★底本

第一部 p12~47

 

 

 

★手塚富雄による要約 

1 (p12~14) 長い孤独の末に精神が満ちあふれてきたツァラトゥストラが山を出て人間のなかに下り、太陽のように与える者になろうとする。

 

2 (p14~18) 森のなかで出会った老隠者は、孤独のなかで悠々自適することを勧めるが、ツァラトゥストラは応じない。二人は笑って別れる。

 

3 (p19~24) はじめて「超人」の語を発して、その強烈な生き方を説く。大地に忠実であることが、その中核である。

 

4 (p24~28) 「没落」をあらゆる角度から説く。それは超人の理想への献身で、死して生きよ、という積極的な意味であることがよくわかる。

 

5 (p29~33) 民衆に超人を説いても、その耳にはいらぬから、かれら自身に鏡を突きつけるように「末人」を描写する。現代文明への批評。

 

6 (p34~36) 未来への綱を渡るにも、暴力的、誇示的に、ひとを犠牲にしてそれをする者、また真に自分の意志からするのではない者がいる。

 

7 (p37~38) 人生は一道化師(いちどうけし)によっても運命を左右されるほど他愛(たわい)のない無意味なものである。あくまで超人という意味を教えなくてはならぬ。

 

8 (p38~41) あの道化師は、つまりは俗衆の仲間であった。屍(しかばね)をあつかいながらその価値をあげつらう墓掘り人や善意に自足している老翁がいる。

 

9 (p42~45) 一般民衆を教えようとしたあやまりを悟り、少数の同志、刈入れを共にする者を選んで、おのが新しい創造の福音を伝えようとする。

 

10 (p45~47) ツァラトゥストラは、自分の道が苦難にみちていることを予感しながら出発する。自分に鷲の誇りと蛇の賢さを願いながら。

 

 

 

 

★1 (p12~14)

・手塚富雄が「長い孤独の末に精神が満ちあふれてきたツァラトゥストラが山を出て人間のなかに下り」と書いているように、ツァラトゥストラは身体的特徴こそ人間だが、10年間の隠遁生活を通して人間を超えた存在になっていたのだと読める。ツァラトゥストラ自身もp13にあるように「(今から下山することによって)ツァラトゥストラはふたたび人間になろうとしているのだ」と述べている。

 

・p12の「倦む」は「飽きて、いやになる」という意味。

 

・ツァラトゥストラは30歳から40歳のあいだ山に入って独り洞窟の中で暮らしていた。本書『ツァラトゥストラはかく語りき』の著者ニーチェは1844年に生まれ、1869年にスイスのバーゼル大学の教授となるも、1879年に同大学の教授職を辞している。ニーチェが教授職についていた期間と、ツァラトゥストラが隠遁生活を開始してから下山を決意するまでの期間は、同じく10年ほどである。

 

・太陽に向かって「おまえ」と語り掛けるツァラトゥストラ。読者の皆様の中で「太陽に向かって語り掛ける人(or人のような生物)」を見たことのある方は恐らくいらっしゃらないだろう。この箇所だけでもツァラトゥストラの言動が常人のものから乖離していることが分かる。

 

・ツァラトゥストラは太陽を「偉大な天体」「あふれこぼれる豊かな天体」「やすらかな大いなる目」などと呼び、賛美する。

 

・ツァラトゥストラが太陽を「やすらかな大いなる目」と表現しているのは、太陽のことを「どんなに大きい幸福をも妬みなく眺めることのできる天体」と捉えているためである。

 

・p12~13はツァラトゥストラの台詞文が大部分を占めているが、その台詞文は鍵括弧で閉じられているにも拘らず、随所で改行されている。一般論として改行が多いほうが読者は文章を読み進めやすい。また、原文でも改行がなされているのかもしれない。

 

・台詞文では、太陽が擬人法によって語られている。ツァラトゥストラは太陽を「毎朝この山を立ちのぼって、私の住む洞窟を訪ね、毎晩下りていく天体」と捉えているが、ツァラトゥストラは日没を自身の下山に重ね合わせている。

 

・p13の「けれどもわたしたちは朝ごとにおまえを待ち、おまえの過剰を受けておまえを軽くし、そしてこういう伴侶をもつおまえを祝福した」という文を考察する。「わたし」ではなく「わたしたち」となっているのは、ツァラトゥストラだけではなく、ツァラトゥストラの鷲と蛇を含んでいるから。

