プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩集 天国の地図/神戸 俊樹
¥1,260


長い闘病生活を余儀なくされてきた著者が、生きる糧とした詩作。

魂の叫びの集大成!


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 4月上旬、目黒川の桜並木を撮りに行った。こちらの桜は今回が初めてである。千鳥ヶ淵とどちらか迷ったが千鳥ヶ淵には過去に数回行っているため気分を変えて目黒川にした。目黒と言えば随分昔の事だが某大手リース会社に就職した際の最初の勤務地が目黒だったので、懐かしい思い出に浸る事も出来た。普段利用している都営三田線で乗り換えなしで行けるので便利だし交通費も掛からず経済的である。
 目黒駅から目黒川を目指し着いた場所が目黒新橋だった。右と左どちらに行くべきか悩んだが、人の流れを見ながら先ずは五反田方面へと足を運んだ。途中で幾つか橋があり、そこで撮影している人が多いので私もその中に紛れ込んで撮影。花見客を乗せた小型のクルーズ船が往来していた。船から桜を眺めながら撮影してみたいと思いつつシャッターを切った。首都高の手前にある市場橋まで行き、そこから反対側の並木道に出てUターンしたものの、この道がどこまで続いているのか全く分からずGoogleマップを見ながら歩を進めた。
 陽が沈み掛かる頃から急に気温が下がって来た。日中は暑いくらいで上着を脱ぎたいほどだったが、体感温度は10℃と真冬並の寒さで風も少し強くなった。カメラを持つ手が凍てつくほどで、途中で帰ろうと思ったが、肝心の桜の風景をまだ撮り終えていなかったので気合を入れ直して夕暮れの目黒川を撮りながら更に歩を進めた。
 いつの間にか辺りは夜の帳に包まれ、あちこちでライトアップされた桜が浮かび上がって来た。日中に見た景色が一変し紅一色に染まって行く。桜祭りの提灯が見え始めた辺りが最も赤く輝いていた。その神秘的、幻想的とも言える光の帯が川面に溶け込み反射して、この世の物とは思えぬ光景が眼前に広がっった。人気の観光スポットでもあるため半端でない人の数で本来であれば夜景の撮影は三脚を使用するのだが禁止だろうと思い全て手持ちでの撮影となった。以前お話しした35mmf1.4の明るいレンズのためISO感度をさほど上げる事なく1200程度で十分綺麗に撮れたと思う。因みにシャッタースピードは1/50秒である。田楽橋の上で最後の撮影を終え帰路に着いたが途中で目黒駅までの近道を探しながら歩いている時、靴紐を自分で踏んでしまい転倒、左膝と右親指に怪我を負い出血。それ自体は気にするほどではなかったが、途中でとんでもなく長い登坂に出くわし心臓が爆発寸前になり戻ろうかと思ったくらいである。心臓が悪くなければこんな坂道など走って登れるんだろなぁと健康な心臓に嫉妬した。

 

 

