プールサイドの人魚姫 -2ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

 

 17回目を迎えたニッコールクラブ静岡支部の写真展。昨年初めて参加させて頂きとても良い刺激を受け、撮影における自分の中に秘めている可能性を引き出す事が出来たと思っている。そして今年2回目の出品で予想以上の評価を頂いた。
 私の作品を見た方たちが口を揃えて「額に入れた方がよい」「もったいない、額に入れるべき」の感想。つまりそれだけ作品の完成度が高いと評価されたのだろう。昨年の写真と比較しても今回の方が更にアップグレードしているように見えたのだろう。自分ではあまり気付かないのだけれど、他者の視点で見るとその違いが鮮明に分かるようだ。
 藤枝在住の写真歴50年以上の大先輩は「文句のつけようがない!」と褒めちぎっていた。私の作品は風景写真で特に夕景、夜景が多く自分でも得意分野の位置付けである。パンフォーカスで画面全体にピントが合う手法であるが、それを特に学んだ訳ではなくいつの間にか身に付いていた気がする。
 来年も9月に写真展開催が決まっており、次回からは額付きにする予定である。写真はA3サイズであるが、額縁の大小によって印象がかなり変わる事も良く理解出来た。大きい額であれば周りの余白を十分利用出来て写真の見栄えがだいぶ良くなる。余白が大事なのは詩や文章でも共通するが、視覚的にインパクトのある写真は重要な要素だと思う。
 22日は写真家の先輩と会場で合流し、その後、三保の松原へ行って来た。20歳の時、デザイン学校で出会った友人と二人で海水浴を愉しむため三保の松原へ訪れたが、それ以来の事なので40年ぶりくらいになるだろうか。あの海水浴の時、胸の心臓手術の傷跡が気になって傷を両腕で隠すようにしていたのが懐かしい。天気は悪くはなかったが雲が多く富士山を見れなかったのが残念であった。静岡に住んでいた頃は毎日のように富士山を眺めるのが日課で当たり前だったが、上京して40年も経つと矢鱈と富士山が見たくなるのが不思議である。

 駿府城のお掘りの周りを時間潰しに散歩していると、若かった頃の懐かしい思い出がまるで昨日の事のように脳裏を駆け巡った。最初の手術を受けた病院も駿府城の直ぐ近くだったし、彼女とのデートはいつも駿府公園で、手を繋いで呉服町通りを歩いたり七間町通りにあった映画館で「未知との遭遇」や「パピヨン」等を観た事、書店の谷島屋が待ち合わせ場所だったり、甘酸っぱい青春の思い出がぎゅっと詰まったこの静岡にまた戻って来たい…ジョン・デンバーの名曲「故郷に帰りたい」を思わず口ずさんでしまったけ。そんな1泊2日の帰省だった。昨年は欲張ってカメラ持参で荷物が多くヘトヘトに疲れたため、今回はカメラなしで身軽な状態であったが、やっぱりそれでも疲れるものですね…。

 

 

 

