明るい鈍感者の思索日記

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遠藤 君へ


こんな記事を見つけました。

「生きるのに向いていないから」健康な24歳女性の安楽死が認められる!!=ベルギー
http://tocana.jp/2015/06/post_6713_entry_2.html


「生きるのに向いていないから」という理由で、

「積極的安楽死」(自死)を選択するという女性(ラウラさん24歳)の話です。

僕はそれを読んで正直、

「仕方ないのかも…」と思いました。


少なくとも、「生きていればいいことあるよ」

なんて絶対に言えません。


「生命」や「いのち」に内在的な価値を見出す人たちは、

「ただ生きていればそれでいい」(価値がある)ということになります。


そして、そういう人たちは、

いつか必ず「生まれてきてよかった」と思えるはずだ、というのです。



そもそもラウラさんには、

この世に「生まれるか/生まれないか」の選択肢はなかったので、

気がついたらなぜか勝手にこの世に「生まれていた」ということになります。


これはすごくアンフェアな感じです。

ラウラさんは、生まれるか/生まれないかを選べず、

いろいろな「負の属性」を帰せられ、

それ故に生きづらい世界で生きなければならないのです。

しかも、いつか必ず死んでしまうのに、です。

これは人生における最大級の根源的な不条理だと思います。


こういう「生まれてきたこと」を選べなかったという

「選べなさ」(アンフェア)を打ち消す方法が二つあるとされています。


社会的なものと宗教的なものがあって、

前者は、家族(親など)のような身近な他者による全面的な承認、

後者は、神さまによって与えられた、という考え方です。


そのような虚構によって、

「選べなかった」(アンフェア)という事実(負の側面)を

強引に埋め合わせてプラマイゼロに持っていくのです。


どちらも、不条理(アンフェア)を打ち消すには、

すごく弱い方法であり、結局これらは「他力本願」です。

この世を生き抜くごまかしのテクニックみたいなものです。


他者による全面的な承認や、

神さまを信じられない人は、どうしようもありません。


だから、論理的に不条理を根本的に打ち消すには、

「自死の権利」を与えるしかない。


成人(18歳とか)になったら無条件の「自死の権利」を与え、

死にたかったらいつでも死ねる、という選択肢を与えるのです。


そうすれば「生まれてきたこと」を

事後的にキャンセルすることが可能になり、

「選べなさ」というアンフェアは解消されます。


だから、本来的(論理的)には

積極的安楽死に理由なんて必要ないのです。


「私は気づいたら勝手に生まれてきていたが、

成人になった今、生まれない(生まれなかった)ことを選択します。」

この宣言(自己選択)を実質的なものにするには、

自死する選択を認めることしかないでしょう。


だから、本当の成人式のような催しがあったら、

次のような感じになるのがベストです。


成人式に行くと「成人おめでとうございます」と書かれた紙が渡され、

そこには次のようなことも書かれてある。


以下の二つのうち一つを選択してください。

「生まれる(生まれた)=生きる」ことを選択します、

「生まれない(生まれなかった)=生きない」ことを選択します。

もし、後者を選択した人には、

お酒ではなく安楽に死ねる睡眠薬のようなものが渡される。



生まれてきたことの不条理を根本的に解決するには、

それぐらいのことをしなければ解決できません。


だから、ラウラさんの選択は論理的には「正しい」のです。



P.S. “明るい鈍感者”の遠藤君には無縁の話だったかも…
でも、社会は君のような人を熱望しているからわざわざ「成人式」なんてやるんだよ。
そして、みんな遠藤君のように立派な社会人=会社人になれるといいね。







●神経症のカタチ

神経症の特徴は、自分では不合理なことだと分かっているのに自分ではどうにもならない、という一貫したパターンを核として悪循環に陥ることにある。この悪循環は、循環としては非常に安定しているようだ。だから、いくら意識的に合理的な思考回路に接続しようとしても、その悪循環を断ち切ることは難しい。

神経症の内容はバラエティに富んでいる。

たとえばあるとき、学校に持っていく物を何回も確認する。忘れ物がないように何回も確認しないと気がすまないのだ。布団に入って寝ようとしても、ランドセルの中を何回も確認するために起きたりする。

そしてあるときは、学校で飼育していた金魚にエサをやったかどうかを忘れてしまい、死ぬほど苦悶した結果、夜中に学校に行って金魚にエサをやろうとする。

そういった神経症的な「確認強迫」は、ある日突然あっさりと姿を消す。しかしこれは、神経症がなおったわけではなく、別の新たな症状が忽然と現われる前触れに過ぎない。

たとえば、「ご飯粒が髪の毛にくっ付いているかもしれない」と思い、何度も鏡で確認したり、「ウンコを踏ん付けたかもしれない」と思い、何度も靴の裏を確認したり、「右目と左目の大きさが違う」とか「右目が右側の方にどんどん離れて行っている」など、いろんな症状が勃発する。

