プールサイドの人魚姫 -2ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

 

 この風景写真は今年2月下旬、河津桜とスカイツリーを撮りに行った時のものである。スカイツリーに何度も足を運んでいる方であれば、写真を見ただけで「ああ、あの辺りか」と直ぐに気づくと思う。東京を代表する下町で最も人気なのは浅草辺りであるが、このスカイツリーのある周辺も「東京ソラマチ」が出来てバラエティ豊かなお店が集う観光スポットとなった。
 スカイツリーが出来る前この辺りがどんなだったか知らないけれどAIの情報によると東武鉄道の貨物ヤード(操車場)があり周辺は比較的閑静な住宅地で規模の大きな商業施設はなかったようだ。ソラマチへ行く度に思うのだが、押上駅ホームが狭くて電車を下りてからとても窮屈な感じを抱いてしまうが、駅自体が都営浅草線の路線で他の地下鉄と比べて古い路線である事と、スカイツリーの開業により観光客が異常なほど増加した事も影響しているのだろう。
 夕暮れ時と言うよりほぼ夜景と言っても通用するほど日が暮れかかり沈む太陽の夕陽を浴びて空と街全体がなんとも言えぬほど神秘的な景観を見せてくれた。久しぶりの夕焼け空だったのでかなりテンションが上がり、ワクワクしながらシャッターを切った。使用したレンズは以前お話ししたZ35mmf/1.4の単焦点レンズである。明るいレンズなのでこの暗さでも三脚なしの手持ち撮影で、絞りf/2、シャッタースピード1/60秒、ISO200と言う設定である。
 下町の空を覆う雲も中々良い感じが出ており、幻想的な夕日に出会えた事に感謝した。かなり寒かったかれど撮影に夢中になっていたので吹き抜ける風の冷たさも忘れるほどだった。ところで、6月24日は病院外来日だったのだが検査結果が気になった。心不全の指標であるBNP値は692と高めではあるものの許容範囲だったが問題は腎機能。クレアチニン3.59、GFR14だった。これは腎臓の残存機能が14%しかないことを示している。このまま悪化して行けば人工透析が現実味を帯びて来た。ただ、2022年10月の心臓オペ以前、5月頃のデータを見るとクレアチニン4.95とかなり高い数値。それと比べれば今回の数値でさほど狼狽える事はないのかも知れない。BNPも数ヶ月前は1400の時もあったし、これ以上悪化する事のないよう日々の生活習慣に気を付けながら過ごして行こうと思う。

 

 

立ち眩みがするほど

青い君の瞳に吸い込まれて

いつしか僕は

陽炎のように揺らぐ君の姿の

虜になっていた

 

 

  初めてネモフィラを撮影したのは3年前の2022年4月、日比谷公園だった。それを記事にしたかどうか忘れてしまったけれど、鮮明に覚えている事は心不全と腎不全の影響で撮影から帰って自分の変わり果てた脚の姿だった。パンパンに浮腫んで腫れ上がりまさに『大根足』。三尖弁の手術を受ける前だから入退院を繰り返していた時期でもあった。それを考えると今こうして撮影を続けていられる自分が信じられなくなる時がある。普段の生活の中で病気について深く考える事は殆どなく、その病気の自分が当たり前でそれ以下でも以上でもない事実。それだけは受け止めていたけれど、歳を重ねるに連れて「後、何年撮影を続けられるだろうか…?」と不安が胸中を過る時がある。
 アパートの階段を上るのが辛くなったら多分それが自分の限界のサインだと思っている。その時が来たら長距離を歩くのも辛くなるだろうからカメラを手にする事もなくなるかも知れない。それでも家の近所に咲いている花くらいは撮れるだろうから、撮影を止める事にまでは至らないと思う。好きな風景(夜景)が撮れなくなるのは寂しいけれど、カメラ人生も何処かで区切りをつけなくてはいけない。
 ツツジやサツキのように丁度良い位置に咲いている花の撮影はさほど苦労する事なく撮れるが、このネモフィラのように低い位置に咲く花の撮影ほど体力・気力・根気を必要とする被写体は他にあるだろうか?(野鳥や昆虫などの撮影は端から諦めているので問題外。)花と視線を合わせるため、正面から被写体に向け、先ずはご挨拶。ブツブツと言葉を発し、花に話しかける。撮影する上でこれは重要なポイントでもある。花が機嫌を損ねると良い表情を見せてくれない。命を宿す全てのものには尊敬と感謝の念を抱かなくては本気で相手にしてくれない。撮影もそれと同じだと思う。この日、ネモフィラの撮影を終えて低い位置から一気に立ち上がろうとした時、背中のバッグパックの重さに耐え切れず後ろにひっくり返ってしまった。
 足腰の衰えを痛感したが、撮影には筋トレが必要だと改めて思った。転んだ私を見てネモフィラが優しく微笑みながら「大丈夫?」と話しかけてくれたような気がした。

