林 房雄 (「鎌倉文学館」より)

 

林房雄は本書冒頭、一般論として自身が生きた終戦までを作家・五味川純平の言葉「呆れるばかりにふんだんな戦争のあった時代」と紹介して論を開始しています。

そして「東亜百年戦争」という概念を提起した以降は、

 

八月十五日の敗戦において、幕末以来の日本の抵抗と挫折はついに完成されたと言っていい。敗戦二十年後の現在から「歴史家の目」でふりかれば、「東亜百年戦争」はそもそもの初めから勝ち目のなかった抵抗である。しかも、戦わなければならなかった。そして、日本は戦った。何という「無謀な戦争」をわれわれは百年間戦って来たことか!

(中略) この百年間、日本は戦闘に勝っても、戦争に勝ったことは一度もなかった。

 

としています。

そして薩英戦争及び馬関戦争、それに続く明治維新、征韓論、日清・日露戦争、条約改正運動、大アジア主義、朝鮮併合、軍縮会議、満州事変、日支事変と対英米開戦などは全て「東亜百年戦争」の全過程として、各章ごとに分けて分析・論述するのでした。

 

日清戦争 「平壌攻撃我軍敵壘ヲ抜ク」  画:水野年方 (Wikipedia より)

 

なるほど明治維新の背景は、薩摩・長州側のバックにいた英国、幕府側のフランスの影響力があった事は周知の事実です。しかし両国の謀略と圧力によって維新が成立した訳ではなく、日本人は彼らからの安易な援助計画から身をかわし、必死に拒絶・抵抗したところに成立しました。

当時の日本と現在の開発途上国との違いは、後者が現在国連や中国、西欧(日本を含む)からの資金援助を受けているのに対し、維新当時の日本はそれがほぼ皆無であった事です。日本は既存の外国資本はもちろん、他の返済義務を伴わないどのような援助も受ける事なく、国の近代化に着手したのです。

気骨と先見を持った当時の日本は、返済を怠った場合に欧米列強帝国主義によってその国家主権を犯される事を恐れて、多額の借款を受けようとはしなかった訳で、何だか現在の途上国が中共からの債権侵略を受けているのを思い起こされますね。

 

維新に関してはこんな文章も見受けられます。林房雄の面目躍如たる文章の一つでしょう。

 

戦前派たると戦後派たるとを問わず、左翼学者たちが書いた維新史を読んでみると、私は歴史の壁画館の中で赤いクレヨンをふりまわしている悪童の群れを思い出す。彼らは競争して壁画の上に赤絵具をぬりたくる。最も醜怪な抽象画をぬり上げた者が勝ちだ。悪童どもは維新の人物と事件をできるだけ醜悪に描き出すことが「真実の探究」だと心得ているかのように見える。

 

さて、上でも触れたように、林は征韓論も東亜百年戦争の一環と見ています。

 

維新革命によって一応の国内統一を達成した日本の「西洋列強」に対する、最初の、そして性急な反撃計画であったと考える。性急すぎ、早すぎたために、それは挫折した。「内治派」が勝ち「出撃派」が破れた。明治六年の西郷派の征韓論は「東亜百年戦争における挫折した反撃」として理解する時に、初めてその真相にふれることができるのではなかろうか。相手は朝鮮ではなかった。清国でもなかった。「東漸する西力」であり、「欧米列強」であった。そして、最初の反撃計画は挫折した。挫折したが故に、「西南戦役」という内乱も生まれ、その犠牲もまた絶大であった。

(中略) 征韓論はすでに始まっている「東亜百年戦争」の陣中において論議されなければならなかった。平和時の議会討論ではなかった。欧米列強の虚に乗じて、まず朝鮮まで出撃して反撃の橋頭堡を築くか、それとも退却して国内を固め次の有効な反撃を準備するかという単純な討議であるべきはずであったのが、戦陣の中の論争であったために、議論は白熱し、両派の裏面工作は激烈をきわめ、陰惨苛烈と形容するほかはない権力闘争となり、ついに「破裂」して内乱の基を開いた。

 

林房雄の日本近代史に関する分析は、「歴史の連続性」を重視する点でした。

その観点から、「司馬史観」のような「日清・日露戦争までは自衛戦争だが、それ以降は侵略戦争」などという、現在でも「よくある見解」に対しては、

 

明治以後に日本が行った諸戦争の前半は民族独立戦争であり解放戦争であっても、後半は帝国主義的侵略戦争であったという折衷意見である。この分析は右派にも左派にもある。そんなに簡単に分析できたら話は簡単であるが、それでは最近の百年間の歴史は説明できず、何の実りをももたらし得ないことがわかったので、私は「東亜百年戦争」という仮説を立てたのだ。

(上)のような折衷意見は解剖学者が解剖に専心して生きた人間を見失ったのとよく似ている。歴史は生きた人間がつくったものだ。あらゆる人間的なもの──大矛盾と小矛盾、過失と行きすぎ、善意に発した悪業、誤算と愚行、目的と手段との逆倒、予想できなかった障害による挫折と脇道、その他、ありとあらゆる人間的弱点を含みつつ進行する。歴史家はまず人間学者でなければならないのだ。分析と解剖に終始して綜合を忘れることも禁物である。

分析しただけで綜合できない者は死体を切りきざむ解剖屋にはなれても、歴史家にはなれない。

 

と、切り捨てています。更に彼は、

 

戦後の歴史家の多くが東京裁判検察官にならって、満州事変あたりから筆を起こして、日韓併合と台湾領有を回顧し、やがて日支事変に至り、日本の「帝国主義的野望」と軍部の「暴走」と右翼の「陰暴」がついに「太平洋戦争」をひきおこしたという方式による書き方をした。その方式が読者の頭にしみこんでいるので歴史の断絶が生じ、当然結びつくべきものが結びつかなくなってしまった・・・

 

という指摘を行い、上で触れた「折衷意見」への反論の一例として、1898年の米西戦争を境に米国がモンロー主義から事実上転換して、大西洋・太平洋の権益を拡張し、中国市場進出を強力に推し進めた事を挙げています。

同時、そんな米国の国策を受けて、「本書はポーツマス条約調印後まもなく脱稿した」というホーマー・リーの「日米必戦論」が米国内で出版され、同様の書物もいくつか発表されました。

つまり米国首脳も米国民も、意識下に日本との対決姿勢を示した訳で、林はこれを「日露戦争終結と同時に始まった日米冷戦」としています。

 

その後の米国の対日政策、シナ門戸解放要求、度重なる軍縮会議、日本陸海軍力の強制的制限、幣原外交の苦悶と混迷、軍部の抵抗、右翼の活動、日本防衛のための「自衛線」「生命線」の強引な設定としての満州事変と日支事変──すべてこれらは太平洋戦争の原因ではなく、日露戦争の終結と同時に事実上開始された日米戦争の結果であったのだ。日本の「帝国主義的侵略説」を強調するマルクス主義者と進歩人学者諸氏の所論には、この原因と結果の明らかな転倒がある。 

 

林房雄に言わせれば、幕末の思想家らが残した警世の書からも、日本はその頃からすでに「帝国主義的」だったそうです。しかしここで彼の言わんとする「帝国主義的」とは、マルクス主義者が使う常套句の意味合いではありません。

それはナショナリズムの発現と成長を意味しており、加えてナショナリズムは日本に限らず生まれながらに牙と爪を持ち、膨張するという事なのだそうです。

 

「東亜百年戦争」に関しては、「自衛戦争」とか「侵略戦争」という言葉を持ち出す事自体がナンセンス、というのが筆者の考えだと言えますね。

 

 

 

 

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