 3月31日、埼玉にいる息子から「タラが今朝亡くなった…」と連絡が入った。20年生きたから人間に例えれば100歳くらいだろうか。よく頑張って長生きしてくれたと思う。さほど苦しむ事なくコタツの中で息を引き取ったいう。
 タラとの出会いは2005年、春から夏へと季節が移り変わる頃だった。当時わたしは『うつ病』を患い休職中で、社会復帰に向けて早朝散歩をリハビリとして日課に取り入れていた。その日もいつもと同じコースを散歩し、南篠崎つつじ公園に立ち寄りベンチに腰を下ろし休もうとした時、公園の何処からか猫の鳴き声が聞こえて来た。早朝のため人も車も殆ど通らず朝の静寂に包まれた公園に「ニャーニャー」という声だけが響いていた。丁度その辺りの前の道を初老の御婦人が通り掛かり鳴き声が気になったようで、声の辺りを覗き込んでいたが結局見つからずその場を去って行った。
 その後わたしも非常に気になっていたので、すぐさまその声の方に向かい生い茂った林の辺りを掻き分けてみると、生後1ヶ月ほどの子猫(キジトラ)が必至に甲高い鳴き声を上げてわたしの方を見詰めた。この辺りは住宅街で捨て猫とは思えない事から母親からはぐれてしまい公園に迷い込んだものと思われた。
 子猫を抱き上げると鳴きながら爪を立ててわたしの身体にしがみついて来た。急ぎ足で自宅に戻ると子猫を抱いているわたしを見て家内と子どもたちが大変驚いた。そして一言「家はインコがいるから飼えないよ…」。わたしは自分が面倒みるからと説得し、そうしてタラが家族の一員に加わった。結局のところ一番面倒をみたのは家内であった。猫は男性よりも女性に懐くものだが男性の野太い声が苦手らしい。
 わたしがタラと過ごした期間は約8年余り。2013年1月に脳梗塞で救急搬送された事が切っ掛けで自分がペットを飼うのは無理と判断し前妻にタラを託した。その時の詳細については関連記事の『bye-bye Tara』に記している。
 さて、話しは変わって歯の治療について。予定通り4月21日18階の外科病棟へ入院し、午後5時過ぎから歯科外来にて歯根端切除の手術を受けた。麻酔がかなり効いていたので痛みは全く感じなかった。麻酔が切れ始めたのは夜10時を過ぎた頃だった。ズキズキと患部に痛みが生じたが我慢出来ないほどではなかった。それより困ったのは傷口からの出血が止まらなかった事だ。血液をサラサラにする薬(ワーファリン)を服用しているから出血は想定内だったにしても、看護師数人が止血処理に戸惑っていた。当直の外科医に来てもらい指示を仰ぐも出血は収まらない。そしてベッドごと看護師詰所の中にある緊急処置室へ運ばれた。深夜0時を過ぎた頃、歯科医に連絡を取り診てもらう事となった。ケアガーゼを何枚も重ねて口の中が膨れ上がる。その上から傷口辺りを思い切り抑えるので余りの痛みで気が遠くなりかけた。
 結局ひと晩は一睡も出来ず疲労困憊でヘトヘトだった。朝になって抗生剤の点滴を入れる際に口からガーゼを取り出してもらった。出血はまだ少しあるものの外来にて消毒と止血処置を受け、マウスピースを装着して昼前に退院となった。28日の外来で抜糸の予定である。削り取った骨が再生し元に戻るまで半年以上掛かるようで、義歯が出来上がるまでまだまだ時間が掛かりそうだ。

 

 

 昨年2月からスタートした都庁のライブイベント『プロジェクションマッピング』。東京のランドマークの一つである都庁第一本庁舎をキャンバスにして、光と音によるアートを表現。世界最大の規模としてギネス記録に認定され会場は多くの観光客で賑わっている。
 私はこの日、ライトアップのイベントを知らず新宿の高層ビル群を撮影するため午後の夕暮れ前から西新宿辺りへと出向き、様々な高層ビルの雄大な風景をカメラに収めながら散策を楽しんでいた。陽が西に傾き夜の帳に辺りが包み込まれるとビルに明りが点灯し、日中の街並みが激変し、大都会の夜景の迫力に圧倒されるほどであった。
 新宿センタービル等、様々な高層ビルを撮り終えて帰り支度をし、都営大江戸線の都庁前駅に向かって歩き始めた時、ふと見上げたそこがキラキラと光輝いているではないか!「うん?なんだあの光は??」と興味津々。バッグに仕舞った三脚を再び出してカメラをセット。そのまま抱き抱えて光の元へと急いだ。こんな派手な夜の都庁を見るのは初めてだったので、テンションもマックスに!。これだけ規模の大きなイベントだから見物人もかなりの人数かと思いきや都庁の正面で撮影していたのは私一人だけだった。周りにも殆ど人影はなく静まり返った夜の風景に都庁のビルだけが幻想的・神秘的な姿を見せていた。イベントが一旦終わると何処からか拍手と歓声が聞こえて来た。「あれ?どこだ?」と思い下を見下ろすと広い暗影に人の姿が。B1の広場ホールが見物会場となっていたようだ。
 ところでこのイベントの予算額が16億円を超えるらしい。これには賛否両論があり都の方は「経済波及効果」を18億円と推計しているのだが予算規模に見合う効果が本当にあるかは疑問である。これらの費用は税金で賄われているのだろうから無駄遣いになってしまわないと良いのだが。夜景撮影を好む人にとっては嬉しいイベントである事は確かであるが…。
 さて、話題は変わって1月から始まった歯の治療について。実は3月25日に日帰り手術を受ける予定だったが当日、担当医に「入院して手術を受けたい」と直談判。結果的に4月21日に入院しその日に手術となった。基礎疾患を抱えている身としては何としても入院手術が理想だったので希望が通り安心した。我儘な患者と思われたかも知れないが術後の不安や心配事でこの数週間悶々とした憂鬱な日々を送っており、過去の抜歯ではいずれも入院していたから入院が決まってやっと安心して眠れるようになった。