「朝ごとに」は「朝が来るたびに」と言い換えれば分かりやすい。「おまえの過剰」は「太陽の過剰な光(と歩み)」という意味か。「こういう伴侶」とは「過剰なまでの光(と歩み)」を暗喩した表現。ツァラトゥストラは太陽を讃え、祝福している。

 

・ツァラトゥストラは自身が所有する過剰な知恵を、太陽が有する過剰なまでに輝かしい光に重ね合わせている。

 

・ツァラトゥストラは下山を決意するが、下山のことを「没落」と表現している。没落は日常生活ではネガティブな語句だが、本書ではポジティブな意味で用いられている。

 

・「あふれこぼれようとするこの杯(さかずき)」とはツァラトゥストラ自身のことであろう。「水が黄金(こがね)の色をたたえて」は日光により水が黄金色となっている様子を指す。また「たたえて」は漢字を用いて表記するなら「湛えて」となるだろうが、「湛える」とは「水などをあふれるほどいっぱいに満たす」という意味の動詞である。水は知恵の暗喩となっている。

 

 

 

 

★2 (p14~18)

・下山(没落)を始めたツァラトゥストラは森林地帯に入って、ようやく一人の老翁(ろうおう。老いた男のこと)と行き会った。手塚の解説は、老翁を老隠者(老いた隠者のこと。中島敦の「名人伝」にも用例あり。旧字体・歴史的仮名遣いのヴァージョンでは老隱者となっている。)と表現している。

 

・老翁の台詞文はp12~13のツァラトゥストラの台詞文と同様に、鍵括弧内でありながら随所で改行がなされている。

 

・老翁の「火」の比喩はツァラトゥストラの別称「ゾロアスター」が拝火教の祖であることに関連している可能性がある。

 

・老翁は既存の価値観に囚われている庶民にオルタナティヴな価値観(別の価値観・新たな価値観)を提示する者を放火者と形容し、ツァラトゥストラに「君は放火者の受ける罰を恐れないのか」と語る。

オルタナティヴな価値観を提示する者は常人から見れば狂人に見えることだろう。中世社会において、狂人は「神の理性に接近しすぎた存在」とみなされており、排除の対象となることは少なかった。しかし、近代化が進むにつれて、狂人は理性の乏しい非生産的な人間とみなされるようになり、迫害を受けるようになっていく。こういった狂気に関する研究はフーコーの『狂気の歴史』に詳しいが、「放火者の受ける罰」という表現には「近代化によって狂気が社会から排除されていった時代背景」が潜んでいるように思われる。

 

・老翁は十年前にツァラトゥストラが山へのぼっていくのを目撃していた。老翁によればツァラトゥストラの目は十年前も今も澄んでいるとのこと。

 

・老翁は「十年前と違ってツァラトゥストラの口のほとりから嫌悪の情が消えている」と指摘する。「口のほとり」は「口もと」「口のあたり」などといった意味。

 

・老翁は「ああ、君は君の身体(からだ)をふたたび引きずって歩くつもりか」と問いかける。つまり、「ツァラトゥストラは10年間の隠遁生活を通して精神的に人間を超えた存在になっているものの、下山しきってしまえば肉体的な意味での人間へ元通りになってしまう」と老翁は指摘している。

 

・老翁は今のツァラトゥストラは舞踏者のようだと感じている。舞踏者はダンサーの意であり、口元に嫌悪の情を示している者がダンサーさながらであるとは考えにくい。舞踏者という表現からも、今のツァラトゥストラに憤りのような感情がないと分かる。

 

・老翁の問いかけにツァラトゥストラは「わたしは人間たちを愛する」と答える。つまり、「自分は人間たちを愛するがために、わざわざ没落しにゆくのだ」とツァラトゥストラは表明している。

 

・それに対して老翁は、自分が俗世を離れ、荒蕪の地(土が荒れて雑草が生い茂っている地のこと。荒蕪は「こうぶ」と読む)で暮らすようになった理由を話す。

 

・老翁はもともと人間を愛していた。余りに人間を愛していたからこそ、普通の人間が多数いる俗世から離れた。

 

