〇『夜叉羅刹改方』とは

2022年4月25日発売の『週刊少年ジャンプ 21・22合併号』に載った読切漫画。石川理武先生のジャンプ本誌掲載作品としては『炎眼のサイクロプス』以来の読切。

 

 

 

〇あらすじ

将軍様が江戸に幕府を開いて190年ほど経過した時代のストーリー。人間と妖怪(あやかし)が共存している世界観。江戸では蝦蟇烏帽子という妖盗(「窃に手を染めている怪」という意味だと思われる)による犯罪が問題となっている。幕府直属の取り締まり集団「夜叉羅刹改メ」は蝦蟇烏帽子を取り締まるための捜査を始めている。

 

或る少年が大獄丸という妖怪に対して掏摸(すり)を行う。掏摸に気付いた一人の侍が少年を捕まえるが、大獄丸は「その財布はコイツにやったのだ」と少年を庇う。大獄丸は少年のことが気に入り、少年を温かく迎える。夜叉羅刹改メを率いている大獄丸は蝦蟇烏帽子に関する情報を少年に訊くが、その瞬間、少年は大獄丸に「オマエも同じ妖怪じゃないか」と激昂し、帰ってしまう。帰り際、大獄丸は「大丈夫 お前は必ず自分を変えられる」と少年を励ますような言葉を投げかける。

 

少年が帰った家には蝦蟇烏帽子がいた。蝦蟇烏帽子は「誰にも私のことを口外するな」と少年を脅迫する。

 

昼間、少年に関する情報を街で集めていた大獄丸は、日没後、自分の部下に「ただの直感で確証は無いが、掏摸の少年の家は蝦蟇烏帽子の潜伏先になっている可能性がある。その場合、少年の命が危ない」と伝え、少年の家に向かう。

そのころ、蝦蟇烏帽子は少年が持って帰ってきた財布に「蔓に百足の丸」という印があることに気づく。この印は夜叉羅刹改メの紋章である。蝦蟇烏帽子は少年に売られたと思い、少年を殺そうとする。

しかし、少年は大獄丸の言葉を思い出し、弟妹・父を逃がした上で蝦蟇烏帽子らに立ち向かう。

少年は瀕死となるも、タイミングよく現れた大獄丸によって命を救われる。

大獄丸は蝦蟇烏帽子ら妖盗を殺していく。

 

夜が明け、少年は植木屋の父と一緒にいた。すると、大獄丸が少年の前に現れた。

少年は大獄丸に感謝し平伏すが、大獄丸は笑顔で少年をおんぶしていく。

 

本作は「むかし将軍ひざもとの大江戸 夜叉羅刹出き(いでき) 市井の人妖(ひとびと)を悩ます 将軍此由(このよし) 大獄丸とて鬼神に仰付(おほせつけ) 急ぎ正すべしとの宣旨也 大獄丸畏まって 宣旨承(うけたまわる)  配下の妖怪を召し寄せ 数多の夜叉羅刹を討つ」という暗示的なナレーションで結ばれている。

 

 

 

 

〇分析

★構成力の高さ

・冒頭頁で蝦蟇烏帽子(ガマガエル姿の妖盗)が約束を守らずに娘を殺している描写があり、これは蝦蟇烏帽子が掏摸の少年に対しても約束を破り、殺そうとするシーンの伏線となっている。

 

・冒頭部で街を歩いている子供らの童歌「夜ふけのなるかみ わるいこさがす ヒトツメ ナナツメ 背中のムカデ」は「夜叉羅刹改メ」の暗示となっている。

 

・妖怪は素手でも十分強いのに大獄丸が刀を携帯している理由や、大獄丸が蝦蟇烏帽子に関する情報を訊いた瞬間に少年が大獄丸に「オマエも同じ妖怪じゃないか」と激昂したシーンなど、本作は伏線が丁寧に敷かれている。

 

 

★サスペンス色

大獄丸が天道干(露天商)に少年のことを質問していく箇所など、『雨の日ミサンガ』や『炎眼のサイクロプス』でもあったサスペンスの手法が使われている。

 

 

★カタルシス

本作では悪党に苦しんでいる少年が救われるというカタルシスが描かれている。カタルシスを表現するストーリー展開となっているのは『雨の日ミサンガ』や『グラビティー・フリー』と同様である。

 

 

 

★メッセージ性

雨の日ミサンガ』や『グラビティー・フリー』ほど明確なメッセージ性ではないが、「自ら生み出せるものが強い者」「人間は自ら値打ちを生み出して、どこまでも変わっていける」などといった主張が込められている。

 

少年「強くなれば奪う側になれる」 

大獄丸「違うさ 弱いから奪うのだ」

 

このような言い回しを逆説と言うが、逆説は言語理解力を聞き手・読み手に要求する。少年も「弱いから奪う」という表現の意味(自ら値打ちを生み出せる者は誰かから何かを奪う必要がない。つまり何かを奪っている者は弱者である)が理解し難かったようで、この言い回しを言葉遊びと感じている。

 

 

 

★少年漫画的なテンプレートの利用

主人公サイドが悪人を倒していくというテンプレートは数多の漫画家が数多の作品で採用してきたストーリー展開である。筆者の場合、少年が「妖怪に人間の気持ちはわからない」「帰るぞ」と述べるシーンを読んだあたりで、「少年が蝦蟇烏帽子に何かしらの被害を受けているのかな」と大まかな察しがついてしまった。また、夜叉羅刹改メという名称が冒頭に出た時点で、「本作は夜叉羅刹改メ達が蝦蟇烏帽子を倒していく感じのストーリーなのかな」と予想が出来てしまった。

しかし、言い換えれば、このようなテンプレートは、分かりやすさという大きなメリットがある。

「この読切はストーリーが難解すぎて、よく分からない」と読者に思われてしまうリスクを減らすことができるのだ。

また、このテンプレートが昔から今に至るまで使われ続けているのは、主人公サイドが悪人を倒していく過程に痛快さを感じる読者が多いからでもある。

本作のカラー絵で「鬼刃、奸悪を断つ」という煽り文が本作のストーリーのネタバレとなっているように、本作は読者の意表をつくことを企図された読切ではなく、少年漫画的なテンプレートの中でカタルシスを表現することを企図された読切なのだと考えられる。

 

 

 

★暗示的なナレーションの考察

・「むかし将軍ひざもとの大江戸 夜叉羅刹出き(いでき) 市井の人妖(ひとびと)を悩ます」→ 将軍が江戸に幕府を開いて190年ほど経過した時期よりも前、夜叉羅刹なる集団が市井の人間や妖怪を悩ませていた。

 

・「将軍此由(このよし) 大獄丸とて鬼神に仰付(おほせつけ) 急ぎ正すべしとの宣旨也 大獄丸畏まって 宣旨承(うけたまわる)」→ 将軍が大獄丸という鬼神に急いで夜叉羅刹なる集団を正せと命じ、大獄丸は畏まって、その宣旨を承諾した。

 

・「配下の妖怪を召し寄せ 数多の夜叉羅刹を討つ」→ 大獄丸は配下の妖怪を召喚し寄せ集めて、数多くいる夜叉羅刹を討つようになった。

 

・このナレーションを踏まえると夜叉羅刹改メは「夜叉羅刹を改める(正す)集団」というニュアンスかと思われる。

 

 

★ジャンプの有名作品からの影響

本作は、捏マユリと雰囲気の似た顔や、独白の短文と絵だけのコマを連続させる構図など、BLEACHや鬼滅の刃からの影響は強い。(ただし、BLEACHでは短文が横書きとなっていることが多いのに、本作では縦書きとなっている。)

偶然かと思われるが、本作は久保帯人『ゾンビパウダー』の第一話と共通点が多く見られる。

 

・「戦闘能力が傑出したキャラ」と「凡人に近い少年」という構図。『ゾンビパウダー』なら芥火ガンマとジョン・エルウッド・シェパードの関係であり、本作なら大獄丸と掏摸の少年の関係である。

 

・少年が地味目な服装をしており、黒髪という目立たないヘアスタイルであること。

 

・少年を追い詰めている犯罪集団の首領は、一般人に「カッコイイ!」と称賛されないような容姿をしている。

 

・少年が家族を守るため、掏摸に手を染めるという展開。少年の家族は善良であり、悪人ではない。

 

・家族に手を出され、犯罪集団に少年が立ち向かうという展開。立ち向かっている少年が今にも殺されようとしているタイミングで「戦闘能力が傑出したキャラ」が登場するという展開も一致している。

 

・「戦闘能力が傑出したキャラ」が敵をさほど苦労せず倒していること。

 

・あくまで主人公は「戦闘能力が傑出したキャラ」の方であり、「凡人に近い少年」はメインキャラの一人である点も一致。

 

 

 

〇私見

「週刊少年ジャンプ 2005年15号」に掲載された読切『斬』が「週刊少年ジャンプ 2006年34~52号」で連載化されたように、ジャンプ関連の漫画雑誌に載る読切は読者アンケートの評価が高ければ連載化されることがある。本作では、狛、一ツ目、七ツ目、深羅などといった大獄丸の配下のキャラも豊富に登場しており、本作はジャンプ本誌での連載化を狙った読切であるようにも感じられる。人間と妖怪が共存しているという世界観は、現実社会に対応したリアリティーと、現実世界の枠を超えたファンタジーとを両立しうる優れた設定だと言えるのではないか。

 

 

〇リンク

漫画本編:かおなくし - ミヨカワ将 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

感想コメント:かおなくし - ミヨカワ将 | 少年ジャンプ+ (hatena.ne.jp)

 

 

 

〇本作のポイント

・ストーリー自体を理解するのは、そこまで難しくない。しかし、本作は読んだ後に「?」と感じる人がSNS上で続出している。言い換えれば、「どんな出来事が漫画内で生じているのかは普通に分かる。でも作者のミヨカワ将先生が何を面白いと感じて本作を描いたのかが自分には理解しがたい」と多数の読者に感じさせてしまう読切なのかもしれない。

 

・「少年ジャンプ+」に掲載される読切は石川理武『雨の日ミサンガ』など、最初の方の頁がカラーとなっていることが多い。しかし、本作は2ページ目で赤色と黄色のフォントが使われている点や、赤系統の色彩編集が行われている点を除き、カラー絵と言える頁が見受けられない。

 

・作者が本作を通して描きたかったテーマは2ページ目の煽り文に「愛しているのは 美しい顔? それとも―…」とあるように、恋愛対象が「恋人そのもの」なのか、それとも「恋人の美しい顔」なのかという問題だと思われる。

 

・3ページ目では「包帯女」なる噂(うわさ)が紹介されている。噂によると、包帯女は夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取っており、事故で顔に大ケガして失った大切な顔を探しているとのこと。

 

・「包帯女」なる噂を聞いたショートヘアの女子は「こわ~」と呟いたが、その後ひとりで歩いていると、包帯女がその女子の背後に登場する。女子は楳図かずお作品で出てきそうな顔をしながら悲鳴をあげている。

 

・3ページ目の2コマ目の台詞文と最終ページの台詞文は繋がっているように読むことが出来る。

 

・本作の主人公、瀬口は三角食べという概念に固執しているが、三角食べは「一度の食事の中で、ご飯・おかず・味噌汁を均等に食べ進める行為」であり、「いつも日替わりでハンバーグ 唐揚げ カレーの順で注文すること」は三角食べに該当しない。

 

・瀬口が自分の眼球を自ら抉るシーンは、谷崎潤一郎『春琴抄』の主人公が自ら眼球を刺すシーンの影響かと思われる。

 

・たとえば2頁にわたって読者に江倉の傷痕を違和感や不自然さなく隠せている箇所など、作画における工夫が光る頁も多く、原作付きの漫画を多数てがけてきたミヨカワ将先生のキャリアが感じられる。(『かおかくし』は『かおなくし』のミスタッチ。)

 

・最初の頁と最終頁の一つ前の頁は文体が丁寧語となっている。前者が語り手不詳の文となっているのに対し、後者は江倉(交通事故で顔を怪我した女性)による語り口となっている。ただし、江倉が誰に語っている台詞なのかは不明。

 

・ショートヘア女子の背後に包帯女がいて女子が悲鳴をあげるシーンや、「夜の路地に現れて」という吹き出しのあるコマで包帯女の足元に影が見えることから、包帯女は物理的に実在していることが判るのに最終頁の煽り文では「心も体も瞳もなく彷徨う」と書かれており、矛盾が生じている。

 

 

 

 

〇本作を読んだ後に「?」と感じる人が続出している理由の考察

・冒頭でショートヘアの女子が包帯女なる噂を聞いている描写があったが、この描写を読んで「夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取るという話が事実なら、顔の一部を切り取られた女性の遺体が発見されたり、包帯女を見たという目撃証言が出たり、包帯女に関するニュースがマスコミやSNSで流れたりして警察が動いているはず。警察が動いていない以上、この話は作品内で実際には起こっていないことなのでは?」と感じる読者も少なくないと思われる。

 

・つまりホラー(漫画)というテーマ自体が、スマホや防犯カメラが溢れている現代社会では余りリアリティーを感じさせないジャンルになっている可能性がある。

 

・例えば、日本では口裂け女という都市伝説が流行した時代が20世紀頃にあったが、今であれば「口裂け女とかいう生き物が実在しているのなら防犯カメラや目撃者による撮影などによって映像が記録されているはず」という冷静な指摘が行われ、噂にすらならないだろう。(余談だが、SNS全盛の今の時代、ツチノコやネッシーや怪談なんかよりQアノンや反ワクチンなどといった陰謀論のほうが影響力を有しているのではないか。)

 

・また、瀬口の心中文のシーン(「今やっと気付いた 俺が間違っていたと」)は読者に「ようやく瀬口が『自分は今まで恋人のことばかり考えていて、それ以外のことを考えていなかった』などといった反省をするのかな」と思わせるものとなっている。しかし、そのシーンの直後に瀬口が取った行動は自分の眼球を自ら抉るというものであった。

 

・作者は「いかにもポジティヴな展開になりそうだったのに瀬口が眼球を抉れば読者はビックリするだろう」と思い、そのような展開にしたのだろう。このように、視聴者や読者が抱くであろう予想とは異なる展開を描くことで視聴者や読者を驚かせる手法のことをミスリードといい、ミステリー作品などでも多用されている手法である。本作では他にもミスリードが見られ、「包帯女の正体が江倉ではなく瀬口だったという展開」がこれに該当する。

 

・だが、ミスリードという手法を用いる際には注意しなけばならないことがある。それは読者を良い意味で驚かせなければならないということである。

 