 

 

 今年の初撮りは河津桜とスカイツリー。約2ヶ月振りの撮影で気分は高揚しカメラを持つ手も震えたが、この3枚は全てスマフォでの撮影である。河津桜を撮るのは多分3年振りだと思う。この撮影ポイントは定番となっているため、誰が撮っても同じ構図になる。だからその中から自分らしさを表現するのに結構苦労した。いわゆる『額縁構図』で、額に収まったかのように見せる撮り方であるが、それに似たものに日の丸構図があるけれどそれとは少し違うようだ。
 2枚目は背景のスカイツリーをぼかしてみた。同じ構図でも雰囲気が随分変わる事が見て取れる。スマフォでも工夫次第で一眼レフ顔負けの写真が撮れる。場合によってはそれ以上の写真が撮れたりするが、それだけ最近のスマフォカメラの性能が進歩しているのが分かる。この撮影場所には河津桜が3本植えてあるが時期がまだ少し早かったのか1本は開花しておらずまだ蕾の状態だった。夜間の撮影なので本来なら三脚を使用して長時間露光で撮りたかったが『三脚使用禁止』の立て看板があるため三脚を使っている人はいなかった。それでも無視して堂々と三脚を使っているカメラマンが数人いたりするが、かと言ってそれを注意する人は皆無。
 3枚目のスカイツリーとその周辺を超広角で撮った写真だが、よく見ると何となく滲んでいるようにも見える。多分これは手ブレのせいかと思うが手持ち撮影のため仕方のないことか…。この日は気温が一気に上がり4月の陽気で春の足音が街全体を駆け巡っていたから、撮影に夢中になっていると知らす知らずの内に汗ばむほどだった。大した距離を歩いた訳ではなかったが、翌日は身体のあちこちが筋肉痛で殆どベッドで横になっていた。やはり2ヶ月もカメラを持たないと体力・筋力も落ちかなりストレスも溜まっていたように思う。撮影を終えて溜まっていた物を吐き出した感じがして気分が前向きに好転した。
 季節が進み温かな春の陽射しが訪れれば夜景の撮影も寒さに震える事なく楽になって来るだろうからこれまで撮れなかった分、一気に増えて行くと思われるのだが1月から続いている歯の治療が長期戦になりそうだ。桜が満開になる頃、口腔外科にて『歯根端切除術』を受ける事となった。手術に掛かる時間は約1時間30分らしい。手術中は兎も角、麻酔が切れた後の痛みと腫れの事を考えると憂鬱になる。歯肉切除の時より酷い痛みに悩まされるだろう。入院して手術を受けたいくらいである…。

 

 

