慣れない「リブログ」を除いて、久々の更新です。
サウジアラビア人記者の失踪(暗殺)事件に関する記事の和訳です。
かなり古い記事で申し訳ありません。訳出したまま、忘れていました。
週刊誌 L'Obs 2018年10月25日(通巻2816)に掲載された、 Le journaliste qui en savait trop
(知り過ぎた記者) という記事です。
ENQUÊTE
ARABIE SAOUDITE
Le journaliste qui en savait trop
Issu du sérail saoudien mais critique vis-à-vis du régime, hostile à la guerre au Yémen, Jamal Khashoggi était à la fois défenseur de la liberté d’expression et proche des Frères musulmans. Des positions qui lui ont coûté la vie
(サウジの閉鎖社会の出身だが体制に批判的で、イエメンでの戦争に反対するジャマル・カショギ(ジャマール・ハーショグジー)は表現の自由の擁護者であると同時に、ムスリム同胞団に接近していた。その命を代償にした立場である。 )
Par CÉLINE LUSSATO
少しぼやけた映像が世界を駆け巡った。街歩き用のスラックスに濃灰色のベストを着た、白髪交じりの大柄な男が建物に入ろうとしている。ありふれた光景だ。10月2日、ジャーナリスト、ジャマル・カショギがイスタンブールのサウジアラビア領事館に入るところを捉えた監視カメラのビデオキャプチャーが、我々が彼に関して目にした最後の映像である。数日後に控えた結婚のための書類を取得しに来ていた。そこから数メートルのところで彼を待っていた伴侶は、二度と彼に再会することはなかった。
以来、トルコの治安当局内部からの匿名の情報源から小出しにされた血を凍らせる新事実が、恐るべき罠の物語を浮かび上がらせる。音声記録を証拠に、トルコの当局者らは、当日の朝にリヤドから到着した「清算人」の部隊によって領事館内部でジャーナリストが待ち伏せされていたと断言する。清算人には、遺体を消滅させるために現場に急行した法医学者もいた。7分間のサウンドトラックには、殺害だけでなく、音楽をかけながらの、ジャーナリストの遺体の鋸による切断の音も残されていた。ジョン・ル・カレと『デクスター』の間の未完のシナリオだ。サウジアラビア当局は最終的にジャーナリストの死に対する彼らの責任を認めたが、モハンマド・ビン・サルマーン皇太子がこの作戦について「知らされて」いなかったと断言した。納得しがたい説明である。
なぜ彼だったのか? なぜ、反体制派の中で最も急進的というわけではなかったジャーナリストを排除しなければならなかったのか? カショギは王政の転覆を呼び掛けてはいなかった。確かに、1年と少し前のアメリカ合衆国への自発的な退去以来、率直な物言いの輝かしい知識人である彼はサウジ政権の大物たちを苛立たせていた。『ワシントンポスト』からイギリスの日刊紙『ガーディアン』まで、彼が国際的な報道機関に発表する辛辣な記事は、リヤドを標的にしていた。「恐怖、脅迫、逮捕、知識人や宗教指導者からの公共の場での侮辱と私が言う時、そして私がサウジアラビア出身だという時、あなたは驚きますか?」、2017年9月、『ワシントンポスト』にそう書いていた。熱狂的で滑稽であるかのように描写されるこの男はモハンマド・ビン・サルマーンの改革への情熱を祝福していた。しかし、「映画か自由に思想を表現する権利」を選ぶことは拒否していた。「弾圧と脅迫が、改革の受け入れ可能な同伴物ではないし、そうあってはならない」と、さる5月に強く主張していた。記事の大半を皇太子に個人的に送りながら、イエメンに対する戦争を非難していもいた。「皇太子は暴力を止めさせ、イスラム生誕の地の尊厳を回復すべきだ」と、9月11日に記していた。
"ÇA A RENDU FOU LE PRINCE HÉRITIER"
(それは皇太子を狂わせた)
ジャマル・カショギは先に進み過ぎたのだろうか? 「ジャマルは、“MBS”が雇ったPR会社が何百万ドルもかけて造り込んだイメージを壊した」、長年の友人の一人、アザーム・タミミは断言する。即位依頼、モハンマド・ビン・サルマーンは実際、サウジアラビアのイメージに再びメッキをすることに夢中だった。女性の運転免許取得、映画の解禁… しかし、このジャーナリストが繰り返すように、こうした見かけを糊塗する施策が、恣意的な死刑判決と東国を忘れさせてはならなかった。「ジャマルの批判が彼を清算することにMBSを駆り立てることになるとは信じられない」と、ロンドンで会ったジャーナリストの一人は判断する。「MBSがそうしたとしたら、怒り狂った狂人だ」と、パリにいる同業者の一人は付け加える。「いかなる批判も許されないということを意味する。」 この事件は彼らを恐怖に陥れる。彼らは、我々の記事に名前が出ないことを執拗に求めた。「彼らができることをごらんなさい! 閉鎖社会側の人間に対しても。」
