プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩集 天国の地図/神戸 俊樹
¥1,260


長い闘病生活を余儀なくされてきた著者が、生きる糧とした詩作。

魂の叫びの集大成!


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 チューリップ記事の冒頭で触れているように桜の事がよほど悔しかったのか、この浮間公園へ短期間の間に3回も足を運んだ。1回目はチューリップとネモフィラの撮影に専念。陽が西に傾き始めた頃まで撮影を続けていた。夜景を撮る予定はなかったので、それは別の日に回して公園内を歩き回った。
 浮間公園は舎人公園や昭和記念公園のように広くはないため、池の淵に沿って歩けば1時間も掛からないほどコンパクトな公園である。そんな公園内にはボランティアの人達が植えてくれたと思える様々な春の花たちを愉しむ事が出来た。数年前まではこの公園の存在を全く知らなかったが、訪問看護師さんから情報を貰い、昨年の春、初めて訪れてみた。1年前の記事でも触れていると思うので詳細は省くが、春の撮影スポットとして私のレパートリーに追加するに至った。
 ネモフィラと言えば「青い絨毯」と称されるように、広大な敷地に青い花が一面に敷き詰められ、まさに絨毯そのものである。こちらの公園にはそのようなネモフィラ畑がないため、壮観なお花畑を見る事は出来ないものの、風車を中心にして小さな花壇が幾つか点在しており、そこに少し控えめながら青い花びらを蝶の翼の様に広げて咲いている。その姿は可憐な乙女のようでもあり、他の花の邪魔にならぬよう出しゃばりもせず、微風に揺らいでいた。
 花壇は地上から少し高い場所に設置してあり、膝を着いてカメラを構えると構図的にも丁度よい位置に来るため、地面に這いつくばって撮るような事もなく、体力的にも優しい撮影となった。レンズは花を撮る時の定番 Z MC105mmではなく、敢えてタムロンの70-300mmを使用、焦点距離は150mm。望遠レンズ特有の圧縮効果により、実に柔らかく美しい前ボケ写真が撮れた。それはまるで水の中を泳ぐ「青い妖精」そのものの姿であった。
 この日はチューリップも含め納得の行く(予想以上)の写真が撮れたため、ご機嫌な足取りで帰路に着いた。話題は逸れるが、5月15日は腎臓内科と消化器内科の外来日であった。腹部エコーの検査があり、肝臓・膵臓・脾臓・胆嚢の状態を調べた。肝臓も脾臓もかなり大きく肥大していたが、治療の範疇にはないようだった。前任の担当医が3月で三井を去り、東大医学部より新たな医師が赴任して来た。肝硬変について質問したところ、前任者が言っていた「心臓病とは関係のない肝硬変」はあっさりと180度変わり、心臓疾患による「うっ血肝」で肝硬変には間違いないものの、原因が特定出来ないものではないとの事だった。
 気になる心不全の指標であるBNP値は1450と高めではあるものの、重いカメラを持って撮影に行けるため許容範囲である。クレアチニンは入院時3.6だったものが2.85まで改善していた。自宅に戻ってから水分をしっかり摂るようになったのが腎臓を守る結果として、数値に反映されたのだろう。だからと言ってむやみに水分を撮り過ぎると心不全を起こし病院へ逆戻りとなる。心臓、腎臓ともほど良いバランスを保つのがベストなのだが、これが結構難しく悩みどころである。

 

 

 

