北海道で働く女社長の夫の蝦夷日記

国際政治から映画・音楽・地元の温泉やラーメン紹介まで。難しい話は分かりやすく、がモットーです。

1週間ほど前の事です。

梅之助宛に見知らぬ封筒が届いていました。差出人を見ると「旭川保守・草の根市民の会」で、今年の6月に初めて参加した講演会の次の講演予定案内でした。

興味のある団体だったので連絡してみようと思いつつ、今まで機会を逸してきたっけな。あの時、名前と住所を書いてきてよかった。

 

 

講演内容は、前回の講師・藤村建雄氏の『「ソ連軍上陸」に揺れた北海道』と、佐藤花氏の『回天特攻』。

藤村氏のプロフィールは、下【関連記事】の弊ブログ記事、『南樺太の戦い~「旭川保守・草の根市民の会」講演会③』をご参照ください。

佐藤花氏は今年の2月にあった同会主催の講演会で「占守島の戦い」についてのテーマで講演されたそうで、当時は何と高校3年生。第70回全国高等弁論大会の内閣総理大臣賞・文部科学大臣賞受賞者で、現在は立命館大学1年生。

 

さあ、行ってくるか。我那覇講演会を行き逃したばかりだしな。

 

 

という事で本日午後より行って参りました。

場所は前回同様、北鎮記念館(旭川市春光町国有無番地)。上は今回の資料で、前回に比べて参加者は50名弱。少し多かったですね。

 

まず第一部は藤村氏の『「ソ連軍上陸」に揺れた北海道』。

冒頭に藤村氏は、今年8月14日に放送されたNHKスペシャル「樺太地上戦~終戦後7日間の悲劇」についての感想を語られていました。藤村氏は専門家としてNHKからの取材に協力していたそうです。

ただし、実際に放送された番組内容は藤村氏の見解とはちょっとズレたものだったそうで、藤村氏はNHKに抗議したのだとか。梅之助はこの番組見ていないので何とも言えないのだけれど、まあNHK初めマスコミは自身が導きたい筋書きに都合の良い部分しか引用しませんからね。証言のつまみ食い王者です。

今年は梅之助、TVの終戦特番を一切見ませんでした。

 

 

有本氏と全く同意見です。見れば腹立たしいだけだから。

 

さて本題。

ソ連・スターリンが北海道の留萌ー釧路ラインの北半分を欲していた、というのは良く知られている事ですが、1945年8月18日のスターリンへの米・トルーマン書簡(実際は8月17日)にて諦めた、というのが定説になっています。

しかし藤村氏は、ソ連は8月27日まで諦めておらず、チャンスがあれば北海道上陸を狙っていた、と推論されています。

 

 

その根拠として、当時のソ連側、日本側、そして米側の動きを総合的に紹介されていました。

個々の動きをこのブログ記事で紹介するのは、ちょっと専門的過ぎるので止めておきます。梅之助も詳しく理解しているとは言えないし。

興味のある方は、藤村氏の著作をお読みください。

 

 

5分ほどの休憩をはさんで、第二部は佐藤花氏の『回天特攻』。

 

 

前半は「人間魚雷・回天」の誕生から兵器としての特徴、練習内容、人員募集の経過などをご自身で丹念に調べて話して下さいました。

若い女子大生なのにメカニカルな話も多い中、よくまとめていたと思います。

 

 

佐藤氏によると、回天での戦死者は北海道出身者が一番多かったそうです。

また、「航空特攻ではよく『強制された』という話を聞きますが、回天では訓練中に意図的に手を抜く事で出撃を遅らせる事も可能だった為、『大切なものを守りたい』という意思が本当に固い者だけが出撃したのではないか」とも語っておられました。

潜水艦から発射されてしまえば事実上生還出来ない、一度きりの出撃で命を散らした当時の同世代に、佐藤氏は想いを馳せているようでもありました。

彼らの血肉の上に、今日の我々が生きているのだと。

 

彼女は今後、沖縄戦の事を調べていきたいそうです。沖縄戦と言えば、地元沖縄の兵隊さんの次に北海道の兵隊さんの戦死が多かった戦いです。

是非また、北海道にいらしてください。

 

 

最後に写真を撮らせて頂きました。

藤村氏は専門家なので何も言う事はありませんが、佐藤花氏のような若者を我々大人はしっかりと育んでいかねばならないと思いましたね。

人間性を矮小化・独善化させる左翼思想に捉われる事なく、かといって偏狭な右側の端っこに傾倒する事なく。

 

 

【関連記事】

南樺太の戦い~「旭川保守・草の根市民の会」講演会③(2017/07/09)