そういった具体的内容は様々であるが、神経症のカタチ(形式)― 自分では不合理だと分かっているのに自分ではどうにもならないという情況 ― は、すべての症状において見出される。つまりこれは、神経症という形式はずっと維持されたまま、その具体的内容だけがずっと更新され続けて行くのだ。そして結局、神経症的な形式は相も変わらずに、その内容(忘れ物確認や金魚のエサへの執着など)は次々と生み出されていき、これによって苦しむはめになる。

とても苦しいので、どうしてそうなるのか、と考える。だが、頭で解決することはできない。頭で考えて苦しみの理由や原因らしきものをいくら問い詰めても、やっぱり症状は症状として表れてくる。

不合理であるということは本人がいちばん自覚しているし、症状についての知識やメカニズムについても十分知っている。しかし、こういった自己分析をしたところで、症状がなおるわけではない。だから神経症は、症状自体に苦しめられると同時に、自分で分かっていながらどうしようもならない、というコントロール不能さにも悩まされることになる。


●過剰な部分

人が人を気にするというのは、あたりまえのことだ。また、何かを確認するという行為もあたりまえだ。逆に、人の目をぜんぜん気にしなかったり、安全確認をまったく行わなかったら、社会生活は営めないだろう。

そもそも人の目を気にするという性質は社会性そのものだし、確認行為は生存本能レベルでヒトにはもとから備わっているものだ。前者は学習(教育)によって、後者は本能を基盤としつつも学習によって整えられ、社会に適合する人間がつくられる。

神経症は、それらの性質が過剰に働きすぎている結果、社会生活において軋みが生じ、支障をきたす状態のことだ。つまり、人の目を気にすることが問題なのではなく、人の目を気にしすぎる(過剰に気にする)ことが問題なのである。

よって、過剰な部分の過剰さが取り除かれればよいということになる。人の目を「気にしすぎる」ところを、人の目を「気にする」という程度に緩められればいいのだ。

しかし、そのように理解できたところで、自分ではどうにもならない、ということは先ほど書いたとおりだ。その過剰な部分をどうやったら緩和できるのだろう。幾ら頭の中で「気にしない、気にしない」と呟いても、やはり気にしてしまうというのが神経症の特徴である。


●「体質」と「性格」~アレルギーと神経症~

「無意識」といったものを導入すれば、神経症のメカニズムをすっきり理解できるかもしれない。だが、そんなことをいくら頭で考えてもどうにもならない。だから、ここではそういったことは考えないことにする。

神経症は、カタチとしては一貫している。このカタチの一貫性は何に由来するのだろう。やはりそれは、性格だったり人格と呼ばれるものが神経症的だからなのだろうか。

それは、アレルギー体質とその症状にとても似ているように思う。アレルギーという体質はずっと変わらずに、その症状(鼻炎、結膜炎、気管支炎、皮膚炎など)が入れ替り立ち替り変化する。このパターンと神経症は共に同じ構造をしている。

アレルギー体質は、生物学的には遺伝的要因、先天的な要因によって規定されている。よって、生まれもってのアレルギー体質自体を変えることはできない。体質は、自分の一部、自分の個性として受け入れるしかない。

生まれたときからそのようになっている、という遺伝的体質に対して、「なぜ?」とか「どうして?」とかいう疑問を呈してもどうしようもない。湧き上がる「なぜ」の答えは、「体質だから仕方ない」という身も蓋もないトートロジーしか存在しない。「なぜ」の疑問に終止符を打つには、「体質だからしかたない、我慢しろ」という理不尽な「我慢」を付け足すしかない。

アレルギーは、体質自体はどうにもならないが、その症状を薬によって緩和することができる。たとえ完治しなくとも(つまり体質自体が改善されなくても)生活に支障をきたさないレベルまで症状を緩和することができれば、アレルギー症状は「治った」といってもいいだろう。

神経症も同じように、神経質的な性格自体はどうにもならないかもしれないが、神経症の症状は薬によってある程度緩和することができる。

ここで、「アレルギー体質⇒アレルギー症状」と「神経質的性格⇒神経症」という類比を考えることができる。つまり、体質や性格といったある程度一貫していて固定的なものが、その症状を生み出していると想定してみるのである。そして、たとえその体質や性格が変わらなくても、その症状を薬によって緩和し、生活に支障をきたさないレベルにまで生活の質を高めることが可能であると考えるのだ。

ここにおいて、神経症との向き合い方として概ね二つの道があるように思う。

(1)神経質的な性格自体を変えることは諦め(性格を受け入れ)、症状と一生つき合う道。
(2)神経質的性格を根本的に変える(根本的性格改善)の道。

(1)については、先ほど述べたような薬などによって生活の質を高めるという道である。(2)は、抜本的に体質なり性格なりを改善することである。以下、(2)についてちょっと考察してみる。


●性格は変えられるか?