・例えば『名探偵コナン』では、「ベルモットがジョディ先生に変装している」と読者に思わせるようなシーンが沢山あったにも拘らず、実際にベルモットが変装していたのは新出智明だったという展開があった。このミスリードは多くの『名探偵コナン』読者を良い意味で驚かせた。理由としては、後から読めば不自然さがない展開であるにも拘らず「実は新出智明に変装していたという真相」が余りにも意外だったこと、「ジョディが持つ写真の一部に白い枠のようなズレが生じていた→その写真は新出智明に変装していたベルモットが所持する写真から複製されたものだったため白い枠のようなズレが生じていた」などといった巧みな伏線が用意されていたことなどが挙げられる。

 

・もし、これが「ベルモットがジョディ先生に変装している」と読者に思わせるようなシーンが沢山あったにも拘らず、実際にベルモットが変装していたのは小学一年生の円谷光彦君だったという展開であったならば、良い意味で驚かされた読者は居なかったであろう。もちろん読者は「成人女性のベルモットがあの光彦君に変装していたのかよ」と驚愕こそするだろうが、このような安直なミスリードは「リアリティー無さすぎだろ」「名探偵コナンってシュール系ギャグ漫画だったのかよ」などと読者をガッカリさせる結果となる。

 

・前述したように本作では少なくとも二つのミスリードが用いられている。「包帯女の正体が江倉ではなく瀬口だったという展開」の方についてだが、作者がこのミスリードを設けた影響で色々と不自然な点が生じてしまっている。

 

・瀬口が病院から失踪した直後に、マスコミ等で「病院から一人の男が失踪」などといった報道はされなかったのだろうか。江倉は最終頁の一つ前の頁で「彼(瀬口)が私を探して夜の街を徘徊しているという噂を聞きましたが あくまで噂です 確認はしていません」と述べているが、「瀬口が夜の街を徘徊している」という噂が既に世間で流れているのなら「包帯女が夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取っている」という噂が世間で流れかけたとしても「それって病院から一人の男が失踪した例の事件のことだよね」というツッコミがなされ、結果的に噂として成立しないのでは?…という疑問点がある。

 

・「いかにもポジティヴな展開になりそうだったのに瀬口が眼球を抉りだす展開」の方に関しても、SNSで『かおなくし』と検索した限りでは「この突飛で猟奇的な展開」に良い意味で驚いている読者は少なく、むしろ呆気に取られている読者が多い印象を受ける。

 

・ただ、Twitter民のグラスカーム氏は本作を高く評価している。以下ではグラスカーム氏のコメントを分析していく。

 

 

 

〇グラスカーム氏のTwitterにおけるコメント

スレッド1魚拓

スレッド2魚拓

 

 

〇グラスカーム氏のコメントに関する分析

・<まず主人公の男性についてだけど、終始自己中心的で思い込みの激しい人物として描かれている。

→これは妥当でないコメントだと思われる。主人公は高校時代にサッカー部だった友人を半年にも亘って支えていたことから、少なくとも江倉と交際するまでは狂気に囚われていなかったと考えられる。自ら眼球を抉るという異常行動に及ぶ直前ですら、「人間ならやって当たり前の美談」「そんな当たり前の美しい行いが当たり前にできない俺って何なんだろう」と心中文にあるように常人の価値観自体は推し量ることが出来ている。

 

 

・<最初アルバイトの子が「手が離せない」と言っているのに対して「手が離せないって」って不愉快そうに言ってるけど これ「スマホで業務上のなんらかの手続きをしている可能性」を全く考慮してなさそうなんだよね。

→そのアルバイトの子は「何してる?コバちゃん」「お客さん来てるでしょ」と江倉に言われている。また、江倉も「申し訳ございません お待たせしました」と述べている。「スマホで業務上のなんらかの手続きをしている可能性」を想定するのは自由だが、仮にそうだと仮定するにしても、江倉の言動から判断して、その業務が店頭での注文対応よりも優先されるべきものだとは考えにくい。

 

 

・<そういえば「三角食べ」発言に対して「三角食べはそうじゃないだろ」って言ってる人結構いるけど、作者もそれは分かって描いてると思うよ。 主人公の「三角食べ」発言に対して登場キャラ1人も同意や反応してないから。普通であれば「私もしてます」とか「懐かしいですね」とかリアクションあっても良いはずなのに、スルーするの、割と人の間違った知識をスルーする事良くあるしリアルよね

→仮に作者が作品内で瀬口の三角食べの知識を間違っているものとして扱いたいのだとしても、周囲のキャラが「瀬口が間違った知識を述べているということ」に違和感を持っているような描写がないと、「作品内でその知識が間違っているものとして扱われているのか否か」が読者に判断できない状況となってしまう。もし作者が瀬口の三角食べの知識を間違っているものとして扱いたかったのであれば、三角食べに関する瀬口の発言に対して、周囲のキャラが何かしらの違和感を抱いているような描写を入れた方が無難だったと思われる。

 

 

・<手鏡、というかコンパクト?を「こんなものもう見るな」って、勝手に不要なものと判断してそれがどれだけ大切なものか考えずに勝手にゴミ箱に捨てるシーンもかなりヤバいやつ描写してるよね。 現にラスト別の恋人との待ち合わせ中に割れてるのに使ってるし、かなり思い入れありそう

→これは同感。自分も他人の所有物を勝手にゴミ箱に捨てるような行為は余程のことがない限りしない。

 

 

・<こっちの発言や行動を待たずに眼球えぐられたら「うわ気持ちわる、関わらんとこ」ってなるのは当然だろうし、彼について聞かれても知らんがなって答えられる程度には明るく生きていけるのは正直魅力的な生き方だなぁって思う

→普通の人だったら、交際相手の人物が衝撃的な行為に及んでいる光景を目の前で直視した場合、恋人(瀬口)への恋心が残るか否かによらず、トラウマ(や、それに近いような心理的状況)になるはずなのに、江倉は「あたかも自分がその猟奇的な現場にいなかったかのような言動」をしており、不自然である。また、「明るく生きていけること」と「常人が持っているような感情に乏しいこと」は同義ではない。

 

 

・<最後に後輩について、言葉遣いや態度は悪いけど多分悪い人では無いのかなって思う。 というのも最後に「アイツはどうなったの?」って聞くのはある程度主人公に対して気にかけてないとできない発言だから

→メタ視点になるが、作者が後輩に「アイツはどうなったの?」と問わせたのは、この時点で江倉が瀬口についてどれほど関知しているのかを読者に示しやすくするためだと思われる。それにしても、警察は江倉に行方不明の狂人(瀬口)に関する事情聴取などをしなかったのだろうか。

 

 

・<作者はあなたの眼球は潰してないはずなのでもう一度読んでほしい

→グラスカーム氏は<五感が正常な人間が視力を完全に失ってベッドから真っ直ぐドアに向かえるだろうか? 仮にリハビリでそれができたとしても、その後街を徘徊できるだろうか?杖も無しに? 剥き出しの刃物もって街を歩いているのに転けた跡や擦り傷切り傷無いからアイツ目が見えてるよ>と述べている。確かに、視力を完全に失った者が街を徘徊するというのは殆ど不可能である。一方、損傷直後のシーンを確認すると、損傷部位が瞼板や角膜に及んでいるように描画されており、瀬口の眼球は十分に破壊されていると読むのが自然である。「街を徘徊する行為には最低限の視力が要るはずなのに、瀬口の眼球は病院内の一室で十分に破壊されているという矛盾」を解消するためには「瀬口は自身の眼球を損傷し包帯を巻かれた後の或るタイミングで一人の若年男性から『心も体も瞳もない霊的な存在』へと変化した」と解釈する必要があるのかもしれない。

 

 

 

〇浄土るる先生とは

ユニークな短編漫画を発表している漫画家。「週刊ビッグコミックスピリッツ」2021年40号では『良心の呵責』という読切を発表した。『鬼』は浄土るる先生が17歳の時に描いたデビュー作で、「新人コミック大賞 青年部門 佳作(審査員のコメント)」を受賞した。

 

 

〇リンク

第84回 青年部門 佳作「鬼」浄土るる(17歳・群馬県)|小学館 新人コミック大賞 (shogakukan.co.jp)

 

 

 

〇本作のポイント

・主人公、江田子豆は小学5年生。「お父さんはいなくて、お母さんと妹の3人暮らし♪」という独白があるが、主人公の生活環境は語尾に♪が付くような明るいものではない。本作の吹き出し内の文では読点・句点が用いられているが、この独白の一文には句点がない。

 

・扉絵の次の頁の2コマ目において、主人公ら二人の小学生は昭和っぽい体操着を着用しているように見える。本作の作者は2019年時点で17歳だったそうで、「平成十年代生まれの筆者が小学生だった時でさえ、こんなレトロな体操着を使っている小学生が殆どいなかったこと」を考えれば少し違和感がある。もしかしたら、浄土るる先生は小学校に余り通っておらず自分の小学生時代の体操着に関する記憶がないのかもしれない。

 

・主人公の母は主人公に「生まれてきてごめんなさい と言え」などと強いている。自分の娘に「テメコラ(「てめえ、こら」の意)」等の言葉を浴びせるような親のことを毒親という。

 

・小学校の教室にいる主人公。教壇の上に担任の先生と一人の転校生が立っている。転校生は「クソガキ小学校」という小学校の出身者で、「渡辺ポンポコ」という名前をしている。黒板にポという片仮名一文字が書かれているのはポンポコの頭文字を担任の先生が書いたためだろう。

 

・転校生は、苗字こそ渡辺という普通なものとなっているが、ファースト・ネームはポンポコという常識外れな代物となっている。『徒然草』 第百十六段に「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」という一節があるように、名前だけでも転校生の親が異常である可能性の高さが伝わってくる。

 

・渡辺は根暗であり、朝の会と1限の間の休み時間になってもクラスの小学生は渡辺に近づこうとしない。そんななか、主人公は転校生の席のところに行き、色々話かける。

 

・しかし、渡辺は主人公の「どの辺に引っ越したの?」という問いを無視するなど、主人公に対して無反応な態度を示す。

 

・授業が始まり、多くの児童が席に着く。先生は周囲の児童に「ポンポコさんに教科書 見せてあげて。」と言うが、周囲の児童は「やだー気持ち悪い。」「呪われそう。」「あんまり近づきたくない。」「臭そう。」と口にする。主人公のように「ポンポコこっちおいでよ、見せてあげるよ。」と友好的な台詞を口にしている児童は、クラスにおいて主人公以外に見当たらない。

 

・あまりにも渡辺に酷な態度を示す教え子を見て担任の教師は「先生だって朝起きて ああ仕事行きたくない って毎日思うけど、頑張って来てるんだよッ。」「分かったらポンポコに教科書を見せなッ。」と激昂する。担任の怒りっぷりを目の当たりにした児童らの一人が、しぶしぶ渡辺に教科書を見せる。

 

・授業が終わったあと、渡辺に教科書を見せていた児童は自らその教科書をゴミ箱に投棄する。その光景を見た主人公以外の児童は「どっ」などと大笑いする。(細かい話だが、自分の教科書を自ら投棄した児童は、明日以降の「その科目の授業」のときに困らないのだろうか…。)

 

・余談だが、担任の教師は授業中に落書きレベルの板書しかしていないようだ。

 

・主人公の通っている小学校は「死ね小学校」という学校名であり、校舎がドーム状である。転校生の通っていた小学校の名前が「クソガキ小学校」だったことを踏まえると、作者は小学校というものに良い感情を余り持っていないのかもしれない。

 

・放課後、主人公は「一緒に帰ろう」と渡辺に呼びかけるが、渡辺は逃げるかようにして教室から去ってゆく。「あっ、待って。」と追いかける主人公を見て周囲の児童は「子豆まだアイツに絡んでる。」と言う。

 

・渡辺に追いついた主人公は「家どこなの?」と話しかける。渡辺は走るのを辞め、主人公の話を聞いている。しかし、主人公が「お父さんはいないんだ お母さんは毎日仕事でね、いつも疲れているよ。」と話すのを聞くと、「うち お母さんいない。」とつぶやき、主人公を睨みつけて走り去ってしまう。

 

・主人公が帰宅すると、妹(みいちゃん)が玄関で主人公の帰宅を待っていた。玄関で笑顔になる主人公と妹。家の中の或る部屋で主人公は妹に「今日ね転校生が来たんだよ」と話す。

 

・すると、部屋に母親が入ってくる。主人公はジャージ姿の母親に「お母さん、おはよう。」と語り掛けるが、放課後という時間帯なのに主人公が「おはよう」という挨拶をしているのは、母親が昼間まで寝ていたことを示している。下校中に主人公が「お母さんは毎日仕事でね、いつも疲れているよ。」と言っていたのに母親が昼間まで寝ていた理由は後々の頁で明かされる。

 

・母親の耳には自分の子供たちの微笑ましい会話がうるさく聞こえるようで、主人公を蹴りつける。「鬱陶しい(うっとうしい)…」「オマエら やかましいんだよ バカ、死ね。」と暴言を吐く母親に対して妹は泣き出してしまう。主人公は母親の機嫌が更に悪化することを恐れ、「お母さん ごめんなさい。」「静かにします。」「ごめんなさい。」「許してください。」と発言する。母親は「産まなきゃよかった。」と言い捨てる。

 

・日付が変わり、或る朝、主人公が教室に入ると、渡辺が水をかけられるという「いじめ」に遭っていた。主人公はいじめをしていたクラスメートに「ダメでしょ」と叱る。

 

・朝の会を始めるため教室に入っていった担任の教師は、びしょぬれの渡辺を見て「すぐ着替えなきゃ!」と慌てる。

 

・その次の頁の1コマ目で主人公は体操着を着ている。一方の渡辺は「保健室」と書かれた服を着ている。

 

・2コマ目で、主人公の服が変わっていることから座学の授業が始まっていることが読み取れる。主人公は渡辺に話しかけるが、授業中だったため、「江田さん!授業中ですよ!」と注意される。主人公を「江田さん」と呼んでいる点、「ですよ」という丁寧語を用いている点から、この台詞を発しているのは担任の先生だと分かる。

 

・その後、主人公と渡辺以外に誰もいない教室で、給食に関する会話をする二人。主人公は渡辺の席の上で横になる。

 

・頁が変わり、教室にはたくさんの児童がいる。沈黙を続ける渡辺に主人公は「ポンポコ遊ぼうよ」と話しかける。周囲の児童の台詞「ドッチしよー。」の「ドッチ」はドッチボールという意味。

 

 

・渡辺と主人公のそばに、二人の児童が立っている。

 

無地の服を着ている児童(以下、無地)「子豆って親に殴られてるらしいよ…」

縞模様の服を着ている児童(以下、縞模様)「知ってる。」

無地「多分 転校生の親も ろくなのじゃないよ。」

縞模様「ねー、絶対そう。」

 

