林房雄は「東亜百年戦争」と天皇の関係についても、「武装せる天皇制」という章を設けて分析しています(「天皇制」という文言は元来マルキスト達の用語なので、個人的には使用したくはないのですが、本書の筆者が使用しているので、そのまま表現します)。

 

共産主義者に天皇制を語らせるならば、「独占的ブルジョワと封建的地主の上に立って、労働者・農民を苦しめ、人民を搾取して戦争に駆り立てるアジア的専制(竹山道雄『反共的天皇制論』)というような感じになるのでしょう。

しかし実際の天皇制とは、極めて均質性の高い「島国日本」の民俗的存在様式が長い時間をかけて作り上げた中心点のようなものであり、簡単に表現するならば「民族の祭司または神官」と言うべき存在です。

そこで林はこのような文章を記しています。

 

祭司も神官も、民族の危機においては武装する。戦争が発生すれば、その総指揮官となり、終れば再び平和な祭司神官にかえる。

明治維新から昭和敗戦に至る三代の天皇制は明らかに武装していた。(中略)

しかし、天皇の武装は決してそれがはじめてではなかった。なるほど、西洋風の武装をしたのは、明治維新後がはじめてだが、唐風の武装も埴輪人形の武装も、ちゃんとした武装である。神話の神武天皇も神功皇后も武装していた。彼らが実在の人物ではないとしても、日本民族の歴史のはるかな初期に、天皇が武装していたことは、考古学的に証明できる。大化改新の天皇制も武装していた。建武中興の天皇制もわずか二年間であったが武装した。

 

明治天皇 画:エドアルド・キヨッソーネ (京都大学総合博物館HP より)

 

明治維新までの約700年間、武家政治ゆえの天皇非武装時代が長かった為、現代人の歴史認識には明治以降の天皇のあり方に違和感を感じる人(特に左翼)が結構いますね。ただし、「東亜百年戦争」という国難の最中であったと仮定すると、古代から幾度となくあった「天皇の武装」が、「歴史の繰り返し」としてスッと胸に入ってきます。

そして政治利用の為に天皇を免訴し、代わりにその他の被告を絞首台へと送った東京裁判に対して、彼はこう叫ぶのです。

 

私は「東京裁判」そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の敗戦者に対する復讐であり、すなわち戦争そのものの継続であって、「正義」にも「人道」にも「文明」にも関係ない。明らかに、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、戦争史にも前例のない捕虜虐殺であった。

かかる恥知らずの「裁判」に対しては、私は全被告とともに、全日本国民とともに叫びたい。「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である!」と。

自分は絶対に戦わなかった。ただの戦争被害者だと自信する人々は、もちろんこの抗議に加わらなくてもいい。あの戦争の後に生まれた若い世代にも責任はない。だが、私は私なりに戦った。天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁解の必要もない事実だ。

 

「武装せる天皇制」に関してはこれくらいにしておきますが、上の引用で「東京裁判」が出てきたので、もう一つここで同裁判に関する文章を紹介しておきましょう。

 

東京裁判はとにかく裁判の形をとっていたので、東郷元帥や乃木大将までを戦犯にすることはできなかったが、十五年前の満州事変までさかのぼって多数の戦犯を製造した。パール博士の抗議も清瀬一郎弁護人の弁護も無視された。

しかもカイロ・ポツダム宣言にもとづいて日本におしつけられた講和条約は百年以前までさかのぼった。「日本を明治維新以前の状態にまでおしもどす」と彼らは公言し、そのとおりに実行した。これは「大東亜戦争は東亜百年戦争の終曲であった」という私の仮説の真実性を裏づける。

 

特に引用の後半部分には強い説得力がありますね。

 

東京裁判 (Wikipedia より)

 

さて今記事③では、時系列は前後しますが、下の文章を引用して締めくくろうと思います。

 

私は「征韓論」を「挫折せる出撃」と呼んだ。それは出撃することのできなかった出撃論であった。日清戦争ではたしかに朝鮮、満州まで出撃した。だが、そこで欧州三国強国の干渉をうけて後退せざるを得なかった。これを勝利とよぶことができようか。日清戦争もまた「挫折せる出撃」であったのだ。ここに「東亜百年戦争」の宿命がある。

その十年後の日露戦争もまた、後に述べるように、挫折した戦争であった。日清日露の両戦争によって、日本は所期の目的を何一つ達成しなかったと言ってもいい。(中略)日露戦争においても、カラフト島の半分のほかには償金さえも得ることができなかった。得たものはただ、幕末以来日本列島を包囲しつづけた「西洋列強」の鉄環がますます強力になり、ますます狭くしめつけられて行くという「教訓」だけであった。列強の中には、例えばイギリスのごとく、日本という「極東の小猛獣」を手なずけて「東洋の番犬」に使った国もあった。だが、それも番犬以上の何物でもなかった。走れば首輪でひきしめ、かみつけば鞭をふるう用意は常にととのえていた。

 

この本は近代日本が歩まざるを得なかった「悲哀」と、歩み切った「誇り」に満ちています。

 

 

 

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