★底本
第一部 p124~129
★手塚による要約
各民族はそれぞれ独自の目標、価値観を立てて生存を戦いとってきた。だがいまや人類的に一つの価値観をもつ時が来たのではないか。
★解説
・冒頭に「どんなに多くの国と多くの民族をツァラトゥストラは見てきたことだろう」とあるが、この章では主に民族について言及されており、国家に関する言及は殆どない。
・「ツァラトゥストラは地上において、善と悪以上に大きい力をもつものを見いださなかった」は善悪二元論を唱えたゾロアスター教の始祖ゾロアスター(ツァラトゥストラ)らしい一文である。p124の第二段落の「評価」は「何を善や悪と評価するのか」という意味で捉えると分かりやすい。
・異なる文化を比較していくと、個別性と普遍性の両方が見えてくる。前者は或る文化圏から別の文化圏へ移り住んだ人にカルチャーショックをもたらすものなどが該当し、後者は感謝や結婚など(どの文化圏でも感謝を表す言葉は存在するはずだし、父系や母系等の違いはあっても大半の文化圏には結婚という制度が存在するはずである)といった「世界中のどんな文化圏でも広くみられる価値観やシステム」が該当する。この章で、ツァラトゥストラは個別性に重きを置いている。
・ツァラトゥストラによれば、あらゆる民族の頭上には、善についてのそれぞれの表が掲げられている。それは「その民族が克服してきたものの表」であり、「その民族の力への意志が発した声」であるという。
・ツァラトゥストラは「まことに、人間はおのれの奉ずる善と悪との一切を、おのれの手でおのれ自身に与えたのである」と説く。具体例として、ギリシャ人、古代ペルシャ人、ユダヤ人、古ゲルマン人が列挙されている。
・ゾロアスターは古代ペルシャ人である。19世紀後半、「ゾロアスター(ドイツ語読みではツァラトゥストラ)は『金の星』を意味する」という説があり、現在その説は疑問視されているが、1883年4月にニーチェがペーター・ガストへ送った手紙に<ツァラトゥストラは「金の星」という意味です。たまたま今日このことを知って私は甚だ嬉しく感じました。この語源に基づいて拙作の着想が得られたと思う人もいるかもしれませんが、今日に至るまで私はこのことを全く知りませんでした>とあることから、ニーチェ自身はその説を正しいと認識していたようである。
・p126では「人間」(Der Mensch)すなわち「評価する者」(Der Messende)というダジャレが登場しており、手塚の脚注に「語原的根拠はない」とある。この脚注を見て筆者は高校の化学の授業を思いだした。教科書では「酸化被膜」と書かれている用語を一人の化学教師が「酸化皮膜」と表記していたのである。21世紀の日本語では、語原よりも語源という漢字表記のほうが一般的であり、もし手塚が21世紀の人間であったならば「語源的根拠はない」と記していたように思う。
・ツァラトゥストラは「もろもろの価値の根源は人間である。人間が、おのれを維持するために、それらの価値を諸事物に賦与したのである」と語り、「評価は創造である」や「評価することによって、はじめて価値が生まれる。評価されることがなければ、生存はうつろであろう。このことを耳にとどめよ、君たち創造する者よ」という教えを君たちに説く。
・ツァラトゥストラにとって価値の変動は創造する者たちの変動である。ツァラトゥストラは「はじめは、もろもろ(諸々)の民族が創造者であった。のちになってはじめて個人が創造者となった。個人そのものが最近の所産なのだ」と語っており、これまでツァラトゥストラが民族に重点を置いていた背景には、そういった事情があった。
・「個人そのものが最近の所産なのだ」は手塚の脚注にある通り、「個人という概念自体が近代(ルネサンス)以降に成立したものであるということ」を意味している。つまり、それまでの人間社会は個人単位よりも民族単位で動いていたと言える。
・群居(p127):むらがり住むこと。群れをなしていること。
・やましい(p127):後ろめたい
・p127の「群居を喜びとすること」から始まる段落は、個人(「我」)と集団(群衆など)のコントラストに関連した内容となっている。
・<まことに、私の見るところはこうである。おのれの利益のためという動機から多数者の利益をはかる、狡猾な愛のない「我」は、群居する群衆の起原ではなくて、その没落である>に関しては、ツァラトゥストラも下山のときに没落していたよなと思った。なお、ここで手塚は「起源」ではなく「起原」という漢字表記を採用している。「語原」の箇所と同様、21世紀の日本語では、起原よりも起源という漢字表記のほうが一般的であろう。
・ツァラトゥストラによれば、善と悪を創造した者は、つねに愛をもつ者である。「いっさいの徳の名のうちには、愛の火と怒りの火とが灼熱している」ともいう。徳は善悪と強い繋がりのある名詞であり、「善悪の基準を持つがゆえに、その基準に沿う者への愛と、それに反する者への怒りが湧く」というニュアンスで読むと分かりやすい。
・p128の第一段落の「かれ」は文脈からツァラトゥストラ本人のことであるが、自分のことを「わたし」ではなく「かれ」と呼ぶのは通常の日本語の感覚からは乖離している。この段落でツァラトゥストラはp124の「地上において、善と悪以上に大きい力をもつものを見いださなかった」を「地上において、愛をもつ者たちの行なう事業以上に大きい力をもつものを見なかった。『善』と『悪』とは、その事業の名である」と言い換えている。
・くびき(p128):牛や馬などの大きい家畜と、牛車や馬車や梶棒(かじぼう)や犂(すき)などを繋ぐために用いる木製の棒状器具。転じて、「自由を束縛するもの」という意味。
・この章は、「まことに、これらのさまざまの善および悪を生んだ力は、怪物である。言え、わたしの兄弟たちよ。この怪物を克服しうる者はだれか。この怪物の千の頭にくびきをかけうる者はだれか。千の目標が今までに存在した。千の民族があったからである。ただその千の頭を一体とするくびきが、今もなお欠けているのである。一つの目標が欠けているのだ。人類はまだ目標をもっていない。だが、答えてくれ、わたしの兄弟たちよ。人類にまだ目標が欠けているなら――まだ人類そのものが欠けているのではないか。――」というツァラトゥストラの独白で結ばれている。この締めの文章は「千の目標と一つの目標」という章におけるタイトル回収(「小説やドラマや漫画やアニメなどのタイトルにある言葉の意味が、劇中で明らかになったり、タイトルの文言を登場人物が発言したりする状況」を指すネットスラング)と言えるのかもしれない。
※『ツァラトゥストラはかく語り』解説プロジェクトに関連する記事は全て【記事リスト】でまとめられています。