 青い宝石と題した紫陽花は白山神社の境内にて撮影したが、今回はその裏手にある公園に咲いていた紫陽花たち。石垣で丸く囲まれた花壇に様々な花が咲いておりその中で一際目立っていたのがこの紫陽花だった。この花の向こう側にベンチがあり、そこに座ってベースギターを弾いていたのがあの少女だった。紫陽花の撮影中は全くその存在に気付かなかったが、色んな角度から撮影するため、花壇をぐるりと一周した時、「あれ?こんな所で練習?」と少女の姿が眼に止まった訳である。
 初めて紫陽花を撮ったのは2020年7月、巷ではコロナの感染が拡大し始めていた頃。場所は多摩川浅間神社に続く坂道で一枚撮ったのみだった。この時は目的が紫陽花ではなかったので記念にと思いシャターを切った。これが私と紫陽花の最初の出会いだった。一眼レフデビューして一年も経たない頃だったので花の撮り方も分からずシャッターボタンを押していた気がする。そんな昔の写真を見ていると、それなりに撮影のコツを掴み多少なりとも成長した自分を実感する事が出来てほんの少し嬉しい気分になったりする。伸びしろはまだまだあると思うので、出来るだけ被写体に寄り添い被写体の気持ちになって撮影を続けていけたらと思っている。
 話しは変わって9月1日、三井記念病院に今年2度目の入院。4月に入院したばかりだったが、急遽決まった事だった。数年前に治療した奥歯の義歯が突然ポロッと取れてしまった。直ぐに歯科外来へ電話をし2日後に外来へ行き処置するも「根っこがボロボロで抜くしかない」と言われてしまった。普通であれば入院などせず外来で抜歯なのだが、私の場合は以前にも話した通り色々事情があり出血や感染のリスクが高いため、念には念を入れ万全を期すため入院。過去にも何度か抜歯して来たが何れも入院だった。抜歯数時間前に抗生剤の点滴が始まり、それが終わった後に歩いて外来へ。今回の主治医は前回の時とは違う医師が担当。抜歯自体は15分程度であっけなく終わった。出血のリスクを出来るだけ抑えるために医師が大量の止血剤を使用してくれたのが功を奏し殆ど出血しなかった。4月の時の事は既に記事にしているので皆さんご存知のはずである。あの時の苦しみはもう味わいたくはなかった。それが最も不安の要因だった。
 病室に戻って間もなく抗生剤の点滴。抜歯から4時間ほど経った辺りで麻酔が切れ始める。それと同時にズキズキと痛みが生じ始めた。痛み止めのカロナール300mgを2錠服用。腎臓が悪くなければ痛み止めの定番ロキソニンの出番であるが、腎臓がもうボロボロで悲鳴を上げているため腎臓への負担を出来るだけ控えるための処置。服用して30分も経てば効いて来るはずが一向に痛みが和らぐ気配がない。むしろ痛みは益々増して来た。ある程度まで我慢していたが、流石にもう無理と限界を感じ、深夜ナースステーションに駆け込み痛み止めの点滴(アセリオ)をお願いした。それでやっと眠りに着く事が出来た。出血も殆どなかったので痛みがある程度収まった時点で早々に退院となった。この8月でペースメーカー植え込みから2年が経過。その間、心不全での入院は一度もない。これはペースメーカーのお陰か?心臓(三尖弁)オペからもうすぐ3年を迎える(因みに人工弁置換術は36年が経過)。

 

 

 

 8月も下旬だと言うのに連日の猛暑にうんざりしている方も多いと思う。それでも夜になると公園の叢からは秋の到来を告げるかのように虫(コウロギ?)の鳴き声が聞こえ、新しい季節への衣替えが始まっているようだ。
 さて、今年も9月に写真展が開催される事となり、知らない内に私も出品者になっていた。今回も前回と同様の「しずぎんギャラリー四季」にて9月18日~9月24日に開催される。自分が会場入りする期間はまだ未定であるが、多分、9月20(土)~25日(火)の辺りになると思う。息子の日程次第で決定する事になるだろう。多分土日辺りになりそうな気がする。お近くにお越しの際は是非立ち寄って見て下さいませ。ニッコールクラブ会員も募集中です。
 話題は変わって失敗した花火について。前回の記事でレンズ選択を間違えて大失敗とお伝えしたが、花火自体はまあまあそれなりに撮れており、人によっては「どこが失敗なの?」と気休めのお言葉を頂いたりもした。自分の失敗の定義は「頭で描いたイメージ通り」でなかった場合は花火に限らず全ての被写体に共通する事である。今回使用したレンズはZ14-30mm f4Sと言うニッコールレンズの超広角レンズの中では非常に性能の優れた製品。焦点距離は全て30mmであるが、本当は50mm以上で撮った方が花火の迫力を鮮明に捉える事が出来たと思う。
 因みに3枚目の縦構図はスマフォ撮影である。それ以外のフォトは花火を出来るだけ大きく見せるためトリミングした。花火大会は板橋側と戸田側での同時大会である。板橋側からでは撮影ポイントが見つからず戸田側の昨年と同じ場所で川岸の不安定なデコボコの波消しブロックに三脚を立てバブル撮影。レリーズのON・OFFのタイミングが中々解らずかなり苦労した。それにしても猛暑の影響で中々撮影に出掛けようという気にならない。早く涼しくなって欲しいものである。クロスフィルターを購入したのでキラキラ夜景を撮りたいのに…。

 

 

暑中(残暑)お見舞い申し上げます。

 