 昨年10月「今年の秋桜は諦めた」と言う話をしたと思うのだけれど、先日パソコンの中の写真を整理していると築地大橋の写真の中に削除した積りだったが数枚のコスモスが残っていた。その中の一枚が気になってお蔵入りするのは勿体ないと思い公開する事とした。
 花の写真を撮る時は大抵中望遠マクロのMC105mm f/2.8を使う事が多い。被写体に思い切り寄って画面から飛び出るほどの花びらや蕊(しべ)にピントを合わせたり色々工夫しながらの撮影であるが、マクロは呼吸が乱れたり手が震えたりするとブレが生じて失敗する事も多い。だから風景写真などを撮る時より遥かに難しいと思う。風が強かったりするともう最悪である。
 写真撮影は一枚の真っ更なキャンバスに絵筆を走らせる絵画に似ている。写真も絵も共通する最も重要なポイントは構図。私の場合、撮る前に気に入った被写体を見つけたら頭の中で絵を描くようにイメージする。この撮影するイメージは「今日は何を撮ろう?」と自宅でレンズを選んだり目的地を決める時から始まっている。実際に撮影している時よりこの最初の時間が一番楽しいかも知れない。
 緑一色の中にポツンと佇むピンク色の花が一輪…。被写体の存在感を際立たせるため、敢えてアップで撮る事は止めて周りの空間を出来るだけ活かし花と緑のある部分にのみピントを合わせた。フォーカスリングを回しボケ加減を決めながらの撮影。焦点距離300mm、f/6.3、シャッタースピード1/160,ISO80。望遠レンズ特有の圧縮効果で美しいボケを作り出す事が出来たと思う。幻想的、神秘的な一枚の花が何かを語り掛けているように見えて来る。
 ところで前回お知らせした通り思わぬ歯のトラブルで躓き、今年に入ってまだ一度も撮影に行っていない。カメラを始めてこんな事は初めて(足の怪我は別)である。撮りたい気持ちはあるのだが、通院回数が3倍に増えてしまい疲れている事も影響しているのだろう。1月に単焦点レンズのZ 35mm f/1.4を購入し逸る気持ちを抑えている矢先の歯科だった。その途端リズムが乱れて撮影意欲も吹き飛んでしまった…。だが、これは「無理はするな」と言う天からの警鐘と捉えてその時が来るのを待つしかない。

 

 

 

 前回の更新からすっかり間が空いてしまった為、中には『心不全で入院?』と思った方も多いのではないだろうか…。入院した訳ではないのだが1月中旬に糸切り歯の隣の差し歯が抜けてしまい翌日三井記念病院の歯科外来へ行った。抜けただけなのでその差し歯を再装着して済むものと思っていると、抜けた原因を調べるためレントゲンを撮った。すると土台の歯の根っこの方が虫歯になっており治療する事になった。簡単に終わるだろうと高を括っていると、なんと歯肉切除の手術をする事になってしまった。クラウンレングスニング(歯冠長延長術)と言う、初めて聞く内容だったため、かなり不安になった。もちろん麻酔を打っての手術だから痛みはないのであるが麻酔が切れた後、自宅に戻ってからがさあ大変!メスを入れた部分がズキズキと痛み始め、食事もまともに出来ず眠る事もままならない状況に…。

 うがい薬と痛み止めのロキソニンを処方されたが慢性腎不全を患っているので腎臓に負担を掛けるロキソニンを服用する気になれず、ひたすら痛みに堪える日々が続き、気力・集中力も落ちすっかり心身ともに疲弊してしまった。傷口を保護するためマウスピースを装着したまま過ごし食事の度に外してうがい(消毒)の繰り返し。1月下旬になって漸く痛みから解放され、現在に至っている。歯の治療はおそらく時間がかかり2月中に終わるかどうか微妙である。

 さてお台場のシンボル的象徴と言えば幾つかあるがやはり『自由の女神像』が最も目立つ存在であると思う。お台場に行ったら必ずカメラに収めるのも恒例となっているほどだ。夜間は季節によってライトアップの色が変化するため何度撮っても同じ写真にはならない。こちらに投稿した女神像はは砲台跡から撮影したレインボーブリッジの帰りに撮ったものである。約1キロはあると思われるお台場ビーチを暗闇の中スマホの灯りを頼りに歩いたので女神像に辿り着いた時は足がもつれるほど疲れていたけれど、その夜の女神像はこれまで見た事のない配色で輝いており、一気にテンションが上がりいつしか疲れは吹き飛んでいた。あらゆる方向からカメラを向けてシャッターを切った。背中は青、表は真紅と言う二色が織りなす微妙な色加減が秀逸で、時間を忘れていつまでも見とれていたほどである。満足の行く写真が撮れた時ほど気分の良いものはない。フジテレビの本社前にあるバス停からレインボーバスに乗り田町駅へと帰路に着いた。レインボーバスは障がい者無料と言うのも嬉しい。都営三田線も無料なのでお台場へ行く時は交通費が掛からないので助かっている。

