★底本

第二部 p282~289

 

★手塚による要約

ツァラトゥストラも詩人であるだけに、詩人の弱点を痛感する。それにゲーテがどうも気にかかる。明日を担う本質的な詩人たれ。

 

 

★解説

・この章は、「ツァラトゥストラの弟子の一人と、ツァラトゥストラが対話をする前半部」と「弟子とツァラトゥストラの二人の沈黙のあとツァラトゥストラが独り持論を語っている後半部」に分けられる。前半部にせよ、後半部にせよ、語られている内容のテーマは主に詩人である。

 

・本書では今まで複数の箇所でツァラトゥストラの弟子たちが登場してきた。これらの箇所において、ツァラトゥストラの弟子は「弟子たち」という集団単位で描写されることが多かった。しかし、この章では弟子たちのなかの一人がツァラトゥストラと対話をしており、「弟子の一人」という個人単位で描写されている。

 

・この章の冒頭で、ツァラトゥストラは今まで自分が語っていた内容の断片を弟子の一人に語る。弟子は「第二部の『25 至福の島々で』の際も、あなた(ツァラトゥストラ)がそう言ったのをわたしは聞いた。そのとき、あなたは『しかし詩人は嘘をつきすぎる』と言い添えた。なぜ、そう言い添えたのか」とツァラトゥストラに質問する。

 

・ツァラトゥストラは「なぜ、と問うのか、君は」「ある種の人間にたいしては、君たちは、なぜ、という問いをかけてはならぬ。わたしはそういう人間の一人だ。わたしの体験は、きのうきょうのことだろうか。わたしがわたしの意見の根拠となることを体験したのは、久しい前のことだった。もしわたしがそういう数々の根拠を覚えておこうとしたら、わたしは記憶の樽とならざるをえないではないか」と返答する。このように、ツァラトゥストラは自分のことを「人間」と考えている。

 

・鳩舎(p283):「きゅうしゃ」と読む。「ハト小屋」という意味で、原語ではTaubenschlageとなっている。分かりやすく言えば「鳩などの小さい鳥を飼っておくための小屋」のことである。

 

・「鳥を飼う小屋」を指す日本語の名詞としては「鳥小屋」を思い浮かべる方もいるかもしれない。しかし、「鳥小屋」は「主に鶏などを飼っておくための小屋」すなわち「鶏舎」という意味で用いられることが多いので注意が必要である。

 

・ツァラトゥストラは「意見」を鳥に喩える。「時にはわたしの鳩舎のなかに、よそから飛んできた見慣れぬ鳥を見いだすこともある」は、手塚の脚注にあるように「自分の思考回路のなかに他者の思想や意見が混ざりこんでいることもある」という意味である。

 

・手塚の脚注(6)~(8)の箇所からは、ツァラトゥストラのメタ認知能力の高さが窺える。メタ認知能力とは「自分や他人の認知を更に一段上から俯瞰して認知する能力」である。第一部で最後の章である「23 贈り与える徳」でも、ツァラトゥストラが自分のこれまでの言動が本当に正しいのかを自ら疑って弟子たちに「かれ(ツァラトゥストラ)は君たちを欺いたかもしれない」と告げるシーンがある。このように、本書でツァラトゥストラは持論を語る一方で「持論を語っている自分自身」についても思索したり語ったりしている。

 

・ツァラトゥストラに「かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は嘘をつきすぎると語ったのか。――だがツァラトゥストラも詩人の一人だ。 さて君は、ツァラトゥストラがこのことについて真実を語ったと思うか。なぜ君はそう思うのだ」と問われた弟子は「わたしはファラトゥストラを信ずる」と答える。しかし、ツァラトゥストラは、微笑して頭を振り、「信ずるという君の態度は、わたしに喜びを与えない」「ことにわたしを信ずるということは。 だが、だれかが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったとしたら、そのことばは当たっている。 われわれは嘘をつきすぎるのだ」と語る。

 

・「だれかが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったとしたら、そのことばは当たっている」という箇所を読み、個人的には、「ツァラトゥストラは本書で色々な意見を述べているが、ツァラトゥストラは『自分がその意見を見出したのだ』ということよりも、その意見の内容を重視しているようだ」と感じた。もしもツァラトゥストラが「自分がその意見を見出したのだ」という意識の強い人間であったならば、「わたしは記憶の樽ではないが、かつて、わたしが本気で『詩人は嘘をつきすぎる』と言ったのは確かである」などと真顔で語っていたのではないだろうか。

 