 桜が撮れなかったその反動と言う訳でもないのだが退院早々重いレンズを2本バッグに詰めて撮影に出掛けた。入院中、退院に向けたリハビリが今回はなく2週間殆どがベッド上で安静だったため体力・筋力がガタ落ちだった。本来であれば自宅でゆっくりトレーニングするのがベストだと判っていたが、花を撮りたいと言う衝動を抑えきれずチューリップが満開の浮間公園へと向かった。4月は全体的に天候が不順で青空の見える日が余りなかったのは残念だったが、目当ての花々をカメラに収める事が出来た。
 チューリップを筆頭に公園に咲いている花を片っ端から撮った。ネモフィラ。ツツジ、サツキ、菜の花など後は種類の分からぬ小さな花たちを…。一眼レフカメラを始めて3年が過ぎたけれど実は今回のチューリップは初めての撮影だった。薔薇が苦手だったようにこれまでチューリップを撮ろうとカメラを構えシャッターは切るものの納得が行かず削除。そんな繰り返しばかりだった。苦手意識を持ってしまうと中々それを克服するのに時間が掛かる。それは人間関係と同じで仕事の同僚たちと馬が合わずスムーズに事が進まない状況で迷いや悩みが生じ、それらがストレスとなっていつの間にか心が疲弊し病んでしまったり…。
 そこまで大袈裟に構える必要もないのだけれど、撮影は相手があって成り立つもの。自分ひとりの世界ではなく、共有と共存の世界だから被写体には常に敬意を払って撮らしてもらう心構えが必要だと思っている。内なる心(眼)で花に語り掛けてこそ被写体の持つ実像が見えて来るのだと思う。撮影に夢中だった時はさほど感じなかったが帰宅の徒についた途端に全身が疲労感で震えているのが分かった。
 そう言えば4月28日で弁置換術を受けてから35年が経った。それを30日の循環器内科の外来で主治医に話すと「すごい!長持ち」と驚いていた。今まで15年間お世話になった主治医は3月で三井を去り4月から担当医が変わった。新たな主治医は昨年ペースメーカー植え込みでお世話になった若い女医さん。退院後、撮影に行った事も報告済みで元気になった自分をアピールして来たが心電図の波形に「梗塞の疑いあり」と言うのが気になった。

 

 

 4月2日、桜の満開を目前にして心不全のため緊急入院となった。昨年8月の退院から一年を待たずして再入院となり我ながら情けなく思う。入院は数年前から最早恒例行事になりつつある。2年前の10月、皆さんもご存知の通り三尖弁の手術が大成功を収め、心不全の要因を断ち切った筈なのにそれでもなお病魔は私に執念深く付き纏って来る。
 3月初旬の循環器内科外来時では、心不全の指標となるBNP値は1300と高めではあったが、さほど息切れも意識する事なく日常生活も普段通りに出来ていたため、気にする程ではなかった。最も悪かった時は8000を超えていたからそれに比べれば大人しい方である。気になる腎不全の方はクレアチニン値2.6と入院していた頃よりも低めで成績が良く安心した。
 心不全の兆候は3月半ばを過ぎた辺りから出現し始め、体重が1週間で3kg増加し60kg台へ突入。普通に歩いていても息切れが目立ち、腸管も浮腫み腹が張って苦しく、横になって寝ると胸の圧迫感で熟睡出来なくなっていた。手足に浮腫みは無く肺とお腹まわりに余分な水分が溜まっているようだった。腎機能を悪化させたくないためにかなり水分を多めに摂っていたのが仇になり心臓が悲鳴を上げ始めたのである。心臓と腎臓どちらを優先するか、どちらも守る事が出来れば理想的なだが「あちらを立てればこちらが立たず」で相容れないのが厄介なところではあるがやはり心臓が最優先である。心臓が悪化すれば全ての臓器に影響が出るのだから時には他の臓器を犠牲にしなければならない時もある。心臓も腎臓も肝臓も同時に治療出来る最先端の医療技術や薬が開発されれば「渡りに船」なのだが…。
 夕刻、救急外来を受診し、左右の肺にかなり水が溜まっている事を確認、BNPは2000を超えておりそのまま入院。7階と循環器病棟の17階が満杯でベッドに空きがなく、今回は一般内科の15階となった。主治医は珍しく20代の若い女医さんとなった。おそらく研修が終わり4月から専攻医となったのであろう。心不全の治療と言えば真っ先に酸素吸入である。新鮮な酸素を吸うことで心臓の負担も軽くなるのである。チューブを鼻に指し酸素が身体中に染み渡ると幾らか楽になる。そしてラシックスの静注(腎臓に負担が掛かる)で、体内に溜まっている水分を尿として排出させる。
 治療を始めて1週間は中々尿量が増えず体重の減量も思うように進まなかったが、利尿薬の「サムスカ」を増量した辺りから体重が減り始めて行った。退院2日前に核医学検査(心
筋シンチ)を受けたが、2年前の時とほぼ変化なしだったので治療の必要なしと判断。4月17日いつもより早目の退院となった。2009年に心筋梗塞で右冠動脈にステントを挿入した時から服用を開始した「バイアスピリン」は心臓血管外科の判断で中止となったが、ワーファリンを服用しているので出血のリスクを少しでも減らすための措置だと思う。
 三井記念病院の裏庭にある公園には桜の木が数本植えてある。おそらくソメイヨシノだと思うが桜の咲く時季になると病院に訪れる人々や入院患者さん達の眼を和ませている。私も15階の窓から桜を眺めるのが日課となっていた。自宅に戻っても病院食(腎不全食)と同等の食生活を送る事が出来れば心不全を繰り返す頻度はかなり減ると思うのだが…。

