中学1~3年生、校門前で記念撮影(この中に初恋の人もおります)。私目立ってますね(^o^)。
白いボールを追い掛けて
僕の恋が行ったり来たり
打ち返すラケットは
恥じらう恋の返り討ち
好きですなんて言えなかった
年上のお姉さん
僕はあんまり幼くて
貴女の眼に止まる筈もなく
それでも僕は
貴女の姿を真似て
ラケットを握った
カーン、コーンと
小気味よい初恋の音がした
白いツツジの花言葉が初恋だったので遥か遠い記憶の彼方から甘酸っぱい思い出を手繰り寄せてみた。それは私が13歳になったばかりの頃だった。藤枝中学から天竜養護学校へ転校し、3ヶ月余りが経った時、ベッド授業が解けて登校許可が下り一日4時間の授業が許された。ベッド授業の時は僅か1日2時間まで。教師が病室まで来て自分のベッド上でマンツーマンの授業。元々小学生の頃から勉強が大嫌いで登校拒否の問題児として扱われていたから授業が少ないのはまさに私にとっては天国のような居心地だった。
午後1時~3時までは安静時間で(病気の重い生徒のみ)名札の色によって区別されており、私は赤で外に出る事も禁止されていたが、登校許可が出た時に緑に変わった。名札の色は赤、緑、黄色、白の4種類。この頃からトリアージが導入されていたのはおそらく天竜荘(現・天竜病院)だけだっただろうと思う。
入院中の殆どの生徒は名札が黄色か白だったので午後1時から2時間は鍛錬授業として白い体操服に着替え登校し天竜公園内を走り回る等、かなり激しい運動を月~金に行っていた。鍛錬授業の時は病室に残っているのは病気の重い数人程度。私は8人の大部屋だったから墓地のように静まり返った病室で漫画を読んだりラジオを聞いて過ごしていた。
私は一般病棟の12病棟だったが初恋のお姉さんは隣の13病棟。天竜荘は元々結核患者の為の国立療養所だったので、感染系の病気の子どもは隔離病棟になる。お姉さんは私より3つ上だったと思う。学校に行ってもクラスが違うし病棟も違うため、顔を合わせたり言葉を交わす機会は殆どなかった。
それは体育で1~3年生全員が参加する『卓球』の授業だった。この頃はまだ体育館もなかったので教室に卓球台を持ち込み狭い中でのピンポン授業が始まった。私にとって心臓病の事もあり体育(運動)は大の苦手分野。小学生の時は体育の時間が苦痛で堪らなく、それが不登校の一因にもなっていた。生まれて初めて眼にする白いピンポン玉、そして赤いラバーのラケット。持ち方すら分からずピンポン玉を台の上に落としそれを打つのだが何度やっても空振りばかりだった。嫌になって教室の隅で踞っていると、カーン、コーンと小気味良い音が教室に響いて来た。教師が打つ玉を的確に捉え打ち返すその姿に釘付けとなった。まるでダンスを踊っているかのような美しい動きに見とれてしまった。その時から私の脳裏にお姉さんが刻み込まれていった。
お姉さんのスタイルはカットマンタイプだったと思う。そして私もお姉さんの様に卓球が上手くなりたいと思い、その姿を全く同じ様に完全コピーし、イメージトレーニングに励んだ。その結果、僅か数週間で教師も驚くほど上達した。校内卓球大会の時、元卓球部を相手に3位決定戦まで勝ち進んだ事がある。だがカウント3-2の途中に、ある教師から突然の試合中止の指示。おそらく二人の身体にこれ以上負担を掛けられないと思い決断したのだと思う。そのため私は無念の4位で終わった。その試合相手の重信は喘息児だったので発作の出ていない時は健康児と殆ど変わらない生活だった。だが、その彼がまさかの医療過誤により20歳の若さでこの世を去った。彼の最後の言葉「母さん、薬が間違っている!」を今も鮮明に覚えている…。初恋の話しがかなり脱線してしまったが、運動音痴だった自分が唯一得意とするスポーツを持てたのは全てお姉さんのお陰だと思っている。




