というのは、ジャマル・カショギは実に長い間、サウジの体制側の人間だったからだ。1980年代と90年代、余り好ましくないイスラム過激派界隈と付き合っていた時、このジャーナリストは、当時トゥルキー・ビン・ファイサル王子が率いていた諜報機関にも報告書を提出している。「パキスタンでも、オマーンでも、アフガニスタンでも、何か事件が起こったら、一つの記事を出すのに、数時間も現地にいれば彼には十分だった。」と、古くからの同僚は思い出す。「イスラム原理主義者のネットワーク内の情報源を利用しており、そのことを隠しもしなかった。」 当時、ビン・ラディンにも近かった彼は、9-11の襲撃前、アルカイーダの指導者との複数回のインタビューを実現することになる。「私は彼がアフガニスタンでサウジのムハバラート(国家諜報機関)関係者と近しかったことを知っていた」と、同じ同業者は言う。「彼は一種の二重スパイを働いていた。反ソビエトの戦士の理想に共感しつつ、自国の当局のために働くことも吝かではなかった。」
ジャマル・カショギは2000年代の初め、サウジの複数のメディアに協力している。サウジアラビア最初の英語の新聞である『アラブニュース』の副編集長になり、次いで日刊紙『アル・ワタン』のトップになる。カショギはある種の言論の自由を証明する。誰もが無意識だとは言わない。そのことが既に、彼に対するいら立ちを引き寄せることになる。ワッハーブ派の精神の父であるイブン・アブドゥルワッハーブを批判する記事の掲載を許可したことで、2か月後に解雇される。そして数年後にポストを再び得たとしても…またしても辞任を強いられる。彼は苛立たせる。それもそのはずだ。彼は独裁体制下で表現の自由を熱望するだけでなく、とりわけ、次第に政治的イスラムに接近し、体制を恐れさせる思想を奨励したのだ。
"LE ROYAUME CONTRE LES FRÈRES
(同胞団に反対の王国)
ムスリム同胞団に接近したことの代償は後に彼の生命をもって贖われることになる。「“アラブの春”を擁護し始めたとき、彼はリヤドの怒りを引き起こした」と、アザーム・タミミは推測する。ジャマル・カショギの友人である彼は、こう認めた。「2013年夏のエジプトのクーデター後に、彼らは違った扱い方をするようになった。」 ムスリム同胞団と、1年前に選出されたモルシ大統領はその時、リヤドの同意の下、政権を追われる。サウジアラビアは2014年、ムスリム同胞団をテロ組織のリストに書き加える。その正当性をワッハーブ派の創始者、モハンマド・ビン・アブデルワッハーブとの同盟から引き出すサウド家の王国は、何年にもわたって統治できると信じられたイスラム運動のこの潮流の次第に大きくなる影響力をもはや黙認しない。サウジアラビアの不倶戴天の敵であるカタールと、エルドアンのトルコに支援されたムスリム同胞団はアラブ革命によって、政権を掌握することができることを証明した。サウジ側には受け入れられないことである。
ジャマル・カショギはトルコ大統領と良好な関係を保っている。定期的に大統領に迎えられていると言われる。ムスリム同胞団運動にますます近づくかのように見られた、ジャーナリストでサウジ王国の影響力のある人物らの顧問でもある彼は、不興に次ぐ不興を買うことになる。アル=ワリード・ビン・タラール王子は彼に、バーレーンで衛星テレビ局アル・アラブを設立する任務を託す。しかし「最初の放送日は最後になった」と、番組の司会をするためにアプローチした記者の一人は言う。「最初の放送の前なのに、“イスラム原理主義者”がテレビ局のトップに立つことに対して多くの人間が抗議してきた。」
第二の侮辱はモハンマド・ビン・サルマーン本人からもたらされる。ハーリド・ビン・スルタン王子の所有する日刊紙『アル・ハヤト』に記事を書いている時、ジャマル・カショギはワシントン・インスティテュートでの円卓会議に招待される。トランプが大統領に当選したばかりであり、カショギはあえて、不動産の大物がホワイトハウス入りすることに湾岸諸国は殆ど喜んでいないと断言sるう。「MBS」は激怒する。イエメンでの戦争を遂行するためにアメリカの兵器の供給を必要とする彼は、「リヤドとワシントンの関係において、どんな小さな陰をも恐れている」。彼はカショギを黙らせる。「再び口を封じられたジャマルは、自らの世界が変わったこと、そしていつでも逮捕されかねないことを理解した。この出来事のすぐ後に、出国を決意した」と、友人であるアザーム・タミミは断言する。
数か月後、沈黙の刑が明け、カショギは『アル・ハヤト』に新たな記事を書く。「二人は合意を結んだのか? “MBS”は一年間の罰で純分だと考え、支援を約束した。その1か月後、ジャマルがワシントンに移住するために出発した時、ビン・サルマーンは再び結んだ信頼への裏切りを見たに違いない」と、カショギの古くからの同僚の一人はコメントする。
LES INVITATIONS DE "MBS", DES PIÈGES ?