シベリア抑留 ~ 「旭川保守・草の根市民の会」講演会②(2017/07/02)

北鎮記念館にて「旭川保守・草の根市民の会」講演会①(2017/06/27)

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6月25日、北鎮記念館で開催された「旭川保守・草の根市民の会」講演会の第二部は、「恵須取(えすとる)の戦い~義勇戦闘隊の勝利」というテーマで、講師は藤村建雄氏でした。

藤村氏は樺太における対ソ戦を専門としており、今年4月に「北方近代史研究所」を設立されています。1974年に公開されるも、ソ連と国内左翼勢力の圧力で事実上の公開中止に追い込まれた映画「氷雪の門」の36年ぶり(2010年)の全国上映にも関わった人で、月刊誌「丸」にも文章を執筆しています。

 

 

話を聞いたところでは、何度か「旭川保守・草の根市民の会」の講演会に招かれているようでした。

7月、下の著書が出版との事。読んでみたい・・・でも値段が3500円+税、うっ!

 

 

講演内容でもある「恵須取」という町ですが。

 

黄色部分が恵須取支庁 1.珍内町 2.鵜城村 3.恵須取町 4.塔路町 (Wikipediaより)

 

旧豊原市(樺太庁所在地)や旧大泊町、映画「氷雪の門」の舞台となった旧真岡町よりもずっと北方に位置していました。終戦時の人口は3万人以上、王子製紙の工場と大平炭鉱で栄え、1945年10月には市制が施行される予定だったとの事。

 

さて、テーマに「義勇戦闘隊」という文字があります。

これは「国民義勇戦闘隊」の事で、1945年3月にまず防空及び空襲被害復旧の為の「国民義勇隊」が編成され、それを基礎として6月に「国民義勇戦闘隊」が組織されました。いわゆる本土決戦に備えて竹やりで「えいやぁ~」と軍事教練を受けていた一般民間人達です。

実際は本土決戦の回避により国民義勇戦闘隊が戦う事はありませんでしたが、樺太・恵須取では例外的に国民義勇戦闘隊がソ連軍と実戦を戦う事態となりました。国内では他に沖縄戦(「鉄血勤皇隊」など。国民義勇戦闘隊の法的根拠となる「義勇兵役法」の成立前に編成され、大きな犠牲を出して組織的戦闘が終結していた為に法律が後追いとなった)があるのみです。

 

 

しかも国民義勇戦闘隊の加わった恵須取の警備隊(中垣重男大尉:中垣隊)は、16日の戦闘では敵状を甘く見たソ連軍を一時的に撃退・追撃までして、その後は一般避難住民の後衛を務めました。

 

恵須取町の市街地(浜市街) Wikipediaより

 

しかし恵須取の戦いの中では、「大平炭鉱病院看護婦集団自決事件」も起きています。

ギリギリまで傷兵のいる職場を守って脱出が遅れた為に、中垣隊と合流できなかった看護婦たち23名がソ連軍に途中包囲されたと観念、病院から持ち出した劇薬を飲んで自決した事件です。脱出途中で薬の瓶が割れ、致死量に達しない者は手術用メスで手首を切った結果、6名が絶命し、残り17名は近くの造材部の人たちに助けられました。

真岡郵便局員自決事件はそれなりに知られるようになりましたが、この事件は梅之助も不覚にも知りませんでした。

慰霊碑が札幌護国神社にあるそうです。

 

(上)札幌護国神社にある樺太大平炭鉱病院自決事件の慰霊碑 (下)碑文の拡大図 (Wikipedia より)

 

札幌護国神社には北海道護国神社以上に北海道・樺太ゆかりの慰霊碑が多くあるようです。ここには訪れた事がないので、梅之助にとって一つ宿題が増えました。

 

ポツダム宣言受諾後の南樺太の戦いは混乱を極めました。度々日本側の停戦軍使は処刑され(この中には阿部庄松・塔路町長も含まれている)、避難住民へも容赦のない機銃掃射が浴びせられた為、多くの一般人が犠牲となりました。上記のような自決事件も多発しました。

樺太で自決事件が多かった要因の一つは、1920(大正9)年の尼港事件(赤軍パルチザンによる歴史的な大虐殺事件)を記憶している人が多かったから、という意見があります。

さらに1945年8月22日には、樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌沖でソ連の潜水艦に攻撃され、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,700名以上が犠牲となった事件(三船殉難事件)も起きています。ただし三船を攻撃した潜水艦は、公式には「国籍不明」となっており、今もって表現が改まってはいません。

