、残念ながら和多志にはそれらがありません。見つかりません。面白くありません。辛いだけです。そもそも、差し出せるものが見つかったところで、自分がその何かを提供する代わりに、その対価の支払いを相手に要求するという生き方が、自分にとって大切な存在をも巻き込む自滅行為だと氣付いてからは、より一層、できなくなりましたけどね。(;´・ω・)自分が誰かに対価の支払いを要求すると、その人に、対価を稼ぐ必要性を植え付けることになります。そしてその人もまた、誰かに何かを提供するにつけて、対価の支払いを要求するようになります。それが巡り巡って、この世の全てのモノやサービスに値段をつくことになり、対価の支払い能力、つまりお金が無ければ、生きていけないというシステムを構築してしまい、対価を要求するということは、そのシステムの維持に加担することと同義となります。それはお互いを一生、対価を得る機会に縛り付けるということです。対価を得る機会は人それぞれでしょうが、多くの人は、何かを提供することで対価を得ていますね。つまり、何かを生み出す、生産する、役に立つ、仕事をするということでもあります。ですが、それだけ何かを消費もするということでもあります。そして、自分が生産したものを消費してもらうことが、対価を得る機会となっているんですね。したがって、対価を求めるということは、お互いに対価の為に、提供=生産=消費し続けなければならないということでもあります。自分の仕事が必要とされているかにかかわらず、お金が必要だからという理由でつくられている仕事、本来不要な仕事が沢山あります。お金の為にマッチポンプをして稼ぐ人たちもいます。問題を作り出して、その解決策を提示して、その際に対価を要求するということです。そして、この社会では、問題の根本的な解決は中々されません。何故ならば、問題を根本から解決してしまうと、対価を得る機会の喪失に繋がるからです。つまり、誰かが生きていけなくなるんですね。だから、問題を根本から解決できない。そして、その場しのぎの対処療法だけを繰り返す。誰かの問題を解決することを生業としてる人にとって、その問題が一切なくなることは死活問題ですからね。これもまた、無駄な資源の消費の一例です。他にも色々なケースがありますが、この様なことが沢山積み重なって、これまでの地球人たちは、お金の為に無駄な浪費を重ね、貴重な資源を不足させてきました。当然ながら、それも食糧不足にも繋がっています。なので、食糧不足になる事を見越して、自給自足をして備えるという人も居ますが、それさえも根本的な解決策ではないので、資源の浪費などによる環境破壊などを通じて、自給自足さえ困難になってしまうでしょう。この様に、自滅行為でしかないんですよね。そして、お金があるから人は働くという意見もありますが、(まるでお金で人を働かせている様な愛のない意見だと感じるということは一旦置いておくにしても、)人は、自分の喜びから誰かに何かを提供する生き物でもあります。むしろ、お金の為に働かなくてはならないという固定観念が、働くことそのものを楽しくなくさせている側面もとてつもなく大きいと思います。自分のペースで働けるなら楽しい仕事なのに、何かの支払いに追われて、お金を稼ぐ為に無理して生産事業に従事しなくてはならなかったり、自分のペースを超えた仕事量をすることを迫られたり、そもそも、本来の仕事とは関係のないはずの、金銭業務や金銭管理にも追われたり。本当は、仕事は楽しいものであるはずなのに、お互いに対価を求め合って生きていることが原因で、お互いが仕事を楽しめなくなっているということも、多々あるのではないでしょうか。ブラック企業というのも、まさにその極みではありませんか。そもそも、対価を求め合う社会では、どんな組織もブラックになり易いのです。それは勿論、会社も、常に売り上げを出さなければ倒産し、そこで働く人たちの生活が危ぶまれるからです。なので、必死に必要とされるために生産し、そのために客も奪い合うことになるのです。だからこそ、世の中で、人の仕事=対価を得る機会、の喪失につながるような、本来なら人を楽にするような便利な発明でも、それはこの対価を求め合う貨幣社会では嫌悪されるのです。これが、和多志達がいくら働いても働いても、楽にならない社会のカラクリです。どこかにこの世界を牛耳る支配者が居ることが根本的な原因ではありません。勿論、あらゆる資源や技術を私物化し、利権を多く持つ組織や個人はいることでしょう。ですが、それさえも、この対価を求め合う競争の結果です。この自滅ゲームに参加している時点で、加担者なのです。利権を多く持とうとする人のその行為を助長しているのです。なので、権力者と呼ばれるような人が失脚しても、また別の人が同じポジションに立つことになり、実際にこれが人を替えて繰り返されてきているだけなのです。誰か特定の人や特定の組織が原因なのではなく、この対価を求め合う自滅ゲームに加担している人一人ひとりが、そのゲームをまた今ここから再構築し、維持する原因となっているのです。これを終わらせるには、氣付いた一人ひとりがこのゲームから足を洗う必要があります。でなければ、子々孫々、延々と、「仕事=対価を得る機会」が無ければ生きていけないという、「消費」に依存した自滅型のゲームが、お互いに苦痛を伴い、本当に自滅するまで続けられるだけなのです。