 

 

 2月中旬過ぎの事だった。株式会社文化工房(朝日テレビグループ)広報メディア局の制作部である方からDMが届いた。内容は、首都高速道路(株)より委託を受け編集・サイト運営を行っており、『首都高速NEWS』への写真掲載に協力して頂けないかと言う連絡であった。
 初めて耳にする社名だったので、暫く考えてDMに貼り付けてあったURLを調べてみると、昭和28年創業の会社で映像・印刷物・WEB・モバイル関連など幅広い分野での制作を行っている歴史ある企業である事が分かった。その後も何度かメールのやり取りをし、信頼に値すると確信を得て写真使用許諾のOKを出した訳である。
 掲載されているわたしの写真は『浜崎橋ジャンクション』。JCTシリーズも6回目となるが、前回の掲載は1年前の両国ジャンクションで、久しぶりのJCT撮影で、少し興奮気味であったが、こちらのJCTは竹芝桟橋から徒歩で5分程度と撮影ポイントを決めるにもさほど時間が掛からず案外スムーズに撮影出来た。使用したレンズはJCTを撮るならこれと決めている中華レンズのLAOWA 14mm F4.0 FF RL Zero-Dである。長く伸びる光芒の美しさに惚れ惚れするレンズであり、14mmと言う超広角レンズにもかかわらず意外と歪みが気にならない。以前にも記したと思うが重量228gの軽さは心臓の悪い私には非常に有り難い。
 文化工房の今回のテーマは『首都高のある風景』。わたし以外にも多くの方の写真が掲載されており、サイトでは数多くのジャンクションや首都高を堪能出来る。JCTを撮る時の大事なポイントは天候とやはり夕暮れから夜に掛けての時間帯である。日中の明るい内に眼にする景色が夜の帳とともに一変する様は夜景撮影の醍醐味を体感出来るほどである。首都高NEWSのリンク先はこちら↓。

 

 

 

 