 今年は梅雨の期間が短く異常と思えるほどの暑さが6月頃から続き、撮影ライフにも大きく影響する日々で7月は僅か1回のみに終わってしまった。8月2日は一ヶ月振りの撮影で戸田側の花火大会へ出掛けたが、なんとレンズ選択を間違えると言う初歩的ミスで人様に見せられる花火を撮れず惨敗に終わった。初めてバブル撮影をしてみたがやっぱり花火は難しいと痛感した。だが、この悔しい経験を未来に活かしていつかリベンジしたいと思っている。
 笹目橋を渡る手前の登り坂、荒川土手の登り坂…あまりにしんどくて呼吸が止まるかと思った。荒川の波消しブロックの上で帰り支度をしている時、レリーズを暗闇に落としてしまったようで紛失。何だか撮影もマトモに出来ず踏んだり蹴ったりの散々な一日だった。ただ一つ収穫はあった。昨年と同じ場所で出会った中国人夫婦と再会、私のペースメーカーの事を覚えていてくれてとても気に掛けてくれた。優しい人に出会うととても心が救われる思いだ。そしてその場所に先に来てカメラを構えていた50代くらいと思われる男性は山岳カメラマンのようであった。撮影について色々とアドバイスを頂き感謝。
 前置きが長くなってしまったが、今回の主役はこちらの少女。白山神社の紫陽花を撮りに行った時の事である。神社の裏手にさほど広くない公園があり、滑り台やブランコも設置されていて近所の子どもたちの遊び場にもなっている。もちろん紫陽花も公園の至る所に咲いており、紫陽花の季節には結構賑わっているようだ。そんな公園の一番奥まった所にベンチがあり、そこに座ってベースギターの練習をしている女性を発見!。ポートレート(人物)特に女性を撮る機会は滅多にないので「これはシャターチャンス」と思い声を掛けた。
 歳はおそらく18~20歳くらいだと推測した。いきなり「写真を撮らせて」と言うのは相手を驚かせてしまうと思い、音楽や楽器の話題を交えながら会話をした。私自身、30代前半の頃にベースギターにはまり、独学で毎日練習に励んでいた。楽譜を読めないので好きなジャンルの曲を聴きベースの音だけに集中し耳コピした。その当時、チョッパーベースが流行っていたので私も真似して指をパンパンに赤く腫らしていた。
 彼女にその辺りの話題を振ると良く知っているらしく、会話が弾んだ。そして気持ちが解れた辺りで撮影を始めた。彼女に伝えた事は「出来るだけカメラを意識せず自然にいつも通りに」と言う事。プロのモデルならいざ知らず、カメラを向けられる事も初めてのようだったので、緊張しないよう多少の気遣いをしながらシャッターを切った。撮った写真をその場でモニターで見せるととても喜んでくれた。そのモニターの画像をスマホで撮らせて欲しいと言うので、SNSのアカウントを教え数日後DMに添付して送った。それにしても黒いベースギターカッコ良かったなぁ。まさに青春真っ只中と言う感じ。自分も18歳の頃はアコギを弾きまくって付き合っていた彼女に歌を聴かせてあげていたっけ。自分が使っていたベースギターは息子にあげてしまったけれど。

 

 

