本書を知らない人ならば、林房雄(1903~1975)という人物はほとんど知らないでしょう。

彼は戦前から戦中、戦後にかけての小説家・文芸評論家で、戦前は共産主義に傾倒するものの、検挙され獄中にて日本の歴史書などを読み漁った結果、「転向」。戦後は支那事変へ従軍作家として赴いた件で公職追放を受け、1950年に作家として復活しています。

彼からは三島由紀夫も大きな影響を受けました。

 

さて、梅之助が初めてこの本を読んだのは1990年代の中頃だっと思います。

 

 

契機となったのは当時の保守系雑誌「諸君」か「正論」に、この本を紹介した寄稿文(徳岡孝夫氏だったかな? 忘れた)があったからでした。

本書の中で林は「東亜百年戦争」という概念を提起し、日本近海に西欧諸国の艦船が頻繁に姿をみせだした頃(ペリー来航前、少なくとも国内の攘夷熱が高まりだした幕末・弘化年間)から1945年までの期間をそう呼んで論を立てたのです。

 

私は自分にたずねる。明治大正生まれの私たちは「長い一つの戦争」の途中で生まれ、その戦争の中を生きてきたのではなかったのか。

私たちが「平和」と思ったのは、次の戦闘のための「小休止」ではなかったか。徳川二百年の平和が破られた時に、「長い一つの戦争」が始まり、それは昭和二十年八月十五日にやっと終止符を打たれた──のではなかったか。

 

特に梅之助の気を引いたのは、その主旨よりも寄稿文に引用されていた文体でした。

以下、長いですが、本書よりその箇所を抜き出します。

 

私の仮説を認めない学者たちは、日本はいくつかの時点において立ち止まるチャンスがあり、すなわち「無謀な大東亜戦争」を回避することができたはずだと主張する。果たしてそうだろうか。日本が「立ち止まれた」という説を裏返せば、英米路線に強調して、もっと巧妙な「アジアの搾取」になり得たはずだという主張になる。さもなくば、戦わずして西洋の圧力に屈し、維新前の四つの島にとじこもり、「スイス的繁栄を楽しめ」という愚かな「平和的夢想」──実行不可能な愚論となる。この種の「理性的暴論」を敢てする戦後派の学者諸氏を幕末、明治中期、朝鮮合併と満州事変、大東亜戦争勃発直前の政治的中心に立たせてみたい。いったい彼らはいかなる「理性」と「政治力」によって、日本を立ち止まらせることができたであろうか。立ち止まらせるための一応の努力は多くの人物によってなされている。彼らが現在の進歩人諸氏より「小器」であったとは思えない。大器量人もたしかにいたはずだが、彼らにも日本を「百年戦争」の途中で立ち止まらせることはできなかったのだ。今の進歩人諸氏にできるはずはない。──火事場の跡の賢者顔ほど間抜けで厭味なものはない。

 

そして最も強く印象に残ったのは、上の文章に続く以下の部分。

 

火事を未然に防ぎ得た者は賢者である。燃えはじめた火事を身を挺して消し得た者は勇者である。だが、この百年間の日本人には、その賢者も勇者も生まれ得なかった。なぜなら、「東亜百年戦争」は外からつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のもとに、多少の間隔をおきつつ、適当な機会を狙って、次から次へと放火された火災であった。日本人は火災予防の余裕を与えられず、不断に燃えあがる火災の中で、火炎そのものと戦わねばならなかった。時には神話の勇者のように、剣をふるって自らのまわりの燃えさかる枯草を切り払わねばならなかった。風が変わって火災が隣村の方向に燃え移ることを願ったこともあった。逆風を利用して自ら火を放ったこともあった。そのために、彼自身、悪質な放火者とまちがえられ、非難もされた。

私は放火と戦った勇者を非難しない。多くの日本人が焼死した。鎮火の後に生きながらえた勇者もほとんどすべて全身に大火傷を受けた。

 