 ところで最近何かとニュースやワイドショーで取り上げられているフジテレビ。週刊文春の記事を読んでいないのでいないので詳細は分からぬが中居正広氏と女性との間にどんなトラブルがあったのか、解決金として1億円近い高額な金銭を女性に支払った背景には、それ相応の被害を与えてしまった事は察しが付く。先日行われたフジテレビの「やり直し会見」は10時間にも及ぶ異例の長さであったが、トラブルの核心明言には至っておらず幾つもの疑問が残る会見となった。

 文春側も記事の一部訂正として自社の公式サイトでで声明を発表しているが、これはまるで「後出しジャンケン」である。フジテレビも文春側も雲行きが怪しくなればやはり保身に走りたくなるのは世の常であるが、今回の事案で最も傷付いているのは被害者の女性である。どれほどの金額を積まれても身体の傷は癒せても心の傷は癒せない。トラウマとなってこの先一生苦しむ事になるかも知れない。張本人の中居氏は責任を取って芸能界を引退したがそれは責任転嫁のようにも思えてくる。被害者のプライバシー保護、守秘義務などを盾にして沈黙を貫く点では中居氏、フジテレビ幹部たちも同じであった。今後どのような展開になり複数の疑問点が明らかになるのか第三者委員会の報告を待ちたいと思う。

 

 

寒中お見舞い申し上げまます。

誠に勝手ではございますが、服喪中につき新年のご挨拶は差し控えさせていただきます。

皆様にとってこの一年が最良の年になりますよう心よりお祈り申し上げます。

本年も宜しくお付き合い下さいませ。

 

 

 昨年12月初旬、九品仏浄真寺へと出向いた。こちらでの紅葉狩りは今回で確か3度目となるが、今回の撮影で今までと違うのは使用したレンズ。花、植物等の撮影ではZ MC105mm中望遠マクロをメインに使っていた。同じ被写体で同じレンズを使用した場合、どうしても前回と同じような仕上がりになるため、思い切って今回はタムロンの望遠レンズ70-300mmで撮影。手の届くほど近くのもみじは撮らず、かなり離れた歩いて近づけない所を狙ってみた。こちらに投稿した全てのphotoがそうと言う訳ではないのだけれど、昨年、一昨年の紅葉とは趣きの違った作品に仕上がったと思っている。
 九品仏浄真寺は以前にも述べた通り東京の都会に在りながらその寺院全体の佇まいに静寂が漂っており、東京の『小京都』と言われる所以である。ライトアップされて暗闇に浮かび上がる真っ赤な紅葉も神秘的で興味を唆るのだが、こちらの寺院ではライトアップ等のイベントはない。頭に覆いかぶさって来るように生い茂った樹木や枝葉で太陽の光りが遮れら、まるで闇夜の中で撮影した?と勘違いしてしまいそうな光と影のコラボレーションは人工の光では到底及ばない、自然の美しさを醸し出している。
 都内で2番目に人気のある紅葉スポットだけあって、平日であっても多くの観光客が訪れ、賑を見せている。深い秋に色付いた楓やもみじに眼を奪われ口を閉じてじっと見詰めるその視線の先には、照れ笑いを隠す少女の紅く染まった頬が見て取れる。静寂の余韻に包まれながら、シャッターの音が心地よく胸に響いた一日であった。

 

 