・おそらく老翁は俗世で暮らしていた時に、普通の人間の愚かさを強く感じさせる出来事に遭遇したのだろう。このまま俗世に居続ければ、自分の意志がどうであれ、人間は愚劣なのだと認識せざるを得ない。しかし、余りにも人間を愛していた老翁は、人間への愛を失わずに済むよう、あえて普通の人間が暮らしている俗世から距離を取ったのだと考えられる。

 

・だが、やがて老翁は人ではなく神を愛するようになった。「人間は いま わたしから見れば、あまりにも不完全なものである。人間への愛はわたしを滅ぼすであろう」と老翁は語る。「人間への愛はわたしを滅ぼす」という箇所は、隣人愛を唱え、人類を愛してやまなかったイエスがユダヤ人に迫害され、処刑されたという史実を踏まえている。

 

・老翁が神を愛するようになったのは、神の完全性すなわち全知全能性に惹かれたためであろう。神は全てを知ることができ、そして全ての能力を有する。一方の人間は愚かで不完全である。それが、超俗の人すなわち老翁の価値観である。

 

・「わたしは人間たちに贈り物を与えようとするのだ」(p16)の「贈り物」とは知恵のことである。しかし、老翁は「俗世の人間たちは食べ物などといった物品(施し物)ならともかく、ツァラトゥストラの知恵を贈られても歓迎しないだろう。むしろ俗世の人間たちは隠遁者に対して疑い深い」と警告する。

 

・「熊たちのなかの一匹の熊、鳥たちのなかの一羽の鳥に」(p17)の箇所は「人間たちのなかの一人」になるくらいなら、「熊たちのなかの一匹の熊」や「鳥たちのなかの一羽の鳥」になったほうがましというニュアンスであろう。つまり、「俗界の人間たちの一員になるくらいなら自然界の野生動物の一員になったほうがまし」と老翁は考えている。個人的には、熊は「一匹」よりも「一頭」のほうが自然な助数詞ではないかと思う。

 

・老翁は独り歌を作り、独り歌っている。つまり言動が個人主義的である。一方のツァラトゥストラは第四部でも分かるように、言動が自分一人という枠組みに収まっていない。

 

・「あなたがたに与えるようなものを」(p17)の「あなたがた」は「老翁と老翁の神」を指している。

 

・老者(老翁)と壮者(一生のうち最も元気な年頃の者。ツァラトゥストラのこと)は「笑い合う二人の子供」のように笑い合って別れた。老翁とツァラトゥストラは細部の価値観に相違点こそあるものの、隠遁者同士で分かり合える部分もあったがために、笑い合いながら別れることになったのだろう。

 

・ただし、ツァラトゥストラは一人になってから「あの老翁は長らく森で暮らしていたため神が死んだことを何も聞いていないとはなあ」と自分の心に向かって呟いた。「十年間も俗世から離れていた自分ですら神が死んだことを聞いているのに、あの老翁がそのことを何も聞いていないとは、これはありうるようなことなのか」などといったニュアンスでの呟きである。

 

 

 

 

★3 (p19~24)

・p19の「森また森」の「また」は『明鏡国語辞典 第二版』にあるように「同様のものが続くさま」を表す副詞。哲学者フランシス・ベーコンにも『森また森』という著作がある。

 

・森林地帯を通過し、森のほとりの或る町に入ったツァラトゥストラは、その町の市場に多数の民衆が群がっているのを見る。それは一人の綱渡り人の演技が予告されていたからである。ツァラトゥストラは市場の群衆に語り掛けるが、この語り掛けの文章はp19からp23まで続く。

 

・群衆に「あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか」と問いかけるツァラトゥストラ。本書を代表する用語「超人」は「(既存の人間)を乗り超えた人間」という意味で捉えるのが自然かと思われる。

 

・「およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた」の「およそ」は「一般的に」という意味。ツァラトゥストラはダーウィンの影響か「虫<獣類<(猿<)人間」という高低意識(上下意識)を持っているようだ。

 

・人にとって猿が「哄笑の種」「苦痛に満ちた恥辱」であるように、超人にとって人は「哄笑の種」「苦痛に満ちた恥辱」であらねばならないとツァラトゥストラは主張する。哄笑は「その場にいる人々が無遠慮に大きな声で笑うこと」である。

 

