※この記事は非公開にしていた過去記事を再公開したものです。
「今を生きること」
と
「今さえよければいい」
は似て非なるモノ
それは、
自分の本心・志(心指し)に沿って生きているか、
本心・志(心指し)に背いて生きているか、
の違い。
「今さえよければいい」という生き方は、
本当は大切にしたいと感じていること、
心が指している方向を無視し、
その心の穴埋めとして、
決して満たされることのない偽りの
刹那的な快楽に溺れている状態。
人生、後悔するのはこのタイプ。
後先考えずに、
今を大切にして生きてきた人が
後悔しているのではなく、
今という瞬間を大切にしてこなかった
(心が指す方向を無視して生きてきた)
からこそ後悔している。
これは、
「自分を大切にした生き方」
と、
「自分さえよければいいという生き方」
の違いにも似ている。
「自分を大切にした生き方」は、
自分の本心・志(心指し)・感覚に沿った生き方であり、
人は自分自身を大切にしている時、
他人に対して蔑ろになることはできない。
そもそもワンネスな(全ては一つの)存在だから。
意識状態は、統合意識。
「自分さえよければいいという生き方」は、
実際のところ、
自分の本心・志(心指し)・感覚を無視した生き方によって
生じる在り方であり、
自分すらも大切にできていない生き方である。
自分の感覚を無視しているため、
心身疲れやすく余裕も殆どない。
そのためイライラし易く、
何事も雑になってしまう。
思考・損得ベースになっている傾向が極めて高い。
(ワンネスとお陰様を認識した意識状態では、
損得基準で生きることが自ら豊かさや恩恵を破壊することだと嫌でも氣付かされ、
その無意味さ・バカバカしさ・愚かさを感じさせられる)
思考ベースの場合、
偽りの「やりたい」を実行してしまいがち。
他者との比較によって相対的に生じた思考による、
偽りの「やりたい」「欲しい」や、
思考から生まれた恐れ(幻想)に基づいた将来への備えとしての、
偽りの「やっておきたい」「持っておきたい」も同様。
そして、
思考に意識が傾いている時、
感覚は置き去りになっている。
つまり、
幸せを感じられる状態とも程遠い状態。
(逆も然りで、感覚に意識を向けている時、思考は止まる。
つまり、幸せで居られる唯一の状態)
他人に対して蔑ろになってしまっているということ
それ即ち
自分自身に対しても蔑ろに生きている事の証とも言える。
この場合、
意識状態は分離意識。
自分自身の心からも分離し(ズレ)ており、
心の視野も極端に狭くなってしまっている。
ワンネスとお陰様の認識が、
心の視界から取り除かれてしまっているために、
自分さえよければいいと、
巡り巡って自分にとってすらも
好ましくならない選択を採ってしまう。
自分を大切にしていない人が、
結果的に一番他人に迷惑をかけてしまうことになるのは
このためである。
これもワンネスであるが故のシンクロである。
ここからも、自己犠牲は何にもならないどころか
望ましくないことを誘発させるだけのものだということが分かる。
(サインが贈られてくる)
とはいえ、
これらのことについてどれだけ深く知っていようとも、
実際に常に自分を大切にできるかどうかはまた別のことであり、
自分を大切にできないことも、
自分からズレてしまうことも、
生きている以上、仕方がないと思えるレベルで起こり得る。
これだけ記述していながら、
和多志自身もまだまだマスターには及ばない。
常に自分を大切にすることをマスターしようとするよりも、
氣付いたら即座に切り替えられる様になることの方を
慣らしていく方がベストかもしれない。
だからこそ、なるべく感覚に沿った生き方を意識し、
少しでも心か身体、
どちらかが疲れや異変を感じたらすぐに休み、
それ以上無理せず、
他人にも無理させないようにすることが一層大切だと感じている。
そして、
自分を大切にできない日があっても、
自分を大切にしていない人を見かけても、
責める必要も問題視する必要も全くない。
むしろ、少しでも自分を大切に出来た時、
その都度自分を祝するくらいのスタンスが好ましい。
そもそもこの時代で人間やってるだけで大変なのだから。
出来ない自分を一々責めてたらそれこそ身が持たない。
他人のことは放っておいていい。管轄外だから。
それもその人の在り方を尊重する姿勢のひとつの形。
ただ観守る・観送るという信頼の姿勢。愛である。
大切なことは、いつもひとつだけ。
自分自身がどう在るかだけだ。
だと和多志は感じている。
以上。
最後までお読みいただき感謝です。
今回の内容で触れました、
『自分を大切にする生き方』や『統合意識』などについて、
以下の関連記事でさらに深堀しています。
併せてどうぞ。
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