(小さくて見づらいが、「知ってる。」と句点が置かれている。)

 

 

・無地と縞模様の悪口に耐えかねた渡辺は「私のお母さんは そんなんじゃない!!」「殴ったりなんて絶対しないもん!!」と激昂する。

 

・自分の母親を侮辱されて怒るのは人として普通の反応だし、殴る蹴るなどといった暴力行為に及んでいない以上、特に落ち度のない反応だと言える。しかし、無地は「キモ。」と人格否定の言葉を発する。

 

・無地が「キモ。」と言う頁は、4段構成だった前の頁と違って、3段構成となっている。また、「ワイ ワイ」や「ガヤ ガヤ」などといった効果音が書かれている前の頁と異なり、どのコマにも効果音が書かれていない。3段構成となっているのは、渡辺が無口な態度から一転して激昂するのを見た無地が「キモ。」と呟くに至るシーンを端的に描くためだろう。効果音が書かれているコマがないのは、渡辺が「私のお母さんは そんなんじゃない!!」と叫んだあと、教室の空気が一変したことを表現するためだと思われる。

 

・下校時、主人公が渡辺に添うようにして歩いている。主人公は妹の話を渡辺に話しかけているが、渡辺は当初、口を閉ざしていた。だが、しばらくしてボソリと「嫌がらせなん?」と呟く。驚く主人公に対し、渡辺は「鬱陶しいんさ…」と話す。このとき渡辺は顔を主人公のいる方ではなく歩いている方に向けている。

 

・主人公は「ち、違うよ。ポンポコとね、ポンポコと友達になりたいんだよ。」というが、自分でも上手く釈明できないようで最後には「ごめんね」と口にする。それを聞いた渡辺は何も言わず、独り立ち去ってゆく。

 

・涙を流しながら独り家路につく主人公。家のドアを開けると、玄関には妹がいた。「ただいま」という頃には涙がなくなっているようだ。

 

・しかし、転校生が「死ね小学校」に初めて来た日と違って、妹の顔に笑顔はない。主人公が、母親の嬉しそうな鼻歌が聞こえてくる「玄関庫品の部屋」を覗くと、ジャージ服から華美な服に着替え、髪も整えた母親がメイクをしていた。

 

・母親は「あ、なんだ帰ってたの。」「私 出掛けるからさ、この前みたいに体調悪いとかで電話掛けてくるのやめろよ。」「鬱陶しいだけだから!」と言い捨て、家を出発する。

 

・ドアがバタンと閉じられていくのを眺めている主人公と妹。涙を流し始めた妹を主人公はポンポンと後ろから抱きしめる。

 

・翌日、主人公は登校し、「ランランラン。ラララララ。」もなく教室に入る。教室では渡辺に対する「いじめ」が行われていた。主人公はいじめている児童を叱るが、いじめっ子から「うるさい!!!」と反撃されてしまう。周囲の児童は主人公に「子豆いい加減にしてよ。」「めんどくさい。」「偽善者。」「片親。」「友達やめる。」「うざい。」と酷い言葉を投げかける。

 

・児童の一人が「てかさ、私 昨日見ちゃったんだけど。子豆の母親 駅前で若い男と一緒に歩いてたよ!!!!!!」と暴露し、周囲の児童も「キモイ。」「えー!気持ち悪ーい!!」「ヤバ!!」と同調する。それに対して主人公は「うるさいなァ 人のお母さんの悪口 言わないでよ!」と怒り、教室から逃げ出す。

 

・路上にいる主人公と渡辺。「なんで構うん。」と問われ主人公は「私のお母さんね、すぐ叩いたり蹴ったりするんだ。私だけじゃなくて、妹を叩くこともあるよ。ポンポコが転校してきたとき、ちょっとだけ、妹に似てると思ったんだ。ポンポコの不機嫌そうな顔が、泣いてるの我慢してるみたいに見えたよ。叩かれたり暴言言われたりするのって、すごく辛いんだ。だからね、ポンポコを守りたかったよ。」と答える。次第に涙が漏れてくる二人。

 

・渡辺も「うちね…お母さん死んじゃったんさ…お父さんは仕事 忙しいから、ばあちゃん家に引っ越して来たん。友達なんていらないと思った。江田さんは私のこと からかってるんかと思ってた。だから………ひどいこと言ったりしてごめんね。」と語る。(ばあちゃん家の「家」には「ち」とルビがついてある。)

 

・渡辺に「友達だよ」と話す主人公。渡辺は「なんでそんなに優しく出来るん。私は…全然優しくないのに。」と語るが、主人公は「優しいよ。」と2回にわたって伝える。

 

・渡辺は泣きながらも笑い、「明日うちに遊びにきてよ。」と提案する。主人公は妹も連れていって良いか訊くと、渡辺は笑顔で「もちろん。」と答える。

 

・次の頁の「ともらち」は「ともだち(友達)」という意味。

 

・翌日、主人公は「ランランラン。ラララララ。」と言いながら教室に入っていった。その瞬間、主人公は突如、水を掛けられる。

 

・水をかけたのは、なんと渡辺だった。渡辺は或る児童に「よくやった お前はもう5年4組の仲間だ。」と褒められる。渡辺は「朝来たら これかけろって言われたんだ。ねぇ、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんでしょ?私もね、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんだ。」と語り掛ける。

 

・本作の最終頁では教室の児童らが主人公を笑っている光景が描かれている。

 

 

 

 

〇全体を通して感じたこと

・文字が一切かかれていないコマが随所にあり、間(ま)の表現を感じさせる工夫だと言える。

 

・主人公は教室に入るときに「ランランラン。ラララララ。」などと鼻歌らしきものを歌う習慣がある。これは主人公にとって学校が(少なくとも渡辺から水を掛けられる瞬間までは)楽しい空間であったことを示していると思われる。言い換えれば家庭環境が過酷であったがために、学校空間が或る意味すごしやすかったのだろう。母親も若い男と会うため家から出るときに「ランランラン。ラララララ。」と歌っていたことを踏まえると、母親の行動習慣に影響された習慣である可能性が高い。

 

『良心の呵責』ほど明瞭な区別ではないが、「人格的に終わっている訳ではないキャラ」(担任の先生など)と「人格的に終わりきっているキャラ」(主人公の母親など)の区別がされている印象を受ける。

 

・本作は、普通の漫画であればハッピーエンドにつながりそうな展開が終わり際に出現しているにも拘らず、実際にはハッピーエンドから乖離した結末となっている。『良心の呵責』も同様。

 

・本作で主人公が渡辺に水を掛けられるという結末になっているのは、長い期間にわたって交流している訳でもない他人に対して「君は素晴らしい」などのようにポジティヴな言葉を投げかけてくる人物(本作であれば渡辺に対して「優しいよ。」と語り掛ける主人公)に作者が違和感を持っているからなのかもしれない。

 

★底本

第二部 p326~333

 

★手塚による要約

最も静かな時刻が来て、永劫回帰の真理を宣べ(のべ)伝えよ、と命ずる。モーゼの召命に似た場面。かれは自分の未熟を思って孤独にはいる。

 

 

★解説

・この章で、ツァラトゥストラは自分の友人たち(弟子たち)に別れを告げる。だが、「23 贈り与える徳」のときと異なり、この章でツァラトゥストラはいやいや(本心では別れを望んでいないにもかかわらず)自分の弟子たちに別れを告げている。

 

・p331の最後の段落は地の文だが、その段落と「わたしの最も静かな時刻」が発している台詞文を除けば、この章における文は全てツァラトゥストラが語っている文である。

 

・この章では、ツァラトゥストラと「わたしの最も静かな時刻」の対話がメインの内容となっている。手塚はモーゼの召命に似た場面と指摘しているが、確かに、旧約聖書「出エジプト記」には、この章と似たような雰囲気の箇所がある。

 

・モーゼはモーセとも表記される預言者である。預言者は「神などから言葉を預かった人間」を指し、一神教では重要な用語である。羊飼いとして暮らしていたモーゼは或る日、柴(小さな雑木)が燃えているのを見ているときに神から「イスラエル人を約束の地へ導け」という言葉を預かる。このように、人が神に呼び出されることを聖書学の分野では「召命(しょうめい)」という。

 

・だが、神に「イスラエル人を約束の地へ導け」と命令されたモーセは「わたしは口も重く、舌も重いのです」と神に伝え、命令の実行を躊躇おう(ためらおう)とする。同様に、この章でツァラトゥストラも「わたしの最も静かな時刻」に「永劫回帰という思想について語れ」と命令されるが、それを躊躇おうとしている。

 

・或る日の夕方ごろ、眠りかけていたツァラトゥストラに、声なくして語るものがあった。それは「わたしの最も静かな時刻」であった。「わたしの最も静かな時刻」との対話によってツァラトゥストラは再び山の洞窟へ戻らねばならなくなったが、自分が突然、弟子たちを去ったら、弟子たちの心が自分に関して冷酷になるかもしれないため、ツァラトゥストラは「わたしの最も静かな時刻」との対話の内容を全て弟子たちに明かすことにした。

 

・「わたしの最も静かな時刻」に「おまえはそれ(永劫回帰)を知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」と指摘されたツァラトゥストラは、反抗する者のような声音(こわね)で「そうだ。わたしはそれを知っている。しかしわたしはそれを語ることを欲しないのだ」と答える。だが、すぐに「欲しないというのか、ツァラトゥストラよ。そのことも真実か。反抗のなかに身をかくしてはならない」と言われ、ツァラトゥストラは幼子のように泣き、身をふるわせた。

 

・ツァラトゥストラは泣きながら「ああ、わたしはたしかにそれを言おうとした。しかし、どうしてわたしにそれができよう。そのことだけは許してくれ。それはわたしの力を超えたことなのだ」と伝えるが、ツァラトゥストラのこの姿は「わたしは口も重く、舌も重いのです」と神に伝え、イスラエル人を約束の地へ導くことを躊躇おうとしたモーゼの姿を連想させる。

 

・「わたしの最も静かな時刻」とツァラトゥストラの対話は続くが、「わたしはより権威ある者(超人)を待っているのだ。わたしはその者の前に出て砕けるだけの値打ちもない男だ」や「わたしの謙遜の皮は、これまでにあらゆるものを忍んできたではないか。わたしはわたしの高山の麓(ふもと)に住んでいる。その頂がどのくらい高いか、わたしは知らない。だれもそれをわたしに言ってくれた者がないから。しかし、わたしはわたしの谷がどんなに低いかは、よく知っている」などのようにツァラトゥストラは謙遜を重ねる。

 

・「わたしの最も静かな時刻」は「おお、ツァラトゥストラよ、山を移そうとする者は、谷と低地をも移すのだ」と説くが、ツァラトゥストラは「まだわたしのことばは山を移したことがない。またわたしの語ったことは人間たちに到達することもなかった。なるほどわたしは人間たちに近づいて行った。しかしわたしはまだ人間たちへ行き着いていないのだ」と語る。前章で述べたように、ツァラトゥストラは人間界にとどまろうとする意志(下方に向かう意志)と、超人へと進もうとする意志(上方に向かう意思)の両方を持つ人間である。

 

・p329の露の暗喩を考察する。手塚は脚注で、この暗喩について「おまえが任に堪えるだけの資格があるかどうかは、おまえ自身にはわからないことだ。草木を育てる露がおりるのは、夜が夜自身もそれを自覚しないほど静かな真夜中のことだ」と考察しているが、この暗喩は個人的には「草木にとって栄養となる露が夜から草木に移る現象は、夜自身さえ自覚しないほど静かな時に起こる。人間たちにとって栄養となる言葉(永劫回帰を説く言葉)がツァラトゥストラから人間たちに移る現象も、ツァラトゥストラ自身さえ自覚しないほど静かな時に起こる。つまり、ツァラトゥストラ自身さえ自覚しないほど静かに、永劫回帰を説く言葉はツァラトゥストラから人間たちに移る」というニュアンスで捉えることも可能なように思う。

 

・ツァラトゥストラは「かれら人間たちは、わたしがわたし自身の道を見いだして、 それを歩んで行ったとき、わたしを嘲笑した。そして実際わたしの足はそのとき慄えたのだ。するとかれらはわたしに言った。おまえは正しい道を忘れた。今は慄えて、歩むことも忘れようとしているのだなと」と語っているが、「ツァラトゥストラの序説」でも民衆たちはツァラトゥストラの言葉を笑っていた。

 

・「かれらの嘲笑が何であろう。おまえは服従することを忘れた者の一人だ。いまおまえは命令しなければならない。おまえは知らないのか、いかなる者が万人に最も必要であるかを。最も必要なのは、偉大なことを命令する者だ。偉大なことをしとげる(偉大なことをなしとげる)のは、困難だ。しかしより困難なのは、偉大なことを命令することだ。おまえの最も許しがたい点はこれだ。おまえは力をもっている、しかもおまえは支配しようとしない」という「わたしの最も静かな時刻」の指摘に対してツァラトゥストラは「わたしには命令するための獅子の声が欠けている」と答えているが、「2 三様の変化」でも獅子の喩えが登場していた。ツァラトゥストラは、精神が駱駝(らくだ)、獅子(しし)、小児(しょうに)へ変化していくことを「三様の変化」と表現し、駱駝は重荷に堪える義務感(「汝なすべし」)、獅子は自由を我が物とすることで新しい諸価値を立てる権利を自らのために獲得する自律性(「われ欲す」)、小児は習俗的世界を離れて自身自身に固有の世界を創り出す精神(「然り」)であると主張した。

 

・「わたしの最も静かな時刻」の「嵐をもたらすものは、 最も静寂なことばだ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来たらざるをえない者の影として歩まねばならぬ。それゆえおまえは命令しなければならぬ。命令しながら先駆しなければならぬ」にツァラトゥストラは「わたしは羞恥を感ずる」と答えているが、「来たらざる」は標準的な日本語であれば「来ざる(こざる)」が自然なように思う。ただし、日本語には「来たる」という連体詞があり、この連体詞の語感や「来たるべき」という語句などからの連想により、手塚は「来たらざる」という表現を和訳の際に用いたのかもしれない。


・「おまえはこれから幼子になれ、そして羞恥の思いを放棄しなければならない。青年期の誇らしさがまだおまえを離れない。おまえは青年になることがおそかったのだ。しかし幼子になろうとする者は、おのれの青年期をも乗り超えなければならぬ」と説く「わたしの最も静かな時刻」の言葉を聴き、ツァラトゥストラは長いあいだ思いに沈んだ。ツァラトゥストラは慄えたが、遂にツァラトゥストラは言った。それは「わたしの最も静かな時刻」との対話でツァラトゥストラが最初に言った「わたしは欲しない」という言葉だった。 