・百科事典などで超人について調べると、『デジタル大辞泉』や『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』にあるようにツァラトゥストラ自体を超人の具体像と記述しているものが散見される。ただ、ツァラトゥストラ自身は人間を愛しており、市場の群衆を「哄笑の種」や「苦痛に満ちた恥辱」などのように見なしている訳ではない。

 

・p19~20の「あなたがたの内部にはまだ大量の虫がうごめいている」は「本書が発表された19世紀は寄生虫に苦しむ人が多かったこと」を踏まえている可能性がある。

 

・p20の「今も人間は、どんな猿に くらべても それ以上に猿である」は、「超人からすれば人間は猿よりも遥かに『哄笑の種』であり『苦痛に満ちた恥辱』である」といった意味か。

 

・「天上の希望を説く人々」すなわち「キリスト教の聖職者たち」とは逆にツァラトゥストラは「大地の意義として地上に生きる超人」を説く。ツァラトゥストラによれば「キリスト教の聖職者たち」は生命の侮蔑者であり、死滅しつつある人々である。これは自然科学の発達により、近代社会でキリスト教の影響力が低下し続けていったことを指している。ツァラトゥストラは「滅びゆくかれら(天上の希望を説く人々)を滅びるにまかしておくがいい」とまで言い切っている。

 

・冒涜は「神聖さを有する権威をけがして傷つける」という動詞である。例えば「神を冒涜する」というのは「神の権威をけがして傷つける」という意味になる。

 

・キリスト教の影響力が絶大だった時代(神が死ぬ前の時代)は神を冒涜することが最大の冒涜だったが、キリスト教の影響力が落ちた今の時代では、大地を冒涜することこそが最大の冒涜であるとツァラトゥストラは語る。確かに水上や宇宙船とかで暮らしている者を除けば、人はみな大地の上で暮らしている。(高層ビルで暮らす住人にしても、その高層ビルは大地があってこそ存続できている。)

 

・原理的に探究しえない神の内面を大地の意義よりも崇める(あがめる)行為をツァラトゥストラは最も甚だしい冒涜だと主張する。

 

・「かつては魂が肉体を蔑み(さげすみ)の目で見た」というのはジョン・スチュアート・ミルの「満足した豚よりも不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿よりも不満足なソクラテスであるほうがよい」という格言で知られるソクラテスの思想が反映されているように感じられる。ソクラテスは人間生活における魂の配慮を重視した。また、キリスト教の聖職者にも霊魂を重視し、肉体を軽視する傾向があった。

 

・河流や大海という暗喩は超人という大海が「平俗さを志向してしまう庶民という河流」を包摂するという意味だと読める。

 

・p21の「大いなる軽蔑」とは「群衆自身の持つ幸福・理性・徳・正義・同情を群衆が軽蔑すること」を指す。幸福や理性などを軽蔑し、嘔吐する(捨て去る)ときに、群衆は最大のものを体験することになるとツァラトゥストラは主張する。

 

・ツァラトゥストラは群衆に向けて「あなたがたは小心者であり、罪悪な言動に及ぶときですら吝嗇(少しでもコストを減らそうとする性格)である」と指摘する。

 

・p22の「光焔」とは「光と火焔(炎)」の意。「雷電」とは「雷鳴と雷光」の意。ツァラトゥストラは超人を「雷鳴と雷光のように衝撃的な存在」「群衆に接種されるべき狂気を含んだ存在」と捉えている。

 

・ツァラトゥストラは群衆に超人という概念を教えるために演説を行っていた。しかし、群衆はツァラトゥストラの真剣な語り掛けを綱渡りの前口上に過ぎないと感じた。綱渡り人は綱渡り芸に取り掛かった。

 

 

 

 

★4 (p24~28)

・いぶかる(p24):不審に思う

 

・最初の段落以外は全てツァラトゥストラの台詞文である。

 

・ツァラトゥストラは人間を動物と超人の間にいる存在と捉えている。もっとも、ツァラトゥストラに限った話ではないが、人間(ホモサピエンス)が動物の一種であることを見落としている者は多い。

筆者が小学生のとき「動物は脊椎動物と無脊椎動物に大別される」と知った。脊椎動物は魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類と分類され、ホモサピエンスは哺乳類なのだと学習した。そのことを学んだ翌日、筆者はクラスメートに「ヒトは哺乳類なので動物だ。君はヒトだ。だから君は動物だ」と話しかけた。筆者はそのクラスメートが「なるほど!」と目を輝かせている光景を期待していた。

