(作成日:2025.04.10)
※この記事は非公開にしていた過去記事を再公開したものです。
◆見返りを求める意識は軌道修正のサイン
誰かや何かに対して、
対価・報酬・見返りを求める意識は、
サインのひとつに過ぎません。
それは、己の人生における軌道修正にとって、
ひとつの指針となる様なもの。
自分が心から何の為でもなく、
本当にやりたいと感じていることかどうか、
そうした純粋な動機からズレていることを
(本当に望んだ在り方からズレていることを)
自覚する上で必要なサインだということ。
そのサイン・機能がなければ、
今やろうとしていることの、
過程・結果(報酬)、
どこに対して喜びやときめきを感じているのかが分からなくなり、
本当に望む人生を歩むことができなくなるでしょう。
この機能があるからこそ、
見返りを求める意識が生じた時、
「自分は純粋にそれ自体をやりたいとは感じていないのだな」
ということを認識・自覚することができます。
更にそこから、
恐れや不安に基づいて行動しようとしていたのか、
とある欲しい結果の為に自己犠牲をはたらこうとしていたのかが分かるのです。
損得勘定も恐れや不安、宇宙を信頼できていない意識から来ます。
つまり、自分を愛する在り方からズレてしまっていることを
自覚できるということなのです。
◆ズレとエネルギーの停滞
自分を蔑ろにした生き方を続けてしまうとどうなるか、
それは、意識の有無に拘わらず、
心身にストレスを溜め込み、蝕まれ、
いずれは自身を巡るエネルギー、氣が滞る。
そう。氣が止む、病む。ということです。
病氣となり、その症状が現れ、
強制的な一時停止、軌道修正を余儀なくされます。
そもそも、病氣自体の認識すら、
従来の地球人の認識では、
そこに敵対意識・排除意識が向けられていたことが多かったですが、
病氣という状態とその症状こそが、
その人を本来望んだ道へと軌道修正に導いているのであって、
病氣そのものや症状を排除しようとすることは、
実にナンセンスなことなのですよね。
◆病こそがその人を治療している
病氣とその症状を治そうとすることが人が未だに居ますが、
そもそも病氣自体が和多志達の今在る状態を教え、
治してくれている一つの軌道修正機能だったと氣付いたんですよね。
なのに、病氣や症状自体を排除しようとすると、
人生における軌道修正システムが機能しなくなり、
本人がそれを自覚する前に、
衰弱し、最悪、肉体から離脱する。
治療しようとする医者にかかる人ほど病氣が悪化して、
医者になど頼らずとも、
今までやっていたことから一旦距離を置き、
己の在り方を見つめ直し、
病の症状すら放置して余計なことはせず、
安静にしておけば、自然と氣は快癒します。
病が人を襲い殺すのではなく、
病を排除しようとする当人の意識や選択が己自身を殺している
と言っても過言ではないと思います。
その症状によって、自分の氣が止(病)んでいたことが分かり、
自分の氣が止んでしまうような在り方・生き方をしていたことを自覚できます。
病氣や症状自体を排除しようとすることは、
このシステムの排除に等しく、
見返りを求める意識を自分から排除しようとすることもまた、
これと全く同じようなことなのです。
本当に望む在り方・生き方・人生からズレてしまった時の
軌道修正ができなくなるということですからね。
心が指すものをその人の志(こころざし)というように、
心とは己の人生のナビゲーションシステム。
見返りを求める意識も、
その心のはたらき、
ナビゲーションシステムの重要な一部であり、
「そっちは自分が望んでいる道じゃないよ」ということを
教えているサインだと感じています。
ワクワクやときめきが、
望んだ道そのものを教えてくれるサインだとしたら、
見返りを求めた意識は、
望んだ道から逸れている、ズレてしまっていることを
教えてくれるサイン。
その見返りを求める意識に無自覚なままで居ると、
人生はとても苦しくハードなものとなるでしょう。
お互いに見返りを求め合い、
何を受け取るにも与えるにも、
交換という手段が採られ、
それを円滑にするためにお金という概念が発生し、
何をするにも、何を得るにも、
その対価となるお金がなければならなくなり、
与えることと対価を得る機会が強く結びついてしまい、
対価を得る機会、つまり仕事がなければ生きていけない、
という縛りを自他共に課してしまうこととなります。
だから成長できるという見方もあるようですが、
そもそも対価を得る為に行われる成長は、
純粋な動機を礎とした成長ではないので、
歪んだ成長であり、幸福を感じることが出来ない。
ますます心は貧しくなっていくものです。
