病に対する認識・ヒント★【再公開】
※この記事は非公開にしていた過去記事です。「ウイルス」や「病」と呼ばれているモノは、排除すべきものでも、敵対すべきものでも負けないようにするべきものでもそれらから身を守るようなものでも恐れ憂うモノでもない。悲観的な要素は全くない。それらは、「浄化作用(時には魂レベルでの)」であり、「機会」であり「メッセージ」であり「サイン」であり「サポート」であり「ギフト」である。言ってしまえば、「愛」である。それがたとえ、特定の誰かが何かを意図的に引き起こしているように見えるのだとしてもそれは、「その人が引き起こしている」と見せかけて、「その人を通して引き起こされている」こと。そのため、それを引き起こしている人が身の回りから消えて居なくなっても、自分自身の在り方が変わらなければ、また似たようなことを起こす人が繰り返し現れることになる。自分自身の在り方が、本来望んだ自身の在り方に立つまで。自分自身がそれを許すまで。敵対することや排除しようとすることやその問題を解決しようとすることは、全くもって無意味なことだとも観抜ける。サインやメッセージに抗うことは自身の在り方からの更なるズレを意味しただただそのサインは大きさを増すだけである。まさに火に油。-----------------------------------「いじめ」などもこれの典型例である。たとえ今までいじめてきた人の手から逃れられたとしてもそもそも自分自身が自分いじめを繰り返すのならばまた同じような人が自分の目の前に現れる。「学校」や「職場」など、自分が居たくもない場所で過ごしたり、自分がやりたくもないことを自分にさせていたり、たとえ好きなことでもやりたいような形で自分にやらせていない時に、こうした一見「加害者」に見えるような人が自分の目の前に現れ、これまでと同じ生活習慣を繰り返させない様にする。だがこれは、「自分が今やりたいことはこれじゃない」「自分が今居たい場所は此処じゃない&他に自分にとって心地よい居場所がある」「自分が今やりたい形はこれじゃない&他に自分にとって心地好いやり方がある」ということを教えてくれているサイン。そうだったと知れるだけで目の前に現れたメッセージに自然と感謝が湧く。それに氣付けず、それをする相手やその出来事を何とか片づけた気になっても次にまたさらに厄介に感じる人物や出来事が現れるだけ。-----------------------------------さらに「ウイルス」や「病」と呼ばれるものの本質を掘り下げる。1:統合・再統合の機会わたしたち一人ひとりが、本来の自分が望んでいる在り方・生き方からズレている時、または、自分の「今」過ごしたい在り方から分離・乖離している時に、軌道修正を齎すモノである。すなわち、自分自身との統合を促すモノ。ついでに、わたしたちは、自分自身と統合して生きているだけで「自然環境・他の動物達」と勝手に無理なく共存・共生できる仕組みになっている。自分自身との調和が取れていない時に、自身の暮らしと自然環境との調和も乱れ出す。2:ヒーリング・デトックスの機会人の心身をも含む、自然環境(エネルギー・氣)において溜まった老廃物の排泄により解毒し、蓄積した疲労からの回復により治癒するモノ。3:再構築・アップデートの機会2により、休養とチャージを経てさらに望ましい心身・環境へとアップデートさせるモノ。4:取りまとめがはたらいている際の一時停止の機会自らの選択において、それを選択する時期等がベストなタイミングとなるように、またはより望ましい状態・状況になるように、水面下で調整(取りまとめ)がはたらいている一時停止のサイン・機会であるということ。つまり、シンクロの前触れ。前兆。5:今茲(ここ)を生きることを決意できる機会病等を通じて死と向き合わされることで、「いつか必ずこの身を脱ぐ時がくる、それがいつかは分からない。だからこそ今この瞬間を蔑ろにせずに、大切に生きる。その結果何が待っていようとも、自分の生きたい様に悔いなきよう生きる。」といった、覚悟が生まれることがある。生への執着を手放せる機会。いつ死んでもいいように生きるようになる、すなわち腹を括れるようになるということ。自分軸を貫いてそれで死ぬならそれでいい、という意識が芽生え、死なない様に死なない様にと、生に囚われその為に今の自分を殺した、不自由かつズレた生き方から、解放され、自由になれる機会。つまり、本当の意味で『生きる』ことができる様になる機会。これらから言える事は、実は、マスクの着用やうがい手洗いや他人との距離を置くというものはなんら予防にはならないということ。というより、本来はしたくもないと感じているのに予防行為をしているならそれが既に「ウイルス」や「病」を自身に引き寄せる行為であると言える。他人との関わり云々ではなく、自分自身の意識の在り方がその起因要素の本質として関わっていることからだ。「ウイルス」や「病」は、「自分を大切にした在り方」からズレている時に、「宇宙のメカニズム」によって行き詰まりが与えられる構図と同じ。つまり、常日頃、自分を大切にして生きていればそれらの影響は受けない。自分を蔑ろにしている人が、それらの対象となるだけなのだ。そして、「ウイルス」や「病」を機に、自分自身が本来望む在り方に軌道修正、つまりは、自分を大切にした在り方に立ち還ることで、一定の休養を経て、その「ウイルス」や「病」からの影響がなくなる。簡単にいうと、本当ならやりたくもないことを「〇〇の為に・・・」とやっていたり、望んでいないことや恐れていることが起きること(可能性)を前提(信念・観念)に日々の選択を行っていると、宇宙からのメッセージとして、「ウイルス」や「病」を含む行き詰まりを受け取ることになる。ということである。特に、「サバイバル意識」や「問題解決意識」など、恐れに基づいた意識や望まないことが起きる前提(信念・観念)で生きることが習慣になっている場合にこのメッセージ・ギフトを受け取ることになり、そのギフトの大きさ・規模・度合いはその在り方の度合いに比例したモノになる。何故このような仕組み・メカニズムが存在しているかは不明だが、このような仕組み・メカニズムが存在しているという事だけは確かだ。「病」は「氣」からとはよく言ったものだ。「氣」は、意識や在り方、その波長・周波数とも換言できるからだ。自身の「氣」が止むことを選択するから氣が病む。「この先も万事大丈夫だ」とするならばそれでも今選ぼうとしていたことを選ぶだろうか?それとも、選ばないだろうか?どの選択が自身の望みに忠実な選択であるか。動機の裏にある「前提(信念・観念)」を書き換えて問い改める事で、本来の自分が望んでいる選択が観えてくる。その選択が、自身との統合であり、自身との統合が無償社会の土台にもなっている。これらはわたし自身が個人的に感じていること・氣付いたことのまとめ。