よく性格は変えられるとか変えられないとかという論争がある。とりあえず、どっちでもいい。ここではそういった真偽判断はどうでもいいのだ。

ここではひとまず、「性格は変えられる」と仮定してみよう。自ら率先して「性格を変える」という場合、まずは明確な目標がなければならない。つまり、性格のバイアス(過剰な部分)を取り除くとか、よりよい性格に近づくといった具体的な目標が必要である。

まず、性格の偏りの判断やよりよい性格に近づくといった場合、ある模範的な「正しい性格」といったものを想定し、その模範的な性格から今の自分の性格がどれだけズレているか、といったことを把握しなければならない。

しかしこれは、即座に「正しい性格とは何か」といった疑問が生ずる。はたして、正しい性格の正しさをどのように判定するのだろう。偏りのない性格、よい性格、とはいったいどのような性格なのか。

おそらく、そのような模範的な「正しい性格」などというものを想定することはできない。では、どうやって性格を変えたらいいのか。ある性格を、何に向かって何を基準としてどう変えるのか。

ここで持ち出したい基準は、「苦しみ」の多寡(生活に支障をきたしているかどうか)である。そもそも性格を変えたいと思い至った動機は、神経症の症状が自分に苦しみを与えるからだ。この苦しみが軽減する方向に向かって神経症的な性格自体を変化させることができれば、その症状は緩和するはずである。

以上のように、「性格は変えられる」と仮定する場合、次のような結論に至る。即ち、苦しみの原因である神経症の症状は、根本的性格改善によって打開できると考える。そしてそのためには、必要以上に苦しみを増幅させている性格のバイアスを取り除き、今よりも苦しみを軽減する方向へと性格を変化させればいい。

結果的に性格を変えることができれば、以前よりも苦しみは減り、究極的にはネガティブ傾向からポジティブ傾向へと変化し、最終的に人生から苦しみが取り除かれる。

つまり、『<人生>-<苦しみ>=<幸せ>』になるはずだ。


●性格が変わればハッピーか?

性格が変わり、苦しみが減り、幸せになる。この図式はほんとうだろうか。

たとえ性格が変わったとしても、苦しみがゼロになる、なんてことはありえないだろう。何故なら、性格が変わっても哀しみや怒りや憎しみといった基本的感情がなくなるわけではないからだ。

とはいえ、性格のバイアスが低下すれば、そのぶん苦しみが幾分か和らぐことは期待できる。だが、これで苦しみがまったく消えるということはありえない。いくらバイアスが低下したとしても、やはり苦しみは苦しみとして存在し続ける。

神経症の苦しみが軽減されたとしても、別の新たな苦しみはいつでも発生し得るのだ。つまり、幸せを「感じる」という感情機能が備わっている以上、幸せを感じるのと同じように、不幸も苦しみも哀しみも辛さも感じるのである。どちらか一方だけということはありえないのだ。

幸せは幸せとして感じ、苦しみは苦しみとして感じるほかない。苦しみが減ったからといって、イコール幸せのことではない。苦しみが減ればイコール幸せだと思い込んで苦しみを無理やり抑え込み、苦しみを苦しみとして感じないようにしようとすればするほど、悪循環に(つまりさらなる苦しみに)陥るのではないだろうか。

精神分析医の小此木啓吾 氏はこう言っている。

 人間の心の健康を定義するとき、大きな誤解があるということです。人間の心が健康であることと、いつも満足感があってハッピーであることは決してイコールではありません。つまり、精神分析は、人間の心をいつも楽しく、快適なものにして、苦痛や不幸や悲しみや罪悪感がないような心の状態を目指してつくられていたものではありません。

 フロイトに有名な言葉があります。「精神分析の治療の目的は、決して人間を幸福にするためにあるのではない。むしろ人間が生きていくために耐えなければならない必然の苦しみや悲しみというものを、人間が自分のこととして経験することができるようになることが心の正常である」