しかし、実際には、その男子は急に泣き始めたのだった。筆者は当時なぜ彼が号泣したのか不思議だったが、今であれば彼が涙を流した理由は察しがつく。

 

・ツァラトゥストラは人間が超人を目指す過程を「過渡」や「没落」と表現する。これは、ツァラトゥストラが下山(p12~19)を通して再び人間になった過程のことがp14で「没落」と表現されていることと対応している。

 

・ツァラトゥストラによれば、人間の偉大な点は「何かの目的ではないこと」だという。つまり、ツァラトゥストラの価値観は、布教という目的のために生きることを説くキリスト教などの価値観と異なっている。

 

・ツァラトゥストラは以下に挙げるような人々を愛すると宣言する。

一、没落する者として生きるほかには生きるすべを持たない者たち (理由:かなたを目指して超えていく者だから)

一、俗世における幸福・理性・徳・正義・同情を軽蔑する者 (理由:卑小なものを軽蔑する「大いなる軽蔑者(p21)」は偉大なものを尊敬する「大いなる尊敬者」であり、かなたの岸への憧れの矢だから)

一、没落し、身をささげる根拠を、わざわざ天上界などに求めることなく、いつの日か大地が超人のものとなるように身をささげる者

一、超人(や大地)の意義、超人の生成過程を認識しようとする者、すなわち自分自身の没落を欲する者

一、働き、工夫して超人のために家を建て、超人を迎えるべく大地・動物・植物を整える者 (理由:自分自身の没落を欲しているから)

一、自分自身の徳を愛する者 (理由:俗世での徳と違って、ツァラトゥストラのいう徳は没落への意志のことであり、憧れの矢だから)

一、全的(全面的・全般的)に自分自身の徳の精髄(最も優れたもの)になろうとする者 (理由:徳の精髄としてp24で用いられた意味での橋を越えるから)

一、自分自身の徳を自らの愛好物・宿命とする者、すなわち自分自身の徳のために生きて死ぬ者

一、余りに多くの徳を持とうとしない者 (理由:ツァラトゥストラのいう徳は愛好物・宿命たるべきものであり、宿命はオンリーワンなものだから)

一、自分自身を浪費して物惜しみしない心を持つ者、すなわち感謝を期待せず返礼もしない者、更に言えば無償で他人に何かを与える意志に満ちているため返礼という発想を持たず、常に何かを他人に与えており、自分自身を安住させない者

一、サイコロの運が良いなどといった好運を恥じ、「自分は不正をしているのか」とさえ自問する者、すなわち破滅・没落を恐れず自分自身の意志で生きようとする者

一、自分自身の行為より先に黄金のことばを公言し、常に自分が約束した内容以上のことを果たす者 (理由:破滅・没落さえも恐れず自分自身の意志で生きようとする者だから)

一、未来の人々(来たるべき者たち)の意義を認め、過去の人々を救う者 (理由:現在の者たちを相手にして滅びようとするから)

一、自分自身の神を愛するがゆえに(自らを)奮い立たせる者、いずれ神の怒りを買って自ら滅びる者 (理由:p17でツァラトゥストラ自身が述べているように神は既に死んでいる。ここでの神は自分が奉じている理想を暗喩的に表現した語句である。理想を愛するがゆえに自分を奮起させる者はその理想の重圧によって自ら滅ぶこととなるから)

一、失敗したときも魂の深さを失わない者、小さな体験すらも自滅しうるほど深刻に受容する者

一、魂が豊か過ぎて自分自身を忘れ、一切の事物を自分自身の中に包容する者、すなわち一切の事物が自分自身の没落の機縁になりうる者

一、自由な精神と自由な心情を持つ者、すなわち「自分自身を没落へと推し進める心情」が中枢の器官となり、頭脳がその心情の臓腑(内臓のこと。中枢ではなく末梢の器官の暗喩)となっている者

一、人類の上を覆う暗黒の雲から一滴ずつ落下する重い雨つぶのような者たち、すなわち雷電(p22でも登場したメタファー)の来ることを告知し、告知者として滅びる者

 