 お台場へは年に数回訪れる。都内でも人気の観光地であるため、国外からの観光客も多い。年代的にはやはり20~50代の人が多く若いカップル達をよく見かける。ビーチから眺める海とそしてレインボーブリッジ、夏であればその海に多くの屋形船が連なるように浮かぶ。お台場海浜公園の夜景は特に美しく時間の経過も忘れてファインダーを覗きカメラのシャッターを切る。
 この日はお台場の最も近い位置からレインボーブリッジを撮る事が目的だったので、砲台跡のある先端までひたすら歩き目的地へと向かった。『お台場』の由来は江戸時代ペリー艦隊の来航が切っ掛けとなり、江戸幕府が江戸湾の防備強化のために築いた『品川台場』だそうである。その砲台跡の更に先端(海沿い)まで行き撮影ポイントを物色。松林に囲まれた辺りには人影は殆どなく、周りを気にせず撮影する事が出来た。夕暮れ時ではあったが、思い描いていた夕陽には見放されてしまったようで沈む夕陽の赤がレインボーブリッジとお台場の海を赤く染めてくれるのを期待したのだが、その点が残念であった。
 ファインダーを覗いている時は気付かなかったが、レインボーブリッジの遥か向こうに東京タワーが赤く光っている。時計が18時を回った頃、レインボーブリッジが白色でライトアップされて一際その存在感を醸し出してくれた。午後19時を過ぎすっかり陽が落ちると辺りは漆黒の闇に包まれた。砲台跡の辺りには街灯も殆どなく、撮影を終えて帰路につく時、足元が真っ暗で転倒しないよう細心の注意を払ってゆっくり歩いた。数年前、真っ暗な中でカメラを抱えたまま階段で滑って転倒し大怪我を負った時の事が脳裏を過った。右足が腫れ上がり骨折はしなかったものの痛みで夜もまともに眠れず地獄のような一ヶ月だった。あの時はミラーレス一眼を買ったばかりでカメラを守る為に身体を張ってしまった結果だった。その時の傷跡は未だに消えず右足に残っている。怪我をする前の元の足にはもう戻ってくれないようだ。写真を撮る時、皆さんも足元には十分注意して下さいませ。
※今年一年、当ブログにお越し頂きありがとうございました。来年も引き続き宜しくお願い致します。

 

 

 毎年11月中旬辺りになると喪中ハガキが届くのだが今年は何の気配もなく過ぎたので、そろそろ年賀状の準備をと思っていた矢先の事だった。藤枝在住の従姉から連絡があった。喉を詰まらせ嗚咽の混じった震える声で「政人が亡くなった…」。私は暫く返す言葉が出ず従兄の顔が走馬灯の様に脳裏を駆け巡った。数年前に直腸癌が発覚し治療に専念し一旦は回復したものの、その後再発。そして再び抗がん剤等で治療を続けていたがその甲斐もなく僅か3ヶ月で力尽きてしまったと言う。60代にして命を落とすとは本人が一番無念の思いだったろうと思う。
 従兄はプロのサッカー選手だった。ジュビロ磐田の母体であるヤマハ発動機で活躍。絶頂期には「FWの神戸」と呼ばれ試合の度に新聞のスポーツ面を賑わせていた。小学生の時、サッカーボールを追い掛けて広いグラウンドを縦横無尽に走り回る姿を思い出す。そんな従兄を私は教室の窓から恨めしそうに眺めていた。自分は心臓が悪いため運動は禁止。体育の時間はいつも一人教室に取り残されていた。そんな私とは対象的な従兄は身体も大きく健康に恵まれ足も速かった。
 サッカーボールに自分の夢を乗せて走る姿が眩しかった。中学を卒業すると静岡中の高校からスカウトが殺到。勿論サッカーの名門「藤枝東高」も当然その中に含まれたが、何と父親が藤枝北高に勝手に決めてしまったようだ。本人はやはり藤枝東に行きたかったと後で聞かされた。
 そしてその勢いのままヤマハ発動機に入社しプロデビューを果たす。自分の夢を実現した18歳の若者は自信に満ち溢れ己の信ずる道を突き進んだ。そして月日は流れ従兄にとって最初の試練に遭遇する事となる。やはり従姉「三千代」からの電話だった。「政人が脳内出血で緊急入院」の知らせ。入院先はなんと私が最初の心臓手術を受けた「静岡市立病院」。私はその翌日新幹線に飛び乗りお見舞いへと急いだ。ベッドの傍らには従兄の奥さんが心配そうに付き添っており、私に一礼した。白い鉄パイプで出来た病院のベッドが妙に懐かしく感じる。従兄の意識はハッキリしているものの口が聞けず半身麻痺の状態だったが、私をひと目見るなりその大きな眼を更に大きくして驚きその内、涙をポロポロと溢し始めた。私が来ることは知らなかったようで、嬉しかったのだろうと思う。闘病生活の長い私は自分が誰かを見舞う事は滅多になく、いつもその逆でお見舞いばかり頂いているため、見舞うことの尊さ有り難さをこの時に初めて実感した。
 従兄は見た目は少し怖い部分もあったが、心根は実に優しく思い遣りに充ちていた。私の父が亡くなった時、真っ先に駆け付けてくれ「何かあったら俺に相談しろよ」と父の亡骸の前で小さく震えていた自分を温かく励まし力付けてくれた。サッカーで鍛えた強靭な身体の持ち主だった事から半身麻痺からの回復も早かった。自宅に戻ってからはリハビリの日々だったが、言葉も話せるようになり杖を付きながらも自力で歩けるまでになった。ただ、懸念として残ったのは病気知らずの健康な身体に恵まれた事が従兄にとっては仇となり自信過剰になっていたのではないかと思われる。
 人生は枯れ葉の如し、散って土に還る。従兄はきっと今頃は空の彼方でサッカーボールを追い掛けているかも知れない。心より御冥福をお祈り申し上げます。
※暫くの間、喪に服すため新年のご挨拶は控えさせて頂きますので宜しくお願いします。