 ノイローゼや精神病はむしろそういう苦痛を経験することからの逃避現象です。ですから精神分析はそういう苦しみや悲しみをなくすためのものではなくて、それを正面きって体験できるようにすることが精神分析だとフロイトは言っているわけです。

 …むしろ不幸を不幸として経験できないとか、悲しみを悲しみとして悲しめないとか、苦痛を苦痛として味わえないという心が、まさに心の病理のはじまりであるということです。 (「シゾイド人間」より)




要は、苦しみを苦しみとして素直に受け入れる、ということが重要なのだ。つまり、苦しみを苦しみとして素直に受け入れることに抵抗している結果、精神に過剰な負荷が生じ、この過剰な負荷を軽減するために必要とされているのが、神経症的なバイアス(過剰な部分)の過剰さなのではないだろうか。

だとしたら、その抵抗性を排除し、素直に認める(受け入れる)ことが課題になるだろう。これはつまり、あるがままの自らを受け入れる、という自己受容の問題と同じである。


●結局、受容問題

自分を受け入れられずに自分を拒絶すればするほど、つまり抵抗すればするほど、その抵抗によってある偏りが生まれ、これが沈殿固定化したものがバイアスとして現れる。したがって、その抵抗を排除し、自分をまるごと認めてしまえばいい―。

しかし、「自分を認める」とか「自分を受け入れる」なんていうことは、改まって言われなくても分かっている。それができないからこそつらいのだ。結局、あれこれ考えても最後にいつも辿り着くのは「あるがままの自分を受け入れる」という自己受容問題だ。なんと陳腐な結論だろう。こんなことは言われなくても最初から分かっている。

いくら「自分を受け入れよう」などと言ってみても、受け入れプロセス(受容のしかた)を知識として知ったとしても、実際に受け入れることは容易ではない。自分を受け入れるのは自分であり、それに抵抗するのも自分である。だから、一挙に強引にもっていくことは難しい。たぶん、受け入れにずっと抵抗し続けた方が自分としては都合がいいから、今なお受け入れを拒否しているのだ。


●自虐的防衛

では、自分を受け入れている、とはどういうことか。

毎朝、鏡を見るたびに「自分は不細工だなぁ」と思ったとする。これがこの人の自己イメージ(自己評価)だ。もし、その人が「自分は不細工だなぁ」という認識だけで終わっていれば、この人は「不細工な自分」を受け入れているといえるだろう。「まあしかたない、これが自分の顔なんだから」という具合に。

しかし、ここでこの人が「自分は不細工だなぁ」という認識で止まることなく、「どうして自分は不細工なのか」とか「やっぱり自分は不細工だ」とか「どうせ自分は不細工だ」といった思考をめぐらせるとき、第一認識(自分は不細工だ、という最初に抱いた自己イメージ)の受け入れを結果的に拒絶していることになる。

どうして、「自分は不細工だ」というところで止められないのだろう。自分が抱いたその認識をそこで止めるということは、自分がその認識をそこで「認める」からであり、これは「止める=認める=受け入れる」ということである。

したがって、その認識がそこで止められない、ということは、その認識は自分にとって認められない、ということだ。要するに、「自分は不細工である」ということがどうしても自分としては認められないのである。だから、「自分は不細工だなぁ」という第一認識の部分で止められないのだ。

「自分は不細工だなぁ」という認識で止まらないということは、それはどこかで「不細工じゃない自分」を探し求めているということだ。『“どうして”自分は不細工なのか』という疑問は、どこかで「不細工ではない自分」を模索しているから生まれる疑問である。また、『“やっぱり”自分は不細工だ』という“やっぱり”という言い方は、どこかで不細工ではない自分を期待していたのだが、その期待が裏切られ夢破れた表現としての“やっぱり”である。したがって、「不細工ではない自分」をずっと探していたのだ。

そして、「どうして自分は不細工なのか」⇒「やっぱり自分は不細工だ」⇒「どうして自分は不細工なのか」…という一連のサイクルを回すことによって、「自分を認める(受け入れる)」ということをずっと先延ばしにすることができ、これによって「不細工ではない自分」を延命しているのである。つまりこのサイクルを回すことによって、自虐的に自己を防衛しているのだ。


●受容=素直さ

不細工といっても明確な客観的基準があるわけではない。「見た目」というのは結局のところ、自分が自分をどう見るか、でしかない。他人は自分をどう見るか、といったところで、それを想像しているのは自分である。他人に成り代り、他人の眼でもって自分を見ることはできないのだから、結局自分で判断するしかない。だからこそ、自分の頭の中だけで受け入れを先延ばしする延命・防衛・逃避サイクルを回すことになってしまうのだ。