中学1~3年生、校門前で記念撮影(この中に初恋の人もおります)。私目立ってますね(^o^)。

 

 

 

白いボールを追い掛けて

僕の恋が行ったり来たり

打ち返すラケットは

恥じらう恋の返り討ち

好きですなんて言えなかった

年上のお姉さん

僕はあんまり幼くて

貴女の眼に止まる筈もなく

それでも僕は

貴女の姿を真似て

ラケットを握った

カーン、コーンと

小気味よい初恋の音がした

 

 

 

  白いツツジの花言葉が初恋だったので遥か遠い記憶の彼方から甘酸っぱい思い出を手繰り寄せてみた。それは私が13歳になったばかりの頃だった。藤枝中学から天竜養護学校へ転校し、3ヶ月余りが経った時、ベッド授業が解けて登校許可が下り一日4時間の授業が許された。ベッド授業の時は僅か1日2時間まで。教師が病室まで来て自分のベッド上でマンツーマンの授業。元々小学生の頃から勉強が大嫌いで登校拒否の問題児として扱われていたから授業が少ないのはまさに私にとっては天国のような居心地だった。
 午後1時~3時までは安静時間で(病気の重い生徒のみ)名札の色によって区別されており、私は赤で外に出る事も禁止されていたが、登校許可が出た時に緑に変わった。名札の色は赤、緑、黄色、白の4種類。この頃からトリアージが導入されていたのはおそらく天竜荘(現・天竜病院)だけだっただろうと思う。
 入院中の殆どの生徒は名札が黄色か白だったので午後1時から2時間は鍛錬授業として白い体操服に着替え登校し天竜公園内を走り回る等、かなり激しい運動を月~金に行っていた。鍛錬授業の時は病室に残っているのは病気の重い数人程度。私は8人の大部屋だったから墓地のように静まり返った病室で漫画を読んだりラジオを聞いて過ごしていた。
 私は一般病棟の12病棟だったが初恋のお姉さんは隣の13病棟。天竜荘は元々結核患者の為の国立療養所だったので、感染系の病気の子どもは隔離病棟になる。お姉さんは私より3つ上だったと思う。学校に行ってもクラスが違うし病棟も違うため、顔を合わせたり言葉を交わす機会は殆どなかった。
 それは体育で1~3年生全員が参加する『卓球』の授業だった。この頃はまだ体育館もなかったので教室に卓球台を持ち込み狭い中でのピンポン授業が始まった。私にとって心臓病の事もあり体育(運動)は大の苦手分野。小学生の時は体育の時間が苦痛で堪らなく、それが不登校の一因にもなっていた。生まれて初めて眼にする白いピンポン玉、そして赤いラバーのラケット。持ち方すら分からずピンポン玉を台の上に落としそれを打つのだが何度やっても空振りばかりだった。嫌になって教室の隅で踞っていると、カーン、コーンと小気味良い音が教室に響いて来た。教師が打つ玉を的確に捉え打ち返すその姿に釘付けとなった。まるでダンスを踊っているかのような美しい動きに見とれてしまった。その時から私の脳裏にお姉さんが刻み込まれていった。
 お姉さんのスタイルはカットマンタイプだったと思う。そして私もお姉さんの様に卓球が上手くなりたいと思い、その姿を全く同じ様に完全コピーし、イメージトレーニングに励んだ。その結果、僅か数週間で教師も驚くほど上達した。校内卓球大会の時、元卓球部を相手に3位決定戦まで勝ち進んだ事がある。だがカウント3-2の途中に、ある教師から突然の試合中止の指示。おそらく二人の身体にこれ以上負担を掛けられないと思い決断したのだと思う。そのため私は無念の4位で終わった。その試合相手の重信は喘息児だったので発作の出ていない時は健康児と殆ど変わらない生活だった。だが、その彼がまさかの医療過誤により20歳の若さでこの世を去った。彼の最後の言葉「母さん、薬が間違っている!」を今も鮮明に覚えている…。初恋の話しがかなり脱線してしまったが、運動音痴だった自分が唯一得意とするスポーツを持てたのは全てお姉さんのお陰だと思っている。