 

・はらわた(p330):漢字では「腸」と表記する。「腸管などといった内臓や、腹の中の臓器全体」を指す大和言葉である。

 

・すると、ツァラトゥストラの周囲に笑い声が起こった。その笑い声はツァラトゥストラの腸(はらわた)をかきむしり、ツァラトゥストラの心臓をずたずたにした。その後、「わたしの最も静かな時刻」は「おお、ツァラトゥストラよ、おまえの果実は熟したのだ。だが、おまえはまだおまえの果実にふさわしく熟していない。それゆえおまえは孤独のなかにもどってゆかねばならぬ、おまえはいっそう熟して美味にならねばならぬのだ」と語った。


・そう語られた直後、もう一度、笑い声が起こり、その笑い声は次第に遠ざかって行った。もとに倍する静寂(元々の静寂さよりも更に二倍ほど静寂な状態)がツァラトゥストラを包んだが、ツァラトゥストラは地に伏したままだった。汗が五体から噴き出すほどツァラトゥストラは興奮していたのだった。


・ツァラトゥストラは「わたしの最も静かな時刻」との対話の内容を弟子たちに語り、「わたしの友人たちよ、これで君たちは一切を聞いたのだ。また、なぜわたしがわたしの孤独に帰らねばならぬかをも、聞き知ったのだ。わたしは何事をもつつみかくすことはしなかった。同時に、君たちはわたしから次のことをも聞いたのだ、すべての人間のうちでだれが最も沈黙する者であるか――また最も沈黙する者であろうと欲するかを」と弟子たちに説いた。つまり、ツァラトゥストラは弟子たちに「最も重大な考えを持つ者こそ、最も沈黙する者であろうと欲するのだ」と説いた。

 

・ツァラトゥストラは弟子たち(友人たち)に「ああ、わたしの友人たちよ。わたしは君たちになお言うべきことをもっているのだ。君たちになお与えるべきものをもっているのだ。だが、なぜ、わたしはそれを与えないのか。 わたしは吝嗇(りんしょく)なのだろうか」と言い終えると、激しい痛みを感じ、弟子たちとの別れが迫っていることを悲しんだ。ツァラトゥストラは声を放って泣いたが、誰もツァラトゥストラを慰める言葉を持たなかった。その夜、ツァラトゥストラは弟子たちをあとにして独り旅立っていった。

 

・「ツァラトゥストラの序説」でも出てきたが、吝嗇(p331)は「ケチ」や「少しでもコストを減らそうとする性格」といった意味の名詞である。「42 ある予言者」や「43 救済」などと同様に、この章も、章の最後の言葉が「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句ではない。

 

・余談だが、手塚はp330の「青年期の誇らしさがまだおまえを離れない。おまえは青年になることがおそかったのだ」を「青年らしい見栄(みえ)」と脚注している。つまり、「ツァラトゥストラはまだ青年らしい見栄にとらわれている」と解釈しており、この解釈は間違いではないだろう。ただし、個人的には「天才は得てして青年になる時期が遅い(幼くて無邪気な時期が結構ながい)」ということが関係しているようにも感じられる。

 

・例えば、アインシュタインは16歳の頃、光の速さで光と並走したら光は止まって見えるのかという「無邪気な子供がひらめきそうな疑問」を抱き、その疑問についてずっと考えていたとされる。いわゆる大人っぽい青年が16歳のときに「無邪気な子供がひらめきそうな疑問」について真剣に考え続けるのかと言われればそうではない可能性が高い。数学界の天才であるポール・エルデシュにしても、なんと彼は大学に入るまで自分の母親と同じベッドで寝ていたという。30歳で隠遁する前から天才であったのだろうツァラトゥストラも、幼くて無邪気な時期が結構ながく、青年になるのが遅かったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

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ツァラトゥストラ解説 46 さすらいびと

 

 

 

 

 

★底本

第二部 p319~325

 

★手塚による要約

人間をののしるが、人間を離れては自分の事業を行う場所がない。それで人間をがまんする知恵を語る。皮肉のうちに愛情がほのめく。

 

 

★解説

・この章のタイトルの原題は「Von der Menschen-Klugheit」である。Menschenは「人間たち」という意味で、Klugheitは「知恵」という意味なので、Menschen-Klugheitは「人間たちに関する知恵」という意味になる。手塚はこれを対人的知恵と訳している。

 

前章などとは異なり、この章は「5 肉体の軽蔑者」などのようにツァラトゥストラの語りだけで構成されている。ツァラトゥストラは、この章で4つの対人的知恵を述べている。

 

・この章の全体像をまとめると、まずツァラトゥストラはp319~320で「自分には二重の意志がある」と語っており、そう語ったうえで、第一の対人的知恵をp320~321で述べ、第二の対人的知恵をp321~322で述べている。第三の対人的知恵はp322から語られている。第四の対人的知恵に関してはp324の最後の段落に「これがわたしの最後の対人的知恵である」とある。

 

・この章の最初の文は<おそろしいのは、絶頂ではない、山の斜面である。>となっている。原文は「Nicht die Höhe: der Abhang ist das Furchtbare!」であり、分かりやすく和訳すれば「恐ろしいのは(山の)頂上ではない。(山の)斜面なのだ!」などとなる。

 

・なお、この文の直後に「斜面では、目は下へと急降下し、手は上へとつかみかかる。そのとき、心は、その二重の意志のためにめまいする」とあるが、原文の「Der Abhang, wo der Blick hinunter stürzt und die Hand hinauf greift. Da schwindelt dem Herzen vor seinem doppelten Willen.」をより分かりやすく訳せば「視線が下に向かい、手が上に伸びるほど急激な斜面。そのとき、心は、その二重の意志の前にめまいを覚える」などとなる。

 

・確かに人が崖に近いような斜面を登るとき、視線はしばしば低いほうを見下ろすような向きになるが、手は上へと伸びてゆくような状態になる。ツァラトゥストラには、下方に向かう意思と、上方に向かう意思の両方が同時に存在している。つまり、人間界にとどまろうとする意志(下方に向かう意志)と、超人へと進もうとする意志(上方に向かう意思)の両方がある。

 

・「ツァラトゥストラの序説」でツァラトゥストラは下山し、人間たちに自分の知恵を贈ることを決意している。その決意をニーチェは「没落」と表現しているが、人間たちに自分の知恵を贈りに行くことは、人間界にとどまろうとする意志(下方に向かう意志)の表れなのである。ツァラトゥストラは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向があり、この章でもその傾向が出ている。

 

・ツァラトゥストラは30歳まで普通の人間として生きていたし、「40 詩人」でも自分のことを「人間」と述べている。つまり、ツァラトゥストラは「超人思想を語っており、超人へ進もうとしている一人の人間」と捉えるのが妥当であろう。

 

・ツァラトゥストラは「人間たちのあいだで盲者として生き、人間がどんなものであるかを知らないふりをしている」が、前章のp309にあるように、ツァラトゥストラは眼鏡(めがね)をかける場合もある。

 

・第一の対人的知恵は、人を欺こう(あざむこう)とする者を警戒せず、不幸に遭ったとしても、その不幸を幸福として享受しようとすることである。不幸を幸福として享受することに関して、手塚は「不幸がわたしにやってきたが、わたしはそのとりこにはならない。そしてその不幸を嘆かずに、むしろ幸福と思う」と脚注しているが、「とりこ」は漢字で虜と書く。つまり、「とりこになる」はもともと「捕虜になる」という意味であり、転じて「或る対象の捕虜になったかのように、その対象に心を奪われたり熱中したりする」という意味で用いられるようになった。

 

・p321に「さらに、わたしの第二の対人的知恵は、虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だということである」とある。原文は「Diess aber ist meine andre Menschen-Klugheit: ich schone die Eitlen mehr als die Stolzen.」であり、直訳すれば「だが、これが私のもう一つの対人的知恵だ。私は、誇り高い者たちに対してよりも、虚栄心の強い者たちに対して寛容なのだ」などとなる。

 

・ツァラトゥストラは誇りと虚栄心を大きく異なるものと捉えている。誇りは傷つけられても、その後より良いものが生まれるポテンシャルがある。しかし、虚栄心はひとたび傷つけられれば修復が利かない(きかない)ため、ツァラトゥストラは虚栄心を「あらゆる悲劇の母」と形容している。

 

・p321~322に「人生がおもしろい見ものであるためには、人生の劇がよく演じられねばならぬ。しかしそのためにはよい俳優が必要である。わたしは、虚栄的な者がみなよい俳優であることを発見した。かれらは人々がかれらを喜んで見物することを望んで演技する――かれらの全精神はこの意志と結んでいる。かれらは舞台にあがり、自分の工夫した姿態を演ずる。かれらのほど近くにいて、人生劇を見物することを、わたしは好む。それは憂鬱を癒やしてくれる。そういうわけで、わたしは虚栄的な人間たちを大目に見る。かれらはわたしの憂鬱の医者であり、わたしを一つの演劇に結びつけるように、人間というものに結びつけてくれるのである。それにまた、だれが虚栄的な人間の謙遜の深さを測りつくすことができよう。わたしはかれの謙遜のゆえに、かれに好意をもち、かれをあわれむ」とあるように、ツァラトゥストラは虚栄的な者を俳優(役者)に喩えている。

 

・p322の<虚栄的な人間は、おのれに寄せる自信を、君たちの手からもらおうとする。かれは君たちの視線を食料にしている。賞讃を君たちの手からもらい、かぶりついてそれを食う。 この虚栄的な人間は、君たちがかれを褒めて耳をくすぐる嘘をつけば、嘘でもそれを信ずる。というのは、心の奥底でかれは、「自分はいったい何者だろう」と嘆いているからだ。また、自分自身について知らないことが真の徳であるとすれば、虚栄的な人間は自分自身の謙遜については何も知らない有徳の人士である>を読み、「本当はセレブではないのに、あたかも自分がセレブかのように装っているインフルエンサー」を連想する者は多いのではないだろうか。
 

・p322に「わたしの対人的知恵として第三にあげるべきものは、悪人たちを見る興味を、君たちの臆病さに邪魔させないということだ。わたしにとっては、灼熱の太陽が孵化(ふか)させる奇跡――虎や椰子や、がらがら蛇などを見ることが、このうえもなく楽しい」とあるが、ツァラトゥストラにとって太陽は「偉大な天体」(p12)、「あふれこぼれる豊かな天体」(p13)である。「23 贈り与える徳」の杖が示しているように太陽はツァラトゥストラのシンボルの一つであり、「38 無垢な認識」でもツァラトゥストラは太陽を賛美していた。

 

・がらがら蛇(p322):北米や南米に分布する蛇の一種。現代の日本語では「ガラガラヘビ」と表記されることも多い。草原、森林、砂漠などに生息する。危険を感じると、尾を激しく振るわせて音を出すことで威嚇する習性がある。

 

・第三の対人的知恵を簡潔に表現するならば「悪人を遠慮せずに見ること」なのだが、そもそも、人間たちの世界における最高の賢者がツァラトゥストラにとってはあまり賢明に見えないように、人間の邪悪さもツァラトゥストラにとっては世間の評判ほどではない。ツァラトゥストラによれば、世間ではただのガラガラヘビが「きわめつきの悪」と呼ばれていることも多いという。

 

・だが、ツァラトゥストラは、悪にはまだまだ未来の可能性があると指摘する。生後三か月頃の長さのガラガラヘビが「きわめつきの悪」としばしば呼ばれる世間においても、いつの日か、より大きい竜が現れるだろうとツァラトゥストラは予言する。漢字圏にも竜頭蛇尾という四字熟語があり、蛇と竜はしばしば関連づけられる。

・p323に「せいぜい幅は十二フィート」とあるが、ドイツがヤード・ポンド法からメートル法に移行したのは1870年代のことなので本書の執筆時期である1880年代とそこまで離れていない。

 

・蟇(p323):「がま」と読む。「ひきがえる」などの両生類を指す。

 

・p323に<超人が生まれ出るためには、かれの敵としてふさわしい超竜も出現しなければならない。そのためにはこれからまだ灼熱の太陽が湿気に富んだ原始林に照りつけなければならない。 まずおまえたちの山猫が虎に、おまえたちの有毒の蟇(ガマ)が鰐(わに)にならねばならぬ。そうしてこそ、よい猟師は手ごたえのある猟をすることができる。 そしてまことに、おまえたち善良な者たち、正しい者たちよ。おまえたちには、多くの笑うべき点があるが、今まで「悪魔」と呼ばれてきたものにたいするおまえたちの恐怖こそ、とくに笑うべきものだ。>とある。「超竜」という造語がみられるが、原文ではÜber-Dracheとなっている。超人も原文ではÜbermenschenとなっており、ツァラトゥストラはÜberというドイツ語の接頭辞を多用している。

 

・ツァラトゥストラはp322の「椰子」などのように南国への憧れを隠さない。南国では暑さのため人々はしばしば半裸や全裸となるが、ツァラトゥストラは「超人は喜んで裸体を晒すものだ」と考えており、南国は超人思想と相性が良いのである。因みに、「超人は喜んで裸体を晒す」という発想は、キリスト教でしばしば見られる「裸体をタブー視する文化」を反転させたものである。

 

・なお、ツァラトゥストラが、今まで「悪魔」と呼ばれてきたものにたいするおまえたち(善良な者たち)の恐怖こそ、とくに笑うべきものだと考えている理由は、p324の<わたしの目に触れるおまえたち、最高の人間たちよ。おまえたちにたいするわたしの疑いとひそかな笑いはこうだ。おまえたちはわたしの超人を――悪魔と呼ぶだろう、わたしはそれを察する。ああ、わたしはこういう最高の人間、最善の人間たちに飽きた。かれらの「高み」を離れて、わたしは上へ、外へ、かなたへ進みたいという願いに駆られる。すなわち超人へ。 これらの最善の者たちの裸体を見たとき、わたしは戦慄におそわれた。そのとき、わたしに、はるかな未来へ飛び立つべき翼が生じたのだ。 今までにどんな芸術家が夢みたよりも、よりはるかな未来へ。より南の国へ。神々がどんな衣をもつけることを恥じるようなところへ>という箇所から読み取ることが出来る。


・ツァラトゥストラは<隣人たちよ、同胞たちよ。おまえたちはむしろ仮装しているのがいい、着飾って虚栄的で、「善良な者、正しい者」としての威厳を示しているのがいい。そしてまことに、わたし自身も仮装しておまえたちのあいだにすわっていたい。――そしておまえたちとわたしの真実の姿を見ないですましたい。つまりこれがわたしの最後の対人的知恵である>と語っており、その直後に「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は終わっている。