自分の顔を鏡で見たとき、「自分は不細工だなぁ」と思うことと、「自分はかっこいい」と思うこととは、まったく別の認識である。前者の認識を後者へと転換させようと試みるのは、無謀である。なぜなら、顔がひとりでに変わるわけがないからだ。そして、自分の認識をごまかそうとすると、必ず「やっぱり…」という先ほどの延命サイクルに回収されるだけだからだ。

自分を受け入れるということは、ある認識(自己イメージ)を、自分の都合のいいように(受け入れ可能なように)加工してから受け入れるということではなく、加工以前のあるがままの自分をまるごと素直に認めるということだ。

第一認識の反発作用はとてつもなく大きいだろう。ネガティブな自己イメージをそこで止めることはなかなかできない。しかし、延命サイクルに陥ることなくその反発や抵抗や正当化を排除するには、やはり素直にありのままにそれを認めること(ある種の諦め)によって、その反発作用を捻じ伏せるしかない。

苦しみや悲しみという感情は、生きている限りずっと感じ続けなければならない。下手に否認・抵抗・拒絶したところで、さらなる複雑な苦しみや悲しみを味わうだけだ。ならば、それらを諦めと共に素直に受け入れるしかない。

悔しいときは素直にその悔しさを受け入れ、辛さや苦しみも素直にそれを受け入れる。これは、認識を認識のままに受け入れることと同じである。最終的に、自分や他人や世の中を、捻くれず卑屈にならず、そのまんま素直に受け入れることができればいいのだ。つまり、素直さ。これが最終目標だ。

しかし、素直になれ、と言ったところで始まらない。つまり、心の中で「素直になろう」などと100回つぶやいたところで、鏡を見ればいつもの顔がこちらを覗いている。何も変わらない自分だ。そして、「やっぱり」とか「どうして」とかいった反発思考がいつものように始まり、抵抗・延命・防衛・逃避を相変わらず繰り返す。

いくら頭で理解してもどうにもならない。やはりここでもスタート地点へと強制送還である。


●流れに身をゆだねてみる

毎年、浅瀬なのに溺死する人が実際にいるという。溺れる人というのは、無理に溺れまいとして必死で手足をばたつかせる。これは、深みにはまって沈んでいってしまうのではないか、という恐怖や不安から、必要以上に手足を激しく動かすのだ。

だが皮肉なことに、手足をばたつかせてもがけばもがくほど、体が硬直し、どんどん溺れる。そして今度は、このままだと溺れ死ぬ、というパニック的な恐怖や不安が生じ、ますます溺れまいとして手足をばたつかせる。すると、ますます体が硬直し、どんどん溺れる。つまり、悪循環だ。結果、溺死する。

こんなとき、もがくことを止めてみると、体の硬直が解けて悪循環から脱出できるという。どうして手足のばたつきを止めただけでそこから脱出できるのか。実は、深いと思っていたところはすごく浅かったのだ。両足で立つことができたのに、深いと思い込んで手足をばたつかせて溺れていたのである。

この溺死の比喩が、素直さへのヒントになるのではないだろうか。つまり、体の硬直を解きほぐすには、手足のばたつきやもがきを一旦止め、思い切って流れに身をゆだねてみるしかない。このとき、もしかしたら溺れるのではないか、という恐怖や不安が最大級に襲ってくるだろう。しかし、このファーストステップをクリアできるかどうかがすべてだ。

頭で考えたり理解したりするのではなく、ただ流れに身をゆだねてみる。
これこそまさに、素直に受け入れる、ということではないか。




■「自己評価」を防衛するシステム
前回は自己防衛システムを働かせることによって鬱積した感情を処理し、いかに自己を防衛するか(いかにストレスを溜め込まずに円滑に日常生活を営むか)についてあれこれ書きました。

今回はそのなかで最後に書いた内向型―「自己」処理システムのもう一つの側面を書きたいと思います。この「自己」処理システムは、人間不信や対人恐怖、ひきこもりに直結する自前の自己防衛システムをこしらえているので、非常にやっかいです。前回は感情を処理する際の自己防衛システムでしたが、今回は「自己評価」を維持するための自己防衛システムです。

感情を処理する「自己」処理システムでは、「自己評価」が低いことを前提に成り立っていましたが、自己評価の低さを防衛するために、他人が自分をどう評価しているか、どう思っているかという他者の評価に敏感に反応するようになり、他人との人間関係を回避して最終的に自分の殻に閉じこもるようになります。感情を処理するうえでは強固に安定しているシステムなので、勇気をだして自己の殻を破って人間関係を再開させても、復元力が強いため、「自己卑下処理」⇒「自己評価低下」⇒「他人の評価を気にして人間関係回避」⇒「自分の殻に閉じこもる」というふうに再びもとに戻ってしまう可能性があり、またその経験からさらに人間不信を強めるという悪循環がおこります。