・なお、p283の「しかしツァラトゥストラは、微笑して頭を振った」は、原文では「Aber Zarathustra schüttelte den Kopf und lächelte.」となっている。「頭を振った」は「首を横に振った」という意味である。

 

・ツァラトゥストラは「信ずるという君の態度は、わたしに喜びを与えない」と返答しているが、「23 贈り与える徳」でもツァラトゥストラは「信じることはつまらない」や「君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう」と語っている。

 

・ツァラトゥストラは「われわれは、知ることがあまりに少ない、そして学ぶことも下手だ。それでわれわれはすぐ嘘を言わなければならないはめになるのだ。われわれ詩人のうち、酒の偽造をしなかった者があろうか。われわれの酒蔵では、たびたび有害な混ぜ合わせが行なわれ、あまたの名状しがたいことが行なわれた」などと詩人たちの欠点を語り始める。「われわれ詩人」とあるように、ツァラトゥストラは自分のことを詩人だと考えている。本書は、小説でもあり、哲学書でもあり、散文詩でもある。つまり、本書を執筆したニーチェも詩人である。

 

・この章における手塚の要約に「ツァラトゥストラも詩人であるだけに、詩人の弱点を痛感する」とあるが、「弱点」よりかは「欠点」のほうが分かりやすいだろう。

 

・この章において、ツァラトゥストラはゲーテの『ファウスト 第二部』の台詞をもじった表現を多用しているが、p284~285ではシェイクスピアの『ハムレット』の有名台詞をもじった表現が登場している。この有名台詞は第一幕の第五場にあり、原文を引用するならば「There are more things in Heaven and Earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.」となる。

 

・この「your philosophy」の「your」は一般論のyouなので、「あなたの哲学」ではなく「例の哲学」や「人の哲学」や「人間の哲学」などと訳すのが適切である。シェイクスピアの原文を直訳すれば「ホレーショよ、天地には、人間の哲学で夢見られる物事よりも多くの物事が存在するのだ」などとなる。つまり、手塚の脚注にある「ホレーショ、この天地の間には、われわれの哲学には思いも及ばぬ多くのことがあるものだ」は意訳と考えられる。

 

・なお、本書のドイツ語を手塚が訳した箇所で「ああ、天と地との間には」(p284)となっているのは、直訳と判断して問題ない。というのも、本書の原文では、「Ach, es giebt so viel Dinge zwischen Himmel und Erden, von denen sich nur die Dichter Etwas haben träumen lassen!」となっており、「zwischen Himmel und Erden」は「天と地との間に」という意味だからである。なお、ニーチェの原文を直訳すると、「ああ、天と地との間には、詩人たちだけが夢に見たことのあるような事柄が実に多く存在する」などとなる。

 

・ツァラトゥストラは「とくにすべての詩人の信じていることは、草地やさびしい山腹に寝そべって耳をそばだてていれば、天と地の間にあるもろもろのことについて、いくばくかを知りうるということだ。そして感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然がかれらに惚れこんだのだと。つまり、自然がかれらの耳もとに忍びよって、秘密な事柄や恋慕のことばをささやくのだ、と思いこむ。そしてそれを万人にむかって誇るのだ」と語っているが、確かに洋の東西を問わず、詩人は、草地やさびしい山腹といった自然に親しみ、自然を題材にした詩をたくさん紡ぐ傾向があるように見える。

 

・続けてツァラトゥストラは「ああ、天と地との間には、詩人だけが夢に見たと自慢しているようなあまたのことがあるのだ。とくに天の上にそれが多い。つまりあらゆる神々は詩人たちの編み出した比喩であり、密輸品なのだ。まことに、それはわれわれを高みへ引いてゆく――というのは、つまり、雲の国へ引いてゆくのである。その雲の上へわれわれは色さまざまなわれわれのぬけがらを載せて、それに神々とか超人とかいう名を与えるのだ。――つまり、これらの神々とか超人とかは、雲の上に載せることができるほどに軽いのだ。ああ、あっぱれな出来事と見なされようとしているこれらの『不十分なこと』に、なんとわたしは飽き飽きしていることだろう。ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう」と語っている。

 

・「われわれを高みへ引いてゆく」や「あっぱれな出来事と見なされようとしているこれらの『不十分なこと』に」は、『ファウスト 第二部』をもじった表現である。このことを手塚は『ファウスト』の作者であるゲーテへの当てつけと捉えているが、「われわれは色さまざまなわれわれのぬけがらを載せて、それに神々とか超人とかいう名を与える」で「神々とか」ではなく「神々とか超人とか」となっていることが示しているように、ツァラトゥストラは単にゲーテを馬鹿にしているのではなく、ゲーテやツァラトゥストラ自身といった詩人たち全体の欠点を語っている。

