こんばんは、AKIです(*´ω`*)

 

今回は『感謝』に関するお話です。

 

わたし個人が『感謝』というモノをどう捉えているか、

というお話ですね。

 

 

 

これまでの人生において、

 

よく巷で、

「感謝をすることはいいことだ」

 

とか、

 

大人たちにも「感謝をしなさい」

 

ということを沢山聞かされてきました。

 

 

だけども、

 

しなさいだとか、

 

やるのが大切だと言われて、

 

頭でやってきた感謝って

 

実際はまったく感謝なんて感じてない

 

というモノが殆どでした。

 

 

これはわたしの精神性が低いからかなとも思っていましたが、

 

そうではなく、

 

どうやらそもそもそれらは本物の感謝ではないことに

段々氣付いてきたんですね。

 

 

 

 

わたしからすると、

 

『感謝』とは感覚由来のものであり、

 

やろうとしてやるもの、

出そうとして出すものというよりは、

 

自然に湧き出て来るもの

 

だと感じているんですね。

 

 

 

 

何故なら、

 

本当に有難いと感じた時って、

 

感謝しようと思ってやってないなくて、

 

感謝が大切なことだとも自分に言い聞かせていなくて、

 

もう自然に勝手にドバドバ溢れ出して、

 

それが止まらなくて、

 

感謝せざるを得ない状態。

 

 

 

 

この感覚を覚えてから、

 

わたしにとって、

 

これが本物の『感謝』だなというところに

 

落ち着いております。

 

 

 

 

 

つまり、

 

頭・思考で「感謝しなきゃ」とか「感謝した方がいい」と思って

やる『感謝』って、

 

それは自分にとっては偽物だと感じているということです。

 

何故なら、

 

感覚として湧き出ているものではないから。

 

 

 

『感謝』したほうがいいからということで、

さも『感謝』しているように装うことはできても、

 

『感謝』とは、

無理やり出そうとしても出ないはずなんですよね。


感覚だから。

 

 

 

痛くもないのに、痛くなることって出来ないじゃないですか?

 

暑くもないのに、暑く感じることって出来ないじゃないですか?

 

 

よく幸せな人がやってる習慣とかでも、

 

『感謝が出来る』というのが挙げられていることが茶飯事ですけども、

 

 

本当に幸せな人って、

 

『感謝をしようとしてしている』というより

 

『感謝が自然に湧き出ている』だけなんですよね。

 

 

『感謝』って理屈じゃないと

わたしは感じているんです。

 

 

 

 

 

もしも、感謝をやろうとしてやるのだとしたら、

 

『感謝』しようとするのではなく、

 

感謝が自然に湧き出てくる引き金になりそうなものに意識を向けることで、

 

感謝を誘起することは可能でしょう。

 

 

 

 

 

例えば、

 

ご飯に感謝をできない人が居るとして、

 

周りが「感謝をしなさい」といっても

 

形だけの感謝は出来ても、

 

本当の意味で『感謝』出来ていない人が居る。

 

 

しかし、

 

お米をつくる人がどうやってそのお米を育ててきたかを知ることで

 

『感謝』が湧いてきた。

 

などですね。

 

 

 

また、

「感謝をしなさい」「感謝が大切だ」と言われてやる「感謝」は、

周りの人達を納得させることができるだけです。

 

それは本当の感謝ではないとわたしは捉えています。

 

 

 

 

 

自分の中から、

 

自然に勝手にドバドバ感謝が込み上げ溢れてきた体験を思い返すと

 

分かり易いかもしれませんね。

 

 

 

もしかしたら、

 

自分が好きなモノの生産者が、

それを創り上げるまでのプロセスを知った時かもしれませんし、

 

 

自分が望んでこの地球を体験しに来たことを自覚できた時かもしれませんし、

 

 

本当に食べたくて食べたくてしょうがないものを、

 

食べられている時かもしれません。

 

 

 

こういう時に、

 

自然に勝手にドバドバと込み上げて溢れてくる『感謝』こそが

 

わたしは本物の『感謝』だと捉えていて、

 

 

頭でやろうとする、


「良いことがある、波動が上がる、幸せになれるからやる」感謝とか

 

「大切だから」といってやる感謝だとか、

 

人に言われてから示す「感謝」だとか、

 

「感謝しなければいけない」と義務的にやる感謝だとか、

 

一つのルーティンワークのように事務的になっている習慣的な感謝というものは、

 

全て、本物の感覚からズレている、偽物の感謝だと捉えています。

 

 

 

 

で、本物の『感謝』って、

 

めちゃくちゃ氣持ちがいいんですよね。

 

あの込み上げてくる感覚。

 

 

 

頭でやってるつもりの感謝は、どれも虚しいんですよね。

 

腑に落ちない感覚。

 

それもやはり偽りの感謝だからだと思います。

 

示している事と感じている事のギャップ・ズレを感じているのでしょう。

 

 

 

感謝する習慣とか、感謝する癖とか、

 

正直、何言ってるんだ?と感じます。

 

結局それは、頭でやる偽物の感謝を繰り返してるだけ。

 

 

 

で、本物の『感謝』って氣持ちが良いんですが、

 

それが湧き出る機会を増やすことは当然できると感じています。

 

 

 

『感謝』しようとして感謝は出来ないけれども、

 

自然な感謝が湧き出る機会をつくることはできるということ。

 

 

 

それはやはり、

 

①今できる範囲で本当の自分を生きるということ、

 

②何の為でもなく純粋に好きなことをやること、

 

③今在るモノに意識を向けること、

 

なのではないかなと思います。

 

 

 