・最初の「没落する者として生きるほかには生きるすべを持たない者たち」以外は「者」と複数形ではなく単数形で表記されている。

 

・p25の「かなたの岸」は仏教用語の彼岸と関連しているのかもしれない。なおニーチェは本書(1883~1885年)を発表した直後に『善悪の彼岸』(1886年)という哲学書を発行している。p26の「黄金のことば」も仏教用語として使用されるフレーズである。

 

 

 

 

★5 (p29~33)

・末人:まつじん。超人と対照的な存在。手塚は「現代文明の生んだ、生産性に欠く教養俗人」と解説している。ただし、末人になりたがっている市場の群衆が教養に富んでいる描写はない。

19世紀末の西欧における近代都市にはニーチェの嫌う教養俗人が多数いたのかもしれないが、21世紀の日本では教養すら軽視されている風潮さえ感じられる。そのため手塚の解説をより一般化するならば「現代文明における既存の価値観に則って生き、創造性にも欠いている俗人たち」といった定義になるかと思われる。

 

・手塚の要約に「その耳にはいらぬから」とあるが、これは「その耳には要らぬから」ではなく「その耳に入らぬから」という意味かと思われる。「耳に入る」とは「聞いて理解する」という意味の表現。

 

・p29で、ツァラトゥストラは口に出して群衆に語り掛けるのではなく、自分の心に語り掛けている。この心中文はp30の冒頭部で終わり、再びツァラトゥストラは群衆に語り始める。

 

・p29の第二段落で、ツァラトゥストラは群衆が自分の教えに耳を傾けようとしないことを過激な表現で嘆いている。

 

・p29の羊飼いという語句は、「わたしは善き羊飼いである」(ヨハネの福音書)などのように新約聖書でも登場する。

 

・ツァラトゥストラによれば、群衆は「自分は教養があるから羊飼いよりも優越している」と思っている。

 

・天上界や死後の世界での希望を説くキリスト教と対照的にツァラトゥストラは地上に希望を見出す。しかし、超人を志向しない末人の世界が来れば、人類の可能性は消えていってしまうとツァラトゥストラは警鐘を鳴らす。

 

・p31の「隣人を愛して」はキリスト教の説く隣人愛を連想させる表現。

 

・p31の「煩わしい(わずらわしい)」は「処置が面倒で不快だ」という意味。末人は貧しくなることも豊かになることもなく、統治しようとすることも服従しようとすることもないわけだが、貧困問題や独裁政権で苦しんでいる人々にとってみれば、それは願ってもいないことである。実際、既存の価値観では貧富の格差が縮小し、政治的な自由を享受できることは良いこととされる。p32で市場の群衆が「超人はお前(ツァラトゥストラ)に任せるから、我々を末人にさせてくれよ」と言った主な理由はこれであろう。

 

・末人は幸福を重視して生きる。この生き方はツァラトゥストラが説く超人の生き方とは対照的である。ツァラトゥストラは末人の群れのことを畜群と呼び、激しく軽蔑する。

 

・末人が毒を摂取するのは快楽を得られるから。末人が快楽目的での毒を愛用する一方で、健康を何よりも重視するのは幸福な人生を送りたいから。

 

・p32の「人士(じんし)」は「地位や教養の高い人」という意味。

 

・ツァラトゥストラはp32に至るまで、群集に超人と末人を語ってきた。これはツァラトゥストラの最初の言説であり、ツァラトゥストラの序説とも呼ばれているものである。しかし、市場の群衆は誰一人ツァラトゥストラの序説に耳を傾けなかった。ツァラトゥストラは「わたしは これらの耳に説くべき口ではない」と悟る。

 

・p33でツァラトゥストラは自分の言説が群衆に受け入れられなかったことを嘆く。

 

 

 

 

★6 (p34~36)

・市場には二つの塔があり、一本の綱が塔と塔をつないでいる。つまり群集とツァラトゥストラの頭上には綱がかかっている。綱渡り人は塔にある小さな扉から出て綱渡りをしていた。彼が綱の中央に差し掛かったとき、あの小さな扉が再び開いた。そして道化師(クラウン)も綱渡りをはじめ、綱渡り人を綱の上で追いかけ、彼の背後につくと彼を飛び越えた。

 