成長にも、
自分たちを豊かにする自然な成長と、
己を蝕む歪んだ成長があるのだと学びました。
互いに見返りを求め合うことによって果たされた成長は、
純粋な動機や調子(ペース)から生まれたわけでないため、
己が蝕まれていく。歪みが生じ、心も満たされない。
暮らしはより豊かに便利になってるはずなのに、
心は豊かにならないのはそれが間違いなく一因でしょう。
そもそも便利になるということは、
誰かの仕事が減っているということであり、
仕事が減るということは、対価を得る機会が喪失を意味するため、
また新しい別の仕事を頑張って増やすしかない。
本来やる必要もないのに対価を得る機会、
継続的に自分を必要としてくれる機会を生み出さないといけない。
その仕事づくりとその仕事の忙しさに、
日々、心が追われているから、
ずっと豊かさを感じられないのだと思います。
そしてそれはこれまで実際に起きてきたことなので、
以下に補足としてまとめてみました。
◆(補足)見返りを求める在り方から観えていること
①お互いに見返りを求め合って
全てのモノやサービスに値札をつけ売り合った生き方は、
結果、誰もが支払うための対価が無ければ何も得られず、
対価を稼ぐ必要性を互いに植え付け合い、
その機会である仕事の有無が死活問題となり、
対価集めの為だけに無駄な消費生産を繰り返さざるを得ず、
常にその強迫観念に追われ、
人の心身と自然環境と資源を浪費し蝕みながら、
お互いに生活自由度・快適度を
自分の収入量に制限しながら破壊していたということ。
②値段を付与するということは、
受け取る側のハードルを上げることであり、
必要としているにもかかわらず受け取れない人を生み、
その人の個性を発揮し辛くしていることにも繋がり、
その循環によって得られる恩恵を阻み、
巡り巡って自分の個性をも発揮し難くし、
結果、自分自身の生活自由度・快適度を下げてしまう行為にも等しく、
実は、自分が与えるモノに価格を付けたり、価格を上げる行為は、
自分の価値を上げる行為ではなく、
自分のモノやサービスの真価を著しく下げる行為だったと言っても
過言ではなかったということ。
言い換えれば、
無償で与えれば、それが巡り、
互いに個性を発揮し、
互いがその連鎖で無限の恩恵を受け取ることができ、
自分が与えたモノやサービスは、
無限の価値であることを示すということ。
③価格・値段の壁によって、
それを支払えない者は、
市場に供給されているものを手にすることはできず、
そんな中、
余って捨てられているモノや
使用されず無駄になっているモノ、
表現されないまま、
発揮されないままの能力が沢山ある。
こうした真のニーズと供給のミスマッチを引き起こし、
モノが過剰に余り捨てられる一方で、
モノ不足に苛まれている人たちを沢山生み出すことになる。
④人手が要らなくなるほどの高度技術の存在や
様々な課題を根本的に絶滅させてしまう麻のような自然界の存在が
世に広まることは、
貨幣社会における多くの人にとっての
「対価を得る機会」の喪失となり喜ばれない。
つまり、生活が苦しくなるため台頭させることができない。
という本来和多志達をより豊かにする存在が都合の悪い存在となる、
豊かさを享受できないでいる、という矛盾を生じさせている。
⑤お金の発行システム『信用創造』はあくまでも
この対価を求め合う在り方をより加速させる促進剤に過ぎず、
このお金の仕組みが取り払われたとしても、
互いに見返りを求め合った生き方をしている間は、
収入ベースで仕事と消費と生産に依存した生き方を強いられ、
対価を得る機会に縛られた重苦しく、
自滅的な社会の在り方は変わらない。
むしろこの加速装置のお陰で、
見返りを求め合う在り方の本質と、
その脆弱性、矛盾性、自滅性を
早い段階で分かり易く認識できたとも言える。
補足は以上。
◆おわりに
最後に、今回一番言いたいことは、
見返りを求める意識が生じても、
見返りを求めた行動に走ってしまったとしても、
一切自分を責める必要はないどころか、
その体験から得た氣付きと、
次からは行動に移す前の見返りを求める意識が生じた段階で、
それを指針に、
本当の自分が望んだ在り方に還るきっかけに活かせばいい、
ということです。
病氣になった時と同じく、
一度立ち止まり、
自分にとっての純粋な喜びは何なのか、
何故見返りや報酬、対価を求めているのか、
当たり前や常識と呼ばれる従来の生き方に眠り流されていなかったか、
どう足掻いてもいつかこの身を脱ぐというのに、
それは今日明日かもしれないというのに、
この在り方で今、己の生を全うしていると言えるのか?
まだこの在り方を選び続けたいのか?