・つまり、第四の対人的知恵を要約するならば「人間たちは仮装して、着飾って、虚栄的であるべきであり、そうすることで真実の姿を見ないで済ませる」ということである。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p307~319

 

★手塚による要約

真の救済とは不具を癒やすことではなく、過去の偶然を意志が積極的に肯定し、それを意志の必然に化すること。永劫回帰説は近づく。

 

 

★解説

・この章のタイトルは「Von der Erlösung」となっている。英訳すれば「On Redemption」となる。このVonやOnは「について」という意味の前置詞で、要するにニーチェは「ツァラトゥストラはこの章で救済について語っているよ」というニュアンスで「Von der Erlösung」と題している。この章に限らず、「14 純潔」の「Von der Keuschheit」や「27 僧侶たち」の「Von den Priestern」などのように、本書の章は「Von(Vom)」から始まるものが多い。なお、Vomはvonとdem(定冠詞)を合わせた単語である。

 

・この章の冒頭で、ツァラトゥストラが弟子たちを連れて大きい橋の上を歩いていると、不具の乞食の群れがツァラトゥストラと弟子らを囲んだ。群れのなかの一人の男がツァラトゥストラに話しかける。

 

・その男は背中に瘤(こぶ)があった。「29 賤民」で述べたように、「不具」は「身体の一部に障害のある」という意味で用いられる古風な表現だが、確かに「背中に凄く大きな瘤がある男」は当時の基準で不具者ということになるのかもしれない。不具の乞食の群れは、その男を自分たちの意見の代弁者としている様子である。

 

・その男は「見よ、ツァラトゥストラ。民衆もあなたから学び、あなたの教えを信ずるようになりつつある。しかし民衆をして完全にあなたを信じさせるためには、なお一つのことが必要だ。 ――あなたはまずわれわれ不具者にあなたを信ずる心を起こさせなければならない。ここには不具者が立派にそろっている。まことにここであなたがもつことのできる機会は、前髪もうしろ髪ももっている。盲者を癒やすのも、足萎えを歩かせるのも、あなたの選択のままだ。また背中に余分なものを背負っている者からも、その荷をいくぶん除くこともできるだろう。――それが、不具者をしてツァラトゥストラを信じさせるよい方法だと思う」と提案する。

 

・手塚の脚注にあるように、イエス・キリストは不具者を救って自分の教えを広めていった。「背中に余分なものを背負っている者からも、その荷をいくぶん除くこともできるだろう」は「ツァラトゥストラの序説」におけるツァラトゥストラと超俗の人との対話を思い出させる。ツァラトゥストラは人間たちに自分の知恵を贈るべく、人間たちの住む地域へ向おうとした。その道中でツァラトゥストラは超俗の人(老翁)と出会い、対話をした。「わたしは人間たちに贈り物を与えようとするのだ」と語るツァラトゥストラに対して、超俗の人は「かれら(人間たち)に何ものをも贈るな」「むしろかれらの担っている物を取ってやって、それをかれらとともに担うがいい」と提案していた。


・ツァラトゥストラはその乞食に「もし背にこぶのある者からその背のこぶを取るならば、それはかれの精神を取り去ることになる――これは民衆がわたしに教える知恵だ。盲者に視力を返してやるなら、かれは地上におけるあまりに多くの不愉快なことを見るようになっていかれを癒やしてくれた者を呪うだろう。また足萎えの足を立たせるのは、かれに最大の禍いをくだすことだ。なぜなら、かれが歩き出すやいなや、 かれの悪徳もかれと同行するのだから。――これらが不具者についての民衆の教えである。民衆がツァラトゥストラから学んでいる以上、ツァラトゥストラも民衆から学んでいけないという理由があろうか」と語り、不具者らの提案を拒否した。

 

・続けて、ツァラトゥストラは目や耳や足が欠損しているといったことは問題とするに足りないと語る。ツァラトゥストラが何よりも嫌うのは「一つだけ(一つの大きい目、一つの大きい口、 一つの大きい腹等々)を過度に多量にもっているが、そのほかの一切を欠いている」ような類の人間である。ツァラトゥストラはこの種の人間を「さかしまの不具者」と呼ぶ。

 

・「さかしまの不具者」は原文ではein umgekehrter Krüppelとなっている。「umgekehrter」は「裏返しの」や「さかさまな」などといった意味で、Krüppelは身体障害者という意味である。

 

・ツァラトゥストラが自分の孤独の境涯(境遇)を出て、初めてこの橋を渡ったときに、ツァラトゥストラは巨大な耳を持った一人の人間を見た。この人間はあまりにも耳が大きく、その一方で耳以外の身体部位が余りにも小さすぎるがために、耳以外の身体部位が「細い柄(え)」のようになっていた。民衆はこの人間を「偉大な人間、天才である」と語っていたが、ツァラトゥストラはこの人間を「さかしまの不具者」と判断した。

 

・不具の乞食の群れにそう語ったあと、ツァラトゥストラは弟子たちに長々と教えを説く。弟子たちへの語りはp310からp315にまで続いている。なお、この語りのなかでツァラトゥストラは永劫回帰という思想に迫るような気付きを得ている。

 

・ツァラトゥストラは「わが友人たちよ、わたしは人間たちのあいだを歩いているが、まるで人間たちの断片とばらばらになった手足のあいだを歩いているような気がする」と弟子たちに語るが、ツァラトゥストラは自分のことを「未来の断片としての人間たちのあいだを歩いている者」「一人の予言者」「一人の意欲者」「一人の創造者」「未来そのもの」「未来への橋」「一人の不具者」と表現している。

 

・p311の「そして、断片であり」から始まる段落の文章は原文では「Und das ist all mein Dichten und Trachten, dass ich in Eins dichte und zusammentragen was Bruchstück ist und Räthsel und grauser Zufall.」となっている。これを直訳すると「そして、私の創作と努力の全ては、断片であり、謎であり、恐ろしい偶然であるものを、一つのものへと詩的にまとめあげることだ」などとなる。ニーチェは「Dichten und Trachten, dass ich in Eins dichte...」と記しており、Dichtenとdichteとで諧謔をしたかったのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラは「力への意志」などを提唱し、意志を「過去に存在したものたちを救済するもの」と見なす。ツァラトゥストラにとって意志は解放者であり喜びをもたらすものである。解放者である意志をも鎖につなぐものがある。それは過去である。

つまり、意志そのものには限界がある。意志は、「未来に向けてのもの」であり、過去に対しては無力だからだ。

 

・切歯扼腕(p312):「せっしやくわん」と読む。「悔しさ、怒り、無念さなどの激情によって、歯ぎしりをしたり腕を強く握り締めたりすること」を指す。

 

・時が後戻りしないことは、意志の痛憤(痛切な憤り)である。やがて意志は意志自身と同様の痛憤や不興(不愉快)を感じていないものに復讐をするようになる。ツァラトゥストラによれば、人間社会における刑罰は、意志の持つ「復讐の知性」が生んだものなのだという。仏教やキリスト教において、意欲すること自体や、あらゆる生が刑罰かのように扱われるのも、この復讐の知性によるという。

 

・p313に「雲また雲」とあるが、「ツァラトゥストラの序説」p19でも「森また森」という日本語のフレーズがあった。

 

・復讐の知性は、次々の狂気を生み出した。「一切は過ぎ去る。それゆえに一切は過ぎ去るに値する(から何事も真面目に受けとめる必要はない)」という消極的ニヒリズム的な発想。ギリシャ神話で「時の神」であるクロノスの狂った行動。「世のいっさいのことは、正義と罰とによって道徳的に秩序づけられている。おお、世の事象の流れからの救済、また<生存>という罰からの救済は、どこにもない」という思想。「永遠の正義が存在する以上、救済ということがありえようか。ああ、<かつてそうだった>という大石は、押しころがすことのできないものである。だからすべての罰も、永遠に存在せざるをえないものである」という思想。「人間は生存という罰を死ぬまで永遠に受けている。この罰から逃れるには<意欲>を<意欲せぬ>に変わることである」といったショーペンハウアー哲学などなど。

 

・ギリシャ神話で「時の神」であるクロノスは大地母神が「将来、自分は成長した自分の子に殺されるという予言」を知り、妻が出産した5人の子を次々に呑み込んでいったとされる。クロノスはローマ神話では農耕神サトゥルヌスに相当するとされるが、スペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤは本書が執筆される60年ほど前に『我が子を食らうサトゥルヌス』という有名な絵画を描いている。

 

・因みに、「世のいっさいのことは、正義と罰とによって道徳的に秩序づけられている。おお、世の事象の流れからの救済、また<生存>という罰からの救済は、どこにもない」は、ゾロアスターが説いた善悪二元論を連想させる。

 

・だが、ツァラトゥストラが弟子たちに「意志は創造するものだ」と教えたとき、弟子たちは、これらの狂気(おとぎ話)の支配から離れることが出来た。ツァラトゥストラは「いっさいの『かつてそうであった』は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然であるにすぎない、――だが、創造する意志は、ついにそれにたいして、『しかしわたしはそれがそうであったことを欲したのだ』と言うのだ。「創造する意志は、ついにそれにたいして、『しかしわたくしはそれがそうであったことを、今も欲しており、これからも欲するだろう』と言うのだ。しかし、意志はすでにそういうことばを発したであろうか。またそれはいつ言われるだろうか。意志はすでに自分自身の愚かさというくびきから離脱したであろうか。意志はすでに自分自身にたいして、救済する者、喜びをもたらすものとなったであろうか。意志は復讐の精神とあの切歯扼腕のすべてを忘れ去ったであろうか。そして意志に、時との和解、さらにはあらゆる和解よりも高いものを、教えた者があったろうか。意志はすなわち力への意志である。こういう意志はあらゆる和解よりも高いものを欲しなければならぬ」と語る。

 

・続けてツァラトゥストラは「しかし、どうして意志がそれをするようになるだろうか。意志に、過去へさかのぼって意欲することをも教える者は誰だろうか」と語ったが、そう語った瞬間、急に口をつぐんだ。そして、極度の驚愕に襲われたような目となった。

 

・ツァラトゥストラは驚愕の目をみはって弟子たちを見た。その目は矢のように、弟子たちの思いとその思いの底にあるものを射通した(いとおした)。つまり、ツァラトゥストラは永劫回帰につながるような重大な気付きを得たのだ。しかし、ツァラトゥストラは時をおかずにまた高らかに笑い、穏やかな調子に戻って「人々と交わって生きることはむずかしい。なぜなら沈黙していることが非常にむずかしいからだ。ことに多弁な者にはそれがむずかしい」と冗談を言った。

 

・弟子へのツァラトゥストラの言葉に耳を傾けていた「背中のこぶの男」は復讐に関するツァラトゥストラの持論が胸に響いたようで、自分の顔を覆っていた。だが、ツァラトゥストラの笑い声を聞いて「なぜツァラトゥストラはわれわれに、弟子たちに話すのとは違った話し方をするのか」と問うた。

 

・ツァラトゥストラは「それはあやしむに足りない。背にこぶのある者に対しては、こぶのある者らしいことばで語らねばならない」と答えた。その男は「よろしい」と言ったあと、「では弟子たちに語るときは、弟子あつかいをして心を許して語っていいというのだな。だが、なぜツァラトゥストラは、弟子たちに語るとき、違った調子で語るのか――自分自身に語る場合とは?」と述べているが、そう述べた直後に、この章は終わっている。つまり、この章も「2 三様の変化」や前章と同様に、章の最後の文が「ツァラトゥストラはこう語った」ではない。

 

・手塚は、脚注(26)で「背にこぶのある男には、背のこぶを取らないほうがいいと言い、弟子たちには過去を意識せよ、と言う。方向は同じだが、前者はただ嘲笑、後者は熱心な教説で、ひびきが違う。それを(背にこぶのある男が)なじり地味に言う」と解釈している。

 

・確かに、ツァラトゥストラは背中のこぶの男(たち、不具の乞食の群れ)に「もっとも、わたしが人間たちのところに来てから、この種の人間を見るということは、 わたしの経験するごく些細なことにすぎない。『この者には目が一つない、あの者には耳が。そして第三の者には足がない。また舌や鼻や頭を失った者たちもいる』ということは、 問題とするに足りないのだ。わたしはもっと悪いもの、そしてさまざまの嫌悪すべきものを、今までも見てきたし、今も見ている。それらはあまりに嫌悪すべきものなので、わたしはそれらについていちいち語ろうと思わない」と語っている。確かに、「もっと悪いもの、そしてさまざまの嫌悪すべきもの」と言われて好感を抱く不具の乞食は基本的にいないだろう。ただし、ツァラトゥストラは自分のことを「この橋のほとりにいる一人の不具者」(p310)と呼んでもいる。

 

 

 

 

 

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★底本

第二部 p298~306

 

★手塚による要約

強い生の教説者にとって最大の敵は、すべてはむなしいとの虚無感である。それに苦しんだ末、新しい打開の予感を得る。永劫回帰。

 

 

★解説

・この章は「ある予言者」となっているが、原題は「Der Wahrsager」である。ドイツ語のWahrsagerは「予言者」の他に「占い師」という意味もある。なお、ドイツ語のDerは英語のTheに該当するため、「Der Wahrsager」は「あの予言者」や「例の予言者」と訳すほうが正確かもしれない。「ある予言者(或る予言者)」に対応するドイツ語は「Ein Wahrsager」であろう。

 

・この章は、一人の予言者が或る予言を語っているシーンから始まる。その予言を聴いたツァラトゥストラは悲哀の心を抱き、あちこち歩き回るようになる。ツァラトゥストラは三日間、睡眠や飲食を全くしなくなり、憂鬱さのあまり無言となる。

 

・本書の「ツァラトゥストラはこう語った」というタイトルが示しているように、ツァラトゥストラは多弁だが、そのツァラトゥストラが無言になるほど、憂鬱さの度合いは甚だしかった。ツァラトゥストラは遂に深い眠りに落ちた。弟子たちは宿直(とのい)して、ツァラトゥストラが目を覚まし、再び語るようになることを願った。やがて、ツァラトゥストラは目を覚ますが、起きてすぐに「自分が見ていた夢」を思いだし、その夢の内容を語り始める。

 

・宿直(p300):「とのい」とも「しゅくちょく」とも読めるが、「とのい」と読む場合は「夜中、自分自身は寝ないで偉い人のそばにいたり警護をしたりすること」を指す。「しゅくちょく」の場合は「夜中、職場や職場付近に宿泊し、巡回や緊急事態への対応などの業務を行うこと」を指す。

 

・ツァラトゥストラはその夢の意味を解き明かせていなかったが、自身が最も愛している弟子がツァラトゥストラの手を取って、その夢の意味に関する考察を述べる。ツァラトゥストラはその弟子の顔をみつめて幾度か首を横に振りつつ「悪い夢見への償いとして饗宴(宴会)を開こう」と宣言し、この章のストーリーは終わっている。

