(作成日:2025.01.11)

※この記事は非公開にしていた過去記事を再公開したものです。

 

 

お金のいらない社会づくりとは、

他人に見返りを求めずに生きる自分を選択して生きること。

 

 

無償循環社会づくりとは、

自然な形で無理なく、

誰かに無償でギフトしてしまう自分を思い出していくこと。

 

これが現時点での和多志なりの答えです。

 

 

少なくとも、

他人や社会や国家といった、

自分の外側を変えようとする様なことでもないし、

変わるようにアプローチすることでもない、

ということに行き着いています。

 

勿論、同じような在り方に変わろうとする人達にとって、

結果的に変われるきっかけを与えることにはなるかもしれません。

 

しかしながら、

わざわざこちらから他人にきっかけを与えようと

仕向けることには、もはやズレを感じています。

 

それよりもまず、

己の在り方、選択がどう在るかが肝だということです。

 

 

他人・社会・国家・世界の在り方が変わるとすれば、

あくまでもその結果として変わるだけのことだと捉えています。

 

また、無償循環社会づくりとは言ったものの、

それは外側・周りを変えることが目的ではありません。

 

むしろ外側の在り方はそれはそれで尊重しつつ、

合わないものとはただ距離を取りながら、

自分という社会の一部の存在の在り方の選択のみに、

集中するということです。

 

 

 

そして、常に、以下2つの問いを自問しながら、

和多志が宇宙から授かったギフトを

和多志にとって、自然かつ無理のない形で、

与えられる在り方を模索・実践中です。

 

 

一つ目の問いは、

”どの様な時に、何故、わたしは他人に見返りを求めてしまっていたのか?”

 

二つ目の問いは、

”どの様な時に、何故、和多志は無償で与えたいと感じるか?”

 

この二つです。

 

 

 

一つ目の自問が過去形なのは、

既に他人に見返りを求めるやり取りは卒業したからです。

 

かれこれ氣付けば、

もう10年以上見返りを求めた生き方は採っていません。

というよりできなくなったと言った方が正確ですね(汗

 

今も和多志がこうして生きていられるのは、

家族や人の力などのみならず、

目に見えない次元の存在や出来事等をも含めた、

全てのお陰様に常に支えられているからです。

 

 

そして、過去のわたしが他人に見返りを求めて生きていた理由の大半が、

生きるにしても学ぶにしても何か欲しいものを得るにしても、

それを持つほぼすべての人たちから対価の支払いを要求されるということと、

その為に自分も他人に何かを与える代わりに見返りを要求し、

その利益を積んで生きる(稼ぐ)ということが、

豊かに生きる為の手段だという事を盲信していたことにあります。

 

周りの大人たちの日常的なやり取りを見て、

そういうものなのだと幼少期から無自覚に採用し続けていたことと、

それが人間にとって当たり前の生き方なのだということを

疑いもせずに生きてきたことにあったのだと思います。

 

そして、やりたくないこと、嫌なことを引き受ける際も、

対価や報酬を求めていましたね。

 

交換条件というものです。

 

さらに言えば、

対価や報酬や望む結果の為に、

やりたいくないことであろうが、

嫌なことであろうが、

できることなら多少無理をしてでも引き受けるという

今も自分も犠牲にした結果主義のスタンスでした。

 

当時は、幸せや豊かさという

目の前にぶら下げられた人参をめがけて

常に今しかないにもかかわらず、

その貴重な今を犠牲にし続けて忙しく生きていました。

 

 

ですが、お金の仕組み、お金の概念の起源、

お金の為だけの仕事や生産&消費活動など、

こうしたやり取りを続けていった先の末路、

そういったものの核心を紐解いていく内に、

それは豊かに生きられる道ではなく、

椅子取りゲームをしながら、

お陰様や自然の循環を壊しつつ、

皆で自滅する道だということに氣付かさた、

自分の中ではっきりと答えが出たことで、

その選択を採って生きることから卒業しました。

 

オブラートに包んで表現すれば、

刺激的で忙しい苦行増し増し自滅自演ゲーム

ですかね。

 

「愛」「和多志自身にとっての真の豊かさ」を知るための反面教師

だったとも捉えられますね。

この表現の方が美しいですね。

 