 

 

 4月上旬、目黒川の桜並木を撮りに行った。こちらの桜は今回が初めてである。千鳥ヶ淵とどちらか迷ったが千鳥ヶ淵には過去に数回行っているため気分を変えて目黒川にした。目黒と言えば随分昔の事だが某大手リース会社に就職した際の最初の勤務地が目黒だったので、懐かしい思い出に浸る事も出来た。普段利用している都営三田線で乗り換えなしで行けるので便利だし交通費も掛からず経済的である。
 目黒駅から目黒川を目指し着いた場所が目黒新橋だった。右と左どちらに行くべきか悩んだが、人の流れを見ながら先ずは五反田方面へと足を運んだ。途中で幾つか橋があり、そこで撮影している人が多いので私もその中に紛れ込んで撮影。花見客を乗せた小型のクルーズ船が往来していた。船から桜を眺めながら撮影してみたいと思いつつシャッターを切った。首都高の手前にある市場橋まで行き、そこから反対側の並木道に出てUターンしたものの、この道がどこまで続いているのか全く分からずGoogleマップを見ながら歩を進めた。
 陽が沈み掛かる頃から急に気温が下がって来た。日中は暑いくらいで上着を脱ぎたいほどだったが、体感温度は10℃と真冬並の寒さで風も少し強くなった。カメラを持つ手が凍てつくほどで、途中で帰ろうと思ったが、肝心の桜の風景をまだ撮り終えていなかったので気合を入れ直して夕暮れの目黒川を撮りながら更に歩を進めた。
 いつの間にか辺りは夜の帳に包まれ、あちこちでライトアップされた桜が浮かび上がって来た。日中に見た景色が一変し紅一色に染まって行く。桜祭りの提灯が見え始めた辺りが最も赤く輝いていた。その神秘的、幻想的とも言える光の帯が川面に溶け込み反射して、この世の物とは思えぬ光景が眼前に広がっった。人気の観光スポットでもあるため半端でない人の数で本来であれば夜景の撮影は三脚を使用するのだが禁止だろうと思い全て手持ちでの撮影となった。以前お話しした35mmf1.4の明るいレンズのためISO感度をさほど上げる事なく1200程度で十分綺麗に撮れたと思う。因みにシャッタースピードは1/50秒である。田楽橋の上で最後の撮影を終え帰路に着いたが途中で目黒駅までの近道を探しながら歩いている時、靴紐を自分で踏んでしまい転倒、左膝と右親指に怪我を負い出血。それ自体は気にするほどではなかったが、途中でとんでもなく長い登坂に出くわし心臓が爆発寸前になり戻ろうかと思ったくらいである。心臓が悪くなければこんな坂道など走って登れるんだろなぁと健康な心臓に嫉妬した。

 

 