最初は楽しそうという感覚で始めた仕事でも、この対価を求め合う社会では、お金の為の消費による資源不足などによって、世間が貧しくなれば、自分の仕事を必要とする人はいても、そこに対価を支払えないという人が多く出てくるので、仕事をしている側も、収入が減っていくということとなり、倒産に追い込まれるか、自分のペースを超えた働き方へとブラック化するか、どちらかになります。ちなみに、この対価を求め合う社会では、誰かが提供する物やサービスを必要とする人が居たとしても、その人達に購買力がなければ(対価を支払うことができなければ)、必要とする人と与えようとする人との間で、マッチングが起きることは決してありません。なので、どんなに必要とされるモノやサービスを提供していたとしても、それを必要とする人達に購買力が無ければ、倒産するのです。また、収入が入ってくるタイミングによっては、どんなに多額の収入が見込まれていても、それを生産するために掛かった経費などが期限までに支払えずに倒産するという意味の分からないことまで起きる事態です。だいぶ話が飛びましたが、これが、対価を求め合う貨幣社会の本質なのです。誰も豊かに成れません。誰もです。お金があるから人は頑張るし、技術力を高められるという声も多々耳にしますが、和多志の見解だとまるでその逆が起きているのです。本来ならもっと高められる技術力も、誰かの仕事を奪うことになるということでこの世に台頭できず、どうしても利権という概念が出てきてしまうので、企業秘密などによって画期的な技術力も共有される範囲が限られます。お金の為だけに頑張らなくてもいい所で頑張る必要が出てくるため、本当に頑張りたいことを頑張れないということ、本当にエネルギーを注ぎたいことに注げないということが起きています。先述した通り、働く意欲そのものが削がれてしまうし、仕事が出来ないことが死活問題になることや、豊かな暮らしが出来なくなることさえあるので、心にも體にも余裕がなくなり、仕事も楽しくなくなります。当然、その余裕の無さはミスやケガに繋がり、コスト削減まで強いられる結果、それが人災にまでに及びます。これで働くことが楽しくなる方が不思議なものです。もっというと、こんな世界で生きていて心から楽しいと感じられること、この世に生まれてきてよかったと実感できる方が稀ではないでしょうか。少なくとも、和多志は、未だに、生まれてきてよかったという実感を感じたことがありません。誰かと比べれば恵まれてるかもしれない。こうしてブログを書けることは幸せなことかもしれない。だけど、幸せを感じられないんですね。感じられないものは感じられない。全く感謝が無いというわけではありません。ですが、生きることが根本的に辛いので、何か嬉しいことがあって湧いて来た感謝さえも、その傷を一時的に癒す程度のものにしか感じられないんです。それは仕方のないこと、というより、この社会だから仕方がないのかもしれないですね。この先、生まれてきてよかったと実感できる日は来るのでしょうかね。こんなバカバカしい社会のままでは、到底来そうもないですね。おっと、ついハッキリ言ってしまいました(;´∀`)自分一人が、見返りを求めない生き方に変わっても、動物を犠牲にせず、自然を大切にするVeganのライフスタイルに移行して13年経っても、変わりませんね。自分が望む世界に、まず自分がなりなさい、それは正しい教えだと思います。ですが、和多志独りでは、自身を取り巻く世界を変えことさえ出来ないでいる。自分がいかに非力かということも思い知らされています。確かに、無力ではないかもしれない。でもあまりにも力が無さ過ぎましたね。これ以上はもう頑張れないですし。何も知らない方が、氣付かない方が、生まれてきてよかったと思えたのかな?いや、それはそれで訳も分からずただ何かに巻き込まれて、結局辛いんだろうなぁ。と思うと、氣付いても気づかなくてもどちらにしても、人生はただ辛いだけなのかもしれないと、思ってしまいますね。せめて、同じ価値観を共にするような、同志がいれば変わったのかな。これまで生きて来て、そんな人は誰一人居なかったけど。これまで会って来た人、誰もが恐れにひれ伏してしまっていた。一緒に行動を共にした人でも、また対価を求める生き方に戻ってしまっていたのも見た。これからも、ずっと独りなんだろうか。周りが予めプログラムされたロボットの様にさえ見えてきた。何も進歩も成長もない。まぁそれは自分もそうか。成長どころか、できていたことも、できなくなっていってきている。生まれてきてよかったと実感したいなぁ。ただ生きてるだけでいいんだという実感が欲しいんだなぁ。自分で自分にそれは認めてるけど、やはり、そこに食べたい食べ物はあるのに、使いたい物は目の前にあるのに、対価を支払えないというだけで、食べられなかったり、使えなかったり、もっというとそのまま廃棄されたり、という状況に立ったりすると、自分の存在や純粋な欲求が否定されてるように感じちゃうんだよね。人生って、なんなんだろう。やりたいことをするために生まれたわけじゃないのかなぁ。これら全てを含めて、何かもっと大きな視点での目的みたいなものがあるのかなぁ。今後、この今の価値観を根底から覆すほどの大きな氣付きがあったりして、生まれてきてよかったと心から実感できる日が来るのかなぁ。今は、こんな社会で誰かを好きになってしまうのさえ辛いよね。大切な存在を増やすことも、ただ辛いことが増えることに同義だもんね。という、ずっと抱えてきた想いでした。長文最後までお読み頂きありがとうございました。