 花音痴の私が始めて撮った花は新宿御苑の十月桜だった。それが桜だとは知らず「桜に似てるなぁ?」と疑問に思いながらシャッターを切った。構図も考えずただ被写体にレンズを向けただけの撮影。一眼レフデビューして2ヶ月が経った頃の事である。あれから5年の歳月が流れ、その間、苦手な花は出来るだけ避けていた時期もあり、風景ばかり撮っていたように思う。風景がメインだからレンズも当然24mm~14mmの広角、超広角レンズが増えて来る。ミラーレスに変える前最も使用したレンズは韓国のSAMYANG(サムヤン)14mmの単焦点で絞り羽根6枚のモデルだった。夜景を撮った時、光の光芒が6本と丁度良い感で美しくお気に入りではあったのだが、重量が700gと結構重く、D810と合わせると2kgになり更に三脚を含めると5kgを軽く越えてしまうため、もう一本レンズを持ちたくても心臓が悪い私には到底無理な事だった。
 最近は時々、D810の感触が懐かしく、サムヤンのレンズにも愛着があったので売らずに持っておけば良かったと少し後悔している。結局のところ重さには勝てず比較的軽いと言われるミラーレス一眼に変えたのだが、Z7Ⅱを4年使い続けてみて優れたカメラ性能を使いこなせるまでにはまだまだ未熟だけれど、長かった分割払いが今年漸く終わり本当の意味での自分のカメラとして宝物が一つ増える事が堪らなく嬉しく思う。病気の事もそうだけれど、カメラがあったからこそここまで頑張って来れたのだと思う。いままでお世話になった分、恩返しの積りでファインダーを覗きシャッターを切り続けて行きたいと思う。
 花の写真なのに全く道筋を外れた話題になってしまったのだけれど、花に疎い私が「青い花」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは先に投稿したネモフィラである。そのネモフィラでさえ、割と最近知った訳で、可憐で神秘的なネモフィラブルー(青い絨毯)に魅了され、それ以来、このネモフィラを撮るのが楽しく身体全身を使って撮影に没頭したものである。と、まあそれはさておき、今回の主役は白山神社の紫陽花である。色んな色(種類)のあじさいが所狭しと咲いていたが、その中から先ずは青い紫陽花をピックアップ。ネモフィラとは違った何とも大人の色気が漂う深い青色の見事な紫陽花。ファインダーを覗きながら「おお、これはまさに青い宝石!」と心で叫んでしまったほどである。この日の撮影で使ったレンズは2本。Z MC105mmf/2.8とZ35mmf/1.4。どちらも単焦点レンズである。紫陽花だけでも100枚以上撮っているので、また別の機会に他の紫陽花も公開しようと思う。

 

 

 

 この風景写真は今年2月下旬、河津桜とスカイツリーを撮りに行った時のものである。スカイツリーに何度も足を運んでいる方であれば、写真を見ただけで「ああ、あの辺りか」と直ぐに気づくと思う。東京を代表する下町で最も人気なのは浅草辺りであるが、このスカイツリーのある周辺も「東京ソラマチ」が出来てバラエティ豊かなお店が集う観光スポットとなった。
 スカイツリーが出来る前この辺りがどんなだったか知らないけれどAIの情報によると東武鉄道の貨物ヤード(操車場)があり周辺は比較的閑静な住宅地で規模の大きな商業施設はなかったようだ。ソラマチへ行く度に思うのだが、押上駅ホームが狭くて電車を下りてからとても窮屈な感じを抱いてしまうが、駅自体が都営浅草線の路線で他の地下鉄と比べて古い路線である事と、スカイツリーの開業により観光客が異常なほど増加した事も影響しているのだろう。
 夕暮れ時と言うよりほぼ夜景と言っても通用するほど日が暮れかかり沈む太陽の夕陽を浴びて空と街全体がなんとも言えぬほど神秘的な景観を見せてくれた。久しぶりの夕焼け空だったのでかなりテンションが上がり、ワクワクしながらシャッターを切った。使用したレンズは以前お話ししたZ35mmf/1.4の単焦点レンズである。明るいレンズなのでこの暗さでも三脚なしの手持ち撮影で、絞りf/2、シャッタースピード1/60秒、ISO200と言う設定である。
 下町の空を覆う雲も中々良い感じが出ており、幻想的な夕日に出会えた事に感謝した。かなり寒かったかれど撮影に夢中になっていたので吹き抜ける風の冷たさも忘れるほどだった。ところで、6月24日は病院外来日だったのだが検査結果が気になった。心不全の指標であるBNP値は692と高めではあるものの許容範囲だったが問題は腎機能。クレアチニン3.59、GFR14だった。これは腎臓の残存機能が14%しかないことを示している。このまま悪化して行けば人工透析が現実味を帯びて来た。ただ、2022年10月の心臓オペ以前、5月頃のデータを見るとクレアチニン4.95とかなり高い数値。それと比べれば今回の数値でさほど狼狽える事はないのかも知れない。BNPも数ヶ月前は1400の時もあったし、これ以上悪化する事のないよう日々の生活習慣に気を付けながら過ごして行こうと思う。

 

 

立ち眩みがするほど

青い君の瞳に吸い込まれて

いつしか僕は

陽炎のように揺らぐ君の姿の

虜になっていた

 