というようなことの確認と軌道修正の
きっかけとすればいいということです。
見返りを求めた在り方は、
純粋な喜びに沿った在り方からズレているという意味において、
自分を蔑んだ在り方です。
その己を蔑ろにした精神の在り方が、
現実世界に投影・具現化されたもの、
同じ精神の在り方の他者と連携されたものが、
貨幣社会そのものである。
だからこそ息苦しい。重苦しい。
これは和多志だけの経験・感覚ではないはずです。
自分が先か、外側の世界が先かはもうどうでもいい。
今の自分が社会の一部であり、
社会そのものだということを認識し、
己を愛する在り方に還ったなら、
それが無償社会の再誕です。
あとは同じように、
己を愛する在り方の他の存在との
宇宙の采配による連携、シンクロがはたらき、
循環にまで至れば、
それが無償循環社会となるということです。
けれどもそれはあくまでも結果的な話であって、
無理に無償循環社会を創ろうとする必要はないと思います。
それは他への干渉に他ならないからです。
そこからは歪んだ社会しか創造されないでしょう。
大切なのは、
己自身が、己の意識と在り方に集中し、
己の意志を尊重し、大切にすること。
無条件に心の指す方向、
喜びや楽しい、心地好いという感覚に沿って生きること。
それによって、氣が巡り、
何の為でもなく、無条件に
自然に純粋な動機からやりたいと感じる氣も湧いてくる。
そのエネルギーに沿って生きる。
その在り方やそこから来る行動は、
知ってか知らぬか、
勝手に誰かを喜ばせてしまうことでしょう。
それが無償社会の姿だと思っています。
与えようとする意志も、
助けようとする意志も必要なく、
勝手に無償で与えてしまう。
無償社会は今茲から顕現できるものです。
そして、無償社会は奉仕社会とは全く異なるものです。
無償社会とは、己の純粋なる喜びを、
わざわざ誰かに言われなくても
自ずと他者とシェアしたくなるほどに満喫する営みです。
あとは腹を括れるかどうかですね。
ちなみに、腹を括るというのは、
緊張ではなく、解放の感覚に近いと感じています。
それは、将来・未来(に対する不安)、そして「生」というものに、
今の自分の選択等を縛らせなくなった意志・覚悟だからだです。
「生」にしがみ付くのをやめる
その瞬間から、今という「本当の生」がはじまるのだと氣付きました。
どうせいつかはこの身を脱ぐのだから、
ならばいっそ、いつどうなってもいいように生きる、
その姿勢が宿った瞬間から本当の生が始まるのだと実感させられました。
死や苦痛を避けようとして、生き延びようとして、
本当の自分を生きないからこそ、
今茲から既に死んだような人生と苦痛(警鐘)を体験してしまう。
「無償社会」とは、
「今を生きる」ということにも
言い換えられます。
そして、心の動き、感覚は、今にしか存在しない。
心の動き、感覚に集中する、
それに沿って生きるということは、
今に集中するということ。
つまり、
自分を大切にすること、
今この瞬間に集中して生きること、
何の為でもなく無条件に純粋な動機からの選択、
無償社会、
それらはすべてイコールなのです。
おまけ。
思考がはたらいている時、
それは、感覚を生きる、今を生きるということから
乖離しているよというサインでもある。
感覚に集中すると、思考は止まります。
感覚を意識することと思考は、
瞬時に切り替わっているだけであり、
同時にはたらかせることはできないみたいです。
つまり、勝手に思考がはたらいたら、
それは今を生きていないサイン、
今この瞬間から意識が別の場所に飛んでいるサイン
とも捉えられるので、
感覚を意識しなおすことで
今を生きることに立ち還ることができますね。
これを知ってから、
あらゆる選択を感覚ベースで行うことが出来るという点で、
生きるのが楽になりました。
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あとがき
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誰かに読んでもらえてるか期待はしてしまっても、
別にそれを強要してはいないということで、
それに読んでもらうことが主目的ではないから
また投稿しちゃおうとなりました。
もう躊躇わずにすべて吐き出したくなった。
何の為でもなく、指が動いた。
宇宙は今も昔も調和している。
和多志が感じる、従来の社会への違和感も、
これまでの氣付きも含めて。
今は、何かを伝えようという意志は消えてゆき、
自分の感覚に集中した在り方を経て、
その感覚を書き綴るのがただただ心地好い。
以前よりも、文にまとまりがなくなったのも、
感覚に沿って書いてるから。
昔はパズルの様だった。組み立てられたもの。
けど今は波のよう。
自分から流れ出る言葉の波と
そこからさらに上から水滴を落としてできた波紋。
境界という概念がない。
そういう記事の書き方になってきました。
だから段々読み難くなってきてるかもしれませんが、
最後まで読んでくれてありがとうございました。