感謝しようとしなくていい。

 

感謝できなくてもいい。

(だってそれが今の正直な自分なのだから)

 

苦しいですよね。

 

 

わたしもなーんにも感謝なんて湧いてない時に

 

「感謝しなさい」だとか、

 

「感謝するのはいいことだ」とか

 

「感謝できる人は素晴らしい」

 

って聞かされるの重いし辛いです。

 

条件付きですしね。

 

 

特に別に生きていたいと思っていない時ほど、

実際『感謝』が湧く状態とは程遠い状態です。

 

そんな自分に「感謝」を押し付けてもこじれるだけです。

 

 

本当の自分の感覚に蓋をしているだけならず、

自分軸からズレた在り方を押し付けているだけですからね。

 

自分自身との不調和です。

 

 

 

感謝することよりも大切だと感じることは、

 

なるべく自然に感謝が湧き出るような生き方・在り方を、

 

選択することなのかなと思います。

 

つまり、自分自身が望む在り方・ペース・感覚に

調和した在り方です。

 

そして、それでいて感謝が湧き出て来ないなら来なくてもいい。

 

そんな自分にもOKする。

 

 

求めていたモノが得られたり、

求めていたことが起きても、

意外と心に刺さらなかったとか、

なーんか思ってたのと違った、

なんてことも普通にありますからね。笑

 

そんな時に感謝できない・感謝が湧いてこない自分を責めても、

仕方がないことですからね。

 

それがその時の自分にとって自然な状態なのですから。

 

 

 

 

今回のテーマは『感謝』ですが、

 

『役に立つ』にも置き換えられる部分もあると思います。

 

 

役に立ったかどうかって、結果論ですからね。

 

それに、役に立たなければ人として駄目だというのも辛いです。

 

役に立てなくていいし、役に立った時に喜べばいい。

 

役に立つことは素晴らしいかもしれないけれど、

 

別に誰の役に立てなくても構わない。

 

 

そういうスタンスの方が生き易いと感じます。

 

 

『感謝』と共通することですが、

 

自然体で役に立とうとしてない自分の方が、

 

自分の知らない所、氣付いてない所で、

 

役に立っていたりするものです。

 

 

自然体で別に何にも感謝しようとしていない自分らしい自分を生きている方が、

 

自然に勝手に感謝が湧き出てくる体験をしてしまうものです。

 

 

 

すべてあくまでも個人的な捉え方、感じていることですが、

 

『感謝できる人』になろうとするのをやめた時、

 

『感謝できる体験』をしてしまうのだと思います。

 

 

これは、それを周りの人が見ると、

 

さも『感謝している』と観えてしまうから生まれた錯覚かもしれませんね。

 

当人は、『感謝している』のではなく、

『溢れてくる感謝を出してるだけ』なんですよね。

 

 

 

だから、誰かになろうとか、

 

こんな人になろうとすればするほど、

 

偽りを覚えてしまい、遠ざかってしまうということが、

 

こういう側面からも言えるわけですね。

 

 

 

 

 

調和文明(無償社会)においても、

 

人々は、すべてに感謝をして生きていますが、

 

それは、

 

感謝をすることが大切だと知っている・意識しているから感謝をしているのではなく、

 

 

誰もが自分が純粋にやりたいことをして生き、

 

自分自身が真に望む在り方に調和し、

 

そのやりたいことが出来るのはすべてのギフトとその循環のお陰様だ、

 

ということを自覚・認識出来た結果、

 

自然に溢れた感謝を外側に表現しているだけです。

 

 

 

 

 

感謝というモノを手っ取り早く感じたいのであれば、

 

自分が望んだものを与えてくれるすべての存在や万物や

 

もっというとその循環に意識を向ければ、

 

疑似的に体験することはできるかなと思います。

 

 

まぁそれもある意味、感謝を誘起している時点で、

偽物に近いとは思いますがね。

 

冷房による寒さと、

冬の季節の外氣くらい違うと思います。

 

 

 

感謝という感覚は理屈ではないので、

 

湧いてくるものが真の感謝であり、

 

今湧いてないならそれも自分の真の感覚なのです。

 

 

 

今は何も感謝して生きられない、感謝が湧かないという時も、

 

焦らなくて大丈夫だと氣付きましたし、

 

焦ったところで何にもならないどころか、

 

いよいよ自分の感覚を置き去りにしてしまうし、

 

それが今の本当の自分なので、

 

そのまま楽しそうだと感じたことやときめくこと、

心地好いモノや美味しそうだと感じるものに

 

意識を向けるようにしています。

 

 

そしてそれらに触れた時に、

 

別に感謝しようとなど意識していなくても

 

自然と感謝が溢れてきますね。

 

 

 

『感謝』って、そういうものなんじゃないのかなと、

わたしなりに感じています。

 

 

まぁ『感謝』の在り様ひとつ取っても、

人それぞれなのだと感じます。

 

 

 

自分に「感謝を意識しなきゃ」と

 

常に感謝することを押し付けて

 

本当に感謝が湧いてくる人って居るのかな?

 

わたしは居ないと思います。

 

感謝してる気になってるだけで。

 

 

 

まぁ他人がどう在るかではなく、自分がどう在るか。

 

 

感謝できなくてもいい。

感謝できない人でいい。

 

役に立とうとしなくていい。

役に立てなくていい。

 

 

自然体の自分を赦すことも、自分を愛することのひとつ。

 

生き易くなることのひとつだと感じています。

 

 

 

 

さて、今回は以上です。

 

最後までお読みいただきありがとうございました(*´ω`*)

 

 

 

 

 

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