・道化師は綱渡り人を「足萎え(あしなえ)」と罵倒しているが、おそらく放送禁止用語なので現在の日本で当該語句を使用するのは控えたほうが無難。

 

・追い抜かされた綱渡り人は冷静さを失い、綱から落下してしまう。群衆はパニック状態となり、にげまどった。だが、ツァラトゥストラは動かない。

 

・ツァラトゥストラのわきに綱渡り人が落ちてきた。彼は身体を砕かれていたが、まだ息があった。ツァラトゥストラは彼のために身をかがめた。

 

・彼はツァラトゥストラに「あなたはここで何をしているのか」と問いかけ、「悪魔がわたしの足をすくうであろうことをわたしは前から知っていた。悪魔はわたしを地獄へ引いてゆく。あなたはこれを防いでくれるだろうか」と語る。

 

・それに対してツァラトゥストラは「わたしは誓って言う、友よ」「君が言っているようなものはすべて存在しないのだ、悪魔も地獄も。君の霊魂は君の肉体よりも早く死に就くだろう。それゆえ もう何も恐れることはない」と答える。ツァラトゥストラは綱渡り人のことを「友」と感じている様子。

 

・綱渡り人は疑わしげな目をあげた。おそらく悪魔や地獄などといった前近代的な迷信に捕らわれながら生きていたのだろう。「あなたの言うことが真実なら、わたしは生命を失っても、何も失いはせぬ。わたしは鞭と ささやかな餌で踊ることを仕込まれた一匹の動物以上のものではないのだから」と語る綱渡り人にツァラトゥストラは「そうではない」「君は危険をおかすことを君の職とした。それは、すこしも卑しむべきことではない。いま君は君の職によって滅びゆくのだ。君のために わたしは君を このわたしの手で葬ろう」と告げる。綱渡り人は声を出せないほど衰弱しており、わずかに手を動かしたに過ぎなかった。

 

 

 

 

★7 (p37~38)

・時刻は夕方から夜となった。ツァラトゥストラは独り死者のかたわらに座り、深く物思いにふけった。

 

・今日の群衆への語り掛けを「よい漁獲」と喩えるツァラトゥストラ。「人間を捕らえはしなかったが、一つの屍(しかばね。死体という意)を獲た」と振り返る。因みに、キリスト教で魚(イクトゥス)はキリスト教徒を指す。

 

・一人の道化師ごときで命を落とした者がいたように、人間にとって生きるという行為は無気味(ぶきみ)だとツァラトゥストラは感じる。また、群衆の目には自分が綱渡り人や道化師のような存在でしかないことを認識する。

 

・ツァラトゥストラは「夜は暗い。ツァラトゥストラの道も暗い。さあ、いっしょに来たまえ、冷たい、こわばった同伴者よ。わたしは君を運ぼう、そして この手で君を葬ろう」と決意する。

 

 

 

 

★8 (p38~41)

・屍を負って歩くツァラトゥストラは百歩も行かぬうちに、一人の男がツァラトゥストラに近づいてきた。その男はあの道化師であった。

 

・道化師は「この町ではあまりにも多くの者が君を憎んでいるから、この町から逃げたほうが良い」と忠告し、「市場の群衆がツァラトゥストラを笑ったのは不幸中の幸いで、このままでは町の人々(道化師を含むか)によって殺される危険がある」という。

 

・なお、道化師によれば、綱渡り人と組んだ(綱渡り人の死に際に立ち会った)お陰で、今日ツァラトゥストラは死なずに済んだとのこと。

 

・道化師はそう言い終えると去っていった。ツァラトゥストラは町筋(町の道)を歩き、町の門のところで墓掘り人と会う。

 

・墓掘り人らは屍を負っている者がツァラトゥストラだと知るや否や、「われわれの手は この腐れ肉をあつかうには、きれいすぎる」と嘲笑した。墓掘り人も、死ぬ直前の綱渡り人同様、悪魔という迷信に囚われている。

 

・ツァラトゥストラは森のほとり、沼のほとりを二時間ほど歩いた。ツァラトゥストラは飢えた狼の吠え声をおびただしく聞いた。狼と同じくツァラトゥストラにも飢えがやってきた。近くに明かりの漏れた一つの家があり、家の扉をたたく。

 