この自分の殻に閉じこもって人間関係を回避するのが、ひきこもりや対人恐怖です。社会で生活するには何かしらの人間関係をもたなければなりません。したがって、完全に人間関係から回避して自分の殻に閉じこもるには、社会参加を拒否する以外に方法がなく、その結果、家にひきこもることになります。つまり、社会参加することは人間関係をもつことであり、人間関係をもつことは社会参加することにつながります。

■「自己評価」とは何か
評価というのは価値判断のことですから、「自己評価」とは自分には価値があるのかどうかということです。また、この言葉に近いものに「自己信頼」があります。これは、自分を好きになり、自分をかけがえのないものと感じ、自分は自分でよいのだと思えることをいいます。またこれと似た言葉で「自己肯定感」があります。これは、自分のダメなところや短所やコンプレックスなど、自分の否定的な部分をすべて受け容れ、ありのままの自分を肯定できる感覚のことです。

人間には自意識があるので、他人が自分をどう思っているかを意識することができます。他人が自分をどう思っているかというのは、あくまで他人に聞いたわけではなく、自分が、他人は自分をどう思っているのかを意識(推測)することです。これを評価に置き換えれば、人間は、自分が自分を評価すると同時に、自分が、他人は自分をどう評価しているのかをたえず意識することによって自分を評価するという二つの評価基準を持つことになります。したがって「自己評価」を高め安定した状態に保つには、たえず二つの評価基準をうまく満たしている必要があります。

自分が自分を評価して自分には価値があると思えれば、肯定的に自己を確認でき、それが自信へとつながり、自分自身を意味や価値のある存在だと位置づけることができます。しかし、これでは単なる自分の思い込みの部分があり、自分で下した評価を裏付けるもう一つの評価基準が必要になります。もう一つの評価基準である他人が自分をどう評価しているかを満たすためには、他人からのかたちのある承認(感謝・賞賛)や人間関係を通じて友達や恋人や親などと信頼関係を築くことによって承認されたり、社会的役割を全うして他人の役に立ったと実感できたり、仕事の成果(実績・成績)が上がったりすることが必要です。それら二つの評価基準が合致したとき自分の「自己評価」が高まり、そういう自意識を保つことによって「自己評価」は安定したものになります。

ここで、「自己評価」と「自己信頼」と「自己肯定感」の違いを簡単に言えば、「自己評価」とはやはり評価ですので、高い低いの問題であり、揺れ動く度合い(変動性)が高く、受動的で変化しやすいといえます。「自己信頼」とは、高い低いというよりも持つ持たないの問題であり、自分から積極的能動的に得るものです。「自己肯定感」も「自己信頼」と同じことで能動的にありのままの自分を肯定することです。すべてに共通するのは、自分に自信がもてるか、自分は価値ある存在であると思えるか、ということです。

「自己信頼」や「自己肯定感」をもつことができれば、常に変動し揺れ動く可能性のある「自己評価」に左右されずに、自分に自信をもつことが可能になります。特に、「自己評価」を維持するには絶えず他人からの承認や成果に依存することになり、「自己評価」を高く維持し、それを自分の自信の糧にするというのはとても不安定なことであり、それに依存すればするほど自信がもてなくなったときに身動きがとらなくなってしまいます。したがって、他人からの承認や成果に依存する部分を極力減らすためにも「自己信頼」や「自己肯定感」をもつというのは非常に重要なことです。

■「どうせ思考」
何かのきっかけで自己評価が低下した場合、その自己評価がそれ以上低くならないように自己防衛システムが働きます。それを示したのが下図(図1)です。まず、自分に自信がもてない、自己評価が低い、自分には価値がないという自意識をもつと(1)それ以上、自己評価が下がらないように、「どうせ思考」という回路ができます(2)。これは「どうせ自分なんてダメな人間だ」「どうせ自分なんて意味のない人間だ」「どうせ自分なんて何をやってもだめだ」と思う思考パターンです。






この「どうせ思考」は感情処理の「自己」処理で行った「自己卑下処理」とまったく同じ思考パターンです。この「どうせ思考」というのは、「自己評価」の低さを防衛すると同時に、何かをやって失敗したときの安全装置としても機能します。

