CES BOMBES AMIES... 味方の爆弾… | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

今月は第二次世界大戦の、いわゆる「ノルマンディー上陸作戦」から70年でした。
また、第一次世界大戦勃発の原因の一つとされる、「サラエボ事件」から100年でもあります。

この機会に、というわけではありませんが、戦争が一般市民に強いる犠牲について考えさせられる記事がありました。死は敵からもたらされるだけではありません。


週刊誌 Le Nouvel Observateur の2014年6月5-11日(通巻2587)に掲載された、 CES BOMBES AMIES... (味方の爆弾…)という記事です。

Les derniers mystères du D-Day (D-Dayの最後の謎)という特集の最後に掲載されていたものです。


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TABOU

CES BOMBES AMIES...


Quelque 60 000 Français ont péri sous les bombes des Alliés entre 1940 et 1944. Aujourd'hui, on s’interroge sur cette stratégie cruelle


(1940年から1944年までに、およそ6万のフランス人が連合軍の爆弾の下に息絶えた。今日、この残酷な戦略が自問されている)


PAR LAURENT JOFFRIN



「別の世界にいるようだった」 爆撃されたフランス人の叫びは全員一致している。数分間の鋼鉄の嵐の中で、彼らにとって貴重なもの、彼らが愛した者、生活の糧だったものが爆発し、四散し、引き裂かれ、無に帰した。彼らの家、家族、道、街、子供の頃の思い出、夢と希望、全てが粉砕され、燃やされ、血で汚され、恐怖で貶められた。

 飛行機がやって来る。それまで、空に向かって首を傾ける男女に戦争は被害を及ぼさなかった。日常生活は苦しかったが耐えられるものだった。この後の瞬間、瓦礫、爆撃で穴の開いた道、不安定な表情、建物の残骸、淫らな姿勢で打ち捨てられた死者たち、裸の体、車道に長いあとを引いて広がる血の世界に投げ出される。

 最初に心を揺さぶるサイレンの唸りが聞こえ、次に暗く湿った避難所への競争が始まり、人々が行き先を追う編隊の唸りが聞こえる。避難所の中で人々は祈り、震え、老若男女、一塊になって身を寄せあう。耳を聾する振動は、間もなく負傷者の叫びに切り裂かれ、10分、15分、1時間と続く。それから静寂が戻る。恐怖の夜の後に悪夢のように、飛行機が飛び去る。人々は茫然とし、取り乱し、喘ぎながら、ひっくり返った石と執拗な炎の光景の中に飛び出す。

 こうした恐怖の光景は、カーン、サン=ロー、ルアーブル、ビランクール、サンテティエンヌ、ブレストやロワイヤンで見られた。ジュール・ロワが『幸せな谷』で描いたロマンティックな若いパイロットによって標的にされたフランスの100の街で。多くのフランス人に心的外傷を残した光景を、人々は戦後、忘れることを選んだ。なぜならこの犠牲は敵国、ドイツ、ナチスによって押し付けられたのではなく、フランスを解放する使命を持った、連合国によって科せられたものだからである。彼らの正義のために、およそ6万人の老若男女のフランス人が殺され、数十の都市が壊され、数十万戸の家が破壊され、およそ400万人が住むところを失って路上に放り出された。

 解放という祝祭の日、人々はこれらの苦しみに慎み深い覆いを被せた。不満を訴えようもなかった、友軍の犯罪の犠牲者のために訴えが起こされるには、激情が消え去り、事実が知られ、再調査がなされるのを待たなければならなかった。

 米軍と英国軍は、空軍、とりわけ彼らが「戦略的爆撃」と呼んでいたものに大きな希望を抱いていた。14-18の後、新しい戦争の理論家らは、空爆の効果だけで戦争に勝利することができると考えるようになっていた。この戦争の開始時に、英国と米国の空軍の将軍たちは、Bombaer Commandの司令官、ハリス将軍を筆頭に、この理論に賛同し、政府に対して、大量の爆撃機に予算を割くように説得していた。< br>
 この選択は道徳的問題を投げかける。率直に民間人に向けられる殺戮的攻撃は、非戦闘員の保護を目的とする、ジュネーブ条約のような国際条約の精神に反する。1939年、フランクリン・ルーズベルトは、都市の爆撃を禁止することを目指した呼びかけを発した。ジョゼフ・チェンバレンは、爆撃機は抑止的兵器になると考えていた。そして誰も本当には実行しないと考えていた。

