第一〇五代後奈良天皇は室町時代末期,、戦国時代の天皇です。

 

御父、後柏原天皇の第二皇子、御母は勧修寺藤子。


諱は知(ともひと)。


一四九六年生。

在位一五二六年から一五五七年。

 

後柏原天皇の崩御により践祚しましたが、歴代天皇中一番財政が逼迫していた時期、即位式が行われたのは十年後のことでした。世界史上一番窮した君主ではないかと言われている後奈良天皇なのです。即位式が行われたのは大内、今川、北条、朝倉の献金のおかげでした。しかも即位儀礼の一つである大嘗祭は執り行うことができず、伊勢神宮にお詫びをしています。

 

後奈良天皇の治世は、斉藤道三が美濃を乗っ取り織田信長が尾張を平定する頃となっています。武田信玄が上杉謙信と川中島の決戦をし、毛利元就が安芸の小規模な国人領主から中国地方全域を支配下に置くまで勢力を伸ばした時代です。

一五三九年には、諸国が洪水に襲われ凶作となり、翌年は飢餓と悪疫が全国を襲いました。また、天文の法離が起き、延暦寺の僧兵と宗徒、近江の大名六角定頼の援軍も得て総計六万人が、京の市中に押し寄せ、洛中洛外の日蓮宗寺院二一本山を悉く焼き払い、三千人とも一万人とも言われる衆徒を殺害したのです。さらに延暦寺方が放った火は大火を招き、京の三分の一ほどが焼失しました。延焼面積としては応仁の乱に勝る被害だったといいます。約30年後、織田信長が比叡山焼き討ちを行い、現在の感覚で無慈悲と言われたりしていますが、当時の僧侶は現在の僧侶のようではなく、この信長のおかげで僧侶が変わったといいます。歴史は当時の状況で考えないと見誤る典型の一つです。

 

後奈良天皇は、餓死者や病死者が溢れる事態を終息させるため、般若心経を書写して供養し、二十五か国の一宮に奉納しています。現存するのは、安房、伊豆、甲斐、三河、周防、越後、肥後の七カ国だけだといいます。平成26年6月1日には、愛知県豊川市の砥鹿神社で、後奈良天皇の宸翰の般若心経複製完成奉告祭が斎行されました。これは明治維新の頃に紛失していたものが、明治40年代に古書店で発見され、現在は国の重要文化財として西尾市の古書博物館に所蔵されているものです。それが、複製ですが150年ぶりに神前に納められたのです。明治維新の頃には神仏離脱等の混乱で多くの貴重なものが失われました。25カ国に奉納したものが現存7カ国というのは、他の紛失も維新の時期に起きたのかもしれません。


その般若心経の奥義には「いまここに天下大疫、万民多く死亡にのぞむ。朕、民の父母として、徳覆うこと能はず。ひそかに般若心経一巻を金字に写し、義堯僧正をして之を供養せしむ。こひねがはくは、疾病の妙薬たらんか」

困窮の中にあっても、最も大切なことは、民の平穏無事をはかることだったのです。

 

またその五年後には、伊勢神宮への宣命に皇室と民の復興を祈願されています。

権威が一番なかったといわれる時代の天皇ですが、
どんな時でも祈る天皇としての存在は変わらなかったことを示す天皇でもあるのです。

 

しかも、とても清廉な方で、一条房冬を左近衛大将に任命した際、密かに朝廷に銭一万疋の献金を約束していたことを知ると献金を返却されています。また同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が、太宰大弐への任官を申請しましたが、これは拒絶しています。大内義隆の太宰大弐任命は周囲の嘆願で翌年ようやく承認されています。

 

 

実は、天皇の権威が一番落ちたといわれるこの時期は、その戦乱の混乱の中でも唯一信じられるものとして古来からの伝統を引き継がれている朝廷が見直された時だとも言います。だからこそ、貧窮した朝廷の為に、各地で興った大名がこぞって援助を申し出たのです。窮すればこそ見直される伝統というものを、現代の私達も考えた方がいいのではないかと、こうした歴史をみるにつけ考えさせられます。

 

この時期にはポルトガルの船が種子島に漂着し鉄砲を伝えたり、スペイン船が到着しフランシスコ・ザビエルが布教のために来日しました。ザビエルはまず国主である天皇を改宗させ、その許可を得てから全国に布教しなければキリスト教は伝わらないと京都に行きましたが、この頃の京は戦乱に次ぐ戦乱で荒れ果てており御所の紫宸殿の横に茶屋があるような有様でした。そのためザビエルは献上の為に持ってきた貴重品も平戸に残してきたので謁見が適うならすぐ取り寄せると言いつつも、積極的に立ち回らず、10日ほどいただけで京を去っています。これはこのような状況では、例え全国布教の勅許が得られたとしてもその効果は得られないと判断したようです。これは当時の布教活動がその国を滅ぼすためであったことに照らせば、今にしてみれば日本にとっては良いことでした。

 

そんな時代の日本を絶賛したザビエル。これはトップが優秀だと下に続く者も上に習う典型ではないでしょか。↓しかしそこまでザビエルが理解していたとは思えません。

 

 

一方でその四年後長尾景虎(後の上杉謙信)は、京に上洛し天皇や公卿に金品を献上し、天皇にも拝謁し喜びに浸りました。景虎には天杯と御剣が下賜され、さらに大納言広橋兼秀を通じて、「任国(越後)及び隣国の逆心を抱く輩を討ち威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、勝を千里に決して忠を一朝に尽くせ」というような勅命が伝えられ、景虎は発奮したといいます。四年後の京都がザビエルが来た頃と大きく変わったとも思えませんが、疲弊した天皇の為に金品を献上する日本人と、疲弊しているのを見て持参した献上品を隠す外国人の対比は分かりやすい構図だと思います。


一五五七年崩御。在位三十二年、六十二歳でした。

 

後奈良天皇の加後号は、平安時代初期の平城天皇の異称「奈良」からきています。父君が後柏原天皇と、桓武天皇の異称からきているため、その皇子の平城天皇の異称が選ばれたのかもしれません。

 
御陵は深草北陵、京都市伏見区深草坊町にあります。

 

1474406161846.jpg

 

1474406962293.jpg

 

1474406961688.jpg

 

1474406960489.jpg

 

 

 

1474407063461.jpg

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」

「歴代天皇で読む日本の正史」



天皇を知る上で避けて通れない字


☆宮中祭祀については、以下をご参照くださいませ

神代在今の国
年間102日あります

宮中祭祀 新嘗祭①
宮中祭祀 新嘗祭②
宮中祭祀 新嘗祭③
豊明節会、新米解禁!

 

 

新米の時期なので確認↓

 

 

 

食は天下の本の詔・・・我国の伝統的考え

 


としごひのまつり
天皇陛下の御配慮
今日は祝日だった日です
紀元祭の祭典で気づいたこと
明治時代の天長節
誕生日おめでとう日本!
病気の見方
冬至でした」の御言葉から
ザ・ブーメラン!
 阿南陸軍大臣が首相に暇乞い時に救われた言葉


日本製を選べば自分が儲かる
トップが変われば下も変わる