 

・予言者と預言者は意味が異なる。予言者は予言をする人間を指し、預言者は神などの言葉を預かった人間を指す。この章に登場する予言者は「――そしてわたしは大きい悲哀が人類を襲うのを見た。最善の者たちも、おのれの仕事に疲れた」に始まり、「まことに、われわれはもうあまりにも疲れて、死ぬことさえできない。それでわれわれは目ざめたままで生きつづける――墓穴のままで」に終わる予言を語っている。

 

・手塚の脚注にある通り、p298の「一切はむなしい。一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ」は旧約聖書「伝道の書」第1~2章が元になっている。「伝道の書」は「伝道者の書」や「コヘレトの言葉」とも呼ばれる。

 

・「むなしい」は「空しい」とも「虚しい」とも漢字表記される。「伝道の書」第1~2章には「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」や「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず目は見飽きることなく耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」や「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ」などと虚無感の漂う記述が散見される。

 

・予言者が語る予言も「すべての仕事はむだ骨折りだった」など虚無感の漂う内容となっている。p299の「われわれの酒は毒物になった」は「伝道の書」第2章の「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。大規模にことを起こし多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせさまざまの果樹を植えさせた」を踏まえている。

 

・p299に「ああ、われわれが溺れ死ぬことができるような海は、どこに残っているのだ」とあるが、p304の「溺れ死ぬことができる海」は、p299にあるこの嘆きの声を指している。海は巨大であり、海産物などで人類に大きな恩恵を与えることもあれば、津波や海難事故などで人類に大きな損害を与えることもある。「溺れ死ぬことができるような海」は「溺れ死ぬに値するほど有意義なもの」と言い換えられ、「われわれが溺れ死ぬことができるような海は、どこに残っているのだ」は「命をかけるに値するほど有意義なものは、どこに残っているのだ」などと解釈できる。

 

・ツァラトゥストラが、この予言を聴いて憂鬱になり、あちこち歩き回るほど精神的なダメージを受けたのは、元々ツァラトゥストラ自身にも、生(人生)に対する虚無感があったからだろう。ニーチェはニヒリズム(虚無主義)の哲学者として知られる。

 

・憂鬱になり、無言となったツァラトゥストラは夢を見たのち目覚めるが、その夢の内容を宿直(とのい)をしていた弟子たちに語り始める。しかし、ツァラトゥストラ本人も夢の意味を解き明かせていないため、「わたし(ツァラトゥストラ)とともにその夢の意味を解き明かしてくれ」と頼む。

 

・あの予言は「われわれはもうあまりにも疲れて、死ぬことさえできない。それでわれわれは目ざめたままで生きつづける――墓穴のままで」で締めくくられているが、ツァラトゥストラも夢の中で「夜と墓との番人になった」と語る。

 

・p301に「ガラス製の棺」とあるが、「棺」という漢字の部首が「きへん(木偏)」であるように、通常、棺は木製である。つまり、ツァラトゥストラはガラスの透明さ(透明性の高いガラスは確かに存在自体を視認できない場合が多い)を念頭に置いて「ガラス製」と述べている。「39 学者」のp279にも「ガラス製の手袋」というフレーズがあり、手塚は「人(他人)からは手袋をはめているようには見えない」と脚注していた。

 

・p301に「自分の魂に風を入れる」とあるが、「伝道の書」第2章にも「わたしは生きることを厭う。太陽の下に起こることは何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」とある。また、キリスト教において風は魂のメタファーでもある。

 

・きしむ(p301):「板などが互いに、こすれて音を立てる」という意味。「軋む」とも表記される。

 

・p301の「いちばんきしむ門」とあるが、夜と墓との番人になったツァラトゥストラには「死の静寂」という最悪の女友達がいる。「いちばんきしむ」と「静寂」は対照的なように思われる。

 

・手塚は脚注(11)で、p301の「怒りに駆られた鳥の叫びに似た響き」をどう解釈すべきかについて述べている。手塚はナウマンによる解釈を引用しているが、本書の「凡例」のページにも「ナウマンについては、本書の訳注のなかで、一、二度言及した」と記されている。

 

・ナウマン(C. G. Naumann)は、ドイツのライプツィッヒで出版社を経営していた人物であり、ニーチェと親交があった。ナウマンが経営していた出版社はナウマン社と呼ばれる。ニーチェが本書の第四部を発表した数年後に執筆した『道徳の系譜』の初版もナウマン社から出ている。

 

・アルパは原文ではAlpaとなっている。確かにアルファ(Alpha)に似ている。聖書には「私はアルファにしてオメガである(I am the Alpha and the Omega)」といったフレーズが登場する。

 

・p302の第四段落に「一陣の強烈な風が来て、門の扉をそっと押しあけた。風は、けたたましい音とともに一つの黒い棺をわたしにむかって投げつけた」とあるが、これは「自分の魂に風を入れる」との対比になっているように感じられる。「黒い棺」も透明なガラス製の棺との対比ではないだろうか。

 

・余談だが、世間では「扉のノックは何回するのがマナーなのか」がよく議論される。この章を読んだ限りでは、ニーチェは「ノックは3回するものである」と考えていたようである。

 

・黒い棺は激しく鋭い音と共に裂け、千様の哄笑(小児、天使、フクロウ、道化、小児ほどもある蝶など)がツァラトゥストラに向かって殺到した。ツァラトゥストラは驚愕し、かつてないほどの恐怖の叫びをあげた。夢で叫んでいたツァラトゥストラは目を覚ます。

 

・ツァラトゥストラは夢の内容を語った後、沈黙した。すると、自身が最も愛している弟子がツァラトゥストラの手を取って、その夢の意味に関する考察を述べた。この弟子は、「死の城の門を押しあけた風」や「千様の哄笑」をツァラトゥストラ自身と解釈する。

 

・「ツァラトゥストラがいったん失神するも、その後、覚醒したことは、夜と墓との番人たちに対するツァラトゥストラの優越を立証している」と考えた弟子は、「たとえ長いたそがれと死の倦怠(けんたい)が来るにしても、あなた(ツァラトゥストラ)はけっしてわれわれの空から没することはないだろう、生の弁護者であるあなたよ」や「あなたはあなたの敵たちそのものを夢みたのだ。それはあなたの最も苦しい夢であったのだ。しかし、あなたが目をさましてあなたの敵たちの支配から離れ、あなた自身に帰ったように、あなたの敵たちも目をさまして自分自身の支配を脱し――あなたのもとに駆けつけるだろう」と語る。

 

・考察を述べた弟子だけではなく、それ以外の弟子たちもツァラトゥストラを取り囲んで、ツァラトゥストラの手を取り、「病床と悲哀を捨てて、自分たちのもとに帰ってくること」をツァラトゥストラにすすめた。ツァラトゥストラは長い異郷の旅から帰ってきた者のように、弟子たちの顔をしげしげと(じっと)眺めた。

 

・最終的にツァラトゥストラはひげをなでて、力強い声で「悪い夢見への償いとして、すぐに良い饗宴を開こう」と宣言するが、夢の解釈を述べた弟子の顔をいつまでも見つめており、幾度か首を横に振っている。ツァラトゥストラは弟子が述べた解釈に或る程度、納得してはいるものの、まだ夢の意味を完全には理解できていないと感じている様子である。

 

・通常、本書の章は「ツァラトゥストラはこう語った。」で結ばれているが、この章の最後の文章は「ツァラトゥストラはこう語った。それから、夢解き役をつとめたあの弟子の顔をいつまでも見つめていた、いくどか頭を振りながら――」となっている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p290~298

 

★手塚による要約

永劫回帰の思想は熟しつつあるが、ここでは革命家の根底を探り、大事件は喧噪からではなく、静かな時間のうちに生まれると説く。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは至福の島々に滞在しており、その島々から遠くはない或る島に火山がある。民衆、特に民衆のなかの老婆たち曰く、その火山は冥界(めいかい)の門の前にあるのだという。

 

・冥界は「死後の世界」という意味の名詞である。原文ではUnterweltという女性名詞が用いられている。ドイツ語のUnterweltには「冥界、冥土(めいど)、暗黒街」といった意味がある。

 

・本書の各章は、「5 肉体の軽蔑者」などのようにツァラトゥストラの語りだけで構成されていることもあるが、「ツァラトゥストラが語っている部分」と、「ツァラトゥストラなどのキャラクターが何らかの行為をしてストーリーが展開されている部分」の両方がある章もある。この章は、後者の典型だが、ストーリー展開の部分の文字量がかなり多い。第一部で、ここまでストーリー展開の部分の文字量が多い章は「ツァラトゥストラの序説」ぐらいではないだろうか。

 

・p290に<しかし、正午近く船長と船員がふたたび集合したとき、突然かれらは一人の男が空中をかれらを目ざしてやってくるのを見た。>という文がある。「突然かれらは一人の男が空中をかれらを目ざしてやってくるのを見た」は文法的に破綻していると感じたため、原文の該当箇所を確認したところ、「sahen sie plötzlich durch die Luft einen Mann auf sich zukommen」とあった。

 

・「sahen sie plötzlich durch die Luft einen Mann auf sich zukommen」は直訳すると「突然、彼らは一人の男が空中を通って(空を飛んで)彼らのほうに近づいてくるのを見た」などとなる。「durch die Luft」は英語であればthrough the airといった表現になるだろうか。いずれにせよ手塚もp296で「空中を飛んで行った人物」という和訳を行っている。

 

・ツァラトゥストラが至福の島々に足をとめていた時期の或る日、一艘(いっそう)の船が、火山のあるその島に錨をおろした。船員たちは兎狩りをするために上陸したが、正午ごろ船長と船員がふたたび集合したとき、突然、彼らは一人の男が空を飛んで彼らのほうに近づいてくるのを見た。その男は、はっきりと「その時は来た。今こそその時である」と言っていたが、その姿は彼らの間近に来ると影のように飛び過ぎて火山の或る方向へ去っていった。

 

・船員たちは皆ツァラトゥストラを見たことがあり、ツァラトゥストラのことを知っていた。それゆえ、船員たちは、その男がツァラトゥストラであることを認めて驚愕した。p291に「かれら(船員たち)はかれ(ツァラトゥストラ)を民衆と同じ愛しかたで、愛していた。つまり愛と畏れとがあい半ばする愛しかたで」とあるが、ここでいう「民衆」は「ツァラトゥストラの序説」で、ツァラトゥストラが末人に関して語っているのを聞いて歓呼し舌を鳴らしていたような群衆と異なるのかもしれない。

 

・船員たちの一人である老いた舵手はツァラトゥストラの姿を見て「ツァラトゥストラが地獄へ渡って行く」と語ったが、船員たちは、この島の火山が冥界の門の前にあるという話を知っている様子である。

 

・船員たちが火の島(火山のあるその島)にとどまっていたその時刻に、ツァラトゥストラの行方がわからなくなったという噂が広まった。人々がツァラトゥストラの友人たちに聞き合わせる(いろいろ質問して状況や真偽について詳しく確かめる)と「彼は夜、行く先を告げずに船で旅に出た」という。

 

・臆説(p291):「おくせつ」と読む。「事実でなく推測や仮定に基づく意見」や「仮説」といった意味である。

 

・三日後、あの船員たちからの話が伝わって、民衆たちは悪魔がツァラトゥストラをさらったのだと言い合った。弟子たちはその臆説を笑い、弟子たちの一人は「むしろツァラトゥストラが悪魔をさらって行ったと思いたい」と言いさえした。しかし、弟子たちは、心の底ではツァラトゥストを心配し、ツァラトゥストラへの慕情を強くした。それゆえ、五日目にツァラトゥストラが再び姿を現わしたとき、弟子たちの喜びは大きかった。
 

・ツァラトゥストラによれば、大地は皮膚を持っており、この皮膚は「人間」や「火の犬」といった様々な病気におかされている。ツァラトゥストラは姿を消していた間、火の犬たちに関する秘密を究明するために火の犬がいる所へ行き、火の犬と対話をしていた。対話をしていた場面における出来事は、p291の「大地は皮膚を持っている」からp296の冒頭までの箇所に記されている。

 

・火の犬がいる所へ行ったツァラトゥストラは、赤裸の真実を知り、火の犬や「爆発と転覆の悪魔(転覆と爆発の悪魔)」がどういったものなのかも知った。p292に「まことに、それらのものを恐れているのは老婆だけではないのだ」とあるが、原文では「vor denen sich nicht nur alte Weibchen fürchten」であり、この「老婆だけ」は正確には「老婆たちだけ」である。さきほど「民衆、特に民衆のなかの老婆たち曰く、その火山は冥界(めいかい)の門の前にあるのだという」と述べたが、このことを踏まえると、火の犬がいる場所は火の島か「火の島に関連する場所」だと読める。p292に「深みに住む犬」とあることから、ツァラトゥストラたちが火山の内部で対話をしていたようにも思われる。

 

・手塚の脚注にあるように、火の犬は「地獄の番犬に喩えられた暴力的革命家」のメタファーである。ギリシャ神話によると、冥界にはハデスという冥界の王がいる。ハデスはケルベロスという地獄の番犬を飼っているとされる。ツァラトゥストラは、火の犬に対して「出て来い、火の犬よ、おまえの深みから」と叫び、火の犬に対して長々と語り始める。

 

・p292に「おまえが噴き出している濛気」とあるが、名詞「濛気」は「12 新しい偶像」にも登場していた。この章でツァラトゥストラは「国家は偽善の犬だ」(p294)と語っているが、「12 新しい偶像」でも「かれ(国家)における一切は贋物(にせもの)である。盗んだ歯で噛みつく、この噛み犬は。その臓腑(内臓)さえ贋物である」と痛罵していた。

 

・ツァラトゥストラが火の犬に語り始めてすぐの箇所に「塩(食塩)っぽい多弁」(p292)とある。海水には塩が含まれているが、塩害という言葉があるように、塩は大地の土壌を侵食しうる物質である。つまり、ここでいう「塩」には、大地と対になる概念である「海」に属するものというニュアンスがある。

 

・ツァラトゥストラは火の犬を「大地の腹話術師」と形容する。腹話術師は、実際には自分が喋っているのに、あたかも自分が操っている人形等がその言葉を喋っているかのような手品を行う。

 