戦闘は苛烈を極めましたが、その終結後は民間人に寛容だった米英軍とは大違いです。「鬼畜米英」はウソだったものの、「鬼畜ソ連」(←こんな言葉は当時なかったけれど)は真実に近いものがありました(無論、全てのソ連将兵が、という意味ではありません)。

 

結果的に千島とこの樺太での抵抗があったからこそ、ソ連は占領の既成事実化が遅れ、タイミング的に米国トルーマン大統領の「ソ連による北海道占領は認めない」宣言が重なって、北海道は分割されずに済んだのです。もし、ソ連が当初主張した「留萌ー釧路を結ぶライン」の北海道占領が実現していたら、梅之助の住む旭川はラインの北側に相当します。共産圏と直接国境を対峙する事になる戦後日本の歩みも大きく変わっていた事でしょう。

そう思うと梅之助は千島や樺太で戦った日本人たち、犠牲になった人々に対し、頭を垂れても垂れ過ぎる事はないという気持ちです。

 

以上のような内容が藤村建雄氏の著作には詳しく書かれていると思われます。

改めて読んでみたいという想いが、よりいっそう・・・でも高っつ!(最後を世俗的な表現で〆てしまってスイマセン)。

 

 

 

 

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講演会の第一部は「シベリア抑留と旭川第七師団」というテーマでした。

講師は現在、旭川の隣町・美瑛町にお住いの長勢了治氏。

長勢氏は北大法学部卒で、企業に勤めた後にロシア語を学び、シベリア抑留問題などを研究されて来ました。著書・訳書もいくつか出版されています。

 

 

いやぁ~、こんな立派な先生が美瑛に住んでいるとは思いもしませんでしたよ。

 

 

さて講演の内容ですが、最初にシベリア抑留者でそのままロシアで暮らしていた日本人の生存が、つい最近確認されたというニュース記事の紹介から始まりました。

 

 

72年ぶりに発見されたこの日本人男性の事を思うと、長勢氏も語っていましたが、「シベリア抑留問題はまだ終わっていない」と言えます。

以降、長勢氏は「シベリア抑留とはどういったものだったのか」を、配布した資料を中心にして話されていきました。以下はその要約です。

 

1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾と同時に南方の米英軍も戦闘を停止しました。

しかし北方のソ連軍は日本軍の降伏・停戦を無視して武力侵攻を続けた為、やむを得ず日本軍も自衛の戦闘を開始。最終的に樺太と北千島では8月22日に停戦、となりましたが、この時の日本軍の戦いのおかげで北海道本土は米国の占領下となり、共産化されずに済みました。

翌日の8月23日にスターリンは秘密指令「9898号」で「50万人の日本人捕虜をソ連へ移送せよ」と命令。ソ連軍は日本兵の抵抗を恐れ「トウキョウ・ダモイ(ダモイ:帰国)」と偽って、膨大な数の日本人をソ連本土及びモンゴルへと連行するのです。

これは戦時国際法(ハーグ陸戦法規、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約)の完全な重大違反であり、ポツダム宣言にも真っ向から反するものでした。

 

〇1929年ジュネーブ条約「平和克復の後はなるべく速やかに捕虜を本国に帰還させる」

〇1949年改正ジュネーブ条約「実際の敵対行為が終了した後遅滞なく解放し、且つ、送還しなければならない」

〇ポツダム宣言第9条「日本国軍隊は完全に武装解除されたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的な生活を営むの機会を得しめらるべし」

 

この強制連行の背景には、独ソ戦における2500万人ともされる自軍の戦死者によって生じた労働力不足を補うという、ソ連側の意図がありました。

現在中国において、日本人旅行者やビジネスマンが「スパイ行為を行った」という訳の分からない理由で拘束される事件が頻発していますが、当時のソ連も日本人捕虜を理解不能な理由で犯罪受刑者にすり替え、長い人では1956年12月までの11年4ヶ月という抑留を行ったのです。

 

では実際、どれくらいの日本人が連行され犠牲になってしまったのか?