 

  初めてネモフィラを撮影したのは3年前の2022年4月、日比谷公園だった。それを記事にしたかどうか忘れてしまったけれど、鮮明に覚えている事は心不全と腎不全の影響で撮影から帰って自分の変わり果てた脚の姿だった。パンパンに浮腫んで腫れ上がりまさに『大根足』。三尖弁の手術を受ける前だから入退院を繰り返していた時期でもあった。それを考えると今こうして撮影を続けていられる自分が信じられなくなる時がある。普段の生活の中で病気について深く考える事は殆どなく、その病気の自分が当たり前でそれ以下でも以上でもない事実。それだけは受け止めていたけれど、歳を重ねるに連れて「後、何年撮影を続けられるだろうか…?」と不安が胸中を過る時がある。
 アパートの階段を上るのが辛くなったら多分それが自分の限界のサインだと思っている。その時が来たら長距離を歩くのも辛くなるだろうからカメラを手にする事もなくなるかも知れない。それでも家の近所に咲いている花くらいは撮れるだろうから、撮影を止める事にまでは至らないと思う。好きな風景(夜景)が撮れなくなるのは寂しいけれど、カメラ人生も何処かで区切りをつけなくてはいけない。
 ツツジやサツキのように丁度良い位置に咲いている花の撮影はさほど苦労する事なく撮れるが、このネモフィラのように低い位置に咲く花の撮影ほど体力・気力・根気を必要とする被写体は他にあるだろうか?(野鳥や昆虫などの撮影は端から諦めているので問題外。)花と視線を合わせるため、正面から被写体に向け、先ずはご挨拶。ブツブツと言葉を発し、花に話しかける。撮影する上でこれは重要なポイントでもある。花が機嫌を損ねると良い表情を見せてくれない。命を宿す全てのものには尊敬と感謝の念を抱かなくては本気で相手にしてくれない。撮影もそれと同じだと思う。この日、ネモフィラの撮影を終えて低い位置から一気に立ち上がろうとした時、背中のバッグパックの重さに耐え切れず後ろにひっくり返ってしまった。
 足腰の衰えを痛感したが、撮影には筋トレが必要だと改めて思った。転んだ私を見てネモフィラが優しく微笑みながら「大丈夫?」と話しかけてくれたような気がした。

中学1~3年生、校門前で記念撮影(この中に初恋の人もおります)。私目立ってますね(^o^)。

 

 

 

白いボールを追い掛けて

僕の恋が行ったり来たり

打ち返すラケットは

恥じらう恋の返り討ち

好きですなんて言えなかった

年上のお姉さん

僕はあんまり幼くて

貴女の眼に止まる筈もなく

それでも僕は

貴女の姿を真似て

ラケットを握った

カーン、コーンと

小気味よい初恋の音がした

 

 

 

