地震などの被災地において、
定期的なボランティアをする人が現れると、
被災者からは喜ばれる一方で、
地元の商売人達から、
「ボランティアをやられると自分たちが生活できなくなる」
という声があるらしい。
そうした無償提供、ボランティアをやめて欲しいという声に応じて、
実際にボランティアをやめる人も居るとのこと。
だが、その地元の商売人達も含め、
生活が出来なくなる根本的な原因は、
ボランティアをする人達が現れるからではなく、
お互いに見返りを求め合い、
全てのモノやサービスに値段を付け、
仕事を対価を得る機会とし、
お金が無いと生きていけない在り方をずっと続けている人達側にあるのではないだろうか?
ボランティアをする人達の出現が、
地元商売人達を生きていけなくしているのではなく、
自分達が「仕事」と「対価を得ること」とを結びつけ、
その「対価を得る機会」を失うと生きていけなくなる生き方をし続けていることが、
そもそもの根本的な原因なはずだ。
和多志は、どうしてもその責任を
善意でボランティアをしている人達になすり付けている様に感じる。
自分達の在り方・生き方が根本的な原因であることを棚に上げて、
全く原因でも何でもない人の行為が、
まるで自分達が生きていけなくなる原因であるかのように訴えてるということ。
そうやって今まで、
折角はじまった愛の循環を途絶えさせて、
また従来通りに、
お金が無いと生きていけない社会、
そのお金を得る機会である仕事が減ると死活問題になるという在り方を
続けてきたのではないのだろうか?
いつまでその「お金」にお互いを縛り合って生きれば気が済むのだろうか。
いつまで「仕事」というものを「お金を得る手段」とし続けるのだろうか。
いつまで「仕事」を純粋に必要とされるからではなく、
お金の為に必要としてもらうものとして生み出し続け、
その為に不必要な資源の浪費までも繰り返し、
この地球の環境を破壊していけば気が済むのだろうか。
本来「仕事」というものも、
自分がやりたいことなどを通じて、
純粋に人々に必要とされること、
喜ばれることを提供するだけのことであって、
「お金」を得るための手段ではないはずだ。
客が来なくなると困るとか、
仕事が減ると困るとか、
ノルマの達成だとか、
お金の為に客の奪い合いをするというのは、
それはもはや既に「仕事」とは遥かにかけ離れた別の行為をしている。
なにより、様々な分野・ジャンルにおいて、
無償提供をする人達が増える方が、
お金が無くても生きられる様になる循環を作り出し、
仕事が無いことが死活問題にならなくなるので、
本来、生きていけなくなるということなど無くなるというのに。
それに、
「それをされては生きていけなくなる」と訴えるべき本当の相手は、
善意でボランティアをしている人達ではなく、
日頃から自分達が生きていくうえで必要なモノやサービスに
値段(対価)を設け、その支払いを求めている人達であろう。
お門違い、筋違いである。