日本政府によると、ソ連本土・モンゴルに連行された強制抑留者57.5万人、死者5.5万人が公式記録となっていますが、これはあくまでも「最低限」の数字であって、この数にはソ連支配地域でソ連軍が管理する収容所(例:真岡、大連、元山、興南など)に収容された現地抑留者が含まれておらず、長勢氏はこれらも含めて「シベリア抑留は抑留者70万人、死亡者10万人」としています。当然の見解ですね。

ただし抑留者は100万人以上ではないか?という見解もあり、米国研究者ウィリアム・ニンモ氏の著書「検証 - シベリア抑留」によれば、「25万4千人が死亡し、行方不明・死亡推定者は9万3千人で、事実上約34万人の日本人が死亡した」とする説もあります。

日本人の「された事」は過少に伝えられ、「やったとされる事」は針小棒大に伝えられるんですね。

これが「戦争に負ける」という事です。

 

当然、南樺太や千島列島で戦った部隊は旭川第7師団ゆかりの部隊ですから、多くの兵員が抑留されています。今回の講演会会場にもお一人、シベリア抑留を経験されたお年寄りが来られていました。講師の話が終わった後、「何か話があれば」と言葉を振られましたが、多くを語る事はされませんでした。

 

強制労働の実態は、どうであったかというと。

収容所は囚人ラーゲリと同様に、有刺鉄線と監視塔で逃亡させない構造となっていました。

労働の賃金は、当初は全く支払われず、完全な奴隷労働。1946年夏から一部の特殊技能者に、1948年から一般作業者にも少額支払われるようになったそうです。

ただし、賃金支払いはノルマ100%達成が条件。今も使われるこの「ノルマ」という言葉はロシア語です。

しかも、月額報酬の算定式は、[ 重労働の場合:(賃金-給養費)×85% ]となっており、更にソ連は収容所の維持費まで捕虜に負担させるという酷い搾取を行うと共に、食費を含む給養費も200→400→456ルーブルと意味不明の増額した為に、支払額は殆ど0でした。

また労働ノルマは作業種類ごとに1日の基準作業量が規定されており、例えば森林伐採は4m3/日(8時間)だったものの、日本人は時にそれ以上の成果を残した故に、4m3 → 4.5m3 → 5m3 へ変動さえしていました。ソ連の囚人やドイツ人(ドイツ兵も捕虜として日本人同様、強制連行され労働に従事していた)らは、決してノルマ以上は働こうとはせず、この点においては勤勉だった日本人の資質が災いになったとも言えます。

ノルマが達成出来なければ超過労働や減食が実施され、旭川の冬の最低気温をはるかに下回る-40℃、-50℃といった環境の中で、犠牲者の8割が最初の冬で死んでいきました。

 

このように日本人らの命を削って構築された産業インフラは、今も旧ソ連・モンゴル国内にて現役で稼働しています。

中でも有名なのは現ウズベキスタンのナヴォイ劇場で、1996年に時のウズベキスタン大統領は建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置したそうです。

 

ウズベキスタン・ナヴォイ劇場 (Wikipedia より)

 

Wikipediaの記述によると、ウズベキスタン大統領は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」と指示し、プレートには、

「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」

と書かれています。

 

ナヴォイ劇場のプレート (Wikipedia より)

 

また日本人は「建設時、懸命に作業する日本人に対して地元子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった」そうです(Wikipediaより)。

ウズベキスタンは旧ソ連崩壊後にソ連から独立した国家だからこそ、このような記録を残してくれたのでしょう。しかしその他、現ロシア国内に残る日本人による産業遺産には、そのような史実を記録しているものはありません。

 

以上のような事を指摘・解説して長勢了治氏の講演は約1時間弱で終了しました。

 

朝鮮人の言う「日本による強制労働」と比べて、なんという扱いの違いでしょう!?

因みに戦時下の朝鮮人徴用の実態は弊ブログ記事(→韓国の主張する「強制労働」とは一体何だったのか?(2015/07/15))を参照してください。

まず日本人からして、このような事実を知らなければなりません。

 

 

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昨年の「新潮45」9月号にジャーナリストの大高未貴氏が、「慰安婦問題の原点・吉田清治」の長男にインタビューした記事が掲載されていました。

これ、いち月刊誌の記事として埋もれてしまうには非常に惜しい貴重な内容なので、きちんとしたブログ記事にまとめて、残しておきたいと思います。

以下、太文字は「新潮45」当該記事(大高氏の文章)、そのうち赤字はご子息の発言部分。

 

 

慰安婦問題最大の焦点は「日本軍が慰安婦を強制連行」したかどうかである。

だが日韓両政府が血眼になって記録を調べても、それを証明する公文書資料は見つかっていない。だから山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治氏の「軍の命令で朝鮮人女性を強制連行し慰安婦にした」という証言が重要だったわけだ。だがそれが虚偽であることは、朝日新聞の撤回を待たずともはっきりしていた。当の清治氏自身が、週刊新潮の取材にこう答えているのだ。

「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやってることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない」(平成八年五月二・九日号)

 

このように確信的に歴史を偽造した吉田清治(1913~2000)という人物を知る為に、大高氏は長男であるご子息を訪ねます。彼は1949年生まれで、職業は翻訳の仕事に従事。