  白いツツジの花言葉が初恋だったので遥か遠い記憶の彼方から甘酸っぱい思い出を手繰り寄せてみた。それは私が13歳になったばかりの頃だった。藤枝中学から天竜養護学校へ転校し、3ヶ月余りが経った時、ベッド授業が解けて登校許可が下り一日4時間の授業が許された。ベッド授業の時は僅か1日2時間まで。教師が病室まで来て自分のベッド上でマンツーマンの授業。元々小学生の頃から勉強が大嫌いで登校拒否の問題児として扱われていたから授業が少ないのはまさに私にとっては天国のような居心地だった。
 午後1時~3時までは安静時間で(病気の重い生徒のみ)名札の色によって区別されており、私は赤で外に出る事も禁止されていたが、登校許可が出た時に緑に変わった。名札の色は赤、緑、黄色、白の4種類。この頃からトリアージが導入されていたのはおそらく天竜荘(現・天竜病院)だけだっただろうと思う。
 入院中の殆どの生徒は名札が黄色か白だったので午後1時から2時間は鍛錬授業として白い体操服に着替え登校し天竜公園内を走り回る等、かなり激しい運動を月~金に行っていた。鍛錬授業の時は病室に残っているのは病気の重い数人程度。私は8人の大部屋だったから墓地のように静まり返った病室で漫画を読んだりラジオを聞いて過ごしていた。
 私は一般病棟の12病棟だったが初恋のお姉さんは隣の13病棟。天竜荘は元々結核患者の為の国立療養所だったので、感染系の病気の子どもは隔離病棟になる。お姉さんは私より3つ上だったと思う。学校に行ってもクラスが違うし病棟も違うため、顔を合わせたり言葉を交わす機会は殆どなかった。
 それは体育で1~3年生全員が参加する『卓球』の授業だった。この頃はまだ体育館もなかったので教室に卓球台を持ち込み狭い中でのピンポン授業が始まった。私にとって心臓病の事もあり体育(運動)は大の苦手分野。小学生の時は体育の時間が苦痛で堪らなく、それが不登校の一因にもなっていた。生まれて初めて眼にする白いピンポン玉、そして赤いラバーのラケット。持ち方すら分からずピンポン玉を台の上に落としそれを打つのだが何度やっても空振りばかりだった。嫌になって教室の隅で踞っていると、カーン、コーンと小気味良い音が教室に響いて来た。教師が打つ玉を的確に捉え打ち返すその姿に釘付けとなった。まるでダンスを踊っているかのような美しい動きに見とれてしまった。その時から私の脳裏にお姉さんが刻み込まれていった。
 お姉さんのスタイルはカットマンタイプだったと思う。そして私もお姉さんの様に卓球が上手くなりたいと思い、その姿を全く同じ様に完全コピーし、イメージトレーニングに励んだ。その結果、僅か数週間で教師も驚くほど上達した。校内卓球大会の時、元卓球部を相手に3位決定戦まで勝ち進んだ事がある。だがカウント3-2の途中に、ある教師から突然の試合中止の指示。おそらく二人の身体にこれ以上負担を掛けられないと思い決断したのだと思う。そのため私は無念の4位で終わった。その試合相手の重信は喘息児だったので発作の出ていない時は健康児と殆ど変わらない生活だった。だが、その彼がまさかの医療過誤により20歳の若さでこの世を去った。彼の最後の言葉「母さん、薬が間違っている!」を今も鮮明に覚えている…。初恋の話しがかなり脱線してしまったが、運動音痴だった自分が唯一得意とするスポーツを持てたのは全てお姉さんのお陰だと思っている。

 

 

 4月上旬、目黒川の桜並木を撮りに行った。こちらの桜は今回が初めてである。千鳥ヶ淵とどちらか迷ったが千鳥ヶ淵には過去に数回行っているため気分を変えて目黒川にした。目黒と言えば随分昔の事だが某大手リース会社に就職した際の最初の勤務地が目黒だったので、懐かしい思い出に浸る事も出来た。普段利用している都営三田線で乗り換えなしで行けるので便利だし交通費も掛からず経済的である。
 目黒駅から目黒川を目指し着いた場所が目黒新橋だった。右と左どちらに行くべきか悩んだが、人の流れを見ながら先ずは五反田方面へと足を運んだ。途中で幾つか橋があり、そこで撮影している人が多いので私もその中に紛れ込んで撮影。花見客を乗せた小型のクルーズ船が往来していた。船から桜を眺めながら撮影してみたいと思いつつシャッターを切った。首都高の手前にある市場橋まで行き、そこから反対側の並木道に出てUターンしたものの、この道がどこまで続いているのか全く分からずGoogleマップを見ながら歩を進めた。
 陽が沈み掛かる頃から急に気温が下がって来た。日中は暑いくらいで上着を脱ぎたいほどだったが、体感温度は10℃と真冬並の寒さで風も少し強くなった。カメラを持つ手が凍てつくほどで、途中で帰ろうと思ったが、肝心の桜の風景をまだ撮り終えていなかったので気合を入れ直して夕暮れの目黒川を撮りながら更に歩を進めた。
 いつの間にか辺りは夜の帳に包まれ、あちこちでライトアップされた桜が浮かび上がって来た。日中に見た景色が一変し紅一色に染まって行く。桜祭りの提灯が見え始めた辺りが最も赤く輝いていた。その神秘的、幻想的とも言える光の帯が川面に溶け込み反射して、この世の物とは思えぬ光景が眼前に広がっった。人気の観光スポットでもあるため半端でない人の数で本来であれば夜景の撮影は三脚を使用するのだが禁止だろうと思い全て手持ちでの撮影となった。以前お話しした35mmf1.4の明るいレンズのためISO感度をさほど上げる事なく1200程度で十分綺麗に撮れたと思う。因みにシャッタースピードは1/50秒である。田楽橋の上で最後の撮影を終え帰路に着いたが途中で目黒駅までの近道を探しながら歩いている時、靴紐を自分で踏んでしまい転倒、左膝と右親指に怪我を負い出血。それ自体は気にするほどではなかったが、途中でとんでもなく長い登坂に出くわし心臓が爆発寸前になり戻ろうかと思ったくらいである。心臓が悪くなければこんな坂道など走って登れるんだろなぁと健康な心臓に嫉妬した。