「どうせオレなんか~」といって自己を卑下するというのは、自分は取るに足らない存在であり、自分を卑しめ、自分を見下げることです。卑下したり、へりくだったり、謙遜する行為は、相手とのコミュニケーションを円滑にするために、自分をあえて下げることによって相手を高くしておだてさせたり、相手との関係で自分をあえて低くすることによって相手を高めるという意識で使われます。したがって、自分で自分を「どうせオレなんか~」といって自己を卑下する思考パターンというのは、実際の自分以上にあえて自分を見下げることを意味し、実際の自分は実はそんなに劣っていないのだということ意味します。つまり、「どうせ思考」というのは、「どうせ自分はダメな人間なんだ」と自己卑下することによって、自分の低い「自己評価」を相対的に高め、「自己評価」の低さを自己防衛するためにつくられる思考経路であるといえます。

■他人の評価を気にする
「自己評価」が低いと他人が自分をどう評価しているか、どう思っているかを過度に気にするようになります。これは自意識があるためであり、「自己評価」の二つの基準のうち、一つが脆くなると、もう一つにすがらざるを得なくなるからです。自分に自信があれば他人の評価なんて過度に気にする必要はありません。これも感情処理の「自己」処理のときとまったく同じように、「自己評価」を防衛するために、他人との人間関係を回避する方向に向かいます。

他人は自分をこう思っているかもしれない、こう評価しているかもしれないというのは、根拠のない主観的な当て推量でしかありません。これが、どんどん深まっていくと、他人は自分をこう思っているに違いない、こう評価しているに決まっている、というように根拠のない思い込みが確信や断定に進化した状態になります。こうなると他人にビクビクした状態になって対人恐怖になったり、人間関係を完全に回避する方向へと向かいます。(3)⇒(7)

また、「自己評価」が低く、自分に自信がない場合、過度に他人の評価を期待するようになります。他人に期待するというのは、「自分をこう思って欲しい」「自分をこう評価して欲しい」という願いや願望です。これは願いや願望ですから、「自己評価」が低い分、それらの要求水準が高くなります。期待の要求水準が高くなれば高くなるほど、期待はずれがあらわになったときの心の負担やダメージが大きくなります。そのときに心の負担やダメージを吸収してくれる安全装置が「やっぱり自分はダメな人間なんだ」という「どうせ思考」の思考パターンです。「どうせ自分はダメなんだ」と納得することによってダメージを吸収してくれます。(3)⇒(2)
 
■すべては行動できない方向へ
「自己評価」が低下し、その低さを防衛するため「どうせ思考」回路が作られ、「自己評価」が低いゆえに他者評価を過度に気にするようになれば、この自己防衛システムは行動できない方向へと安定したかたちで機能するようになります。行動するには必ず失敗するリスクが伴います。まず、「自己評価」が低いだけでその失敗するリスクに耐えられず怖くで行動できなくなります(1)⇒(7)。これも失敗して「自己評価」を下げないための自己防衛です(9)⇒(1)。また「どうせ思考」パターンがある限り、「どうせ自分はダメなんだ」と常に思っているため、行動に必要なモチベーションが担保できず、ハードルが高い状態に維持され行動できない方向へ作用します(2)⇒(7)。

したがって、図1の赤い矢印や赤で囲ってある部分というのは「自己評価」を防衛するための非常に安定したシステムであり、すべてにおいてフィードバックが作用していて、行動できない方向へと強化されるように働いています。

■既存の療法では無理?
認知療法や論理療法というのは、「どうせ思考」という思考パターンの歪み発見し、それを矯正することによって自己防衛システムを崩壊させることを目的にしています。それなりに効果があるようですが、人によってうまくいく場合といかない場合があり、カウンセリングをしながらやらなくてはならないので、コストと時間がかかります。論理や認知といったところで、最終的に行動するときは、非論理的です。なぜなら人は必ずしも論理的に行動するわけではないからです。したがって、頭ではわかっていても、実際、現場に出たときにうまくいかない場合が多いんです。

したがって、「どうせ思考」のようなその人固有の思考パターンの歪みをいちいち発見し、それは非論理的であるというように本人に自覚させていくというような作業、つまり、一つひとつ歪みを発見していってそれを律儀に破壊していくという作業をしていてもらちがあかないのではないかというのが私の考えです。

■内破系を作動させる
自己防衛システムが作動するのは自己評価が低いからです。そこでいきなり、「あなたには価値がある」とか「この世に生まれてきたんだから必ずなんらかの意味がある」などといってもナンセンスです。システムがある限り、そのような励ましは一切、効果がありません。そこで最終的な処方箋は、次に説明する方法以外にないのではないかと私は思います。その最終的な処方箋というのは「ありのままの自分を受け容れる」という使い古された言葉です。