 

 

 10月もそろそろ下旬に差し掛かった頃、秋桜を撮るため浜離宮恩賜庭園へと向かった。ところがキバナコスモスは生い茂る様に咲いていたのだが私の目的だったピンク色の秋桜は何処を見渡しても咲いておらずすっかり意気消沈し、早々に庭園を後にした。時間的に暗くなるまでには十分余裕があったので庭園からかなり近い所に築地大橋があるため、気持ちを切り替え橋へと向かった。橋の中央辺りまでは長い緩やかな上り坂なのだが、これが私にとってはかなりキツイ。息切れと早まる鼓動を鎮めつつやっと中央に辿り着いた。隅田川を行き交うクルーズ船に向けてシャッターを切った。コロナが蔓延していた頃は隅田川からクルーズ船の姿が消え川面から寂しい波の音だけが虚しく木霊していた。
 そんな数年前の出来事が嘘のようにクルーズ船が波を切って勢いよく走って行く。まるで通勤時間帯の電車のようにひっきりなしに行き交っている。そんな日常の穏やかな風景をカメラに収めていた時だった。勝どき方面から一人の男性がやって来た。褐色の肌と精悍な顔付き。ひと目で日本人ではない事は分かった。私の前を見向きもせず通り過ぎ少し行った所で立ち止まり、スマフォをかざして撮影を始めた。夕陽が西に沈みかけ辺りに一日の終りを告げ始める。これはシャッターチャンスだと思い彼の横顔にピントを合わせパシャリと一枚。夕暮れの中に佇む男性、異国の風に吹かれて何を想っているのだろう。
 彼は私から5m以上離れた所に立ち東京湾に沈みゆく夕陽を眺めていた。その夕日に照らされ褐色の精悍な彫りの深い顔がより一層際立っていた。撮影許可を取らずいきなりだったので、撮影後直ぐに彼の傍に行き撮ったphotoを見せると大変喜んでくれた。「Where are you from?」とへったくそな英語で質問すると「タイから来ました」と日本語の返事にびっくり。そこからは日本語での会話となった。彼はMello君といい、明日タイへ帰国すると言う。日本語がとても上手なので何度も日本へ来ているのだろうと思った。タムロンの300mm望遠レンズだったのでかなり離れた場所からの撮影。焦点距離は260mm、絞り6.3、シャッタースピードは1/100。ポートレートには単焦点レンズがオススメのようだが離れた場所からの撮影が出来る望遠レンズも良いものだと分かった。欲を言えば1.8位の明るいレンズであれば闇の中でも三脚なしで撮れるだろう。