 3月31日、埼玉にいる息子から「タラが今朝亡くなった…」と連絡が入った。20年生きたから人間に例えれば100歳くらいだろうか。よく頑張って長生きしてくれたと思う。さほど苦しむ事なくコタツの中で息を引き取ったいう。
 タラとの出会いは2005年、春から夏へと季節が移り変わる頃だった。当時わたしは『うつ病』を患い休職中で、社会復帰に向けて早朝散歩をリハビリとして日課に取り入れていた。その日もいつもと同じコースを散歩し、南篠崎つつじ公園に立ち寄りベンチに腰を下ろし休もうとした時、公園の何処からか猫の鳴き声が聞こえて来た。早朝のため人も車も殆ど通らず朝の静寂に包まれた公園に「ニャーニャー」という声だけが響いていた。丁度その辺りの前の道を初老の御婦人が通り掛かり鳴き声が気になったようで、声の辺りを覗き込んでいたが結局見つからずその場を去って行った。
 その後わたしも非常に気になっていたので、すぐさまその声の方に向かい生い茂った林の辺りを掻き分けてみると、生後1ヶ月ほどの子猫(キジトラ)が必至に甲高い鳴き声を上げてわたしの方を見詰めた。この辺りは住宅街で捨て猫とは思えない事から母親からはぐれてしまい公園に迷い込んだものと思われた。
 子猫を抱き上げると鳴きながら爪を立ててわたしの身体にしがみついて来た。急ぎ足で自宅に戻ると子猫を抱いているわたしを見て家内と子どもたちが大変驚いた。そして一言「家はインコがいるから飼えないよ…」。わたしは自分が面倒みるからと説得し、そうしてタラが家族の一員に加わった。結局のところ一番面倒をみたのは家内であった。猫は男性よりも女性に懐くものだが男性の野太い声が苦手らしい。
 わたしがタラと過ごした期間は約8年余り。2013年1月に脳梗塞で救急搬送された事が切っ掛けで自分がペットを飼うのは無理と判断し前妻にタラを託した。その時の詳細については関連記事の『bye-bye Tara』に記している。
 さて、話しは変わって歯の治療について。予定通り4月21日18階の外科病棟へ入院し、午後5時過ぎから歯科外来にて歯根端切除の手術を受けた。麻酔がかなり効いていたので痛みは全く感じなかった。麻酔が切れ始めたのは夜10時を過ぎた頃だった。ズキズキと患部に痛みが生じたが我慢出来ないほどではなかった。それより困ったのは傷口からの出血が止まらなかった事だ。血液をサラサラにする薬(ワーファリン)を服用しているから出血は想定内だったにしても、看護師数人が止血処理に戸惑っていた。当直の外科医に来てもらい指示を仰ぐも出血は収まらない。そしてベッドごと看護師詰所の中にある緊急処置室へ運ばれた。深夜0時を過ぎた頃、歯科医に連絡を取り診てもらう事となった。ケアガーゼを何枚も重ねて口の中が膨れ上がる。その上から傷口辺りを思い切り抑えるので余りの痛みで気が遠くなりかけた。
 結局ひと晩は一睡も出来ず疲労困憊でヘトヘトだった。朝になって抗生剤の点滴を入れる際に口からガーゼを取り出してもらった。出血はまだ少しあるものの外来にて消毒と止血処置を受け、マウスピースを装着して昼前に退院となった。28日の外来で抜糸の予定である。削り取った骨が再生し元に戻るまで半年以上掛かるようで、義歯が出来上がるまでまだまだ時間が掛かりそうだ。

 

 