・家には老翁がいた。老翁はツァラトゥストラにパンと葡萄酒を供したが、すでに死んでいる綱渡り人にもパンと葡萄酒を与えるよう指示した。

 

・p41「しらむ(白む)」:白くなる。特に、夜が明けて空やあたりが薄明るくなる。

 

・それからツァラトゥストラは道と星の光を頼り、更に二時間あるいたが、空が白みかけたとき、道がどこにも見当たらないほど自分が深い森に入っていることを察知した。ツァラトゥストラは死者が狼に捕食されないよう、とある木の空洞に死者を置いてから、その木の根元で寝た。

 

 

 

 

★9 (p42~45)

・p42「伴侶(はんりょ)」:ともに連れだって行く者。また、配偶者。

 

・正午になり、ツァラトゥストラは目覚めた。そして歓呼(喜んで大声で叫ぶこと)の声をあげ、一つの真理に至る。それは「自分には伴侶が必要だが、それは自分の思い通りに運んでいける死んだ伴侶ではなく、生きた伴侶である」ということであった。ツァラトゥストラは「わたしの必要とする生きた伴侶は、おのれに従おうとするからこそわたしに従い、わたしの行こうとするところに進む者たちである」と考える。

 

・ツァラトゥストラは一般民衆に超人という思想を説くのではなく、畜群の中で超人への理想に目覚めた者に説こうと決意する。

 

・ことほぐ(p44):祝って喜びの言葉を述べる

 

・ツァラトゥストラは、あらゆる信仰に属する信者にとって新たな価値を見出していく創造者は破壊者・犯罪者であろうと悟り、伴侶(刈入れを共にする者、ことほぎを共にする者)を求め、畜群・牧人・死骸とは無関係になろうと考える。綱渡り人と別れるにあたって「時がめぐったのだ。黎明と黎明のあいだに一つの新しい真理がわたしを訪れたのだ」と認識する。

 

・p44~45の「ためらう者、怠る者をわたしは飛び越そう」は綱渡り人を飛び越えた道化師を踏まえた表現である可能性がある。p19の「乗り超える」とp45の「飛び越そう」などというように、「越」と「超」の漢字表記の使い分けは恐らく訳者(手塚)の意図であろう。

 

 

 

 

★10 (p45~47)

・ツァラトゥストラが空を見ると一羽の鷹が一匹の蛇を友として空中を舞っていた。ツァラトゥストラは「これはわたしの生き物たちだ」「太陽のもとにおける最も誇り高い生き物と最も賢い生き物が私を偵察しに来たのだ」と考える。

 

・ツァラトゥストラは自分がまだ生きているかを偵察しに来た鷹と蛇を見て、「わたしは知った、人間たちのもとにいるのは、動物たちのもとにいるより、はるかに危険なことを。危険な道をツァラトゥストラは歩いている。わたしの生き物たちがわたしを導いてくれるように!」と喜ぶ。

 

・ちょうどそのとき、ツァラトゥストラは森で出会った超俗の人(p14~17)の言葉を思い出し、嘆息(嘆いて溜息をつくこと)して自分の心に向かって、自分の賢さと自分の誇りの関係性を述べる。ツァラトゥストラが思い出した超俗の人(p14~17)の言葉とは、「人間は いま わたしから見れば、あまりにも不完全なものである。人間への愛はわたしを滅ぼすであろう」や俗世の人間たちは隠遁者に対して疑い深い」という警告などが該当するであろう。

 

・「10 (p45~47)」は「こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった」という一文で結ばれているが、「1 (p12~14)」も「こうしてツァラトゥストラの没落は始まった」という一文で結ばれている。

 

 

 

 

★総評

「こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった」(p47)と「こうしてツァラトゥストラの没落は始まった」(p14)などのように、手塚の訳文は同じ単語であっても漢字表記と平仮名表記の間で表記揺れしている箇所がある。また、「わたし」「おまえ」など代名詞を平仮名で表記することが多い。ツァラトゥストラ自身、同一人物(綱渡り人)に対する二人称代名詞が「君」(p38)や「おまえ」(p44)など揺れている箇所がある。そもそも、ツァラトゥストラは一人称として「わたし」や「ツァラトゥストラ」を採用しているが、自分の名前を一人称にしているというのは、日本語としては特殊な印象を受ける。

 

 

 

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