誠実そうな印象の彼は大高氏にこう語り始めたそうです。

 

「父が犯した慰安婦強制連行の捏造について、吉田家の長男として、日本の皆様にたいへん申し訳なく思っております。できることなら、世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい。父の過ちを糺したい、少しでも罪滅ぼしをしたい、そういう気持ちから、私の知りうることをすべてお話しします。私自身、なぜ父があんなことをしたのか知りたいのです」

 

「慰安婦狩り」をしたという山口県労務報国会下関支部について、長男はほとんど何も聞いていない。ただし、これだけは訴えたいとこう述べる。

「労務報国会の下関支部は朝鮮人男子の労務(梅之助・注:当時、日本人は殆ど軍に駆り出され、まともな労務者は残された朝鮮人らが多数だった)というか、下関市内の大工、左官、土木工事の方々を雇って日当で払う仕事の現場監督みたいなものですから、従軍慰安婦とは何の関係もない。そのことは長男としてはっきり言っておきたい」

 

ご子息の記憶では、父親は戦後仕事らしい仕事には就いた事がないそうで、そんな中、ラジオやテレビ、雑誌などによく文章を応募しており、高額入選する事もあったそうです。

特に1963年週刊朝日が「私の八月十五日」の手記を募集した際、吉田清治の文章が佳作に入選。内容は、終戦を受けて朝鮮人労務者たちが吉田清治の自宅に詰め寄り、彼が軍刀を振り回して追っ払ったというものでした。悲惨な戦争被害者という観点からの作品が入選を占める中、唯一の戦時加害者としての視点を持った作品だったそうです。

 

長男はこの投稿について少しだけ父から話を聞いていた。

「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半は共産党員だったそうです。終戦の八月十五日か翌日、家に集まってきた彼らに軍刀を振り回したというのは嘘だと言っていました。当時、軍人でもない父に、軍刀は支給されていなかったのです」

それなら話自体の信憑性も疑われるが、この内容を事実としてすぐに著作に取り込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を執る歴史研究家の朴慶植氏である。強制連行文献のバイブルとされる彼の『朝鮮人強制連行の記録』に引用されるのだ。

 

実はこのご子息、高校を卒業後に何とソ連に留学したそうです(のちに彼の弟も)。

ただし強い思想理由があった訳ではなく、ソ連留学が旅費も生活費も無料(米国フルブライト留学の場合、旅費は自己負担らしい)だった為、試験を受けてみたところ受かったから、というもの。貧しい家計を考えて自らの意思だったそうです。

この留学は途中で事情があって兄弟は中途帰国する事になるのですが、しばらくしてロシア語が堪能だという事で、公安警察から兄弟そろってリクルートされる事になりました。彼は日ソ合弁の船会社に就職し、「国の為に」という思いで、通常業務の傍ら関係者の監視・情報収集をしていたそうです。

大高氏も驚いた話だったようで、兄弟を勧誘した神奈川県警の元刑事にも会い、ウラをしっかり取っています。事実でした。

その頃、吉田清治はデビュー作『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版(1977年)しています。

 

「もともとは自分の自叙伝を書くつもりくらいだったんじゃないでしょうか」

と語るのは長男である。

「私が本を出した(梅之助・注:彼ら兄弟がソ連から帰国した際、留学時代の軽いエッセイのような本を出版している)のを見て、それも口述で本を出せたわけですから、私より文章のうまい父は、出版社何社かを訪ねていけば簡単に出してもらえるって思っていたんじゃないでしょうか」

ただ、と長男は続ける。

「経験していないことは書けるはずがない。一冊、空想で書くことは不可能でしょう。だから誰か手助けした人がいる。でも私はその頃、過労死寸前くらいに働いてましたから、ずっと家にいた父とはほとんどかかわっていないんです」

 

吉田清治はデビュー作を出版後、次第に各出版社やメディアに自分を売り込む活動を行い始めます。

彼は後年、日本の国に大きな災難をもたらす訳ですが、その子供たちは必死に、そして文字通り日本の為に働いてくれたのですね。

 

 

続いて1983年、吉田清治は済州島で慰安婦狩りを行ったという、問題の第2作目「私の戦争犯罪」を出版します。

大高氏は同書の編集を担当した三角忠氏にも取材をしており、何と彼は今でも吉田清治の証言を事実として支持しているそうです。

 

済州島については「私の方からヒントを出した」という。

「私がもともと済州島に非常に興味があったんですね。金石範の『火山島』を読んでいましたから。済州島蜂起の話をしたら、”あっ、そう言えば” という感じでしたね」

済州島での慰安婦狩りはこうしたきっかけで書き始められたのだ。

 