梅之助は当時から反共主義を中心とした保守思考だったので、その頃の保守識者が書いた大東亜戦争に関する考察文章を幾つも目にしていましたが、このような情緒的・文学的表現を用いたものは見た事がなかったので、大変な新鮮さを受けたのを記憶しています。

取りあえず地元図書館で調べてみると、古い単行本が閉架書庫にしまってあるとの事で、職員にお願いして貸し出してもらいました。

 

あれからも結構、時間が経ちました。

この「大東亜戦争肯定論」は雑誌「中央公論」に1963~1965年にかけて連載され、単行本は番町書房という出版社から刊行されています。梅之助が初めて読んだのはこの番町書房版だったはずです。その後しばらくの絶版期間を経て2001年に夏目書房より再刊するも、2007年の同社倒産により、再度絶版へ。やがて2014年の中公文庫化によって、再び不死鳥の如く世の中に出てきました。梅之助が今持っているのは、その文庫版です。

 

林はこの本の執筆動機として、

 

上山春平氏によれば、敗戦後の日本人は、アメリカの立場からの「太平洋戦争史観」、ソ連の立場からの「帝国主義戦争史観」、中共の立場からの「抗日戦争史観」を次々に学習させられて来たそうである。

 

と前置きし、こう続けます。

 

この「独自な国民体験」の上に、日本人自身の「大東亜戦争史観」を築く時が来ているのではないか。アメリカによる、ソ連による、中共による「教育」は大変結構であった。貴重なものにちがいない。が、先生の言葉をそのままうのみにして吐き出す生徒は、必ずしもいい生徒ではない。よくかみしめて、心の栄養にして、自分自身のものを創りだす。これが生徒の心構えだ。先生も喜ぶだろう。

 

梅之助がこの本に初めて接した時は、まだ(今は思考劣化した)小林よしのり氏の名著「戦争論」(1998年)シリーズも世に出ていなかった頃です。小林氏の一連の作品の参考文献一覧にはこの本のクレジットはありませんでしたが、同氏もこの本は目にしていたものと思われます。現に「戦争論」が上梓された際には、この本と比較する評論がいくつか見られました。

以下、小林よしのり氏「戦争論3」(2003年)からの引用。

 

わし(小林氏)は、アメリカの黒船の艦砲で脅かされて開国したが最後、そのアメリカと戦うまでは日本の「運命」であったと考えている。

軍部が暴走したのもそうで・・・参謀本部が昭和から無能になってきたというのも一理も二理もあるだろう。

しかし、どうせ外から迫り来る悪意は、世界史の中で日本だけを見逃してくれたはずはないのだ!

日本人は「動物」ではない。有色人種は「獣」ではない。

有色人種の中で当時、どこの国がそのことを示す力を持っていたか!?

これが世界史の中で決定的に大事なことなのだ!

 

まあ、仮に小林氏が全くこの本を目にしていなかったとしても、冷静な目で近代日本史を俯瞰出来る能力のある人ならば、同様の結論に至るのは自然な事でしょう(それが明治・大正・昭和前期を生きた一般的日本人の平均的「常識」でもありました)。

もっとも、出版当時は「毒書」とされた「大東亜戦争肯定論」も、今の物差しで考えるなら小林氏の「戦争論」ほどは右側に位置せず、内容は濃密でありながら案外バランスも取れています。

 

小林氏の作品群よりも更に30年以上前の本なので、古いが故に分かりづらい所も多々あります。例えば本文中には当時の左系・右系識者の文章も数多く引用されていますが、平成を生きる梅之助にはまず、その識者自体がどういう思想スタンス持っていたのかを含めてよく分からない。上の上山春平も初めて知ったし、今なら保守派の長老格の江藤淳(もう亡くなったけど)や西尾幹二は若手として登場して来るといった感じ。

しかしそういった執筆時代の差を超えて、林房雄の文章には魅力的なところがあります。

次回は本書文章を引用しながら、もう少し彼の「叫び」を紹介してみます。

 

 

 

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