 私が子ども時代を過ごした故郷の静岡県藤枝市は温暖な気候に恵まれている事もあり、雪は滅多に降らない。降ったとしても積もる様な事は先ずない。私の幼い記憶の何処を探しても雪の姿は見当たらない。その代わり冬になると天候に関係なく富士山に積もった雪が風に運ばれてヒラヒラと舞い落ちて来る。それを『風花』と呼んでいた。それがまるで白い天使の羽根の様に見えて風花の舞う日は嬉しくて外ではしゃいだものである。
 上京して最初に迎えたある冬の日、目覚めて窓の外を見ると辺り一面が白銀の世界だった。「東京ってこんなに雪が降るんだ…」と驚きつつ東京の冬の寒さを思い知らされる一日となった。冬でもコートが要らないほど温かい静岡で育った私にはこの時の身も凍り付くような冬を経験するのは初めての事で、すっかり風邪を引いてしまい何日も仕事を休んでしまった事を覚えており、西大井の木造アパートは隙間だらけで厳しい越冬となった。
 2月5日の東京は午後から降り始めた雪が夜になって激しさを増し、都内全域に大雪警報が発令された。交通網が発達した都会の利便性は何処へ行くにも申し分ないのだが、自然の猛威には相変わらず脆弱である。この日、私は大きなミスを犯してしまった。夕刻になって薬が切れている事に気付いたのである…。窓を開けると外は真っ白で雪が降り積もっている。薬局は午後19時で閉店なので慌てて外へ飛び出した。雪を撮りたいと言う衝動に駆られ、右手にカメラを携えツルツル滑る階段を用心深く下り駅の近くにある薬局へと向かった。
 時計を見ると19時まで残り15分しかなく、かなり焦りつつ急ぎ足で歩を進めた。雪に足を捕られ歩きにくくかなり呼吸も荒くなり参ったが、何としても今日の内に薬をと言う気持ちで全力を出し切って歩いた。閉店3分前で滑り込みセーフ!帰りにダイエーで一週間分の食料を買い込んだためバッグはパンパンに膨れ上がった。多分重量は10キロはあったと思う。ダイエーを出た時が最も雪が激しかった。帰路の途を撮影しながらゆっくり歩いた。傘は持っていたが撮影に邪魔になるので畳んでバックへ。頭が雪で濡れるとまずいのでダウンジャケットのフードを被った。
 シャッタースピードを早くすれば止まった雪が写せ玉ボケの幻想的な雪景色が撮れる事は知っていたが、気温0℃以下の元で手指は凍り付き指の感覚が全く無くなってしまい、シャッターボタンを押す事もままならない状況で、カメラの細かい設定が出来る状態ではなかった。心身ともに冷え切って冷凍庫の中にいるような感覚だったが、雪の風景を撮ると言う目的が凍て付く寒さを上回っており、疲労感は殆ど感じなかった。
 家に着くなり冷え切った身体を温めようと熱々のシャワーを浴びて漸く生き返った。真夏の暑い時にキンキンに冷えたビールを飲むその逆パターンである。東京タワーの記事でもう無茶な撮影はしないと約束したが、それをいとも容易く破ってしまった。寒さは心臓の大敵である事は重々承知していたのだが(反省)…。

 

 

 スタジオジブリ作品の中で癒し系キャラNO1と言えばやはりとなりのトトロだろうと思う。1988年に長編アニメ映画として世に出てから36年の歳月が流れて今も尚、年齢を問わず万人に愛され続けているキャラクター。無垢な心を持った子どもにしか会えない(見えない)ファンタジーの中の生き物である。トトロが棲んでいる森には巨大な楠木があり、この巨木には精霊が宿ると言われ古の時代から御神木として崇められている。
 トトロは空も飛ぶ事から私的には巨大なムササビではないかと勝手に解釈しているが、ムササビが飛んでいる姿を実際に自分の眼で確認した事はない(^_^;)。トトロを被写体として初めて捉えたのは一眼レフデビューして3ヶ月が経った頃2019年12月。NikonのD700で東京ソラマチにある『どんぐり共和国』での撮影だった。店内のいたる所にジブリ作品のキャラが並んでおり、来店する人たちの眼を釘付けにしていた。そんな中でひときわ目立っていたのがトトロとネコバス。私は夢中でシャッターを切った。
 それ以来、ソラマチのスカイツリーを撮りに行った時は必ず店に寄る。来店する度にレイアウトが変わり新たなキャラが陳列されており何度行っても飽きる事がない。トトロも様々な表情を見せてくれるし理屈抜きで撮影が愉しくなる。ファインダーを覗きながらトトロと眼が合うと思わず笑ってしまったり、傍から見たら変なオヤジだと思われるだろう。これほどトトロを撮ってはいるが、まだ一度もグッズを購入した事がない。店からすれば迷惑な客となってしまうが撮影は店のオーナー公認だからその部分で甘えている自分がいるのも事実だろう。次回行った時は自分用ではなく娘へのプレゼントとして購入してみようと思っている。