 

 

 

 

そして、これらの氣付きや学びから、

新たに無償でギフトできる存在で在れる自分づくりのような

新しい在り方・生き方の選択をしてきました。

 

今もまだその真っ最中ですし、これは今後一生続くことです。

 

そのカギとなるのが、

自分を愛すること、

無償かつ無条件に大切にすること、

己を知ること、

己の感覚を観ること知ること、

己の心が指す感覚に沿って生きること

です。

 

そして、感覚というのは、

今この瞬間にしか味わえないことなので、

必然的に「今茲(いまここ)を生きること」が、

より一層肝要な要素になるというわけです。

 

 

ただ純粋に自分がこう在りたいと感じる、

しっくりくる自分を生きる。

腑に落ちる自分を生きる。

自分のペースで生きる。

今の自分の感覚を表現して生きる。

 

このように感覚に沿って生きることもまた、

自分を愛する在り方です。

 

自分自身との調和とも言えます。

 

それにより、元氣で居られます。

心に余裕をもって居られます。

 

心に余裕が生まれると、

心の視野も広がり、

「全体の一部であること」と「お陰様」を

常に実感できます。

 

それが心の豊かさだと認識しています。

 

心を豊かにする、

つまり自分に優しくすると

何故か他人にも優しく居られます。

意図せずともそう在りたくなります。

 

常日頃自分に愛を注いでいると、

他人にも愛を注げるようになります。

自然に愛を持って接することが出来るようになります。

 

その氣持ち、在り方が、

自ずと、無理のない形で、結果的に、

誰かにとってギフトを与えることに繋がると感じています。

 

物質的に何かを誰かにギフトする以前に、

そう生きてること自体が、

既に誰かや宇宙にとって大きなギフトになっていると思います。

 

というより、そもそも、

そうなるように出来ていたんだなと

感じはじめています。

 

自分を豊かにする選択を採れば、

結果がどうあれ、

その選択を採ったことで、

自分は豊かな氣持ちになるし、

もしもそれによって生じたギフトを受け取った相手も喜べば、

嬉しさは2倍じゃ済みません。

 

こういう流れが頻発していけば、

社会もその内、氣付けば、

無償循環社会になってるんじゃないかと、

強く実感しているこの頃です。

 

 

なので、

嫌なことや、やりたくないことは、やらない、引き受けない。

報酬に釣られて好きでもないことをしたり、

今や自分を蔑ろにするような選択はしない。

 

逆に、何も得られなくても、

もはや無償循環社会に繋がるかどうかすら関係なく、

やりたいと感じるならやる。

自分を無条件に大切にする。

個性を抑え込まずに我儘に生きる。

 

こうしたことを、

今の和多志は大切にして生きています。
 

 

 

 

【おわりに】

 

 

お金がこの世から一斉に無くなれば

お金のいらない世界になるというものでもなく、

 

自分が他人や宇宙に見返りを求める生き方と、

その意識や慣習から

自分が真っ先に卒業し、

 

自分で自分に愛を注ぎ、

己自身の感覚に調和した在り方を選び、

自ずと外部にも愛を与えられる、

愛の循環システム・自然な流れを

自分の内側に見つけ出し

その巡りに沿った在り方を選ぶこと

 

それが、今の和多志がおもう、

「無償循環社会」「お金のいらない国」の創造の道です。

 

とはいえ、

そうなるかもしれないし、

そうならないかもしれない。

究極そんなことすら今はどちらでもいいのです。

 

それくらいのスタンスで生きる方が楽ですし、

結果に囚われないことではじめて、

今をしっかり感じて、味わって、

自分が在りたい自分を精一杯生ききることができます。

 

目的や目標を設定し、

その結果に囚われて本末転倒にならないようにすることも

大切にしています。

 

 

もし上に書いたような生き方では、

生きていけなくなるのだとしても、

もはやそれならそれでも構わないとさえ思っています。

 

既に腹は括っています。

 

こういう生き方ですので、

今でも食べることや生活で困ることがややありますが、

どうなろうとも、

自分にとって大切なものだけは見失わずに生きたいのです。

 

「しっかりと自分の感覚に沿って生き切ったぞ!」

と胸張れる人生で在りたい。

 