 

 

 3月31日、埼玉にいる息子から「タラが今朝亡くなった…」と連絡が入った。20年生きたから人間に例えれば100歳くらいだろうか。よく頑張って長生きしてくれたと思う。さほど苦しむ事なくコタツの中で息を引き取ったいう。
 タラとの出会いは2005年、春から夏へと季節が移り変わる頃だった。当時わたしは『うつ病』を患い休職中で、社会復帰に向けて早朝散歩をリハビリとして日課に取り入れていた。その日もいつもと同じコースを散歩し、南篠崎つつじ公園に立ち寄りベンチに腰を下ろし休もうとした時、公園の何処からか猫の鳴き声が聞こえて来た。早朝のため人も車も殆ど通らず朝の静寂に包まれた公園に「ニャーニャー」という声だけが響いていた。丁度その辺りの前の道を初老の御婦人が通り掛かり鳴き声が気になったようで、声の辺りを覗き込んでいたが結局見つからずその場を去って行った。
 その後わたしも非常に気になっていたので、すぐさまその声の方に向かい生い茂った林の辺りを掻き分けてみると、生後1ヶ月ほどの子猫(キジトラ)が必至に甲高い鳴き声を上げてわたしの方を見詰めた。この辺りは住宅街で捨て猫とは思えない事から母親からはぐれてしまい公園に迷い込んだものと思われた。
 子猫を抱き上げると鳴きながら爪を立ててわたしの身体にしがみついて来た。急ぎ足で自宅に戻ると子猫を抱いているわたしを見て家内と子どもたちが大変驚いた。そして一言「家はインコがいるから飼えないよ…」。わたしは自分が面倒みるからと説得し、そうしてタラが家族の一員に加わった。結局のところ一番面倒をみたのは家内であった。猫は男性よりも女性に懐くものだが男性の野太い声が苦手らしい。
 わたしがタラと過ごした期間は約8年余り。2013年1月に脳梗塞で救急搬送された事が切っ掛けで自分がペットを飼うのは無理と判断し前妻にタラを託した。その時の詳細については関連記事の『bye-bye Tara』に記している。
 さて、話しは変わって歯の治療について。予定通り4月21日18階の外科病棟へ入院し、午後5時過ぎから歯科外来にて歯根端切除の手術を受けた。麻酔がかなり効いていたので痛みは全く感じなかった。麻酔が切れ始めたのは夜10時を過ぎた頃だった。ズキズキと患部に痛みが生じたが我慢出来ないほどではなかった。それより困ったのは傷口からの出血が止まらなかった事だ。血液をサラサラにする薬(ワーファリン)を服用しているから出血は想定内だったにしても、看護師数人が止血処理に戸惑っていた。当直の外科医に来てもらい指示を仰ぐも出血は収まらない。そしてベッドごと看護師詰所の中にある緊急処置室へ運ばれた。深夜0時を過ぎた頃、歯科医に連絡を取り診てもらう事となった。ケアガーゼを何枚も重ねて口の中が膨れ上がる。その上から傷口辺りを思い切り抑えるので余りの痛みで気が遠くなりかけた。
 結局ひと晩は一睡も出来ず疲労困憊でヘトヘトだった。朝になって抗生剤の点滴を入れる際に口からガーゼを取り出してもらった。出血はまだ少しあるものの外来にて消毒と止血処置を受け、マウスピースを装着して昼前に退院となった。28日の外来で抜糸の予定である。削り取った骨が再生し元に戻るまで半年以上掛かるようで、義歯が出来上がるまでまだまだ時間が掛かりそうだ。