 

 

 この東京タワーは昨年の7月に撮影したものだが、その頃と言えば徐脈性心房細動で緊急入院し、生きるか死ぬかのドタバタ劇を繰り返していた時期。つい最近の様な気もするがペースメーカー植え込みから半年が過ぎ、今はほぼ元気な毎日を送っている。正確に記すと7月22日の朝、前日に撮影した写真をRAW現像しようとパソコンの前に座った途端、いきなりの目眩、頭がクラクラし一瞬だったが気を失ったかも知れない。デスクの角に頭をぶつけた事を覚えているのだが、その前後がどうだったかハッキリしない。自分の身体に異変が置きている事だけは確信したが、連日の撮影で少し疲れたのだろうと軽く考えており、余り気にも止めなかった。
 その日も撮影の予定を入れていたので目眩の事は無視してカメラ機材をバッグに詰めて出掛けた。自宅から駅までの道程で何度も目眩を起こし「ちょっとやばいかも…」とふらつく身体を何とか気力で支え電車に飛び乗った。体調に異変があるのだから止めればよいものを、「撮りたい」と言う気持ちを抑えきれなかった。まるで欲しい玩具を見つけてそれを強請る我儘な子供状態であった。
 東京タワーのライトアップが平日と土日では色が変わる事を今回の撮影で初めて知った。御成門ではなく芝公園で下車し、公園内を散策しつつ時間を潰し暗くなるのを待った。歩いている最中も度々意識が遠のく感じがし、その都度その場にしゃがみ込んで休憩。心不全なら呼吸が苦しくなるので直ぐ分かるが痛みもなく、動悸がする訳でもないのでまさか徐脈発作を起こしているなんて事は夢にも思わなかった。夜の帳が降り始め東京タワーの赤と星の様に輝く電球が夏の夜空に浮かび上がった。待ってましたとばかりに三脚にカメラを固定し、長時間露光撮影を開始。様々な場所から美しい女性の様な脚線美を持った東京タワーを撮りまくった。移動中、何度も気を失いかけていたが、そんな事もおかまいなしでの撮影。「知らぬが仏」とはまさにこの時の状態だった。
 東京タワーと言えばやはり思い出すのは父との事である。以前にも記事で紹介したが、刑務所帰りの父と一緒に帰りの電車の窓から眺めた東京タワーが脳裏に焼き付いている。雨粒が車窓に当たり弾けて流れ落ちる姿が涙の様に思えた。約二年ぶりの父との再会を東京タワーが祝ってくれている様な気がした。そう言えばあの時、私の隣にいた綺麗なお姉さんは、今でも健在なのだろうか?お腹を空かしているだろう事を察して、「これあげる」と優しく幼い私に一切れのパンをくれた女性…。人の優しさに飢えていた子供時代ではあったが、親切な大人たちに囲まれて育った私は決して不幸ではなかったと思う。
 それにしても東京タワーの夜景撮影中、失神しなかったのは運が良かったの一言に尽きる。きっと東京タワーが昔の事を覚えてくれていて、私を見守ってくれていたのかも知れない。
 

 

 

 

※イギリスのロックバンド『アニマルズ』の代表曲。全米ビルボードで3週連続1位を記録している。日本語歌詞は浅川マキ自身による。

 