 しかしすぐに、Luftwaffe (ドイツ国防軍空軍)によって行われた派手な空襲が、たとえ当初は敵国軍を標的としていたとしても、民間人、とりわけ道路上の避難民に被害を与えたことで、これらの決議に穴をあけた。イングランドの戦闘が障壁を崩壊させた。ある夜、一人のドイツ人パイロットが誤ってロンドンに爆弾を投下した。チャーチルはベルリンへの襲撃を組織して報復した。ヒトラーは、全面的航空戦争を布告するために、実際には殆ど犠牲者を出さなかったこの爆撃を利用した。何か月もの間、英国の都市はブリッツ、英国国民の抵抗を破壊することを目的としたが結局果たせなかったとはいえ、恐怖の爆撃の支配下に置かれた。ドイツの残虐性に解き放たれ、味方の死者の敵を討つことを決意して、連合国軍は、ドイツの中心部に恐怖と破壊をもたらした爆撃機軍団を装備した。軍事目標に限定するどころか、英国空軍爆撃機軍団(Bomber Command) と合衆国空軍は民間人を攻撃しようとした。かくして、「ゾーンの爆撃」は地区または都市全体を灰燼に帰した。

 ドイツ軍はヨーロッパを占領していた。連合国は被占領国の軍事標的も攻撃することを決意した。こうして、それまで戦闘から免れていたと考えていたフランス人が間もなく血塗れの攻撃の支配下に置かれることになった。英国空軍の内部報告は、爆弾の大部分が目標から8キロメートル以上離れた場所に落下したことを明らかにした。こうして、ルーアン、ブローニュ、サンテティエンヌやナントの住民は空からやって来た恐怖に支配された。Uボートの基地を破壊できなかったために、爆撃機軍団は「ゾーン爆撃」の実施をブレスト、ロリアン、サンナゼールまで拡大した。空軍相が明確にしたように、「居住地区の全面的な損害を引き起こすとしても。

 空襲の激しさはノルマンディー上陸作戦の瞬間に頂点に達していた。この時は、ドイツ軍の援軍を麻痺させて遠征軍を守らなければならなかった。ダンケルクからボルドーまで(上陸の場所を明らかにしないために、ノルマンディーに集中することができなかった)沿岸地区は、絶え間ない爆撃によって壊滅させられた。次いで、橋頭堡が築かれると、英国空軍爆撃機軍団は、ドイツ軍の戦車の動きを阻止するために戦場となった都市の大部分を破壊した。サン・ロー、リジウー、クタンス、アヴランシュ、カーンが灰燼に帰した。

 民間人の損失を少なくするために、爆撃の前に住民に避難を呼びかけるビラが撒かれた。しかし、1940年の脱出の時のように、不在時に自宅が略奪されるのを恐れて、多くの住民は自宅に留まった。マンシュ県の小さな街、ヴィルデュー・レ・ポワルでは、ビラの警告を受けた住民が隣の林に逃げ込んだ。空襲は標的を見失い、林が爆撃された。攻略するのに、降伏を待つことで損害を受けることなく包囲できたであろう、「ポケット」のようなロワイヤンを破壊することに決めた理由はよくわかっていない。3000人のフランス人と10人のドイツ人の死者を出した英国の爆撃によって壊滅したルアーブルについても、同じように謎である。

 フランス人の大多数は、かくも空爆する攻撃の必要性を理解していた。撃墜されたパイロットがパラシュートで降りてきた時、住民は彼らを保護しようと努めた。そのうちおよそ3000人が、レジスタンスによって秘密裏にイングランドに送還された。多くの場合、爆撃は戦争の避けられない恐怖と考えられた。しかしいくつかの場合、空爆の残虐性は大した役に立たなかった。複数の都市が、何のためにもならずに破壊された。

 上陸した兵士は、ノルマンディーで自分たちを迎える態度の冷淡さに、時として驚いた。犠牲者の家族は、今日もなお、彼らを虐殺した爆弾を思い出す。ある生存者が言うように。「死体を解放して何の役に立ったのか?」


LE NOUVEL OBSERVATEUR DU 5 AU 11 JUIN 2014, NO 2587


週刊誌 Le Nouvel Observateur の記事の引用は、今後しばらくできないかもしれません。