 昨年2月からスタートした都庁のライブイベント『プロジェクションマッピング』。東京のランドマークの一つである都庁第一本庁舎をキャンバスにして、光と音によるアートを表現。世界最大の規模としてギネス記録に認定され会場は多くの観光客で賑わっている。
 私はこの日、ライトアップのイベントを知らず新宿の高層ビル群を撮影するため午後の夕暮れ前から西新宿辺りへと出向き、様々な高層ビルの雄大な風景をカメラに収めながら散策を楽しんでいた。陽が西に傾き夜の帳に辺りが包み込まれるとビルに明りが点灯し、日中の街並みが激変し、大都会の夜景の迫力に圧倒されるほどであった。
 新宿センタービル等、様々な高層ビルを撮り終えて帰り支度をし、都営大江戸線の都庁前駅に向かって歩き始めた時、ふと見上げたそこがキラキラと光輝いているではないか!「うん?なんだあの光は??」と興味津々。バッグに仕舞った三脚を再び出してカメラをセット。そのまま抱き抱えて光の元へと急いだ。こんな派手な夜の都庁を見るのは初めてだったので、テンションもマックスに!。これだけ規模の大きなイベントだから見物人もかなりの人数かと思いきや都庁の正面で撮影していたのは私一人だけだった。周りにも殆ど人影はなく静まり返った夜の風景に都庁のビルだけが幻想的・神秘的な姿を見せていた。イベントが一旦終わると何処からか拍手と歓声が聞こえて来た。「あれ?どこだ?」と思い下を見下ろすと広い暗影に人の姿が。B1の広場ホールが見物会場となっていたようだ。
 ところでこのイベントの予算額が16億円を超えるらしい。これには賛否両論があり都の方は「経済波及効果」を18億円と推計しているのだが予算規模に見合う効果が本当にあるかは疑問である。これらの費用は税金で賄われているのだろうから無駄遣いになってしまわないと良いのだが。夜景撮影を好む人にとっては嬉しいイベントである事は確かであるが…。
 さて、話題は変わって1月から始まった歯の治療について。実は3月25日に日帰り手術を受ける予定だったが当日、担当医に「入院して手術を受けたい」と直談判。結果的に4月21日に入院しその日に手術となった。基礎疾患を抱えている身としては何としても入院手術が理想だったので希望が通り安心した。我儘な患者と思われたかも知れないが術後の不安や心配事でこの数週間悶々とした憂鬱な日々を送っており、過去の抜歯ではいずれも入院していたから入院が決まってやっと安心して眠れるようになった。

 

 

 今年の初撮りは河津桜とスカイツリー。約2ヶ月振りの撮影で気分は高揚しカメラを持つ手も震えたが、この3枚は全てスマフォでの撮影である。河津桜を撮るのは多分3年振りだと思う。この撮影ポイントは定番となっているため、誰が撮っても同じ構図になる。だからその中から自分らしさを表現するのに結構苦労した。いわゆる『額縁構図』で、額に収まったかのように見せる撮り方であるが、それに似たものに日の丸構図があるけれどそれとは少し違うようだ。
 2枚目は背景のスカイツリーをぼかしてみた。同じ構図でも雰囲気が随分変わる事が見て取れる。スマフォでも工夫次第で一眼レフ顔負けの写真が撮れる。場合によってはそれ以上の写真が撮れたりするが、それだけ最近のスマフォカメラの性能が進歩しているのが分かる。この撮影場所には河津桜が3本植えてあるが時期がまだ少し早かったのか1本は開花しておらずまだ蕾の状態だった。夜間の撮影なので本来なら三脚を使用して長時間露光で撮りたかったが『三脚使用禁止』の立て看板があるため三脚を使っている人はいなかった。それでも無視して堂々と三脚を使っているカメラマンが数人いたりするが、かと言ってそれを注意する人は皆無。
 3枚目のスカイツリーとその周辺を超広角で撮った写真だが、よく見ると何となく滲んでいるようにも見える。多分これは手ブレのせいかと思うが手持ち撮影のため仕方のないことか…。この日は気温が一気に上がり4月の陽気で春の足音が街全体を駆け巡っていたから、撮影に夢中になっていると知らす知らずの内に汗ばむほどだった。大した距離を歩いた訳ではなかったが、翌日は身体のあちこちが筋肉痛で殆どベッドで横になっていた。やはり2ヶ月もカメラを持たないと体力・筋力も落ちかなりストレスも溜まっていたように思う。撮影を終えて溜まっていた物を吐き出した感じがして気分が前向きに好転した。
 季節が進み温かな春の陽射しが訪れれば夜景の撮影も寒さに震える事なく楽になって来るだろうからこれまで撮れなかった分、一気に増えて行くと思われるのだが1月から続いている歯の治療が長期戦になりそうだ。桜が満開になる頃、口腔外科にて『歯根端切除術』を受ける事となった。手術に掛かる時間は約1時間30分らしい。手術中は兎も角、麻酔が切れた後の痛みと腫れの事を考えると憂鬱になる。歯肉切除の時より酷い痛みに悩まされるだろう。入院して手術を受けたいくらいである…。

 

 