自分を抑え込んで長生きして後悔を重ねるよりも、

自分を生きて、

「死ぬときゃ死ぬ、苦しむときゃ苦しむ」

その方が断然いいです。

心が軽いです。

 

 

どうせ遅かれ早かれこの身は脱ぐことになるのだから。

 

だったら先のことに囚われて生きるのではなく、

清々しく、堂々と、

自分に対して後ろめたさも無くて

勇氣を出して感覚に沿った選択をする自分に

誇らしさすら感じながら、

今を楽しんで生きたいですね♪

 

 

そして大体のことは意外となんとかなるということ、

想定など超えて来るということ、

イメージしていた恐れなど全く当てにならないということが、

身に染みて分かってくるんですよね。

 

思った通り、想ってた以上にに苦しくなることもあるけど、

在りたい自分を選ばずに生きてしまったことによって生じる苦しさよりは

何億倍も全然マシだと感じています。

はっきり言って比になりません。

 

そうした体験を重ねると、

もう湧いてきた恐れなどほとんどが幻想であり、

単なる思考癖であり、

今の自分にはもう通用しないというところまで来る。

 

わざわざ常に恐い方を選ぶわけじゃないですが、

自分が在りたい在り方を選ぶことによって恐れが生じても、

今じゃ腹括って飛び込んでます。

とはいってもそんなに大袈裟なことをやってるわけではないんですがね。

 

所持金がなくなろうとも今食べたい物を買う、

自転車がもう壊れるかもしれないけど行きたいところまで行く、

他人や家族にどう思われようとも嫌われようとも、

自分が在りたい様に振舞う、選択する、

氣が乗らない古くから続いてる慣習や行事などには参加しない。

とかそんなレベルです。

 

けど、自分を愛するって、

そういう些細なことの積み重ねなんですよね。

その日々の積み重ねが心身の健康をつくり、

一人という社会の一部の健やかな人生をつくり、

健やかな社会をつくっていくのだと

強く実感しています。

 

それに、こう生きたい、こう在りたいという自分を抑えて、

生きていても、それは生きていながら死んだようなモノ。

そうやって死んでしまう方が一番嫌ですからね。

 

 

 

 

 

 

そしてこれまた結果的に、

我儘に自分を愛して生きる人が増え、

やりたいことをやりたいときにやりたい範囲で

好きなことをするような人が交流し出すと、

 

和多志達一人ひとりが、

各々にとって心地好いと感じる生き方ができる循環も

おのずと生まれ、

 

地球や自然とも調和した持続的な社会というものが

見えてくるのだと思っています。

 

 

もう別に集う必要はないし、

コミュニティも必要としないことにも氣付きました。

 

勿論、そういうのが好きな人は、

好きな人たち同士で行えばそれでOKだと思います。

 

他人に合わせる必要も、

他人と集うことも必要なく、

これまでも、これからも、

循環の一部として生きられるということです。

 

なんにせよ、

すべては己自身からなんだなぁと常々感じています。

 

 

 

今回は以上です。

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

【追記】

辛いこと苦しいことまぁありますが、

それらはあくまでも外的なものに過ぎず、

 

自分で自分を蔑ろにしなくなったことで

余計な苦しみを自分で生み出すことや癖も

もうほとんど無くなり、

 

なんなら自分を大切にする選択・在り方が、

外的な苦痛から回避させてくれたと感じることすら多々あり、

お陰様で今の和多志、すごく心満たされて幸せを感じられています♪

 

特に身近でいつも支えてくれている家族には大感謝ですね(*´ω`)

今の和多志で在ることを尊重しながらも常に応援もし続けてくれている。

時が進むにつれて尊敬度合いの様なものも強まっているのが伝わってくる。

向こうから和多志と話をしたがりに来る。

和多志の存在も和多志のこうした価値観も知識もトークも貴重で、

こんな所(家)だけでは勿体ないとまで言ってくれる。

 

そんな温かい言葉や日々がとても励みとなり、凄く嬉しいです。

 

 

これまで和多志を一時的にでも、

サポートしてくれた方、関わってくれた方にも深く感謝です。

 

今では物事をポジティブに捉えるとか、

そういうのも不要だったんだなぁ

という氣付きにも至っています。

 

それでは♪