その頃、ご子息は公安の活動は辞め、翻訳会社に転職していました。給料が良かったからだそうです。

 

その長男が衝撃的な証言をする。

「父は済州島には行っていません。それは父から聞いています。それで父は、済州島の地図を見ながら、原稿用紙へ原稿を書いていました」

ではなぜあれほど克明に書けたのか。

「材料はなかったはずです。ですからそれは、出版社や周りにいた人たちに発言をしていただきたいんです」

 

2作目の出版以降、吉田清治は精力的に活動していきます。

1983年12月、彼は韓国忠清南道天安市を訪問し、彼本人の名前と謝罪文が刻まれた謝罪碑の前で土下座しました。その碑は私費で建てたとされています。この件は日韓両国のテレビ、新聞メディアなどで大々的に報じられました。

 

だがこれについても、長男は、

「石碑を建てたり、韓国に行ったりするお金は、うちにはありませんでした。あれはいろいろな人からの支援だと思います」

と言う。そしてこんな話を打ち明けるのだ。

「韓国から戻ってきた後、父のパスポートを見てびっくりした記憶があります。日本からの出国と帰国のスタンプはあるのですが、韓国への入国、出国のスタンプが押されていない。なぜかと聞いたら、韓国の空港につくやいなや韓国政府の人がやってきて特別室に案内され、そのままソウルの街に出たんだそうです」

 

一方、その時の謝罪の旅のTV画面を複雑な思いで見つめた人物がいました。

それは息子兄弟を公安に誘った神奈川県警の元刑事その人。彼は兄弟をリクルートした関係で、吉田家と家族ぐるみの付き合いをしていました。

彼は以前、ある出来事から吉田清治を詰問する事態になった事があり、その時に吉田は「韓国のある組織から借金をしている」とゲロしたのだそうです。吉田はそれ以上は言いませんでしたが、刑事は当時その組織をKCIAだと推測したそうです。

 

「正直なところ、可哀そうだなと思いました。本当のおやじさんの顔じゃなかった。痩せちゃっているし、怯えている姿そのものでしたよ。自業自得だな、しょうがないなとは思いましたが、最後には可哀そうになってきた。このあとKCIAに殺されなきゃいいな、とも思いました」

 

吉田清治の「慰安婦狩り」生き証人としての活動は更に加速していきます。

しかし1992年頃から彼の著作や言動に大きな疑義を投げかける人々が現れました。この頃、歴史家の秦郁彦氏は済州島現地調査で、「私の戦争犯罪」を裏付ける証言が何一つ出てこなかった事を公表しています。メディアも次第に吉田清治の証言とは距離を取り始めました。

しかし慰安婦問題自体は実名で名乗りを上げる韓国人女性たちの出現、河野談話、村山談話、アジア女性基金と、もはや後戻りできない所まで来てしまっていたのです。

 

朝日新聞もすでに平成九年三月三一日の特集記事で、吉田証言の「真偽は確認できない」としている。

担当編集者の三角忠氏が語る。

「吉田さんが一番こたえたのは、慰安婦問題に取り組んできた中央大学の吉見義明さんや関東学院大学の林博史さんなどが学術的な資料としてはちょっと使えないと言い出したことなんですよね。お二方には、そういう言い方をするとこの本の歴史的証言を貶めることになるんじゃないですかと言ったんですがね。唯一、西野瑠美子さんだけがいまもこの本を事実だと言ってくれている」

 

今も信用している人がいるのはちょっと驚きです。

 

だが、長男はまったく正反対の思いでいる。

「父は結果として大変誤った歴史を作り出してしまった。これは私が生きているうち直さなきゃいけないと思っています。軍が民間団体に軍の命令書を発行するわけがありません。労務報国会という半官半民の組織や民間組織が軍命で朝鮮人女性をトラックに載せて集めるなんてことができるわけがない。これは歴史的事実として、長男の立場から真実を定着させていかなければならない。父が暴走し始めた時に私がストッパー役になっていればと、悔やんでも悔やみきれません」

そして朝日新聞についてはこう語る。

「二年前、慰安婦報道について訂正記事を出す二、三日前に、私を訪ねてきました。取材というよりは最初から筋書き通りの形式的な質問をして三〇分ほどで引き揚げていきました。平成九年の段階でなぜ父に直接取材をしに来なかったのか。その時に真相を究明していれば少しでも慰安婦報道の歪みが正されていたのではと思います」

 

ソウル日本大使館前の慰安婦像 (Wikipediaより)

 

慰安婦問題の日韓合意を事実上破棄した、昨年末の韓国・釜山慰安婦像設立問題。

一番ショックを受けているのはこのご子息ではないでしょうか?