 昨年10月「今年の秋桜は諦めた」と言う話をしたと思うのだけれど、先日パソコンの中の写真を整理していると築地大橋の写真の中に削除した積りだったが数枚のコスモスが残っていた。その中の一枚が気になってお蔵入りするのは勿体ないと思い公開する事とした。
 花の写真を撮る時は大抵中望遠マクロのMC105mm f/2.8を使う事が多い。被写体に思い切り寄って画面から飛び出るほどの花びらや蕊(しべ)にピントを合わせたり色々工夫しながらの撮影であるが、マクロは呼吸が乱れたり手が震えたりするとブレが生じて失敗する事も多い。だから風景写真などを撮る時より遥かに難しいと思う。風が強かったりするともう最悪である。
 写真撮影は一枚の真っ更なキャンバスに絵筆を走らせる絵画に似ている。写真も絵も共通する最も重要なポイントは構図。私の場合、撮る前に気に入った被写体を見つけたら頭の中で絵を描くようにイメージする。この撮影するイメージは「今日は何を撮ろう?」と自宅でレンズを選んだり目的地を決める時から始まっている。実際に撮影している時よりこの最初の時間が一番楽しいかも知れない。
 緑一色の中にポツンと佇むピンク色の花が一輪…。被写体の存在感を際立たせるため、敢えてアップで撮る事は止めて周りの空間を出来るだけ活かし花と緑のある部分にのみピントを合わせた。フォーカスリングを回しボケ加減を決めながらの撮影。焦点距離300mm、f/6.3、シャッタースピード1/160,ISO80。望遠レンズ特有の圧縮効果で美しいボケを作り出す事が出来たと思う。幻想的、神秘的な一枚の花が何かを語り掛けているように見えて来る。
 ところで前回お知らせした通り思わぬ歯のトラブルで躓き、今年に入ってまだ一度も撮影に行っていない。カメラを始めてこんな事は初めて(足の怪我は別)である。撮りたい気持ちはあるのだが、通院回数が3倍に増えてしまい疲れている事も影響しているのだろう。1月に単焦点レンズのZ 35mm f/1.4を購入し逸る気持ちを抑えている矢先の歯科だった。その途端リズムが乱れて撮影意欲も吹き飛んでしまった…。だが、これは「無理はするな」と言う天からの警鐘と捉えてその時が来るのを待つしかない。

 

 

 

 前回の更新からすっかり間が空いてしまった為、中には『心不全で入院?』と思った方も多いのではないだろうか…。入院した訳ではないのだが1月中旬に糸切り歯の隣の差し歯が抜けてしまい翌日三井記念病院の歯科外来へ行った。抜けただけなのでその差し歯を再装着して済むものと思っていると、抜けた原因を調べるためレントゲンを撮った。すると土台の歯の根っこの方が虫歯になっており治療する事になった。簡単に終わるだろうと高を括っていると、なんと歯肉切除の手術をする事になってしまった。クラウンレングスニング(歯冠長延長術)と言う、初めて聞く内容だったため、かなり不安になった。もちろん麻酔を打っての手術だから痛みはないのであるが麻酔が切れた後、自宅に戻ってからがさあ大変!メスを入れた部分がズキズキと痛み始め、食事もまともに出来ず眠る事もままならない状況に…。

 うがい薬と痛み止めのロキソニンを処方されたが慢性腎不全を患っているので腎臓に負担を掛けるロキソニンを服用する気になれず、ひたすら痛みに堪える日々が続き、気力・集中力も落ちすっかり心身ともに疲弊してしまった。傷口を保護するためマウスピースを装着したまま過ごし食事の度に外してうがい(消毒)の繰り返し。1月下旬になって漸く痛みから解放され、現在に至っている。歯の治療はおそらく時間がかかり2月中に終わるかどうか微妙である。