 一年を通じて夕焼けが最も美しいのは秋から冬にかけて。一眼レフを始める前は空が何色だろうと気にも止めていなかったが、カメラを手にした途端に空模様が気になってしょうがない。その日撮影に行くか止めるかはほぼ天気次第である。空一面をオレンジ色に染める夕陽も魅力的ではあるが、私は青と赤が混じり合った夕暮れが好きである。
 そんな空は神秘に満ち、そして何処か悲しげで憂いを帯びた女性の後ろ姿の様にも見える。音楽に例えるなら明るいポップ調よりも『ブルース』がぴったり。日本の女性ブルース歌手と言えばやはり『浅川マキ』。彼女の初のライブ・アルバム『NAKI LIVE』を私は持っていたが、蒲田在住の時に自宅が火災に遭い100枚以上あったLP版は高熱で溶け落ちてしまった…。そのライブ・アルバムの収録曲で最も好んで聴いていた歌が『朝日楼(朝日のあたる家)』だった。参加ミュージシャンでドラムを叩いていたのが、あの『メリー・ジェーン』をヒットさせた『つのだひろ』である。
 静岡の駿府会館で行われたロックコンサートで『つのだひろ&スペースバンド』を観た記憶が鮮明に蘇って来た。泉谷しげる、海援隊、サディスティックミカバンド、ガロ等も出演した今思えば何と豪華なコンサートだっただろうと思う。
 夕焼けの話題からすっかり脱線してしまったが、都内で夕映え(風景)を撮るスポットは多々あるが、私の場合、最も多く撮っているのが隅田川で中央大橋からの眺めが絶好のポイントだと思う。他に『お台場』『豊洲大橋』『葛西臨海公園』『竹芝桟橋』等である。投稿したこの写真であるが、自宅から埼玉方面へ30分ほど歩くと新河岸川に着く。その川に架かる小さな橋の上から手持ちで撮影した。この辺りは閑静な住宅街で空を遮るような高いビルもなく、最も高いのは送電線の鉄塔くらいのものである。
 人も車も殆ど通らない場所ではあるが、夕焼けを撮る好条件が割りと整っており、意外と撮影の穴場だったりもする。夕日の赤が川面を真紅に染め上げる光景は圧巻!今年こそは横浜港からの夕焼け空をカメラに収めたいと思っているのだがどうなる事やら…。

 

 

 クリスマスイベントが日本に広まり定着する切っ掛けを作ったのは銀座の明治座と言われている。クリスマス商戦を何処よりもいち早く展開し、庶民向けの豊富な商品の販売は人気も上々で大成功を収め、日本に於けるクリスマスの礎となった。 
 クリスマスと言えば欠かせない物がプレゼントである。サンタクロースに願い事をし、贈り物を心待ちしていた幼い記憶を誰もが皆持っていた。そんな無垢な心からやがて月日が経ちその正体を知る事となる。そして今度は自分が親になりサンタを演じている。
 サンタクロースの真実を知るのは平均で7歳だと言われているが、私は今でもその存在を信じている。人類がこの地上に生まれ進化し栄光と繁栄を繰り返して来たが、その影には醜い権力の争いが常に付きまとって来た。それでもサンタクロースは年に一度訪れるのである。サンタは神の化身、諍いの絶えない人間に心を痛めた神は、サンタクロースに姿を変えて子どもや大人に一つのプレゼントを置いて行く。
 それは愛である。愛情の篭ったプレゼントほど嬉しいものはない。愛とは受け取るものではなく、与えるものだと教えてくれている。頂いた愛は人から人へと受け継がれていくもの。貴方は生まれながらにしてこの世に生を受けた時、既に母胎の中で愛を感じとっているのだ。
 そして私にはどうしても忘れる事の出来ないクリスマスに纏わる思い出がある。それは私が小学生だった頃の事。貧困は、時に子どもの心を傷つける。私はそれを子ども時代にうんざりするほど味わって来た。空腹に耐えきれず石ころの下の蟻の巣を見つけると大量の蟻を両手で救い口に頬張ったりもした。赤蟻は蜜を持っているのでそれが飴の様に甘かった事を覚えている。
 その日はクリスマス・イヴだったと思う。時計が午後�10時を回った頃、泥酔しきった父が真っ赤な顔をして帰宅し「とし坊、土産だ」と言って私の前に差し出した小さな白い箱の中身は、酒臭いイチゴのショートケーキだった。しかも何処かで箱を落としたのか、半分グチャグチャに潰れかけていた。それでも私はそれが嬉しくてたまらず、涙をポロポロ零しながらそのケーキの甘さを味わった。42年の短い人生の中で父からの贈り物はその小さな崩れかけのケーキのみだったが、酒と自分が流した涙のしょっぱさが入り混じったケーキの味を今でも忘れていない。
 酒を一杯引っ掛けて酔わないと自分の息子の為にさえまともな贈り物も出来ないほど、恥ずかしがり屋だったのだろう。酔えば必ず暴言と暴力で私を傷つけて来たが、私自身は一度も父を嫌った事はなかった。父よりもむしろ父を狂わす『酒』に恨みを抱いていた。この世から酒が無くなって欲しいと何度も神様に手を合わせていた。
 クリスマスは平和の象徴でもあり皆が楽しめるイベントでもある。が、しかしその隣では
明日の糧を求めて餓え続け、サンタクロースの来ない子どもたちが大勢いる事も忘れないでいて欲しい。今、あなたがもし幸せだと思ったら、それは「当たり前」ではないことなのだと認識して欲しい。
※写真は東京ソラマチのイルミネーション。