彼の苦悩は続きそうです。

 

 

【関連記事】

遂に吉田清治の御子息、行動す(2017/05/12)

STAP捏造と慰安婦問題捏造の「罪と罰」(2014/08/06)

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梅之助の思想信条は世間ではいわゆる「右側」という立場になると思います。個人的には極めて穏健な中立だと思っているけれど、えへへ。。。

よく左翼の言説は、過去の日本政府や日本軍の行動をほとんど全否定していて、それはもう知性もへったくれもありゃしないという呆れたものがあります。

しかし、中には右派の主張にも「それはどうよ」というのが見受けられるのも事実。それは事実認識が不足していたり、整理されていなかったりするのが原因と思われます。

なので梅之助は思想信条、特に歴史問題について書く際は、出来るだけ客観的事実を調べて文章に反映するよう心がけています。もちろん、知識の浅い一般人なので行き届かない所もあったり、感情に任せて書いてしまう事もありますが。。。

 

前回の記事で日本軍による真珠湾攻撃の時、米側に開戦通告が遅れた事に触れました。その際、それに類するネット上の色々な記事を見ていたところ、様々な文章に出っくわしました。

例を挙げると

 

・米国は第二次大戦より後の戦争で、一切、宣戦布告をしていない。

・日本軍は真珠湾攻撃の少し前、マレー半島を攻撃しているが、なぜそちらは問題とならない?

・第二次大戦中、日本以外の交戦国で宣戦布告がされていないケースがいくつか見受けられる。

・日露戦争でも日本は宣戦布告の前にロシア艦隊を攻撃しており、なぜ真珠湾の時だけ問題となる?

 

などです。

そう指摘されると、何だか混乱してよく分からなくなってしまいますね。

そこで少し言葉の意味を確認して、分かりやすく整理してみましょう。

 

 1941年12月9日 朝日新聞

 

「宣戦布告」とは文字通り、これからあなたの国と武力で戦いますよ、と通告し発表する事。

そしてそれに準ずるものとして「最後通牒」というのがあります。

よく一般人の交渉事でも使われる言葉ですが、外交用語としての「最後通牒」とは、国際交渉において相手国がその最終要求を受け入れなければ交渉を打ち切る(事実上の外交断絶宣言)と通告する事で、外交が打ち切られれば通常、次は武力行使の段階に移る事を意味するため、戦争宣言に準ずるものだとされています。

つまり宣戦布告とは、狭い意味では上の「宣戦布告」を、広い意味では「最後通牒」を含んでいる、という事が言えそうですね。

 

実は第二次大戦当時、1907年に成立した「開戦に関する条約」という国際法があって、そこには開戦に先立ち相手国に「宣戦布告」あるいは「条件付き開戦宣言を含む最後通牒」を通告する事、という規定がありました。ただし、上で書いたように外交断絶通告だけでも実質的に後者に相当すると見なされていたようです。

この法律の発端は日露戦争で、日本が「宣戦布告」の前にロシア艦隊を攻撃した事を受けて、開戦におけるルールを整備しようという事になり成立したそうです。

日露戦争をこの条約に当てはめてみると、1904年の

2月8日日本、ロシア旅順艦隊を攻撃

2月10日ロシアに「宣戦布告」

となりますが、

2月6日日本、ロシアとの国交断絶通知(「最後通牒」)

という経緯がある為、問題にはならないという認識をアメリカを含めた中立国は示しています。

因みに第一次大戦の日本はドイツに対して、1914年8月15日に期限を一週間設けた「最後通牒」通告、8月23日「宣戦布告」、開戦、という経緯で、手続きを遵守しました。

 

 日露戦争 旅順の戦い (防衛省防衛研究所所蔵)

 

では真珠湾奇襲の際、予定時間に渡し損ねた「対米覚書」について。

よく一般には宣戦布告が遅れたと表現されるこの文書、厳密には「最後通牒」という意図で日本政府は米国側に渡したかった訳です。文書には「交渉打ち切り」が書かれているだけで「最後通牒になっていない」と字面に捉われて解釈する人もいますが、それは現代の感覚から来る認識不足です。当時は今以上に「戦争は外交の延長上」という考えが世界一般の常識であり、また当時の日米関係の雰囲気もそういうものでした。要は相手国に「次は武力行使ですよ」と分かればいいのであって、「対米覚書」も読めばそれと理解できますよ。