・ツァラトゥストラは「おまえたちがいると、そのほとりには、かならず泥がある。また多くの海綿状のもの、穴だらけのもの、つめこまれ押しこめられたものがある。そういう道具立てがなくてはならない。それらが自由の天国へ出たがっているのだ。『自由』と、おまえたちはいつもほえ立てる。だがわたしは『大いなる事件』と言われるものを本気に受け取る気持をなくしてしまうのだ、多くの咆哮(ほうこう)と煙とがその事件を取りまくのを見るやいなや」と火の犬に語っているが、この章全体を読むと「大いなる事件」は「ツァラトゥストラが空を飛んで船員たちのほうに近づいてきた」という事件を指しているように読める。ところが、ツァラトゥストラが「火の犬」と対話しているとき、ツァラトゥストラは「自分の姿が空を飛んで船員たちのほうに近づいてきた」という事件を知らなかったはずである。これは時系列における矛盾なのだろうか。

 

・なお、ツァラトゥストラは火の犬を酷評する一方で「わたしの言うことを信ずるがいい、わたしの友、地獄の喧噪(けんそう)よ。最も大いなる事件というのは、われわれのもつ最も騒がしい時間ではなくて、最も静かな時間なのだ。世界の回転の軸となるのは、新しい喧噪の発明者たちではない、新しい価値の発明者たちである。世界は音もなく回転する」と語っており、自分の友とも感じているようである。

 

・続けて、ツァラトゥストラは「そして、率直に認めるがいい。おまえの喧噪と煙とがひくと、あとにはいつもほとんど何事も行なわれてはいないのだ。一つの都市がミイラとなり、一つの柱像が倒れて泥まみれになったからといって、それに何の意味があるだろう。そしてわたしは、柱像の転覆者たちに、さらにこう告げたい。海のなかへ塩を投げ入れ、 柱像を泥に投げこむのは、およそ最大の愚行であると。それらの柱像は、おまえたちの軽蔑という泥土にまみれて横たわったのだ。しかし、そういう軽蔑のなかから柱像の生命と生き生きした美がよみがえるのは、まさに柱像の法則なのだ」と語る。確かに文化大革命では、若き革命家たちによって多くの文化財が破壊されたが、文化大革命の波が過ぎると、それらの文化財の多くは再評価されるようになった。

 

・p294に「国王や教会、そして年齢と徳の衰えのいちじるしいすべてのもの」とあるが、王制やキリスト教会は、ニーチェが生きていた時代には既に「年齢と徳の衰えが顕著なもの」とされていた。だが、21世紀現在も多くの国で王制が維持され、キリスト教会の影響力は依然として大きい。また、国際世論において王制やキリスト教会への印象は必ずしも悪いものばかりではない。「おまえ(暴力的革命家)の喧噪と煙とがひくと、あとにはいつもほとんど何事も行なわれてはいない」というツァラトゥストラの言葉は重い。

 

・火の犬はツァラトゥストラに「教会?教会とはいったい何か」と問う。ツァラトゥストラは「教会は一種の国家だ、しかも最もいつわりに満ちた国家だ」と返答する。そして、ツァラトゥストラは教会を「おまえ(暴力的革命家)の同類」と呼ぶが、p295で述べられているように、ツァラトゥストラ自身も或る意味では火の犬であると、ツァラトゥストラは考えている。

 

・「国家は、あくまで地上の最も重要な生き物であろうとする。そして人々も、国家はそうであると信ずるのだ」というツァラトゥストラの言葉を聞いて、火の犬は嫉妬のあまり「なに?」「地上の最も重要な生き物というのか?そして人々も国家がそうであると信ずるのか」と叫ぶ。火の犬が嫉妬の感情に襲われたのは、「暴力的革命家はしばしば国家に反逆するが、ツァラトゥストラの口から『国家は地上の最も重要な生き物であろうとするし、人々も国家は地上の最も重要な生き物と信ずる』と知ったから」であろう。

 

・火の犬は憤怒と嫉妬で窒息しそうなくらい物狂おしい身振りをしていたが、やがて幾分か静かになった。ツァラトゥストラは笑って火の犬に「ツァラトゥストラ自身も或る意味では火の犬であること」や「大地の心臓」について語り出す。

 

・衷心(p295):「ちゅうしん」と読む。「まごころ」や「本心」という意味。

 

・岩漿(p295):「がんしょう」と読む。「地球内部で岩石がどろどろに融けた高温の物質」を指し、英語ではマグマ(magma)という。

 

・火の犬との対話でツァラトゥストラは「大地には皮膚がある」と述べていたが、「ツァラトゥストラ自身のような火の犬は、大地の心臓(皮膚のような表層的な部位ではなく、生死に直結するような重要な部位)から語っている」と説く。

 

・「かれの息は黄金を吐く。黄金の雨をしたたらせる。かれの衷心がそれを欲するのだ。 かれにとって、灰、煙、燃える岩漿などが、いまさら何の意味をもとう。笑いが、かれの口から五彩の雲のようにこぼれ出る。かれはおまえの喉の雑音や臓腑の憤怒などから顔をそむける。それに反して黄金と笑いを、かれは大地の心臓から汲み取る。おまえもよく知るがよい ―――大地の心臓は黄金でできているのだ」とツァラトゥストラは犬に語っているが、さきほどツァラトゥストラは「憤怒し、嫉妬していた火の犬」に笑っていた。

 

・五彩の雲とあるが、五彩(ごさい)は「青・黄・赤・白・黒の五つの色」もしくは「様々な種類の色」という意味である。原文では「ein buntes Gewölke」となっている。「ein」は「一つの」だが、和訳する際はあえて訳されないことが多い。「buntes Gewölke」は「色とりどりの雲の群れや塊」である。よって「ein buntes Gewölke」を直訳すると「色とりどりの雲の群れ」や「色とりどりの雲の塊」などとなる。

 

・ツァラトゥストラは、第一部で黄金という言葉を多用している。「ツァラトゥストラの序説」における「黄金のことば」や「22 自由な死」における「黄金のまり」はその代表例である。「23 贈り与える徳」でも黄金は「つねに自分自身を贈り与える」と説かれている。「16 千の目標と一つの目標」でも述べたように、ニーチェは「ゾロアスター(ドイツ語読みではツァラトゥストラ)は『金の星』を意味するという説」を信じていた。


・ツァラトゥストラの言葉を聞いた火の犬はそれ以上ツァラトゥストラの言葉に耳を傾けるだけの気力を無くした。火の犬は恥じ入って尾を巻き、低い声で一声、二声ほえ、そして自分の洞穴に潜り込んでいった。この洞穴は冥界の門なのかもしれないし、冥界の門への細い道なのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラは弟子たちに対話の内容を語ったが、弟子たちは船員たちの件をツァラトゥストラに話したいという気持ちが強すぎて、対話の内容をほとんど聞いていなかった。ツァラトゥストラは「それをわたしはどう考えたらいいのか」「ではわたしは幽霊なのか。だが、それはわたしの影だったのだろう。君たちはおそらく漂泊者とその影について、何事かを聞いたことがあるだろう。しかしこれだけは確かだ。わたしはかれ(空中を漂っていたツァラトゥストラの姿)を縛っておかなくてはならない。――そうでなければ、かれ(空中を漂っていたツァラトゥストラの姿)はなおもわたしの名声を傷つけるだろう」と言ったあと、もう一度、首を横に振って「わたしはそれをどう考えたらいいのか」と重ねて言った。

 

・漂泊者は「水や空気の流れに漂っている人」という意味で、ここでは「空中を漂っていたツァラトゥストラの姿」を指しているのだろう。手塚の脚注によれば、「漂泊者とその影」は、ツァラトゥストラが「15 友」で「自分のような隠栖者が長い間ひとりでいると人格が二つになってくる」と語っていたことを踏まえている。

 

・最後にツァラトゥストラが「なぜその幽霊は叫んだのか。今がその時だ、いよいよその時が来た、と。いったい何をするための――時が来たというのか」と語ったあと、定型句「ツァラトゥストラはこう言った」を以て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

 

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★底本

第二部 p282~289

 

★手塚による要約

ツァラトゥストラも詩人であるだけに、詩人の弱点を痛感する。それにゲーテがどうも気にかかる。明日を担う本質的な詩人たれ。

 

 

★解説

・この章は、「ツァラトゥストラの弟子の一人と、ツァラトゥストラが対話をする前半部」と「弟子とツァラトゥストラの二人の沈黙のあとツァラトゥストラが独り持論を語っている後半部」に分けられる。前半部にせよ、後半部にせよ、語られている内容のテーマは主に詩人である。

 

・本書では今まで複数の箇所でツァラトゥストラの弟子たちが登場してきた。これらの箇所において、ツァラトゥストラの弟子は「弟子たち」という集団単位で描写されることが多かった。しかし、この章では弟子たちのなかの一人がツァラトゥストラと対話をしており、「弟子の一人」という個人単位で描写されている。

 

・この章の冒頭で、ツァラトゥストラは今まで自分が語っていた内容の断片を弟子の一人に語る。弟子は「第二部の『25 至福の島々で』の際も、あなた(ツァラトゥストラ)がそう言ったのをわたしは聞いた。そのとき、あなたは『しかし詩人は嘘をつきすぎる』と言い添えた。なぜ、そう言い添えたのか」とツァラトゥストラに質問する。

 

・ツァラトゥストラは「なぜ、と問うのか、君は」「ある種の人間にたいしては、君たちは、なぜ、という問いをかけてはならぬ。わたしはそういう人間の一人だ。わたしの体験は、きのうきょうのことだろうか。わたしがわたしの意見の根拠となることを体験したのは、久しい前のことだった。もしわたしがそういう数々の根拠を覚えておこうとしたら、わたしは記憶の樽とならざるをえないではないか」と返答する。このように、ツァラトゥストラは自分のことを「人間」と考えている。

 

・鳩舎(p283):「きゅうしゃ」と読む。「ハト小屋」という意味で、原語ではTaubenschlageとなっている。分かりやすく言えば「鳩などの小さい鳥を飼っておくための小屋」のことである。

 

・「鳥を飼う小屋」を指す日本語の名詞としては「鳥小屋」を思い浮かべる方もいるかもしれない。しかし、「鳥小屋」は「主に鶏などを飼っておくための小屋」すなわち「鶏舎」という意味で用いられることが多いので注意が必要である。

 

・ツァラトゥストラは「意見」を鳥に喩える。「時にはわたしの鳩舎のなかに、よそから飛んできた見慣れぬ鳥を見いだすこともある」は、手塚の脚注にあるように「自分の思考回路のなかに他者の思想や意見が混ざりこんでいることもある」という意味である。

 

・手塚の脚注(6)~(8)の箇所からは、ツァラトゥストラのメタ認知能力の高さが窺える。メタ認知能力とは「自分や他人の認知を更に一段上から俯瞰して認知する能力」である。第一部で最後の章である「23 贈り与える徳」でも、ツァラトゥストラが自分のこれまでの言動が本当に正しいのかを自ら疑って弟子たちに「かれ(ツァラトゥストラ)は君たちを欺いたかもしれない」と告げるシーンがある。このように、本書でツァラトゥストラは持論を語る一方で「持論を語っている自分自身」についても思索したり語ったりしている。

 

・ツァラトゥストラに「かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は嘘をつきすぎると語ったのか。――だがツァラトゥストラも詩人の一人だ。 さて君は、ツァラトゥストラがこのことについて真実を語ったと思うか。なぜ君はそう思うのだ」と問われた弟子は「わたしはファラトゥストラを信ずる」と答える。しかし、ツァラトゥストラは、微笑して頭を振り、「信ずるという君の態度は、わたしに喜びを与えない」「ことにわたしを信ずるということは。 だが、だれかが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったとしたら、そのことばは当たっている。 われわれは嘘をつきすぎるのだ」と語る。

 

・「だれかが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったとしたら、そのことばは当たっている」という箇所を読み、個人的には、「ツァラトゥストラは本書で色々な意見を述べているが、ツァラトゥストラは『自分がその意見を見出したのだ』ということよりも、その意見の内容を重視しているようだ」と感じた。もしもツァラトゥストラが「自分がその意見を見出したのだ」という意識の強い人間であったならば、「わたしは記憶の樽ではないが、かつて、わたしが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったのは確かである」などと真顔で語っていたのではないだろうか。

 

・なお、p283の「しかしツァラトゥストラは、微笑して頭を振った」は、原文では「Aber Zarathustra schüttelte den Kopf und lächelte.」となっている。「頭を振った」は「首を横に振った」という意味である。

 

・ツァラトゥストラは「信ずるという君の態度は、わたしに喜びを与えない」と返答しているが、「23 贈り与える徳」でもツァラトゥストラは「信じることはつまらない」や「君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう」と語っている。

 

・ツァラトゥストラは「われわれは、知ることがあまりに少ない、そして学ぶことも下手だ。それでわれわれはすぐ嘘を言わなければならないはめになるのだ。われわれ詩人のうち、酒の偽造をしなかった者があろうか。われわれの酒蔵では、たびたび有害な混ぜ合わせが行なわれ、あまたの名状しがたいことが行なわれた」などと詩人たちの欠点を語り始める。「われわれ詩人」とあるように、ツァラトゥストラは自分のことを詩人だと考えている。本書は、小説でもあり、哲学書でもあり、散文詩でもある。つまり、本書を執筆したニーチェも詩人である。

 

・この章における手塚の要約に「ツァラトゥストラも詩人であるだけに、詩人の弱点を痛感する」とあるが、「弱点」よりかは「欠点」のほうが分かりやすいだろう。

 

・この章において、ツァラトゥストラはゲーテの『ファウスト 第二部』の台詞をもじった表現を多用しているが、p284~285ではシェイクスピアの『ハムレット』の有名台詞をもじった表現が登場している。この有名台詞は第一幕の第五場にあり、原文を引用するならば「There are more things in Heaven and Earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.」となる。

 

・この「your philosophy」の「your」は一般論のyouなので、「あなたの哲学」ではなく「例の哲学」や「人の哲学」や「人間の哲学」などと訳すのが適切である。シェイクスピアの原文を直訳すれば「ホレーショよ、天地には、人間の哲学で夢見られる物事よりも多くの物事が存在するのだ」などとなる。つまり、手塚の脚注にある「ホレーショ、この天地の間には、われわれの哲学には思いも及ばぬ多くのことがあるものだ」は意訳と考えられる。

 

・なお、本書のドイツ語を手塚が訳した箇所で「ああ、天と地との間には」(p284)となっているのは、直訳と判断して問題ない。というのも、本書の原文では、「Ach, es giebt so viel Dinge zwischen Himmel und Erden, von denen sich nur die Dichter Etwas haben träumen lassen!」となっており、「zwischen Himmel und Erden」は「天と地との間に」という意味だからである。なお、ニーチェの原文を直訳すると、「ああ、天と地との間には、詩人たちだけが夢に見たことのあるような事柄が実に多く存在する」などとなる。

 