 さてお台場のシンボル的象徴と言えば幾つかあるがやはり『自由の女神像』が最も目立つ存在であると思う。お台場に行ったら必ずカメラに収めるのも恒例となっているほどだ。夜間は季節によってライトアップの色が変化するため何度撮っても同じ写真にはならない。こちらに投稿した女神像はは砲台跡から撮影したレインボーブリッジの帰りに撮ったものである。約1キロはあると思われるお台場ビーチを暗闇の中スマホの灯りを頼りに歩いたので女神像に辿り着いた時は足がもつれるほど疲れていたけれど、その夜の女神像はこれまで見た事のない配色で輝いており、一気にテンションが上がりいつしか疲れは吹き飛んでいた。あらゆる方向からカメラを向けてシャッターを切った。背中は青、表は真紅と言う二色が織りなす微妙な色加減が秀逸で、時間を忘れていつまでも見とれていたほどである。満足の行く写真が撮れた時ほど気分の良いものはない。フジテレビの本社前にあるバス停からレインボーバスに乗り田町駅へと帰路に着いた。レインボーバスは障がい者無料と言うのも嬉しい。都営三田線も無料なのでお台場へ行く時は交通費が掛からないので助かっている。

 ところで最近何かとニュースやワイドショーで取り上げられているフジテレビ。週刊文春の記事を読んでいないのでいないので詳細は分からぬが中居正広氏と女性との間にどんなトラブルがあったのか、解決金として1億円近い高額な金銭を女性に支払った背景には、それ相応の被害を与えてしまった事は察しが付く。先日行われたフジテレビの「やり直し会見」は10時間にも及ぶ異例の長さであったが、トラブルの核心明言には至っておらず幾つもの疑問が残る会見となった。

 文春側も記事の一部訂正として自社の公式サイトでで声明を発表しているが、これはまるで「後出しジャンケン」である。フジテレビも文春側も雲行きが怪しくなればやはり保身に走りたくなるのは世の常であるが、今回の事案で最も傷付いているのは被害者の女性である。どれほどの金額を積まれても身体の傷は癒せても心の傷は癒せない。トラウマとなってこの先一生苦しむ事になるかも知れない。張本人の中居氏は責任を取って芸能界を引退したがそれは責任転嫁のようにも思えてくる。被害者のプライバシー保護、守秘義務などを盾にして沈黙を貫く点では中居氏、フジテレビ幹部たちも同じであった。今後どのような展開になり複数の疑問点が明らかになるのか第三者委員会の報告を待ちたいと思う。

 

 

寒中お見舞い申し上げまます。

誠に勝手ではございますが、服喪中につき新年のご挨拶は差し控えさせていただきます。

皆様にとってこの一年が最良の年になりますよう心よりお祈り申し上げます。

本年も宜しくお付き合い下さいませ。

 

 

 昨年12月初旬、九品仏浄真寺へと出向いた。こちらでの紅葉狩りは今回で確か3度目となるが、今回の撮影で今までと違うのは使用したレンズ。花、植物等の撮影ではZ MC105mm中望遠マクロをメインに使っていた。同じ被写体で同じレンズを使用した場合、どうしても前回と同じような仕上がりになるため、思い切って今回はタムロンの望遠レンズ70-300mmで撮影。手の届くほど近くのもみじは撮らず、かなり離れた歩いて近づけない所を狙ってみた。こちらに投稿した全てのphotoがそうと言う訳ではないのだけれど、昨年、一昨年の紅葉とは趣きの違った作品に仕上がったと思っている。
 九品仏浄真寺は以前にも述べた通り東京の都会に在りながらその寺院全体の佇まいに静寂が漂っており、東京の『小京都』と言われる所以である。ライトアップされて暗闇に浮かび上がる真っ赤な紅葉も神秘的で興味を唆るのだが、こちらの寺院ではライトアップ等のイベントはない。頭に覆いかぶさって来るように生い茂った樹木や枝葉で太陽の光りが遮れら、まるで闇夜の中で撮影した?と勘違いしてしまいそうな光と影のコラボレーションは人工の光では到底及ばない、自然の美しさを醸し出している。
 都内で2番目に人気のある紅葉スポットだけあって、平日であっても多くの観光客が訪れ、賑を見せている。深い秋に色付いた楓やもみじに眼を奪われ口を閉じてじっと見詰めるその視線の先には、照れ笑いを隠す少女の紅く染まった頬が見て取れる。静寂の余韻に包まれながら、シャッターの音が心地よく胸に響いた一日であった。