「ありのままの自分を受け容れる」というのは、「ありのままの自分を受け容れるんだ」と言葉で何回言ってもムダです。「ありのままの自分を受け容れる」というのは決してポジティブなことではありません。だいたい「ありのままの自分を受け容れる」という自己受容のプロセスには、キューブラー・ロスの「死の受容」(死ぬ瞬間 中央文庫)のプロセスと同じようにそれなりの段階と時間が必要です。

「自己評価」に頼るのではなく、ありのままの自分を受け容れることによって、「自己信頼」や「自己肯定感」にシフトしていき、「自己評価」の低さを防衛するシステムを内破させるのが最終的な処方箋です。

図1の赤い部分をすべて機能不全に陥らせるには、まず、行動へのハードルを低くして、実際に行動し、失敗したときに赤い線をたどらずに青い線をたどることです。そして、青い部分の内破系をどんどん回転させることができれば、赤い部分を機能不全にするができます。

最終的な目的は、行動して失敗したとき、そこで立ち止まってしまうのではなく、再び行動することができるようになることです。行動⇒失敗⇒行動⇒失敗⇒行動というように試行錯誤することが最終的な目的です。青い部分の内破系をどんどん作動させて試行錯誤することによって、いい意味で「慣れ」てきます。「慣れ」は「学習」の一つであり、「学習」することによって間違いなく経験値は上がり、失敗することに免疫ができ、行動することにためらいがなくなっていきます。

■自己受容
「ありのままの自分を受け容れる」という自己受容の最終段階は、これは私見ですが、やはり、「あきらめる」「開き直る」「腹を据える」「腹を括る」「腹を固める」「もうどうでもいいと思う」「やけクソ」「もう面倒臭いと思う」「もうバカらしいと思う」などという心境になって「自己へのこだわりや縛り」から解かれた状態になったときに、自然と自分を受け容れられるのではないかと思います。「ありのまま」を邪魔しているのは「自己へのこだわりや縛り」です。それを解くことができれば、ありのままの自分でいることが可能になります。

したがって、図1の「でも、やってみよう」、「だったら、やってみよう」と思って実際に行動するには、「ありのままの自分を受け容れる」ことが必要であり、そのようなことを意識しなくても、自然にありのままの自分を受け容れていれば、そのような行動(じゃあ、やってみよう)が可能になります。そこで失敗したとしてもありのままの自分を受け容れていれば、失敗したときの受け止め方が、「自己評価」の低さを防衛していたときと全く違うので、再び、行動へと向かうことが可能になります。つまり、ありのままの自分を受け容れることによって、失敗に対する受け止め方が変わり、失敗へのリスクが低下し行動へのハードルが低くなります。そうやって試行錯誤を繰り返していけば、人間関係への不安も徐々になくなっていき(慣れていき)、失敗しながらも成功体験を少しずつ獲得していくことによって「自己評価」だけに頼っていた自分の存在意義を「自己信頼」や「自己肯定感」へとシフトしていくことが可能になります。

■「どうせ思考」の逆利用
ありのままの自分を受け容れるのを邪魔しているのは自己へのこだわりや縛りであり、それは「自己評価」や「自己評価」の低さからくる「他者評価」です。したがって、ここで、ありのままの自分を受け容れ、「あきらめ」や「開き直り」や「バカらしい」という心境を利用することによって、「どうせ自分には価値がない。ならば失敗してもいいではないか」と開き直り、「どうせ思考」の思考パターンのエネルギーを内破系に利用することが可能になります。つまり、「どうせ思考」の思考パターンの癖をそのまま利用し、「どうせ思考」の文脈だけを取り替えて、それを内破系に逆利用するのです。

■とどめの一撃
ありのままの自分を受け入れ、青い部分の内破系を作動させることによって、赤い部分の自己防衛システムを死滅させ、最終的に試行錯誤行動ができるようになるのが今回の目的です。

そのため、最後にとどめの一撃として論理療法的なものを利用します。それは図1(6)のみどりで囲ってある部分です。普通、人が、他人は何を考え、何を思っているのかを知るためには、その人と話してみたり、表情を観察したり、行動を観察したりして推測するしかありません。しかし面従腹背があるんです。つまり、人はウソをつくことができるし、印象を操作することができるし、内心とは裏腹の行動をすることが可能なんです。したがって、他人が自分をどう思っているか、どう評価しているかなどというのは絶対に分からないことになります。それなのに他人に期待するのはとてもバカらしいことです。そういう論理を図1の(3)にぶつけてとどめの一撃とすることによって、赤い部分の自己防衛システムを死滅させるのです。