(MBSの招待は罠か?)
不敬罪? 「裏切りは、我々の国々では許されない侮辱だ」と、アラブ世界の権力の秘密を完璧に知る、エジプト人ジャーナリストは断言する。彼もまた「MBS」の反応に誇りを傷つけられた男の反応を見る。「それに、カショギは知り過ぎていた」と彼は考える。サウジアラビアの諜報機関との古くからの近さからビジネス界との関係まで、カショギ記者は非常に事情通だった。サウジアラビアのエリートの中で、12月に「MBS」によって実行された粛清の際に不興を蒙った王国の複数の王子をも、彼は知っていた。「このようなブラックボックスを引きずったままにしておくはずがない。」
ラストチャンスか罠か?カショギと、亡命中の複数のサウジアラビア人はここ数か月、帰国を勧める魅力的な提案を受け取っていた。「ジャマルはお人よしではなかった。サウジアラビアに戻る意図は全くなかった。ロンドンに住んでいるサウジの友人の中では誰も、リヤドからの招待状を信じていない。これは罠だ」と、アザーム・タミミは断言する。反対に、この申し出を断ったことでカショギは再び、政権を傷つけたのだろうか?
国内と同時に外国でも行われた一連の尋問で既に、カショギはサウジアラビアから離れたままでいることを決心していた。「友人のエコノミスト、エッサーム・アル・ザミルの逮捕を知った時、我々は全員ロンドンにいた。その時、彼の決意は固まった。牢獄で一生を終える覚悟がない限り帰国できないと」、アザーム・タミミは語る。それは偶然なのか?1年以上も証拠なしに留置されたエコノミストは、テロ組織に所属した罪で告訴された。イスタンブールでのジャマル・カショギ失踪のまさに前日に。
DES JETS DÉTOURNÉS VERS RIYAD
(リヤドに方向転換されたジェット機)
言論の自由、同胞団のネットワーク、王国の秘密を完璧に知る者… カショギ氏はまた、しばらく前から、ある積極的な活動に参加していた。例えば彼は、デラウェア州に登録されている殆ど知られていない非政府組織で、公式にはアラブ世界の民主主義のために闘うという、アラブ世界の民主主義(DAWN)という団体に参加したばかりだった。一部の分析家が疑うように、ジャーナリストがイスラム原理主義反体制派のトップに立つことをビン・サルマーンが恐れたのだろうか? アザーム・タミミの意見は違う。「単なるNGOが大勢を脅かすとは、私には信じられない。」 しかし誰が知っているか? 挑発が過ぎたのでは?
いずれにしてもしばらく前から、国外にいる自由電子に対する締め付けが厳しくなっている。サウジ社会の階層の最も下から最も高いレベルまで、複数の誘拐が様々な国々で、リヤド政府によって大々的に組織されている。『ガーディアン』とBBCによると、国外で生活していたサウジの王子の少なくとも3人が、失踪する前に強制的に同国に連行されていた。モロッコで逮捕されたトゥルキー・ビン・バンダールはサウジアラビアに「移送」された。スルターン・ビン・トルキー2世・ビン・アブドゥルアジズとサウード・ビン・サイーフ・アルナスルに関しては、それぞれカイロとローマに向かっていたプライベートジェット機が単純にリヤドに方向転換させられた! 3月には、若いフェミニスト、ルジャイン・アルハトゥルルが、留学していたアブダビで逮捕されたのち、強制送還された。そして5月には、歴史的にサウド家と対立してきた一族の出でカタールに住んでいる、ナワフ・タラル・アルラシードなる人物がクウェートで逮捕され、サウジアラビアに追放された。ジャマル・カショギは恐らく、消滅させるべき標的のリストの、一つの数字に過ぎなかったのだろう。
L’OBS No 2816-25/10/2018
https://www.nouvelobs.com/monde/20181018.OBS4151/arabie-saoudite-pourquoi-jamal-khashoggi-etait-un-homme-a-abattre-pour-riyad.html
参考までに、2016年にNHK-BSで放送された、こちらのビデオもご覧ください。