・ツァラトゥストラは「とくにすべての詩人の信じていることは、草地やさびしい山腹に寝そべって耳をそばだてていれば、天と地の間にあるもろもろのことについて、いくばくかを知りうるということだ。そして感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然がかれらに惚れこんだのだと。つまり、自然がかれらの耳もとに忍びよって、秘密な事柄や恋慕のことばをささやくのだ、と思いこむ。そしてそれを万人にむかって誇るのだ」と語っているが、確かに洋の東西を問わず、詩人は、草地やさびしい山腹といった自然に親しみ、自然を題材にした詩をたくさん紡ぐ傾向があるように見える。

 

・続けてツァラトゥストラは「ああ、天と地との間には、詩人だけが夢に見たと自慢しているようなあまたのことがあるのだ。とくに天の上にそれが多い。つまりあらゆる神々は詩人たちの編み出した比喩であり、密輸品なのだ。まことに、それはわれわれを高みへ引いてゆく――というのは、つまり、雲の国へ引いてゆくのである。その雲の上へわれわれは色さまざまなわれわれのぬけがらを載せて、それに神々とか超人とかいう名を与えるのだ。――つまり、これらの神々とか超人とかは、雲の上に載せることができるほどに軽いのだ。ああ、あっぱれな出来事と見なされようとしているこれらの『不十分なこと』に、なんとわたしは飽き飽きしていることだろう。ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう」と語っている。

 

・「われわれを高みへ引いてゆく」や「あっぱれな出来事と見なされようとしているこれらの『不十分なこと』に」は、『ファウスト 第二部』をもじった表現である。このことを手塚は『ファウスト』の作者であるゲーテへの当てつけと捉えているが、「われわれは色さまざまなわれわれのぬけがらを載せて、それに神々とか超人とかいう名を与える」で「神々とか」ではなく「神々とか超人とか」となっていることが示しているように、ツァラトゥストラは単にゲーテを馬鹿にしているのではなく、ゲーテやツァラトゥストラ自身といった詩人たち全体の欠点を語っている。

 

・忿懣(p285):「ふんまん」と読む。「怒りや不満が胸の中にたまっている状態」という意味であり、「憤懣」と漢字表記されることも多い。

 

・はるかなかなた(p285):「はるかかなた」という意味。

 

・自分も詩人であるツァラトゥストラから「ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう」といった台詞を聴いて弟子は「からかわれた」や「ふざけたことを言われた」と思ったのか、忿懣の思いを抱くが、沈黙する。弟子と同様にツァラトゥストラも沈黙する。ツァラトゥストラの目は遠くへと注がれるように内部へ向けられていたが、やがて吐息をもらし、それから息を深く吸った。そして、<わたしは「今日」と「かつて」の人間だ。しかしわたしのなかには、「 明日」と「明後日」と「いつの日か」に属する、あるものがある。 わたしは古い詩人、また新しい詩人に飽きた。わたしにとってはかれらのすべてが、表皮であり、浅い海である。>と詩人たちについて再び語り始める。

 

・だが、<わたしは「今日」と「かつて」の人間だ。>から始まる箇所で語られているのは、「自分も含めた詩人たち」ではなく「自分(やゲーテ)以外の詩人たち」であるように読める。事実、詩人たちを指す代名詞が「われわれ」から「かれら」に変化している。ツァラトゥストラによれば、「かれら」すなわち「自分(やゲーテ)以外の詩人たち」は十分に深く考え抜いたことがなかった。それゆえ彼らの感情も、真に底の底まで沈んで行ったことがなかったのだという。

 

・p286の「かれらのすべては、自分の池が深く見えるように、それを濁すのである」というツァラトゥストラの指摘は「自分(やゲーテ)以外の詩人たちは、総じて、自分の精神世界が深く見えるように、自分の精神世界を偽造したり誤魔化したりして、自分の精神世界の清らかさを濁す」という意味だろう。

 

・寸足らず(p286):「すんたらず」と読む。「長さ・大きさ・能力・内容が不足している」という意味。

 

・p286の「どこかの古い神の頭」は「『どこかの古い神をかたどった石像』の頭」という意味であろう。また、p286の最後の文である「そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした」は、「殻の硬い貝類のなかには真珠が含まれていることもある。だが、殻の硬い貝類を拾っても、真珠が含まれていることは稀であり、『海水や、もともと貝が生きていたときの分泌液しか入っていない』ということもしばしばである」などといったニュアンスなのだろう。

 

・ツァラトゥストラによれば、詩人たちは虚栄心を持っている。ツァラトゥストラはp287で孔雀や水牛などといった比喩を用いて、そう表現している。ツァラトゥストラにとって、水牛は傲然と海の怒涛(激しく打ち寄せる波)などを見ている動物である。確かに、水牛にとっての「美や海や孔雀の尾」は、豚にとっての真珠みたいなものかもしれない。

 

・孔雀は美しい羽や尾を持ち、しばしば羽をひろげて美をアピールする。ツァラトゥストラは詩人の精神を「孔雀のなかの孔雀」や「虚栄の海」と形容する。虚栄心を持つ詩人は観客すなわち自分の詩の鑑賞者(読者)を欲するが、詩人たちは観客が水牛(のように鈍感で価値判断にたけているとは言いがたい民衆)であったとしても構わず観客を欲してしまう。

 

・さきほど「詩人たち」の代名詞が「われわれ」から「かれら」になっていると述べたが、p287の第一段落を最後に「かれらの」という代名詞は、この章において消えている。

 

・「詩人の精神は水牛であろうと観客を欲してしまう」の直後に、ツァラトゥストラは「しかしこういう精神にわたしは飽きた。そしてわたしは見るのだ、この精神が自分自身に飽き飽きしてくるだろうことを。すでにわたしは見る、詩人たちが変化して、自分自身に目を向けはじめているのを。わたしは精神の懺悔者たちが来るのを見る。それは詩人のなかから生長したのだ」と語っている。

 

・どうやらツァラトゥストラも、かつては水牛だろうと、「自分の詩や、自分が発する諸々の言葉」の鑑賞者を欲していたが、既にそのような精神に飽きたようである。ツァラトゥストラは、詩人が「水牛であろうと観客を欲してしまうような精神」を懺悔し、鑑賞者よりも自分自身に目を向けることを強く望んでいる。「それは詩人のなかから生長したのだ」の直後に、定型句「ツァラトゥストラはこう語った」が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p276~281

 

★手塚による要約

凡庸な学者を口をきわめて攻撃する。ニーチェがアカデミズムの世界を去らねばならなかったことへの個人的憤激がにじんでいる。

 

 

★解説

・ニーチェは20代前半で早くも古典文献学の教授に就任するなど、学問の世界においても優秀だった。だが、ニーチェは30代の半ば頃に教授職を辞しており、それ以後は著述活動に専念した。学者たちの世界に身を置いていたからこそ、学者たちの欠点や醜態などを強く意識していたということが、この章から強く伝わってくる。

 

・きづた(p276):ウコギ科の常緑樹。漢字では「木蔦」と表記する。

 

・ニーチェは教授となった数年後に処女作『悲劇の誕生』を発表した。この処女作でニーチェはギリシア神話のアポロンとディオニュソスに着目し、「アポロン的」と「ディオニュソス的」という対立概念を提唱したが、神話上の設定においてディオニュソスは葡萄、酒杯、シナモン、きづたの冠などと関連づけられている。手塚の脚注にもあるように、p276の「きづたの冠」はディオニュソスひいては『悲劇の誕生』を連想させるものである。

 

・本書でツァラトゥストラというキャラクターを通して持論を語っているニーチェは、自分を酷評した学者を「羊」に喩えている。本書では「羊」が複数の箇所で登場するが、「羊」という名詞は多義的である。名詞「羊」は「従順さ」のシンボルとしても用いられるし、聖書でキリスト教徒のメタファーとしても用いられるが、「紙をよく食う哺乳類」というニュアンスもある。ここでは紙すなわち書物を咀嚼するというニュアンスで「羊」という表現が用いられている。

 

・ツァラトゥストラひいてはニーチェ(以下、単に「ツァラトゥストラ」と表記する)は、あざみ(薊)と赤いけし(芥子)の花や、子供たちにとっては今も自分は学者なのだと主張する。あざみと赤いけしの花や、子供たちはツァラトゥストラにとって無邪気さを代表する存在なのだろう。ツァラトゥストラは、自分が学者たちと決別したことを明言する。

 

・p277でツァラトゥストラは「わたしの魂は、あまりにも長くかれらの食卓につらなっていて、飢えに苦しんだ。わたしは、かれらと違って、胡桃割り(くるみわり)の仕事を目的として認識の訓練を受けたのではない」と述べているが、食卓の比喩は前章でも登場していた。

 

・「35 自己超克」から、この章に至るまでの箇所で、「或る比喩・語句と同じか類似した比喩・語句が、その次の章に登場する」というケースが散見されるが、もしかすると、ニーチェは「35 自己超克」を書いた際に、「私は今ショーペンハウアーの『生存への意志』という概念を批判したが、そういえば『一人の崇高な者』も私は批判しているんだよな。そうだ、『一人の崇高な者』を批判する文章も書こう」と感じて「36 崇高な者たち」の文章を書いたのではないだろうか。

 

・そして、「36 崇高な者たち」を書いた後、ニーチェは「かき集めた教養に寄食する現代の人間たち」も否定したいと感じ、「37 教養の国」を書き、「37 教養の国」で「かき集めた教養に寄食する現代の人間たち」を否定した直後に「(現代の人間たちのなかでも特に)観照の者たち」も批判したいと思い、「38 無垢な認識」を書いたが、更に「かつて自分を酷評した学者たち」も批判したいと思って、ニーチェはこの章を書いたのかもしれない。「35 自己超克」からこの章までの箇所は、全体的にショーペンハウアー哲学について述べられている文章が多いし、この章を読んでも「38 無垢な認識」で登場した「観照」がこの章のp278に登場している。

 

・胡桃(くるみ)は殻が硬く、殻の内部にある実を食べるには、殻を破る作業(胡桃割りの作業)をしなければならない。だが、胡桃の実は味も薫りも良く、紀元前7000年ごろには既に食べられていたほど、古くから人類と関わりの深い植物でもある。ツァラトゥストラは「中身は味わい深いが、翻訳や文献分析という工程をしないと中身をスムーズに味わえない古文書」を「中身は味わい深いが、胡桃割りという工程をしないと中身をスムーズに味わえない胡桃」に喩えている。

 

・p279でもツァラトゥストラは学者たちを粉ひき機械に喩え、「(そのなかに穀物の粒を投げれば)かれらは(学者たちは)すぐその穀物を砕いて、白い粉にすることを心得ている」と語っている。ツァラトゥストラにとって、学者たちは、胡桃を渡されれば胡桃の殻を割って、胡桃の実をすぐに食べられる状態にし、穀物の粒を投げられれば穀物を挽いて穀物を食べやすくするように、加工の作業が上手い人々なのだろう。

 

・ツァラトゥストラは「街路に立っていて、行き来する者を口をあけて見ている者とひとしく、かれらもじっとしたまま、他者が考えた思想を口をあけてながめている。かれらをつかめば、かれらはしかたなしに粉袋のように埃を立てる。しかし、その埃が、もとは夏の畑の産み出した黄金色の歓喜、あの穀物から生じたものであることに、だれが思い及ぶだろう。かれらが賢者ぶるとき、わたしはかれらのみすぼらしい寸言や真理に寒けを感ずる。かれらの知恵には沼から立ちのぼるような臭気のあることがしばしばだ。まことに、かえるの鳴き声も、早くもその臭気に運ばれて聞こえてくる」と学者たちを罵る。漫画『ど根性ガエル』に登場する蛙の可愛いキャラクターやサンリオの「けろっぴ」などが広く親しまれている日本とは対照的に、蛙は西洋においてグロテスクで不気味な両生類とされる。「かえるの鳴き声」が不気味な音というニュアンスで扱われているのは、そのことが影響している。

 

・「かれらは熟練しており、器用な指をもっている。その複雑さに比べたら、わたしの単純さに何ができよう。かれらの指は、糸のあつかい方、結び方、編み方をすっかり心得ている。こうしてかれらは精神製の靴下を編み上げるのだ」と、ツァラトゥストラは学者たちの器用さを指摘し、自分(ツァラトゥストラ)の単純さとは対照的だと語る。器用さは世間一般で良い言葉で用いられることが多く、単純さは「シンプルさ」というニュアンスであれば兎も角、どちらかと言えば「思慮分別が乏しい」といった悪いニュアンスで用いられることが多い言葉である。「自分は単純だが、自分が非難している相手は複雑で器用だ」という主張は、前章における「自分の言葉は姿が悪く卑しいが、相手の言葉は高貴だ」という主張に似ている。

 

・骰子(p279):「さいころ」という意味。「さい」と読む。「賽」と漢字表記されることもある。

 

・ツァラトゥストラはp279で「わたしとかれらとは互いに異邦人だ。かれらの徳は、かれらの虚偽といかさまの骰子以上に、わたしの趣味に反するのだ」と語る。だが、「かれらはわたしの足音をかれらの耳から遠ざけた。こうしてわたしは今まで最もすぐれた学者たちから耳をかたむけられることが、最も少なかったのである」とも語っており、ツァラトゥストラは最もすぐれた学者たちには肯定的なようにも思われる。ツァラトゥストラは全ての学者たちに否定的なのではなく、虚偽やいかさまばかりの学者たちに否定的ということなのだろう。

 

・「ツァラトゥストラはこう語った。」という定型句の直前にツァラトゥストラは<かれらはかれらとわたしとの間に、人間すべての過誤と弱点とを置いた。――それをかれらの家における「防音板」と称した。しかもわたしは今もわたしの生きた思想をいだいて、かれらの頭上を歩んでいる。たとえわたしがわたし自身の過ちを履き物にして歩くことがあっても、それでもわたしがかれらの頭上を歩いていることには変わりがない。なぜなら人間は平等ではないからだ。公正はそう語る。かれらは、わたしの欲することを欲する資格をもたないのだ>と述べている。<かれらはかれらとわたしとの間に、人間すべての過誤と弱点とを置いた。――それをかれらの家における「防音板」と称した>は「かれらがわたしの存在を誤魔化そうとしたことは人間すべての過誤と弱点である」という意味で読めそうだが、手塚によれば、この箇所は「たとえわたしの説くことに、時には過ちがあっても、自分がかれらより高い位置において思索している事実は、動かすことができない」という意味なのだという。

 

・「なぜなら人間は平等ではないからだ。公正はそう語る」からは、「30 毒ぐも」でも述べられていた「人間は平等になるべきでもない」というツァラトゥストラの価値観が窺える。

 

 

 

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