 

・忿懣(p285):「ふんまん」と読む。「怒りや不満が胸の中にたまっている状態」という意味であり、「憤懣」と漢字表記されることも多い。

 

・はるかなかなた(p285):「はるかかなた」という意味。

 

・自分も詩人であるツァラトゥストラから「ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう」といった台詞を聴いて弟子は「からかわれた」や「ふざけたことを言われた」と思ったのか、忿懣の思いを抱くが、沈黙する。弟子と同様にツァラトゥストラも沈黙する。ツァラトゥストラの目は遠くへと注がれるように内部へ向けられていたが、やがて吐息をもらし、それから息を深く吸った。そして、<わたしは「今日」と「かつて」の人間だ。しかしわたしのなかには、「 明日」と「明後日」と「いつの日か」に属する、あるものがある。 わたしは古い詩人、また新しい詩人に飽きた。わたしにとってはかれらのすべてが、表皮であり、浅い海である。>と詩人たちについて再び語り始める。

 

・だが、<わたしは「今日」と「かつて」の人間だ。>から始まる箇所で語られているのは、「自分も含めた詩人たち」ではなく「自分(やゲーテ)以外の詩人たち」であるように読める。事実、詩人たちを指す代名詞が「われわれ」から「かれら」に変化している。ツァラトゥストラによれば、「かれら」すなわち「自分(やゲーテ)以外の詩人たち」は十分に深く考え抜いたことがなかった。それゆえ彼らの感情も、真に底の底まで沈んで行ったことがなかったのだという。

 

・p286の「かれらのすべては、自分の池が深く見えるように、それを濁すのである」というツァラトゥストラの指摘は「自分(やゲーテ)以外の詩人たちは、総じて、自分の精神世界が深く見えるように、自分の精神世界を偽造したり誤魔化したりして、自分の精神世界の清らかさを濁す」という意味だろう。

 

・寸足らず(p286):「すんたらず」と読む。「長さ・大きさ・能力・内容が不足している」という意味。

 

・p286の「どこかの古い神の頭」は「『どこかの古い神をかたどった石像』の頭」という意味であろう。また、p286の最後の文である「そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした」は、「殻の硬い貝類のなかには真珠が含まれていることもある。だが、殻の硬い貝類を拾っても、真珠が含まれていることは稀であり、『海水や、もともと貝が生きていたときの分泌液しか入っていない』ということもしばしばである」などといったニュアンスなのだろう。

 

・ツァラトゥストラによれば、詩人たちは虚栄心を持っている。ツァラトゥストラはp287で孔雀や水牛などといった比喩を用いて、そう表現している。ツァラトゥストラにとって、水牛は傲然と海の怒涛(激しく打ち寄せる波)などを見ている動物である。確かに、水牛にとっての「美や海や孔雀の尾」は、豚にとっての真珠みたいなものかもしれない。

 

・孔雀は美しい羽や尾を持ち、しばしば羽をひろげて美をアピールする。ツァラトゥストラは詩人の精神を「孔雀のなかの孔雀」や「虚栄の海」と形容する。虚栄心を持つ詩人は観客すなわち自分の詩の鑑賞者(読者)を欲するが、詩人たちは観客が水牛(のように鈍感で価値判断にたけているとは言いがたい民衆)であったとしても構わず観客を欲してしまう。

 

・さきほど「詩人たち」の代名詞が「われわれ」から「かれら」になっていると述べたが、p287の第一段落を最後に「かれらの」という代名詞は、この章において消えている。

 

・「詩人の精神は水牛であろうと観客を欲してしまう」の直後に、ツァラトゥストラは「しかしこういう精神にわたしは飽きた。そしてわたしは見るのだ、この精神が自分自身に飽き飽きしてくるだろうことを。すでにわたしは見る、詩人たちが変化して、自分自身に目を向けはじめているのを。わたしは精神の懺悔者たちが来るのを見る。それは詩人のなかから生長したのだ」と語っている。

 

・どうやらツァラトゥストラも、かつては水牛だろうと、「自分の詩や、自分が発する諸々の言葉」の鑑賞者を欲していたが、既にそのような精神に飽きたようである。ツァラトゥストラは、詩人が「水牛であろうと観客を欲してしまうような精神」を懺悔し、鑑賞者よりも自分自身に目を向けることを強く望んでいる。「それは詩人のなかから生長したのだ」の直後に、定型句「ツァラトゥストラはこう語った」が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

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