 

 

Happy New Year 2024!

 

2022年に引き続き昨年も皆様には大変ご心配をお掛けしました事をこの場を借りてお詫び申し上げると共に2024年が明るい希望に満ち溢れる一年になりますように。

 

 年明け早々不安で暗いニュースが飛び込んで来て正月気分が吹き飛んでしまった方も多いのではないだろうか?筆者もその内の一人であるが、元日の夕刻に能登半島を震源とする震度7の巨大地震…。地震発生から一夜明けた2日にはその被害の大きさが想像を遥かに超えるものだった。テレビに映し出される映像や写真は地震の底しれぬ破壊力を見せ付ける内容で、言葉を失った。観測では1.2m以上の津波とあるが、港には転覆し船底だけが辛うじて見える漁船が何隻も無惨な姿を見せている事から津波はおそらくもっと高い2mを超えていたのではないかと思われる。火災の発生により焼け落ちた民家、土台から崩れ落ちたビルなど、まるでそれは空爆を受けた戦場の如くである。
 2011年の東日本大震災以降、日本列島を取り巻く海洋プレートの動きが活発となり、日本の何処で巨大地震が発生しても不思議ではないほど、不安定な時期に差し掛かっていると言えるだろう。東京で今回と同程度の地震が発生した場合、おそらく首都壊滅と言う想像するのも恐ろしいシナリオが見えて来る。『備えあれば憂いなし』と言われる様に日頃から命の安全を徹底し、リスク管理を怠らない事が肝要である。
 日本海から吹き付ける寒風で被災地では暖もまともに取れない厳しい状況に置かれており、一刻も早い救援が望まれる。気象庁は今回の地震を『令和6年能登半島地震』と命名した。この地震で犠牲になり亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 NHKの『ゆく年くる年』で神田明神(神田神社)が紹介されたおり、初詣の参拝客が門の開くのを今か今かと待っている場面を見つつ、私は自作の年越し蕎麦をすすっていた。無事に年越しを迎えると共に、神様から頂いた今ある命の尊さを噛み締め、今年は入院なんて事にならぬよう自己管理を徹底し、今年も来年もその数年先も元気で撮影ライフを楽しめるよう、神社の御祭神である『だいこく様』に手を合わせた。商売繁盛の福の神でもあり、健康、除災厄災のご利益もある事で有名。