一方、戦前の日本における正式な「宣戦布告」は、「宣戦の詔書」というものです。世界と国民に向けて天皇の名で発せられるものですが、どちらかというと国民向けの側面が強いですね。対清国(日清戦争)、対ロシア(日露戦争)、対ドイツ(第一次大戦)、対米英(第二次大戦)の計4回出されています。

 

 日露戦争の「宣戦の詔書」(国立公文書館HP「近代国家日本の登場」より)

 

次に日本軍のマレー攻撃に関して。こちらは何らかの形で通告する事は端っから予定していませんでした。問題にならなかったのは、たまたま相手方(英国)がそういう態度を取っただけの事です。理由は推察になりますが、既に日本の同盟国ドイツ・イタリアと戦争状態であったため、米国のように国民を開戦意識へと誘導する必要がなかったからではないでしょうか。

また、第二次大戦におけるドイツ軍の戦端のほとんどが宣戦布告無しで開かれています。この点はどうなっているんでしょうね。ホロコーストという戦争犯罪の陰に隠れてしまって、問題にされていないのかもしれません。

 

 マレー攻略戦 シンガポール市内を行進する日本軍 (Wikipediaより)

 

宣戦布告について酷いケースを一例だけ。

それはソ連の対日参戦。

翌年4月まで残っていた日ソ不可侵条約を破り、ソ連が日本に攻め込んで来たのは1945年8月9日。攻撃開始の約1時間前に、ソ連の外相・モロトフは駐ソ日本大使・佐藤尚武に宣戦布告を宣言しています。佐藤大使はモロトフの許可を取り、モスクワ中央電信局から日本外務省に打電するものの、この公電は日本に届きませんでした。実はモスクワ中央電信局が受理したにも関わらず、意図的に日本電信局に送信しなかったからです。日本がソ連の参戦を知ったのは、侵攻開始から約4時間後。タス通信などのマスコミ報道によってでした。

酷いソ連の背信行為です。

この事実は昨年8月8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになっていて、産経ニュースが報じています(→記事はこちら)。

 

真珠湾の話に戻ります。

ハルノートを実質的な「最後通牒」だと見る向きもあるようですが、それに関しては何とも言えません。もちろん米国の本音がそこにあるのは間違いありませんが、米国は国内世論の関係で自ら戦争に打って出る事は出来ず、日本側から開戦してもらわねばならない立場でした。よってハルノートは日米交渉の米国側からの提案という形になっています。

つまり、米国としては「まだ交渉中」というフリをしていた訳で、そこを日本軍が「最後通牒」を手交する前にハワイを攻撃してしまったので、ここぞとばかりルーズベルトがそれを最大限利用して自国を開戦に導き、日本の悪評を際立たせる結果となってしまいました。

「はめられた」とはいえ、この日本の失策は弁明の余地がありません。具体的な交渉のなかった英国とは、そこも若干事情が違うように思われます。

ただ、ルーズベルトの日本非難は日露戦争のケースも絡めて「日本は常に宣戦布告をせず、騙し討ちをする国」としており、事実を歪曲しています。そこは本当に卑怯ですね。

一応触れておきますが、東京裁判では真珠湾奇襲攻撃そのものには無罪判決が出ているそうです。

 

 日米交渉 記者会見する野村・来栖大使 (Wikipediaより)

 

戦後の米国の戦争については、調べるのも骨が折れそうなので止めておきます。米国は身勝手な国なので人を非難しておきながら、自らはしょっちゅうルールを力の論理で無視していますからね。ご都合主義もいいところ。まあ、戦前・戦後を通して、列強・大国とは皆そんなもんです。

ただし、戦後の戦争で全く宣戦布告していないというのは間違いのようで、梅之助の記憶している限りでは2003年イラク戦争の際、当時のブッシュ大統領がサダム・フセインにTV演説で「最後通牒」を突き付けています。先制空爆の後、本格攻撃の前でしたけど。

 

戦後も数多くの戦争・紛争はありましたが、有力国家がそれぞれ核の傘に収まった為、ガチンコ対決という構図がなくなり中小国同士の代理戦争となったり、国連の介入があって複雑になったりと、発端とその経過は一言では言えない現状です。

なんか北朝鮮などは常に「最後通牒」&「宣戦布告」みたいな声明を乱発しているよね。

 

以上、ざっと振り返ってみると、宣戦布告の有無に関する評価はその時々の世界情勢、対象国の政治事情などによって大きく変転するみたいです。そう考えると、いつまでも日本だけが「騙し討ち国家」という過去のレッテルを引きずらねばならないのは、少し不当な気がします。

 

 

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